第二夜 羊と山羊
二つ目のおにぎりは包みのセロファンが不良で見事に海苔が真っ二つに裂けた。
それを横目で見ていた男が憐れみの声を出す。
「まあ。生きとったらええこともあるわ……」
「そうですよね……」
何とも言えない気まずい沈黙が車内を満たす。
その沈黙を破ったのは、意外なことに菖蒲の方だった。
「あの……こんな山奥にある風俗店ってことは、やっぱり危ないお店なんでしょうか……?」
「ああん?」
男の顔が険しくなったのを見て、菖蒲は慌てて取り繕った。
「ごめんなさい変なこと聞いて……秘密俱楽部みたいな変態の集まりですよね? 当然ですよね……自分がどんな目に合うか、今のうちに覚悟を決めておこうと思って……あ、でも痛いのとかは慣れっこなんで大丈夫です! 子どものころは、しょっちゅう上から物とか降ってきて、頭が鍛えられてるっていうか……あ、でも鞭で頭は打たないか……」
「すまんけど、さっきから何言うとんのや? お嬢ちゃんの性癖かなんかか?」
「へ?」
「そういうんが好みなんかいな? まあ見たとこマゾっぽいし、いけんこともないやろうけど……お嬢ちゃんが今から行くんはそういうとこちゃいまっせ」
「じゃあ、どこに……?」
「お屋敷……」
男はそれだけ言って再び口を閉ざしてしまった。
ああ……個人の変態に売られたんだ……
そんな財力の人間がまともな性癖なわけがない……
あんなことやこんなこと……逃げられないようにまさか手足を……?
「へっ……へへ……」
焦点の定まらない目で窓の外を見つめながら自嘲する菖蒲を、男は引き攣った顔で盗み見た。
「今までぎょうさん回収の仕事してきたけど、お嬢ちゃんみたいなんは初めて会うたわ……」
「恐れ入ります……」
「褒めてへんで……憐れんどんのや……」
その時曲がりくねった山道が、突然開けた場所に出た。
まっすぐに伸びた道の奥に、バンパイア城を思わせる洋館が聳え立っている。
「ここが八木家のお屋敷や。今日からお嬢ちゃんはここに住み込みで働いてもらう。衣食住は用意されとる代わりに給料は返済終わるまで全額こっちで差し引かせてもらうさかい」
菖蒲が助手席で固まっていると、男は呆れた顔で続けて言った。
「何ぼさっとしてんの? はよ車降りて行きや⁉」
「え……? 紹介とかは……?」
「こんなとこにあんた以外の客なんか来るかいな! 向こうの指名やねんから行ったらあんたってわかるわ!」
「向こうの指名……」
どうやらこちらの素性は筒抜けらしい。
分からないことだらけではあるが、こうなったら腹をくくるしかない。
菖蒲は車を降りて屋敷を見上げた。
薄闇の中に浮かび上がるガーゴイルや、ロダンの地獄門を思わせる彫刻があしらわれた洋館は、不気味以外の何物でもない。
「あの……おじさん、おにぎりありがとうございました……」
菖蒲が思い出したように振り返って伝えると、男は驚いた顔で言う。
「回収してきた商品にお礼言われたんも初めてや。それとわいはおじさんちゃう。亜門や。しっかり稼ぎや」
そう言って亜門は車を発進させると、少し離れた場所で停車してこちらを窺っていた。
どうやら入るのを見届けるところまでが仕事らしい。
菖蒲が覚悟を決めて一歩踏み出した瞬間、不快な感触が足の裏と鼻腔を刺激する。
終わった……
足の下では野生動物の糞が潰れている。
何とか靴底を草になすりつけて取ろうとしたが、強烈な臭いが取れる様子はなかった。
初対面でうんちの臭いがする女。
終わった……確実に終わった……
背後で亜門がイラついている空気を感じ、菖蒲はそれ以上策を講じることも出来ずに屋敷の門をくぐり敷地へと足を踏み入れた。
塀の向こうには綺麗に刈り込まれたトピアリーが並び、小さな大理石の噴水まである。
それを横目で見ながら石畳の玄関アプローチを進み重厚な木の扉の前まで来ると、カメラ付きのインターホンが目に留まった。
ボタンを押すが音が鳴らない。
