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5. 生きる「罪」

 グラウとの蟠りが溶けてから2週間後の夕方、リーフは一人で校舎の廊下の掃除をしていた。最近は使用人の仕事もミュオから一通り教わり、こうして一人で仕事を任されることも多くなっていた。

 この2週間、リーフは仕事の合間を縫って、資料室でこれまでのカエルム教会に関する記録を調べていた。しかし、内容が膨大なこともあり、特にこれといった成果は得られていなかった。

(ソーナが言ってた人体実験を匂わせるような内容も全く見つからなかった。考えてみれば当然だが、教会に都合の悪い記録はここの資料から削除されているのかもしれないな)

 そんな考えを巡らせながら仕事を終えたリーフは、いつも通り業務報告を済ませ、自由時間となった。また資料室にでも行こうかと思ったその時、ネルから念話がかかり、ネルの部屋に呼び出された。

 リーフがノックしてネルの部屋に入ると、ネルは椅子に座りながら白い紙の束を眺めていた。

「やっほ〜、ネル。元気〜?」

 ネルの部屋に入ったリーフの頭の上で、ソーナが手を振った。ネルは黙って手を振り返した。

「それで、何の用?」

 リーフはネルに尋ねた。

「リーフの霊紋の解析結果が届いた」

「霊紋……? ああ、『揺籠』に来る前に検査してもらったやつか。すっかり忘れてた。もう2ヶ月くらい前だよね? ずいぶん時間かかったね」

「幅広く照合してもらってたからね」

「それで、何か分かった?」

「まず、リーフの年齢は推定50歳だということがわかった」

「ふんふん、それは大きな情報だね。俺の親の候補とかもかなり絞れそうだ」

「その、親……というか先祖に関する情報なんだけど、気になるものが出て来た」

「なになに?」

「リーフの霊紋のパターンの一部が、竜族によく見られるパターンと一致していたらしい」

「竜!? って昔ソーナが俺に話してくれたよね?」

「そうだね。リーフに話したことあるのは戦乱の時代にカエルム様が竜の女王を打倒した英雄譚かな? ヴィジーニエの物語において竜は定番キャラクターで、あたしが話したもの以外にも竜にまつわる有名な伝説やお伽話がたくさんあるんだよね。登場する物語によって竜の姿や性格って微妙に異なるけど、カエルム様に負ける前は人喰いの悪い獣で、負けた後は反省してヴィジーニエを守る聖獣になったってイメージはどの物語でも大体共通しているかな」

「はい、そのイメージは現在でも変わっていないと思います」

 ネルがソーナに言った。

「……それで、リーフの霊紋に竜のパターンが出て来たってことは、リーフの親、もしくはもっと前の先祖に竜がいた可能性が高いってことになる」

「そもそもの話なんだけど、竜って実在するの?」

 リーフがネルに尋ねた。

「実在する。ヴィジーニエの北西に位置するゲヘナ砂漠、その中にムウィンダジーと呼ばれる集落を形成しているらしい」

「竜と人の間に子供ってできるの?」

「それはよく分からない。竜の繁殖形態はアリと似ていて、女王と呼ばれる群れのリーダーしか子供を産まないらしいんだけど……」

(アリってそうなのか……)

「そもそも、資料室にも、インターネットにも、竜に関する情報が少なすぎて信頼性に欠ける」

「竜ってあんまり外の種族と関わろうとしないらしいからね〜。それに、ゲヘナ砂漠って昔からモンスターの群れがよく出没する地域だから、人もあんまり近寄れないし……」

 ソーナが言った。

「……だから今度ファー達に、次の冒険実習先をムウィンダジーにすることを提案したいと思う」

「冒険実習!? 実際行ってみないとっていうのはわかるけど……」

「過去に冒険実習で異種族との交流が行われたという前例はある。竜族はカエルム教会と友好関係を結んでいるから不可能ではないはず。それに、私たちが独自に訪問するより、実習の体で訪問する方が不審がられないだろうし、竜たちからの情報も引き出しやすいと思う」

「なるほど……分かった。それで行こう。明日の昼にでも言ってみようか」


「はあ〜〜〜……」

 次の日の昼休みの食堂にて、リーフ、ネル、グラウ、ファー、ミュオの5人が、昼食をとっていたのだが、ファーが大きなため息をつきながら、料理を突いていた。

「ファーさん、どうしたんですか? さっきからあからさまに様子が変ですが……」

 リーフは心配そうにファーに尋ねた。

「さっき数学の小テストが返って来たんだけど……けっこう頑張ったつもりだったのに全然点数良くなくってぇ……」

「それくらいでいちいちクヨクヨするなって言ったんだが……」

 グラウが言った。

「それだけじゃないよぉ〜。この前の音響術の実習の時なんか、音を出そうとしたら衝撃波を起こしちゃって部屋の窓ガラス全部割っちゃったし……」

「うん、あれはちょっと驚いた」

 ネルは頷きながら言った。

「ああ、あれファー様の仕業だったんですね。……大丈夫ですよ。あの程度のことはここではよくあることですから。あまり気にすることでもないかと……」

 ミュオが宥めるように言った。

「……私って昔からこうなんだよね。要領が悪いとか、おちょこちょいだとか、ドジとか……」

「最近思うのだが……必要以上に自分を卑下するのは君の悪い癖だぞ、ファー。そういうのを聞かされるのは、はっきり言って気分の良いものではない。何より、それは君のためにもならない」

 ぶつぶつ言い始めたファーを遮るようにグラウが言った。

「ご、ごめん、“こんな”私で……」

「言ったそばから……」

「あっ、ごめん……」

 苛立ちを顔に浮かべたグラウに対し、ファーは縮こまってしまった。それを見たグラウは慌てて表情を戻した。

「まあ……君が嫌味で言ってるわけじゃないというのは分かってる。だが、もう少し自分に自信を持ってもいいんじゃないのか? 君も『揺籠』の生徒なんだ。君にだって誰にも負けない強みがあるんだろう?」

「多分、体を動かすのは得意だから入れたんだと思うけど、グラウ君の得意分野に比べたら全然人の役に立たない気がする……」

〈そういえば、ファーさんってすごく足が早かったよね。機動力って一番役に立つ能力だと思うけどな——主に戦場で〉

〈あたしも機動力は欲しいね〜——特に戦場で〉

「……荒っぽいこともあんまり好きじゃないし……」

〈……じゃあダメか〉

〈ダメだね〜〉

「……何が世の中の役に立つ能力か、なんて、簡単に決めつけるべきじゃないと思うけどな」

 グラウがファーに言った。

「……ありがとう、グラウ君。でも、私のことはもういいから。たまにこうなる時期があるんだよね。でも私って単純だから、一晩寝ればスッキリするの。だから、私が変なこと言っても軽く聞き流して」

 ファーはぎこちなく微笑んだ。

「そうか……? まあ、今はそういうことにしてやる」

 グラウは片眉を上げながら言った。

「それじゃあ、話題を変えるついでに、今ここで話し合いたいことがある……」

 そう言って、ネルは、例の話を切り出した。

「今度の冒険実習……ムウィンダジーに行かない?」

「ムウィンダジー? どこかで聞いたような……」

 グラウは首を傾げた。

「……竜族が暮らす集落だよね?」

 ファーが言った。

「ああ、それだ。興味深い話だが……なんでまた突然?」

「……竜は物語によく出て来て有名な割に、その実態はあまり知らないなと思って。前々から一度行ってみたいとは思っていた」

「……そうか。俺はいいと思う。この『揺籠』では霊力物理のことだけではなく、もっと広い視野で世界を学ぼうと決めたばかりだからな。異文化の学習は俺たちが暮らすこの世界の理解を深めるのに打って付けだろう。……ファーはどう思う?」

「私は……あんまり行きたくないなぁ。竜ってギザギザな見た目で怖いし……野蛮な感じがするし……」

「そうか? ヴィジーニエを守る聖獣だって話を聞いたことがあるが」

「カエルム様と戦う前は人を襲ってたって話もあるよ。それに、ゲヘナ砂漠はモンスターがよく湧くって聞いたことがあるし……」

「そのあたりは『揺籠』も、竜たちも配慮してくれると思うが……」

「ファーさん、ちょっとよろしいですか? こちらへ……」

 リーフは立ち上がってファーに近寄り、彼女を隅へ連れて行った。

「え? 何? 何?」

 ファーは困惑の表情のままリーフについていくと、リーフは小声でファーに話し始めた。

「実は……ネルさんがムウィンダジーに行きたいと言い出したことについて、まだファーさんには伝えていない事情があるのです」

「事情?」

「ことの発端は私にあります。私は幼い頃、母よりカエルム様が竜を倒す英雄譚をよく聴かせてもらっていました。母が若くして亡くなってからはいろいろなことがありましたが、本物の竜を一目見てみたいという思いは心から消えることはなく、むしろ年を重ねるごとに強まっていきました。だから、ネルさんと婚約を交わした後、言ったんです。『結婚したらムウィンダジーに行かないか』って。ネルさんは快く同意してくれました。

 ……しかし、現実は甘くはなく……私たちは身分違いの結婚によるゴタゴタで忙殺され、竜を見る夢は今日まで叶えられずにいました。ですが、つい先日、ネルさんが私に、冒険実習で竜をみれるかもしれない、と、話を持ちかけてくれたのです。……もうすぐ、母の二十回忌がやってきます。その日に私は、母の墓前で、本物の竜を見て来たという土産話をしてあげたい。このような我々のわがままに皆さんを巻き込むのは非常に心苦しいのですが……」

「……みんな!」

 ファーは突然振り返って叫んだ。

「見に行こう! 竜を!」

「……おいリーフ、ファーに何を吹き込んだ?」

 グラウがリーフを睨んだ。

「いえ、そんな大したことは……」

〈なんだかちょっと悪い気がするね〉

〈……今更だよ。俺が使用人としてここにいる時点で、みんなを騙してるようなものなんだから〉


 ネルはその後、ナルブに話し合った内容を伝えると、その願いは受理され、二泊三日のムウィンダジー遠征が決まった。ヴィジーニエから遠く離れた場所での実習ということや、前回グラウ救出に貢献した実績から、今回もリーフの動向を許可してもらうことができた。それから、リーフたちは日々の業務に励みつつ、竜族に関する最低限の下調べをして過ごした。


 2週間後、ついに出発の日がやって来た。早朝、リーフ、ネル、ファー、グラウの四人は寮の前で合流し、南の校門へと向かった。校門の外では、一台の大型タクシーとナルブ、そしてミュオが皆を待っていた。

