7話 崩壊
歪みは、さらに加速していった。
透が授業で席につくと、その周囲だけが空くようになった。
最初は偶然だと思った。
隣の席に座ろうとした学生が、友人を見つけて移動した。
後ろの席に座った人が、すぐに前へ移った。
そんなこと、いくらでもある。
そう思おうとした。
けれど。
三回、四回、五回と続いた頃には
偶然という言葉が薄くなっていった。
人気の講義でも同じだった。
教室の真ん中に座っているはずなのに、
自分の周囲だけ、半径一メートルの円ができる。
空白。
まるで、そこだけが“避けるべき場所”みたいに。
ノートを取る手が、少し震えるようになった。
廊下を歩けば、肩をぶつけられることが増えた。
乱暴な学生ではない。
ごく普通の人間が、ぶつかった瞬間にようやく気づいた顔をする。
「あ、すみません」
軽い声。軽い会釈。
でもその目は、透を見ていない。
視線が合わない。
焦点が、透を通り抜けて奥の壁を見ている。
まるで——
そこに“人がいなかった”かのように。
外を歩くのが怖くなった。
誰かに見られている感覚はない。
むしろ逆だ。
誰にも見られていない感覚。
それが一番、怖かった。
自分の足音だけが、やけに大きい。
「……俺、いるよな」
誰に言うでもなく呟いた声が
やけに遠く感じた。
衝動のまま、高校の頃の親友に電話をかけた。
呼び出し音が、やけに長く感じる。
やっと繋がった。
「もしもし?」
聞き慣れた声のはずだった。
それなのに、距離がある。
「俺だよ。透」
言葉を選ばず出たのは、その名前だけだった。
沈黙。
「……ごめん。誰だっけ?」
その一言で、世界の色が薄くなった。
血の気が引く。
指先が冷える。
「いや、だから透だって」
「透……? 悪い、思い出せない」
悪意はない声だった。
ただ、事実を述べているだけの声。
透は、通話を切った。
理由もなく。
これ以上聞いていたら、
“何かが決定してしまう”気がしたから。
全身が震える。
呼吸が浅い。肺がうまく膨らまない。
そのとき、視界の端を黒い影が横切った。
細い。速い。低い。
足元を滑るように移動する。
振り向くと何もいない。
「……お前なのか」
声が出たことに、自分で驚いた。
「俺が悪かったのか?」
答えはない。
ただ、背中の奥に
冷たい気配が残る。
透は、空を見上げた。
「やめてくれ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
通行人が横を通る。
誰も透を見ない。
その姿は、傍から見れば異様だっただろう。
けれど今、透の世界に“透を認識する他人”はいない。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。
まだ、自分の中に
「これはおかしい」と判断する部分が残っている。
その冷静さが、逆に恐怖をはっきりさせた。
ピロン。
音が、世界に戻る合図みたいに鳴った。
スマホ。
『明日ランチ行かない?』
後藤からだった。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
救われた、と思った。
まだ繋がっている人がいる。
まだ、自分を認識してくれる人がいる。
話を聞いてもらおう。
この状況を。
この怖さを。
誰でもいい。
現実に引き止めてくれるなら。
透は、その小さな安心に縋るように眠りについた。
「明日は大丈夫だ」
「明日は、きっと戻る」
何度も繰り返しながら。
翌朝。
瞼の裏を、影が横切った気がした。
目を開ける。
光が薄い。音が遠い。
何かを忘れている。
とても大事なことを。
ベッドに座り、しばらく考える。
胸の奥が、空洞みたいに冷たい。
そして、ようやく口が動いた。
「俺の名前……なんだっけ」




