12 一つの旅の終わり【完】
――あれから。
少女は船で大陸を渡り、無事アスリア連合国へと入った。
船を降り、街へ入ろうとした途端に少女は兵に捕まった。顔と名前と目的を尋ねられ、牢ではなく街の領主の客室に案内されてわけのわからぬままそこで一夜を過ごした。
そして翌日。少女は身を寄せようと向かっていたパトロクロス・ガードナー侯爵の部下に会い、数名の護衛付きでエディット国へと丁重に護送されることになった。
聞けば、どうやらガードナー侯爵の方でも少女の行方を探していたらしい。アスリア連合国に入った途端に別国にも関わらず身柄を押さえられた事からも、その力の入れ具合を推し量れよう。
そして更に5日後。少女は巨鳥に運ばれてオーレント領の領主たるガードナー侯爵のいる城砦へと入った。
扉をくぐり、少女は赤い絨毯の敷かれた上を一歩ずつ進んでいた。
両脇には亡命してきた少女を舐め回すように視線を向ける武官や文官が何人も並んでいた。その視線は値踏みするものだったり、迷惑そうなものだったり、同情的なものだったりと様々だ。ただ、敗軍の関係者が歓迎されていないという事は少女も分かっていた。
絨毯の先には厳めしい軍服で身を包んだガードナー侯爵がいる。30歳を間近に控え、肉体的にも最盛期を誇るであろう彼は、普段の威厳を捨て去って家族を迎えるような雰囲気で少女に声をかけた。
「本当に……無事で何よりです」
謁見の間によく通る声は安堵で一杯だった。
温かく優しいまなざしで少女を見つめる。そこにはまるで娘に対するような情愛があった。
しかし、すぐに侯爵は少女に違和感を覚えた。彼の知る少女は活発で明るく、感情豊かな可愛らしい女の子だった。それが今目の前にいる少女からはかつての面影が見る影もなくなっていた。
表情は抜け落ち、張り詰めた空気を纏いながら油断無く歩を進める。周りの悪意に近い視線にも動じず堂々とし、鋭く引き絞られた目からは優しさや明るさが消えていた。そして腰の太刀をいつでも抜けるように注意しながら、まるで回り中が敵だと言わんばかりに警戒を崩そうとはしなかった。
少女は一度ガードナー侯爵の顔を見上げ、そのまま見つめた。
やがて手を固く握り締め、次第に体を震わせる。
「皆……死にました」
少女は微笑みながら言った。それはどこまでも透明で、美しく、儚く、そして壊れる寸前のそれだった。
「屋敷の使用人の皆も、庭師のおじいさんも、執事も、ムーラも、トーマスも、父も、母も。みんな、みんな、みんな」
――そして、名も知ろうともしなかった青年も。
「みんな、死んでしまいました」
少女はここではないどこか遠くを見ながら、かすれた声で搾り出した。
そこは屋敷。炎の中で母が刃に貫かれ、宙吊りにされていた。
そこは森。男がムーラの生首を放り投げ、転がってくる。
そして体中に傷を負い、死にゆく従騎士の青年に縋りついている少女。
少女が顔を伏せる。それ以上思い出すのはいけないと、頭のどこかが囁いていた。
辺りは静まり返っていた。その中をガードナー侯爵がゆっくりと少女に歩み寄って行く。その視線は少女から決して離れない。
「よく頑張ったね」
手の届く所まで来て、ガードナー侯爵は屈みこんで少女と目線を合わせる。少女は侯爵の気配に気づいていたが、それでも顔をあげない。
強く、強く、固く握り締めた少女の拳が震えていた。
「ここは安全だ。もう君を傷つけるやつはいない。誰も君を傷つけたりしない。
私が君を絶対に守る。誰にも引き渡したりしない。
だから、もう力を抜いていいんだよ」
ピクリと小さく少女の肩が震える。
ガードナー侯爵は少女を包み込むように、腕をその背に回して抱きしめた。その小さな体がすっぽりと腕の中に収まる。
固かった少女の体が、次第に柔らかくなっていく。
「パトロ……クロス様」
「君が無事で私は本当に嬉しい」
それは少女の心に命を吹き込む何よりの声。
今まで凍てつかせていたものが溶けてゆく。
「ぁ」
おずおずと伸ばされる少女の手。それがガードナー侯爵の服を掴む。
それは物心つく前の小さな頃から遊んでくれた、優しいお兄さん。褒められた時は嬉しく、叱られた時は辛かった。お話できるだけで楽しかった。
