5話・本当にありがとう……
私の目の前には、一人の少女がいる。
少女の名前はサキ。名字は知らない。
以前、彼女に名字を聞いた際には、『どうせヒナタと同じ名字になるから言わなくていいでしょ』とのことだった。
とても意地悪な答えだと思った。
というのも、私は記憶喪失で、自分の名字を思い出せていないからだ。
自分の名字について聞いても、同じ答えで返されてしまう。
酷い人だと思う。
そんな彼女だが、どうやら私と彼女は、恋人関係なのだという。
現に彼女は、私に親友以上の距離感で接してくれている。
なんなら、キスはした。
いや、正確には、されたの方が正しいかもしれない。
決して、私から一度も彼女にキスをしたことはない。
今までのものは全て、彼女から勝手にしてきたものだ。
だからといって、別に嫌だというわけではない。
そして、キスが嫌ではないからといって、彼女が好きというわけでもない。
この言い方は語弊があるだろうか。彼女のことは好きではある。ただし、それは恋愛感情の好きではないという話だ。
ありふれた言い回しをするのならば、LOVEではなくLIKE。そういう話だ。
私はおそらく、彼女が私に向けてくれている感情に見合う感情を、まだ持ち合わせていない。
今の私は、彼女に付き合うわけにはいかない。
そう考え、私と彼女は絶妙な距離感で過ごしてきた。
恋人以上、恋人未満。
彼女がどういう理由であれ、私に好意を向けてくれていることは間違いない。
眩しいほどの笑顔や、時々見せる棘のある言い回し、私をからかう時のしたり顔。それらを見ると、彼女は着飾らない、ありのままの姿で私と接してくれていることは分かる。
そこまで、私の事を信頼してくれているし、信用もしてくれている。
そう思っている。
けど、時々、不安に思うことはある。
彼女は、何かを隠している。
記憶を失う前の私について、明らかに何かを言い渋っていることは間違いない。
特に、5年前に起こったという戦争については、ろくに話してくれない。教えてくれない。
彼女にとって、大きなトラウマがあるのかもしれない。
そう思うと、深く聞くことはできなかった。
ただ、目に見えるだけではない。音も聞こえて、直接触れられて、温度も感じられて、それにも関わらず、実際には存在しない。意地悪な蜃気楼のような。
そんな曖昧な彼女に、私は少なからず、不信感を抱かずにはいられなかった。
この終わった世界で、私はまだ、彼女以外の生きた人間とは出会っていない。
彼女が言うには、いくつかの大きなシェルターを中心に、まだ多くの人たちが生き残っているらしい。
ならば、いつかこの旅をしているうちに、そのような人たちに出会えるのだろうか。
そうしたら、彼女が教えてくれなかった色んなことについて代わりに聞くこともできるだろう。
この旅は、私の記憶を取り戻すための旅。
一年前に、私が彼女と共にした旅路を辿る旅。
島国である我が国を、一年をかけて一周したと言っていた。
また一年をかけて旅をするつもりなのだろうか。
まぁ、それも悪くない。
不信感はあるが、私は彼女のことは嫌いではない。
季節は春。
だけど、少し夏の気配を感じる時期だ。
来年の今頃、私たちは何をして、どうなっているだろうか。それは今は分からない。
けれど、不思議と不安はなかった。
なぜなら、私の隣には常に彼女がいるのだから。
「……」
彼女は、感情の感じ取れない瞳を、どこか遠くへ向けていた。
時々見せる、冷たい視線。
その視線の意味を、今の私は知らなかった。
◯●◯
一日もかからずに目的地に着くという話だったが、五日経った現在もまだ着かず、私たちは歩き続けている。
目的地は【瀧】と呼ばれているシェルターらしい。
この終わった世界では、五つの大きなシェルターがあるという話だった。
【瀧】、【雲】、【原】、【森】、【池】とそれぞれ呼ばれているらしく、【瀧】がその中でも最も復興が進んでいるとも言っていた。
サキは、そこのトップと話をするつもりらしい。
詳しいことは分からないが、かなりの大物なのではないだろうか。
ようは、現状最もこの国を建て直すことができるかもしれない者だろう。
そんな人物が、わざわざただの小娘の話を聞いてくれるとは、考えにくい。
そこまで思考が至り、気がついた。
ただの小娘というわけではないのだろう。
