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3. 「大樹の揺籠」

 白い壁の部屋の中に規則正しく並べられた、色の抜けた椅子に、リーフとネルは隣り合って座っていた。少し間を空けた場所にも数名が座っており、椅子の向きに従って皆同じ方向を向いていた。

「ねえ、ネルさん。この場所、何でこんなに白っぽいの? 職員の人たちもみんな白い服着てるし……街中でこんな雰囲気の場所なかったよね?」

 リーフはネルに小声で尋ねた。

「ここは医療施設みたいな性質を持つ場所だから。実際、ここは病院に併設されている場所だし」

「病院ってみんなこんな感じなの?」

「大体そう。白は汚れがついたのがすぐに分かる色だから、清潔なイメージがある。だから、病院とか、研究所とか、厨房みたいな、清潔さが求められる場所では、白い制服が採用されていることが多い」

「ふうん……」

「リーフ・イリトールさん……」

 白い制服を着た職員に名前を呼ばれ、リーフはそれに返事をして立ち上がり、受付時にもらった番号札を見せた。

「準備が整いましたので、測定室の方へご案内します」

「私はここで待ってるから。いってらっしゃい」

「うん、行ってきます」

 リーフはネルに軽く手を振ると、職員と共に待合室を出た。

「どうぞ、お入りください」

 廊下をしばらく歩いた後、職員は扉を開けてリーフに中に入るように促した。中は先ほどの待合室と比べるとずいぶん小さい部屋で、棚がいくつか並んでいた。

「ここで今身につけているお召し物を全て脱いで、こちらの検査着に着替えてください。脱いだ服や貴重品などはそこのロッカーに入れてください。準備ができましたら、番号札を忘れずに持って、奥の扉へ進んでください」

 職員はそう説明するとリーフを部屋に残して廊下へ出ていった。リーフは言われた通りに着替え、荷物はロッカーにしまった。職員が「検査着」と呼んでいたものは薄くて簡素な作りの服だった。身分証や、フラトレスからもらった念話機のような貴重品と呼べるものは全てネルに預けていたので気にする必要はなかった。

 奥の扉を開いて進むと、左右に長く伸びた廊下と、向かいの壁に広い間隔で配置された複数の扉が現れた。近くに待機していた職員に案内され、向かいの壁の扉の一つを開いてもらうと、リーフはその扉を潜った。

 中は先ほど見た待合室より明るく、真っ白で殺風景な空間だった。部屋の中央へ向けて二、三歩歩いてキョロキョロしていると、リーフが入ってきたのとは別の扉から職員が入ってきた。

「番号札を回収します」

 リーフは職員に言われた通り、番号札を差し出した。職員は番号札と名簿を見比べて確認した。

「リーフ・イリトールさんですね?」

「はい」

「それでは、まずはあちらの椅子に座ってください」

 リーフは部屋の中央付近に置いてあった、白い椅子に座った。足とか背もたれが分厚くて、頑丈そうだった。そうすると職員は付近の床から、先端にテープのようなものがついたケーブルを引っ張り出し、両手と両足、胸に張り付けた。——ちょっと冷たかった——最後にケーブルのついた帽子のようなものをリーフに被せ、部屋を出ていった。

 扉が閉まると、職員が隣の大きな窓から姿を現した。どうやら今職員が出て行った方向にもう一つ部屋があるらしく、そこから窓越しにリーフの様子を伺えるつくりになっているようだった。

「この声が聞こえますか、リーフさん」

 職員の部屋の方から声が聞こえてきた。職員の声を壁に埋め込まれたスピーカーから発しているのだと分かった。

「はい」

「問題なさそうですね。それでは、これから霊力テストを開始します」

 真っ白な部屋に一人取り残され、自分と、自分でないものの境界が深くなり、自分が浮き彫りになっていくのを感じた。ここから先は、あの窓の向こうの職員に何を隠し立てすることも叶わない気がした。「白」にはこんな力もあるのだな、とリーフは思った。




 三日前、ネルの家の居間にて。「盟友」となった二人は具体的な方策を話し合っていた。

「一番大きな手掛かりはあのロケットペンダントだろうね」

「ああ、これだね」

 リーフはペンダントを取り出して、蓋を開いて机に置いた。中にはリーフの本当の母親だという、「リノバ」の写真が入っていた。

「実はもう、『リノバ』についてインターネットで検索してみたんだけど、同名の別人ばかり出てきて特定できなかった。……せめて苗字だけでもフリッツから聞き出せていればよかったんだけど、あの時はそんな余裕無かったからな〜」

 リーフはため息をついた。

「……警察が本気になったら特定できると思うけど、今のリーフは違法な身分だし、赤の他人の私から「リノバ」の調査を依頼するのは難しいかな」

「そういえば、ネルさんって読心術士として警察から仕事受けているんだよね? そのあたりのツテでなんとかできないの?」

「無理。私、嫌われてるから」

 ネルは虚ろな目を見せていった。

「あ、そう……気を悪くしたならごめん」

「別に気にしてない……こうなってくると、探偵とかに依頼するのが妥当だとは思う」

「まあ、その道のプロに頼むのが一番早いだろうね」

「でも……」

「でも?」

 ネルは、顎に指を添えてしばらく考え込んだ後に口を開いた。

「……探偵に依頼するにせよ、まずは自分たちで調べられることをやってからだと思う」

「自分たちで? そうは言っても調べられることって……」

「手掛かりならある。それもあなた自身に」

「俺自身?」

「いわゆる生体情報ってやつ。例えば『霊紋』。これは、コアや霊力場に見られるうねりのことで、霊力を扱う人間にはそれぞれ固有のパターンの霊紋を持っている」

(確かに、俺が作り出す霊力場内からなんとなく揺らぎを感じていたけど……)

ネルは話を続けた。

「警察とかは現場に残留した霊力から霊紋を分析して、霊術の実行者の特定の手がかりにすることがある。そして、一番重要なのは霊紋を詳しく解析することで自身の血縁関係を推定できること」

「血縁関係!? つまり、誰が親で、誰が兄弟かとかわかるってこと?」

「そこまで確定させるには相手側のデータも手に入れる必要があるけど……まあ、そういうこと。運が良ければリーフの親戚が暮らしている地域をかなり絞り込めるかもしれない。——あとは、霊術適性も調べてみた方がいいと思う」

