8話 正しい手順
「なるほどね」
八神は静かに頷いた。
その仕草はあまりにも自然で、
まるで最初から全部知っていたかのようだった。
透はここ最近の出来事を、最初から最後まで話した。
途中で言葉が詰まり、何度も息を吸い直した。
説明できないことを説明しようとするたび、喉が擦れ、胸が痛んだ。
小一時間は経っていただろう。
けれど、不思議と疲労はなかった。
むしろ、ずっと息を止めていたのが、ようやく呼吸できたような感覚だった。
喫茶エイトの店内は静かだった。
壁掛け時計の秒針の音と、どこかで氷が溶ける小さな音だけが聞こえる。
カップの中のコーヒーは、とっくに冷めている。
「辛かったね。よく頑張った」
その一言で、目の奥が滲んだ。
透は誤魔化すように視線を落とす。
テーブルの木目が滲んで見えた。
そうだ。辛かった。
どうしようもなく。
誰かに聞いてほしかった。
正しいかどうかなんてどうでもよかった。
ただ、ここにいることを認めてほしかった。
八神の視線は、どこまでも穏やかだった。
母親みたいな慈愛。
でもどこか、底の見えない深さがある。
安心するような。
それでいて、近づきすぎてはいけない気もする。
この人は“味方”というより、
踏み込んではいけない人だと、直感が告げる。
「それで……“正しい手順”というのは?」
透の声は、縋るようだった。
八神は少し首を傾ける。
「教えてあげてもいい。でも、難しいよ」
「難しいってことは……できるんですよね。今の状況、変えられるんですよね?」
透の声が震える。
その震えは恐怖だけじゃない。
希望に縋る人間の震えだった。
八神は微笑んだ。
その瞬間、透の内臓がきゅっと縮んだ気がした。
優しい笑みなのに、
その奥に“覚悟を測る何か”がある。
子どもをなだめる母の顔ではない。
崖の前に立たせる人の顔だ。
「変えられるよ。前と同じには戻らないかもしれないけどね」
透の喉が鳴る。
「ただね。状況を変えるっていうのは、今の安心を手放すことでもある」
微笑みが消える。
店の空気が、ほんの少し冷える。
さっきまで温かかった店内が、
急に“現実の温度”を取り戻した気がした。
「朝倉くんは、“正しい手順”を踏めば、もっと苦しい立場に立つかもしれない。それでもやる?」
逃げ道は、提示されない。
助けるとも言わない。
代わりにやるとも言わない。
ただ、選ばせる。
透は姿勢を正した。
背筋がわずかに震える。
でも、目は逸らさない。
「……やります」
八神はゆっくり頷いた。
「わかった」
そして、声の調子が変わる。
柔らかさの奥に、説明者の冷静さが混ざる。
「まず、今の君の状態を話そう」
透は無意識に息を止めた。
「君はね。“狐憑き”だよ」
やっぱり。
あの影。
あの気配。
あの夢。
全部、繋がる。
「視界の端に見える影は、狐の怪異」
「じゃあ……払えばいいんですか?」
八神は、小さくため息をついた。
「単純だったら、ここまでひどくならない」
透の心臓が跳ねる。
「狐は、そこまで悪いことしてないんだよ」
「……え?」
思考が止まる。
「怪異っていうのはね。人間の現実とくっついて動くの。悪意にも、善意にも、強い感情に寄ってくる」
「医学では精神症状。社会では人間関係の歪み。そう説明されることが多い。でもね——」
八神はカップの縁を指でなぞる。
カップがわずかに鳴る。
「“いる”ものは、いるんだよ」
その言葉は、妙に現実味があった。
言い切りではない。
否定を許さない、静かな確信。
「朝倉くんの場合、現実側の出来事がまずあって、そこに怪異が絡んでる。だから片方だけ解決しても、止まらない」
透の頭が混乱する。
現実側?
急にみんなが離れた理由があるのか?
「それにね」
八神の目が少し細くなる。
「彼——狐は、いい子だよ」
余計に分からなくなる。
俺を消そうとしている存在が、いい子?
透の声は、ほとんど囁きだった。
「……どうすればいいんですか」
八神は指を二本立てた。
「やることは二つ」




