11 残された謎
走る。
走る。
少女は走る。
息を切らせ、額に汗を浮かべ、震えそうになる足を叱咤し、脇目もふらずにただ一心に少女は走る。
少女はヒタヒタと迫る黒い影を背中に感じる。それはいくら走っても、足を速めても離れるどころかどんどん近づいてくる。どこまでも追いかけてくる。それに追いつかれたら、触られたらお終いだと少女は強い圧迫感を抱いていた。だから、必死で走った。
生い茂る伸びた草を掻き分け、蜘蛛の巣を剥がし、曇天の下を吹き付ける冷たい風を全身に受けながら、少女は走っている。
心臓が早鐘を打ち、耳には悲鳴のような風の声が叩きつけられる。少女の腕には成人男子のずっしりとした重みがかかり、少女はそれが壊れないよう小さな体で大事に抱えて走っていた。
腕の中には青い顔をして力なく揺れる青年がいた。
青年の腹を突き破った2本の矢は血を次々に垂れ流し、足の付け根に刺さったダガーは動脈を傷つけたのか一番出血がひどい。早く手当てをしなければと少女は苦しい呼吸をおして逃げ続ける。
先ほどから足首が少女に鈍痛を訴えているが、構わず動かし続ける。
つい先ほどまでの戦闘で傷つき疲弊した少女の体が絶え間なく止まれと訴えるが、それを無視する。
限界も何も考えずに、ただ追っ手を振り切るべく全力で広がる山林の中を、入り組んだ山道を小さな影が矢のように駆けていた。
青年の呼吸音がすぐ近くから聞こえる。それがいつ小さくならないか、消えてしまわないか、それを考えるだけで心が黒く染まって行く。
走った後には点々と大きな血痕が続いている。少女の手の中から少しずつ、そして確実に温もりが零れ落ちていく。
頭の中はぐるぐると同じ言葉がずっと回り続けている。
――たすけて。
その心を占めるのは恐怖。
――だれか、たすけて。
思い出すは炎の屋敷、森の中に倒れた血まみれの従騎士の青年。
――お願い、誰か。
今、少女は雷と暴風と豪雨の乱れる嵐の中を小船で一人漂っていた。
風は止んでいた。
追っ手を撒くために山に流れる川を利用する。血もこれで多少はごまかせるはずだ。
そうやって、やがて追っ手を完全に振り切ったのを確認して、人も魔物もいない場所で青年をゆっくりと手ごろな草の絨毯の上に横たえた。
少女も隣に座り、激しい動悸を訴える心臓を押さえつけながら改めて青年を見る。
「あ……」
一目見て少女は悟った。青年はもう助からないと。
そう、分かってしまった。
乱れた息。力なく下がった腕。青くなった唇。真っ赤に染まる腹と足。微かに震える体。命のともし火が弱弱しく揺れていた。
町はまだ遠い。時間はない。手当てする手段もない。
間に合わない。
少女の手が地面を掴み、爪あとができる。食いしばった歯からは血が溢れ出た。
空でカミナリが鳴る。辺りはいつの間にか暗く、いつ降り出してもおかしくない。
「手当て……しなくちゃ」
まず腹の矢から。布と水を用意し、貫通した鏃を取り、矢を折る。それからゆっくりと引き抜き、水で傷口を洗った後に傷薬を塗って布を巻いた。
突き刺さったダガーに触れるとわずかながらも規則的に揺れていた。心臓の鼓動と連動しているようだ。
「それ、抜いたらダメ」
青年が脂汗を浮かべながら薄く目を開けて言った。蚊の鳴くような声だった。
「けど、血が……」
「抜いたらもっと血が出て、止まらなくなる。ここで抜いても……助からない」
「そんな……」
力が抜けたように少女の手が下がる。
矢傷に巻いた布はもう赤く染まっており、じわじわと広がっていた。
血が止まらず、治療もできない。この出血量では少女が騎士の力で抱えて走っても町まで間に合わないだろう。そうなると、その先に待ち受けるのは何なのか青年は知っているはずだ。
しかしそれでも青年は少し困ったように微笑っているだけだった。
それは諦観か、憤る余力もないのか、或いは他に何か考えているのか。
少女には分からなかった。
「ちょっと……やめてよ」
乾いた声だった。
見ると、少女の体が小さく震えていた。その顔は虚ろで、どこか能面のようだった。
――止まらない。血が止まらない。
少女は思った。なんでこの男はこんなにも落ち着いているのだろうと。
――私は助けられない。彼は……死ぬの?
青年の様子を見ていると、少女の胸に沸々と何かが生まれ、こみ上げてきた。それが何なのか少女には分からない。
少しずつ、風が吹いてきた。
「ねえ、なんで死ぬの?」
冷たい声だった。
「私の前で死なないでよ。迷惑なの」
少女の目には静かな怒りの炎があった。それが全身に燃え広がっていくのを少女は止められなかった。
そしてその炎の向く先は身の程知らずの愚かな青年だ。
「あなた、バカなの? 私、言ったよね。死ぬかもしれないって。自分は大丈夫だって思った? 本当にそう思ってたの? なんの力もないのに」
青年は答えない。ただ黙ったまま、責め立ててくる少女の好きにさせていた。
「なんでよりにもよって、私の前で死ぬのよ! どこか別の、私のいない知らないところで死になさいよ!