それはもちろん、私ではなくヒナタのことだ。
そういえば彼女は、先日の水族館跡地で、父がこの施設を援助していたと言っていた。
実は彼女は、名家の御令嬢なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、周囲の景色はかなり変わってきた。
所々に確認できていた緑が消え失せ、灰色のコンクリートジャングルが続く。
形を保っているものや、根元から崩壊している建物もある。
建物を確認したところで、人がいるわけがないだろうが、少し気になり中を覗き込む。
広い部屋だった。
床は、割れガラスや砂埃で汚れており、かつて受付を行なっていたであろう机の上には、何か大きなものが置かれていた。
布に包まれた何か。
(あれは……)
それの正体を知るより前に、私の腕は引っ張られた。
「見なくていいものは見なくていい。見るべきものもあれば、見るべきではないものも当然ある」
サキは、私の腕を引っ張りながら進み、背中越しに話しかけてくる。
今の彼女は自分の白髪を襟ぐりから中に隠し、キャップを深く被っている。
印象は普段の彼女と違い、ボーイッシュな印象を強く受ける。
「これから先、ヒナタは見なくていいものがたくさんあると思う。歪な記憶とは言え、今のあんたは幸せな状態だと思う。なら、わざわざ不必要なものを見る必要はない」
彼女は立ち止まり、私が隣に来ると、目を合わせた。
赤みがかった黒の瞳に、私が映る。
「あたしが瞳に映すのはヒナタだけでいい。ヒナタの瞳に映るのはあたしだけでいい」
「ちょっと重くない? 」
「そうだよ、あたしは重いよ」
サキはそう言うと、私に唇を重ねてきた。
柔らかい感触が触れたのはほんの一瞬。
だがその一瞬で、私の頭はチカチカとして、まともに思考ができなくなってしまった。
彼女はそのまま私に抱きつき、耳元に口を近づける。
「あたしはヒナタと、もっと先のことをしてもいいと思ってるよ? 」
もっと先のこと。
それの意味が分からないほど、私は子どもではない。
コウノトリやキャベツ畑は、既に私の中ではおとぎ話になっている。
顔が不自然に熱を持った。
喉が渇く。
何だか息苦しく感じて、唾を飲み込むと、ごくりと音が鳴った。
「あはは、生唾飲んじゃって」
「──ッ」
私に向けられた笑顔があまりに眩しくて、思わず変な声を漏らしてしまう。
少し遅れて、喉が鳴ったことが恥ずかしくなり、彼女の身体を押して離れた。
「か、からかわないで! 」
「え〜 照れてるヒナタかわいいのにー」
抗議のつもりなのだろうか、サキは唇を尖らせて、ブツブツと何かを言っていた。
「私たちってさ、記憶失う前は、……その、どこまで、シたの? 」
「ん? シたって〜?」
ニヤけながらとぼけるサキ。
そのにへら顔に腹が立ったので、デコピンだけすると、彼女を置いて小走りで先に進んだ。
後ろから何か言われたが、無視をして進む。
「ちょっと、ちょっちょっちょ! 」
サキは大きなリュックを揺らしながら私に追いつくと、私の右手をぎゅっと握った。
「勘違いされたら嫌だから言うけど、あたしたちは健全なお付き合いをしていたからね!? 」
「えぇ……」
つい数秒前と打って変わって、塩らしい態度をとる彼女に思わず戸惑ってしまう。
人格が複数あると言われても、納得できるぐらいだ。
ため息をついて、彼女に向き直る。
「サキちゃんは、今の私のことも好きなの? 」
「それはもちろん」
「私は、サキちゃんの知ってる "ひー" じゃないけど? 」
「……質問を質問で返すようで悪いけど、ヒナタは、あたしのこと好き? 」
こちらの質問にはろくに答えないくせに、難しいことを聞いてきた。
首を縦に振ろうとしたが、少し考え、私は首を横に振った。
「今の私は、サキちゃんに恋愛感情を抱いてはない」
「あ、あはは、結構ハッキリ言うねぇー。意外と、そのこう、来るなぁ……」
顔を下げた彼女の声は、少し震えている気がした。
心を弄ぶようで申し訳ないが、そんな彼女を見下ろしながら、けど、と続ける。
「好きになろうとは思ってるよ」
「え? 」
驚いた彼女が顔を上げるのを察して、私は慌てて目を逸らした。
ひときわ強い風が、2人の間に吹く。
肌が傷つきそうなほどの砂埃が舞い、目を細める。
