私を断頭台へ送った旦那様、二度目の婚約式でさようなら
私には夫がいた。
「君を愛することはない」
新婚初夜、そんな言葉を私に吐き捨て、そのまま娼館へ向かった最低の男だ。
婚約期間は十年もあった。
その気があれば、婚約破棄などとっくにできたはずなのに、わざわざ結婚までしておいて私を裏切ったのだ。
どれほど屈辱だったか。どれほど腹立たしかったか。
けれど、済んでしまったことだ。
よほどの事情でもない限り、離縁はできない。
結婚は家同士の契約なのだから。
きっとやむを得ない事情があったのだろう――そう思って、理解しようとした。
私に指一本触れようとしないのも、彼なりの配慮なのかもしれない、と。
皮肉なことに、そのクズは公爵家の跡取りだった。
そして私は、正妻として何としても彼の子を産まねばならなかった。
子のない夫婦に向けられる冷たい視線。
義父母からの圧力。
あの男は、体面を傷つけられるのだけは耐えられない人間だった。
だから結局、考えを変えた。
私を抱くことにしたのだ。
初めて抱かれた夜は最悪だった。
ありとあらゆる娼婦と遊び呆けてきた不潔な男と、由緒ある侯爵家のしきたりを叩き込まれて育った私とでは、何もかも噛み合うはずがない。
私は日に日に衰弱していった。
体じゅうが痛み、苦しいばかりの毎日が続いた。
医師は静養すればよくなると言ったが、あのクズに抱かれてから、私の具合は悪くなる一方だった。
そのせいで、ようやく授かった子さえ守れなかった。
最初で最後の、私の子だったのに……。
「役に立たない女だな」
夫は、子を失ったのは私のせいだとなじった。
そして以前にも増して、臆面もなく放蕩を重ねるようになった。
だが、その放蕩も長くは続かなかった。
彼が新しい恋に目覚めたからだ。
相手は、社交界デビューしたばかりの伯爵令嬢だった。
「息子には愛する女性ができたそうだ」
義父母は、夫の恋を積極的に後押しした。
私がその令嬢に何かするのではないかと、きつく釘を刺してきたほどだ。
またしても屈辱だった。
けれど、もはや矜持を守っている場合ではなかった。
二度と子を授かれない身になっていたから。
あのとき、もし彼が離縁を望んでいたなら、私はためらわずに受け入れていただろう。
何もかもに疲れ果てて、いっそ修道院に入り、失った子を弔いながら静かに生きていきたい――ただ、それだけを願っていたのだから。
なのに、彼が選んだ方法は――
「私の妻は不義を働いていた。他の男の子を宿したのだ」
「そのうえ汚らわしい者どもと交わり、忌まわしい病までうつされている」
私の破滅だった。
あまりにも理不尽で、言葉も出なかった。
よくも私を。
侯爵家の娘として大切に育てられてきた私を、
下卑た噂で踏みにじるなんて!
どうしてそこまでして私を追い出したかったのか。
私が何をしたというのか。
その答えを、私は身をもって思い知った。
私はようやく悟ったのだ。
ずっと体調を崩していた理由を。
我が子を失うしかなかった理由を――
すべては、あのクズにうつされた病のせいだったのだと。
何もかも失ってから気づくなんて、なんて愚かだったのだろう。
あの者たちは、公爵家を出たあとに私の病が表に出れば、真実が広まると恐れたのだ。
公爵家の名誉が傷つくのを恐れて、先手を打って私に汚名を着せようとしたのだ。
裏切られた怒りに震えているあいだにも、私の評判は坂を転げ落ちるように悪化していった。
ついには、不義の末に他人の子を公爵家の跡継ぎに据えようとした悪女として、
夫の浮気を疑って、罪のない娼婦たちを打ち殺した狂女として、
そんな存在にまで仕立て上げられていた。
藁にもすがる思いで実家に助けを求めたけれど、もう手遅れだった。
そして私は、数々の濡れ衣を着せられたまま、むなしく断頭台で命を落とした。
……あのクズのせいで。
冷ややかな視線を、隣に立つクズ――セドリック・ロチェスターへ向けた。
彼は、非の打ちどころのない礼装姿で、私の傍らに立っていた。
今日は、私たちの婚約式。
大勢の前で、私たちがまもなく結婚する間柄だと示す日であり、
「これよりお二人が、それぞれの人生においてただ一人の相手であることを、神に誓い――」
互いが唯一の存在であると、皆の前で宣言する日でもあった。
大司教が光を放つ聖具を掲げ、私とセドリックの純潔を宣言すると、列席した貴族たちから喝采が湧いた。