小さく鼻をすする音がした。もう、少女の中には人目も恥も外聞もなかった。あるのは自分を抱きとめてくれる、目の前の大くて大好きな人の体だけ。
全てを炎に焼き払われて失った世界で少女に残された、たった一つの温もり。
全てを奪われた少女が唯一安らげる場所。
見知らぬ世界に一人取り残された少女の小さなともし火。
少女の視界がにじむ。顔が崩れていく。震えが止まらない。
そして決壊した。
「ああ……ああああ、うあぁぁ――」
少女は初めて泣いた。
「う、うう、ううううう――」
嗚咽が謁見の間に響く。
ようやく、少女は泣けた。
大粒の涙が次々と溢れ、頬を伝う。
とめどなく流れ、いつしか少女は顔を目の前の胸に埋めていた。
「あああああああああぁぁ……」
幼い悲痛な泣き声がずっと続く。
周りの者達もそのあまりにも胸を突く慟哭を正視できず、目を伏せ、そらす。
ただ一人、少女を抱きとめている男だけが壊れ物を扱うように大事に、大事に受け止めていた。
☆☆☆☆☆
――ナインヘルツ歴4845年。
晴れた日のある屋敷のテラス。そこに置かれたテーブルを数人が囲んでいた。
一人は金色の髪をストレートに背中まで伸ばし、切れ長の紫の瞳を持つ娘。それは氷の美貌と呼ぶのが一番相応しい。若草色のチュニックと足首まであるロングスカートで包んだスラリとした長い肢体は美人と評せられるだろう。17歳。名はシャルロット・アーデンボルグ。この屋敷の主人である。そして、今までの話の中にでてきた少女本人だ。
かつての少女は、今は成長し凛とした美しい娘になっていた。
「ありふれた話はこれで終わりよ」
そう言って少女――シャルロットは紅茶のカップを持ち上げ、口に含んだ。
「お話、しかと拝聴させて頂きました」
傍に控えていたモーニングコートの男が前に出でシャルロットのカップに紅茶を注ぐ。男は背が高く、常に背筋を伸ばしたその姿は毅然としていた。何より一番目を引くのはその顔だ。頭中を包帯で覆っており、包帯の間からは青色の目しか見えない。包帯の終わる首からは醜い火傷の痕がのぞいていた。一見では醜くも恐ろしい印象しか抱かないが、この屋敷では口煩くも色々と面倒見のよい兄ちゃんとして通っていた。
この屋敷のスチュワード・バトラーのアレックス・ハミルトンだ。歳は分かりにくいが、実に35歳。屋敷の管理を一手に引き受け、主のサポートを務めている。庭のガーデニングも彼の趣味を兼ねた仕事である。
元々ガードナー侯爵の腹心であったが、一人立ちするシャルロット嬢を心配した侯爵が慣れない環境での生活を支えるために護衛も含めて遣わしている。その働きぶりは誠実な堅物としてシャルロット嬢の信頼を得ている。
魔導士でもある彼の使い魔の小人はテーブルの上で自分の体の半分ほどあるクッキーと格闘していた。
「それで、ボク達にこの青年が何を考えていたのか当てて欲しい、と」
同じテーブルに着き、紅茶を共にしていた白と黒のエプロンドレスの女性が唇に人差し指を当てて言った。
オレンジ色の目と髪をした20代前半の大人の娘だ。長い髪は結い上げてまとめている。休憩時間といえど己の主人を前にしても堂々と振る舞い、寛げる太い神経の持ち主であり、どこか人をくったような雰囲気を醸し出している。女性としては豊かな肉体を持ち、それを下品でない程度に主張する、男にとってはいささか毒な女性である。
この屋敷の初めて雇われた第一のメイドとして数年働いており、町に一人で暮らしている。名をツァルフォルネという。姓はない。
ちなみに最近雇われた第二のメイドは、今日も賑やかに屋敷を駆け回っていることだろう。
「ロッテ、お茶!」
最後に、同じくテーブルに着き、赤を基調とした上等の貴族服で身を包んだ小さな男の子がふんぞり返りながらカップを出した。
ブロンドの髪とグレーの瞳を持ち、胸にガードナー侯爵家の家紋を抱く彼の名はパルメウス・ガードナー。シャルロットの主人であるパトロクロス・ガードナー侯爵の血の繋がらない息子だ。御年9歳。
5歳の頃から侯爵の屋敷にいる間はよくシャルロットが遊び相手をつとめ、侯爵家から離れた今でもこうしてよくシャルロットを訪ねてくれる。シャルロットにとっては上司であり、領主であり、敬愛する人の息子という事で臣下の礼をとっており、パルメウスもそれを当然として振舞っている。
