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水底の泣き声

作者: 駄馬

 今年もお盆になり、久しぶりに地元へ帰った。

 と言っても、車で十分ほどの距離だ。それでも、帰る道すがらには子どもの頃の記憶が詰まっている。


昭和六十年の夏、五年生の私は、夜の塾が終わると一人で帰っていた。ランドセルの代わりに肩掛けのカバンを下げ、汗でくっつくシャツの襟を指で引っぱって風を入れる。街灯はオレンジ色で、虫の群れが輪を描く。道の右手には蓮池が横たわり、黒くなった葉の間を、時々だけ水面の光が点々と移動した。


 蓮池に沿って続く細い道に入る。道幅は大人二人が並べるくらい。片側はブロック塀、もう片側は蓮の株と草むら。足元には、車も通れる幅の鉄の格子——グレーチングが、暗渠になったドブ川の上にずっと敷かれている。


 私はこの格子を歩くのが好きだった。一歩ごとに「カン、カン」と軽く響く。靴底に硬い音が跳ね返って、自分が少し背伸びした大人になれた気がした。


 三歩目の「カン」に、別の音が混じった。


 ……おぎゃあ。


 足を止める。今のは、赤ん坊の泣き声に聞こえた。顔を上げると、先の方に団地の明かりがいくつか灯っている。テレビの音も、遠くの笑い声も、夏の夜らしく漂ってくる。きっとあそこだ。そう思って耳を澄ます。


 ——違う。声は上からではなかった。


 ……おぎゃあ。おぎゃあ。


 足元の、鉄格子の下から響いてくる。私はしゃがみ込み、格子の隙間から覗き込む。細長い空洞の底で、水が黒くゆらいでいた。街灯の光が細い帯になって落ち、その揺れに合わせて、どこかで泡が「ぷつ」と弾けた。


 立ち上がって歩き出す。声の距離は変わらない。常に、私の真下からついてくる。


 右手の蓮池でも水が動いた。風のせいかと思った時、そちらからも同じ泣き声が重なった。


 ……おぎゃあ。……おぎゃあ。


 左右から挟まれる。前にも後ろにも、声が置いていかれない。道の空気が、薄い膜でできているみたいに耳に貼りつく。私はまた足を止めた。止まっても、声は止まらない。むしろ、いまの方がはっきりしている。


 そこに、もう一つ、別の音が混ざった。


 ——ぴちゃ。ぴちゃ。


 濡れた何かが、底を這って近づいてくる音。格子の隙間から、黒い線のような波紋がふくらんでは消える。右の蓮池でも、葉と葉の間で水が「ぴちゃ」と跳ねる。音は一つではない。足元の暗渠と、蓮の根の奥と、見えない場所で同じ動きが同時に起きている。


 私は無意識に、カバンを胸に抱えた。汗の匂いの奥から、水の匂いが強くなる。鉄の匂い、泥の匂い、長い時間を閉じ込めた匂い。泣き声は近く、けれど届かない距離に固定され、這い音は逆に、私の方へ距離を詰めてくる。


 「誰か……いるの?」


 声に出した瞬間、空気の形が変わった。格子の真下で、何かが水を掻いたような強い音がした。私は反射的に一歩下がる。格子の縁に足がもつれて、膝がわずかにぶつかった。視界の端で、水面が白く持ち上がる。手のようなものが伸びた——ように見えた。蓮池の方でも、葉の影から白いものがちらりと光って、すぐに沈んだ。


 ……おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 泣き声が増えた。一つだった声が二つになり、二つだったのが三つになり、頭の内側の四方から同じ調子で鳴る。遠ざけようとしても、足の裏から伝わってくる。立っている場所そのものが、声を鳴らしているみたいだった。


 ——ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。


 這い音も増える。右、左、足元、背中側。囲まれた、と思った。逃げ場がなくなる想像をした途端、身体が勝手に動いた。私はカバンを抱えたまま、振り返って走り出した。格子の上で靴が空回りして、最初の二歩は音ばかり大きくて前に進まない。それでも三歩目で勢いがつくと、あとはただ「カン、カン、カン」と音を連ねるだけだった。


 泣き声は、ついてきた。走っても、距離は変わらない。耳のすぐそば、足のすぐ下、蓮の葉の陰、どこからも同じ高さと大きさで鳴り続ける。私は顔を上げ、団地の灯りだけを目印に、暗い道を一直線に駆けた。角を曲がり、格子が途切れてアスファルトに戻ったところで、ようやく声が薄くなった気がした。私は一度も振り返らず、家の玄関まで走り切った。


 息を詰めたまま靴を脱ぎ、居間に飛び込む。母が麦茶を注ぎながら、「どうしたん?」とだけ言った。私は途切れ途切れに、道のこと、泣き声のこと、這う音のことを話した。母はコップを置いて、少しだけ考える顔になり、それから短く首を傾げた。


 「……ああ、あの道な。夜は通ったらあかんで」


 それで終わりだった。詳しくは聞かれなかったし、私もそれ以上は言えなかった。ただ、台所にいた祖母が手を止めて、私の方を一度見たのを覚えている。視線が合った瞬間、祖母は流しに向き直り、ぽつりと独り言みたいに言った。


 「あそこは昔、堀やったさかい」


 それから、家の中の話題は夕飯に戻った。


 翌日、明るい時間に同じ道を遠回りして見に行った。昼の蓮池は緑が濃く、葉の上でトンボが光っている。鉄の格子はただの鉄で、下の水は浅く濁っているばかりに見える。耳を澄ましても、何も鳴らなかった。私はそこで立ち止まり、足を一歩だけ格子に乗せ、「カン」と音を鳴らしてみた。音は軽かった。夜のあれは、やっぱり夜の音だったのだと思うことにした。


 十年以上が過ぎ、私はもうその道を通らない。遠回りでも、別の道を選ぶ。たまに昼間、蓮池の前を車で通ることがある。窓越しに蓮の葉が風に擦れる。それだけで、耳の奥に薄い膜が貼りつく感覚が戻ってくる。


 ——おぎゃあ。


 記憶の中の声は、いまでも同じ場所から鳴る。足の裏、右手の水面、背中の方角、そして前。増えもしないし、減りもしない。あの夜、数を決めてしまったように。


 ……おぎゃあ。


 そして、ぴちゃ。ぴちゃ。


 私は窓を閉める。水の匂いが、部屋に入ってこないように。


 ——あの蓮池も、鉄格子の道も、もうない。

 今は住宅街が立ち並び、夜でも人の声やテレビの音が響いている。

 けれど、私はあの道をまっすぐ歩けない。


 あの夜の泣き声は——今は、どこにいるのだろう。

 お盆になると、必ず思い出す。

 車で帰る道すがら、舗道の下や車輪のすぐ下から……おぎゃあ……と。

 あの声は、今もどこかで足音に混ざっているのかもしれない。


 今年もまた、その道の前を通ることなく、家へと帰った。

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