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4. 壁

 翌朝、リーフは目を覚ますと、諸々の準備を整えて寮を出た。すでに働き始めている用務員もいたが、使用人の業務開始まではまだ時間があったので、準備運動がてら寮の周りを散策してみることにした。

〈ああ〜だるい〜〉

〈疲れてるの? ソーナ〉

〈リーフが昨晩いいようにあたしを弄んでくれたから〉

〈念話だとしても誤解を招くような言い方しないでよ……ソーナが昨日、『お腹空かないし、喉も渇かない。声を出す時以外は息を吸いたいとも思わない』って言うから、適当に霊力を使ってみて、ちゃんと回復するかどうか試してみようってことだったろ?〉

〈昨日の夜よりは『寝た』分回復してるっぽい〉

〈寝た分?〉

〈あー、空に帰ってまた戻ってくる時の感覚が、ぐっすり寝て起きた時の感覚に似てたから、つい〉

〈なるほど……もしかしたらソーナの力は空から持ってきているのかな?〉

〈そうかもね。私が空のエネルギーを持ってきて、リーフがそれに少し手を加えて霊力にしてる感じ?〉

〈だから霊力量のずっと多いソーナを俺が呼び出せたのかな? ……ところでソーナ、乗り心地はどう? 気分悪くなったりしてない?〉

〈ぜーんぜん問題なし。むしろモフモフで最高〉

〈うーん、色々試した結果とはいえ……何だか変な気分だ〉

 昨晩リーフは、ソーナを召喚する際、体の小さい状態で呼び出せることを発見した。それからソーナを人目から隠しつつ、彼女が快適に外の様子を見られる方法を模索した結果、小さいソーナを頭の上に置き、髪の毛で隠すやり方に落ち着いてしまった。リーフはソーナ相手だと簡単に念話が使えるようだったので、念話機を使わずともこうして密かに意思疎通をとることができた。

 リーフとソーナがそんなやりとりをしていると、学生寮の方から白い制服を着た生徒たちがわらわらと出て来始めた。もう登校時間のようだった。生徒たちの中には霊術を使って登校している人もおり、地面を滑るように移動している者、動物や二輪の乗り物を使っている者、さらに空を飛んで目的地へ一直線に向かっている者さえ見られた。

〈なんて言うか、登校してるだけでも個性がすごいな。街中では霊術使って移動してる人はたまにしか見られなかったけど〉

 リーフは遠くから生徒たちを眺めて言った。

〈この雰囲気も懐かしいな〜。『揺籠』内は広いし、霊力量が有り余っている人が多いから、こうやって自由に移動している人が多かったんだよね〉

〈ソーナが『揺籠』にいた時はどんなふうに登校してたの?〉

〈普通に歩いてたよ? その頃のあたしは慎ましく過ごしてたから〉

〈ええ? 慎ましく? ソーナが?〉

〈何その疑いの念は?〉

〈後でネルさんに確かめてもらわないと……〉

〈はあ?〉

〈あ、噂をすれば〉

 リーフはネルが他の生徒にに混じって登校しているのを見つけた。彼女は普通に歩いていた。

〈あ、ネルだ。あの子の髪色、遠くからでも目立つね〜……〉「やっほ〜! おはよう、ネル!」

 ソーナはネルに向けて叫び、リーフの髪からやや顔を出して手を振った。

〈ちょっと! 慎ましくしてよ!〉

 それを聴いたリーフは慌ててソーナを髪の中に押し戻そうとした。

〈ダイジョーブだって。声に指向性つけたから。今の声はネルと、あたしの体に触れていたリーフにしか聞こえてない〉

〈シコウセイ? そうなの?〉

 リーフが周りの生徒を見渡すと、あれだけソーナが叫んでいたにもかかわらず、こちらに反応している様子は一切なかった。しかしネルだけはこちらに気づいて、ぎょっとした顔をしていた。突然ソーナの声が聞こえたことと、そのソーナが小さくなってリーフの頭の上に乗っていたことに驚いたのだろう。ネルは周囲の様子を見て状況を察したのか、すぐに落ち着きを取り戻した後、リーフたちへ向けて手元で軽く手を振った。それを見てリーフたちは手を振り返した。

〈さてと。俺もそろそろ仕事の時間だ。作業中はあんまり話しかけないでよ、ソーナ。まだこの話し方も慣れてないし、混乱するかもしれないから〉

〈はーい。それじゃあ、じっくりたっぷり見届けさせてもらおうか〉

〈それはそれでなんかやりずらいな……〉


 リーフは昨日と同様に寮の前に集合し、ミュオと合流して仕事に取り掛かった。今日の午前中の仕事は寮周辺の屋外の清掃だった。

「リーフさん、昨日はよく眠れましたか?」

 作業中にミュオからリーフに話しかけてきた。

「はい。それはもうぐっすりと。静かで快適な寝床でした」

「それはよかったです。確かにこの辺りは街の喧騒から離れていて、ヴィジーニエの中でも特に穏やかな場所と言えるかもしれませんね……あら?」

 そんな会話をしていた二人に向かって、全速力で走ってくる生徒がいた。昨日一緒に昼食を食べたファーだった。彼女は穏やかではない表情を湛えながら目にも止まらぬ速さでリーフたちの横を通り過ぎた。そのせいでリーフたちはファーが連れてきた突風に襲われることになった。

「きゃっ!」

「うっ、大丈夫ですか、ミュオさん」

「はい……少しびっくりしただけです」

〈ソーナも大丈夫?〉

〈うん。若いだけあって毛根丈夫だね。リーフ〉

〈ちょっと痛かったけどね……〉「……今のはファーさんですよね? かなり慌てていたようですが……」

 リーフがミュオに言った。

「この時間ですから、おそらく遅刻寸前で急いでいたのではないでしょうか?」

〈さっき通り過ぎる時『遅刻遅刻遅刻』って独り言してたの聞こえた〉

〈なら遅刻か〉

〈それにしてもすごい速度だったね〜。あたしが全力出してもあれには追いつけないかも。あの子、運動系霊術が得意なんじゃないかな?〉

〈へぇ。ソーナの目から見ても速く見えたんだ。……確かに、この『揺籠』にいるんだから、ネルさんやソーナみたいな才能があってもおかしくないんだよな〉

 リーフとミュオは気を取り直して作業を再開した。

「あ、そういえばミュオさん。昨日ネルさんから聴いたんですけど。ナルブ・アルカ先生という方がネルさんたちのグループの担任になったそうなんです」

「まあ、そうだったんですか」

「それで、その人、ミュオさんと同じ苗字だってことに気づきまして。何か関係がある人だったりしますか?」

「ふふっ、何だか昨日とは逆の立場になってしまいましたね。……はい、ナルブは私の兄です」

 ミュオは少し照れくさそうに言った。

「そうだったんですね! まさか主人ともどもアルカ家の皆様のお世話になっていたとは……こんなこともあるんですね」

「ええ、そうですね……」

 ミュオはぎこちなく頷いた。

「あれ、もしかして、私に知られたくなかったですか?」

「いえ! 全然そんなことは」

 ミュオは激しく首を振り、こう続けた。

「実は、私がここで働かせてもらえるのは兄が口添えしてくれたおかげなんです」

「ナルブ先生ってそんなに影響力のある方なんですか?」

「いえ、そうでもない……と思います。当時から用務員は人手不足だったみたいですし、一応私には用務員の経験がありました。その上で、『揺籠』で教鞭を執り続けてきた兄の推薦なら信用できるだろうという理由で採用してもらえたんだと思います。

……ただ、なんだかずっと、兄の優しさに甘えて、ずるいことをしてしまっているようで、気が引けてるといいますか……」

「ずるい? どうしてですか?」

「え……リーフさんはそうは思わないんですか? 世の中には自分一人の力で頑張っている人だってたくさんいるのに……」

「う〜ん、私も、ネルさんのおかげでここにいるようなものですからねぇ……」

「あ、えっと、私とリーフさんはまた別の話だと思いますが……」

「そうですかね? 何にせよ、本当に自分の力だけで生きてきた人なんてほんの一握りだと思いますよ。この『揺籠』の生徒の中でもいるかどうか。大体の人は、始めは環境とか、巡り合わせとか、そういうのに頼って生きてきたんじゃないでしょうか? ミュオさんにとって、その一つがナルブ先生だったみたいに。

 ……そういったものを自分の為に利用するのは決して罪ではありません。むしろ、それができるのに使わないのは……何というか、『生きているものとして失礼』だと思います」

「失礼って……で、でも私は、今の待遇に見合うだけの努力をしていないような気がして……」

「『努力』ですか。うーん、努力はあまり人と比べられるものでもないと思いますが……少なくともミュオさんはその待遇に見合うだけの『行動』はしてきたんじゃないですか?」

「行動?」

「ナルブ先生がどんな方かはまだ知りませんが……ただ家族だからという理屈だけであなたを気にかけていることはないと思います。きっと、あなたが彼の優しさに甘えず、それに応えようと『行動』してきたからこそ、彼はあなたの力になりたいと思ったのではないでしょうか? 

 ……それに、まぐれでこの多忙な仕事を20年勤め上げられることなんてないと思います。これこそ、あなたが甘えずにこの仕事に向き合い続けた『行動』の結果と言えるのではないでしょうか」

「リーフさん……」

 気がつくとミュオはポカンとした顔をリーフに向けていた。

「あ、すみません。変に語ってしまって。まだここにきてたったの2日で、何を偉そうにって感じですよね」

「いいえ、むしろなんだか、胸のつかえが下りたような心地です。ありがとうございます」

「それならよかったです」

「……少し話に夢中になり過ぎましたね。ちょっと急ぎ気味で作業を進めましょう」

「はい」

〈いいこと言えたみたいだね、リーフ〉

〈だといいけど。……でも、結局怪しい話は出てこなかったな。ネルさんの話によるとナルブ先生には何かがあるみたいなんだけど〉

〈ミュオはあんまり関係してないのかもね〉

〈う〜ん。まあ、その辺りは気長に探っていくとするか〉


 リーフたちが一通り作業を終えると同時に、昼休みを告げる鐘の音が聞こえてきた。リーフとミュオは一緒に食堂へ向かった。

 食堂に入ると、昨日より生徒の人数が少ない気がした。

「あれ、ネルさんもファーさんも見当たらない。どうしたんでしょう?」

「おそらく、今日は午前の講義が早く終わって、先に昼食を食べてしまったのではないでしょうか。今日は鐘がなる前から外を出歩いていた生徒が多かったですし」

 そういう訳で、今日はミュオの紹介で使用人、用務員たちと食事を摂った。昨日はミュオ以外の用務員たちとは交流できていなかったので。初めて挨拶する人が多かった。

「そうだ。ミュオ先輩。もしよかったらこの後ちょっと助けていただけませんか?」

 もうすぐ食事が終わりそうな頃、ミュオの後輩用務員が話しかけてきた。

「どうしたの?」

「研究棟の方の作業で分からないところが出てきてしまって……昼休みの間だけでいいので教えていただけませんか?」

「研究棟か……そしたらリーフさん、この後研究棟には私だけで行きますので、昼休み終了時刻までに噴水広場に行って、そこで待っててもらえますか? 次の仕事場所はあの辺りなので」