錆びた鉄と、塵と化したコンクリートの鬱陶しい臭いに思わず顔をしかめてしまう。
「ずっと、待ってるからね」
砂煙の向こうからそんな声が聞こえた。
風が止んだ頃には、先を進む背中だけが見えた。
□■□
(気まずい……)
辺りが薄暗くなりはじめたタイミングで、私たちは、今日の移動を切り上げることにした。
明るいうちは多少大丈夫だが、足元が非常に悪い。
コンクリートの道路はひび割れ、所々で私たちに口を開けている。中には、車や家までも呑み込んでしまいそうな大穴までもある。
既に見える穴だけであればまだいいが、見えない穴もある。
コンクリートの蓋がされている穴のことだ。
サキが言うには、この国のライフラインが死に絶え、上下水道の管理をする者がいなくなったことを原因に、地下ではとんでもないことが起きているらしい。
もし仮に、水によって土が削られ、地下が空洞になっている場所の上を歩こうものなら、奈落が口を開けることになるだろう。
暗くなると、【クァビマ】があったとしても、落ちてしまった時にできる手段に限りがあるらしい。
それに加えて、大小様々なものが散乱している場所を歩くのは、それだけでも危険だ。
ということで、少し早めに移動を切り上げた訳ではあるが、今日はなんだか気まずい。
原因は分かりきっている。
サキが昼間に語った『もっと先』のこと。
これが脳裏から離れない。
道中で見つけた缶詰とお菓子で、腹を満たした私たちは、コンクリートジャングルの中で目立っていた、木造2階建ての一軒家で横になっていた。
屋根には大きな穴が空いており、上を向いて寝転ぶと、星空が目に入る。
「人が減ったおかげでって言ったらダメだろうけど、最近は星がよく綺麗に見えるんだよ」
彼女は、空に手を伸ばしながら語る。
「戦争がはじまって、たくさんの人が死んで、この国が終わって。悪いことはたくさんあったけど、この星空を見られたことは、嬉しいと思っちゃうあたしは、悪い人かな? 」
「……そんなことないと思うよ。所詮他人だしね。サキちゃんの感情を悪とする理由はないよ。きっとね」
息を呑むような声が聞こえた。
失敗しただろうか。
少し難しいことを聞かれて、咄嗟に思ったことをそのまま口に出してしまった。
戦争の犠牲者を他人とするのは、問題があったかもしれない。
しかし、そんな最低な私の返答に、ありがとうと、彼女は答えた。
「やっぱり、ヒナタは優しいね。あんたはひーじゃないかもしれないけど、ヒナタはヒナタだよ」
「え? 」
彼女は私に片腕を回して、横から抱きつくように身を近づける。
驚きか、緊張のせいか、身体が硬直してしまう。
彼女の吐息が首元に当たり、こそばゆい。
それはゆっくりと上に向き、私の耳に当たる。
「ふーっ」
「んっ」
何だ?
何だ今の声は?
私か?
私が出した声なのか?
「ふふふっ、耳弱いんだぁ」
サキは艶しく笑う。
いたずらっ子のような無邪気さを感じるが、やっていることは小悪魔だ。
彼女は、更にさっきよりも口を近づけて、至近距離で囁いてくる。
「──ねぇ、シてもいい? 」
心臓が早鐘を打った。
「……な、何をです? 」
「ここで惚けるんだぁ」
横にいた彼女の影が動く。
その影は、そのまま私の上に覆い被さる。
夜闇で彼女の顔は、はっきりとは見えない。
ただ、熱い吐息を肌で感じる。
「……ヒナタさぁ、なんだか暑くない?」
サキが上体を起こすと、私の腰の上に座る形になる。
暑いと言った彼女。
気温はそこまで暑くはない。むしろ涼しいくらいだ。
強いて言えば、身体が火照ってて熱を感じる程度。
気温のことも考えるとちょうどいいぐらいだ。
彼女が暑がりなのだろうか、それがズレた考えだと気付いたのは、すぐ後だった。
彼女はオーバーサイズの服を上から脱ぎ、綺麗な白髪を舞い上げて星の光を集める。
色白の肌に、ベージュ色の下着、彼女の輪郭が淡く発光しているような気さえした。
下腹部あたりに熱を感じる。
それを認識した瞬間に、私は軽くパニックになった。
「まって、ちょっ、む、サキちゃ──」
騒がしくなる私の口を、サキが自分の口で黙らせにくる。
濃くて深い、大人のキスをされる。
「んっ、んんんっ!」
声にならない声を上げながらも、彼女を引き剥がそうと手を動かす。
だが上手く力は入らず、それは叶わなかった。
なぜだろうか。
