10 悪夢再び
一応血とか残酷描写あり。ご注意を。
山を越え、谷を渡り、青年と少女の二人は曲がりくねった断層山地を進んでいた。
道とも言えない山道の右手は深い森となっている。時折空をけたたましい声をあげた怪鳥が飛んで行く。
雨上がりのぬかるんだ地面の上を二人は歩いていた。未だ空は曇天。降り出す気配はないが、少々空気が湿っぽいのを少女は不快に思っていた。
「じゃあ君は向こうの大陸のアスリア連合国に向かってるんだ」
「ええ」
現在二人がいるのはフィーラル大陸。別名中央大陸とも呼ばれている。この大陸を中心に、北にオーガス大陸、南に南フィーラル大陸、そして二人が向かっている西にアスリア大陸が広がっている。神話には世界のどこかにバードラ大陸があると記されているが、未だ見つかっていない。
「となると後は海に出てアスリア大陸に渡るだけだね。もう途中で立ち寄る村や町もないし、港町から船に乗れば到着だよ」
「船……見たことないわね」
「大雑把にいえば木靴をとっても大きくしたような乗り物だよ。それを海の上に浮かべてたくさんの人や荷物を運ぶんだ」
「沈まないの?」
「大丈夫大丈夫。そこはちゃんと沈まない重さを考えて調節用の重りがあるから。軽すぎても転覆するけどね。ああ、君の首飾りも船の荷物で運ばれてきたのかもしれないね」
「……そうなんだ」
「フィーラル大陸とアスリア大陸は間に海があるけれどすごく狭いんだよ。日によっては海岸からアスリア大陸が見えるくらいだしね」
「そう。でも海なんて見たことないからよく想像できない」
「それはそれは。見てのお楽しみだね」
そこで少女が突然足を止めた。目を細め、微動だにしない。
「どうしたの?」
「……何か来る」
少女が言うやいなや、有無を言わさず青年を楽々肩に担いで飛び上がる。小さな少女と青年では身長差のある分、やや収まりが悪いのは仕方の無いところか。急激な加速による衝撃が青年の腹にかかりうめき声が漏れるが、少女はそれを無視する。物見やぐらを越える高さへと跳びあがり、一際高い大木の太い枝の上に着地した。そしてそのまま息を潜めて下を窺った。
「あ、あれ……」
青年が指をさした方向を見ると砂煙がのぼっていた。やがて地響きの音がする。
「イノシシみたいね……」
遠目で詳しくは分からなかったが、イノシシ型のモンスターの群れのようだった。やがてレモン大の群れが二人の足元を凄まじい勢いで走り去って行った。
追われているわけでもなくただの移動だったようで、他にモンスターの姿は見当たらない。
「行ったね」
「ええ」
素っ気無い表情で安堵の息を吐く少女。
そこに横から風が吹き付けてきた。森の風とも草原の風とも違う初めての感じに少女が戸惑う。
「潮の香りだ。海が近いみたいだね。あ、ほら見てごらん」
青年の指す通りに進行方向の右手、緑の屋根を越えた先に青い世界が遥か彼方まで広がっていた。
海だ。
「……すごい」
「開けたところまで出たら、後は北へ進んでいくと港町がある。もうじきこの大陸からもお別れだね」
「うん……」
返す少女は浮かない顔だった。その胸には目的地へたどり着く喜びはない。
大陸を離れる。それは今までの少女の思い出を全て置き去りにするという事。
そう。少女は逃げ出すのだ。父を、母を、兄のようなトーマスを、祖母のようなムーラを、家で働いていた皆の亡骸を置いて。
あの炎の森の中に打ち捨てて、一人だけ醜く助かろうと――
「……」
胸が潰れるかのように締め付けられ、思わず少女は首飾りを握り締める。
そこに温かな母がいるような気がして、縋るようにその感触を確かめる。
「やっぱり、泣けない」
少女は胸の内で呟く。
苦しいのに、辛いのに、悲しいはずなのに、少女は泣くという事を忘れたみたいだった。なんて薄情なんだろうと少女は思い、それでもこみ上げてくるものは何もない。
ただ、乾いた風が頼りない心に吹くだけだった。
二人が大木から下りる。青年は幹を伝ってスルスルと。少女は難なく飛び降りて。
そして再び二人で歩き始めた。
「私の旅は連合国のエディット国オーレント領で終わり。あなたともそこでお別れね」
