大阪で私が歩んだ狂った運命
私は…
平成17年
1月
まで子供と二人幸せに暮らしていた。
ちゃんとた母親だった
母子家庭やったけど
今の生活なんかとは逆転の、本当に幸せに暮らしてた。
今思えば本当に神様はいるんだろうかなんてクサイ言葉もいいたくなるくらい
あの時は恵まれすぎてた様に思う。
16歳。。若くして産んだ我が子
苦しくても辛くても1人で育ててきた10年間。。
アノコが笑うだけで全ての疲れが飛び
なんだってやってこれたし、なんだってこなせてきてたん
一瞬にして全てを失った今。。
私は過去を振り返る。。
夢なんやないやろうか?
今もまだ現実をちゃんと受け止められない自分が居ます
ここに少しずつ書き記す事で私自身がもしかしたら
今の現実をちゃんと受け止められるかもしれん。。
だからここに書いていこうと思います
〜平成8年 夏〜
私は16歳という若さで男の子を出産
すでに一人だった。産むのも一人。退院も一人。一人は慣れてた
この頃から。(*^_^*)結婚生活なんてすぐにピリオドをうつことになる。
お金がない!実家がない!頼るとこない!!
私はまだ、2才にもなってない我が子を託児所に預け
水商売をするものの、思いどうりには行かず現実の厳しさを思い知らされることとなりました16での出産は正直反対も多く、よくあるパターンだ、すぐ離婚する。そんな言われようでの出産にはなんの抵抗もなかった。当時の旦那を愛していたっていったら嘘になるけど。
出産してわずか3ヶ月で離婚した。
そうなるであろうと、恋の中では結婚前から決まっていたストーリーに近いものがあったように思う
離婚は一方的に私からだったので旦那はなかなか判を押さず
私は父しかいない実家にひとまず帰った
17歳 子供は1歳になろうとしていた。
ようやく離婚が出来たのはええけど、実家にずっとおれるわけもなく。。
なぜなら、おとんは恋とそんな年も変わらん彼女がおったから、家にいずらかった。
どうやって金を工面したかは定かではないが、姉が当時 大阪の都島に住んでて結婚もして
恋の子と1ヶ月しか変わらない、女の子も出産していたこともあり
姉の住んでいるマンションの1階したに住むことにした。慣れ親しんだ地元を出るのは
かなり気が引けたが、旦那が同じ地元にいるのがなんとなく嫌やったから、ただそれだけやったと思う
引越し道具なんて何もなく 子供と恋と小さな荷物だけで
「本当の母子家庭生活」がはじまった。。。
しかし
恋はまだ17さい
あるとき、子供は肺炎になりかけて入院
私はおたふくになり ちがう病院に別々に入院することになった
子供の見舞い 世話がしてやれない。。。
無理やり退院して急いで子供のいる病院へ行ったが
そこには 目を覆いたくなるような光景が
私を襲った
「もう・・・限界。」
この年で年齢をいつわって、しょうもない職場の女のいびりに耐え
帰宅したと同時に、夜鳴きの子供をあやす。寝る間もなかった、そんな生活。お金も家具も服さえもなかった
こうして別々に入院して
初めて 「限界や・・・」
そうおもった。
細い細い腕に何本も刺されていた点滴
親が完全介護できるならいいのだが、私は入院して、だれも見てやれないような子は
暴れて点滴がずれたりしないためにも、ベットに括り付けられていた。。。
「おどれら!!我がの子でもこんなことできるんかえ!!さっさとはずさんかいや!」
悔しかった 本間に悔しかった・
自分勝手に離婚して犠牲になってるのは
この子。。。
病院の公衆電話でへたるように、しゃがみこみ
「たすけて。。。。もう 無理や!!このままやと私ら死んでまう・・・」
そう 電話していた私 始めて弱音がでた。
「どこにおんねん?!」
そういって 飛んで来たひと・・・・それは別れた旦那だった
精神的にも肉体的にも無惨にバラバラになった
私の心はいつの間にか
『不安だけ』
に なってた
気が付けば病院の電話からしゃがんで泣きながら
助けてよ…
そう言ってる恋がいた。
一年ぶりの再会。
顔をみるなり安心したのを今でも鮮明におぼえてる
子どもを抱きかかえ
『お前少し痩せたんちゃうか…』
そう言って私を見て言った旦那。
可哀想に…
こんなちぃちゃいのに
一人で頑張ったんやなあ
チビの顔にほおずりしながら旦那が言う。
この日から 半同棲みたいな生活が始まり
二人は『今度こそは子供の為にも自分らの勝手で別れたりなんかしない』
そう 約束し
私も彼をちゃんと旦那として認めよう
愛して一緒になったんやから きっと修復はまだまだできる…
そう思っていた
今思う…
あの頃
疲れはて、逃げたかった
でも逃げる場所などなく
旦那に負けたくないって
立派にそだてあげてみせるって
そう決めて
何があっても
助けてくれとは言わなかったし
居場所も電話もしなかったのに
極限まできた頃には
そんな気持ちにうそはなかったはずやのに
すこしずつ、又わたしたちは・・・
いや、わたしが・・・
すれ違い 歯車が又 ガタガタと音を立てて狂いだし
「離婚」
こればかりが又私の最終の目標となっていた。
何度も「あかんあかん 子供のため」
そう思ってやって来れたのに、性格の不一致ほど、変えられないものはなかったように思う
私は、今度離婚したらもう 3回目は無い
そうわかっていながらも、もう止められるものではなくなっていた。
ちゃくちゃくと離婚に向けて動こうとしていたのです・・・・
子供は三才になろうとしていた。
託児所ではなく保育所にも運よく入れ
元気に毎日通う様になる。 今私は思い出しながらかいてるけど
かなり息が苦しい