恐怖で力が入らない。戸惑ってて力が入らない。彼女が可哀想で力が入らない。
色々と理由を考えて、やがて最後に残った言い訳で答え合わせをする。
「んっ、はぁ、はぁ、」
数秒後に解放された私の唇。
私は、彼女にキスをされることが嫌ではない。
拒めないのではない。拒みたくないのだ。
それに気がついた時、私はサキの首に腕を回していた。
再び、私たちは唇を重ねる。
キスで、何度も彼女の存在を感じた。確かめた。
腕の力を強め、彼女をより強く求めてしまう。
やがて彼女の腕は、下から服の中へと入ってきた。
下腹部を優しく撫でると、それは上へと移動する。
それが丘の頂上へと触れる──その一瞬前。
轟音。
地面が、文字通り揺れる音が聞こえた。
反射的に私たちは起き上がり、窓から外の景色を覗く。
月の明かりに照らされた奥の方で、砂煙が立ち昇っていた。
大きな建物が倒れたのだろうか。
今でも地面が揺れているような気がする。
「白けるね」
「……う、うん、そうだね」
つまらなさそうに呟くと、彼女は服を着ずに再び横になった。
私が少し外を見ている間に、寝息が聞こえはじめる。
「えぇ? 一分も経ってないよ……」
私は苦笑をしながら、彼女の横に向かおうとして、足の付け根に違和感を感じた。
そこに触れる。
…………。
「……ほんとやだ」
□■□
結局、私たちは何もせずに朝を迎えた。
サキが一階から乾パンを見つけてくれたので、それで朝食を済ますことになった。
お互いに目を合わせず、居心地の悪い空気の中で乾パンを口に入れる。
(……ん? )
すぐに違和感に気付いた。
乾パンがやけに湿っていたのだ。
サクサクとした食感はなく、どちらかと言えばしっとりとした食感。
彼女が持ってきた缶を見ると、少し凹んでおり、そこに小さく穴が空いている。
「……あ、あのー、サキちゃん? この乾パンさ、あまり美味しくない感じがしない? 」
「甘えんな」
ぴしゃりと言い放たれ、肩を落として乾パンを食べる。
一度気になると、些細なことでも気になってしまうのが人の性だ。
何だかカビ臭いそれを3つほど食べてから、私はリタイアした。
なんだか、無駄に口の中の水分を奪われてしまっただけな気がした。
私の目が覚めてから一月足らずではあるが、何も食べられなかった日は一度もなかった。
それが、この終わった世界においてどれだけ幸せなことなのかは、一時間後に水を求めた際に断られたことで、理解することができた。
拒絶の拒否ではなく、不可能の拒否。
目的地のシェルターに着けば、水は飲めるらしいが、そこまで持つだろうか。
朝食にとった乾パンが尾を引いて、私を苦しめる。
暑くはないし、汗もかいているわけではない。
だが、明確に身体がSOSを出している。
呼吸がだんだんと荒くなり、気がつくと口で呼吸をしていた。
空気中の僅かな水分を求めるように、口を開けて息を吸う。
舌に当たる空気が冷たく、その裏に溜まった唾液を飲み込んで、喉を潤す。
それをどれくらい続けていただろうか、違和感を感じて立ち止まる。
少しザラザラとした感触を舌が捉え、辺りを見回す。
先ほどまでの場所とこことでは、空気の質が違っている。
細かい何かが空気中を舞っているのだろうか。
そこで、昨日の轟音のことを思い出した。
「昨日の夜倒れたのは、あれかな? 」
サキが脇道の奥の方を指さした。
コンクリートの破片が散らかっているその場所には、未だに砂煙立ち込めている。
彼女は、被っていたキャップのつばを持ち上げて、ため息をつく。
「この建物が倒れて、そこからドミノ倒しで五棟は倒れているよこれ。しばらくは、布か何かで口を隠していないと、肺とかやられそう……」
かつては、多くの人が生活していたであろう高層マンションが、面白いほど簡単に崩れていた。
計六棟の高層建築が倒壊しており、周辺の建物にも被害は出ていた。
昨日この付近で寝ていなかったことに、心の底から安堵して、再び足を踏み出す。
その時、
「……け、て、」
──人の声が聞こえた。
私ではない。サキではない。
男の声だった。
少し遠くから聞こえたその声は、とても苦しそうな声に思えた。
誰かが助けを求めているのかもしれない。
この倒壊事故に巻き込まれた人がいる。
そこまで思考が至った瞬間、私は走り出した。
サキを置いて、声が聞こえた場所へと向かう
