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喫茶エイト  作者: 西園寺ゴリラ
第1章 狐
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1話 月曜日の朝

めっちゃ趣味で書いた話です。

朝倉透は歩いていた。

地面のアスファルトのひびを、一つずつ確かめるように。


朝日が、瞼を透過してくる。

まぶしい。

目を細めても、光がまぶたの裏に残って消えない。


笑い声が聞こえて顔を上げる。

制服の女子高生が肩を寄せ合って笑い、すれ違う男子学生がイヤホン越しに口笛を吹く。

ランニング中の紳士が、軽い呼吸で追い抜いていった。

スポーツウェアの擦れる音と、一定の靴音。


この街は、こんなにもちゃんと動いているのに。


自分と世界の間に、薄い膜がある。

そんな感じがした。

見えているのに触れられない。

声は届くのに混ざれない。


「……だる〜」


ふと言葉が漏れた。

声にしたつもりはなかった。

自分がつぶやいたのだと、遅れて気づく。


気が重い。

どうせ今日も『いない人』のように扱われるのだ。


さぼろっかな。


そんな考えが浮かんでくること自体が、珍しかった。

透は真面目だった。

少なくとも、昨日まではそういう人間だった。


毎日講義には遅れずに通い、逐一ノートを取り、家に帰れば予習復習を欠かさない。

これが当たり前のルール。そういう毎日が続いていく。


……はずだった。


足が、いつもの通学路から少しずつ逸れていく。

逸れたことに気づいているのに、止められない。

怖いくせに、少しだけ気持ちよかった。


スマホを取り出して時間を見る。


8時8分。


今から急げば、最初の講義には間に合うだろう。

間に合う。

間に合うはずだ。


なのに胃の奥が、きしむみたいに痛い。


スマホを視界から外す。

見覚えのない通りだった。

考え事をしていたわけでもないのに、知らない道を歩いている。


ここ、こんな道あったっけ。


そして——

ふと吸い寄せられるように、ある店に目が留まった。


喫茶店エイト。

看板にはそう書かれていた。


古臭い名前だが、古臭い雰囲気はない。

店先には色とりどりの花や観葉植物が植えられている。

落ち葉ひとつ落ちていない。

丁寧に世話されているのが一目でわかった。


木製の扉も窓も、いい意味で歳をとっている。

古い、と言うより、馴染んでいる。

ヴィンテージ家具みたいな、年輪のある佇まい。


透はそこで立ち止まった。

なぜか、周囲の音が少し遠のいた気がする。

人の声が、膜の向こう側に行く。


……変だ。


でも、嫌な感じはしない。


吸い寄せられるように扉へ近づく。

手を伸ばして、押した。


カラン。


ベルが鳴った。


扉が開いた瞬間、甘い匂いが鼻を満たした。

砂糖と、焙煎と、木。

コーヒーの匂い。

それが空気に溶けている。


同時に、背筋がすっと伸びる。

さっきまでの胃の痛みが、嘘みたいに薄くなる。

肩から余計な力が抜ける。


……なんだ?


どこかでこの感覚、覚えがあるような。


そう思いながら、なんとなく店内を見回した。


テーブル席が二つ。

それからカウンター。

席数は少ない。

照明は暖かい色で、外の朝日とは違う時間が流れているみたいだった。


「いらっしゃい」


声がして、透は肩を跳ねさせた。

慌てて会釈する。


「あっ、すいません」


そりゃあ店に入ったんだから、声をかけられるのが普通だ。

でも驚いた。

非現実感から現実に戻ってくる。


透は落ち着かないまま、カウンター席に座った。

背もたれに触れる革の感触が、妙に安心する。


「……いい店ですね。なんというか、雰囲気があって。でも妙に落ち着くというか」


「ふふ。ありがとうね。なんにする?」


透はそのまま答えかけて、ふと視線を上げた。


店員——いや、店主だろうか。

その顔を見て、息が止まる。


「……きれい」


声に出してしまった。


中性的な麗人がそこにいた。

つり目なのにきつい印象はなく、むしろ柔らかい。

肌は白く、指先まで無駄がない。

長い髪が光を拾って、輪郭が少しだけ現実から浮いて見える。


それなのに、怖くない。


綺麗だ。

綺麗すぎて、現実味がない。


「きれいって言われるのも久しぶりだ」


にこやかに笑いかけられる。


——しまった。聞こえてた。


途端に頬が熱くなる。

耳の裏まで熱い気がした。


「注文はなんにする?」


「あっ、ブレンドのホットで!」


失態を取り返すように、透は早口で言った。


「はい。ちょっと待っててね」


店主はカウンターの奥に立ち、豆を取り出した。

ミルを回し始める。


ゴリゴリ。

ゴリゴリ。


その音が、店内の静けさに溶けていく。

それに合わせて香りがふくらむ。

甘いようで、深い。

鼻腔の奥をくすぐる。


いい豆だ。


透は昔、個人喫茶でバイトしていたことがある。

だからどうしたって目がいってしまう。


豆を粉にし、ドリッパーをセットする。

最初のお湯はゆっくり。

粉がふわっと膨らむのを待つ。

蒸らし。


綺麗な所作だ。

淀みがない。


透はぼんやり眺めながら、さっきまでの憂鬱が遠のいていくのを感じた。

胃の痛みが薄れていく。

代わりに、胸の奥に別のものが残る。


——怖さだ。


落ち着くのに、怖い。

この店が、この空間が怖い。

店に入ってきた時と同じだ。

身に覚えのある感覚。


そうか。鳥居を潜った時の感覚だ。あれに似ている。


「コーヒー好きなの?」


不意に声をかけられ、透ははっとした。


「はい?」


「コーヒー好きなの? ずっと見てるから」


「あ……すいません。昔喫茶店でバイトしてて、コーヒー入れてたんで」


「へぇ。じゃあ舌が肥えてる?コーヒーにうるさい感じ?」


「いや……そんなことは」


「じゃあ安心」


ふふ、と笑われる。


透は気づけば、少しだけ笑っていた。

笑うつもりはなかった。

自分の顔の筋肉が動く感覚に、遅れて気づく。


まただ。


さっきから、気づくのが遅い。


まるで、ここに来ると自分が少しだけ遅延するみたいに。


コポコポとドリップする音が止んで、コーヒーがカップに注がれた。


店主が透の前に置く。


「どうぞ。ブレンド」


白い湯気がゆれる。

その湯気の向こう側で、店主がこちらを見ている。


透はカップに触れた。


温かい。


その温かさが、身体の奥まで沈んでいく。


……このまま、何も考えずに、ここにいたい。


そう思った瞬間、透のスマホが震えた。


なんでもない広告の通知だ。

でも、心臓がきゅっと縮む。


透はスマホを裏返した。

見ないふりをするみたいに。


店主はそれを見て、何も言わなかった。

けれど、ほんの少しだけ目が細まった気がした。


「……大学、行かないの?」


透はカップを持ったまま、固まった。


——なんで、わかった?


この人に俺は大学生だなんて言ってない。

知り合いか?いやありえない。こんな人を忘れる方が難しい。


「……なんで知ってるんですか。俺が大学生だってこと」


店主は笑いながら、軽い声で続ける。


「月曜の朝ってさ。空気が重いよね。あと、大学生ってのはただの勘と推測だよ。

この時間帯にサラリーマンが私服で来ないし、年齢的に見たらね。」


なるほど。それはそうか。透は頷きを返答とし、コーヒーをひと口飲んだ。


苦い。

甘い。

温かい。


「それでー」

彼女が口をひらく


「最近身の回りで変なこと起こってない?朝倉透くん。」


背筋が凍る

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