「いいですけど……私も研究棟についていくのはダメですか? 今後の仕事の勉強になるんだったら見学したいんですけど」

「すみませんリーフさん。使用人の方は研究棟には入れないんです」

「そうなんですか?」

「昔、ある使用人の方が研究成果を外に漏らしてしまった事件があったとかで……それ以来、東側エリアの大体の施設は、許可された者以外、立ち入りが禁じられるようになったんです」

「そうですか。……それなら仕方ないですね。適当に時間を潰すことにします」


 昼食の後、リーフはミュオと別れ、北側の校舎内を散歩することにした。

〈ここって広いし、いろんな施設があるから全部回ろうとしたらすぐ時間が過ぎてしまいそうだ。ソーナ、この辺りのおすすめの施設とかある?〉

〈この辺りだと……資料室とか? 質のいい歴史書とか、一定のテーマに沿ってまとめられたスクラップブックとか置いてあったはずだから、カエルム教会の過去の動向とか探るのにいいかも〉

〈へぇ、それは便利そうだな。じゃあそこにいってみるか。案内できる?〉

〈まかせて。……もう400年以上前のことのはずだけど、意外と思い出せるもんだね〜〉

 リーフはソーナの案内で生徒たちの行き交う廊下を進み、資料室の前にたどり着いた。

 中に入ると、本を中心とした資料がたくさん詰まった広い部屋が現れた。以前ネルと文字の勉強をした大図書館に比べると規模は見劣りするが、その分質の良い情報が詰まっているということかもしれない。ところどころに置かれている椅子とテーブルには静かに読書をしている生徒が何人か見られた。

〈さて……来てみたはいいけど、これじゃあどこから手をつけたらいいものか〉

〈一応、その辺に設置されてる端末で検索すれば自分の見たいジャンルの資料を探せるはずだけど〉

〈う〜ん、今はじっくり探す時間はないだろうし……まずは一回りして、大体どんな資料があるのかこの目で確かめてみたいな〉

 リーフは棚の間を歩き回りながら、置いてある資料の題名を流し読みして回った。難しい言葉が多かったが、どれも興味をそそる雰囲気の資料ばかりだった。できれば内容を全部見てみたいと思ったが、今のリーフにはその時間は無かった。

〈……羨ましいな〉

〈え? どうしたのリーフ?〉

〈『学校』っていうのがどうゆう場所なのか、今やっとわかった気がする。ここにはきっと、どんな冒険でも得難い学びと発見が詰まってる。ここの生徒たちは湧き上がる好奇心のまま、その喜びに、たっぷりと浸ることができるんだ〉

〈あ、そっか……リーフは学校みたいな場所に通ったことがないんだね〉

〈本来、俺がこの世界に触れることができただけでこの上ない幸運なんだろうけど……それでも、想像してしまった。ネルさんや、ファーさんのような人たちと一緒にそんな日々を過ごすことができたら、どんなに『幸せ』だろうって〉

〈……いいんじゃないかな。想うくらいは。……ていうか、いっそリーフも入学しちゃえば? あたしを呼び出すその力があれば、試験も突破できるよ、絶対〉

〈それは魅力的だね。……でも、その前に俺は、この身に背負わされた因縁と決着をつけないと〉

「リーフ? ……あなたも何か調べに来たの?」

 リーフたちを見つけたネルが向こうからやってきて、小声で話しかけてきた。

「あ、やっほー、ネル」

 ソーナは髪から少し顔を出してネルに向かって手を振った。

「やっぱり小さくなったんだね、ソーナ。朝見た時は一瞬目がおかしくなったのかと思ったけど」

「おどかしてごめん、ネルさん。……俺は資料室を下見程度に見て回ってたんだけど、ネルさんは何してたの?」

「今日は午前の講義が早く終わって、ファーがお腹空かせてたから昼食を早めに済ませた。それで時間が余ったから、ちょっとでもカエルム教会のこと調べてみようと思ってね。まだ成果は出てないけど」

「あれ? 向こうに座ってるのファーだよね?」

 リーフはネルの後ろを指差して言った。

「うん、私が資料室に行こうとしたら、なんか着いてきた」

「あー、今日の朝爆速で登校してた子か。なんか暗ーい響きのため息ついてるね。嫌なことでもあったんじゃない?」

 ソーナは耳を澄ませて言った。

「まあ、私は大体理由、分かるけど……気になるなら本人から聴いてみれば?」

「ふーん? なら遠慮なく」

 リーフたちはファーのところへ向かった。彼女は物憂げな表情で、片肘をついて本を眺めているようだった。

「こんにちは、ファーさん」

 リーフはファーのそばに立って挨拶をした。

「あ! リーフ君!」

 ファーは驚いて開いた口を慌てて手で抑え、リーフの方へ体を向けた。

「何の本を読んでいたんですか? ずいぶん分厚いですけど」

「あ……これは花の魔術書だよ」

 昨日の食堂での一件で彼女の心の距離が縮まったのか、ファーは敬語抜きで話すようになっていた。

「魔術書?」

「え? 魔術書知らないの? 小学校で必ず読んでるはずなんだけど」

「あ、え、え〜と……」

「ごめん、ファー。この人訳あって教養が絶望的で」

 ネルが横から言った。

「あ、そうなの? そっか、そういう人もいるんだね……ん? でも、そんな二人どうやって出会って、結ばれたの……? き、気になる……」

「ファ、ファーさん?」

「ああ、ごめん。……魔術書っていうのはね、霊術の使い方を教える目的で使われる物語なんだよ」

「物語? それで霊術を教えるんですか?」

「霊術はイメージの力ってよく言われるけど、それってつまり、霊術も感情の一種みたいなものなんだよね。だから、学校みたいな場所で誰かに霊術を教えるのってとっても難しい。例えば、『悲しい』って感情をいくら言葉で説明しようとしても完全に理解させるのは難しいでしょ?」

「まあ、そうですね」

「でもきっとリーフ君はいままでいろんなことを経験して、いろんな人の話を聴いて、嬉しいってどんな感情か、悲しいってどんな感情かなんとなく理解してきたよね? だったら、感情を理解させるには言葉でややこしい説明をするより、『体験』をさせてあげればいい。というわけで注目されたのが『物語』。

 ……物語を読むと、登場人物を自分と重ね合わせたり、今まで想像したことないようなシチュエーションを頭に思い浮かべたりして、自分の知らない感情が湧いてくることがあるよね? それを物語の文章中にある表現と結びつけて、これが嬉しいってことなんだ。これが悲しいってことなんだって、感情表現を掴むきっかけになることもある。これが物語の持つ『擬似体験の力』なんだ。物語のそんな力に注目したのが魔術書ってこと」

 リーフは、フォラシアにいた頃、ソーナに色んな物語を聴かせてもらったのを思い出し、なるほど、と思った。昨日は霊力場の「色」を使って霊術を教えている教員がいたが、昔からエピセンティアの人たちはどのように霊術を後世に伝えるか、様々な工夫してきたということだろう。

「それで、今ファーさんは花関連の霊術を習得しようとしてるってことですか?」

「ううん、私は純粋に物語を楽しんでるだけ。それに、ここの資料室は今では珍しい、古いバージョンの魔術書が収蔵されてるみたいだから、絶対に読まないとって思って」

「古いバージョン?」

「魔術書って昔から変わっていないように見えて、実は何回か世代交代してることが多いんだよね」

「世代交代? どういうことですか?」

「『魔術書』っていうのは、一つの物語を指す言葉じゃなくて、どっちかっていうと『称号』を表すものなんだよね。だから、後から書かれた二次創作物が、市民の間で人気になったり、偉い先生の間で高い評価を得たりした結果、教育に使われるようになって『魔術書』と呼ばれるようになったものもある。

 ……もし、既に『花の魔術書』と呼ばれるものが既に存在する中で、新たな花の霊術に関する物語が広まって、それが有名になってしまった場合、『花の魔術書』の称号は新しく人気になった物語に移り、古い方は忘れ去られてしまう、なんてこともある。私が今読んでいたのはそんな『古い魔術書』なんだ」

「はあ、そういうものなんですね」

「うん、同じ霊術がテーマの本でも、切り口が違ったりして面白いよ。それに、魔術書はエピセンティアの文化とも深い関わりがあるんだ。例えば、この近くを流れるオケア川の名前は水の魔術師オケアからきてるし、洗礼名に使われるのも有名な話だね」

〈洗礼名?〉

〈カエルム教に入信するときにもらう名前だね。あたしの洗礼名はムーサ。これは音の魔術師ムーサからきているみたい。あたしのフルネーム『ソーナ・M・ルーフス』の『M』が洗礼名を略して表現した部分だよ〉

〈へぇ〜〉「ファーさんの洗礼名はなんて言うんですか?」

「私は、えっと……ごめん、あんまり言いたくない」

「え? どうしてですか?」

「敬虔なカエルム教徒の中には自分の洗礼名をみだりに言いふらすものではないって考えの人もいるから、そういう質問は控えた方がいいよ、リーフ」

 ネルがリーフに言った。

「そ、そうなんだ。大変失礼しました。ファーさん」

「う、ううん、気にしないで。私からこの話題しちゃったんだし」

(ネルさんだってこの話題はしたくないだろうな……多分、心を読む能力を表す洗礼名なんだろうし。迂闊だった)

 ファーは咳払いをして話を続けた。

「後はね、魔術書って物語としてもとても面白いんだよ! 100を超える魔術師たちの関係性が緻密かつダイナミックに描かれていて、特に炎・雷・氷の三角関係なんて……」

 内容を語り出したファーは次第に早口になり、瞳孔も次第に開いていった。リーフは危険な気配を本能的に感じ取ったため、早めにこの話をやめさせることにした。

「あ、あの、ファーさん、もうそこから先は結構です。あとは自分で読んで確かめたいので」

「あっ、確かにこれ以上はネタバレになっちゃうよね。ごめん、つい熱くなっちゃって……ところでリーフ君は何しに資料室に来たの?」

「私は散歩がてらここに寄っただけだったんですけど……たまたま浮かない顔をしているファーさんを見かけまして。気になってつい声をかけてしまったんです」

「あ……そんなに顔に出てた?」

「よかったら何に悩んでいるのかお話ししてもらえませんか? お力になれるかは分かりませんが、話すだけで気がまぎれることもありますし」

「うーんまあ、リーフ君にはいずれ知られることだろうから……実は、午前中のグループ課題で、グラウ君と言い争い……とまではいかなくてもちょっと気まずい空気になっちゃって……」

「グラウさん……というのはファーさんのグループメンバーの方ですよね。昨日の昼食への誘いに彼だけ来なかったという……そのグループ課題で何があったんですか?」

「私たちの課題は今のヴィジーニエの『貧富の差』について話し合って、意見を発表するってものだったの。まず、ネルは経済的に余力のある人たちが貧しい人たちに援助したり、自立の支援をさせてあげるべきって意見を出した。私の意見もそれと似たようなものだった。お金がないとそれだけで情報とかチャンスとかが巡ってきにくくなると思うし、それをそのまま放置してたらなんか……争いとかになりそうだなって思ったから」

「ふんふん、なるほど?」

「それで最後にグラウ君の意見を聞こうとしたんだけど……あの人は何故か最初から乗り気じゃなくて……『小学校の道徳かよ』とか『こんなことのためにここに来たんじゃない』とか言って、なかなか意見を言ってくれなかったのね? ……でも、あの課題は全員で意見を言い合うことを目的にしてたから、あの人を無視するわけにはいかなかった。それで私たちが根気よく説得したら、グラウ君はやっと口を開いてくれた。