「ミュオさん? 見送りに来てくれたんですか?」

 ファーが言った。

「実は、今回の冒険実習には私も同行させていただけることになりました」

「そうなんですか!?」

「冒険実習の手配を進めていくうちに、当初の想定より皆さんに不便をかけることになりそうだということが分かりましてね。リーフさんだけに雑務を任せるのは大変だと思ったので急遽ミュオを連れていくことにしたんです」

「『揺籠』の用務員は他に沢山いるのにわざわざミュオさんを選んだあたり、私情を挟んでませんか? 先生」

 グラウが腕を組んで言った。

「否定はしません。でも、エピセンティアで一番の用務員に同行してもらえるなら皆さんも文句ありませんよね?」

(……『本物』だ。この先生)

 ネルはナルブを『視て』思った。

「……兄がすみません。こうなったからには精一杯皆様に尽くしますので……」

「いえ、とんでもない。見知った先輩に同行していただけるのは私としても心強いです。よろしくお願いします、ミュオさん」

 リーフが言った。

「それはそうと……集合時間前なのにもう全員揃うとは。張り切ってますねぇ、皆さん」

 ナルブは腕時計を見て言った。

「あはは……実は、昨夜は緊張のせいか眠りが浅くって……それで早く目が覚めてしまいました」

 ファーは愛想笑いを見せながら言った。

「そうでしたか。まあ、この後しばらくは車での移動ですから、疲れているようなら遠慮なく車内で休んでください」

 リーフたちが車に乗り込むと、ナルブは運転手に頼み、予定より少し早めに出発させてもらった。

「何やら後ろにたくさん積まれているようですが、何を用意したんですか?」

 リーフが後ろの荷物を見ながら言った。

「主に日用品ですね。ムウィンダジーにあるものだけでは不十分かもしれないということだったので……最低限の水に食料、衛生用品、それから寝具に……加湿器なんかも用意しました」

「急遽呼ばれたとのことでしたが、ここまで揃えてくれるとは……さすがミュオさんです」

「恐れ入ります。……実を言うと、私も本物の竜は見たことがなくて……今回同行が決まって少々、張り切ってしまいました」

 しばらく車が走ると、ヴィジーニエの外につながる門にたどり着いた。ナルブはそこの審査官と手続きを済ませると、車は門をくぐり、ヴィジーニエの外に出た。街の外に出ると街並みはすっかり途絶え、周りは森林や草原ばかりになった。——リーフにとっては少し懐かしい景色だった——それから車は2時間ほど道路を走り続けた。

「皆さん、そろそろ車を降りる準備をしてください」

 ナルブが言った。

「んぇ? もう到着ですか?」

 座席でウトウトしたファーが頭を持ち上げて言った。

「いえ、まだまだ先はありますが……もうすぐこの車が走れる道路がなくなってしまうんです。大樹からの霊力供給ラインを備えた道路でなければ、この車は走れませんからね」

「じゃあ、この先はどうするんですか?」

「それはですね……」

(……ん?)

 その時リーフは、車のフロントガラスの先、道路の脇に、幌馬車と4つの人影があることに気づいた。……しかし、その影は『人』の輪郭から逸脱したものが多すぎる気がした。

「まさか……みなさん、見てください!」

 リーフがそう言って指差すと、グラウは窓に顔を近づけてリーフが差した先を覗いた。

「ん……おお! あれはまさしく……」

「お出迎えのようですね。ここから先は彼らに目的地まで送ってもらいます」

 運転手が道の脇に車を停めると、リーフたちは車を降り、彼らに向かい合うように並んだ。人と同様の立ち姿、全身をびっしり覆う鱗、鼻と口を前方に引き延ばしたような顔。縦長の瞳孔。さらに、手足には鋭い爪、口には牙、頭には輝く2本の角、背中には蝙蝠のような一対の翼が生えていた。本物の竜の姿だった。実物は写真などよりもずっと威圧的な雰囲気を漂わせていた。

「お待ちしておりました、人の皆様。私はタフシと申します。皆様の滞在期間中、里を案内するようにと、我らが女王より仰せつかっております」

 4頭の中の1頭が一歩前に出て言った。外見とは裏腹に、物腰柔らかであった。

〈へー! こんなに人語うまく話せる竜いるんだ〉

 ソーナが言った。

〈人語……? これが普通じゃないの?〉

〈竜みたいな異種族は大抵人とは別の言語を話すんだよ〉

〈へえ……〉

 その時、リーフはタフシの後ろの竜たちが顔を合わせて呻き声のようなものを発していることに気づいた。よく耳を澄ませると、確かに何らかの規則に従って言葉を発しているように思えた。

(……うっ)

〈……? リーフ、どうしたの?〉

〈大丈夫。ちょっと耳鳴りがしただけ〉

〈耳鳴り? 気候の違うところに来たからかな?〉

「……皆様にはこれからあの幌馬車に乗っていただきます。荷物は全てあちらに積んでください」

 タフシが言った。

「分かりました。リーフさん、運ぶのを手伝ってください」

「了解です」

 ネルたちがタフシと軽く挨拶を交わしている間に、リーフとミュオは車に積んであった荷物を全て幌馬車に移した。全ての荷物が積み終わると、タクシーはヴィジーニエへと帰って行った。それからリーフたちとタフシは幌馬車に乗り込んだ。

「乗ったはいいが……獣もいないのにどうやって運ぶつもりだ?」

「さあ……?」

 グラウたちがそう小声で話していると、幌馬車に乗り込まなかった竜のうちの一頭が、馬車の「くびき」にあたる部分の後ろに入り込み、両手でそれを押して、馬車を引っ張り始めた。

「あの、ここからムウィンダジーまでどれくらいかかるんですか?」

 グラウがタフシに尋ねた。

「2時間ほどかかる予定です。もっと急がせましょうか?」

「い、いえいえ。それほどの道のりを運ばせて外の方々は大丈夫なのかなと思いまして……」

「運び手は今馬車を引っ張っている彼だけです。他は皆様の護衛です」

「え」

「ご心配には及びません。この程度の労働は我々にとって朝飯前ですから。……そもそも、我々は普段の移動に乗り物は使わないのです」

「どうしてですか?」

 ファーが尋ねた。

「必要性を感じないからです。このような馬車を使うのも、大量の荷物を運ぶ時や、力の弱い年老いた竜や子供を運ぶ時くらいしか使いません」

「な、なんて体力なんだ……いや、霊力か?」

 グラウは馬車を引っ張る竜を見て言った。

「おそらく、その両方でしょうね。竜は生まれながらにして獣を遥かに上回る膂力と霊力を持ち合わせていると聞いたことがあります」

 ナルブが言った。

「……ところで、タフシさん、すごく人語が上手ですよね。どうやって覚えたんですか?」

 ファーがタフシに尋ねた。

「恐縮です。私は里の人語教室で師匠よりこの言葉を学びました」

「人語教室?」

「そもそも、カエルム様の時代から竜と人との交流はささやかながら行われていました。ヴィジーニエの人々の中には、竜を積極的に理解しようとする方もいたそうです。また、その頃の女王様は人間との関係を重要視するようになっていました。そうした理由で双方の言語理解も急速に進んでいったのです。私はその時から積み重ねられてきた知識を受け継いだ者ということになります」

「それにしては言葉遣いに違和感がなさすぎる気がしますが……」

「それなりに勉強しましたから。特に有志の人間により設置されたと言う『テレビ』は今の言葉を学ぶのに役立ちましたね」

「テレビがあるんですか?」

「はい。人語教室の者くらいしか利用していませんが。師匠からは『アナウンサー』の言葉遣いを参考にせよと言われていました」

「どうして言葉を学ぼうと思ったんですか?」

「女王様よりそう命じられたからです」

「自分の意思で学んだんじゃなかったんですか?」

「はい」

「その……大変、じゃなかったですか?」

「いいえ。全く。女王様の意思に従うことそのものが、我々竜にとっての1番の幸福ですから。竜に意思や個性が無いわけではありませんが……その根幹が揺らぐことはないでしょう」

 それを聴いて、ファーたちは顔を見合わせた。

「……やはり、この辺りはどうしても人には理解し難いようですね」

「あ……その、すみません」

 ファーがタフシに言った。

「謝ることはありません。皆様に我々の全てを理解できるとも、理解してほしいとも思っていませんから。異種族同士、その程度の違いがあるのは当然でしょう」

 タフシは穏やかな口調で言った。

 それから、竜は休むことなく馬車を引っ張り続けた。外の景色は前後の幌の隙間からしか見えなかったが、進めば進むほど周りの緑が少なくなっていることが分かった。

「……見えてきましたね」

 タフシが前を見てそう言うと、リーフたちは身を乗り出して前方を眺めた。

「あの丘のような場所ですか?」

 グラウがタフシに尋ねた。

「はい、巨大な一枚岩の上とその周辺に我々は暮らしています。ようこそ、ムウィンダジーへ」

 馬車が石の柵の間を通り、中に入ると、唸るような低い声が繰り返し聞こえてきた。周りにたくさんの竜たちがいることが、馬車の中からでも分かった。しばらく進むと、やがて馬車を引っ張る竜の足が止まった。

「到着しました。どうぞお降りください」

 リーフたちが馬車を降りると、彼らの前には大きな建物が立っていた。周りの建物を見渡して比べてみると、この建物は周囲のものより一回り大きく、造りの雰囲気も少し異なっているようだった。