「そっかぁ」
「あなたは……どうするの?」
「アスリア連合国までついていくよ。久しぶりにあっちまで足を伸ばしてもいいかなと思ってたし。顔を見せたい人もいるからね」
「そう」
「それに、ギリギリまで首飾りを諦めたくないからね! ほら、ふと気が変わって売ってもいいかなーって思うようになるかもしれないよ! 主に僕への恋心とかで!」
「それはないから安心して」
「アウチっ」
もう何度繰り返したやり取りなのか覚えていないが、少女はよくもまあここまで根気よく続くものだとある意味感心した。
「けど、まあ……」
母の形見である首飾りは決して渡せないが、別れる前に何か別の代わりの物をあげてもいいかなと少女は思いつつある。幸い、屋敷を出る前に身に着けていたそこそこ高価らしい装飾品はまだ残っている。
元々骨董品を集めているという青年が勝手についてきているだけではあるが、ここまで来るのに色々と助かったのは確かなのだから。
決して言葉にはしないが、青年には感謝しているのだ。
一人ではないことが、こんなにも救われるという事に。
「これでもうちょっと性格がまともだったら良かったのだけれども……」
少女は青年をチラリとのぞき見て、こっそり溜息をつく。その点が本当に本当に残念だった。当の青年はというと、なにやら自分で自分を励ましていた。つくづくへこたれない男である。
「そうだ、今日こそ彼の名前を聞かなきゃ」
決意を新たに拳を握る。
思えば正体不明な青年である。まあ決して悪い人ではないと分かっているが。
出会ったのは山の中。それから少女に付きまとって、道中で少女が同行を許した。
これまで分かっている事といえば――
行商人である。
骨董品を集めている。
どうやら有力な後援者がいるらしい。
ここフィーラル大陸西部を中心に色んな街を渡り歩いている。
バカである。
「なに、どうしたの。僕を見て」
「いいえ、なんでもない」
まあ、これといって害はないからいいかと幾分投げやりな気持ちになって少女は青年についての考察を脇にうっちゃった。
「ん……でも、そっか」
「どうしたの?」
「いや、君を襲った奴らが仕掛けるとしたら、やっぱり大陸に渡る前……最悪でも港町の前で止めたいところだろうと思ってね」
「あ」
「奴らは君の目的地を知ってるのかい? もし知りうるとしたら……下手したら町の前で待ち構えられているかもしれない」
少女は考える。大公派が勝利した祖国にもはや隠れる場所はない。国外へ出て、一度街でガーデニア伯爵が出した追っ手に捉えられた。捉えられる前ならともかく、今となっては西へ向かっている事は既に知られているはずだ。父がガードナー侯爵と親しい事も伯爵ならば知っていたはず。
「……おそらく、ある程度の当たりはつけていると思う。今の最短のルートだと先回りされていてもおかしくはない、かも」
「そっか……じゃあ進路を変えてみる? 何もアスリア大陸に渡るにはここから北の港町だけじゃない。割高になるけれど巨鳥屋に乗せてもらって空から行くという方法もある。ずっと遠回りになるけれど、南にも別の港町はあるしね」
「けど、そこにも追っ手が張っていないとも限らない。たぶん『彼』は全力で私を殺しに来ていると思う」
未だに少女の耳には伯爵の声がこびりついて離れない。
殺してやる、と。
「……随分とまたすごい人に狙われているみたいだね。数少ない貴重な騎士をそこまで動員できるなんてよっぽどだよ」
「離れるなら今のうちよ」
突き放すように言い放ってから少女の胸に鋭い痛みが走る。だがそれを押し殺して少女は青年を見上げた。
怖気づいたのかと思った青年は、しかし真正面から少女の目を受け止める。
「ま、なんとかなるよ」
「あなたのそれ、死なないと治らないみたいね」
少女は腰に手を当てて盛大な重い息を吐く。
「君が気にする事じゃないよ」
そう言って青年は呑気に笑いながら少女の頭を撫でるように軽く叩いた。それに顔をしかめる少女。青年は不機嫌になった気配を察し、すばやく少女の手の届く範囲から逃げ出した。 少女はムキになって青年を追おうとして――足を止めた。
