第九夜 高い塀の家5
一真の手からフッ……と暖かな気配が消えた。
見上げるとその目は蒼馬のそれに戻っている。
菖蒲が慌ててその手を離すと蒼馬はクスクス笑って言った。
「連れないなあ。まあじっくり焦らずね……」
蒼馬は異形の亡骸を踏み越えて再び奥の戸口に向かった。
向こう側の見えないモザイクガラスをすり抜けて、善からぬ気配が漏れ出す扉の前に立ち、蒼馬は菖蒲を振り返る。
「さあ。ヒツジさんの仕事だよ? この扉を開けてほしい」
「え……?」
菖蒲は想定外の言葉に戸惑いつつも、亡骸を避けて蒼馬の方に向かう。
「実はね、今までならこれ以上奥には進めないことがほとんどだったんだ。でも運よく借金まみれの君を見つけて長らく保たれていた均衡が崩れた。これからは、日常の扉をこじ開けることが出来る……」
「どういう意味ですか……?」
「ふふ……」
蒼馬は妖しい微笑を浮かべて戸を押した。
戸の向こうには何の変哲もない無人のダイニングキッチンが広がっている。
「見ての通りさ。安藤とその妻はもうここにはいない。彼らは《《奇怪領域》》に逃げ込んだ」
「奇怪領域……?」
狂気じみた笑みを浮かべて蒼馬が頷く。
「そう。常世と幽世の狭間。奇怪領域。超常の悪魔とその契約者たちの応接室。神が地獄に封印した悪魔たちは穢れた叡智と秘密の抜け穴を使って奇怪領域を生み出した。そこに招かれた人間は人知を超えた力と権力を得る代わりに、彼らに生贄を捧げ続けている」
「信じられ……」
思わず口にした菖蒲は、先ほどの亡骸を思い出し残りの言葉に詰まった。
「そう。信じるも信じないもないんだよ。それは確かに存在し、この世界を動かしている。酸素や電波と同じように、知覚していないだけ。愚かなことに人はその上で与えられた平穏を謳歌している。飼い殺しにされていることにも気づかずにね」
「でも……わたしは奇怪領域なんて行ったこともないし……扉を開ける力なんて……」
「当然だよ。ヒツジさんは今まで日常の檻の中で生きてきたんだから。でもここにある扉はその檻の出口だよ? 君の不幸を呼び寄せる力は確実に地獄の門を開いてくれる」
菖蒲は息をするのも忘れてドアノブを見つめた。
ドアノブに施された獅子の彫刻は、まるで生き物のように鬣を靡かせ目を光らせる。
思わずあと退ろうとした時、背中に蒼馬がぶつかった。
蒼馬は残酷な笑みを浮かべて耳元に顔を寄せると「さあ。仮初の日常にお別れを……ヒツジさん、君はもう引き返せない」そう、そっと囁いた。
ピンポンパンポーン……
頭の中で古ぼけたアナウンスが鳴り響く。
菖蒲は震える手をドアノブにかけた。
触れた瞬間に、カチャ……と軽い音を立てて、扉が開く。
それと同時に声が聞こえた。
「おかえりなさいませ……不吉の王の花嫁」
扉の向こうには煤けた赤い空と、どの遊具も錆びだらけになって打ち捨てられた、廃墟のような遊園地が広がっていた。




