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「わたし、このまま一人でおばあさんになるのかな」と拾った黒猫に愚痴ったら、その猫の正体は呪われた近衛騎士団長でした

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/28



 雨の路地裏で、黒猫が一匹、木箱の陰にうずくまっていた。


 コレットは薬草の籠を胸に抱えたまま、足を止めた。


 王都の下町、石畳の細い路地。夕方からの雨が軒先からぽたぽたと落ちている。路地の奥の木箱の陰で、黒い毛のかたまりが、小さく震えている。


 近づくと、猫は顔を上げた。


 金色の目だった。暗がりの中で、ランプの灯りみたいに光っている。左の前足を浮かせていた。毛が血で固まっている。


「……けが、してるの?」


 コレットはしゃがみこんだ。猫は逃げなかった。ただ、金色の目で、じっとコレットを見上げている。


 ふつうの野良猫なら、人が近づけば、毛を逆立てて逃げる。この猫は逃げない。逃げられないのかもしれない。足が痛くて。


 それにしても、変な猫だった。


 首に、細い銀の鎖が巻きついていた。鎖の先に、小さな紋章の札がぶら下がっている。剣と、百合の花。どこかで見たことがある紋章。


 ――王宮の、近衛騎士団の。


 コレットは首をかしげた。猫が近衛騎士団の紋章を下げている。誰かの飼い猫だろうか。騎士の誰かが王宮で飼っている猫が、迷子になったのかもしれない。


「とりあえず、うちにおいで。手当てしてあげる」


 コレットは薬草の籠を脇に置いて、両手を差し出した。


 猫はしばらく、コレットの手を見つめていた。それから、のそりと立ち上がって、三本の足でよろよろと歩いてきて、コレットの手のひらに、自分から頭を押しつけた。


 雨に濡れた毛が冷たかった。


 コレットは猫を抱き上げた。思ったより、重かった。普通の猫の、二倍くらい。




 コレットの家は下町の外れの、小さな薬草屋だった。


 一階が店、二階が住まい。亡くなった母から継いだ店で、コレットは十九歳から五年間、一人で切り盛りしている。乾燥させた薬草が、天井から何十束も吊るしてある。店に入ると、カモミールとミントと、ほんの少しのヨモギの匂いがした。


 コレットは作業台の上に猫を下ろした。


「足、見せてね」


 猫はおとなしく左の前足を差し出した。


 毛をかき分けると、深い切り傷があった。刃物で切ったような、まっすぐな傷。獣にかまれた傷ではない。


 コレットは眉を寄せた。誰かが猫を刃物で切りつけたのだろうか。


「ちょっと、しみるよ」


 薬草を煮出した消毒液を綿にふくませて傷口に当てた。


 猫がぴくりと体をこわばらせた。でも鳴かなかった。暴れもしなかった。金色の目をぎゅっと閉じてじっと耐えている。


「えらいね。きみ、我慢強いね」


 傷に軟膏を塗って清潔な布を巻いた。最後に、布の端をきゅっと結んだ。


 猫が目を開けた。


 自分の前足の包帯を見下ろして、それから、コレットを見上げた。


 金色の目が何か言いたそうに見えた。


「なあに。お礼?」


 コレットが笑うと、猫はふいっと顔をそむけた。耳の先がぴくぴく動いている。


 まるで照れているみたいだった。


 コレットは温めた山羊の乳を小皿に入れて作業台に置いた。猫は匂いを嗅いでから、ゆっくりと舐めはじめた。


 ぴちゃ、ぴちゃ、という小さな音。窓の外で雨がまだ降っている。


「名前、つけてあげなきゃね」


 コレットは作業台に頬杖をついて、猫を見た。


 黒い毛。金色の目。首の、銀の鎖。


「……騎士さま、にしようか。紋章、下げてるし」


 猫が乳を舐めるのをやめた。


 顔を上げてコレットを見た。金色の目がまんまるになっている。


「え、だめ? じゃあ、クロ」


 猫はしばらくコレットを見ていた。それから、ふうっと、ため息みたいに鼻を鳴らしてまた乳を舐めはじめた。


 コレットはくすくす笑った。


 次の朝、コレットが二階から下りてくると、クロは店の窓辺に座っている。


 朝の光の中で、黒い毛が、つやつやと光っていた。前足に包帯を巻いたまま、背筋をぴんと伸ばして、通りを行き交う人々をじっと見ている。猫が日向ぼっこをしているというより、門番が見張りに立っているみたいだった。