……少々そのグレーの瞳に独占欲の色が見え隠れしている気がしないでもないが。
後で話を聞いたところによると、ガードナー侯爵はシャルロットが西へ落ち延びている間に、彼女の祖国へ他国の友人達と共にたった3人で乗り込み、実質侯爵一人でひどく暴れたという。
銀盾持ちの英雄はたった一人で王宮の近衛騎士隊を退けたという話だ。しかも革命後で不十分な状態とはいえ、死者無しという手加減つき。そして現国王と対面した。
たった一人の小娘のために動いたガードナー侯爵は暴れた賠償金を個人で支払い、代わりに少女の身柄とその家族の弔いを求めたという。それだけだった。
ガーデニア伯爵は総騎士団長の娘を取り逃がした失態に加え、なによりもその美しい生首を収集するという異常な嗜好を現国王に暴かれ、「その性、治世を乱す」として領地を攻め落とされて処刑された。
祖国の民は恐ろしくも厳格な現国王の統治を受け入れて暮らしている。積極的で苛烈で果断な王は頼りなかった前国王より評判がいいらしい。そして着実に国を豊かにしているという話を聞いている。
かつて自らの父を討ち、我が家を滅ぼした相手の功績はシャルロットを惨めにさせたが、民がそれを受け入れて満足しているのであれば何も言う事はないと思っていた。父の支えた前国王は良い統治者ではなかったのだろう。
シャルロットはガードナー侯爵の元へ身を寄せて食客としてしばらく過ごした後、侯爵の直属の部下として働くようになった。彼女はせめて侯爵の支払った賠償金に釣り合うよう役に立つべく必死に働いた。
そして経験と訓練を積み、世界四大騎士団の一つであるアスリア連合国ディストウェルブ黒騎士団への入団を果たした。文字通り世界に認められた名実トップ4の騎士団であり、全能力を高水準で要求されるエリート騎士しか入れないという狭き門をシャルロットは年若い身でくぐってみせたのだ。
その経歴から始めはガードナー侯爵の七光りといった不名誉な陰口をたたかれていた彼女だが、その力を認められた今ではそれも収まっている。
最近では更に昇格し、一部隊を率いる身にもなっていた。
そうして今、シャルロットはここにいる。
彼女の亡命中に出会った青年について話したのは思いつきだった。
もう何度思い返しても分からない数年越しの謎。ちょっとしたお茶の話題として長年胸に仕舞っておいたそれのカギを開く。取り出した思い出はセピア色にあせており、しかし語り続けるうちに生き生きとした色鮮やかな光景を取り戻していった。
よく笑い、大仰な仕草を交えて色んな話を語り、何度も首飾りを譲ってくれと迫った青年。
それが全て偽りだと知った時、青年が分からなくなった。
その全体像が崩れ、あとに残ったのは口だけ笑みを浮かべるのっぺらぼうの姿。それは石を投げ入れられた水面のように揺れて、消えた。
そして躯が残る。もう何も語らぬ青年を前に、少女が何度夢の中で問いかけても何も答えは返ってこない。
「私は今でも分からないの。彼が何を思っていたのか」
何故。
どうして。
あの青年を、あの旅の日々を思い出すたびにその言葉が踊る。
「ねえ、貴方達ならその青年が何を考えていたのか分かる?」
シャルロットはそう問いかけ、胸に積もっていた重い息をついた。
「……難しいですね」
頭中を包帯で巻いたアレックスが、包帯の隙間からのぞく青い目を伏せた。
「あくまでご主人様の主観による話ですので、確証には至りませんが……いえ、やはり勝手な推測でしかありません。やめておきましょう」
アレックスは首を横に振って身を引いた。
「もう昔のことだから私も細かいところまで正確に覚えているとは言えないし、なんでも構わないのよ。ただ少しでも手がかりが欲しいの」
藁をも掴む思いでシャルロットは自嘲した。
それでも厳格なアレックスは重たい口を閉ざしたままだった。
そこへ場違いなまでに明るい声が降ってきた。
「ボクは分かるよ」
テーブルで大きな音がした。
見るとシャルロッテは信じられないものを見たように大きく目を見開き、思わず立ち上がってその言葉の主であるツァルフォルネを凝視していた。