「タフシさん、ここは?」

 グラウが尋ねた。

「有志の人間たちの協力によって建てられた迎賓館です。滞在期間中、皆様にはここに泊まって

いただきます」

 タフシが随伴していた竜たちに何かを告げると、3頭の竜たちはのしのしと歩いてどこかに去って行った。リーフたちが目的地に着いたので御役御免になったということだろう。

 リーフたちが迎賓館に入ると、タフシは軽く中の案内をした。簡素ではあるが、ヴィジーニエの人間が関わっていることもあり、思ったより快適そうであった。

「……そしてこちらが宿泊室です。人数分の個室が用意してあります。お好きな部屋をご利用ください」

「じゃあ私はあの角部屋で」

 ネルは即座に指を刺して行った。

「遠慮がないな……まあ、俺はどこだっていいが」

 グラウが言った。

「この後、皆様に昼食を提供したいと思います。準備ができたら呼びに参りますので、それまでここで休憩していてください」

 タフシはそう言うと廊下の奥に去って行った。リーフたちは適当に部屋割りを決め、それぞれの個室で休憩することにした。

 リーフは部屋に入ると、荷物を置いて、中に備えられていた椅子に座って一息ついた。

〈それにしても、本物の竜と会って話ができるとはね。もうヴィジーニエに来た時以上の驚きはないと思ってたけど……世界は広いもんだなあ〉

〈エピセンティアには竜の他にもたくさんの種族が暮らしてるらしいよ。動く岩や樹木みたいなのとか、幽霊みたいなのとか〉

〈なかなか興味をそそるけど、会いに行くとしても全てにひと段落ついてからだな……ところで、昼食って何が出るんだろう。竜の食事?〉

〈そう言われると気になるね……あんまり期待できる感じはしないけど〉

 そんなことをソーナと話しながらくつろいでいると、扉からノック音が聞こえてきた。

「お食事の用意ができました」

 タフシの声であった。リーフは返事をしてすぐに部屋の外に出た。

 全員が部屋から出てくると、タフシはリーフたちをダイニングルームに案内した。部屋に入ると、クセの強い臭いが全員の鼻を突いた。目の前の大きな丸テーブルの上には、動物の肉や血、骨や内臓をそのまま煮たり焼いたりしたような料理が大量に並べられていた。それを見たファーたちは思わず戸惑いの表情を浮かべてしまった。それを見て皆の心情を察したのか、タフシがこう言った。

「別に無理して食べていただかなくても構いません。以前人間から提供された保存食の用意もありますので」

「い、いえ……せっかく用意してくれたのにそんな訳にはっ」

 ファーはこう言ったが、声が上擦ってしまった。

「この食事が皆様に口に合わないことは経験上承知しています。この料理を用意した目的は、食べてもらうためというよりは我々の食文化を知っていただくためです。だから、我々を気遣う必要はありません。皆様が食べないのなら我々でいただくだけですから」

「いや……それでもせっかく用意してもらったんです。正直、全部食べられる自信はありませんが……ありがたくいただきたいと思います」

 グラウが言った。

「……分かりました。お好きな料理を皿に取ってお召し上がりください」

 リーフたちはそれぞれの席に座り、合掌してから各々食事を始めた。

「なかなかワイルドな料理ですねぇ。ここにいる竜はみんなこれを食べるんですか?」

 ナルブがタフシに尋ねた。

「いえ、我々の多くはモンスターのコアを食べて生きています」

「モンスターを!? あれを食べて平気なんですか?」

 グラウが驚きながら言った。

「流石に、消化能力の弱い子供や老いた竜はお腹を壊してしまうので、そう言った方々は今皆様が口にしているようなものを食べますね」

「そうなんですか……しかし、老いた竜でもこの硬さの肉は食べられるんだな……」

 グラウとナルブはなかなか量は食べられなかったものの、その探究心からか積極的に様々な料理に手を出していた。ミュオもいろんな料理を食べようとはしていたが、弾力の強く、噛み切りにくい肉を口に入れてしまって、終わりのない咀嚼を繰り返していた。ネルは比較的食べやすそうな料理に当たりをつけて、それだけを食べることに集中していた。一方ファーは、食事に手を伸ばすことすらできなかった。

「ファー? 大丈夫? 顔色が悪いけど」

「……」

 ネルが声をかけたが、ファーは俯いたまま額に冷や汗を滲ませていた。

「……すみません、タフシさん。保存食の用意、お願いできますか」

 ネルがタフシに言った。

「かしこまりました」

「……そっちなら食べられそう?」

 ネルはファーに尋ねた。

「うん。……ごめん」

「謝らなくていいから」

 その時、その場にいたものは全員、ある席からだけ頻りに食器を鳴らす音が聞こえてくることに気づいた。それはリーフの席だった。彼は硬い骨も苦い肝もスムーズに噛み砕いて次々と飲み込んでいた。その様子に興味を惹かれたのか、タフシは保存食を持ってくるのを中断し、リーフのそばに近寄って行ってしまった。

「我々の料理をそこまで美味しそうに食べる人間は初めてです」

「あ、すみません。つい、手が止まらなくなってしまって……特にこの血のスープ? なんかはとっても気に入りました! 後でまたいただきたいので、もしよかったらこの容器に入れてもらえませんか?」

 そう言ってリーフは懐から筒状の容器を取り出した。

「かしこまりました。スープはたくさん用意してありますのでいくらでも召し上がってください」

「おいリーフ、それに取っておいてもすぐ腐るんじゃないか?」

 グラウがリーフに言った。

「大丈夫です。入れたものの保存が効くようになる霊力瓶ですから」

「それはまたずいぶん用意がいいな……」

「リーフ様、でしたか。そういえばまだお名前を伺っていませんでしたね」

 タフシがリーフに言った。

「あ、はい。ネルさんの使用人のリーフと申します」

「……人間に対する我々の認識も、少し改める必要があるかもしれません」

「あれは……気に入られた、ということでしょうか?」

「さあ……? でも、リーフさんは将来大物になる気がしますね」

 グラウとナルブが小声で言った。

〈さすが野生児。いや、竜の子孫?〉

〈竜の方は関係ないと思うな……フォラシアで食べてた料理と似ていて、懐かしい感じがしただけだよ〉

 昼食の終了予定時間が近づいたため、満足に食べられなかった者は保存食で腹を満たした。

「この後は実際に外に出て里の中を回りながら、皆様にムウィンダジーのことを学んでいただきます。私について来てください」

 そう言ってタフシはリーフたちを外へと連れ出した。外では多くの竜たちが行き交っていた。リーフたちがその中を通ると、竜たちは見慣れない存在に対して顔を向けたが、それほど興味はないようで、すぐに各々の仕事に戻るのだった。

〈強大な力を持つ竜にこんなに囲まれてるって考えると、なんだか落ち着かないな〉

〈絡んできそうな雰囲気がないのは救いかな〜〉

 ファーもこの景色には落ち着かないようで、両手を前に組んで周りをキョロキョロと見渡していた。

「ムウィンダジーには約5万の竜が暮らしています」

 タフシが言った。

「5万……! でも、その割には周りの建物の数が少ないような……」

「大抵の竜は住居を持ちません。その辺で寝て一夜を過ごします」

「砂漠の夜は冷えると聞きますが、大丈夫なんですか?」

 グラウが尋ねた。

「はい。雨でも砂嵐でも我々は平気です」

「力があって、消化能力が高いだけでなく、環境変化にも強いなんて……もう、人間が優ってるところなんて一つもないんじゃないか……?」

 グラウは青くなりながら独り言のように言った。

「で、でもここはモンスターがたくさん出てくるところなんですよね? 無防備に寝てて大丈夫なんですか?」

 ファーがタフシに尋ねた。

「夜は見張りがいるので、問題になることはあまりないですね。流石に幼い子供には住居を用意してますが」

「それにしても……砂漠の中でよくこれほどの数が暮らせますね」

 ナルブが尋ねた。

「先ほども言いましたが、我々の主食はモンスターのコアです。このゲヘナ砂漠でそれに困ることはありません。水もここからさらに北西へ行ったところにマレ海がありますから」

「え……マレ海って鹹水ですよね?」

 グラウが言った。

「はい。それが何か?」

「……蒸留して飲むとか?」

「いえ、家畜にやるときはそうすることもありますが、我々は普通に飲みます」

「やっぱりそうですか……いえ、なんでもありません」

「家畜の食糧はどうするんですか?」

 ナルブが言った。

「この砂漠でよく見られるシロアリを与えています。それなりに栄養があって繁殖力が高いので重宝してます」

「へえ、シロアリですか……」

「この辺りの方たち……というか、ムウィンダジーの竜たちにはどんな職業があるんでしょうか?」

 リーフが尋ねた。

「普段の我々はモンスター狩りや見回り、家畜の世話、道具の製作や建造物の修復、女王様や子供の世話など、様々な仕事をしていますが、私のような決まった職業についている者はとても少ないです。今言ったような仕事は、その他大勢の竜たちが、女王様からの命令を尊重し、慮って、いい感じに、空気を読みつつ、雰囲気で仕事しています」

「その……何というか……そんな曖昧なままで大丈夫なんでしょうか?」

「今のところ特に問題はありません」

(種としての能力の高い竜だからこそ許されてるのかな……)

「ただ、職業がはっきり決まってないとはいえ、竜たちにも好き嫌いのようなものがあります。仲の良い者同士で組んで行動したり、同じ仕事しかしようとしなかったり、休憩ばかりとっているものも結構います。……また、モンスター狩りのような里の外での仕事は比較的歳をとった竜が行うという慣習のようなものもあります」

「なるほど……」

 そんな会話を交わしながら、リーフたちはしばらく里の中を見て回った。そして、曲がり角を曲がった時、ガリッという音と共に、何かの飛沫が頬にぶつかるのをファーは感じた。彼女は何事かと思って立ち止まり、飛沫の飛んできた先に目を向けると、竜が気絶した獣の体を押さえつけて、その首に爪を突き立てていた。ファーは、これは自分の見てはいけないものだと瞬時に悟ったが、すでに頭の中が真っ白で、目を瞑る判断ができなかった。竜は獣の首をいとも簡単に切り裂いた。その頭は台の上を転がり、その体からは鮮血がドクドクと流れ出て来た。

「ファー……? うっ、あれは……屠殺場?」

 ネルはファーの様子と彼女が見ていたものから状況を察し、屠殺現場を隠すようにファーの前に立った。

「ファー、大丈夫? ファー?」

「……え……え?」

 ファーの返事は曖昧ではっきりしなかった。ネルの声で他の全員も彼女の様子がおかしいことに気づいた。

「まあ、ファー様。顔と服に血が……今拭き取りますね」

 ミュオはファーに近寄って、彼女のの制服についた血を霊術で拭き取ろうとした。

「……顔?」

 その時ファーは自分の頬に何かがついていたことを思い出し、無意識的に指で拭ってそれを確かめた。すると、彼女の指先は血で染まっていた。それを見た瞬間、ファーの呼吸はどんどん荒くなった。そして、喉の奥から何かが込み上げて来て、抑えきれなくて、両手で口を塞いだ。