 ……だけど、彼が話した内容はちょっと……ひどくて。『今ある制度で救済措置は十分だ。それでも這い上がれないやつは救いようがない』とか『中途半端に甘やかすな』とかいう内容ばかりで、建設的な意見を全然言ってくれなくて。ちょっと極端すぎなんじゃない? って私が言ったら、『お前は苦労を知らないからそんなことが言えるんだ』って、もはや議論と関係ない暴言いわれて。——あんまり言い返せなかったんだけど」

「それは……完全に言い過ぎですね」

 縮こまったファーの代わりにネルが続きを話し始めた。

「それを見かねた私は彼に『それ以上言ったら評価に響くよ』って主旨の内容を仄めかすように言うしかなかった。彼の言葉は『あまねく全ての人々に愛を持って接する』って言うカエルム教の理念に明らかに反するものだったから。それでひとまずその場は収まったけど、彼は課題への参加を放棄してしまった。結局、彼の意見は無視して発表するほかなかった」

「そうか……大変だったんだね、ネルさん」

 ネルの話が終わると、ファーは深いため息をついた。

「それで、魔術書読んで気を紛らせようと思ったんだけどさ……あの時言われた言葉が頭の中で反響して全然消えてくれなくて。……でも、やっぱりひどいよねグラウ君! だって……」

「……うるさいぞお前ら。資料室では静かにしろ」

 リーフが声の方へ目を向けると、青い髪の青年が本棚の裏から現れた。髪や耳、首や手首などの至る所に装飾具を身につけており、なかなか攻撃的な見た目をしていた。

「グラウ君!? まさか今の聴いてた……?」

 グラウはファーの言葉を鼻であしらい、そのまま資料室の出口へ向かおうとした。

「ま、待って!」

 ファーは椅子から立ち上がり、グラウを呼び止めた。

「……何だ?」

 グラウは足を止め、ファーの方へ顔を向けた。その鋭い目つきに彼女は怯み、目を逸らし、両手を胸の前で組んだが、それでも声を絞り出すように彼と話し始めた。

「その、この際はっきり言っておきたいことがあるんだけど……どうしてグラウ君、私たちに対して当たりが強いの? 私、君に嫌われるようなことした覚えないし、それどころかまだ出会ってばかりでお互いのこと全然知らないのに……」

 グラウはそれを聴いて深いため息をついたあと、口を開いた。

「この際だから俺もお前らにはっきり言っておく。俺はお前らと知り合いになるつもりはない。興味も湧かない。どうせお前らとは『揺籠』にいる間だけの縁だ。くだらん青春ごっこに時間を潰す気はない」

「知るつもりはないって……私たちこれから一緒に沢山の課題に取り組まなくちゃいけないんだよ? だから、友達とまではいかなくても……ある程度お互いの得意不得意を知るくらいの仲にはなってもいいと思うんだけど」

「課題、ね。……正直、さっきのグループ課題は失望した。『大樹の揺籠』がどんな教育をするかと思えば……飛んだ茶番だ。そんなに教員たちに阿りたければお前らで勝手にやってろ、俺は俺のやりたいようににやらせてもらう」

「そ、そんなの許されるわけないよ! ねえ、ちょっと!」

 グラウはファーの言葉を無視して資料室を出て行ってしまった。ファーはそんな彼にこれ以上声をかけることはできず、頭を垂れて、椅子に座りこんだ。リーフには彼女が目に涙を浮かべているのが見えた。

「ネルさん、ちょっとファーさんのことお願い」

「うん、分かった」

 リーフはグラウを追いかけて急いで資料室を出て、廊下を見まわした。幸い、彼はそれほど離れてはいなかった。

「グラウさん。お待ちください」

 リーフはグラウに声をかけながら、彼の前へ回り込んだ。彼は立ち止まってリーフを見下したが、リーフは真っ直ぐに彼の目を見据えた。

「申し遅れました。私はネルさんのおつきのリーフと……あ」

 グラウはリーフを無視して傍を通り抜けようとした。しかしリーフは後ろに下がってグラウを逃さなかった。

「僭越ながら、私はネルさんのグループの一員であるグラウさんにも尽くさせていただきたいと思っています。ですから、どんな些細なことでもいいので……」

「邪魔だ。どけ」

「な……」

 リーフの目はグラウの右手に霊力場が発生するのを捉えた。

(霊術だ。来る!)

 その瞬間、グラウの右手から高速な光弾が放たれ、リーフの左腕に命中してしまった。

(くっ……! あれ、痛くない?)

 グラウは間をおかず、2発目の光弾を付近の壁に向けて放った。その光弾が壁に着弾すると、壁の着弾点とリーフの左腕の着弾点が霊力の線で繋がれ、それに引っ張られるようにリーフの体が壁に叩きつけられた。

「うっ……何だこれ、とれない……」

 リーフがいくら引っ張っても左腕は壁から離れなかった。

「俺はお前のように、他人の脛を齧ってのうのうと生きてる奴が大嫌いだ」

 グラウはそう言い残すと、リーフを放置して去って行った。

〈リーフ、大丈夫?〉

〈うん、ちょっとびっくりしたけど……これくらいなら俺でも切れそうだ〉

 リーフは創造術で右手の指に小さな刃を作り、左腕と壁の間に刃を通して線を断ち切った。すると、線は砕けてそのまま消滅した。

〈追いかける?〉

〈いや、言いたいことは言えた。あとはしばらく様子見しよう。……しかし、一本取られたのは悔しいな。何か撃ってくるところまでは読めてたんだけど、逆にこちらが避ける方向を読まれてた感じがする〉

〈うん、あたしもそんな感じした。なかなかの腕前だったね〉

〈『揺籠』は能力のあるものが集まる場所。彼もその例外ではないってことか。……でも、なんだか彼の振る舞いは不自然だ。『お前は苦労を知らないから』とかファーさんに言ったらしいけど〉

〈なんか余裕なさすぎ〜って感じだよね。……あ、もしかしたらあの子は際立ったタレンタムを持ってないのかも〉

〈と言うと?〉

〈『揺籠』は卓越したタレンタムを持つ人だけじゃなくて、若くしてすごい功績を残した人とかも入れるから。——とは言っても、タレンタムを持たない人が合格するのはかなり稀なことなんだけどね——だから、『俺はお前らと違って実力で合格したんだー!』って思ってるとか〉

〈なるほど……でも、それだけの理由でああまでなる?〉

「リーフ!」

 資料室を出たネルとファーがリーフの元に駆け寄ってきた。

「大丈夫? 変な物音が聞こえた気がしたけど……」

「大丈夫。挨拶しようとしたらちょっと突っぱねられただけだから」

「……私、はっきり言って、どんなに頑張ってもこの先、グラウ君と一緒にいるのを耐え切れる気がしない。ナルブ先生に頼んで、メンバー、変えてもらわない?」

 ファーは俯きながら言った。

「うん、私もそれでいいと思う」

 ネルは頷いて言った。

「……あの、差し出がましいのを承知で言いますが、それをするのはもう少しだけ待っていただけませんか?」

「え?」

「リーフ君、どうして?」

「確かに、今のグラウさんのやり方が正しいとは思えません。今のままではそう遠くないうちに限界が来るでしょう。でも、私は彼がそうならない道をなんとか探したいんです」

「そんな、無理だよ〜。さっきもかなり頑張って話しようとしたけど、全然取り合ってくれなかったんだよ?」

 ファーは首を横に振りながら言った。

「私たちが彼にそこまで気を遣う必要なんてない。先生たちに任せて置けばいい。きっとこういう事態にも慣れてるだろうから」

 ネルがリーフに言った。

「でも、それで必ず彼が救われるとは限らないですよね? ……実は、彼の様子を見て、個人的に少し思うところがあって……皆様に彼のことを見捨ててほしくないんです。それに、皆様には彼のことを受け入れられるほどの人徳があると私は思うんです」

「人……徳?」

「先程ファーさんから、『貧富の差』に対する二人の回答を聞いた時、私は二人の懐の深さに感激しました」

「えっと、あれは……模範回答を考えただけっていうか……」

「私はそれだけだとは思えません。ネルさんは何も持ち合わせていない私を受け入れてくれました。ファーさんは初対面に怯えながらも、ネルさんやグラウさんを食堂に誘うなどして、相手のことを知ろうと努力しているように感じました。そして、資料室でグラウさんと出くわした時、彼に酷いことを言われて落ち込んでいたにもかかわらず、ファーさんは彼と向き合おうとしました。

 ……お二人のその、『他者を想い、行動する』姿勢は、この世の何ものにも代え難い、美しい素養です。『大樹の揺籠』は世界の未来を担う方々が集う場所だそうですが、今なら断言できます。お二人はここに来るべくして来られた方たちだ、と」

「急にそんなおだてられても……」

「リーフ君!」

 ネルの文句を遮るようにファーは前に出て、リーフの手を両手で掴み、上下にぶんぶんと激しく振った。その目からは大粒の涙が溢れて散っていた。

「ありがとう、ありがとう! 私のことを、そんなふうに言ってくれるなんて……うん、私決めた!」

 ファーは涙を拭ったあと、続けてこう言った。

「グラウ君と向き合うの、もう少しだけ頑張ってみる! 『あまねく全ての人々に愛を』……。『揺籠』の生徒である私がこれを実践していかないと。……それに、自分のことを知ってもらえないまま嫌われて終わるのも、なんだか悔しいし」

「ありがとうございます。ファーさん」

「ファー、リーフと少し二人で話したいんだけど。いい?」

 ネルはファーの前に割り込んで言った。

「え、はい! どうぞごゆっくり!?」

 ネルはリーフを引っ張るように連れて離れ、小声でリーフと話し始めた。

「リーフ、どういうつもり? 私が『視た』限り、彼がリーフの過去と関わってる可能性は低い。いつ『敵』に捕捉されるかわからない今、余計なことに時間は使ってられない。それはリーフが一番分かってるはずだよね?」

「うん。でも、俺たちはまだ情報収集の段階で、具体的にやらなきゃいけないことは何も分かってない。のんびりはしてられないけど、俺の過去にまつわるこの問題は、一朝一夕に解決できるものでもないと思うんだ。何ヶ月……あるいは何年もかかるかもしれない。俺の経験上、そんな長期戦に挑む時は、まず足場をしっかり固めた方がいい。

 ……それにさ、本当にネルさんはグラウのこと見捨て切れるの?」

「え?」

「ネルさんは人より人のことが見えてしまう人だ。そして、曰くだらけの俺ことすら見捨てなかった。仮にグラウがグループから抜けても、彼が目に入るたびに気になって何も手につかなくなったり……」