「霊術適性?」

「どんな霊術が得意かってこと。私が読心術〈レクト〉をほぼ霊力消費無しで実行できるように、同じ霊術でも人によって消費霊力は異なる。それが霊術適性。これは、血縁関係の近い人ほど似たような適性を持っていることが多いって言われてる」

「それも手がかりになるかもってことか」

「うん。それに、もしかしたら、この辺りにリーフの命が狙われる理由が隠されているかもしれない」

「なるほど……」

 リーフはフリッツとの戦闘の際に起きた、不可解な現象を思い出した。自分の体のことでも、リーフが知らないことはあまりにも多いようだ。

「分かった。まずは自分の体を知ることから始めよう。……で、具体的にどうやって調べるの?」

「街に指定された霊力測定施設がある。そこに申し込めばリーフでも利用できるはず」

「街に指定……?」

「ほとんどの場合、この街で職につくには霊力テストを受けて、その結果を応募の際に提出する必要がある。どの職場も、その人が仕事をこなす能力があるのか知りたいわけだからね。だからこの街には霊力測定施設が沢山ある。でも、計測方法とか基準とかが測定施設によってバラバラだと分かりにくいから街の行政機関がそれを統一させてるってこと」

「はあ、それも霊力社会ならではってことか」




 それから現在。測定室の壁や床から様々な器具が現れ、それに対して職員の指示通りに霊術を使う、という流れが休憩を挟みつつ繰り返された。

 この霊力テストで使う霊術は3種類のみ。火炎術フラム、創造術〈クレア〉、運動術〈モート〉だ。なぜその3種なのか。——これはネルから聞いた話なのだが——理由は2つある。

 1つ目の理由は、この3種の霊術は大体どの人間にも使用可能なもので、かつ、力の大きさや挙動を数値化しやすいから。2つ目の理由は、この3種の適性が分かれば、他の多くの霊術の適性が推測できるからだ。

 この3種の霊術は、霊術の基礎をなすものと言われている。

 例えば、高速の弾丸を飛ばす、射撃術〈バル〉と呼ばれる霊術は、実際に実行する流れを分析してみると、弾丸を「創造」した後にそれに「運動」エネルギーを加えて射出する、という形をとっている場合がほとんどだ。

 放電術〈トニト〉に関しては、「霊力にある一定の性質を付与している」という点で、火炎術と似た系統の霊術だと言える。

 つまり、世の中で知られている霊術のほとんどは、この3種の霊術の組み合わせであると解釈できる。ある霊術に適性がある人は、それと同系統の霊術の適性が高くなる傾向があるため、この3種の霊術の適性が分かれば、他の多くの霊術の適性も推測できるのである。

 ネルの読心術〈レクト〉のような「知覚系霊術」と呼ばれるものは、その分析に専用の大掛かりな機材が必要になるため、今回のような基礎能力を調べるテストでは行わないようだ。

 このテストでは、3種の霊術それぞれについて最大出力とコントロール能力を計測し、テスト全体の結果を通して総霊力量と霊力の回復速度が計算される。

(これから先何をするにしても、自分の現状把握は重要だ。たかがテストと思わず、全力で当たるとしよう)



 1時間後、待合室にて。読書をして待っていたネルの目の端に、車椅子を押して部屋に入ってくる職員の姿が映った。彼女は反射的にその方向へ目を向けた。すると、その車椅子の上には、しおしおになった「彼」の姿があった。ネルは面倒を感じたが、無視する訳にはいかなかった。

「……リーフ、何をしてるの?」

「あ、リーフさんの付き添いの方ですか?」

 ネルが立ち上がって近寄ると、リーフを運んできた職員が話しかけてきた。

「はい、そうですが……」

「実は、リーフさんがテスト終了直後に倒れてしまいまして……」

「何があったんですか?」

「バイタルに異常は見られなかったので、霊力の使い過ぎによる一時的な体調不良だと思います」

「霊力切れ、ということですか?」

「んー、正確にいうと、霊力切れのさらに少し向こう側に行ってしまったイメージでしょうか。人は霊術を使わなくても生命活動に僅かに霊力を消費するので、通常は霊力が無くなりかけた際、全て消費し切る一歩手前で体がストップをかけるのですが、どうやら彼は『頑張りすぎることができる人間』だったみたいで……」

「……こうなってしまったと」

 リーフは口をモゴモゴさせながら呻き声のようなものを上げていた。

「まだ意識があやふやなようですが、しばらく安静にしていただければじきに回復すると思います」

「お手数をおかけしました」

 ネルは深々と頭を下げた。

「いえいえ……実を言うと、霊力テストの際にこうなってしまう方は結構いるんです。このテストの結果で、就ける職業が決まることもありますからね。この検査の結果に将来の夢を賭けて、頑張り過ぎてしまって……とか」

「ユメもキボウもアリマセン……」

 リーフはうわ言を言った。

「あなたは何も賭ける必要ない」

 ネルはリーフの頭に手刀の一撃を加えた。

「痛っ! あれ? ネルさん?」

「おや、意識が戻られたようですね」

 職員は笑ってそう言うと、リーフの体調に異常が無いことを確認し、リーフを残して部屋から去っていった。

 しばらくするとリーフは再び呼び出され、受付で、テストの結果が入った封筒が手渡された。リーフとネルは、ネルの自宅に帰ってからそれを確認することにした。


 二人が居間まで戻ると、リーフは封筒を開け、中身を取り出した。数枚の紙が入っており、文章に加えて表やら図形やらが描かれていた。

「これ……どこから見ればいいの?」

「私に見せて」

 ネルはリーフから紙を受け取ると、目を左右に動かして内容を確認した。

「霊術適性は創造術が他と比べて少し高い程度。最大出力とコントロール能力、回復速度は成人の平均と同じくらい——最近霊力を使えるようになった割には悪く無いスコアだと思う——でも、総霊力量は20歳児並み」

「20歳児……ってどれくらい?」

「うーん、歩道の縁石の上を歩いて遊んでるくらいの年齢かな」

(絶妙に分かりづらいけど……やんちゃ盛りの子供程度ってことか?)