「おはよう、クロ」


 クロはちらりとこちらを見て、尻尾を一回だけ、ぱたんと振った。


 コレットはかまどに火を入れて朝ごはんの支度をはじめた。ライ麦のパンを切って、昨日の残りの豆のスープを温める。鍋をかき混ぜながら、背中のほうに向かって話しかけた。


「今日はね、川向こうのおばあちゃんのところに腰の湿布を届けるの。それから、パン屋のおばさんの旦那さんが、また二日酔いだって。毎週だよ、毎週」


 ふり返ると、クロが、窓辺からこちらを見ていた。金色の目がまばたきもせずに、コレットを追っている。


「なあに。聞いてくれてるの?」


 クロは答えるかわりに、窓辺から降りて、とことこと三本足で歩いてきた。かまどの前の、コレットの足もとに座った。


 鍋の中で、豆のスープが、ことことと音を立てていた。コレットは、木の匙で少しだけすくって、小皿に冷ましてから、クロの前に置いた。クロは、小皿の匂いを嗅いで、それから、ゆっくりと舐めはじめた。耳が、うれしそうに、ぴくぴく動いていた。


 コレットは、そのとなりで、パンをかじる。窓の外を、荷車がごとごとと通りすぎる。いつもの朝。でも、ひとりではない朝。


 それから、ひと月、毎朝、そうだった。




 クロはその日から、コレットの家に住みついた。


 変な猫だった。


 まず、トイレの箱を使わなかった。裏庭の、決まった植え込みの陰に行って、用を済ませると、ちゃんと土をかけて戻ってくる。


 コレットが着替えようとすると、ぷいっと顔をそむけて部屋から出ていく。扉の外で、着替え終わるまで待っている。


 夜、コレットが寝台に入ると、クロは寝台の足元の、床の上で丸くなった。寝台の上には、絶対にのぼってこない。寒い夜に、「おいで」と毛布をめくっても、首を横にふる。


 そして、毎晩、コレットが眠るまで、金色の目を開けて窓のほうを見ている。


 まるで見張りをしているみたいに。


「クロ、あんた、ほんとに猫?」


 ある晩、コレットは寝台の上から、床のクロに話しかけた。


 クロはちらりとコレットを見てまた窓のほうを向いた。


 コレットは毛布を顎まで引き上げて天井を見た。


「……誰かと話すの、久しぶりだなあ」


 ぽつりと、こぼれた。


 母が亡くなってから五年。店には毎日お客さんが来る。熱さましの薬草、腹痛の薬草、傷の軟膏。でも、それは「話す」とは違う。注文を聞いて、薬草を包んでお代を受け取るだけ。


 夜、この家で誰かに「おやすみ」と言うのは五年ぶりだった。


「わたしね、ほんとは、薬師になりたかったんだ」


 クロの耳がぴくりと動いた。


「王宮の薬師。お母さんも、若いころ、王宮の薬草園で働いてたんだって。でも薬師の試験を受けるには推薦状がいるの。貴族の、誰かの。下町の薬草屋の娘に、推薦状を書いてくれる貴族なんて、いないよね」


 窓の外で夜風が鳴っていた。


「だから、ここで薬草屋をやってる。それも好きだけどね。……でも、たまに思っちゃう」


 コレットは目を閉じた。


「わたし、このまま、一人で、ここで、おばあさんになるのかなって」


 しばらく、静かだった。


 それから、床の上で何かが動く気配がした。


 寝台の端が少しだけ沈んだ。


 目を開けると、クロが、寝台の上にのぼっていた。はじめて。コレットの枕元まで歩いてきて、コレットの頬のすぐ横で丸くなった。


 黒い毛が頬にふれた。温かかった。


「……クロ」


 クロは何も言わなかった。猫だから。ただ、喉の奥で、小さく、ごろごろと鳴らした。


 コレットはクロの背中にそっと手を置いた。


 その夜、コレットは五年ぶりに、誰かのぬくもりの横で眠った。




 クロが来てひと月が過ぎた。


 左の前足の傷はすっかりふさがった。クロは店の中を自由に歩き回るようになった。お客さんが来ると、作業台の上に座って金色の目でじっと見ている。


「コレットちゃん、その猫、なんか、見張られてる気がするねえ」


 常連のパン屋のおばさんが、笑いながら言った。


「わたしのことを守ってくれてるんです。たぶん」


「へえ。番犬ならぬ、番猫かい」


 コレットはクロの頭を撫でた。クロは少しだけ得意そうに尻尾をぴんと立てた。


 クロが来て三週目のある日、コレットは店でひやりとする失敗をしかけた。


 朝から客が立てこんで目が回るほど忙しかった。咳の止まらない子どものために、母親が薬草を買いに来た。コレットは棚の上の瓶から、乾燥させた葉をひとつかみ取り出して紙に包もうとした。