「ば、馬鹿にしないで。第一、グラウとあなたは……いや、いい。文句を言うの疲れた。善処はする。少なくとも、ファーがやる気なうちは」

「ありがとう、ネルさん」

「うんうん、みんな若いんだから、やりたいことやって楽しんじゃいな」

 ソーナはリーフの髪の中で頷きながら言った。




 リーフたちはその後、グラウとは真摯な態度で接するように努めるようにした。しかし、彼の横柄な態度が変わることはなく、そのまま1週間が経過した。

 放課を告げる鐘が響き、リーフがこの日のミュオとの仕事を終えると、ネルからの念話がかかってきた。

「もしもし、ネルさん?」

「リーフ、これから南の校門前に来れる? これからファーと買い物に行くんだけど、荷物持ちをお願いしたくて。たまには私の使用人らしいとこ、見せてもいいよね?」

「了解。すぐ支度して向かうよ」

「一応、許可証は忘れないで持ってきて」

 念話が切れると、小走りで準備に向かった。

〈みんなでお買い物か〜。楽しそうだね〜〉

 髪の中のソーナが念話で言った。

〈うん、俺も楽しみ。『揺籠』に来てから本校舎区画の外には全然行ってなかったし〉

 リーフは自分の寮の部屋で軽く準備を整えてから校門へ向かった。校門にはすでにネルとファーが待機していた。

「お待たせしました」

「大丈夫だよ〜。私たちもついさっきここに着いたところだから」

 ファーは笑顔を見せて言った。彼女もみんなでの買い物が楽しみで上機嫌といった様子だった。

「ん? リーフ君、その背中に背負ってるの何?」

 ファーは指差していった。

「ああ、これは背負子ですよ。たくさん荷物ができても運べるように持ってきました」

「これ手作り?」

「え? あ、はい、そうです。自分の体に合ったものにするにはそれしかなくて……」

「へー、器用なんだね!」

 その背負子はリーフがフォラシアからエピセンティアに向かう道中で使っていたものだった。フォラシアの暮らしでは、欲しい道具は自分で作らざるを得ないことが多かった。

「それで、これからどうするの?」

 リーフはネルに尋ねた。

「念話で大型タクシー呼んでおいたから、それに乗って店を回る」

「大型タクシー?」

 リーフがそう話していると、ちょうど校門前に一台の車が停車した。

「あれだね。乗ろう」

 ネルとファーはタクシーの運転手に学生証を見せて乗り込んだ。学生証を持っているものはスカライ山の中の『大樹の揺籠地区』内なら無料で自由に利用することができることになっていた。リーフは学生ではないが、使用人にもらえる許可証を見せることで、同様の待遇を受けることができた。

 3人が乗り込み、ネルが行き先を告げると、タクシーは出発した。

「すごく広いタクシーですね」

 リーフは車内を見回して言った。後方は座席がなかったが、広さだけで言えば8人は余裕で座れそうであった。

「これからたくさんのものを買わなきゃいけないから」

 前の助手席からネルが言った。

「皆様はこれから何を買いに行くんですか?」

 リーフは二人に尋ねた。

「実は、私たちは今週末に『冒険実習』っていうのをやることになったの」

 ファーがリーフに言った。

「冒険実習? なんだか面白そうな響きですが……」

「冒険実習っていうのは、『大樹の揺籠』特有の実習で、非日常的な体験を通した心の成長を目的に行われるもの」

 ネルがリーフに言った。

「心の成長?」

「普段は味わえない体験をすることで、自分の知らない自身の素質に気づく機会を得ることができる。また、仲間と一緒に困難に立ち向かい、課題を達成する喜びを知ることができる。そういう経験が、のちに世界を支える人間の心を育む。……そういう理由で行ってるらしい」

「なるほど……それが『揺籠』主導で行われるとは。なんというか、ずいぶん手厚いですね」

「才能ある者の心を育てるっていうのは、ヴィジーニエにとってそれだけ大切なことだって言うこと」

〈その辺をいい加減にしてたら、最悪モンスターに変異する人とか出るかもだからね〉

〈そうか……フォラシアと違って、エピセンティアは人一人に世界を揺るがす力が宿ることだってありうる。だから、一人一人に正しい心が宿るように気を遣わなきゃいけないんだな〉「……それで、今回ネルさんたちは何をするんですか?」

「本来冒険実習ってグループごとにやりたい内容を話し合って決めるみたいなんだけど……初回は全員、スカライ山山頂付近までを一泊二日で登ることになってるみたい。今日はそれに必要な道具とか食料を買いに行くんだ」

 ファーがリーフに言った。

「一泊二日、ですか。確かに、大荷物になりそうですね。……冒険実習はグループで行動するんですか?」

「そうだね。ナルブ先生の引率で。……もちろん、グラウ君もいっしょなんだけど、今日の買い物に誘ったら案の定断られちゃった。『自分の道具は自分で買うから、あとはお前らに任せる』、だって」

「相変わらずですね……今回の冒険実習で少しは打ち解けてくれたらいいんですけど」

「最終的にはグラウ君次第だからね〜。ここまできたらグラウ君のお姉さんにでもなったつもりで、どっしり構えて待つことにするよ」

 程なくしてタクシーはとある店の前に泊まった。ネルは運転手に駐車場で待っているように頼むと、3人は車から降りて、店の中に入った。

 中に入ると上着やバッグがぎっしり並んだ棚が目に入ったが、その奥には何に使うのか見た目だけではよく分からないような小物がたくさん置いてあった。

「わあ、広いですね。ここは一体……」

「ここはアウトドア用品店。登山に必要な道具は全部ここに揃ってるはず」

「どこから手をつければいいものやら……」

 リーフは周りを見渡して言った。

「大丈夫。登山で何が必要なのか、レクチャーは受けたし、買わなきゃいけないものもリストにしてあるから」

 ネルは紙を取り出して眺め始めた。リーフも横からそれを覗くと、必要なものの横にそれぞれ数字が書かれていた。

「この数字はなんですか?」

「それぞれのものを買うのに必要なおおまかな経費。冒険実習にかかる費用はすべて『揺籠』が負担してくれるけど、今回は経費を決めれた予算に収めることが課題の一つになっていたから、こうやってまとめた。先生のチェックはもうもらっているから、これで問題ないはず」

「私とネルでまとめたんだよ? インターネットで相場を調べたりして。こう言うお金のやりくりも教育の一環として見なされてるみたい」

「へぇ……結構本格的なんですね」

 こうしてネルたちの買い物が始まった。買う道具は決まっているとは言え、同じ種類の道具でも複数のものが並べられていることもあった。そのため、彼女たちは商品棚の前に立つたびに悩み、金額や触り心地を確かめたり、店員に相談したりして購入する道具を吟味していった。

 リーフのやることは彼女たちが選んだ商品を持って後ろをついていくことだけだった。少し暇持て余したリーフは、店内の景色を眺めてみた。周りにはネルたちの他にも白い制服の生徒が何組かみられた。彼らも冒険実習に備えているところなのだろう。それから、店内の壁に大きな写真が貼られていることにリーフは気づいた。それは、雲海から顔を覗かせた太陽の写真だった。

〈ソーナ、あの写真見える?〉

〈ん〜? あー! あれはスカライ山のご来光の写真だね。あたしも冒険実習で一度見たことはあったけど、あれはいいぞ〜。あの絶景を生で見てないのは人生の3割損してるね〉

〈登山に人生奪われすぎてない? ……でも、綺麗だな。最後に山に登ったのっていつだったかな……〉

 リーフは自分の過去を思い返した。

(傭兵の任務で山越えをしたことは何度かあったけど……そうだ。フォラシアのゾンヌ村でエリサとハンスに、旅に出たいって初めて打ち明けた時、あの時も山に登ってたっけ……あれから2ヶ月くらいか? たったそれだけしか経ってないのに、あの頃の暮らしが、とても懐かしい。エピセンティアの山の上の景色はフォラシアとは違うのかな? 俺も登ってみたいな……

 ……ていうか今週末、登ってみようかな。週末なら本校舎での仕事はないし、ネルさんからお小遣いは多めにもらってたから、足りない道具は後でこっそり買っておいて……当日は偶然迷い込んだ一般客を装えば……)

「……リーフ?」

 気がつくと、ネルがリーフに鋭い視線を向けていた。

「ネルさん? ……ハッ! いつから『視て』……?」

「勝手に私たちの冒険実習に着いて行こうとしてるね?」

 ネルはリーフに詰めよった。

「いや、その、それは……」

「あれ、リーフ君もしかして図星? よく分かったね、ネル」

「まあ、リーフのことだからね」

「おお、さすがワイフ!」

「ご、ごめん。勝手なこと考えて……」

「……でも、別に、いいと思うよ。リーフが着いてきても」

「え?」

「私に黙って行動しようとしたのはいただけないけど、リーフが着いてくるだけなら冒険実習の趣旨から外れないと思う」

「そうだね。『揺籠』にまで着いてきたリーフ君が週末ひとりぼっちっていうのも何だか可哀想だし」

「みなさん……」

「ナルブ先生に相談してみる。この時間ならまだ話できるだろうから」

 ネルは念話機を取り出してナルブと少しの間やり取りを交わすと、念話を切り、リーフたちにこう伝えた。

「リーフの分の費用を私が負担するなら、問題ないって。だから、一緒に行こう、リーフ」

「よかったね、リーフ君」

「……はい! ありがとうございます!」

 その後、登山道具を買い揃えたネルたちは、タクシーで別の店に移動し、そこで登山に持っていく食料品を購入した。——生の物は霊力で凍らせた保冷剤と一緒にクーラーバッグに入れて運んだ。保冷剤とクーラーバッグはアウトドア用品店で買ったものだ。——それから本校舎にもどり、寮へ荷物を運び込むと、各々荷造りをして冒険実習の時に備えた。


 冒険実習当日、昼食を食べ終えたリーフは登山用の服に着替え、ヘルメットの穴にソーナをセットした後、準備した荷物と共にタクシーでスカライ山山頂へ続く登山口に向かった。ネルをはじめとする生徒や引率の教員はバスでの移動だったが、飛び入り参加のリーフは別の移動手段を使うしかなかった。

 登山口前の駐車場に辿り着くとまもなく、バスが到着し、生徒たちが降りてきた。ネルたちのグループもまとまってバスを降りてきた。リーフは小走りで彼女らの元へ向かった。

「こんにちは! 皆さん!」

「あ! リーフ君! これで全員揃ったね」

「あなたがナルブ先生ですね? 初めまして。ネルさんの使用人のリーフと申します。この実習への同伴を許可していただきありがとうございます」

「ああ、これはどうもご丁寧に。はい、私がナルブ・アルカです。妹のミュオから話は聞いてますよ。仕事熱心で誠実な方だと」

 ナルブは柔らかな口調で答えた。

「恐縮です。私もミュオさんから、あなたは優しいお兄さんだと伺っております」

「いや、なんとも照れくさいですね……で、もっと何か言ってませんでしたか?」

「え? えっと……」

 笑顔で顔を近づけて来るナルブにリーフは怯んでしまった。

「え、ミュオって用務員のミュオさん? 兄妹だったの? ネル、知ってた?」

 ナルブの後ろのファーが、小声で言った。

「うん、リーフから聞いてたから。思った通りの兄バカ先生みたいだね」(だけど……)

「おい使用人。なぜお前がここにいる?」

 グラウはリーフとナルブに割り込むように言った。

「グラウ君、忘れたの? リーフ君も来ることになったって昨日言ったじゃん」

 ファーが横からグラウに言った。

「んなことを聞いてるんじゃない。……わざわざお前が着いて来る必要がどこにある。頼れるご主人様と離れるのがそんなに不安か?」

「そんなこと考えてませんよ。私はただ、グラウさんたちと見るご来光がどんな景色なのか、確かめてみたくなっただけです」

 リーフはにこやかに答えた。

「……だとしたら、相当な脳天気だな」

「……グラウさん」

 やり取りを聴ていたナルブが前に出た。

「この冒険実習はあくまで生徒たちの自主性を重んじるものです。この実習中、リーフさんにはグラウさんたちへの干渉を最低限にとどめてもらうつもりです。ですから、どうか彼の同行を許してやってはもらえませんか?」