「ところで、リーフって本当は何歳なの?」

「俺は20歳だと思っていた。でも、もしフリッツの言ったことが真実で、俺がエピセンティアの出身だったとしたら、それより多いのかもしれない。……フラトレスの人に以前尋ねたんだけど、俺の見た目は40〜60歳くらいらしい」

「私も同意見。……リーフの記憶が20年前からだとすると、その時期に何かがあったのかもね」

「確かに……」

「それについて調べるのはひとまず置いておくとして……テストの結果は一通り目を通したけど、めぼしい情報は特になさそう。霊力量が低いのはそんなに珍しい特徴でもないだろうし」

「俺に落ちた不思議な雷の謎も、これだけじゃ分かりそうにないね」

「リーフの霊力量であの規模の雷を起こせるとは思えないし……リーフが何かしらのタレンタムを持っているとしか考えられないけど」

「タレンタムは検査で調べられないの?」

「そういう検査はなくはないけど、あれは現在判明してる霊術をひたすら試すものだから、手間がかかるし、自力で探すのと大差ない」

「そうなんだ。それなら俺は時間の空いてる時に色々試してみるよ。なるべく早く特定できるようにする」

「まあ、本命は霊紋の分析結果の方だから、そんなに急がなくてもいいけど」

「そっちの結果はまだ出てないの?」

「どの人種のデータと一番適合するか総当たりで分析してもらってるから。一月以上はかかるみたい」

「そっか……」

 リーフは腕を組んで考え込んだ。今回の検査で情報は得られたものの、まだ手探り状態なのは変わらないようだった。

「それなら……この後はどうしようか。探偵を使ってみようかって話もしてたけど」

 リーフがそう言うと、ネルは少し俯き、しばらく沈黙の時間が流れた。それから彼女はゆっくりと顔を上げ、口を開いた。

「リーフの過去を視てから、ずっと考えてたことがある。……リーフの命を狙った組織のこと」

「フリッツに命令をしてたっていう連中のこと?」

「そう。その組織はまず、何らかの理由でリーフの命を狙った。リーフは霊力の存在すら知られていないような遠い、別世界に暮らしていたけど、おそらく、今リーフが持っているその『指輪』を使ってリーフの居場所へ複数人の刺客を送った。その一人がフリッツだった。

 ……だけど、フリッツは元々組織の一員だったというわけではなく、リノバの『知り合い』だったという理由で拘束され、組織に従うことを強制された立場だった。そして、偶然彼が一番最初にリーフを見つけてしまった」

 この辺り情報はリーフがフリッツの最期に彼から聞いた内容だ。ネルもリーフの記憶を覗いたことで詳しく知ることができたようだ。

「その後はまあ……実際に俺が経験した通りだね」

「これってつまり……この組織は民間人の殺害も厭わないほど危険な存在でありながら、少なくとも12年以上は存続していて、『指輪』を始めとする未知の技術や知識を備えていて、リーフの暮らしていた地域に手を伸ばせるくらいの規模があるってことになる」

「それくらい大きな組織ってことか」

「大きいなんてものじゃない。こんなの、国家レベルの組織としか思えない」

「国……!?」

「それだけ大きな犯罪組織なんて、噂すら聞いたことない。でも、ヴィジーニエ政府がその存在に気づいていない筈がない。多少のことは黙認しなければならないほどの規模なのか、それとも、政府自体がクロなのか……」

「政府……この街の?」

 リーフはヴィジーニエに来てから今まで見てきたものが頭の中を巡った。それまでの常識を軽く逸する、規格外の規模と技術には今もなお驚かされ続けている。それら全てが「敵」のものだとすれば——流石の彼も寒気を感じずにいられなかった。

「……いずれにせよ、私たちの敵は思ったより強大で、身近に存在するのかもしれない。だから、探偵だろうと、他人にリーフの事情を明かすのは慎重になった方がいいと思う」

「それで『まずは自分たちで』って言ったわけか。……でも、国家レベルの敵相手にいつまでも二人だけで挑むのは、限界があるんじゃない? 情報操作だってされてるかもしれないし……」

「……一つ、私に考えがある。この方法なら、私たちだけで真相に迫ることができるかもしれない」

「それって?」

「私が『大樹の揺籠』に再入学すること」

「え!? どうして?」

「『揺籠』の生徒は、一般では入手できない資料や特別な施設を学習の名目で利用できる。そこで得られる情報量はそこらの探偵が入手できるものとは比にならない。……それに、『揺籠』はヴィジーニエ政府である『聖殿』との関わりも深くて、そこの要人の話が聞ける機会も多い。私の『眼』なら彼らから何かつかみ取れるかもしれない」

 リーフはネルの言葉を聞くと、思わず口をぽかんと開けて固まってしまった。

「……どうしたの?」

「はは、いや、当事者の俺より気合いが入っている感じがしたから、少し驚いたっていうか……」

「……実を言うと、最近、気分が高揚するのを感じてる。この街そのものが敵かもしれないって思った時はむしろ燃えてきた」

「頼もしい限りだけど……大丈夫なの?」

「確かに、入学試験は受けなきゃいけないけど、あの試験はほとんど霊力の素質しか見てないから、私ならまず問題ない」

「いや、そういうことじゃなくて……『揺籠』は前にネルさんが嫌な思いをしてきた場所なんでしょ? そこに戻るのって……本当に平気?」

「ああ、そういうこと……私は大丈夫。あれはもう大昔の話だから。それに……今回は『味方』もいる」

「そうは言っても……俺は着いていけないんだろう?」

「あ、言い忘れてたけど、私が入学できたらリーフも入れるよ。私の使用人としてなら」

「え、そうなの?」

「うん、生徒より自由は効かないと思うけど、その立場だからこそ得られる情報もあるだろうし、あなたなら人目を盗んで色々できるだろうし……そういうわけで、一緒に来て」

「なあんだ、そっか。それなら、ネルさんの心配してる場合じゃなかったな……ネルさんみたいに能力のある生徒や要人たちが集まる場所で使用人を演じなきゃいけないんでしょ? 怪しまれないように少しはそれらしい振る舞いを練習しておかないと」