「ふふん。ボクはこの世界のことならほとんど知ってるからね。どう、知りたい?」
「ええ。ツァルフォルネ、貴女は私の話からどう彼の姿を写し取れたの?」
「そうだね。一つ教えてあげる。キミの聞いた首飾りの話ね、それ最後の結末は違うんだよ」
「え?」
念願の青年の謎に迫れると思って意気込んだシャルロッテだったが、ツァルフォルネの突然の突拍子の無い話に思わず面食らってしまった。
それに構わず、邪気のない笑顔を浮かべたまま彼女は紅茶のカップを口に傾けた。
「女性が幼馴染の男と一緒に暮らす所までは同じ。違うのはそこから先ね」
二人はまた昔のように暮らしはじめたが、やがて女性は王の子を身ごもっていた事を知る。
やがてそれを知る所となった村人達が騒ぎ立て、女性は王宮へと連れ戻された。男はその際に抵抗し、そのまま兵に斬り捨てられた。
女性は嘆きながらも双子の男児と女児を産む。そして女性はその醜い顔から王より遠ざけられ、離宮にて実質幽閉された。王の血を引く者を産んだ母として王宮の外へ出る事は二度と許されなかったのだ。
そして女性の手元に残ったのは首飾りだけ。女性は一生それを身に着けて過ごしたと伝わっている。
「とまあ、これが本当の話。クスクスクス。本当にその男は嘘つきだね。そして長生きできないバカな男だよ」
嘲笑するような言葉とは裏腹に、そこには慈愛の響きすら感じられた。
「ツァルフォルネ、ちゃんと教えてちょうだい。今の話と彼とどう関係するの?」
焦らされていると思っているのだろう、シャルロッテは望む答えが得られない事にやや苛立ち、厳しい目をした。
しかし彼女はそれをどこ吹く風と涼しい顔で受け流す。
「今のがヒントだね。あとは自分で考えるといいよ。なんで彼はキミに最後の話を語らなかったんだろうね」
そう言ってツァルフォルネは上機嫌に皿に盛られたバターたっぷりのブリオッシュパンを一切れ摘んだ。その態度は、もうそれ以上答える気はないと語っていた。
シャルロットはしばらく睨んでいたが、やがて追求を諦めてゆっくりと椅子に座りなおした。
「ロッテ、お前は祖国に帰りたいのか?」
「若様、突然いかが致しましたか?」
「いいから答えよ。お前は……もし帰れるなら、行ってしまうのか?」
不機嫌そうにシャルロットを見上げてくる小さな若君のパルメウス。シャルロットはその怜悧な美貌を優しく崩して微笑む。
「そうですね。私はあそこにたくさんのものを置いてきました。父や母、トーマス、ムーラ……」
「で、では」
「私は叶うなら父や母、ムーラ達の無念を弔い、トーマスに感謝を伝えたいと思っております。ですが、私の今の居場所はここなのです。パトロクロス様を始め、皆様方には本当によくして頂いております。この至らぬ身には過分なほどに。
ですから、よろしければ私はここに骨を埋めたく思っております、若様」
「ロッテ……」
シャルロットの両手がパルメウスの手をそっと包む。決して柔らかいとは言えない鍛えらた固い手は、しかし小さな男の子の顔を羞恥に赤く染まらせた。
「こ、こらロッテ! 離さぬか!」
「あら、少しくらい良いではありませんか。少し前までは若様の方からよく手を繋げと仰られていたではありませんか」
「そ、それは俺様が6つの頃の話ではないか! いいから離せ! もう女の手なんか格好悪くて繋げられるものか!」
「あら、ひどいですね。私は若様のことをこーんなにも慕っておりますのに」
「な、なななな、やめろ馬鹿者ー! 顔を近づけるなー! この不忠ものー!」
多感な男の子の虚勢はあっさり却下された。シャルロットのそれはあくまでお姉さん的なコミュニケーションでしかない。
こうしているとシャルロットの脳裏にトーマスの姿が浮かぶ。今思えばよく彼にもこんな風に遊ばれていた。その時の彼の気持ちも同じだったのだろうかと思うと可笑しくなってしまう。
シャルロットから見てもこの小さな主君の男の子は懐いてくれてると思っている。そう、かつて彼女が小さな頃にガードナー侯爵やトーマスに抱いた好意と同じものとして。
「パルちゃん嬉しそうだねぇ」
「ツァルフォルネ、貴女は上の方に対してもっと敬意を払いなさい。そのような呼び方、決して許されるものではありませんよ」