「……はい、分かりました」

 さすがにグラウも教員には歯向かえないようだった。

「リーフさんも、それでいいですね?」

「はい! 私はいないものとして扱ってもらえれば!」

「いや、そこまでするつもりは……あ、それはそうと、リーフさん、これを」

 ナルブはリーフに小さな巾着袋のようなものを渡した。

「何ですかこれ?」

「この袋の中には2つの霊器が入っています。一つは迷子になった時などに使う発信機、もう一つは獣避けです。ごく稀な事例ではありますが、過去にこの山に棲む動物に襲われた、なんて事件もあったそうですから。……これを体のどこかに身につけておいて下さい。他の皆さんにはすでに同じものを渡してありますので」

「分かりました」


 それからまもなく、登山開始の時刻がやってきた。登山道はそれほど広くないので、グループごとに間を置いてからの出発であった。

 始めは森林の中を歩いたが、もともと出発がスカライ山の中腹からだったため、少し進むと森は低木林に変わり、視界が開けて、澄みきった青空と『大樹』が姿を現した。爽やかな風と共に、川の轟々と流れる音がかすかに聞こえてきた。リーフは胸いっぱいに空気を吸い込み、久方ぶりに野生の息吹を堪能したのだった。

「ところでリーフ君、何だかたくさん荷物を持ってきたみたいだけど、大丈夫? 私が少し持ってあげようか?」

 ファーが心配そうに言った。

「いえ、大丈夫です。確かに、いろいろ用意しすぎた気がしますが……ここは道もよく整備されていますし、これくらいはなんて事ありません」

「ふむ……リーフさん、少々気になっていたのですが、あなたは動く時にほとんど霊力を使っていませんね?」

 ナルブはリーフの体をジロジロ見ながら言った。

「は、はい。それがどうかしましたか?」

「霊力を持つ人間の多くは、普段の何気ない動作でも筋力に運動術の補助を無意識的に乗せてしまうんです。——まあ、生まれながらに持っている力なので当然と言えば当然ですが。——しかし、あなたは意識的に霊力の使用を抑え続けているように見えます。もしかして、結構鍛えてるんじゃないですか?」

「あー、お見通しでしたか。実は、私は霊力量が人より少なくて。これはその差を埋めるため足掻いた結果と言いますか……」

 確かに肉体の鍛錬は積んでいたが、リーフにとっては霊力を使わないことが普通だったので、特に意識しているというわけではなかった。

「なるほど、そうでしたか……いや、筋力のみでここまでの出力を引き出せているというのも実に興味深い。今度、私の研究室でじっくり『観させて』もらえませんか?」

「え、えっと……?」

「先生、うちの使用人を拐かそうとしないでください」

 ネルがナルブに言った。

「ハハハ、冗談ですよ」

(茶目っ気のある先生……なのか?)


 しばらく歩くと、色とりどりの花が咲き並ぶ場所が現れた。

「あっ『ペレグリナ』だっ。『グランディス』に、『エスキュレンタ』も咲いてる!」

 ファーは咲いている花に次々と指差して叫んだ。

「ファーさん、もしかして花の名前、全部覚えてるんですか?」

 リーフがファーに尋ねた。

「うん、よく見るやつなら大体覚えてるかな?」

「ネルさんも分かるの?」

「いや、全然」

「ファーさんって博識なんですね。魔術書のことも相当詳しいみたいでしたし」

「そんな大したものじゃないよ。本を読むのも好きだけど、こういう自然豊かな場所を旅行するのは小さい頃から好きだったからね。生まれてこの方、何も考えず好きなことばかりしてきた結果、こうなっちゃっただけだよ」

(『生まれてこの方』……多分、ファーさんって80年くらいは生きてるんだよな。それなりの年の功はあるってことか……それでも)

「好きなことに全力を注げるというのも、素晴らしい資質だと思いますよ」

 ナルブがファーに言った。

「そうですかね? 好きなことにいくらでも時間使えるのは当然だと思うんですけど……」

「私が言いたいのは……自分をそこまで捧げられる程好きなことがあるというのが素晴らしいということです。そういう心は、大事にした方がいいですよ。生きていく上で、とても大切なことですから」

「はい。私も、そこまで謙遜することないと思います」

 リーフがファーに言った。

「う、うん、ありがとう……」

(本校舎の花壇で育ててる花とかあるかな……?)

 その時、リーフがふと足元を見ると、鮮やかな黄色の花が目に止まった。

「ファーさん、これ、周りと形が違いますけど、何の花ですか?」

「あれ? それはホルトルムだね。高地ではあまり見ない花だけど……スカライ山は大樹へ向かうエネルギーの流れの影響でたくさんの種類の植物が集まるらしいから、この花の種もそうやって運ばれてきたのかもね」

「そうなんですね。たしかにこのあたりはいろんな色の花が咲いてますが……」

「黄色いホルトルムは見た目もいいけど、花言葉も素敵で、『予期せぬ出会い』を象徴する花ともされてるんだ。小さい花が寄り添い合うように咲いている様子から、そう言われるようになったみたい」

「花言葉……とても心地よい響きですね」

「グラウさん!」

 突然、ナルブが前方に向かって叫んだ。花を見ていたリーフたちを置いて、グラウが先に進もうとしていたのだ。

「単独での先行はいけません! 団体行動を守ってください!」

「先生……実習中は生徒の自主性を重んじるのではなかったのですか?」

「生徒の安全に関わることは話が別です!」

「ここから今日の目的地まではほぼ一本道です。迷うことなんてない。最終的に全員辿り着ければそれでいいでしょう?」

「確かにここはよく整備されていますが、それでも街より危険が多いのは変わりありません。もし誰も見ていないところであなたにアクシデントが起きれば、惨事につながることだってあり得るんです!」

「それに……仮に私たちを置いて先行したとしても、先に出発したグループで支えて、大して時短にはならないと思うけど?」

 ネルがグラウに言った。

「……チッ、こんな事してる場合じゃ……」

 グラウは小声でぶつぶつ呟いたが、それ以上先行することはなかった。


 空が赤く染まり始めた頃、リーフたち一行は本日の目的地であるキャンプ場に到着した。山の上にしては広いスペースが確保されており、先に到着していた生徒たちがテントの設営作業をしていた。

 キャンプ場の入り口で待機していた係員にグループ全員の到着を報告した後、リーフたちもテントの設営を始めることにした。グループに割り当てられた場所へ移動して、荷物を広げて、作業を開始した。

「あれ、リーフさんは設営しないんですか?」

 ネルたちの作業を見守っていたところを、ナルブに声をかけられた。

「テントは必要ないです。寝袋があれば寝られるので」

「そんなに荷物持ってきたのに、テント用意しなかったんですか!? 高地の夜は特に冷えます。今夜は私のテントを使ってください。少し大きめのものを持ってきたので」

「別に、それくらいの寒さはどうってことないんですが……いや、分かりました。お言葉に甘えさせていただきます。……おや?」

 グラウの妙な様子がリーフの目に止まった。彼は屈んで右手を地面に触れると、前方の地面を見つめてじっとしていた。

「……創造術〈クレア〉」

 グラウがそう唱えると、地面に触れていた手から霊力の筋が伸び、目の前の地面に積み上がっていったかと思うと、たちまち立派なテントが完成してしまった。隣でそんな術が繰り広げられていくのを、ファーは唖然として見つめていた。

「グ、グラウ君、創造術でテント作ったの? 大丈夫? 寝てる間に消えない?」

「心配無用だ。2、3日は余裕で持つ」

「すごい……グラウ君、創造術が得意だったんだ……私たちのテントも作ってくれたりしない?」

「断る。あと、夕食ができるまで俺を呼ぶなよ」

 そう言って彼は荷物を持ち、テントの中に入っていった。

「え、夕食はグラウ君も作るんだよ!?」

 彼からの返答はなかった。ファーは深いため息をついた後、自分の作業を再開した。

「グラウさんには困ったものですね」

 その様子を見ていたナルブが言った。

「はい、私も彼のことは気にかけているのですが……なんだかだんだんひどくなってきている気がします」

「根はとても真面目な方だと思うんですけどね……前、資料室で見かけた時は霊力物理の本を喰らいつくように呼んでいましたし」

「そうなんですか?」(そういえば、初めて彼を見たのも資料室の中だったな)

「はい。もしかすると、直接実益に結びつきそうなもの以外、彼はやる気になれない状態なのかもしれません」

「なるほど……確かに先ほども『こんな事してる場合じゃ……』とか言ってた気がします。……一体、今の彼は何を目指しているのでしょうか?」

「さあ? 私は今回の入学試験には関わっていませんから、深いところはよく知りません。——まあ、知ってても他人にそういうこと言いふらしちゃいけないんですけどね——ただ、『揺籠』に入るというのは、人生のプラチナチケットを手に入れたも同然だと言われるくらい価値のあることです。だから、彼を含め、ここには様々な事情を抱えた生徒たちが集まっていると思いますよ」


 テントを設営し終えたリーフたちは、次に、用意した食材を取り出し、キャンプ場の調理場で料理し始めた。——彼らは保存食も持参していたが、この日の夜は生鮮食料品を使って調理することが生徒たちの実習課題とされていた。

〈コンロや料理道具はキャンプ場で貸し出しているのか。さっき周りを確認したらトイレも設置されてるみたいだったし……キャンプって言っても俺の知ってる野営と比べたら至れり尽くせりって感じだな〉

〈まあ、ここにいるのはサバイバル初心者ばかりだろうし、これくらいがちょうどいいんじゃない?〉

 リーフとソーナが念話を交わしていると、ネルが芋を差し出してきた。

「リーフ、これの皮剥いて一口サイズに切ったら鍋に入れてくれる?」

「任せて」

 リーフはナイフで手際よく芋の処理をした。

「わーっ! リーフ君上手だね」

「ネルさんの使用人ならこれくらいできて当然です」

〈練習した?〉

 ソーナがリーフに尋ねた。

〈……『揺籠』に行くと決めてから、少し。皮剥きは元からできたけど、均等な大きさに切り分けるのが難しくて〉

〈努力家だねぇ、リーフは。……あ、あの飯盒、振動音が小さくなった。もう炊けたんじゃない?〉

〈すごっ、そんなことまで分かるの?〉「……ファーさん、飯盒の様子はどうですか? そろそろだと思うんですけど……」

「え?」

 ファーは蓋に棒を置いて確かめた。

「あ、ほんとだ。すごい、どうして分かったの?」

「ネルさんの使用人ならこれくらいできて当然です」

「リーフ。くどい」

 ネルは野菜を切りながら言った。

「ははは、ごめん」〈……ありがと、ソーナ〉

〈いーえ〉


「よし……完成」

 ネルが鍋の中身を混ぜて言った。彼女らが作ったのはカレーライスだった。飯盒と鍋をキャンプ場に用意されていた机に置き、グラウとナルブを呼んで夕食にした。リーフとナルブは自前の皿とスプーンを持ってきていたが、ネル、ファー、グラウは創造術で皿とスプーンを生成して料理を盛り付けた。多少霊力を消費しても荷物の重量を減らそうと考えてのことだった。