「そう言う割には、楽しそうだけど」

「フフ、そうだね、『世界』に挑めるんじゃないかって思うと、俺も何だかワクワクしてきた。一緒に謎を暴いてやろう、ネルさん」

「ん」

 リーフが拳をネルに向かってに突き出すと、ネルはそれを拳でコツンと叩いた。




 『大樹の揺籠』に潜入することを決めてから1ヶ月後、ネルは宣言した通り、再入学試験にあっさり合格し、入学式の日がやってきた。

 朝食を済ませた後、リーフは自室で着替えて廊下に出た。すると、丁度着替え終わったネルが部屋から出てきた。彼女の真っ白な制服は屋内でもなお輝いているように見え、彼女の髪の躑躅色を際立たせているようだった。

「どう? 変なところ無い?」

 ネルは服が見えるように正面と背面を順にリーフに向けた。

「いい! とってもいい! 前に白は『清潔』のイメージがあるって教わったけどネルさんの雰囲気と……」

「そういうのはいいから。タグとかつけっぱなしになってない?」

「あ、うん……見る限り、大丈夫そう」

「リーフの方は……問題なさそうだね。ネクタイも曲がってないし」

「うん! ちゃんと着る練習したからね」

 彼は真っ黒で背中側の裾が長いスーツを身につけていた。ネルの使用人として見てもらうための服装だった。

「見た目よりずっと着心地がいいし、動きやすくて、暗闇に溶け込めそうだから、前よく着てたやつより気に入りそう」

 リーフははしゃぐように両腕を広げてその場でクルンと回った。

「その服、防護服にも使われる素材で出来てるらしいから、多少無茶しても破れないようになってるみたい」

「そうなんだ! ポルカさんたちには今度絶対にお礼を言わないと……そろそろ出発する?」

「いや、その前に……リーフ、ちょっと来て」

 ネルはリーフを連れて階段を下り、洗面所の鏡の前に来た。

「どうしたの? ネルさん」

「『大樹の揺籠』へ行けば、使用人の立場とはいえ、リーフは様々な人の目に触れるようになる。そして、その中にはリーフの敵も潜んでいる可能性が高い。だから、これから人前に出る時は必ず変装するようにして」

「あ、そっか……でも、変装の道具なんて何も用意してないよ」

「大丈夫。私が考えておいたから。ちょっとじっとしてて……」

 ネルはリーフの頭の上に手をポンと置いてこう唱えた。

「変身術〈フォーマ〉」

 すると、ネルが触れていたところを中心に髪の色がみるみる変わっていき、元々暗い緑色だった髪が明るい緑色に変わった。洗面所の鏡でその様子を見ていたリーフは驚いたが、ネルはまだ何かするつもりのようだった。

「瞳の色も変えるね」

 ネルがリーフの両目に指先を近づけると、灰色だった瞳が青色に変わった。

「これ、何をしたの? 変身術って……」

 リーフは髪を触りながら言った。

「変身術は顔とか体の構造を一時的に変える霊術。色を変えるくらいなら割と簡単にできる」

「髪と目の色が変わるだけで、だいぶ見た目の印象変わるなぁ……」

「他人に色を変えてもらった場合は1日くらいで色が抜けちゃうから、自分で色を変えられるようにしておいて。出来なかったら私が術をかけ直すけど」

「うん、分かった。……もしかしてネルさんの髪はこの術で染めてるの?」

「私はこれが地の色。子が親と全く違う髪色になるのってよくあることみたい。髪色がその人持つ霊力の性質を表すっていう迷信は昔からあって、占いなんかでもよく利用されてる」

 確かに、ネルの両親の髪色はネルとは真逆とも言える地味な色だった。

 ネルは最後に、ヘヤピンを使ってリーフの前髪の一部を上げ、伊達メガネをかけさせた。

「まあ、簡易的ではあるけど……こんなところかな」

「なんだかよく分からないけど……『できる使用人』って感じがする」

 リーフは鏡の自分に見惚れながら言った。

「気に入ってもらえたようで何より……そろそろ時間だね。準備はできてる? もうこの家にはしばらく戻らないと思うけど」

「いつでもOK」

「じゃ、行こうか」

 二人は手荷物を持って自宅を出た。——必要な荷物のほとんどはすでに配送業者に頼んで向こうに送っていた。

 自宅の門の前で待機していると、まもなくピカピカで重厚な雰囲気の車が二人の前に停まった。事前に連絡されていた送迎車だ。

「ネル・イリトールさんとその使用人の方ですね? どうぞお乗りください」

 運転手が車外に出てそう言うと、二人は車内に入って後部座席に座った。ネルの自家用車よりフカフカで座り心地が良く、柑橘系の香りが漂っていた。

(まるで、いつか聞かせてもらったお伽話のお姫様にでもなった気分だ。——いや、最近薄々感じていたけど、実際ネルさんは『姫』と呼ばれるに足るほどの影響力を備えた人物なのかもしれない)

 二人が乗り込んだのを確認すると、運転手は目的地へ向けて車を走らせた。事前に軽くネルから聞いた話では、この車はヴィジーニエの中心部に位置するオケア川の河川敷広場へ向かう。その後川を渡り、スカライ山の中腹に位置する「大樹の揺籠」に向かうとのことだった。

 周りの建物の列が途絶えてそろそろ到着かと思った頃、わさわさと揺れ動く大きな塊が車窓の先に現れた。目を凝らしてよく見ると、それは河川敷広場に集まった大群衆だった。

 リーフたちの車は群衆の前に近づくと、そこに並んでいた同じ見た目の車の列の後ろについた。前にいるのは先に到着した「揺籠」の生徒のものだった。

 前方の様子を伺っていると、前の車から白い服を着た生徒が降り、群衆はそれに手を振って出迎えていた。やはりあの群衆の目当ては「揺籠」の生徒のようだった。生徒が群衆の中へと入っていくと、車の列が進み、すぐにリーフたちが降りる番がやってきた。

 ネルが車を降り、リーフがその後に続いた。辺りは歓声のようなものに包まれていた。リーフはこれほど密に集まった群衆を見るのは久しぶりだった。戦場の光景となんとなく重なって、少し圧倒された。

