第七夜 高い塀の家3
落ち着いた雰囲気の家具が並ぶリビングには妻と思しき女性もいた。
主人よりいくらか若く見えるその女性は、菖蒲を見るなり顔をしかめる。
うう……視線が痛い……
「自己紹介がまだでしたね。私は安藤保夫。こっちは妻の澄香です」
「どうも……」と女はつぶやき、盆に乗せたコーヒーカップを机に並べた。
その所作の端々に明確な不信感を滲ませて。
それなのに蒼馬ときたらどこ吹く風で、澄香にもコーヒーにも目もくれず椅子に座るなり足を組んで言った。
「存じ上げております。お二人が敬虔なクリスチャンでWHOに勤務なさっていたことも」
WHOの言葉を聞いて菖蒲は男の穏やかな振る舞いに納得する。
しかし安藤の目は大きく見開かれていた。
それでも男はすぐにもとの穏やかな表情に戻って静かに笑う。
「ははは。昔の話ですが、あなたともそのあたりでお会いしたことがありましたかな? 近頃物忘れが激しくなって。まったくお恥ずかしい」
「いいえ。会ったことはありませんし、今後会うこともないでしょう。こちらはただ、車をあるべきところにお返しするのが仕事ですので」
「ああ……あの車ね。でもどうでしょう……? 随分前に盗まれたんです。今頃になって同じ車が返ってくるとは思えません。別の方の車……ということはありませんか?」
「いいえ。間違いなくあなたの車です。あなたがお仕事に使っておられた車で、エンジンのシリアルナンバーも、車体の傷の位置も、何もかもぴったり同じものです」
その言葉で部屋の空気が一気に冷えたものに変わった。
先ほどまでのにこやかな顔は変わらない。
それでも目の奥には蒼馬に向けた悪意が音もなく渦巻いている。
「誰の差し金か知らないが……お若い方、場所と言葉には気を付けた方がいい。仮にここが外ならば、そのいけ好かない言葉遣いも許容されるかもしれないが……ここは、私の、家だ……!」
「脅しか何かですか? ちっとも恐ろしくないし、ウィットにも富まない……《《人身売買の第一線》》で活躍したブローカーの見る影もない、実に陳腐な物言いで残念です」
「図に乗るな若造……!」
そう言って安藤が手を叩くと、戸の向こうから数人の男が姿を現した。
見るからに日向の人間とは違う、淀んだ眼をした中東系の男達の登場に菖蒲は息を呑む。
「そ、蒼馬さん……⁉」
「ヒツジさん。少しでも彼を穏やで立派な人だと思ったなら、反省してね? あとでお仕置きだから」
「えぇ……⁉」
思わず素っ頓狂な声を出した菖蒲を見て蒼馬はクスクスと笑う。
男たちが手にナイフを携えてジリジリとにじり寄って来ているのにもかかわらずだ。
「男の方はバラシて捨てろ。女は傷つけるな。お仕置きが好きらしいからな」
安藤は冷酷な笑みを口元に浮かべて妻と二人、奥の部屋へと去っていった。
蒼馬は涼しい顔で男たちを観察する。
それに引き換え菖蒲はじたばたとたたらを踏んで逃げ場を探しながら叫んだ。
「蒼馬さん……! わたしはどうしたら⁉」
「ヒツジさんの仕事はまだ先だよ。見物しているといい」
「えぇ……⁉け、見物って……」
その時、どこからともなく低い声がして、部屋の中に木霊した。
「おい蒼馬……お楽しみの時間か?」
「クスクス……兄さんって本当に好きだよねえ……」
「うるせえ。萎えた。お前にやる」
「ありがとうとか言わないよ?」
「期待してねえよ」
不意に男の一人が背後から蒼馬に襲い掛かる。
しかし蒼馬はそちらを見もせずに姿勢を低くし、男をそのまますくいあげる様にして地面に叩きつけた。
流れる様に男の喉を膝で踏みつけ、ナイフを奪ってその切っ先に人差し指を当てる。
「いいナイフだ……美しい」
その声が、表情が、菖蒲の背筋を凍らせた。
咄嗟に「ダメ」と叫ぶよりも早く、蒼馬は床に押さえつけていた男の首をナイフでなぞっていた。
蒼馬に返り血は付いていない。
代わりに床が血だまりへと変貌し、あたりには鉄の臭いが立ち込めた。
「さあ? 次はどちらが踊ってくださいますか?」
白銀の髪を優雅に靡かせて、血に染まったナイフを振るう蒼馬の姿は、菖蒲の目に鮮烈に焼き付き、今まで歩んできた日常を一瞬で灰にしてしまった。
とんでもないことになった……
菖蒲は震えることも忘れてそう思った。
ピンポンパンポーン♪
チャイムが頭の中で鳴り響き、明るい声がそれに続く。
『ようこそ♪ 暗闇の世界に♪ 素晴らしい不幸体験を満喫いたしましょう♪』