「うん、美味しい。よくできてますね」

 ナルブは料理を一口食べて言った。

「おいしい! 外で作った料理っていつもより美味しく感じない? グラウ君はどう?」

 ファーが尋ねた。

「……」

 グラウは険しい顔をしながらひたすら料理を口に運んでいた。

「動いたからかよく口に入る」

 ネルはスプーンの上で野菜を冷ましながら言った。

〈エピセンティアの料理は何をいつどこでどんなふうに食べても美味しいけど〉「……みんなで作ったと考えると、達成感がありますね」

 リーフはよく噛んで味わいながら言った。

〈こうしてみんな美味しそうに食べてると、ちょっと羨ましくなるな〜〉

 ソーナは髪の中から周りの様子を眺めていた。

〈やっぱり食欲湧かないの?〉

〈そうだね。食べなくていいっていうのは、普段なら何も感じないっていうか、むしろ楽だなって思う方が多いんだけど……無理やり口に入れたら、味わうことくらいできないかな?〉

〈触覚が戻ってるなら、味覚も持ってておかしくないと思うけど……その体はほとんど創造術でできているようなものだから、消化吸収はできないと思う。だから、食べたものは吐き出さなきゃいけなくなるんじゃないかな?〉

〈うぇ、それは……食べ物がもったいないね。今はやめとこ〉

「んっ!」

 料理を口に入れたファーが叫んだ。

「どうかしましたか? ファーさん」

 ナルブが尋ねた。

「自分の作ったスプーンに尖ったところがあったみたいで……唇を切ってしまったかもしれません」

「それはいけませんね。どれ、診せてください」

 ナルブは立ち上がってファーのそばまで歩くと、しゃがんで傷を診ようとした。

「大丈夫ですよ、先生。ちょっと痛かっただけなので……」

「小さくても傷を甘く見てはいけません。遠慮は入りませんから。さあさあ」

「は、はい……」

 ファーは口を開けて痛みがあった辺りをナルブに見せた。

「うん、切れてますね、でもこれくらいなら……治療術〈クーラ〉」

 ナルブが指を近づけて唱えた。

「これでもう大丈夫です」

「あ、口の違和感がなくなった……先生、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 気がつくと太陽は沈みかけており、闇の訪れとともに世界から色が抜け始めていた。

「私、ランタン持ってくる」

 ファーが走って荷物を取りに行って戻ってくると、灯りを灯して机の上に置いた。空が完全に暗くなると、夜空から浮かび上がるように大樹に淡い光を帯び始めた。それと同時に、光る筋雲のようなものが上空で揺らいでうねり始めた。

「空が……なんですかこれ?」

「スカライ山名物『結界の潮流』ですよ」

「結界?」

 リーフはヴィジーニエに入る前に見た、街全体を覆う霊力の障壁を思い出した。それは『結界』と呼ばれるもので、普段はモンスターや霊力の大きな獣の侵入を防ぐために働いているということは以前調べていたので知っていた。

「結界は普段街中にいると目立たないですが、ここは結界にかなり近いので夜になるとこうしてその様子を観察することができるんです」

「そうなんですね……」

 リーフは空を見上げて結界の潮流をじっくり観察した。その流れはどこをとっても優雅で力強く、焚き火でゆらめく炎よりずっと幻想的で見応えがあった。リーフはついには感動のあまりじっとしていられなくなり、上を見ながら立ち上がって、その辺を歩き回ったり、両腕を広げてくるくる回ったりした。ファーはその様子を微笑みながら見守っていた。

「ふふ、リーフ君、この空が気に入ったみたいだね。口も開けっぱなしにしちゃって。……ああしてると、見た目も相まって本当に子供みたい」

「え?」

 ネルは驚いて、思わずファーを睨んでしまった。

「あ、ごめん……流石に失礼だったかな」

「いや……別にいいけど」

 ネルが驚いたのはリーフが年齢を詐称していることを疑われたと思ったからだった。

「……確かに、リーフは子供のように無邪気な人だとは思うけど……私は時々、彼がそう振る舞うように努めてるんじゃないかって思うことがある」

「え? 本当はそうじゃないってこと?」

「いや、あれも間違いなく彼の本当の姿だとは思う。……だけど彼は、その、生まれ育った環境のせいでずっと自分を縛って生きてきた人だから……縛るものが少ない今は、精一杯、自分の心に従って生きようとしてるのかなって……」

「……ネルって優しいよね」

「え?」

「詳しい事情は聴かないおくけど……今リーフ君が笑っていられるのもネルのおかげなんじゃないかな? こんなに自分をよく見てくれる人が、そばにいてくれるんだし」

「そう、なのかな」(……いや、違う。リーフは私と出会った時から何も変わっていない。むしろ、救われたのは私の方だ。それに、彼を縛るものの重さだって、少しも変わってない。その重い重い鎖の中で、どうして彼は前に進めるのか。何が彼に力を与えるのか。私はそれが知りたいんだ)


 夕食を食べ終わったリーフたちは、調理道具を洗って返却した後、歯を磨いたり、髪や体を拭いたりして就寝準備を進めた。

「あれ、グラウ君のとこ、毛布少なくない? 大丈夫? 私の分貸そうか?」

 グラウがテントから出る際、偶然中を見たファーが言った。

「いらん。あと、人のテントの中を勝手に見るな」

 グラウは無愛想に応えた。

「あ、ごめん……」

「ファーの毛布を貸したら、あなたが凍えない?」

 ネルがファーに言った。

「あ、えーと……実は私暑がりで、経験上、今日くらいの寒さなら毛布無しでも大丈夫かな〜って思って」

「……そう?」

 その後、グラウは一人で自分のテントに入り、ファーとネル、リーフとナルブは二人組でそれぞれ別のテントに入って、明日に備えて早めに就寝した。


 次の日の早朝、まだ真っ暗な時間にリーフは目を覚ました。ナルブはまだ寝ている様子だった。ひと足先に荷物を纏めてテントから出て、小さいソーナを密かに召喚して、最近自分でもできるようになった髪と目の変装をしてから、準備運動をしていると、3つのテントから目覚ましアラームの音が響いてきた。そして、テントが少しモゾモゾと動いた後、中の人間が明かりを持って外に這い出てきた。

「あ、リーフ君、おはよ〜。早いね」

 ファーは欠伸をしながら言った。

「おはようございます。私も今起きたところです」

 最後にグラウが出てくると、5人は保存食で軽く朝食を済ませた。それから生徒と教員たちが全員集まって点呼をとった後、テントを撤去し、昨日と同様にグループごとに時間を置いてからの出発になった。

 今日の目的地はスカライ山山頂付近の展望広場だった。日の出前に到着し、ご来光を拝んでからロープウェーで下山する計画だった。キャンプ場からの距離は昨日歩いた距離の3分の1程度だったため、それほど時間はかからない予定であった。

 リーフたちは狭い稜線の上を歩いていた。道の右手側をヘッドライトで照らしても暗闇ばかりが広がる。そちら側は崖と急斜面になっているようだった。

〈この先にヴィジーニエの行政機関の『聖殿』があるんだよね? とんでもないところに作ったもんだね〉

 リーフがソーナに言った。

〈そうだね。あたしからみても、カエルム様の霊術のゴリ押しで建てたんだろうな〜って感じの建物だね。でも、ここに建てることで『聖殿』に集まる要人たちの安全確保を図ってるって聞いたことがあるよ。何より、山の上の建物ってなんか威厳感じない?〉

〈なるほど……そう考えると、割と理にかなってるのかな?〉

〈……ところでさ、グラウ、なんか様子変じゃない?〉

〈え?〉

〈妙に息が荒いし……息が気道を通る音も昨日と違うような……彼、風邪引いてるんじゃない?〉

 その時、ネルが何かを小声でナルブに伝えると、ナルブは先頭を歩くグラウを呼び止めた。どうやら、ネルもグラウの異変に気付いたようだった。

「グラウさん。ちょっと止まって休みませんか?」

「はい?」

 グラウは険しい顔をして振り返った。

「暗がりで気づきませんでしたが、顔色が悪いですね。かなり無理をして歩いているんじゃないですか?」

「いえ、俺は問題ありません。大丈夫です」

「少し体温をみてもいいですか? ひどいようなら、山頂の救護隊を呼んでも……」

「大丈夫ですってば!」

「グラウさん!? あ、危ない!!」

 どうやら彼は本当に無理をしていたようだった。グラウが突然叫んでナルブの手を払い除けると、その小さな反動すら彼の体は耐えられなくなり、背中の荷物に釣られるように倒れ、、そのまま右側の崖の奥に消えていってしまった。

「グラウさん!」

「グラウ君!」

「救護隊を呼びます。……グラウさん! 私の声が聞こえますか!」

 ナルブはすぐ念話機を取り出しながら、崖下に向かって叫んだ。

〈ソーナ、返事聞こえた?〉

〈聞こえない。その代わり、川の流れる音が聞こえる。これくらいの高さなら、障壁術を使えば助かると思うけど、流されてるかもね〉

「た、助けに行かないと……」

 ファーは冷静さを保てていないようだった。ネルも突然のことで声を出せなくなってしまっているようだった。

「皆さんは動かないでください。ここは救護班に任せましょう」

 ナルブが言った。

「いえ、先生。私が救出に向かいます」

 リーフはそう言って荷物を全部下ろし、背負子と長いロープを用意した。

「リーフさん!?」

「実は私はこういう場所でのサバイバルの経験があるんです。私なら確実に彼を見つけてここに連れてこれます。時間が惜しいので、それでは!」

「リーフさん、一人は危険です!」

「リーフ君、救護隊に任せた方がいいよ!」

 ナルブとファーの制止を無視して近くの岩にロープをしっかりくくりつけた後、リーフはあっという間に崖を降りていってしまった。」

「グラウさん! いますか!」

 無事崖下の川の脇に着地すると、リーフはあたりの様子を確認した。

〈ソーナ、彼の気配はある?〉

〈この辺りにはいないかな〉

〈そうか……周りに移動した形跡もない。となるとやっぱり流されて……〉

「リーフさん!」

「え? ナルブ先生?」

 リーフが声の方を振り向くと、ナルブが救急キットを背負ってロープを伝って降りてきていた。

「グラウさんは?」

「この辺りにはいないようです。私を連れ戻しにきたんですか?」

 リーフがナルブに言った。

「いえ、先ほど連絡を取ったのですが、山頂の救護隊は暗闇と道の混雑により到着まで思ったより時間がかかってしまいそうなんです。飛行部隊も他のエリアに出動しているらしくて……。ですから、救護隊の対応はネルさんたちに任せて、私もついていくことにしました。躊躇なく崖を降りて行ったあたり、リーフさんにサバイバル経験があるというのも嘘ではなさそうですし。それに、もし彼が負傷していた場合、応急処置をしなければ安全に彼を運べないでしょう?」

「分かりました。これから川下を探します。ついてきてください。」

 リーフたちが川の脇の岩場を慎重に降りていくと、比較的流れが穏やかな場所に着いた。

「今、彼に持たせた発信機からの信号を確認しているのですが……この近くみたいです」

その時リーフは川の向こう岸に水の垂れた跡が続いているのを発見した。

「先生、痕跡を見つけました。どうやらここから向こう岸に上がって歩いて行ったようです」

「彼は見当たりませんか?」

「上陸地点の近くに発信機の袋が落ちています。流された拍子に外れてしまったのかもしれません」

「そうですか。生きてはいるようで安心しましたが、私たちから遠ざかる方に歩いていってしまうとは……今グラウさんはとても混乱しているのかもしれません。急ぎましょう」

 リーフとナルブは川を渡ってグラウの痕跡を追った。


 一方その頃、グラウは暗闇の中を彷徨い続けていた。

(はやく……早く戻らなければ。俺は温室育ちあいつらとは違う。この程度のトラブル、何度だって乗り越えてきた。……だが、ああ、なんて情けないんだ。自己管理を怠って時間を無駄にするとは。……いや、今回は想定外の事態が多すぎただけだ。俺は登山家じゃない。多少のリスクがあってもこんな観光の準備なんかに時間は避けなかった。俺は間違ってない。俺には他にやるべきことが、行くべき道が……行く……べき……?)