「……! ファー様! これを!」

 ファーの様子を見てはっとしたミュオは、すぐさま袋を取り出して彼女に差し出した。ファーは袋を受け取るとすぐに口元を袋の中に入れ、声を漏らしながら吐き出した。

「すみ……ません」

 ファーは吐き終わると呼吸を整えながら言った。

「いいんですよ。それより、気分は良くなりましたか?」

 ミュオは背中をさすり、ファーの口の周りを拭きながら言った。

「はい、もう大丈夫です……あ」

 ファーは袋をミュオに手渡し、立ちあがろうとしたところ、足元がふらつき、バランスを崩した。ネルは咄嗟にそれを支えた。

「……大丈夫ではなさそうですね。タフシさん。里の案内はここで終わりにしていただけませんか?」

 ナルブが言った。

「そろそろ良い時間ですし、それでも問題ないでしょう」

「ありがとうございます……ミュオ、頼む」

「はい。……ファー様、私につかまってください」

「はい……」

 ミュオはファーに肩を貸し、迎賓館へと導いて行った。

「いったい彼女に何があったのですか?」

 タフシがグラウたちに言った。

「屠殺の現場を目の当たりにしてショックを受けたんだと思います。……かくいう俺も少し気分が悪くなってしまいましたが」

 グラウが答えた。

「家畜の屠殺で? なぜ?」

「その……タフシさんは大量の血とかを見て気分が悪くなったりしないんですか?」

「それが同じ竜のものなら多少は何かを感じるでしょうが……そこで殺されていたのは竜でも人でもありません。それに、人だって肉を食べて生きているのでしょう?なのになぜああまで動揺するのですか?」

「それは……ヴィジーニエの人は竜と違って数が多くて分業もしっかりしてるから……学校でもあそこまで生々しいものは滅多に見せられないし……見慣れないものを見て混乱したとか……すみません、ちょっと説明が難しいです」

「ふむ……もしかすると、それも竜と人の違いなのかもしれませんね」

〈まさか、ファーは動物が『殺される』のを初めて見たのか?〉

〈『まさか』……じゃなくても、ヴィジーニエならそれがフツーだと思うよ〉

〈そうなのか……フォラシアでも血を見るのが苦手ってやつはたまにいたが……大人になって初めてそれを経験するなんて。……どんな気持ちなのか、想像つかないな〉

「うう、恥ずかしい……グラウ君たち、陰で私のことゲロ女って呼ぶようになるんじゃ……」

 ファーがミュオに言った。

「そんな方たちではありませんよ。疲れてるからそんな想像をしてしまうだけです。今は休みましょう」

 リーフたちは迎賓館へと戻り、それぞれの個室で休憩した。ファーの世話はミュオがしてくれていた。

 夕食の時間になり、全員個室を出ると、休んで回復したのか、ファーも外に出て来て、皆と共に食堂に向かい、夕食をとった。これ以降の食事は人間向けの保存食を食べることになった。ファーは心配する皆に対して大丈夫だと言っていたが、いつもより食が進んでいないようだった。

「……ファー、君のことだから、きっとさっきのことで俺たちに負い目を感じてるんだろう。だからはっきり言っておくが……それはただの君の思い上がりだ。そんなことで気に病むんじゃないぞ」

 夕食中にグラウがファーに言った。

「グラウ君……」

「……それに、前回の冒険実習で俺は散々みんなに迷惑をかけたからな。こんなことで気を落とされては、俺の立つ瀬がない」

「うん、あれは酷かった」

 ネルが言った。

「君は容赦無いな……まあ、否定はしないが」

「ふふ……みんな、ありがとう」

 ファーは微笑んで言った。


 次の日、朝食の時間に皆は部屋から出たが、ファーは体調がすぐれないようで、ファーだけ自分の個室で食べることになった。朝食の後、皆はファーの様子を確かめるため、彼女の部屋の前に集まった。

「……やはり気分がすぐれないようです。今日外を出歩くのは難しいかと思います」

 ミュオが部屋の中から出て来て行った。

「そうですか……だとすると、今回の冒険実習は大事を取って中止した方がいいかもしれませんね」

 ナルブが言った。

(……仕方ないか。まだ何の成果も得られていないが、また1ヶ月後の冒険実習で再訪できる可能性もある。何なら今度は俺とネルさんだけで行ってみても……)

 リーフがそんなことを考えていると、それを聞いていたのかファーが扉を開けた。

「ま、待って下さい!」

「ファーさん……」

「今は調子悪いですけど、すぐに回復して、何なら今日中にでもみんなと合流しますから! だから、中止にはしないでください!」

「しかし……」

「お願いします!」

「……分かりました。今日はひとまず私たちだけで実習を続行することにしましょう。……ミュオは引き続きファーさんのそばにいてあげてくれるか?」

「分かりました。さ、ファー様、今は無理せず休みましょう」

 ミュオはファーを部屋の中へと連れて行った。

「本当に中止にしなくていいんですか?」

 グラウはナルブに言った。

「あの様子からして、ここで中止にしてしまえば、ファーさんはこのことをますます引きずってしまうでしょう。それに、私が診た限りは特に怪我も病気もないようです。ミュオがついていれば滅多なことは起こらないと思います」


 ミュオとファーを置いて、リーフたちがタフシと共に迎賓館を出ると、空から唸り声のようなものが響いて来た。リーフたちが上を見上げると、一戸建ての住宅くらいの大きさの巨大な竜が、まっさらな青空の中を飛び回っていた。

「あれはまさか、女王様ですか?」

「はい」

 グラウが尋ね、タフシが頷いた。リーフが女王をよく見てみると、その体つきは普通の竜とは微妙に違うようだった。体はずんぐりとしていて、翼が大きく、足のつき方からして4足歩行であるようだった。

「女王様は何をしているのでしょう? 見回りとかですか?」

 グラウが尋ねた。

「いえ、あれは運動をしていらっしゃるのでしょう」

「運動?」

「女王様はその神々しい体型を維持するために定期的な運動を欠かさないのです」

「じゃあ、今は何を叫んでいるのでしょうか?」

 リーフが尋ねた。

「今発している声に意味はないと思います。女王様はその威厳に溢れるお声を保つために定期的な発声練習を欠かさないのです」

(なんだか芸能人みたいだな……)

 グラウは密かに思った。

「ん? 意味はないと『思います』ってどういうことですか?」

 リーフはさらに尋ねた。

「実は、女王様の言葉は訛りが強くて近くでよく聴かないと私も分からないのです。我々竜の平均寿命は2000年ほどですが、女王様は少なくとも8000年は生きておられるそうです。ですから、我々にとっても女王様は謎の多い方なのです。——もっとも、それを気にしている竜はほとんどいないと思いますが」

「そうなんですか……」

 女王が空で咆哮を発すると、地上にいた竜たちは手を振って歓声(のような唸り声)を上げた。

「なんだか女王様の声……少し怒っているような?」

 リーフは呟くように言った。

「そうですね……なにぶんストレスの多いお立場ですから、ああやって発散しておられるのでしょう」

「ところで……今日はどこを案内してくださるのですか?」

 ナルブがタフシに尋ねた。

「今日は我々のモンスター狩りの様子をお見せしたいと考えています」

「モンスター狩り!? 私たちが見に行ったら危険じゃないですか?」

 グラウが言った。

「安全には十二分に配慮しますのでご安心ください」

 リーフたちがタフシについていくと、大きな籠が置かれた広場に出た。

「まずはこの籠の中にお入りください」

「は、はい……」

 リーフたちは訳もわからないまま籠のへりを乗り越えて中に入った。籠は全員が乗っても余裕があるくらいの大きさだった。

「このへりの高さ、4隅についた紐、これはまるで……気球?」

 グラウがそう呟いていると、タフシの呼び声に応えて4頭の竜がのしのしとやって来て、籠から伸びていた4本の紐をそれぞれ掴んだ。それを見たタフシは最後に籠の中に入った。

「少し揺れると思いますのでお気をつけください」

 タフシがそう言うと、周りの4頭の竜は翼を広げて霊力を纏わせ、ふわっと宙に舞い上がり、リーフたちの乗っている籠を上空へどんどん引っ張り上げて行った。気がつくと、ムウィンダジーを一望できるほどの高さになっていた。

「これは見事なものですね! 確かにこれなら、安全に狩りの様子を見学できるでしょう」

 ナルブは下の景色を眺めながら言った。

「我々の狩猟部隊もちょうど出発しました。あれを追うことにします」

 タフシはそう言うと周りの竜たちに指示を出した。すると、リーフたちの籠は砂漠の中へと向かっていった。

「砂漠って平坦な地形だと思っていましたが……こうして見てみると結構深い谷が多いんですね」

 リーフが言った。

「はい、ゲヘナ砂漠にはあのように大地を二つに割ったかのような谷が何本も走っています。“空を飛ぶのは少し疲れるので”、普段我々は足を使って移動するのですが、ああいった場所では翼が役に立ってくる訳です」

「……周りの竜たちに『ありがとうございます』と伝えていただけますか?」

 タフシが周りの竜に声をかけると、竜たちは鼻息を鳴らして返事をした。

「ん?……あそこに動いているのは、何ですか?」

 リーフが指を刺して行った。

「モンスターの群れですね。下の者たちもあれを目標に決めたようです」

「群れ!?」

 リーフが再度よく見てみると、確かにそれらはヴィジーニエ周辺で一度見た邪悪な霊力を纏って動いていた。ざっと見た限りは数百体規模の集団であった。

「あれくらいの群れはよく現れるんですか?」

 リーフが尋ねた。

「はい。下の者たちで対処できるでしょう」

「そもそも、どうしてゲヘナ砂漠にはモンスターがよく出没するのでしょうか?」

 この質問にはナルブが答え始めた。

「モンスターは主に死んだ生き物の霊力が変質したのち、何らかの物、もしくは生き物に宿ることで発生します。しかし、この辺りで生まれたばかりのモンスターはまず、このゲヘナ砂漠に集まる傾向があるそうです」

「どうしてですか?」

「それはまだ解明されていませんが、モンスターが専門の研究者の、ある興味深い持論を聞いたことがあります。その者曰く、生まれたばかりのモンスターは生き物だった頃の記憶が残っており、また、変わり果てた自分、自分ではない自分を他のどの生き物にも知られたくないがために、この、生き物が極めて少ない大地に集まるのだそうです——その後はどのモンスターも例外なく、生き物を積極的に襲うようになるんですけどね」

「……なんだか、嫌な話ですね」

「……全く同感です。治療技術の発達によって、ある程度変異が進行していても治すことが可能になりましたが、まだまだ限界はある。そこにどうにか『救い』をもたらすことができないか……時々、そう考えてしまうことがあります」

 ナルブはモンスターの群れを苦々しい顔で眺めていた。

「しかし……ここで竜たちがモンスターを狩ることで結果的にモンスターのヴィジーニエへの侵攻が抑制されることになりますね。竜が『聖獣』と呼ばれている理由はこの辺りにあるのでしょうか?」