「どうしたの?」
「どうやら……遅かったみたいね」
未だ抜けきらない山道の途中で少女が腰の鞘から太刀を引き抜いた。
青年は空気の変化を感じ取り、荷物袋から護身用の雷符と土符を取り出して少女の傍へ駆け寄る。
二人の動きを見て悟ったのか、右手の森の影からじわりと全身黒装束の男達が湧き出してきた。
その数、実に8人。
いつぞやの街で少女を襲っていた連中だ。そしてガーデニア伯爵の放った追っ手の騎士だ。
無駄口一つ叩かない彼らの目には冷ややかな光しかない。それは無言で語っていた。「死体で連れて行く事も辞さない」と。
山壁を背に、少女の顔色が変わる。
「数が多すぎる……!」
確かに少女は強い。そこいらにいる並の騎士はおろか、正規の訓練を受けた騎士ですら一蹴できる実力だ。しかしそれでも目の前に広がる騎士の数は少女が後退りするには十分だった。。
少女が戦闘態勢に入り、左腕の上腕部にある黒点から無数の黒いツタのような触手が絡み合いながら素肌の上を伸びて行く。それは細かく編まれながら少女の身体の四分の一ほどを覆っていった。
半円を描くように包囲された二人は追い詰められたネズミである事を自覚する。少女は騎士でない青年を庇うように前にでた。ジリジリと距離を詰めてくる追っ手達を睨むも、その目には力がない。
背を冷たい汗が伝う。
あまりにも状況が悪すぎる。
少女は強力な騎士の資質を開花させ、実力もまた相応に伸ばしていた。が、実戦経験が圧倒的に足りていない。ほぼ無いと言ってもいい。これまでは全て鍛え上げて突出した身体能力による力押しで凌いでいたのだ。
経験が不足しているが故に、判断に迷いがでた。
逃げるべきか。討って出るべきか。迎え撃つべきか。
どうすればいいのか分からない。
どうすればこの状況を切り抜けられるのか、正解が出せない。決められない。
ただ焦りだけが積もっていく。
或いは状況を見てとり、初手ですぐさま青年を連れて逃走の一手を打てばまだ望みはあったかもしれない。
だがそれも迷い、自分から行動を起こす勇気もなくただ警戒するだけで立ちすくむ今となっては手遅れだった。
「……」
黒装束達の中でも中央後方にいる一人がゆっくり片手を上げた。それを合図に、黒装束達のにじり寄る動きが止まる。
少女が身を固くした。次に何がくるか悟り、手の太刀を強く強く握り締める。
それと同時に、天へと伸ばされた黒装束の片手が勢いよく振り下ろされる。
開戦だ。
まず敵の右翼と左翼からいくつかの矢が放たれた。十字斉射と同時に中央の三人が飛び出してくる。連携にわずかなズレはあったが、錬度は悪くなかった。
それに対して焦る少女はまた迷った。矢を撃ち落とすべきか、青年を連れて避けるべきか。
結局時間切れとなり、少女はやむなく飛来する全てを撃ち落とす事になった。
騎士の射る剛弓の初速は音速を超え、鉄板を簡単に射抜く。少女はそれを慎重に見切り、太刀を振るった。
太刀を振るうあまりの早さに少女の肩から先が消える。その剣閃の軌跡は蛇のように流れ、全ての矢を絡め取った。
矢を叩き落したものの、その結果足を止められて余裕のない所へ三人の騎士が襲い掛かる。前方三方向からの攻撃を受け止め、少女はその小さな体の内に秘めた力を爆発させて押し返した。
続けて一人を仕留めるために踏み込もうとした時、またもや矢が射掛けられる。少女は歯噛みしながらそれを打ち返した。そしてできた間隙で目の前の三人が体勢を整えてしまう。
そしてまた攻撃が繰り返される。
「このままだと悪循環だ」
少女は自分の不利を悟った。
何より少女の消耗が激しすぎる。近いうちに息があがってしまうだろう。敵は連携して攻撃の合間をうまく無くして間断なく攻め続けてくる。対する少女は常に気の抜けない全力で攻めを凌いでいる状態だ。
初手で矢を受けて足を止めさせられたのが大きな判断ミスだった。
一方追っ手達もまた内心焦りと驚愕を覚えていた。