 車を降りた後、リーフたちは銃を持った衛兵らしき人に誘導された。群衆の立ち位置は霊術で作られた簡易的な柵によって仕切られていて、それにより川岸までの道は確保されていた。ネルは手を振る群衆を無視するようにまっすぐ川岸へ向かった。リーフも目立たないよう静かにネルの後を着いて行った。この街の人間は髪の色が派手な人が多いので間を通り抜けるだけで目がチカチカした。

 群衆を抜けると川に面する広場が現れた。川の奥にはスカライ山が、そしてそのすぐ奥には大樹が見えた。エピセンティアに来てからほぼどこからでも見えた大樹であったが、かなり距離が近づいているのを感じた。この辺りの空のほとんどは既に大樹の枝葉で覆い尽くされていた。しかし暗いわけではなく、大樹自体が放つ光で街が照らされているようだった。

 広場には椅子がまばらに配置されており、先に到着した生徒たちは皆それらの椅子に座って待機しているようだった。それぞれの椅子の下には透明な膜が敷かれており、その膜の端には紐状のものがくっついていた。リーフたちは衛兵に案内されてそのうちの一つに座った。長椅子になっていたので二人並んで座ることができた。

「こんなお祭り騒ぎだとは思わなかったなぁ」

 人心地ついたリーフはほっと息を吐き出した。しかし、群衆の騒ぐ声はリーフのところまで届いて鳴り止まなかった。

「『揺籠』は色々と特別だから。才能あるものだけでなく、既に各分野で名をあげている人だって集まってくる。信心深い人たちの中には『揺籠』の生徒をデウスに選ばれた存在、『天使』と表現する者さえいる」

「それはまた、随分な担がれようだね……」

「……前にここに来たときは、とても誇らしい気持ちでいっぱいだった。世界が私を祝福しているようで、何にだってなれる気がしていた。……でも、今は全然違う。なんだか、すごく、鬱陶しい」

「まあ、そう感じるのも無理ないかもしれないね。俺たちをよく知っている人なんて、あの見物客の中に一握りもいないだろうし、俺ですらなんだかこの状況に違和感を感じてる。……でも、そう感じるってことは、今のネルさんは自分のやりたいことをそれだけ強く心に抱いているってことなんじゃないのかな? だったら、ネルさんは気にせずそれを突き通せばいい。向こうが勝手を言ってるんだったら、こっちも好き勝手やっていこうよ」

「……うん、そうだね」

「ところで、大きな川だけど……何でこんなところで座るの? 橋は? 船は?」

 リーフは軽く周りを見回した。オケア川にはたくさんの船が行き交っていたが、リーフたちに用意された船があるわけではないようだった。

「今に分かるよ」

 ネルはリーフを横目で見ながら言った。

「ふーん? やっぱり何かあるんだ」

「まあね」

 そうしていると広場の中央から案内人の大きな声が響き渡ってきた。どうやら霊術で声量を増幅させているようだった。

「生徒の皆様、お待たせ致しました。これより『迎えの儀』を執り行わせていただきますので、決してその場から動かないようお願い申し上げます」

 案内人がそう告げると、それぞれの椅子の傍に係員が配置につき、案内人の合図と共に一斉にしゃがんで地面に右手を触れさせた。それから生徒たちの足元に丸い紋様が輝いたかと思うと、椅子の下に敷かれていた膜は丸まって椅子を中心とした透明な球体になり、それについていた紐状のものは真上にピンと伸びて先端から大きくフサフサした毛を大量に広げ、椅子ごと空へと舞い上がり始めた。

 その景色はまるで大きな花の種子が風に乗って飛び上がっているようであった。カメラを向けた群衆がそれを見て一層大きな歓声を上げ始めた。

「すごーい! いつか夢に見た鳥の視点だ!」

 リーフはへばりつくようにして周りの景色を見まわした。

「これが『揺籠』名物の一つ、『迎えの儀』。普通、スカライ山に人や物を運ぶ時は船や道路、パイプラインなんかが用いられるけど、『揺籠』に入学する生徒には伝統的にこの方法が使われてる。生徒を植物の種子に見立ていて、俗世を離れて、デウス様の膝下へと降り立つ彼らが、そこで大樹のように世界を支える存在へ育って欲しいという願いが込められているみたい」

「確かに、上についてるアレ、風に乗って飛んでく種の綿毛みたいだね。アレを霊術で操れば飛ぶ方向操作できるかな?」

「余計なことしないで。これ複雑な術式で飛んでるから」

「術式?」

「霊術の実行手順を予め組み立てた陣のこと。作るのには霊力と時間と技術を高いレベルで要求されるけど、これを使うと複雑な術を簡単に、短時間で実行することができる。さっき飛び立つ前、足元に丸い紋様が見えたよね? あれが術式が使われた証」

「へぇ〜、じゃああの綿毛は飾りってこと?」

「いいえ。あの綿毛のような部位が大樹へと流れ込む『風』を掴んでるおかげで私たちはこうして飛べてる」

「『風』?」

「人が呼吸をして霊力を得るように、大樹は霊力を生み出すために、空気中の霊力の元になるエネルギーを取り込んでいて、大樹に程近いこの場所は特に激しい『流れ』が存在している。綿毛はその流れを掴めるような特殊な構造になってるってこと。そして、多分術式は綿毛によって生まれた揚力と推進力をコントロールする役割を主に果たしているんだと思う」

「なるほど……あの大樹の力で運んでもらってるって考えると、なんだか雰囲気出てくるね」

 リーフたちはどんどん高度を上げ、ついにスカライ山中腹の建造物群が見えてきた。これだけで大都市と言っても良いほどの規模だった。

「山の中っていう割にはかなり広い場所だね。『揺籠』はどこにあるの?」

「本校舎は奥の山頂に続く道の近くにある」

 リーフが奥へ目をやると、広い芝生と、どことなく古めかしい意匠が施された建物が見えた。

「でも、正確に言うと『大樹の揺籠』はこの地区全体のことを指す」

「え、あれ全部が?」

「そう。『揺籠』はヴィジーニエ最大の学術地区。あの中には各種研究機関に博物館、ショッピングセンターに競技場、娯楽施設と、入学した者の知識と技術だけではなく、心と体を養う為の全てが詰まっている。だからこの場所は観光地としても人気」