 その手の甲に、黒い前足が、ぽんと乗った。


 クロだった。作業台の上から身を乗り出して、コレットの手を前足で押さえていた。金色の目がコレットの手の中の葉をじっとにらんでいた。


「クロ、じゃましないで」


 クロはどかなかった。それどころか、コレットの手の中の葉に、鼻先を近づけてふんっと強く鼻を鳴らした。


 コレットは手の中の葉を見下ろした。


 ――あ。


 背中がすうっと冷たくなった。


 葉の形がほんの少しだけ違った。咳止めのタチジャコウソウではなかった。となりの瓶の、見た目のよく似た、強い下剤の葉だった。忙しさにまぎれて瓶を取り違えていた。


 子どもに飲ませていたら、ひどい腹痛を起こすところだった。


 コレットはあわてて葉を瓶に戻して、正しい瓶から、咳止めの葉を取り出した。母親が帰ったあと、作業台に両手をついて、大きく息を吐いた。


「……クロ。どうして分かったの」


 クロは作業台の上で、すましたように尻尾をくるりと前足に巻きつけて窓の外を見ていた。


 猫が薬草の見分けなんてつくはずがない。


 コレットは首をかしげた。でもそれ以上、深くは考えなかった。



 その日の夕方、店に、柄の悪い男が三人、入ってきた。


 大柄な男がカウンターに肘をついて、コレットを見下ろした。酒の匂いがした。


「おい、ねえちゃん。この店、薬草だけじゃなくてほかのもんも売ってんだろ。眠り薬とか、さ」


「……そういうものはお売りしていません」


「嘘つけ。王宮の騎士を眠らせるくらいの、強いやつ。ひと月前に、ここらで売れたって聞いたぜ」


 コレットの背中に冷たいものが走った。


 ひと月前。クロを拾った夜。


「知りません。お帰りください」


「そうはいかねえな」


 男がカウンター越しに、コレットの手首をつかんだ。


 次の瞬間、作業台の上から、黒い影が飛んだ。


 クロだった。


 男の顔に、真正面から飛びかかった。爪を立てて牙をむいて。男が悲鳴を上げてコレットの手首を離した。


「な、なんだこいつ!」


 クロは男の肩を蹴って床に降り立った。コレットの前に立って背中の毛を逆立てた。


 しゃああっ、と、聞いたことのない声で男たちを威嚇した。


 金色の目が怒りで燃えていた。猫の目ではなかった。剣を抜いた騎士の目だった。


 男たちは顔を見合わせた。それから、舌打ちをして店から出ていった。


 扉が閉まると、コレットはその場にへたりこんだ。手首が赤くなっていた。足ががくがく震えていた。


 クロがコレットの膝の上に飛び乗ってきた。


 赤くなった手首をざらざらした舌で、何度も何度も舐めた。


「……ありがとう、クロ」


 コレットはクロを両腕で抱きしめた。


 クロの心臓がどくどくと速く鳴っていた。猫の心臓にしては、ずいぶん大きな音だった。


 ――王宮の騎士を眠らせるくらいの、強いやつ。


 コレットはクロの首の、銀の鎖を見た。剣と、百合の紋章。


 ひと月前の雨の夜。刃物で切られた前足。


 ――まさか。




 次の日、コレットは店を閉めて王宮の門まで行った。


 クロを籠に入れて。


 門番に紋章の札を見せた。近衛騎士団の、どなたかの猫ではないでしょうか、と。


 門番は札を見て顔色を変えた。それから、奥に走っていった。


 しばらくして、背の高い年配の騎士が出てきた。白髪まじりの、厳しい目をした人。近衛騎士団の副団長だと名乗った。


 副団長は籠の中のクロを見た。


 クロが金色の目で副団長を見上げた。


 副団長の顔がみるみるうちにこわばっていった。


「……団長」


 低い声で副団長がつぶやいた。


 コレットはまばたきをした。


「え?」


「この紋章の札は、近衛騎士団の団長だけが持つものだ。そして、団長はひと月前の夜から、行方が知れない」


 副団長は籠の前にしゃがみこんだ。クロの金色の目をまっすぐに見つめた。


「ルーク・クロフォード団長。……あなたですか」


 クロがゆっくりと、一回だけ、うなずいた。


 コレットの手から、籠が落ちそうになった。


 副団長が事情を話してくれた。