十数年ぶりに自ら婚約式を執り行い、純潔の誓いを見届けた大司教もまた、満足そうだった。
『近ごろの貴族は乱れていて、嘆かわしい』
『神の教えに背く生き方を続ければ、いつか大きな報いを受けるでしょう』
王室との晩餐の席でも、私生活の乱れた者たちを事あるごとに非難していたほどだ。満足げなのも無理はない。
満足げな面持ちで私とセドリックを見つめる大司教の向こうに、王太子の姿も見えた。
やむを得ず列席できなかった王妃の代理として出席した王太子は、どこか興味深げな表情をしていた。
けれど、次の瞬間、その視線は別の場所へ向けられた。
「その誓いは無効です!」
長く続いていた拍手を切り裂いた声のせいだった。
「片方が純潔ではないのに、どうして真実の誓いなどと言えるのですか!」
悲鳴にも似たその声に、皆の視線が一人の女性へと集まった。
質素な身なりをしていたが、華やかな顔立ちは一目で目を引くほど美しかった。
けれど彼女の叫びは、周囲の嘲笑を買うだけだった。
「こんな場所であんな妄言を吐くとは」
「ベルニエ嬢もロチェスター令息も、身持ちの堅さで知られているでしょうに。いったい何を言っているの?」
「ロチェスター令息の素行を疑うなんて、社交界を知らないにもほどがあるわ」
「では、ベルニエ令嬢の身持ちが悪いとでも?ありえないわ」
「ロチェスター令息は、目の肥えた貴婦人方からも最高の婿候補と評されるほどのお方よ。あれほど品行方正な方はいないわ」
貴族たちの無邪気な声に、私は苦く笑った。
まるで、かつての自分を見ているようで。
最初は私も彼らと同じように思っていた。今思えば、馬鹿みたいな話だけれど。
私の婚約者は完璧で、私は最高の縁談を手にしたのだと信じていた。
「ベルニエ嬢のことではありません。私が申し上げているのは――」
「つまみ出せ」
「やめよ」
堪えかねたロチェスター公爵が女を退場させようと命じたが、それを遮ったのは王太子だった。
「気になるだろう。純潔の誓いを交わした二人のうち、どちらが純潔でないのか」
「ですが、王太子殿下」
「今回の婚約式は、王室としても注目していた件だ。長らく行われてこなかった、規律に則った婚約式だったのだからな」
王太子は同意を求めるように、列席した貴族たちを見回した。
「君たちがこの儀式を望んだからこそ、私も大司教も、これだけの貴族もこの場にいる。ならば、我々を欺いてはいないと示してもらおうではないか」
「あのような女の言葉を真に受けるおつもりですか。どこの誰とも知れぬ者の戯言を……」
「信じてはいない」
「では」
「ただ、余計な噂が立つのを防ぐためだ。このままうやむやにして帰れば、誰もが釈然としないだろう。もし荒唐無稽な作り話なら、この場で首を刎ねれば済む。私が許そう」
王太子の堂々たる宣言に、公爵は顔をしかめたものの、ほどなく頭を下げた。
相手は王太子。
王国の『小さな太陽』とまで呼ばれる存在なのだから。
やがて王太子の視線が、私とセドリックへ向けられた。
不快そうな顔を隠しきれないセドリックを見て、王太子は涼やかに微笑んだ。
王国一の美貌と謳われてもおかしくない、目を奪うような笑みだった
「こうなってしまっては二人も不本意だろうが、少しだけ時間をもらおう。必ずこの場で、君たちの誓いに偽りがないことを証明してみせる」
私たちの返答など最初から求めていないと言わんばかりに、両腕を騎士に押さえられた女を見やった。
「申してみよ」
許しが下りると、彼女はすぐさま騎士の手を振りほどき、王太子の前まで進み出て、深々と額を床にこすりつけた。
「私は王都の娼館にいた者でございます。本日この場で純潔を誓ったお方を、お相手いたしました」
「相手をした、と」
王太子は興味深げに小さく繰り返した。
「それを証明できる者はいるのか」
「……おりません」
「いないのなら、私やここにいる貴族たちが、どうしてお前の言葉を信じられようか」
「私は、あのお方の身体のどこにほくろがあるか、どのような好みをお持ちか、すべて知っております。さらに、あのお方が患っている病のことも」
「病?」
「多くの女と夜を重ねた男がかかる病でございます。女にもうつる病です。その病にかかった女は、子を授かれないか、授かってもすぐに流れてしまいます」
「まあ、なんてこと……」
