第十六夜 高い塀の家 ⇆ 遊園血7
ばくん……ばくん……と心臓が早鐘を打つ。
うまく息ができない。
世界がグルグルする。
足元に広がる血溜まりが、やがて赤い海に変わり、そこに浮かぶ《《真っ白な腕》》を見つけた時、菖蒲は思わず悲鳴を上げて両手を振り乱した。
「おい……!」
その時不意に、後ろから抱き留められ、菖蒲の意識が現実に帰ってくる。
「か、一真さん……無事だったんですね……?」
「ふん……俺の心配より自分の心配をしろ……大丈夫か……?」
菖蒲は心臓の辺りをぎゅっと握りしめる。
そのせいで安っぽいメイド服は大きく伸びて、ふくよかな胸の谷間が露わになった。
「おい……こぼれかけてるぞ……」
「ふぇ⁉」
菖蒲は慌てて手で胸元を覆い一真を赤い顔で睨みつけた。
「み、見ないでください! エッチ!」
「な・ん・だ・とぉ……?」
一真が青筋を立てて震えた。
それを見た蒼馬がクスクスと笑う。
菖蒲は立ち上がり、微笑む蒼馬に目をやった。
今まで感じていた得体の知れない恐怖の本質が分かった気がする。
この人は……
「蒼馬! あんまり無茶して玩具を壊すんじゃねえぞ……? 扉が開かねえと面倒なことになるって分かってんだろ?」
菖蒲の思考は一真の言葉と共に赤錆び色の風にさらわれていった。
「さあ。行こうか? ご所望のコーヒーカップだよ」
蒼馬は恭しく手を差し出し菖蒲をカップの方へ誘った。
菖蒲はごくりと唾を呑みこみ、遊具の方に視線を向ける。
火花を散らしながら明滅する照明の下では、動かぬコーヒーカップが乗り込まれる時を待っていた。
チカチカと火花の閃光に照らされコーヒーカップが一瞬の影絵を作り出す。
浮かび上がる様々な悪魔のシルエットが菖蒲の足を遅らせた。
鈍った足がとうとう止まったその時、背中に一真がぶつかり言う。
「止まるな。立ち止まった奴から終わっていく。それはここでも現世でも変わらねえ。終わりにしたくないなら、覚えとけよ」
菖蒲は目を見開いて一真の方を振り返った。
うずくまって泣いていても事態は好転しない。
それは不幸から学んだ絶対の真理として菖蒲の中に居座っていた。
それと同じことを、この人は言う。
目を丸くする菖蒲を見下ろしながら、一真はまるで得体の知れない生物でも見つけたような様子で口を開いた。
「なんだよ? また文句でも言うつもりか?」
「いいえ! お礼を言おうと思って。おかげで正気に戻りました」
「はあ?」
「わたしの絶対のルールなんです。うずくまって泣いていても、事態は好転しない……だから、前を見て進まないと……!」
菖蒲は両手で顔を叩くと、前を行く蒼馬を追って駆け出した。
背後に菖蒲の駆けてくる気配を感じながら、笑みを浮かべる蒼馬の顔は暗い影に覆われている。
それがどんな表情だったのか、知る者はまだ誰もいない。