「どこ? どこですか!? 大丈夫ですか!? 」
喉が切れそうになるほど叫びながら、声の主を探す。
そして、それは思いのほか、すぐに見つかった。
ドミノ倒しに倒れた建物の最後。
大通りに倒れた高層マンションによって、道路に放置されていた車が何台か潰されている。
その内の一台の窓から、男の上半身が出ていた。
砂煙越しに私と男の目が合う。
男は、私を見つけた途端に嬉しそうな表情をしたが、すぐにそれを取り繕うかのように諦めたような表情へと変える。
「そんな顔をしないで、すぐに助けるから! 」
砂煙で目をやられながらも、小走りで彼の元へと向かう。
「大丈夫ですか? 怪我はしてますか? 」
「……い、いやぁ、大丈夫じゃねえな。腰よりの下の感覚ねぇもん。……ははは」
男は自嘲するかのように笑った。
おそるおそる彼の腰辺りに目を向けると、そこには赤色のコンクリートしかなかった。
血で赤く染まったコンクリート。
何かを潰して赤くなったそれを見て、めまいがした。
(それでも… )
私は、一人でも動かせる程度の瓦礫からどかして、彼に声をかける。
「大丈夫ですよ! 絶対に助けるので! 」
「……は? 」
間抜けな声が聞こえた。
男は、今も必死で自分を助けるために動いている私を見て、信じられないものを見るような目をしていた。
「お、おい、お前、何してるんだよ……」
「あなたをっ! 助けようとっ!」
「いや、やめろよ…… 俺の足はもう潰れてんだろ? 」
「知らないですよ! 」
「お前なんだよ……、さっさっと殺せよ……」
「はい? 何でですか!? 」
気でも狂ってしまっているのか、わけの分からないことをいう彼に、思わず怒鳴ってしまった。
「俺は、シェルターの外でずっと生きてきたんだ。もう俺は、昔の俺には戻れないんだよ! 」
「あの、さっきから何の話をしてるんです? 」
意味が分からない。
私がこうして必死に瓦礫を退かしている間にも、それを拒絶するような言葉を吐きながら、手を振るっている。
「頼むッ! 止めてくれッ! もうこれ以上、罪を増やさせないでくれ! 俺を終わらせてくれよ!」
「……それは、私にあなたを見捨てろってことですか? 」
ここでやっと、私は彼が自らの死を望んでいることを理解できた。
男は、怒りと悔しさと悲しみが混じった表情で、私を見た。
私を睨んだ。
「お前は、まだ罪を犯し続けろと言うのか? 普通、このような状況に出くわしたのであれば、介錯をしてやるが筋じゃないのか?」
「さっきから本当に何を言って──」
その時、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。
サキの声だった。
彼女は大きなリュックを背負ったまま、ここまで走ってきたようだ。
私を見つけるとほっと息をつき、リュックを下ろして座り込む。
「……お前は、まさか姫か? 」
サキが硬直した。
ゆっくりと、視線だけをこちらに向ける。
私ではなく、声の主である男の方へと。
彼女は、おもむろに手を持ち上げると、自身の頭に触れた。
走ってくる時にどこかに落としたのだろうか、その頭にはキャップは無かった。
彼女の綺麗な白髪が晒されている。
「サキちゃん、ちょっと手伝ってくれない? この人、足が瓦礫に挟まっちゃってるみたいで」
「…………」
彼女は何も言わずに、下ろしたリュックから何かを取り出して、こちらに向かってくる。
バールか何か、瓦礫を退かせるものを持ってきてくれたのだろうか。
そう思ったが、彼女が近づくにつれて、それが違うものだと気づく。
その手には、ナイフのようなものが握られていた。
柄の先にはチューブのようなものが伸びており、それはどこかへと繋がっている。
「……え」
それで何をするつもりなのだろうか、視線を下ろして男の方へ向ける。
彼の瞳にも、それは映っているようだ。
目を大きく見開き、そして安堵するような表情を浮かべる。
理解が追いつかない。なぜ、そのような表情をサキに向けるのだろうか。それは、私に向けられるはずの表情ではないのか。
やがて、その口はゆっくりと動く。
ありがとう、と。
「ごめんなさい」
サキは私とすれ違う瞬間、そう呟いた。
それは私に向けてのものではない。
何か猛烈に嫌な予感がする。
その時間はほんの一瞬。