彼女の言葉が終わるとすぐに、令嬢や貴婦人たちはぞっとしたように身を震わせた。
大半はまだ半信半疑といった様子だったが、先ほどとは違う。
セドリックへ向けられる視線には、じわじわと疑念が滲み始めていた。
それを感じ取ったのだろう。
必死に平静を装っていたセドリックが反論した。
「まったくの虚言です。これ以上聞く必要はありません」
「君も同じ考えかな。ベルニエ嬢」
王太子の問いは、黙って見守っていた私へ向けられた。
私は少し間を置いてから、きっぱりと言った。
「私は、もっと詳しく伺いたく存じます」
セドリックが驚愕の眼差しを私に向けた。
まるで裏切られたとでも言いたげな、衝撃に染まった眼差しだった。
私は彼には目もくれず、まっすぐ王太子だけを見て言葉を続けた。
「これは私といずれ私が授かる子にかかわる話です。将来私が産む子が根も葉もない噂で、公爵家の正統な後継者ではないと疑われるかもしれません」
「エレナ」
「公爵家の名誉のためにも、必ず真実を明らかにすべきです。ですので――」
私は大司教に願い出た。
「お願いがございます、大司教様。もう一度私たちのためにお力をお貸しくださいませ。皆様の前で、改めて私たちの純潔を証明いたします」
「しかし、それは先ほど……」
「彼女の主張が誤りだと示すには、今一度確かめ、皆様の疑いを鎮めるほかありません」
「私は反対です。すでに儀式は終えました。皆の前で私の純潔は証明されました。あの女が嘘をついているだけです」
「でしたら、なおさら問題はありません。もう一度示せば済む話です。ほんのわずかな間に、血が穢れるはずなどありませんもの」
「エレナ……」
「セドリック様。疑いが生まれる前と後では違います。どうかもう一度、皆様に証明なさってください。私と公爵家の名誉のために」
「それなら、少し考える時間をくれ」
「考える時間など、かえって余計な疑いを招くだけです。私は、今すぐ行うべきだと思います」
「どうしても、か?」
「ええ」
私の迷いのない返答に、セドリックの目が揺れた。
だが彼は、やがて観念したように頷いた。
「……わかりました。お二方がそこまで仰るなら」
大司教の許可が下りると、儀式をやり直すための準備がすぐに始まった。
つい先ほどまで行っていた儀式だ。時間はかからない。
互いの血を落とすための聖水と、その血の真実を映す聖具が、大司教と私たちの前に置かれた。
皆が席に着いたのを見届けると、大司教は静かに説明を始めた。
「皆も知るとおり、この聖具は聖水に混ぜた血に穢れがなければ光を放ちます」
つまりこの聖具が、私とセドリックの血が穢れているかどうかを見極めるのだ。
私たちの血に偽りがなければ、先ほどと同じように聖具は光り、真実を示すはずだった。
だから私は、自分の前に運ばれてきた聖水を見るなり、何のためらいもなくナイフを取り、指先に傷をつけた。
皆によく見えるよう、血のにじんだ指先を掲げ、その血を透明な器に満たされた清らかな聖水へ落とした。
私の血が混じった聖水は、大司教が聖具へ注いだ。
すると、聖具は私の血に反応して、淡い光を放った。
続いて、セドリックの番になった。
彼はわずかにためらいを見せながらもナイフを手にした。
そして、そっと自分の手を切ろうとした、その瞬間。
「お待ちください」
私がその動きを止めた。
そして、当然のように提案した。
「私たちの名誉を守るための場ですもの。セドリック様も、皆様にきちんとお手をお見せくださいませ」
「……」
「ベルニエ嬢の言うとおりだ。皆に証明する場なのだからな。しっかり見せてもらおう。君の血に偽りがないことを」
王太子まで私に同意すると、セドリックは裏切られたかのように私を睨んだ。
「私を信じられないのか」
信じられるわけがない。
私は、セドリックが穢れていることを知っていた。
純潔である者の血を使って、偽りの誓いを立てたことも。
手首に他人の血を入れた小袋を仕込み、それを自分の血のように見せかけていたことは、袖口についた血痕を見れば明らかだった。
けれど私は、内心とは裏腹に、微塵も疑っていないような顔で彼に告げた。
「信じているからこそ、はっきりさせたいのです」
「私を信じているのなら、こんなことを言い出すはずがない。君が私を信じられないのなら、いまさら誓いをやり直したところで何の意味もない」