「山の上の街か。こんな大規模じゃなかったけど、何だか俺が昔いた傭兵団の本拠地を思い出すな。恨みを買いやすい職業柄、天然の要害に居を構えていたんだ」

「実際、この場所の成り立ちも似たようなものだと思う。戦乱の時代にカエルム様がここを拠点としたらしいから。そしてそれがヴィジーニエの始まりだったみたい」

「へぇ~歴史ある場所なんだな」

 リーフたちは本校舎の広場上空へ辿り着くと、そこへ向けてゆっくりと降下を始めた。生徒たちの乗り物は互いにぶつかることなく、綺麗に並んで地面に降りると、周りの球体が開いて飛ぶ前の元の状態に戻った。

 リーフたちの前には黒い服に白いエプロンを身につけ、髪を後頭部に小さく丸くまとめた中年の女性が待ち構えていた。彼女はよく通る声でリーフたちを出迎えた。

「新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。これから用務員一同により入学式会場である大聖堂へご案内させていただきます。既に控えている彼らの間を通っていただければ目的の部屋に辿り着けるようになっております。どうぞお進みください」

 リーフたちは案内された道を歩いて進んだ。道の両脇に控える用務員たちの横を通り過ぎるたび、彼らからお祝いの言葉が贈られた。まもなく、リーフの前には開かれた巨大な扉が現れた。どうやらここが目的地のようだった。

 扉を潜ると、そこは天井が高くてとても広い空間だった。辺りは薄暗かったが、至る所に霊力の光を帯びた装飾が施されており、リーフはまるで夜空の中に放り出されたかのような気分になった。

「新入生の皆様はそのまま前方へ、おつきの方はこちらの席に詰めてお座りください」

 出入り口付近に控えていた用務員が入ったきた人たちを案内していた。

「この後の予定も考えると、ここからはしばらく別行動になると思う。一通りやること終わったら念話で連絡するから。それじゃ、頑張って」

「うん、ネルさんもね」

 二人は別れてそれぞれの席へ座ると、奥の方から司会の声が響いてきた。

「これから、星暦2022年度・『大樹の揺籠』入学式を始めます。まず始めに、本学理事長兼カエルム教会教皇であられる アシナス・ヨクラートル猊下よりご挨拶があります」

 司会がそういうと、仰々しいローブを見に纏った男が中央の演題の前に立ち、挨拶を始めた。

「新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。今日新たに才能あふれた30名の生徒をこうして迎えられることに、この上ない喜びを感じております。

 ……『大樹の揺籠』は、次期デウス候補が選ばれる場としても有名ではありますが、これまで政治、経済、科学研究だけではなく、文学、芸能やスポーツに至る、あらゆる分野の第一線で活躍する人材を輩出してまいりました。皆様の中には、認められた才能を発揮させて、偉大なる先輩方の後に続きたいと望んでいる——あるいは期待されている方が多くいらっしゃることでしょう。

 ……しかし……老婆心ながら申し上げますが、今回我々が皆様に見出した才能は、『世界を支える力』である共に、『世界を壊す力』になりうる物です。まだヴィジーニエが興る以前、戦乱の時代では、まさに霊力は世界を壊す力であったと言えます。自らの力に溺れた物たちによる暴挙により、文献に記録されたものだけでも数多くの痛ましい悲劇が起こってしまいました。

 ……我らが初代デウス、カエルム様はその時代から得た教訓から、力あるものに正しい心が宿るように、『大樹の揺籠』をお作りになられました。その後の『揺籠』の輝かしい功績は、カエルム様の思いを受け継いできたからこそ残せたものだと私は思います。

 ……少々重苦しい話をしてしまいましたが、難しく考える必要はありません。まずは心の赴くままに、自分自身と向き合ってみてください。そして、自分の力の正しい在り方を学んでください。『揺籠』が皆様のそうした活動の助けになることを願っています」

 アシナスが挨拶を終えると、拍手の音が会場を包んだ。

 教皇アシナス。リーフはこの一月の間に『揺籠』のことを軽く調べていたため、彼の顔は知っていた。彼はカエルム教会においてデウスに次ぐ地位にいる人物で、政界でもその影響力は大きいようだった。

(そして、俺とネルさんは、まさに彼のような人物が『敵』ではないかと踏んでここまでやってきた)

 その後は要職や来賓による挨拶が行われたくらいで、特に何事もなく閉式となった。

「使用人の皆様はこの後新入生の皆様とは別れて、まずは寮の部屋の確認をしてもらいます。私の後をついてきてください」

 閉式の挨拶が終わるとすぐに案内人がやってきた。ネルたち新入生の方は別の者が案内を始めていた。彼女が言っていた通り別行動になるようだった。リーフは案内人に従って大聖堂を出て、西側へと向かった。

 案内人についていくと、5階建ての大きな建物が現れた。見たところ主に煉瓦や瓦で出来ているようで、ヴィジーニエの建物にしてはリーフに馴染み深い雰囲気だった。——大聖堂を始め、この辺りの建物はこういう雰囲気のものが多く見られた。

(『揺籠』はカエルムの時代からあったそうだけど、昔から残っている建物はこういう建築様式なのだろうか)

「こちらが今日から皆様が利用できる寮です。『揺籠』で働く用務員と使用人のほとんどはこの建物で寝泊まりしています。学生寮は向こう側にあります」

 案内人が指した方に目をやると、こちらよりも大きくて新しい雰囲気の建物がみえた。出入り口には新入生たちが集まっており、ネルの姿も確認できた。最近はネルの髪色に馴染みを覚えてきたのか、人混みの中でもすぐに見つけることができるようになっていた。

「皆様にはこれから事前に送っていただいた荷物と部屋の鍵をお渡しいたしますので、荷物と部屋の確認をお願いします。30分後にオリエンテーションを行うので、またここに集合してください」

 案内人にそう言われるとリーフは出入り口脇に並べられた荷物から自分のスーツケースを発見した。——ヴィジーニエに入る際カニスからもらった巨大な物だ。あらゆる事態を想定して剣や調理器具などを詰め込んだら大荷物になってしまった。