 グラウが言った。

「さあ? 皆様が我々のことをどう呼ぼうが私は興味ありません」

 タフシが言った。

 地上でモンスターの群れを捕捉した竜たちは数の差に臆することなく突撃を始めた。そして空と地上から群れをたちまち包囲したのち、一斉に口から霊力の砲弾の雨を吐き出して、モンスターたちの殲滅を始めた。

「すごい……あの数のモンスターを相手に一方的だ」

 グラウが言った。

〈ヴィジーニエの軍隊ほどではないにせよ、統率もなかなか取れてるね〉

 ソーナが言った。

「これほどの力があるなら……」

 その時、リーフはナルブが小声でそう呟いているのが聞こえた。それからナルブはタフシの方に体を向け、次のように質問をした。

「……タフシさん。星暦2000年——22年前のモンスター災害の際、ムウィンダジーはどうなっていたんですか?」

 そう尋ねるナルブの目つきは、いつになく攻撃的な感じがした。

(22年前のモンスター災害……ヴィジーニエに入ってから何度か耳にしたけど……モンスターが大量発生して街中にまでモンスターが侵入してしまった事件だったけ)

「……あの災害は我々にとっても大いなる試練でありました。その日、外で活動していた部隊が壊滅したとの知らせを受け、我々は里の守りを固めました。女王様の奮戦と指揮のおかげでなんとか陣が崩されるのは防げましたが、あらゆる方向からの絶え間ない攻撃により、老いた竜や子供を中心に、多くの被害が出てしまいました。あの時、ヴィジーニエのデウス——メイル様が救援に駆けつけてくださらなければ、被害は何倍にも膨れ上がっていたと思います」

「……そうでしたか。モンスターを狩る側である竜でさえも……教えていただき、ありがとうございます」

 その後、狩猟部隊は倒れたモンスターからコアを回収して撤収し始めたため、リーフたちもムウィンダジーに帰還することにした。すでに時刻は正午を過ぎていた。

「さて、この後は昼食にしたいと思いますが……その後の予定は決めておりません。皆様の希望に合わせてご案内したいと思います」

 里への移動中にタフシが言った。

「それなら……女王様に謁見することはできないでしょうか? ムウィンダジーのより深い理解のために、是非あの方とお話をさせていただきたいのですが」

 ネルはすぐにそう答えた。リーフたちは明日の朝にムウィンダジーを去る予定になっている。リーフの出自に関わっている可能性の高い女王にはどんな形であれ会っておきたかった。

「申し訳ありません。実は……今回私が皆様の案内役に選ばれた際、女王様より『誰一人私の前には通すな』と命じられているのです」

「どうしてですか?」

「分かりません。どんな理由があるにせよ、あのお方の命令は絶対です。これを覆すのは私にとって死よりも恐ろしいことです」

「そうですか……」

 そこまで言われてはネルも引き下がるしかなかった。

〈女王様は虫の居所が悪いのかな。困ったね……〉

〈後でこっそり忍び込もうかとも思ったけど……相手の言葉もわからないんじゃな……〉

 リーフたちが頭を悩ませているうちに、籠はムウィンダジーの出入り口付近に着陸した。リーフたちは籠から降りると、何やら里の中の様子がおかしいことに気付いた。

「なんだか妙に騒がしいような……私たちが外にいる間に何かあったんですか?」

「今確認してまいります。少々お待ちを」

 タフシはそう言うと、周りの竜と数回言葉を交わして戻って来た。

「どうやら里の中に突然大型の獣が現れたそうです」

「大型の獣? こんな砂漠の中にですか?」

「確かに妙ですが、既に複数の者が目撃しているようです。それから、家畜小屋の建物を壊して今もなお里の中を走り回っているのだとか」

「竜たちでも捕まえられないなんて……かなりすばしっこいやつなんですね」

「……ひとまず、安全が確認できるまで皆様はここで待機して……」

 タフシが話していたその時、家畜の子供を咥えた黒い獣が目にも止まらぬスピードでリーフたちの脇を駆け抜け、里の外へ飛び出して行った。しかも、獣は家畜を引き連れるように走っていたため、後から家畜たちまで里を飛び出し、散り散りになって逃げ出してしまった。

 それを見た竜たちは皆怒声(のような唸り声)をあげ、家畜を追って砂漠へ飛び出して行った。かくして、砂漠の大運動会が突如始まってしまった。

 リーフたちは周りから竜たちがいなくなるまで巻き上がった砂煙でしばらく目を開けることができなかった。

「何だかとんでもないことになったな……」

 グラウが外の砂漠を眺めて言った。

「皆さん!」

 今度はミュオが血相を変えて道の奥から走って来た。

「ミュオさん? どうしたんですか? 獣ならたった今ここから出て行きましたが」

「ファー……様が……どこにも見当たりません!」

 ミュオは整わない呼吸で無理矢理声を絞り出すように言った。

「ファーが!? 一体いつからですか!?」

 グラウは問い詰めるように尋ねた。

「それが……よく分かりません。しばらく気を失っていたみたいで……申し訳ありません!」

「気を失っていた? どういうことだ? 何者かがミュオさんを気絶させてファーを攫ったとでも言うのか? 何のために?」

「ねえ、リーフ」

 頭を抱えるグラウをよそに、ネルはリーフの耳元で囁いた。

「さっきのあの獣……あれ、多分ファー」

「はあ? どういうこと?」

「あの獣が私たちの横を通り過ぎた時、一瞬、『感情の色』が視えた。私の眼は動物の感情を視ることができないはずなのに。それに、その『色』には何となくファーの面影があった」

「うん、あたしもあれがファーちゃんだと思う」

「ソーナまで!?」

「呼吸音がファーちゃんのものと一緒だったんだよね。多分、変身術の類で獣の『ガワ』を着ていたんじゃないかな? あんな状態であんな出力を出していたのは魂消たけど、おそらくあれが……」

「ファーの、タレンタムか……! 何であんなことをしたのかは分からないけど……それならすぐに追いかけないと」

「でも、どうする? 私たちだけでは追いつけないだろうし、他のみんなに私やソーナのことを隠してどうやってこのことを信じさせるか……」

 ネルが言った。

「俺に任せて……」

 リーフはそう言うと、深く息を吸い込んだ。

「あっ! 思い出した!!!」

 突然叫んだリーフに対し、グラウたちはビクッとして振り向いた。

「き、急にどうしたんだリーフ」

「思い出したんですよ! あの獣がファーさんです!」

「ああ!? 何を言ってるんだリーフ!」

「実は以前一度だけ、『揺籠』でファーさんが獣の姿に変身しているところを見かけたことがあったんです。なぜファーさんがそんなことをしていたかは分かりませんが……ファーさんは自分の能力を隠そうとしている節があったので、私はそれを見なかったことにして、ネルさんを含めて誰にもそのことを言いふらしませんでした。……ですが、たった今、あの時の光景とあの獣の姿がぴったり符合しました!」

「なん……だと……だったら一刻も早くあの獣を追いかけないと!」

「そうですね。少々頭が追いつきませんが……リーフさんの目は信用してもいいでしょう」

 ナルブは頷きながら言った。

〈ナイス演技だね、リーフ〉

〈どうも。……でも、急がないと。ファーが心配だ〉

「タフシさん! ファーを追いかけるのに協力してもらえませんか!」

 グラウが言った。

「了解しました。あの獣がファー様であるなら、案内役としてとても見過ごせません。しかし、……どうやって追いかけましょうか?」

「俺が台車を作ります!」

 グラウはそう言うと、地面に手を置き、創造術で巨大な4つの車輪がついた大きい台車を作り出した。

「タフシさんはこれに乗った俺たちを押して運んでください!」

「これはなかなか見事ですが……獣の姿は完全に見失っています。この広い砂漠の中、どうやってファーさんを探すつもりですか?」

「それは……リーフ、遭難した俺を救出した時のように、ファーの痕跡を追跡できないか?」

「うん、できると思う」〈……けど今回は少し骨が折れそうだ。ソーナも協力頼む〉

〈オーケー!〉

「あの……私も連れて行ってもらえませんか! もしファー様がこのようなことをした原因が私にあったのなら……私は……!」

 ミュオは胸元で拳を握りしめた。

「ミュオさん……分かりました。皆さん、乗ってください」

 タフシ以外の全員が台車の上に乗り込んだ。

「車体のコントロールは俺がやります。タフシさんは後ろから思いっきり台車を押してください」

 グラウが言った。

「思いっきりですね。かしこまりました」

 タフシは台車の後ろを掴んで押し込むと、上に乗っていたリーフたちの上体がグンッと後ろに引っ張られたため、彼らは慌てて周りに掴まって態勢を立て直した。台車はぐんぐんと加速し、タフシの両足は水面を走る水鳥のように回転していた。

「リーフ! どっちに向かえばいい!」

「ちょっとまって下さい!」〈やっぱり色んな足跡が混じってて分かりづらいな……〉

〈リーフ……〉

〈……! 分かった!〉「見つけました! 2時の方向! ちょい右です!」

「こっちか?」

 グラウは車輪を動かして進行方向を変えた。

「もうちょい……そこです!」

 このようなやり取りを繰り返してリーフたちは砂漠を駆け抜けた。周りには家畜を追いかける竜たちの姿があったが、しばらく進むと、周りには家畜も竜も見当たらなくなった。

「痕跡がはっきりして来た……もうかなり近いはずです」

 そう言ってリーフは周囲を見渡すと遠方に一つの人影をとらえた。

「いました! あそこです!」

 リーフは指を刺して皆に知らせた。ファーは家畜の子供を抱えて、深い谷の淵に立ち、谷底の方を見つめて立っていた。

「あれは獣が咥えていた……本当にあの獣はファーだったのか」

 グラウが言った。

「しかし、あんなところで何を……これ以上妙な気を起こさなければいいのですが」

 ナルブが言った。

 グラウはある程度近づいたところで、タフシに止まるように頼んだ。

「ここでタフシさんは待っていてもらえますか? まだどうしてファーがこんなことをしたのか見当もついていません。もしかしたら、今彼女はある種の錯乱状態に陥っている可能性があります。だからまずは俺たちだけで様子を伺いたいんです」