私を責めるように言って、彼はナイフを置いた。
苦く笑うその姿は、まるで濡れ衣を着せられた悲劇の主人公のようだった。
「失われた信頼は、取り戻せない」
「では……私との婚約を破棄なさるのですか」
「そうだ」
「そうですか」
私は彼の断固たる答えに、ゆっくり頷いた。
そして、にっこり笑って言った。
「ええ、婚約は破棄しましょう」
一瞬、セドリックの顔に安堵の色がよぎった。
彼は名残惜しげな表情を作ってみせた。
「残念だ。こんな形で私たちが婚約破棄に至るとは……」
「では、続きを。血をお落としくださいませ」
「……は?」
「私たちの関係はここで終わりですが、この場の皆様は知りたがっていらっしゃいます。セド――いいえ、ロチェスター様が潔白かどうかを」
私の言葉に、セドリックは目を見開いた。
私は平然と言葉を重ねた。
「とりわけ王太子殿下が注目しておられますもの。真実が明らかになれば、誰かが相応の罰を受けることになるのですから。ですから最後まで、きちんと儀式をお済ませくださいませ」
「エレナ!」
「君たちは私の存在を忘れているようだな」
セドリックが私を威圧した瞬間、王太子の声が割って入った。
彼は冷えた眼差しでセドリックを見据えていた。
「セドリック・ロチェスター。私を軽んじていると、そう受け取ってよいのか?」
「……殿下」
「検証は、王室と貴族たちを欺いた罪があるかどうかを見極めるためのものだ。ゆえに君には、誓いを最後まで終える義務がある。聡い君が、それを知らぬはずもあるまい」
「……」
「まさか、誓いを終えられない理由でもあるのかな」
「承知しております。ですが、このような形では――」
「自分で傷をつけられないというのなら、私が手を貸そう。騎士たち、セドリック・ロチェスターを取り押さえよ。私が直々に、彼の手に傷をつける」
王太子の命を受けた騎士たちが、顔面蒼白になったセドリックへ向かった。
それに呼応するように公爵家の騎士たちも動いたが、ベルニエ侯爵家も黙ってはいなかった。
父の命を受けた者たちが、公爵家の騎士の前に立ちはだかった。
両家の騎士が対峙するあいだに、王室の騎士たちはセドリックを取り押さえた。
一触即発の空気の中、王太子は優雅な足取りでセドリックへ歩み寄った。
そして、その手首を掴んだ。
反抗する隙も与えず、鋭い刃先で掌を浅く切った。
鮮血が、ぽたり、ぽたりと落ちる。
その血は、透明な器の聖水に混ざっていった。
王太子がその器を持ち上げた。
「つまらぬことで、私の手を煩わせるとはな」
セドリックを嘲るように見やったあと、彼はその器を私に差し出した。
まるで、私の手で終わらせろとでも言うように。
私はそれを受け取り、聖具の上にそっと傾けた。
聖水が静かに流れ落ちた。
そして――
「光らないな」
聖具は、先ほどのように輝かなかった。
私の血に反応して淡く灯っていた光すら、すうっと消えていく。
その様子を見ていた大司教と貴族たちは、ようやく詰めていた息を吐き出し、顔色を変えた。
偽りが暴かれた婚約式の場は、たちまち騒然となった。
「大司教様」
淡々と呼びかけると、愕然としていた大司教は我に返ったように咳払いをした。
そして、厳かに宣言した。
「……ご覧のとおり、聖具は光りませんでした。よって、この誓いは無効であると宣言いたします」
宣告が下ると、ざわめきが広がった。
セドリックは絶望したように目を閉じたが、すぐさま憎悪に染まった目で私を睨みつけた。
「君が仕組んだことだな?」
「何のことか存じませんわ」
「最初からそのつもりだったんだな! 純潔の誓いを立てようと言い出したのも、全部君が――!」
「言葉を慎んでくださいませ、ロチェスター様」
私は彼ににっこりと微笑みかけると、指から婚約指輪を外し、そのまま床へ落とした。
「もう他人ですもの」
「エレナ!」
「元婚約者様――それでは、ごきげんよう」
この先、平穏な人生など望めるはずもない男に、私は最後の挨拶を告げて、背を向けた。
背後では呪詛めいた怒声が上がり、幾つもの好奇の視線が私へ突き刺さった。
それでも気に留めることなく、私は歩き出した。
その足取りは、重い足枷を外したように軽かった。
これで、終わりだ。
私を断頭台へ送った元夫も、私を地獄へ叩き落とそうとした婚約者も、すべて。
これ以上ないほど、晴れ晴れとした日だった。