 ひと月前、王宮で謀反の企みがあった。宰相の一派が国王の暗殺を計画していた。それに気づいた近衛騎士団長のルーク・クロフォードは、一人で証拠を集めていた。


 ある夜、ルークは宰相の一派に待ち伏せされた。眠り薬を盛られ、呪術師に呪いをかけられた。人の姿を奪われ、猫の姿に変えられた。


「猫の姿のまま、どこかで野垂れ死ぬと思われていたのだろう」


 副団長は眉間に深いしわを寄せて言った。


「呪いを解く方法は、呪いをかけた呪術師を捕らえて解かせるか……」


「か?」


「呪いの古い言い伝えでは獣の姿の者を心から愛し、愛された者が、名を呼んで口づけをすれば解ける、と言われている。だがそれはおとぎ話だ」


 コレットは籠の中のクロを見下ろした。


 クロは副団長の話を聞きながら、籠の隅でじっと固まっていた。金色の目がコレットのほうを見ないようにそらされていた。


 耳の先がぴくぴく動いていた。


 ――着替えのとき、顔をそむけて出ていったのは。


 ――寝台の上に、絶対にのぼってこなかったのは。


 ――毎晩、窓のほうを見て見張りをしていたのは。


 ――わたしが、一人でおばあさんになるのかな、って言った夜、はじめて枕元に来てくれたのは。


 全部、この人が。


 コレットの顔が耳までかあっと熱くなった。




 それから十日、コレットは、副団長に頼まれてクロを家で預かり続けた。


 王宮に置いておけば、宰相の一派に気づかれる。下町の薬草屋のほうが、かえって安全だ、と。


 でもコレットはもう、前と同じようにはクロに接せられなかった。


 着替えのときはクロより先に自分が部屋を出た。夜、寝台に入るとき、「おやすみ」と言うのが、ひどくはずかしかった。


 あの夜に話したこと。薬師になりたかったこと。一人でおばあさんになるのかなって。


 全部、近衛騎士団長に聞かれていた。


「……クロ」


 ある晩、コレットは寝台の上から、床の上のクロに話しかけた。


 クロはまた、寝台にのぼってこなくなっていた。正体がばれてからずっと。


「ルーク様、って呼んだほうがいい?」


 クロの耳がぴくりと動いた。それから、首を横にふった。


「じゃあ、クロのままでいい?」


 クロは少しだけ迷うように尻尾を揺らした。それから、こくりとうなずいた。


 コレットは少しだけ、笑った。


「わたし、あの夜、変なこと、いっぱい言っちゃったね。忘れて」


 クロは首を横にふった。


 強く、何度も。


 コレットの胸がきゅっと鳴った。


 正体がばれてから、コレットとクロのあいだには新しい遊びができた。


 夜、寝台に入る前に、コレットが質問をする。クロはうなずくか、首を横にふるかで答える。


「ルーク様は二十五歳より上?」


 うなずく。


「三十歳より上?」


 首を横にふる。


「二十八?」


 うなずく。


「わたしより、四つも上だ。……わたしの作るスープ、おいしい?」


 クロはぴんと耳を立てて何度もうなずいた。強く、強く。


 コレットは思わず笑った。


「ほんとは、猫に人間の食べ物、あげちゃいけないんだよ。でもルーク様は人間だから、いいよね」


 クロは満足そうに、喉をごろごろ鳴らした。


「……あの夜、わたしの話、全部、聞いてた?」


 クロは少しだけ迷って、それから、ゆっくりとうなずいた。


「いやだった? 知らない女の愚痴、聞かされて」


 クロは首を横にふった。それから、床の上から、寝台の端に飛び乗って、コレットの手の甲に前足をそっと乗せた。


 肉球がやわらかくてあたたかかった。


 コレットはその前足を指先でそっと包んだ。



 十日目の夜。


 副団長から、知らせが来た。宰相の一派が近衛騎士団長の死を発表して、騎士団を解体する準備を始めた、と。明日の朝、国王の前でそれが決まってしまう。


 団長が生きていると証明できなければ、近衛騎士団は宰相の手に落ちる。国王を守る者がいなくなる。


「呪術師はまだ捕まらない」


 副団長は店のカウンターの前で拳を握りしめていた。


「団長が、人の姿で、明日の朝の御前会議に出なければ……」