「分かりました。お気をつけて」

 リーフたちは台車を降りて、走ってファーの元に向かった。

「ファー!」

 グラウが叫ぶと、ファーはグラウたちに気づいて振り返った。生気のない、ひどくやつれた顔をしているように見えた。

「ファー様! みんなあなたのことを心配していたんですよ? そんな場所で立たれていては危険です。まずはこちらに来て私たちと一緒に里に帰りましょう!」

「……いやです。来ないでください!」

 ファーは全員をキッと睨みつけて叫んだ。これほど鬼気迫る表情をしたファーを見るのは初めてで、皆思わず怯んでしまった。

「どういうつもりだ、ファー。何があったんだ?」

 グラウが尋ねた。

「この子は……殺させない」

 ファーは家畜の子供をぎゅっと抱きしめながら言った。

「……やっぱり、ムウィンダジーの家畜小屋を壊して、家畜を逃したのは、意図的にやったことなのか?」

 ファーはゆっくり頷いた。

「その家畜は竜たちが子供や老いた仲間のために育て上げたものだ。竜たちが生きるためにはそれが必要なんだ。だから、君が勝手に逃していいものじゃない。それは君だって分かってるだろう?」

「それでも……私はもう、この子たちが殺されるのは耐えられない!」

 ファーはくぐもった声で言った。

「そうは言っても……ファーだって今日まで肉を食べて生きて来ただろう? どうして突然そうなってしまったんだ? 昨日の屠殺場での一件のせいか?」

「突然……じゃないよ」

「え?」

「突然じゃない。私は何かを食べること……特に肉を食べることにはずっと罪悪感があった。

 ……私はね、一度、動物に命を救われたことがあるんだ。22年前、私たち家族はヴィジーニエの外の森の中をハイキングしていた時に、突然モンスターの群れに襲われた。私はパニックになって、ただひたすらモンスターから逃げ回った。何とかモンスターを撒くことはできたけど、気づいたら周りに家族はいなくて、自分がどこにいるかも分からなくなってた。それに、知らぬ間に捻っていたのか、足が痛んで立ち上がれなくなったし、霊力も使い果たしていた。私は恐怖に耐えられなくなって、そのせいか意識も朦朧として来て、その場にうずくまることしかできなかった。

 ……でも、そんな時に、不思議なことが起こった。はっきりとは思い出せなけど、何かがひょいと私を摘み上げて、どこかへ運んでくれた気がしたんだ。そして、どこかの地面に下ろされて、それからしばらくして避難所の人たちの声が聞こえて来て……私は家族全員と無事に再会することができた。

 ……私はそれからあの時の体験が現実だったのか、それとも幻だったのかはっきりさせたくなって、動物に関することを本やインターネットでいろいろ調べてみた。そしたら、溺れかけた人間を陸まで押してあげた水獣の話とか……人を助けた動物の話が意外にもたくさん見つかった。だから、あの時のことは本当にあったことなんだって確信した。

 ……その後も動物のことは調べ続けた。人の手品を見て驚いたような反応を見せるペットとか、興味深い内容がたくさん見つかった。……そして、動物のことを調べれば調べるほど、私は、人と動物の違いがわからなくなっていった。人と動物は見えている世界がちょっと違うだけで、私たちと同じ『心』を持ってるんじゃないかって思うようになった。

 ……だったら、今まで大して何も考えずに肉を食べて生きて来た私は……っていうところまで思考が進んだところで、私は考えるのをやめた。それ以上考えても仕方ないし、自分を苦しめるだけだって分かってたから。動物について調べるのも嫌になったし、私の『動物に変身するタレンタム』も嫌になった。だから、その能力を人に隠して、本当に必要な時以外使わないようにして来た。そうやって自分の心を押さえつけて、我慢して来たんだよ。

 ……でも昨日、あんなものをみて……どんなに目を背けようとしても、あの時の光景が何度も何度も浮かんできて、離れてくれない。だから私はもう、見ないフリはしない、できない! みんなを守るためなら……私は何だってやってみせる」

 ファーは身構えながら行った。もう今にでも飛びかかって来そうな気迫だった。

「言いたいことは分からなくないが……人は他の生き物を食べないと生きていけない。その家畜だってそうだ。この世界はそういうふうにできている。今君がやっているのはただの悪あがきだ。そんなことをしても誰も救われないぞ。

 ……それに、誰もが命を粗末にしているわけじゃない。俺だって毎日食べ物にありつけることに感謝して今日まで生きて来たつもりだ。生きるために食べることは、決して罪ではない」

 グラウが言った。

「……グラウ君は、みんなが人殺しをしてたら人殺しを肯定するの? 殺されることに感謝されるなら、喜んで殺される?」

「な……どうしてそんな極端な……!」

「やっぱりおかしいよ……狂ってるよ! こんな世界!! こんなところで生きるくらいなら、私は飢えて死んでやる! ……それで、今度は誰も傷つかない世界で生まれ変わるんだ……!」

 ファーは薄ら笑いを浮かべながら言った。

「……馬鹿なことを言わないでください」

 リーフはグラウの前に出て言った。

「……リーフ君?」

「死んだら生まれ変われる? 極楽へ行ける? そんなわけないでしょうが。『死んだ後のことは誰もわからない』とかそういうこと以前に、“そんなの都合が良すぎる”。それがどんなにあなたの理想からかけ離れていたとしても、人生は一度きりで、私は私で、あなたはあなたでしかあり得ないんですよ。だからみんな、この世界を懸命に生きているんだ!」

 ファーはリーフが今までになく憤慨する姿に体を縮ませた。

〈り、リーフ? ちょっと言い方厳しすぎなんじゃ……〉

 ソーナはリーフの様子を心配したが、彼はまだ続けた。

「……それに、『死』がそんな容易いものだと思わないでください。正常な人の体っていうのはですね、たとえ自分がどんなにそれを願っても、最後まで「生きたい、生きたい」って足掻くようにできてるんですよ。安らかな死なんてありえない。それを犯したものに与えられるのは、それこそ死ぬほどの恐怖と苦痛だけです。

 ……私だってこの世界は辛いこと、おかしいことだらけだと思います。けど、こんな世界でも、生まれてきたからには幸せに生きたい。そのために必要なら、“私は人だろうが食べてみせますよ”。

 ……ファーさん、私はあなたにもそれくらい強く生きてほしい」

 その場にいた全員、リーフの言葉に呆気に取られた。その口調の凄みから、そこに冗談は微塵も含まれていないことを皆悟った。——そして、ネルは、あの日見たリーフの記憶の光景を思い出していた——そして……

〈リーフ! 今すぐファーを捕まえて! 早く!〉

 リーフの頭に直接ネルの念話が入って来た。

〈え……〉

 リーフはよく分からなかったが、緊急事態を察してすぐに左手首の索発射銃をファーに向けた。それと同時にファーは抱えていた家畜の子供を下ろすと、反転して、谷底へ向かって足を踏み出した。

「まずい!」

「おい馬鹿!」

 リーフは紐を発射し、ほぼ同時にグラウが手から創造術の縄を飛ばした。ファーの片足が段差を降り始めたところでリーフの紐の先端がくっついた。そうしてファーの体が一瞬止まったところにグラウの縄が追いつき、ファーの胴体に巻き付くようにくっついてファーを捕まえることができた。

 しかし、ファーは捕まってもなお運動術で抵抗を続け、グラウの体が引っ張られそうになったため、他の皆のグラウの体や縄を引っ張ってファーが落ちるのを食い止めた。

「離して! 私は強くなんてなれない! もう生まれ変われなくたっていい! 痛くても、苦しくても、それが一瞬で済むなら、今ここで全部終わらせる! 終わりにさせてよ!!」

 ファーは悲鳴に似た声で叫んだ。

「冷静になれ! お前は正常な判断ができなくなってるだけだ!!」

 グラウは言い返した。

 その時、ファーがグラウの縄を掴み、その手に霊力場が纏っているのが見えた。

「まさか、縄を切ろうとしている……?」

「そんな、やめろ!」

〈任せて〉

〈ソーナ?〉

〈う〜、ハッ!〉

 ソーナはリーフの頭の上で気合を入れて両手をパチンと叩くと、糸が切れたようにファーの体がふにゃりと曲がり、縄に釣られて仰向けに倒れて動かなくなった。

「ファー!」

 それを見たグラウたちはファーの元に駆け寄り、彼女を抱えて谷から離した。

「ファー! 大丈夫か!」

「どうして……急に体が動かなく……」

「昨日からの体調不良が今になって響いて来たのかもしれませんね」

 ナルブがファーを抱え上げて言った。

〈ソーナ、何をしたの?〉

〈指向性のある音波でファーちゃんのコアを揺らした。しばらく霊力を使うことも体を動かすこともできないだろうけど、時間が経てば回復するから安心して〉

〈そうか。……ごめん。忠告を無視して〉

〈いーのいーの。ファーちゃんは無事助けられたし……リーフの気持ちも、痛いくらいよく分かったから〉

「少々手荒にはなってしまいましたが……ともあれ、これでファーさんを連れ戻す目的は達せられそうです。ここはモンスターの危険も多い。早いところムウィンダジーに戻りましょう……その家畜の子供も乗せて帰りますか」

「あの様子を見て逃げないなんて、随分人懐っこいやつですね……」

 グラウがそう言ったその時、辺りから重厚な音が響き渡って来た。

「何だこの音?」

「この声……皆さん上です!」

 突然竜の女王がリーフたち目掛けて飛び込んできた。グラウたちは咄嗟に下がって直撃を避けたが、その風圧に押し飛ばされ、遠く吹き飛ばされてしまった。しかも、このままでは深い谷底に叩きつけられるコースだった。

「皆さん! これに掴まってください!」

 グラウは空中で創造術の縄を四方に多数伸ばした。リーフたちはなんとかそれを掴んだ。ナルブはファーを抱えながら片手で掴んでいた。

「俺の方に引き寄せます! しっかり掴んでてください!」

「ちょっと待ってください!」

 リーフはそう言うと、足で縄に捕まりながらカートリッジを交換し、一緒に飛ばされていた家畜の子供に向かって紐を飛ばした。紐は何とか命中し、リーフはそれを引っ張って家畜の子供をキャッチすることができた。