最初の連携攻勢は彼らの必殺だった。あれで大抵の騎士は受けきれずに倒れていたのだ。それが全て受け払われた挙句、三人まとめて力ずくで押し返された。それを目の当たりにした全員が黒い覆面の下で絶句していた。
これは必殺を自負していた彼らに動揺を与えるには十分すぎた。
だが、すぐに気を取り直して獲物を逃がさぬよう攻め続けた。如何に強力な騎士であろうと休む暇を与えず攻め続ければいつか疲弊し、破綻すると。その時を待ち、彼らは子供の少女に容赦なく牙を剥く。
青年は完全に動けなかった。20歩ほど先で行われている騎士同士の戦闘はどうしようもないほど青年の知覚を越えていた。
目の前で展開された戦いは青年の目では捉えられない。かろうじて少女が黒装束達の猛攻をせき止めているのだと分かる程度だ。
武器同士がぶつかりあう悲鳴が何度も聞こえてくるが、彼らがそれを振るう姿は速すぎて目で追いきれず、まるで流星のようだ。
青年はせいぜいが土符を使って間隔を空けた石壁を築き、その後ろに隠れて流れ弾を防ぐ程度しかできない。その事に歯を食いしばった。
「合図をしたら道を走って。お願い」
少女が十字斉射を回避し、青年の近くまで下がってきた一瞬でそう伝えてきた。
慌てて青年が少女の姿を探すと、少女は隣で獲物へと飛び掛る獣のように身をかがめていた。そしてすぐにその背はまた黒装束達の中へと舞い戻り、切り結ぶ。
お願い。少女は淡々とそう言った。
そしてその後に続く言葉も、青年の耳はかろうじて拾えていた。
「お願い、信じて」
青年は見た。うつむいてた少女の口が強く真っ直ぐ引き結ばれていたのを。
青年が走れば黒装束達に対して無防備な背中を晒す。抵抗手段のない青年にとって、いつ斬りかかられるか分からないそれは恐怖だ。
黒装束達の狙いはあくまで少女だが、連れと思われているであろう青年を人質などとして利用しないとは言いきれない。それも青年が騎士でなく無力な一般人ならなおさら。
今なお押され続けている少女が果たして青年の逃げる背を守りきれるのか。一人でも少女を抜き去れば、或いは飛び道具を一つでも見逃せば青年は終わりだ。
元々二人の間には信用はあっても信頼はない。仲間ですらない。最近では少し距離が近くなってきていたが、あくまでただの旅の道連れ。それが二人だ。命の危機に迫った時はお互い自分で自分を守るしかない。
少女は青年を見捨ててもいい。青年は少女の言うことを聞かなくてもいい。
少なくとも少女はそう思っていた。
その上でなお、少女は言った。
自分に命を預けてくれと。
少女は今、もはや目に見えるほどに劣勢になっていた。弓の援護を受ける三人の黒装束達は攻めの勢いを増している。少女は防げない太刀が増え、体力が落ちていく。闘気の鎧の上から受けた斬撃の衝撃は少女の体にダメージを蓄積させていった。
その様子からは現状が少女の手にあまるものとしかうかがえない。青年が逃げたところで無事に済むとは到底思えない。
それを承知で少女は言った。
自分が守ると。
助けたいのだと。
自分の事情に巻き込まれた青年を見捨て、一人で逃げるという選択は少女にはとれなかった。
「AAAAAAAAA!」
少女が吼える。空気を震わせ、残る力を振り絞るように吼える。
まるでウォークライ。
口の端から流れる血をそのままに、痛みで鈍る身体をおして少女は奮い立つ。
黒装束の太刀をかいくぐり、更に天から振り下ろされた太刀を受け流し、背からの袈裟懸けを体を入れ替えて回避。
まず手近な一人に横一文字の斬撃をお見舞いし、黒装束の下に着込んでいるチェインメイルの感触ごと斬り飛ばす。別の一人には踏み込みからの掌底を腹に。最後の一人には蹴りをお見舞いした。
黒装束の前衛3人が少女から離れた事でまた十字斉射の気配がした。しかし少女は構わずに隠していた手札の準備をする。
「今!」
少女のその声に弾かれたように青年が土壁から飛び出し、走り出す。
同時に少女は体内の闘気を練り上げ、太刀へ乗せて突き出すように外へと放出した。左翼の黒装束達の元へカボチャ大の闘気の塊が二つ、高速で飛来する。
気弾だ。
「バカな!」
「こんな子供が気弾だと!?」
黒装束達から悲鳴があがる。