 副団長が帰ったあと、コレットは作業台の前に座りこんでいた。


 クロが作業台の上に飛び乗ってきた。コレットの前に座って、金色の目でじっとコレットを見た。


「……おとぎ話、なんだよね」


 コレットはぽつりと言った。


「心から愛し、愛された者が、名を呼んで口づけをすれば」


 クロの耳がぴんと立った。


「わたし、下町の薬草屋の娘だよ。近衛騎士団長様に、ひと月、猫として飼われてもらっただけの」


 声が震えた。


「そんなの、心から愛し、愛された者、になるわけ、ないよね」


 クロは何も言わなかった。猫だから。


 ただ、作業台の上を歩いてきて、コレットの手の甲に、自分の額をこつんと押し当てた。


 何度も。何度も。


 コレットの目から、なみだがこぼれた。


 ――ずるい。


 言葉で言えないから、こうやって。


 コレットはクロを両手で抱き上げた。目の高さまで。金色の目がまっすぐにコレットを見ていた。


 五年ぶりに、誰かに「おやすみ」と言えた。五年ぶりに、誰かのぬくもりの横で眠れた。こわい男たちから、守ってもらった。手首を何度も舐めてもらった。


 この一か月で、コレットはもう二度と、一人に戻りたくないと思ってしまった。


「……ルーク様」


 はじめてその名前を呼んだ。


 クロの金色の目が大きく見開かれた。


 コレットは目を閉じた。


 クロの、小さな鼻先に、そっと、自分の唇を押し当てた。


 ふわふわの毛がくすぐったかった。




 腕の中が急に重くなった。


 コレットは目を開けた。


 腕の中に猫はいなかった。


 かわりに、黒い髪の青年が、作業台の上に片膝をついていた。


 背が高い。肩幅が広い。黒い髪が少し長く、額にかかっている。左の前腕に、ふさがったばかりの、まっすぐな傷あと。


 金色の目がすぐ目の前でコレットを見ていた。


 近衛騎士団の、紺の制服を着ていた。ひと月前の夜に、着ていたものなのだろう。首には銀の鎖と、剣と百合の紋章の札。


「……コレット」


 低い声だった。はじめて聞く声。でもなぜか、ずっと前から知っていた気がした。


 コレットは作業台の前で、腰が抜けたようにへたりこんだ。


「ほ、ほんとに……戻った……」


「戻った」


 ルークは作業台から降りてコレットの前に膝をついた。それから、自分の両手を見下ろした。指を開いて、閉じて。


「……ひと月ぶりに指がある」


 コレットは思わず、ふき出した。


 ルークも少しだけ、口の端を上げた。それから、すぐに真顔に戻って、コレットの目をまっすぐに見た。


「おとぎ話は本当だったらしい」


「……」


「心から愛し、愛された者が、名を呼んで口づけをすれば」


 ルークの耳の先が、真っ赤になっていた。猫のときと、同じように。


「僕は君を心から愛してしまったらしい。……ひと月、猫の姿で」


 コレットの顔が燃えるように熱くなった。


「わ、わたしもです、たぶん、その、おとぎ話が本当なら」


「たぶん?」


「……たぶんじゃないです」


 コレットは両手で顔をおおった。


 指のすきまから、ルークが、肩を震わせて笑っているのが見えた。


 その夜、二人は店の作業台をはさんで明け方まで話した。


 コレットはひと月ぶりに人の姿に戻ったルークに、温めなおしたスープを出した。ルークは木の匙でひと口すすって目を閉じた。


「……猫の舌で飲むより、ずっとうまい」


「猫のときもおいしいって、うなずいてくれたじゃないですか」


「猫の舌は、熱いものが分からない。人の舌だと、ちゃんと、生姜が効いているのが分かる」


 コレットはくすっと笑った。それから、ずっと気になっていたことを訊いた。


「ルーク様。三週目に、わたしが薬草の瓶を取り違えたとき、どうして分かったんですか。猫の鼻でも、あれは見分けられないと思うんです」


 ルークは匙を置いた。


「子どものころ、王宮の薬草園でよく遊んでいた。騎士見習いになる前。……薬草園の、若い女の人が、葉の見分け方を教えてくれた。タチジャコウソウと、あの下剤の葉は葉の裏の産毛でしか見分けられない、と」