「グラウさん! お願いします!」

 リーフがそう言うと、グラウは皆を引き寄せ、一ヶ所に集めた。それから、創造術で巨大なクッションのようなものを下に膨らませ、見事に着地の衝撃を和らげた。

「はあ……死ぬかと思った」

 皆がクッションから降りると、グラウは地面にへたり込んだ。

「助かりました。グラウさん」

 リーフが言った。

「しかし、いったい何が何やら……今のは竜の女王でしたよね? まだこちらには向かってきていないようですが……」

 グラウは谷の上方をを見上げながら言った。

「先ほどの一撃は少し殺気めいたものを感じました。ファーさんが家畜を逃したことを知って怒っているのかもしれません」

 リーフが言った。

「しかし、そのことを知る竜はタフシさんだけのはずでしょう? そのタフシさんも私たちとずっと一緒でした」

「もしかしたら空から全て見ていたのかもしれませんし、人間の仕業だと早合点したのかもしれません。虫の居所が悪そうでしたから」

「なんということでしょう。……弁明をさせてもらえるといいのですが……ん? ファーさん?」

 ファーは手足を動かしてナルブの体を離れ、地面に降り立った。しかしすぐに足がふらつき、倒れそうになったところを慌ててグラウが支えた。

「おい、ファー! 大丈夫か!」

 ファーの全身はだらりと垂れて、全く力がこもっていなかった。

〈おかしいな……私の術の効果はとっくに切れてるはずなんだけど〉

〈え、それって……〉

「あの……実は一つ、気になっていたことがありまして……ファーさんがいなくなってから皆さんに知らせに行く前に、居場所の手がかりがないか部屋の中を調べたんですけど……ベッドの裏に吐瀉物の入った袋が置かれていたんです。それもたくさん」

「なんだって……まさか、昨日の昼からずっと吐いて……!? もしそうならファーさんの体調がすぐれないのは栄養失調……いや、脱水症状!? そんな状態で動き回っていたのだとしたら……今すぐファーさんに水を飲ませて下さい! 彼女の命が危険です!」

「命が……? ファー、しっかりしろ! 今水を……あれ、水筒は?」

 グラウたちは携帯していた水筒を探したが、先ほど飛ばされた衝撃で紛失してしまったようで、周囲を探しても見当たらなかった。

「クソッ! ムウィンダジーに戻るにしてもここからじゃ時間がかかりすぎる! それに、女王があんな様子では……」

「……あ」

 リーフは懐の奥深くにしまっていた筒を取り出した。

「リーフ! それは水か?」

「血のスープです……昨日入れてもらった……」

「な……」

「やむを得ません。無理にでもそれを飲んでもらいましょう」

「分かりました」

 リーフはファーのそばに近寄り、筒の蓋を開けた。中から血生臭いにおいが漂ってきた。

「さあ、ファーさん、苦しいでしょうが、頑張って飲んでください」

 リーフは筒をファーに向けて差し出した。しかしファーは、顔を背けてスープを飲もうとしなかった。

「お願いします、ファーさん! このままではあなたが……」

「リーフ君……ごめんね」

 ファーはか細い声で言った。もうリーフの言葉は届いていないような気がした。

「前に君が私を『揺籠に来るべくして来た人』って言ってくれた時、とっても嬉しかった。でも、やっぱり……わたしはそんな大層な人間じゃなかったみたい。それどころか、この世界で生きる意思すら保てない、生き物としての落ちこぼれ。狂っていたのは私の方。だから、私が消えるのは、当然で……」

「ふざけるな!!!」

 グラウはファーを抱えたまま叫んだ。その時、ファーの閉じかけていた瞼が少しだけ開いた。

「君が消えて当然? そんな理があってたまるか! 怖くても、苦しくても、人のために頑張りたいと生き続けて来た君の姿をみて、俺たちがどれほど元気付けられて来たか分からないのか? 君がどれだけ周りに、明日を生きる力を与えてくれたのか分からないのか!?」

「生きる力……? 私が……?」

「そうだよ、ファー」

 ネルはファーの元でしゃがんで言った

「入学したばかりの頃、最初にあなたの方から食事に誘ってくれた時、実は結構嬉しかった。あなたはリーフと『揺籠』に来てから初めてできた、私の大切な友達。あなたがいなくなると悲しい。……それに、私とリーフの行末を見守りたいんじゃなかったの? 死んだらそれも見れなくなるよ。それで本当にいいの?」

「ネル……」

「ファーさんに魔導書やお花のことを教えてもらった時、未知の世界に心が躍りました。私はこれからももっと、私の知らない世界の話をいっぱい聴かせて欲しいです」

「リーフ君……」

「私は、ファー様がこれから世界に羽ばたいていく姿を見てみたいです。あなたならきっと、素敵な未来を作ってくれると確信しています」

「ミュオさん……」

「あなたはまだ気づいていないかもしれませんが、あなたには眩しいくらいの可能性が詰まっているんですよ。世界を諦めるにはあまりにも早すぎます」

「先生……」

「もし、君が、生きることそれ自体を自分の罪だと言うのなら、それは今日から俺の罪だ! 今ここで君に生きることを強制した俺の罪だ! ……俺は罪とかそんなの何ともないから……君が生きていてくれればそれでいいから……だから、頼む……生きれないなんていわないでくれ……置いていかないでくれ……」

 グラウは震える声で言った。

「グラウ、君……」

 皆の言葉を聴いたファーは、口元をキュッとさせてから、リーフからスープの容器を受け取った。生臭い鉄のような臭いで思わず顔を歪めたが、鼻を摘んで少し口に入れた。それから舌でスープを奥へ運んで、喉に流そうとしたが、迫り上がって来た吐き気に押し戻されてしまった。ファーは口から出ていきそうになったスープを手で無理矢理抑えた。心の奥底まで染みついた罪の意識が、その先へ続く道を固く閉ざしていた。苦しくて、これ以上抑えていられそうになかった。そんな時、グラウたちの優しい声援が聞こえて来た。

「頑張って、ファー」

「ファーさん!」

「ファー様!」

「私たちがついています。だから恐れないで」

「ファー!」

 その時、ファーの心の鎖が緩み、少しだけ道が開けたような気がした。彼女はその隙を突くように、一気スープを飲み込んだ。さらに、スープの容器に口をつけてゴクゴクと飲み続け、何と中身を全て飲み干してしまった。

「……ごちそう、さまでした」

 ファーは容器を口から離すと、目に涙を浮かべ、顔を綻ばせて言った。見守っていた皆は歓声を上げ、ネルとミュオは彼女に抱きついて喜んだ。

「ふう、これで一安心ですね。残る問題は……!」

 安堵の表情を浮かべていたリーフたちの目の前に、巨大な塊が静かに降り立った。竜の女王だった。さらに気配を感じたリーフが谷の上に目をやると、大勢の竜たちが顔を覗かせていた。女王は声を上げながらリーフたちに2、3歩近づいた。縦長の瞳孔がリーフたちを睨みつけた。

「何を言ってるのかわかりませんが、ご立腹なのは間違いないでしょうね……」

 ナルブが言った。

(……うっ!)

〈リーフ!?〉

 リーフは耳鳴りで頭を押さえた。

「どうにかして弁明しないと……タフシさんは?」

 グラウが上を見渡して言った。

「さあ……たとえ近くにいたとしても、女王を前にしてあの方が私たちの肩を持ってくれるとは思えませんが」

 ナルブたちがそう話し合っていると、女王は彼らに向けて口を大きく開けた。その口には強大な霊力が集中していることが分かった。

「な……! 俺たちを一掃する気か!」

 グラウが言った。

「そんな……! みんな、ごめん。私のせいで……!」

「諦めるな! どうにか障壁術で……リーフ?」

 その時、リーフは皆の前に出て、大きく息を吸い込んでから、こう言葉を発した。

〈竜の女王よ、どうか私の話を聞いてください!〉

 リーフがそう言うと、女王はバチンと口を閉じ、リーフを凝視した。

「女王が攻撃をやめた……? リーフは今何を叫んだんだ?」

「あの声はまるで……」

 グラウたちが困惑していると、女王はリーフに話しかけて来た。

〈今の声はお前か? どうして我の言葉を話せる?〉

(やっぱり通じた……! それにもう言葉もはっきり理解できる。だったら……これはまたとないチャンスだ)〈……そのことも含めて、お耳に入れていただきたいことがたくさんあります。どうか私と1対1で話をさせてもらえないでしょうか?〉

〈ほう……? 面白い。いいだろう、お前を謁見の間へ連れて行ってやる〉

 女王はそう言うと、リーフを咥えて口の中に放り込んだ。

「リーフ!?」

 リーフが食べられたと思ったグラウたちは仰天した。

「大丈夫です! どうやら女王は私をどこかへ連れていく気のようです!」

「え? どうしてそれが分かるんだ! おい!」

 グラウたちを無視して女王は飛び去って行ってしまった。

〈ソーナ、一応空に帰っていてくれないか? 女王ほどの者ならソーナの気配に気づいてしまうかもしれない。そうなったら話がややこしくなる〉

〈ツッコミたいところはたくさんあるけど……了解。危なくなったらすぐ呼んでね?〉

〈ああ、もちろん〉

 女王はリーフをムウィンダジーの一枚岩の上へ運び、周囲が岩で囲まれた祭壇のような場所の上に着陸すると、そこでリーフを下ろした。ここが謁見の間なのだろう。

〈それで、耳に入れたいこととは何だ?〉

 女王が言った。

〈まずは今回の家畜の脱走の件ですが……〉

〈いや、そのことはもはやどうでもいい。〉

〈え?〉

〈確かに先ほどまでは、我の膝下で狼藉を働いた愚か者どもを焼却してやろうと思ってはいたが……今はそれよりお前のことだ。なぜ我の言葉を自然に話せる? ……それに、よく見ればお前からは妙な気配も感じるな……〉

(妙な気配?)〈……実は、俺自身、自分のことがよく分かっていないのです。お話ししたいことというのはまさにそのことなんです〉

〈何?〉

〈ヴィジーニエで私のコアを解析してもらったとき、私は50年ほど前に生まれたこと、そして、私の先祖に竜がいた可能性が高いということが分かったんです。ですから、不躾ながらお尋ねしますが……人の子を……もしくは私を産んだ記憶はございませんか?〉

〈無いな〉

 女王はきっぱりと言った。

〈そうですか……〉

〈だが……なるほど、お前に竜の『要素』が含まれているのは確かなようだ。妙な気配はそのせいだろう〉

〈え……どういうことですか?〉

〈ふむ……お前はそもそも竜がどのようにして子供を産むか知っているのか?〉

〈いえ……〉

〈なら特別に教えてやろう。竜には人と違って『性』というものが存在しない。しかし、その個体だけでは子を産むことができない〉

〈では、どうやって?〉

〈他のモンスターや生き物のコアを喰うのさ〉

〈コアを!? モンスターは食べ物だと聞きましたが〉

〈ああ、普通に消化してもいいが、女王はコアの中の『因子』をある程度体内にストックできる。そのストックした因子と女王のコアに元々備わっている『因子』を組み合わせて、編集して、子が完成する。そうした『いいとこ取り』を繰り返して、我ら竜はより強靭な種へと成長を続けて来たのだ。この角も、この翼も、その元祖は他の種のものだったのだよ〉