◇◇◇
私との婚約破棄のあと、あの忌々しい元婚約者の家には大小さまざまな災難が降りかかった。
まずは、次期公爵の評判が地に落ちたことだ。
清廉で実直だと思われていた男が、実のところは娼館通いにふけり、その身は花柳病に侵されている――そんな話が、またたく間に広まった。
追い打ちをかけるように、さらなる告発も続いた。
先日の純潔の誓いを無事に終えるため、彼は自分と関係のあった娼婦たちを口封じしようとしていたこと。
その中には、彼の子を宿した女までいたこと。
彼女たちは幸い匿名の人物に保護されていたため、命を落とさずに済んだ。
これらの噂がすべて事実であることが判明し、もはや彼に追従する者も、縁談を望む家もいなくなった。
あれほど好きだった娼婦たちにすら、汚い男はお断りだと避けられているらしい。
彼にとっては、これからの人生こそ地獄だろう。
そしてもう一つ、彼らを襲った致命的な問題は、名を伏せた告発者によって公爵家の不正が暴露されたことだった。
資料には、ロチェスター家が長年にわたり、領内の小さな村から得た税収を帳簿に記さず、国へ納めるべき税を着服していた証拠が揃っていた。
王室はこれを重く見て調査に乗り出し、罪が認められた結果、公爵家には厳罰が下った。
爵位を二階級降格。
そして、王都の財産没収。
追われるように王都を去ったからだろうか。
私がかつての公爵邸を再び訪れたとき、そこは記憶の中の景色とはまるで違っていた。
美しく花が咲き誇っていた庭は雑草に覆われ、優雅な佇まいを保っていた邸宅は、割れた窓と壊れた扉を晒していた。
まるで、彼らの没落そのもののように。
私は屋敷から視線を外し、腕いっぱいの鈴蘭を抱えたまま、屋敷の裏手に広がる森へ向かった。
そして、木々に隠された小さな湖の前で足を止めた。
ここは、時が巻き戻る前、子を失ったあと幾度となく訪れた場所だった。
私は抱えていた花を湖畔にそっと置き、穏やかな水面を見つめた。
まるで昨日のことのように、鮮やかな記憶が蘇る。
あの子が私のもとへ来てくれた瞬間。
あの子を失った瞬間。
そして、なぜあの子を失うしかなかったのかを知った瞬間まで。
「もっとせいせいすると思っていたのに。不思議ね、少しも胸が晴れないわ」
きっとこれは、私の選択のせいで二度と会えなくなってしまったあの子への、申し訳なさなのだろう。
もちろん、あの男とやり直す道を選んだところで、あの子が戻ってくることはなかったはずだ。
あの男が患っていたのは、女にうつれば子を宿せなくなる病だったのだから。
それでも、どうしても罪悪感が拭えなくて。
こうして来ずにはいられなかった。
「どうか、幸せになって」
心から、あの子の幸せを願った。
復讐のために縁を断った薄情な母ではなく、優しい両親のもとへ生まれて、いつも幸せそうに笑っていてほしい。
最後にそう祈って、私は湖に背を向けた。
その瞬間、思いがけない人物と目が合った。
王太子だった。
挨拶をしてその場を離れようとしたが、王太子は私の後を追ってきた。
「この屋敷に、まだ何か未練があるのか?」
「この湖が好きでしたので」
「望むなら、君に与えよう。なにしろ、公爵家の不正を暴くのに大きく貢献してくれたのは君だからな」
セドリック・ロチェスターの本性を暴くことも。
ロチェスター家の不正を洗い出し、その証拠を王太子へ渡すことも。
私にとっては、そう難しいことではなかった。
ロチェスター家の女主人として過ごした日々があったのだから。
「お役に立てたのなら何よりです」
「それで、この屋敷は欲しいかい?」
「いいえ」
私はきっぱりと答え、それから彼に尋ね返した。
「ところで、どうしてこちらへ?」
「君を訪ねようと思ったら、こちらへ来たと聞いてね」
「どのようなご用件で私を?」
「さあ。個人的な興味、とでも言っておこうか」
飄々とそんなことを言う王太子に、私は思わずくすりと笑った。
そして、そのまま一足先に歩き出す。
空はどこまでも青く晴れ渡っていた。
まるで新しい未来を祝福するような、素晴らしい午後の始まりだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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