 コレットの手が止まった。


「その人、髪が栗色で、笑うと、左の頬にだけ、えくぼができた。……君の母上だと、ひと月前の雨の夜、君の顔を見たときに気づいた」


 コレットの目から、なみだが、ぽろっとこぼれた。


 母は若いころ、王宮の薬草園で働いていた。何度も聞いた話だった。でもそこで、小さな男の子に、薬草の見分け方を教えていたなんて聞いたことがなかった。


「だから、あの夜、木箱の陰から、君の手のひらに自分から頭を押しつけた。……この人なら、大丈夫だと思った」


 コレットは作業台の上の、母の形見の乳鉢を見た。何十年も使いこまれて縁が少し欠けている。


 お母さん。


 お母さんが教えた男の子が、お母さんの娘を守ってくれたよ。




 次の朝、近衛騎士団長ルーク・クロフォードは国王の御前会議の大広間の扉を蹴り開けた。


 宰相が玉座の前で、騎士団解体の書状を読み上げているところだった。


 大広間が凍りついた。


 宰相の顔から、血の気が引いていった。


「団長……! 死んだはずでは」


「あいにく、猫の姿で、下町の薬草屋に命を拾われました」


 ルークは副団長から受け取った証拠の書類の束を国王の前に差し出した。宰相の一派の、暗殺の計画書。呪術師への支払いの記録。ルークがひと月前の夜に命がけで集めて、王宮の隠し部屋に残していたものだった。


 宰相はその場で捕らえられた。呪術師も、その日の夕方、王都の外れで見つかった。


 コレットはその一部始終を大広間の隅で、副団長のとなりに立って見ていた。下町の薬草屋の娘が、王宮の大広間にいるなんて。足がずっと震えていた。


 会議が終わると、国王が、コレットを玉座の前に呼んだ。


「そなたが、団長を救った薬草屋の娘か」


「ははい」


「褒美を取らせよう。何が望みだ」


 コレットは床を見つめた。


 望み。


 ――王宮の薬師。推薦状。


 口を開きかけたとき、となりにルークが立った。


「陛下。恐れながら、この者の望みは、わたくしが存じております」


 ルークは懐から、一通の封書を取り出した。近衛騎士団長の紋章の封蝋が押されている。


「王宮薬師の試験への、推薦状です。昨夜、書きました。……猫の手では、書けませんでしたから」


 コレットはルークを見上げた。


 ひと月前の夜。寝台の上で天井を見ながら話した。薬師になりたかったこと。推薦状がいること。下町の娘に書いてくれる貴族なんて、いないこと。


 全部、聞いていてくれた。


 コレットは震える手で封書を受け取った。封蝋の紋章は剣と百合。ひと月前の雨の夜、路地裏の猫の首にぶら下がっていたのと、同じ紋章だった。


 封書は少しだけ、ゆがんでいた。端がほんのわずかに折れていた。


 ゆうべ、人の姿に戻ったばかりの、ひと月ぶりの指で書いたのだ。ペンを握るのにも、まだ慣れていなかったはずなのに。


 コレットは封書を胸に押し当てた。王宮の大広間の、まばゆいシャンデリアの光が、なみだでにじんで、いくつにも分かれて見えた。


 国王が愉快そうに笑った。


「よかろう。それと、もう一つ。団長、そなたの望みは」


 ルークは少しだけ迷うように口を閉じた。


 それから、コレットのほうを向いて、片膝をついた。


 大広間じゅうの貴族たちが、ざわめいた。


「コレット」


 ルークの金色の目が、まっすぐにコレットを見上げていた。


「ひと月、君の家の床で君の寝息を聞いていた。毎晩、君が一人でおばあさんになるのかな、と言った夜のことを思い出していた。……ならせない。君を一人でおばあさんにはさせない」


 コレットの目から、なみだがあふれた。


「僕と、結婚してほしい。薬師の試験に受かっても、落ちても。下町の薬草屋でも王宮でも。……君の作業台の上に、毎晩、僕が座っていてもいいなら」


 大広間がしんと静まり返った。


 コレットはなみだを手の甲でぬぐった。それから、ルークの前にしゃがみこんでその手を取った。


 大きな手だった。左の前腕にまっすぐな傷あと。ひと月前、雨の路地裏でコレットが包帯を巻いた傷。


「……作業台の上はだめです」


 ルークがまばたきをした。


「薬草を刻むところだから。猫の毛が入っちゃう」


 国王が声を上げて笑った。大広間じゅうに笑いが広がった。


 ルークも肩を震わせて笑った。耳の先まで真っ赤だった。


 コレットはその手をぎゅっと握った。


「だから、寝台の上にしてください。……ちゃんと、枕元に」




(完)


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