「えー。だってパルちゃんはいいって言ってるもんねー。ね、そうでしょ。アレックスに言ってやってよ」
「う、うむ」
艶やかに微笑む一介の使用人のツァルフォルネに、パルメウスはわずかに震え、総毛立つ。それは本能的なものだ。
そんな風にイタズラ好きな顔を浮かべていたツァルフォルネが、突然一転して表情を引き締めた。するとそこには非の打ち所の無い完璧な侍女の姿があった。
「ご安心ください、アレックス様。公私の区別はつけております。決してパルメウス様及びご主人様の顔に泥を塗るような真似は致しません」
「……それを常日頃から心がけていれば何も言うことはないのですが」
そこへ遠くの神殿から時刻を告げる鐘の音がした。
「もうこんな時間なのね。そろそろお茶もお開きにしましょうか」
「かしこまりました」
「ツァルフォルネ、後片づけをお願いね。アレックスはアイルと約束があるのでしょう。確かガーデニングを教えるんだったわよね」
「はい」
「ふふ。楽しんでらっしゃい」
アイルとは最近雇われたこの屋敷の第二メイドである。まだ13歳の少女でよく仕事を失敗していたが、最近ようやく仕事にも慣れてきたところだ。
アレックスは肩に使い魔を乗せ、一礼して屋敷へと戻った。
やがて遠くからアレックスと少女の声がかすかに聞こえてくる。
「アレックスさん、アレックスさん! ほら、コック長から美味しそうなマフィンを頂いちゃいました! 一緒に食べませんか!」
「お待ちなさい、アイル。あなた、顔がホコリだらけですよ。ちょっと来なさい」
「わっぷ」
「まったく。いつも言っているでしょう、もう少し落ち着いて身なりには注意なさいと……ほら、綺麗になりましたね」
「す、すいません」
「まあ、あなたくらいの年齢ならまだそのくらいのほうが元気があって結構ですか。おしとやかな淑女より今のあなたの方が子供らしくて好ましいと思いますよ」
「そ、そう、ですか……」
シャルロットの耳に届いてきたそんな二人のやり取りに思わず笑みがこぼれる。
「では若様、お屋敷までお送り致します」
シャルロットが席を立ち、パルメウスをエスコートしようとして……ロングスカートの裾を踏んで顔から床に突っ込んだ。
「……何をしている」
「い、いえ……その」
腐っても騎士。シャルロットは人外の反射神経でもって無様に顔を打つ事だけは避けたものの、床に大きく伸びた姿を晒してしまった。
冷ややかなパルメウスの視線がシャルロットに容赦なく降り注ぐ。
「ふう。ロッテは相変わらずどこか間がぬけてるな」
「返す言葉もございません……」
ひたすら恐縮する現役の世界四大騎士団員様。
「もー。もっとしっかりしろよなー」
パルメウスが手を出して、転んだ頼りない年上の娘を引っ張り起こす。
肩身が狭そうにしているシャルロットを前に、小さな男の子は一度大げさに溜息を吐いて続けて言った。
「だからロッテは放っておけねーんだ」
「うっ。申し訳ありません、若様」
そんな、少しそそっかしい娘にたびたび見られるいつもの光景。
そこに。
「あはっ、あははははははははは!」
突然弾かれたようにツァルフォルネが腹をかかえて笑い出した。
「パルちゃん、それナイス! 実にナイスだよ!」
一体何がナイスなのか。
訝しがる二人を置いて、ツァルフォルネは長い間笑い転げていた。
それはある晴れやかな日のこと。
美しい渡り鳥は傷ついた翼で屋根へと降り立ち、しばしの安らぎの日々を過ごす。
屋敷の陽だまりはどこまでも優しかった。
☆☆☆★★
首飾りを見る度に娘は思い出す。
屋敷での楽しかった日々を。
美味しい果実水をくれたムーラを。
森で一緒に笑いながら駆け回るトーマスの背を。
大きな手で抱き上げてくれた父を。
ベッドで子守唄を歌ってくれた優しい母を。
そして、わずかな間を共に旅した不可解な青年を。
胸に残る小さな棘を。
娘は首飾りに問い続ける。
すぐそばにある答えに気づかぬまま。
娘はずっと、問い続ける。
答えを知る、その日まで。
ずっと、ずっと。
答えを求めて。
曇天は未だ晴れぬまま、風は吹き続ける。
いつまでも、いつまでも。
いつかどこかのふたり
完
To be continued in ナインヘルツ No.2 ”空の魔獣”.