不安になってもう一度ボタンを押そうとした時、インターホンから声がした。
「どうぞ。聞こえているよ」
想像だにしなかった若くて物静かな声だった。
菖蒲はごくりと息を呑み、そっと玄関の戸に手をかけた。
しかしいくら引いても扉はびくともしない。
「あの……鍵がかかってるみたいで……」
困り果ててインターホンに声をかけると、クスクスと笑う声が聞こえた後に屋敷の主の声がした。
「逆だね」
「え……?」
「押して開ける」
言われた通りに戸を押すと、扉は何の抵抗もなくするりと開き、菖蒲を招き入れた。
気絶しそうなほど恥ずかしい。
うんちの臭い間抜けな不幸女。
それがを待ち受ける運命なんて悲惨なものに決まっている。
それでも俯いてばかりはいられず顔を上げた菖蒲の目に飛び込んできたのは、見たこともないほど洗練されたエントランスだった。
靴を脱ぐ場所がないか慌てて探すも、どうやら土足で進むものらしい。
余計に靴の裏のブツが気にかかる。
それでも進むしかなく、なるべく体重をかけないように奥に進むと、大きな階段に突き当たった。
「よく来たね。ヒツジさん」
上から聞こえた声にハッとして見上げると、そこには柔和な笑みを浮かべた銀縁メガネの青年が立っていた。
雪の様に白く輝く髪と、漆黒の目が、どこかシマエナガを思わせる美男子。
変態老人の玩具にされることを覚悟していた菖蒲はその姿に思わず気が抜けてしまう。
「あの……あなたが……」
「うん。今日から君の雇い主になる八木蒼馬です」
「蒼馬さん……」
その時どこからか蒼馬の穏やかな声とは異なる荒々しい声が聞こえてきた。
「おい蒼馬、なんか臭わねえか? おい女。お前まさか……」
ぎくりと飛び上がりそうになりながらも、そっと足を引き、菖蒲はあたりを見回した。
しかしどこにも人影は見当たらない。
キョロキョロと挙動不審な菖蒲を見ながら、蒼馬はクスクスと笑って言った。
「兄さん、彼女が驚いてるだろ?」
「ふん……知るかよ。だいたい雇ったからには隠すつもりもねえ。にしてもトロそうな女だな……ほんとに大丈夫なのか?」
「それは問題ない。彼女がいればほぼ間違いなくあちら側は食い付くだろうから……」
やはりもう一人の声の主は見当たらない。
菖蒲が困惑していると、蒼馬はゆっくりと階段を下りながら菖蒲の方を見て言った。
「ヒツジさん。紹介するよ。僕の兄だ」
蒼馬はエレガントな動作で銀縁メガネに手をかけた。
蒼馬が眼鏡を折りたたんで胸ポケットに仕舞うと同時に、菖蒲は異変に気が付いた。
蒼馬の雪のような白髪が、根元の方から黒く変わっていく。
夜の天鷲絨のような艶やかな漆黒。
そしてシマエナガのような優しい瞳は、狼を思わせる紅く鋭いものに変わった。
体格までもが一回りがっしりとしたものに変わった気がする。
「俺が現八木家当主、八木一真だ。お前の仕事は言ってみれば餌だ。俺たちが元に戻るための生贄。確かにお前からはバカみたいな不幸の臭いがするな」
「餌……生贄……?」
先ほどまで感じていた安堵がその言葉で儚くも砕け散る。
終わった……何かの餌にされて殺されるんだ……
「へへ……へへへ……」
菖蒲が思わず白目を剥きながら笑っていると、一真の髪がスッ……と白に戻り蒼馬が口を開いた。
「兄さん駄目だよ怖がらせちゃ。彼女気絶しそうじゃないか? ヒツジさん。なにも本当に生贄にするわけじゃない。君には僕らの縁を切る手助けをしてもらいたいんだ」
そう言って菖蒲をみつめる蒼馬は底冷えするほど美しい、妖艶な笑みを浮かべていた。
菖蒲がその危険な美しさに思わず呑み込まれそうになっていると、突然蒼馬の表情が険しくなった。
眉間に皺を寄せて鼻を動かすとつぶやく様に蒼馬は菖蒲に言う。
「ヒツジさん……靴履き替えよっか……」
バレた……終わった……
こうして羊と山羊は出会い、それと同時に奇怪な運命の歯車が音もなく回り始めた。