 ようやく思考が落ち着いてきたその時、グラウはしばらく自分が当て所もなく歩き続けていたことに気づいた。

(どこだここ? どれくらいの時間歩き回っていた? そうだ、最初俺は川に流されて……川はどこだ?)

 グラウは耳を澄ましたが、地形の影響のせいか、音の方向がよくわからなかった。代わりに、不審な足音が聞こえてきた気がした。

(獣か? だが俺には獣避けが……無い……?)

 グラウは身体中を触って確かめた。

(まずい。こんな状態で獣に襲われたら……死ぬ?)

 グラウはその時恐ろしく巨大で、冷たい何かが迫ってきているような、そんな感覚がした。そしてとうとう、彼のすぐ後ろから物音が聞こえてきた。

(ひっ!?)

 グラウが恐怖で顔を歪ませながら振り返ると、ヘッドライトの灯りと共に、物陰からリーフがひょっこりと現れた。

「あ、グラウさん! 先生! いました!」

「使用人……?」

 グラウはその姿を確認すると、力が抜けて、思わずその場にへたり込んでしまった。

「グラウさん! 無事ですか!? 体を診させてください!」

 ナルブはグラウの体に触れ、状態を確認した。

「こんな状態でよく歩けましたね……すぐに治療します」

 ナルブは霊力場でグラウの体を包み込み、治療術を施した。

「怪我はこれで治りましたが、体が衰弱しています。早いところネルさんたちのところへ運んで、下山させたほうがいいでしょう」

 ナルブはそう言いながら、霊術でグラウの体を温めて乾かし、毛布で包ませてあげた。帰りはリーフの背負子にグラウの体を乗せて運ぶことにした。

「しかし……リーフさん、大丈夫ですか? かなり重いと思いますが……」

 リーフがグラウの体を背負子にくくりつけているのを見て、ナルブが心配そうに言った。

「これくらい平気です。先生は治療で疲れているでしょうから、ここは私にお任せください」

「どうやって俺を探し当てたんですか? 発信機も落としてたのに……」

 グラウがボソボソと言った。

「リーフさんがグラウさんの足跡を追ってくれたんですよ。いやぁ、ハンターのような素晴らしいセンスと洞察力でしたねぇ」

「使用人が?」

〈フォラシアのアッピ村で狩猟生活してただけはあるよね。結局、私の耳にもほとんど頼らなかったし〉

 ソーナがリーフに言った。

「……何はともあれ、無事見つかってよかったです」

「……」

 その後のグラウは借りてきた猫のようにおとなしくなった。リーフがグラウを背負うと、3人はネルたちが待つ場所へと向かい始めた。

「……グラウさん。私はあなたに今、話しておきたいことがあります。聴いていただけますか?」

 道中、歩きながらリーフが言った。背中のグラウから返事はなかったが、リーフは構わず話し始めることにした。

「昔の私の話です。以前の私は、この世界が、怖くて仕方ありませんでした。世界のあらゆる物事に対して、私はあまりにも無力で、いくら生きるために世界に尽くしても、いつかその大きな流れに全て持ってかれてしまう。そう思っていました。

 ……そしてある時、その恐怖に嫌気がさした私は、こう考えるようになりました。自分がこの世界の誰よりも強くなれば、これ以上怖い思いをしなくてすむだろう、と。それから私は、ただひたすら、『強くなるための努力』を重ね続けました。

 ……しかし、そんなやり方がうまくいくはずもなく、最終的に私は、身も心もボロボロになって、生きる気力さえ絶えてしまう寸前のところまで追い詰められてしまいました。結局のところ、私は無謀な努力で自分を痛めつけることで、この世界から目を背けていただけだったんです。自分が本当に幸せになるための道が分からなくて、それを探し続ける勇気もなくて、安易な方法に逃げてしまってただけだったんです。

 ……グラウさん。私はなんとなく、あなたがその頃の自分に似ているように思えます。だから、少しだけでいいので、あなたにはあなたの周りの人間と向き合って欲しいです。

 ……私はあの時、心ある人たちに救ってもらうまで、自分の愚かさに気づくことさえできませんでした。私と違ってあなたは、知識も能力も上で、努力家だとは思います。ですが、どんな人間でも、一人だけで見られる景色には限界がある。

 ……それに、あなたの周りにはファーさんに、ネルさん、そしてナルブ先生がいます。皆、才気に溢れるばかりではなく、人を思いやることのできる素晴らしい方たちです。そんな人たちがあなたのそばにいるということは、本当に幸せなことなんですよ。人と向き合うことは、時に煩わしく感じることもあるかもしれませんが、あの人たちなら、かけた労力以上の、大切なものをあなたに与えてくれるはずです」

「大切なもの……」

 話をちょうど終えたところで、リーフたちは降りてきた崖の真下に辿り着いた。上からはリーフが降りるのに使ったロープが垂れ下がっていた。

「ここを昇る時のことを考えていませんでしたね……リーフさん、やはりここは私がグラウさんを……」

「いえ、心配無用です」

 リーフはグラウを背負ったまま、両手でロープを掴み、スイスイと登り始めた。

「ほう、あの小さな体のどこにそんな力が……」

(こいつ、運動術を使わずに……?)

 その様子には、ナルブばかりではなく、グラウも驚いていた。リーフが崖を上り切ると、その先にはファーとネルが待ち受けていた。

「グラウ君! 大丈夫? 私のこと分かる? 痛くない? 苦しくない?」

 ファーはグラウのそばに駆け寄って捲し立てるように言った。

「どうして……いや、俺は大丈夫だ。怪我は先生に治してもらった」

「よかった……今は余計なこと考えなくていいから。回復に専念して」

 ネルは胸を撫で下ろしながら言った。

「あ、ああ……」

 その時、登山道の上の方から複数の明かりが下ってきた。救護隊だった。後から登ってきたナルブが彼らに状況を説明すると、救護隊はリーフたちに感謝の意を述べ、グラウの体を担架に移し、そのままものすごい速さで彼を山頂へ運んで行った。

「ふう、これで一安心かな」

「リーフ、お疲れ様」

 ネルが言った。

「先生、グラウ君はこれからどうなるんですか?」

「山頂に運ばれて行ったのでしたら、そこからロープウェーで下山する手筈なのではないでしょうか?」

 ネルたちはこのままグラウ抜きで実習を続行することにした。グラウの救出に時間がかかったため、予定より大幅に遅れることになった。彼らが目的地に近づく頃には、すでに右手側の空が明るくなり始めていた。

「ご来光までに間に合うかな?」

 ファーが空を気にしながら言った。

「間に合わなかったらそれはそれで仕方ないですよ」

 リーフが言った。

「それよりファー、足元に気をつけて。あなたまで滑落したら洒落にならないから」

 ネルが言った。

「う、うん」

 リーフたちが展望広場に到着すると、先に到着していた生徒たちが太陽が昇る方向を見て待機していた。リーフたちはご来光がよく見えそうなスペースを急いで探して、そこに全員集まった時、一点の眩い光が雲海の奥からリーフたちの目に飛び込んできた。

「ギリギリ間に合ったね! どう? リーフ君。この景色が見たかったんでしょう?」

 ファーが言った。

「はい、とても綺麗ですね」

「あれ? なんか反応薄くない?」

「正直……写真と一緒っていうか……昨日の『結界の潮流』の方が迫力あったなって……」

「え!?」

〈えええ!? リーフ!? なんて罰当たりな!!〉

「うん、私も同意見」

「えええ!? ネルまで!?」

「……でも、この景色を皆さんと一緒に見ることができてよかったです。きっと私は、死ぬまで……いや、死んでもこの光景を忘れないと思います」

「そっか……そうだね。グラウ君もご来光、見られたかな?」

「そうですね……ロープウェーの方角的に、ちゃんと見えたと思いますよ」

 ナルブが言った。

 その後、リーフたちはロープウェーで下山して、冒険実習は終了となり、彼らは本校舎区画の寮にそれぞれ帰宅した。


 それから数日後の昼。リーフ、ネル、ファー、ミュオの4人は本校舎の食堂で昼食をとっていた。

「最近のグラウさんの様子はどうですか?」

 リーフがネルたちに尋ねた。

「相変わらず無愛想だけど、最近は憑き物が落ちたようにおとなしくなった気がする」

「そうだね。なんだか少し、顔つきが穏やかになったような……」

 ネルとファーが答えた。

「まだ体が回復し切ってなくて元気がない……ということはありませんか?」

 再びリーフが尋ねた。

「結局休み明け最初の講義にもちゃんと出てたし、本人も心配無用だって言ってたよ」

「実習であれだけやらかしたんだし、少しは思うところがあったんじゃない?」

 ネルは食事を口に運びながら言った。

「そうですか……これで少しはいい方向に向かうといいのですが……」

「グラウ様と言えば……このあいだ、放課後に用務員寮の前で待機していたところ、その方から妙な相談をされました」

 ミュオが言った。

「ミュオさん、グラウさんと面識あったんですか?」

「はい、それに、生徒の皆様の顔と名前は大体覚えてますから」

「流石ですね……それで、何を相談されたんですか?」

「工作に使える部屋と、それに使う材料の在処を教えて欲しいと頼まれたのです」

「工作? そんな課題は出てなかったと思うけど……」

 ファーは首を傾げながら言った。

「それで、ミュオさんはどのあたりが妙に感じたんですか?」

「使う材料というのが何に使うのかよく分からないものばかりで……カビ?みたいなものとか。倉庫から見つけ出すのに苦労しました」

「カビ?」

「グラウ君、変なこと考えてないよね……?」

「あ……」

 リーフはある人影が粛々とこちらに歩いてくるのに気づいた。グラウだった。

「グラウ君!? 食堂にいるの初めて見たかも……」

 リーフの目線につられて振り返ったファーが言った。グラウはそのまま近づき、リーフたちの座る机の横で止まった。

「どうも、グラウさん。一緒に食べに来た……というわけではなさそうですが?」

 リーフが言った。

「ああ……みんな、この後西のグラウンドに来てくれ。見せたいものがある」

 グラウは、リーフ、ネル、ファーの3人を見て言った。

「見せたいもの?」

「分かりました。もう食べ終わりそうなので、直ぐ向かえると思います」

 リーフがそう応えると、グラウは頷いて、その場を去って行った。

「なんだろう、見せたいものって?」

 ファーが言った。

「少なくとも、悪いものではないと思う。面倒だけど、見に行ってあげようか」

 ネルが言った。

「ではリーフさん、私は次の仕事場で待っていますね」

「はい、分かりました」

 リーフはミュオに言った。

 リーフたち3人は、昼食の後、言われた通り西のグラウンドに向かった。グラウンド内は球技を楽しむ生徒たちがいたが、その隅の方で待っているグラウを見つけることができた。

「……来たか」

「うん、それで、見せたいものって?」

「……これだ」

 ファーが尋ねると、グラウは左手首の内側につけた装置を3人にみせた。

「何それ?」

「超小型の索発射銃だ」

「ええと、さく……?」

「……見てろ」

 グラウは付近の木に左腕を伸ばし、少量の霊力を装置に流すと、プシュっと言う音と共に弾丸が発射され、木の幹に命中した。弾丸には糸がついてきており、木の幹からグラウの手首まで糸で繋がれた状態になった。

「糸が出てきた? それに小型の装置の割に長いですね……」

「糸は25mまで伸びる。この糸には空を漂って成長するとある菌類を使った。コンパクトに収納できるうえ、空気と同じくらい軽いから弾丸の軌道がそれにくい。それでいて、霊力を多く含んでいるから大人3人ぶら下がっても耐えられるくらいの強度もある」

「菌類……? ああ、ミュオさんに探させてたカビってそれだったんだ」

(俺の持ってる流れ星の剣も霊力を含んでるから丈夫だってペーデが言ってたな……空にあるものは上質な素材になるのかな?)