気弾はそれこそ一国のエリートたる王宮騎士レベルの闘技だ。今まで一人で多数を退けていた少女の奮戦に恐れを抱きつつもそれでも無言で襲い掛かってきた黒装束達が、これには思わず叫んだことから少女のその特異性がうかがえる。
やや狙った位置とは違ったものの、気弾は二つとも別々の黒装束の体へと当たった。まるでサイの突進を受けたかのような衝撃に二人は堪らず弓を取り落とし、地面へと倒れた。
左翼を沈めた後、続けて少女は離れた右翼の黒装束へと二跳びで間合いを詰める。彼らが放った矢をかわして懐に入る。黒装束達は慌てて弓を捨てて武器を取ろうとするが、それより先に少女の太刀が閃いた。
その必殺の刃は、一人の首を半ばから断ち、もう一人の脇腹を裂いた。
これで右翼も沈黙した。
弓を排除した戦果に少女は安堵するが、この一連の攻勢にかなりの消耗を強いられてしまった。少女は今や気を抜けばすぐにでも身体から力が抜けそうになっていた。
それでも少女は震える足を叱咤しながら、青年を追わせまいとすぐさま走った。
「決してやらせはしない」
残る黒装束は4人。ぼやぼやしていると左翼の2人も回復してしまうかもしれない。
少女の一瞬の反撃で半数を倒された事に、今まで後方で静観していた最後の黒装束が動いた。最初に開戦の号令を出した黒装束だ。
青年の背中はまだ近い。走り出してまだ10秒も経っていないのだから仕方ないといえば仕方ない。
少女は青年と黒装束4人との間に体を割り込ませる。
そこに、走りながら荷物袋に手を突っ込んでいた青年が袋から何かの符を数枚取り出した。そしてその内の一枚の符に描かれた幾何学的紋様に淡い燐光が走る。
それは風符だった。
符が起こした風は突風となり、青年の背中を強く押した。タイミングを合わせて跳びあがった青年はその追い風を受けてあっという間に距離を離していった。
少女はそれを見ていささか肩の力が抜けた。
「あそこまでいったなら、もう注意があっちに向くことはなさそうね」
そもそも黒装束達の狙いは少女一人。わざわざ離れた青年を追いかけてまで人員を割く必要はないはずなのだ。
「あとは、もう少し時間を稼いで私も逃げ切れば大丈夫」
少女は息を吸って、吐く。気合を入れなおす。
そこに三人の黒装束が一気に襲い掛かってきた。
もはや少女には開戦時のように三人をまとめて吹き飛ばす余力はない。防戦にまわり、一つ一つの攻撃を捌いていく。一太刀攻撃を受けるだけでも身体がミシリと悲鳴を上げる。足捌きももはや精彩を欠く有様だ。
それでも、もたせてみせる。
少女はそう思っていた。
だが、その目論見は4人目で粉砕された。
「え?」
気が付けば一人の黒装束に懐を許していた。あの最後に動き始めた、リーダーと思わしき相手だ。死角から入り込まれたのか、今までまったく見えなかった。
その不気味なまでに静かな黒装束は太刀を持たず、素手のまま少女の右胸にそっと手を当てる。
少女の背中が激しい悪寒で粟立つ。
次の瞬間、軽い踏み込みの音とともに、まるで大瀑布のような衝撃が黒装束の手から発せられた。
「――っ!!」
悲鳴すらあげられず、少女は派手に吹き飛ばされた。
少女の胸から嫌な音がした。肋骨にヒビでも入ったのかもしれない。咄嗟に少女が衝撃を逃がすために後ろに跳ばなければよりひどい結果になっていただろう。
「大丈夫!?」
気が付けば、少女は青年の隣まで飛ばされていた。
地面を削りながら倒れた少女はあまりの衝撃に呼吸すらできず、必死に空気を求めて口を動かしている。
そこへ、少女は目の端で何か光る物を捉えた。
そして音と共に何かが顔に降り注ぐ。それはまるで温かい雨のようで――
「……何?」
始めは少女は分からなかった。いや、分かる事を拒否した。
倒れ、起き上がろうとした少女はそれを見た。
両手を広げ、少女の前へと体を投げ出した青年の姿を。
――デジャブ。
その姿は、いつか炎の中に少女の盾となっていなくなった従騎士の青年を思い起こされた。
青年は2本の矢に腹を貫かれ、1本のスローイングダガーがその足の付け根に深々と刺さっていた。