2話 変なこと
「最近身の回りで変なこと起こってない? 朝倉透くん」
背筋が凍った。
カップを持つ指が止まる。湯気だけが、ゆらりと揺れている。
「……え。なんで……?」
表情筋が固まり、口がうまく動かない。
会ったこともない。名前を教えた覚えもない。
そもそも、こんな人を忘れる方が難しい。
「まあ、いいじゃない」
店主——八神は、何でもないことみたいに言った。
「それで。最近、変なこと起きてない?」
起きている。
昨日、気づいたらグループLINEから抜けていた。
押した覚えはない。
でも——今、それはどうでもいい。
「いや……いやいや、なんでもよくないですよ!
なんで僕の名前を知ってるんですか!?」
「う〜ん」
八神がカウンター越しに身を乗り出し、近づいてくる。
透は反射的に息を止めた。
「ひみつ」
微笑みながら囁かれる。
花の香りみたいな匂いが鼻腔をくすぐった。
なぜ魅力的な人は、こうもいい匂いがするのか。
全身の温度が数度上がったような心持ちで、恐怖が少しだけ溶ける。
「そうだね。詳しくは話せないけど……ある筋から聞いたんだよ」
八神は目を細める。
「君の身の回りで起きてる『変なこと』と関係のあるところからね」
体が硬直する。
思考だけが加速していく。
なぜ名前を知っている。
ある筋ってなんだ。
今、自分に起こっていることを、なんで知ってる。
——この人は何者なんだ。
「ごめんね。少し性急だった」
八神はふっと息を吐き、言葉を改める。
「私は八神玲。喫茶エイトの店長をしてる」
名乗られても、頭の中は整理できなかった。
「そしてこの店ではね。『変なこと』とよく出会うんだ」
なんだそれ。意味がわからない。
そういうパワースポットみたいな場所なのか?
頭がぐちゃぐちゃだ。
ねっとりした嫌な汗が、首筋から背中へ落ちていく。
気味が悪い。出よう。
透は席を立とうとした。
「朝倉透くん」
名前を呼ばれて、動きが止まる。
「もしその『変なこと』を解決できるとしたら、どうする?」
腰を浮かせた中途半端な姿勢のまま、透は固まった。
「……解決。解決できるんですか?」
「できるよ」
八神は微笑んだまま言う。
「君が……正しい手順を踏めばね」
透はどこか諦めたように、どかっと座り直した。
この一か月、藁にもすがる思いで解決策を探していた。
自分が『消えて』いく。
こんなに恐ろしいことはない。
この苦しみから解放されるなら、悪魔の手でも取るつもりだった。
……もっとも、悪魔よりは、怪しくとも綺麗な女性のほうがまだマシだろう。
「聞かせてくれるかい?」
八神は静かに言った。
「君の身の回りに起きていることを」
透は姿勢を正し、記憶を辿る。
「……変だなと思ったのは、少し前からです」