 荷物を運んで中に入り、エレベーターを経由して自分の部屋の前にたどり着いたら、渡された鍵を使って中に入った。中にはベッド、椅子、机、クローゼット、冷蔵庫のみが置いてある部屋だった。トイレや浴場、キッチンは共用スペースのものを使うようになっているようだった。ネルの家の部屋と比べたら随分狭いが、個室が与えられるだけで破格の待遇に感じた。

 部屋の中を一通り確認し、荷物を整理して、武器の隠し方を考えながら、持ってきた腕時計にふと目を向けると、オリエンテーションの時間が近づいていたのでリーフは自室を出て寮の入り口前に戻った。すると、用務員たちが整列して待ち構えており、リーフたちもその前に整列させられた。

 人数の確認が終わると、用務員の一人が前に出てきて話を始めた。リーフが始めて「揺籠」に降り立った時に挨拶していた、声のよく通る女性だった。

「皆様、お集まりいただきありがとうございます。『揺籠』用務員の業務を仕切らせていただいているカメリアと申します。既に連絡されていることとは思いますが、皆様には今日からこの『揺籠』で生活するにあたって、我々用務員の手伝いをしていただきます。

 ……本来皆様の仕事は皆様の主人のお世話をすることであり、できれば我々もそれに専念させてあげたいのですが、『揺籠』用務員は近年慢性的な人手不足に悩まされ続けていて、皆様の協力がなければ運営がままならないのが現状です。どうか、ご理解の程をよろしくお願いします。

 ……さて、早速にはなりますが、皆様にはこれから我々用務員の一人と組になって、用務員の仕事を手伝ってもらいます。いずれは皆様単独で仕事をお願いすることになると思いますので、行った仕事はしっかりと覚えるようにしてください」

 その後は、使用人の名前を一人一人カメリアが呼び出し、呼び出された者は用務員と組になって仕事場へと向かっていった。そして、リーフの番がやってきた。

「リーフ・イリトールさん」

「はい」

「あなたはミュオ・アルカさんと組んでください」

 カメリアがそう言うと、カメリアと似たような服装をした女性が後ろから現れた。

「ミュオです。よろしくお願いします、リーフさん」

 ミュオは深々と頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 リーフもそれに続いて頭を下げた。

「じゃあ、まずは私についてきてください」

 ミュオについていくと、リーフは噴水のある広場にたどり着いた。

「最初の仕事場はまだ先ですが……通りがかったついでにこの『揺籠』の施設の位置関係をお教えしましょうか?」

「はい、お願いします。正直、あまりの広さに戸惑っていたところです」

「そうですよね。では軽く説明すると……まずこの広場は『揺籠』の本校舎区画の中心に位置しています。ここから西側は私たちが先ほどいた寮や部室棟、娯楽棟など、主に生徒に使われる想定の施設が多いですね。

 ……そして東側は、職員室に研究室、農園など、主に教員向けの施設が多いです。……最後に北側ですが、あちらは先ほど入学式にも使われた大聖堂のほかに講義室、資料室、食堂など、生徒と職員が共に利用するような施設が集まっています。……ちなみに北は『聖殿』のあるスカライ山山頂が位置する方角でもあります。大樹さんの幹も見えますね」

(大樹さん?)

「……理解していただけましたか?」

「はい、利用者によって分けられていたんですね……完全にとはいきませんが、だいぶ覚えやすくなったと思います」

「それはよかったです。とはいえ……」

「とはいえ?」

「この本校舎区画ですが、生徒や教員の多様な要望に応えるためにどんどん新しい施設が外側に作られ続けているんです。私はここに勤め始めてからかれこれ20年くらいにはなりますが、いまだに全貌がよく分かっていない所があるくらいで……それに、施設が増えるたびに用務員の仕事も当然増えることになります」

 ミュオは片手を頬に当ててため息を吐いた。

「それで人手不足に……」

「そうなんです。そういう訳で、これからはリーフさんのご主人様が講義を受けている間、こうしたお手伝いをお願いすることになります。この時間に手伝っていただけるだけでも我々としては大助かりなんです。ですから、リーフさん、改めて、よろしくお願いします」

「いえ、私も今日からここに身を置かせてもらうのですから、そのくらいやるのは当然だと思います。微力ながら、お手伝いさせていただきます」

「ありがとうございます。それでは、最初の仕事に向かいましょうか」

 リーフたちは北へ向かい、講義棟に入った。中に入るとすぐに、奥が霞むくらい長い直線の廊下が登場した。

「まずはこの講義室周りの廊下を掃除してもらいます。今回は窓の周りや床の塵を取り除くくらいで大丈夫です。……リーフさんは、こういった室内の掃除に道具は使いますか?」

(え?)

 使わないことがあるのか、という言葉が口から出かかったのを、リーフは咄嗟に引っ込めた。ここは霊力の街だ。仕事を全て自分の霊力でこなしてしまう人も珍しくはないのだろう。

「……使います。というか、実を言うと私は霊力量が人並み以下なので霊力に頼れないんです」

「まあ、そうでしたか。……でも、大丈夫ですよ。この『揺籠』は霊力が全く使えない人でも働けるように、道具と設備が整えられていますから。ここの扉の中に掃除用具が入っています」

 ミュオが開けた扉の先を覗くと、様々な道具がぎっしり入っていた。その中には箒のような、リーフに馴染み深い形の道具もいくつか含まれていた。

「それじゃあ……今日はこれを使って掃除してもらいましょうか」

 ミュオは部屋の中から大きな霊器を引っ張り出した。

「掃除機です」

 彼女はそう言ってリーフに霊器を手渡した。

「掃除機……ですか?」

 掃除機はこの街の常識を学ぶ一環としてネルの家で使ってみたことがあったが、それとは随分形状が違うように見えた。

「『揺籠』向けに開発された特注品だそうです。畳まれている先端をこう組み立てると、ここの廊下の横幅いっぱいに広がって、床全体を一挙に掃除することができるようになってます。普通の掃除機と違うのはそれくらいです。コンセントはそこらじゅうの壁の下の方にあるので自由に使ってください」

「はい」

「まずは私が床以外の掃除をしますので、リーフさんはその後に続くように床を掃除してください。その際に一つ注意点ですが、今この辺りは講義に使われている部屋が多いので、音はなるべく立てないようにしてあげてください。その掃除機は駆動音がとても小さいので使うこと自体は大丈夫なんですが、講義室の壁にぶつけると音が結構響くので気をつけてください。……何か他に気になることはありますか?」

「大丈夫です」

「では、始めましょうか……創造術〈クレア〉!」

 彼女がそう唱えると、両手から綿状のものがムクムクと広がり、天井に届くほどの大きさになった。そして、彼女がその綿で天井や左右の壁を一撫ですると、汚れや埃が取り除かれ、艶が蘇った。

(霊力って本当に便利だな……これ、俺必要か?)