勝手についてきて、勝手にかばって、勝手に死んで! なんなのよ、あなたは!」
罵声が止まらない。
次第に大きくなっていく声は虚しく空へと溶けていく。
湿り気を帯びた風は今や木々を大きく揺らすほどの暴風となって吹き荒れていた。
「だから私は! ついて来たら死ぬって言ったじゃない!」
もはや少女は青年を見ていない。
胸に生まれたものは渦を巻き、暴れ、そのはけ口を探して少女は叫んでいた。
衝動に突き動かされて、ただ思うままに青年にぶつける。
力を込めて拳を振り上げる。少女の睨むその先には今にも死にそうな青年が横たわっていた。
「どうして! なんでついてきたのよ!」
もう頭は滅茶苦茶だった。
どうすればいいのか分からなかった。
苦しくて苦しくてどうしようもなくて、だから全てを吐き出した。
「もう嫌! 嫌なの! みんな、みんな私の前で死んでいく! あなたも死んでいく! そんなのを見るのはもう嫌なの!」
血を吐くような叫びだった。
叫んだ後、胸の内に残ったのはちっぽけな少女だった。
暗い世界の中、赤い血の沼に沈み、周りには炎が燃え盛り、いくつもの知っている生首が踊る。
その中を少女はうずくまって耳を塞ぎ、強く目を閉じていた。
風が再び止む。静寂が二人の間に訪れる。
「……ねえ、答えてよ」
今までの熱が嘘だったように、少女が小さく見えた。
「なんで、私についてきたのよぉ……」
一転、力なくうなだれて少女は振り上げた拳を弱弱しく下ろした。
青年は黙ったまま、ぼんやりとそんな少女を見上げている。
「ごめんなさい……ごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい」
何を思ったのか、青年の腕がわずかに浮き上がり……しかし、それ以上上がる事無くそのまま地面へと落ちていった。
それを青年は悲しそうな、悔しそうな顔をして唇を小さく噛んだ。
「ねえ、これが欲しいなら、首飾りならあげるから……お願いだから、死なないで」
それは懇願だった。
幼い子供のように、青年の体を力なく揺する。
小さく、か細い声で縋った。
「もう、死なないでよ……」
青年は一つ大きな息を吸って、吐く。
それからゆっくりと口を開いた。
――いらないよ。
少女はそれが空耳かと思った。
ゆっくりとうつむいていた顔を上げて青年を見る。
「え……」
「本当は、そんな物……いらなかったんだ」
穏やかな顔で青年はそう続けて言った。
「ど、どういう……」
少女がうろたえる。意味が分からない。
価値のある骨董品である首飾り。これが欲しいのではなかったのか。
一度だけあんなに熱っぽく首飾りの話をしてくれたではないか。
それが、本当はいらなかった?
「あはは。首飾りが、欲しかったって……いうのは嘘じゃ、ないけれど、どちらかと、いうと……どうでもよくて、一番の……理由っていう、わけじゃあ…………ないんだよ」
「どういう、こと?」
「分からない、かなぁ……? まあ、それ…………ならそれで、いっか」
青年は少しだけ可笑しそうに笑う。
その顔は死に行く者の恐怖も怨念もなく、ただ子供のように笑っていた。
「ああ……うん。ごめんね。君に…………そんな顔、させたい……わけじゃあ、なかったんだけれど…………これは、僕の自業自得、だから、君が……気にする、ことは……ないよ」
「ねえ……ねぇ? ちょっと……答えてよ。どういうことよ」
青年は答えない。
「あー、ドジった……なぁ…………」
青年は空を見ていた。雲に覆われ、薄暗く太陽のない空を。
もう動かない、助からない体を大地に横たえ、大したことのないように一息ついた。
「ここまでか……まぁ、一人、野垂れ…………死ぬ事を、考えれば…………悪くない………………最期、かな。こんな……可愛い子…………に、看取られ……るんだし……」
青年がそっと目を閉じ、その全身からゆっくりと力が抜けていく。
「ちょっと、待ってよ。ねえ」
青年は応えない。
次第に息が小さくなっていく。
「ねえ、ねえって。待ってよ。教えてよ」
少女はそこで青年を呼ぼうとして、思い出した。
「……あなたの名前、知らない。まだ聞いてない」
もう青年は応えない。
血が止まり、後は冷たくなっていくだけだった。
名前すら知らない、どこの誰かも分からない一人の男は少女の下でどこか困ったように、けれど安らかそうに眠っていた。
☆☆☆☆☆
名前のない墓標が少女の目の前に立っている。
少女は一人、大樹の下に穴を掘ってそこに青年を横たえ、土をかけた。そしてその上に十字を突き立てた。
少女は青年が死後に始まりの女神の御許へ行けるよう祈り、しばらくぼんやりとそれを眺めていた。
「結局何も分からなかった……」
分からない。
どうしてあの男は自分についてきたのか。
何を考えていたのか。
何が本当で、何が偽りだったのだろうか。
そう、最期に謎を残してこの世から去ってしまった青年を思う。
「……行こう」
頭を振り、青年の墓を後にする。
もう旅の終わりは見えている。港町は今日中にでも着けるだろう。後は追っ手に気づかれる前にアスリア大陸に渡ってしまえばいい。
追っ手にやられた負傷は未だ痛むが、我慢できないほどではない。
厚い黒雲から雫が降り出す。とうとう雨になってしまった。
「急がなきゃ」
少女は地を蹴って前へと進む。
後には誰ともしれない墓が雨に打たれていた。
次でエピローグです。