(なるほど……この実習で竜という種の強さを思い知らされて来たが……そうやって勝ち取って来たものだったとは……ん? ってことは……)

〈女王が人を食べたことがあれば、人に近い子を産むことができるのでは?〉

〈まあ、不可能では無いな。我は過去に人を食べたことがあるし、人型のモンスターも食べたことがある。だから、竜の要素を持った人間が生まれる可能性は2つ考えられる。

 ……一つは、不具合で、人に近い子が生まれていた可能性。我は久しく人の因子を使っていないが、意図していない因子が子に反映されてしまうことがたまにある。その存在を我や世話係たちが見落とし、処分されずに生き残っていたということが考えられなくは無い。——そんな見落としはまずありえないと思うが。

 ……もう一つは、はぐれた我が子が密かに人もしくは人型のモンスターを食べて人に近い子供を産んでいた可能性だ〉

〈竜は女王しか子供を産めないのでは無いのですか?〉

〈竜はだれもが『女王』になれる因子を持っている。普段は我がある種の……人間で言うところの『術式』でこのゲヘナ砂漠全体を覆って、その本能を抑えているのだ。だがもし、何かの拍子で砂漠を長期間離れた場合、その者がもう一体の『女王』となるだろう。……それがわざわざ竜より遥かに虚弱な人の子を産むようになるというのは不自然な話ではある。だが実際、我が子の原因不明の失踪はこのムウィンダジーで定期的に発生している。前者よりはずっと可能性は大きいだろうな〉

〈では、私はそうやって……?〉

〈……いや、おそらく、お前はそのどちらでも無いだろう〉

〈え?〉

〈お前……竜を『喰った』ことはあるか?〉

〈ええ!? そんなこと、あるわけが……〉

 だが、リーフは自信を持って『無い』とは言えなかった。彼には失われている記憶があったからだ。

〈……ふん、まあいい。これ以上お前に尋ねても仕方なさそうだ。もう行っていいぞ。ああ、家畜騒ぎのことなら不問にしてやるから〉

 女王は満足そうにその場に寝そべった。

〈あ、ありがとうございます。それでは〉

〈しかし……長生きはする者だねぇ……〉

(……?)

 リーフは最後の女王の呟きが、少し気になったが、今はその場を去ることにした。密かにソーナを召喚してから外に出ると、竜たちが待ち受けていた。

〈他の人間たちは『館』に戻した。ついて来い〉

〈分かりました〉

 当然、竜たちの言葉も完全に理解することができた。

「リーフ!」

 迎賓館に入ると、入り口近くに集まっていたグラウたちがリーフの元に駆け寄った。

「ただいま戻りました、皆さん。ご無事でよかったです」

「それはこちらのセリフだ!」

「私たちはあの後竜たちに谷からここまで連れてこられたんだけど……さっきタフシさんから『今回の騒動は不問にする』って連絡が来たの」

 ファーが言った。

「まさか、リーフさんが女王と話をつけてくれたのですか?」

 ナルブが言った。

「いや、それが……私にもよくわからなくって……実は、実習の前に少しだけ竜語を齧っていたんですけど、それをあの時自棄っぱちで女王に向かって叫んでみたら、どうも気に入られてしまったみたいで……連れて行かれた後はもう必死で、自分でも何を話していたか覚えてないくらいなんですけど、それをみた女王はなぜか満足気に私を解放してくれたんです」

「度胸が買われた……ということだろうか? 何にせよ、物好きな方で助かったな……」


 翌日、ムウィンダジーに別れを告げる時がやって来た。ミュオとリーフが幌馬車に全ての荷物を積み、全員が乗り込んだことを確認すると、ここに来た時と同様、タフシと数頭の護衛の竜たちの付き添いで、里を出発した。やはり竜たちは人間にはあまり興味がないようで、これと言った見送りもなかった。——だだし、リーフだけは、自分に向けられる視線が初日よりも多いように感じていた——そのまま2時間ほど走り続け、大型タクシーへの乗り換え場所にたどり着いた。そこでリーフたちは、タフシたちとの別れの挨拶を始めた。

「タフシさん、短い間でしたが、案内していただきありがとうございました。とてもいい経験をさせてもらいました。……最後の方はご迷惑をかけてしまいましたが」

「いえ、それはもう女王様がお許しになったことですから、もう私には関係ないことです。……しかし……私はこれまで、人語を学ぶ過程で、人間の文化にも少なからず触れて参りました。そんな私だからだと思うのですが……昨日の一件は少し考えさせられるものがありました」

「考えさせられるもの?」

「はい、我々竜は皆『使命』を持って生まれて来ます。『女王様に従う』という使命です。そしておそらく女王様も、『竜を繁栄させる』という使命に従っています。それさえ果たされれば我々は幸福で、他には何も必要としません。

 ……しかし、人にそんな『使命』はない。以前はカエルム教というものがそれにあたると思っていたのですが……それもどうやら絶対的なものではない。つまり人は、無理にでも『使命』決めつけ、その不確かな拠り所に縋ることでしか幸福を得られないということになります。どうしてこのような種がこの世界を生きていられるのだろう、と、前々から疑問に感じていました。

 ……そして昨日のあの事件で、私はその疑問に対する一つの答えを見たような気がしました。皆さんが谷の淵でファー様と対面したあの時、私は遠くから見ていて、詳しいやりとりを聞くことができませんでしたが、ファー様が自ら谷に飛び込もうとしていたのははっきりと見えました。我々竜の社会では、女王様のために死ぬことはあっても、自らの意思で自分の命を断つなど聞いたことがありません。やはり人間は、生きること自体に苦しみを感じてしまう種だったのですね……」

「見られてたんですね……」

 ファーは恥ずかしそうに前に出て言った。

「……すごいですね、タフシさんは。今聴いていて、人という種の真理をかなり突いているように思えました。

 ……確かに、私にとって生きるというのは苦しいことです。私には竜が持っているような『使命』はなくて、何が正しいのか、自分が何をしたいのかもわからなくて、怖くてたまりませんでした。……というか、今も結構怖いです。

 ……でも、最期には『人として生まれて来てよかった』って心からそう言えるような、幸せな人生にしたいなって思います。……それが今の私の、1番の『使命』、ですかね」

「ほう、なるほど……ならば我々は、皆様の人生が幸福に溢れることをお祈り申し上げます」

 タフシたちはファーたちに深々と頭を下げ、別れを告げた。


「……ふふっ」

「……? ミュオさん、どうしたんですか、そんなにニコニコして」

 帰りの車の中で、リーフが尋ねた。

「あ、いえ……あの時のグラウさんの言葉を思い出しまして」

「グラウさん……もしかして『それは今日から俺の罪だ〜』って言ってたやつですか?」

「はい、なんというか、『愛』を感じましたねえ〜」

「うん、告白っぽかった」

 ネルの言葉にグラウは咳き込んだ。

「い、いや、あの時ファーは死にかけてたんだぞ! 必死になるのも無理ないだろ……」

「はいはい」

「ぐっ……」

「ふふっ……私はグラウくんにああ言ってもらってとっても嬉しかったよ? 『勝手に自分ばかり抱え込むな』って言いたかったんだよね?」

「あ、ああ……」

 ファーに対し、少し照れた様子でグラウは頷いた。

「……でも、私は自分の生きる理由を他の人に委ねるようなことはしないつもり。……あの時みんなからもらった言葉を覚えている限り、私はもっと頑張れると思うから。

 ……そうは言っても、きっと私のことだから、これから何度も、ちょっとしたことで気持ちが押しつぶされそうになると思うんだよね。だから……その時は、少しでも肩代わりしてくれると嬉しいな」

「……ああ、お安い御用だ」

 グラウたちは頷いた。

「……兄さん」

「なんだい? ミュオ」

「私、生きる楽しみがまたひとつ増えました。……ここにいる皆様の今後を見届けることです」

「……そう。それはよかったね」


 翌日の昼、リーフ、ネル、グラウは食堂で昼食をとっていた。ファーの注文した料理の提供が遅れていたため、先にリーフたちだけで食べ始めていた。

「おまたせー!」

 ファーは巨大なハンバーグが乗った膳を運んできた。

「それが今日の特別メニューですか」

「でかいな……食べ切れるのか?」

「今日は食欲あるからいけると思う!」

「その様子だと、すっかり回復されたようですね」

 リーフが言った。

「うん……肉を食べることへの抵抗が完全に消えたわけじゃないけど、それで自分を苦しめてもただの自己満足というか、人生から逃げるための言い訳してる感じにしかならないなって気づいたんだよね。

 ……今はそんなことするより、たくさん食べて健康になって、幸せな人生を送れるように頑張りたい。……ところで、みんなは何食べてたの?」

「豆料理です」

 リーフが答えた。

「豆……?」

「先程メニューを眺めていた時、菜食主義者向けっていうのを見つけて、注文してみたんですよ。優しい味でなかなか美味しいです」

「うん、お腹にも優しそう」

 ネルは豆を咀嚼しながら言った。

「豆は肉の代わりになるような栄養が含まれているそうだ。だからこういう料理に使われてるんだろうな」

 グラウが言った。

「え……なんか、私だけ肉を頼んで悪者みたいな……それになんでさっきそのメニューがあるって教えてくれなかったの? ……え、仲間はずれ?」

 ファーは縮こまりながら言った。

「違う違う。俺たちのメニューが被ったのはたまたまだ。この間の君を思い出して、みんな興味を惹かれたんだよ」

 グラウが言った。

「あ……そうだったんだ」

「実はあの後、菜食主義者の食事を少し調べた。彼らは主に豆を肉の代わりにするが、栄養からして豆は完全には肉の代わりにならないそうだ。……だが、今はサプリメントが開発されたことで、肉を食べなくても健康でいられることが可能になったらしい。多少コストはかかるがな」

「へぇ……」

「もし、今後もその方面の技術の発展が進めば、極端な話、他の生き物を殺すことなく人類は生きられるようになるかもしれない。だから、ファーのその、『他の生き物を食べたくない』って気持ちは、捨て切らなくていいと俺は思うんだ。世界は変えられる。なんなら、君自身が世界を変える可能性だってあるんだから」

「そっか……まだ私が何を目指したいのかは分からないけど……うん、頭の片隅には置いておこうかな」

「ああ、それでいいと思う」

「……今はとりあえず『今』を生きないとね!」

 ファーはそう言って、目の前の料理に向かって手を合わせた。

「いただきます!」

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