第一話 私の周りの男はダメンズばかりだわ
「娘はやらん!」
父が拳でテーブルを叩いた瞬間、私フローラ・エルンスト公爵令嬢は思った。
……お父様、今すごく楽しそうな顔をしていますね。
相手方のラルシェン・バーネット子爵令息は、目を白黒させている。
私の幼馴染であり、子供の頃からの婚約者であり、ついでに言えば初恋の相手でもある彼は、今この瞬間、まるで道端で突然水をかけられた犬のような顔をしていた。
「エルンスト公爵、それは一体——」
「一度言ってみたかったんだ」
父がほわほわと幸せそうに笑う。
「いやぁ、貴族の父親というのはね、いつかこの台詞を言う機会が来るかもしれないと思って生きているわけだよ。せっかくだから言ってみた。すっきりした」
すっきりした、じゃないですよ。
「お父様」
「なんだ、フローラ」
「婚約破棄になりますよ」
「なるね」
「……よろしいのですか」
「うん。なんか言い訳を聞いていたら腹が立ってきたから、この際すっぱりやってしまおうと思った」
言い訳。
そう、ラルシェンが今日うちに来たのは、婚約の挨拶のためではなかった。
伯爵家の令嬢との間に何やらあったらしく、誠意を持って報告を……という名目だった。
誠意を持って、という言葉がすでに不誠実の極みである。
「フローラ、待ってくれ。俺はきちんと話そうと」
「話すべきことは、もう話し終えたのではありませんか」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「父がああ申しておりますので、婚約はなかったことにいたしましょう。長い間、お世話になりました」
「フローラ、待ってくれ。俺は——」
「おい、早く帰れ」
父がずいと立ち上がって指をさす。
ラルシェンは何か言いたそうに口を開けたまま固まり、しばらくして「……失礼します」と言って部屋を出ていった。
静寂が戻る。
「……お父様」
「なんだ」
「なぜ今まで婚約を継続していたのですか」
「なんとなく」
「なんとなく」
「それに、お前が好きそうだったから」
好きだった。
確かに好きだった。
物心ついた頃から隣にいた、柔らかい茶色の髪の幼馴染。
初めて「将来は俺がフローラを守る」と言ってくれた少年のことを、私はずっとずっと大切に思っていた。
でもそれは、今日で終わった。
終わった、ね。
思いのほか、胸は痛くなかった。ただ少し、ぽかんとした穴が開いたような感覚があった。
「まあいい。お前はまだ二十歳だ。これからどうとでもなる」
どうとでもなる。
その言葉は思いのほか軽やかに私の耳に入って、そのまま胸の穴に落ちていった。
「やっぱりこうなったのね」
入ってきたのは母だった。
しっかり者で、父のうっかりを日々なかったことにしている人である。
父がこの年まで大きな失敗をせず生きてこられたのは、半分以上この人のおかげだとフローラは思っている。
「お母様、聞いていらしたのですか」
「ええ。あなたのお父様が、今日こそあの台詞を言うつもりで朝からそわそわしていたものだから」
「いやぁ、ばれていたか」
「ばれます」
母はひとつため息をつき、それからフローラの肩をそっと撫でた。
「でも、これでよかったのよ。手遅れになる前で」
「……はい」
不思議なことに、涙は出なかった。
ただ、胸の真ん中にぽっかりと穴が開いたような気がした。
その穴の存在をはっきり思い知ったのは、翌日の夜会だった。
母が「気晴らしに行きましょう」と言い出して、侯爵家主催の夜会に連れ出されたのである。
気晴らしの方向性が間違っていると思ったが、母は「家にいても暗くなるだけよ」という人なので、反論の余地がなかった。
会場に入ってまだ十分も経っていないうちに、私はそれを見た。
ラルシェンが、女性を連れて入ってきた。
——薄紫色のドレス。栗色の巻き髪。
にこにこと、実に幸せそうな顔の伯爵令嬢。
周囲がざわつく。
昨日婚約破棄になったばかりのエルンスト公爵家の令嬢が、元婚約者が別の女性を連れてくる夜会に来ている。
これは珍しいものを見た、という空気が会場に満ちていくのがわかった。
「フローラ……」
「大丈夫ですよ、お母様」
母が心配そうに私の腕に触れる。
私は言った。そしてそれは、本当のことだった。
驚くほど大丈夫だった。
ラルシェンと目が合うと、彼はばつが悪そうに目を逸らす。
伯爵令嬢は私に気づいているのかいないのか、楽しそうに笑っている。
ああ、そうか。
私はその瞬間、ようやく理解した。
昨日の彼の「誠意を持って報告を」という言葉。
その言葉の重さ。ただの浮気の告白などではなく、すでに彼の心は動いていたのだ。
おそらくずっと前から。
私は十何年も、もう動いていない心を守っていたわけね。
「お母様、少し外の空気を吸ってきます」
私は笑顔で言って、会場の外に出た。
夜風が頬に当たって、美しい星を見上げると、思ったより気持ちよかった。
「……私の周りの男はダメンズばかりだわ」
誰もいない廊下で、私はぽつりと言った。
父はテーブルを叩きながら「娘はやらん」と言うし、婚約者は浮気してるし。
「もうやだ。しばらく男はいらない」
その夜私は、令嬢らしからぬ固い決意を胸に夜空を見上げた。
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