僅かに逡巡した後に、意を決して振り返る。
「────ッ!」
彼女は、男の首にナイフを突き立てていた。
柄から伸びたチューブは赤く染まっていき、それは彼女が普段から使っていた銀色の筒へと繋がっている。
息が苦しくなる。
見てはいけないものを見てしまった。
知ってはいけないことを知ってしまった。
本能的にそれを察した。
昨日、彼女が言っていた『知らなくていいこと』が脳裏をよぎる。
禁忌に足を踏み入れてしまった。
「ぁあ、あぁぁぁぁぁ……」
駄目だ。
それは、駄目だ。
私は彼女の腕をつかみ、背後から抱きつくように問い詰める。
「な、何をしているの? 」
彼女は何も答えない。
こうしている間にも、男の顔色はどんどんと悪くなっていく。
青白く、命の終わりを感じさせる。
「ありがとう、姫。助かったよ。俺はこれ以上罪を犯すことができなかった」
「そう、あたしなんかでごめんね」
「いや、別に構わないさ。お前のことを恨んでいないと言ったら嘘になるが、面の良い女に看取ってもらえるなら本望だ」
男の目が虚ろになっていき、目を閉じる間隔が短くなっていく。
身体から力が抜けていくのが、目に見えて分かった。
命の灯火が消えるその瞬間。彼は微笑んだ。
「本当にありがとう……」
がくりと頭が垂れ、腕も落ちた。
サキはナイフを抜き取ると、先端を振って、チューブの中身を全て銀色の筒へと送り込む。
「な、何を、しているの? 」
彼女は普段、その筒を水筒として使っていた。
その筒の中身のものを、飲んでいた。
全身から血の気が引いていく。
もしや、今まで彼女は人の血を飲んでいたとでも言うのだろうか。
「そんなの、まるで──」
以前、彼女に言ってしまい、酷く傷つけてしまったあの言葉を、再び言いそうになってしまう。
口を手で押さえて声には出さなかったが、彼女は冷たい視線を私に向けた。
立ち上がった勢いをそのままに、私の襟首を掴んで壁に叩きつける。
「ぐはっ」
叩きつけられた勢いで、強制的に肺から空気が押し出された。
喉辺りに鈍く深い痛みを感じる。
「あんただけはっ、あんただけはっ! それを言うなっ! 」
目と目が触れそうなほど顔を近づけて、怒鳴る彼女。
襟首を掴んでいる方とは、逆の腕を自身の腰に伸ばし、そこから例の水筒を取り出す。
それを器用に開け、私の口に差し入れた。
「んっ!んんんんん! 」
暴れ回る私を、彼女は腕一本で抑え続ける。
とくとくと、私の口に液体が注ぎ込まれた。
それは鉄臭いこともなく、変な味もしない。極めて普通の水に感じられた。
これも【クァビマ】なのだろうか、完璧に濾過されたそれは、何も知らなければただの飲用水だ。
だけど、その妙な生暖かさだけは不快だった。
喉元で必死に堪えていたが、やがて限界が来て、それが私の体内へと入っていく。
喉が潤う。
生き返る。
身体が喜んでいる。
その感覚が嫌にでも分かってしまった。
「や、やめてってば! 」
何とか彼女の拘束を解いて、座り込む。
そんな私に、彼女は興味のなさそうな瞳を向けていた。
軽く私の足を蹴ると、そのまま男の前でしゃがみ込んだ。
再びナイフを握り、それを彼の腕に突き刺す。
ざくざくと、嫌な音が聞こえる。
見ているだけで吐き気がした。
「な、なにを? 」
聞かなければよかったと後悔した。
薄々察していた。
けど、気づいていないフリをしていた。
「肉を補充しないといけない。もう切らしてるから」
「──」
言葉を失った。
刹那、思い返されたのは、私の目が覚めたあの時の記憶。
私があの時口にしたものは、何だっただろうか。
(あぁぁぁぁああ、あ、ぁあ、あぁぁぁああああ!!!?)
心が叫んだ。
これ以上は本当に駄目だ。
何をすればいいのか、何が正しいのか分からない。
学校の跡地で彼女に謝罪をしたことが呪いとなってしまっている。
ジレンマに囚われ、動けなくなってしまう。
そんな私に、彼女は背中越しに声をかけてきた。
「辛かったら、どこかに行っててもいいよ。変に邪魔をされても困るし」
「え、いや、でも……」
「それともなに? 」
私に振り向いた彼女の頬には血がついていた。
返り血を手で拭い、感情が読み取れない瞳で、私を見つめる。
「──あたしが、人をバラすところを見たいの? 」
この終わった世界の残酷さを、私はまだ何も知らなかった。