「そして……」

 グラウが糸を掴んで引っ張ると、弾丸は木から外れることなく、糸がピンと張られた。

「この糸の先端には特製の霊器がついている。この霊器はぶつかったものと強固に接着するが、少し霊力を流すと……簡単に外れる」

 先端が幹から外れると、糸が勝手に縮んでいき、元に戻った。

「へぇ……勝手に戻るんだね」

「ああ、任意で回収できる。これも特定の条件で広がったり、縮んだりする菌類の性質を応用したものだ。ただ、この時の糸を引っ張る力はそんなに強くないから、たとえば、物を引っ張って自分のところに寄せたい時なんかは自分の手で糸を引っ張る必要がある。

 ……この装置の最大の特徴は、霊力量の少ない人間でも使うことができることだ。先端の発射には空気圧を使う。圧縮空気を詰めたカートリッジを装填することで発射可能になる。カートリッジは専用の道具を使うことで人力で空気を詰められるようにした。前もって複数個用意すれば、短時間に何回でも使えるだろう。

 ……リーフ、この装置をお前にやる」

「え、いいんですか?」

「ああ、もともとそのつもりでこれを作った」

「ありがとうございます。……早速使ってみていいですか?」

「ああ、カートリッジは用意してある。好きにしてくれ」

 リーフは装置を装着し、グラウに使い方を教わると、上方の木の枝目掛けて糸を発射した。それから糸がくっついたのを確認すると、足と腕の力を使って飛び上がり、あっという間に枝の上に飛び乗ってしまった。

「わっ! すごい!」

 ファーはリーフを見上げながら言った。

「これはかなりいいですね。発想次第でいろいろなことに応用できそうです」

 リーフは木から降りて装置を眺めた。

「リーフの身体能力があってこそだ。冒険実習で霊術も使わずロープを登っていたのを思い出して、これを作ってみたくなった」

「一人でこんな物を作っちゃうなんて……グラウ君ってエンジニアだったの?」

 ファーはグラウに尊敬の眼差しを向けながら言った。

「ああ、まあな……」

「……それで、言いたいことはそれだけ?」

 今まで静かに様子を見ていたネルが、グラウに言った。

「ネル……?」

 他3人は、ネルの方へ振り返った。

「……違うよね? その索発射銃をリーフにあげたいだけなら、わざわざ私とファーを呼んだ意味がないし」

(ネルさん……何かが『視えた』のか?)

 ネルは話を続けた。

「……だったら、回りくどいことは考えなくていい。今あなたが心に抱えている物を、私たちに全部話して。……ちゃんと聴くから」

「私からもお願いします。どうか遠慮なさらず」

「わ、私も……私でも良ければ……!」

 リーフとファーも、グラウを見て言った。

「……お見通しか。だったら、潔く吐くとしよう……」

 グラウは一度深呼吸をして、それからゆっくりと、話を始めた。

「俺はこの『揺籠』に来る前、とある工科大学に通っていた。もともと霊器をいじるのが好きで……それが高じて入学したようなものだった。だが……その生活を楽しむ暇もなく、すぐに俺の前には『才能の壁』が立ち塞がった。

 ……その大学の中にはタレンタムを持つ連中がたくさんいたんだ。中には見た物をすぐに記憶できるやつや、難解な問題の答えを論理を無視して即座に導き出せるやつなんかもいた。そんな中に飛び込んでしまった俺は、劣等感を感じざるを得なかった。それだけじゃない。俺の霊力量が平均以下だと言う理由で、あいつらは俺をまともに相手してくれなかったんだ。

 ……俺はその頃から才能ある奴らが嫌いになった。そして、そんな奴らに負けたくなくて、全てをなげうつ勢いで努力を続けた。だが、それでも奴らを見返すことはできず、それどころかどんどん差が開いていくように感じた。

 ……そうして心が折れかけていた時、自習中の俺の元にある男がやってきた。そいつの名はフッサ。違う学部のやつだったが、俺の専門と重なる課題が出されたから、わざわざその質問にやってきたらしい。最初は、他の人間に尋ねたが軽くあしらわれ、なぜか俺を紹介されたようだ。——面倒事を俺に押し付けるつもりだったんだろうな——俺が質問に答えると、なぜかとても気に入られて、連絡先を交換しようとまで言われた。俺は面倒に感じたが、そんなに悪い気はしなかった。俺の話を真剣に聴いていたそいつの態度に好感を持てたからだ。

 ……それから俺はフッサとよく交流するようになった。そのうち、才能ある物を敵視していた事を始め、俺とフッサは共通点が多くて、気の合う物同士だってことがだんだん分かってきた。だから、フッサとは情報交換だけでなく、個人的な悩みも相談し合うようになった。——今思えば、それがあの頃の俺の精神的な支えになっていたんだと思う。

 ……俺とフッサは無事に大学を卒業した後、『大樹の揺籠』を受験することにした。『揺籠』に入れれば、どんなことだって研究できる権利が与えられる。何よりそれは、俺たちが『才能の壁』に打ち勝った一番の証になる。正直、半分ダメ元だった。……だが、俺は受かった。リーフに渡した、索発射銃の先端に使われてる霊器、それは俺が大学の卒業課題で発明した物だ。『あらゆるものに接着し、簡単に剥がせる霊器』……この分野でよく知られる学会から賞をもらえるくらい好評だった。それが『揺籠』にも届いたんだろう。……だが、フッサは受からなかった。

 ……フッサが俺の合格の知らせを聴いた時、あいつはそれを自分のことのように祝福してくれた。あいつのことを想っていたなら、俺は素直に喜ぶべきだった。でもその時の俺はそれができなかった。あいつは俺よりずっと幅広い知識と、行動力を備えていた。俺が霊器を発明できたのはあいつと日々情報交換していたおかげだ。そもそも、俺があいつと出会えたのはあいつの方から訪ねてきたからだ。努力だって俺に劣っているとは思えなかった。なのにどうして俺は受かって、あいつは落ちたんだ。そんな思考が頭から離れなかった。

 ……その時、そんな俺の様子を察したのか、フッサがこぼすように言ったんだ。『時の運だ』って……やっぱりあいつは、悔しかったんだと思う。悔しくて思わず、自分を慰める言葉を言ってしまったんだと思う。だが俺は、それもあながち間違ってないかもしれないと思った。俺より努力も行動もしてきたあいつが落ちた理由。そんなの、もう、運とか、才能といった要素しか考えられなかった。

 ……俺はずっと才能の壁と戦って生きてきたつもりだったが、結局俺も、そういう努力と関係ない偶然に頼って生きていたんだ。そして、俺の、唯一の親友とも呼べるそいつの努力が、たったそれだけの要素に否定されてしまったような気がして、俺はやるせない気持ちでいっぱいになった。

 ……そんな思いを抱えて『揺籠』に入った俺は、自分が何をしたいのか分からなくなってしまっていた。これまでのように『才能の壁』と戦うことも、受け入れることもできなくて、それっぽい言い訳を並べて本当に自分に必要なことから逃げ続けていた。そして、冒険実習のあの時……リーフがその事に気づかせてくれた。

 ……実習が終わってから療養中に、俺はこれまでの自分を省みて、自分の本当にやりたい事を、自分の心に問い質した。そうしたら、ある確かな想いが、俺の中で湧き上がっていた。俺は……運や才能に関係なく、正しく生きようと努力する者たちが報われる世界をつくりたい。『大樹』によって霊力の有無による格差を減らした、カエルム様と、その背後にいた多くの技術者たちのように。

 ……だが、それを実現するためには、俺はあまりにも未熟だ……もっとこの世界のことを、広い視野を持って学ぶ必要がある。だから……だから……お願いします!」

 グラウは突然土下座をして叫んだ。

「ちょっとグラウ君!? こんなところで……」

 ファーが慌てたが、グラウは構わず話し続けた。

「これまでの数々の非礼をお許しください! そして……これからもみなさんのグループの一員として俺を受け入れてください! お願いします!」

 ネル、ファー、リーフは、互いに顔を見合わせ、その後、ネルがグラウの前にしゃがんだ。

「顔を上げて、グラウ」

 グラウは少し顔を上げたが、ネルと顔を合わせることができなかった。

「あなたの思いは受け取った。私はあなたを許す。……だからもう、土下座も変な敬語もいらない。分かった?」

「あ……ああ、分かった」

「ファーもそれでいいよね?」

 ネルが振り返ると、ファーはポロポロと涙を流し始めた。

「ファ、ファーさん!?」

 リーフは驚いて彼女の顔を見つめた。

「……へ?」

「『へ?』じゃなくて……涙! 涙!」

 リーフは自分の目を指さしてファーに教えた。

「あ、ああ……何だかとてもホッとして……だって、私、グラウ君のこと諦めずに向き合うって決めてから、なるべく明るく振る舞おうとしてたけど……やっぱりグラウ君のことが怖くっでぇ……」

 ファーは涙声になり、さらに激しく泣き始めた。

「うんうん、そうですよね。すごく怖かったですよね」

 リーフは頷きながらファーにハンカチを差し出した。

「も、申し訳ない!」

 グラウは再び頭を下げた。

「でも、今……グラウ君は私よりずっと頑張ってきて……ずっと苦しかったんだって……そう思って……私……うあ〜〜〜!!」

 ファーは口を大きく開けて、大人気なく泣き始めた。

「ファー、あなたよく泣くね」

「だって〜! うあ〜〜!!」

「お、俺のことならもういい! だから……泣かないでくれ! この通りだ!」

 グラウは土下座をしたまま言った。

「うあ〜〜!!」

〈ふふ、どうやら、いい方向に進み始めたみたいだね〉

 ソーナが言った。

〈ああ、これで『足場』は固まったかな〉


「……ところで、フッサさんは今どうされているのですか?」

 ファーが泣き止み、全員で校舎へ戻る途中、リーフはグラウに尋ねた。

「療養中に久しぶりに念話が来たんだが……企業の研究職に就いて元気に頑張ってるみたいだ。今度の休みに食事でもどうかって誘われたよ。本当に、強かなやつだ」

 グラウは穏やかに笑いながら答えた。

 グラウたちと別れ、リーフは次の仕事場へと向かった。純白の制服の生徒たちが歩き回る中を、黒い使用人服のリーフは進んだ。生徒たちは昼休み明けの講義に向け、互い声を掛け合いながら、次の目的地に移動しているようだった。ここに来たばかりの彼は、この光景を見るたびに青春の眩しさを感じていた。しかし、今のリーフの心に、もはやその像は響かなかった。彼の心は、『その先』を見据えていた。

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