 ミュオの仕事ぶりに呆気に取られつつも、リーフは掃除機をかけながら後をついていった。

「……初めまして、ナルブ……と申します……」

 通りがかった講義室の壁の奥から、男性の声が聞こえてきた。どうやら教員が講義をしているようだった。壁一枚を挟んだ声は決して聴きやすいものでは無かったが、リーフの耳なら聴き取れないことはなかった。

(ヴィジーニエでいちばんの教育機関。どんなことを教えてるんだろう?)

 興味が湧いたリーフは、ついその話し声に集中してしまうのだった。

「……今回私は『治療術〈クーラ〉』の概論をお話ししたいと思います。私の専門は人間工学ですが、治療術師の資格も持っています。これらはどちらも人体の構造や機能の把握が問われるものなんです。

 ……治療術はその名の通り体に負った傷を治すためのものです。小さい傷の場合は傷の周辺の組織に霊力で働きかけ、組織の再生能力を促進させて傷を治します。しかし、例えば腕が一本まるまる欠損するような大怪我の場合はこの方法では直せません。周辺組織は元あった腕に治すためのちゃんとした設計図を知らないからです。

 ……ではそんな場合はどうやって治すのか。主に二つの方法があります。一つは治療術師が腕の設計図を用意する方法です。正しい道筋を作ってから組織を再生させるイメージですね。これを行うためには人体の構造の理解が必要な上に、その人の体に合う形に調整する必要があります。

 ……もう一つの方法は『コア』を利用する方法です。……今でも稀に勘違いしている方を見かけるので、コアとはどういうものなのか、今一度説明しておきたいのですが……『脳が人の体の制御を、コアが人の霊力の制御を司る』というのは“間違い”です。『脳が人の体の制御を、コアが人の全てを司る』という方が正しい説明ですね。

 ……つまり、コアは脳の完全に上位に位置する器官なんです。そして脳は普段、コアの仕事の一部である『人体の制御』を肩代わりしているのだと考えられています。

 ……その証拠に、霊力の扱いが上手い人は、脳を破壊されても、体を動かしたり、音や光を感じ取ったりすることが可能なんだそうです。とはいえ、正常時とは全く感覚が異なるので、かなり制御は難しくなるそうなんですが。——あ、体験してみようとか考えないでくださいね? 危険なので——

 ……さて、話が少し逸れてしまいましたが……コアは“人の全てを司る”器官です。それは霊力の源であり、霊力の制御をするだけではなく、人の認知機能、記憶、人格にも大きく関わってる器官です。

 ……そして、ここからが治療術において重要なポイントなのですが……人のコアには人を形作るための全ての『設計図』が記録されていることが知られています。さらに、コアの正しい部位に治療術をかけてあげることで自動的に元の体に再生することが分かっています。しかし、この方法は難易度が高く、現在のところ、コアの構造を把握できる才能を持つ治療術師か、専用の設備が用意できる場合でしか用いられていません……」

「リーフさんリーフさん」

「え、どうかしましたか?」

 突然ミュオが小声で話しかけてきたので、リーフは表情をこわばらせてしまった。

「あそこ、今年の新入生がよく使う講義室です。一応、教えたほうがいいかなと思って」

「あ、そうなんですか。ありがとうございます」

「いえいえ」

 そう言うとミュオは振り返って作業を再開した。

(ネルさんのことを気にしていると思われたのかな?)

 そのまま作業を進めていくと、今度は別の講義室から興味深い話が聞こえてきた。今度はミュオに悟られないように注意して話を聞いてみることにした。

「……さて、この誰もが知る『果ての壁』ですが、これは実に謎の多いものです。エピセンティアの縁をぐるりと取り囲む超巨大な山脈であるということ以外ほとんどわかっておらず、その成り立ちも、その向こうに何があるのかも不明なままです。ここまで謎が多い理由は、『壁』の周辺は極めてエネルギーが少なく、人が近づくことも困難な環境であるからです。……しかし、近年の地質調査から、過去にエピセンティアでは巨大な隕石が何度か落下してきていることが明らかになり、それに伴ってある仮説が注目され始めています。それは、『巨大隕石が中心部を抉り、周辺部へ土砂を飛ばしたことにより壁ができたのではないか』というものです。この仮説の裏付けのため、我々地質研究班はエピセンティア各地を奔走しております。……」

(随分スケールの大きい話だが……ここの研究員でも壁のことはあんまり知らないんだな)

 『果ての壁』は、エピセンティアに来る前の、リーフがいた世界でも確認することができた。あの異質な存在を眺めると、「この世界とは、自分とは何なのか」考えさせられたものだった。

(そういえば、『果ての壁』って言葉を初めて聞いたのって……)

「ふぅ、これで一通り終わりましたね」

 気がついたら廊下を一通り巡っていたようだった。ミュオは広げていた綿を手元にギュッとまとめると、そのまま廊下のゴミ箱に捨ててしまった。創造術で作り上げた物体は通常、術者の操作を離れると自然消滅するので、そうすれば集めたゴミだけがゴミ箱の中に残ることになる。リーフも掃除機で集めたゴミをゴミ箱の中に入れた。

「お疲れ様でした。リーフさんのおかげで時間も霊力もかなり節約できて助かりました」

「それならよかったです」

 ミュオはやはり仕事も指導も手慣れている印象で、その所作には常に余裕が感じられた。

 その時、講義棟の中に鐘の音が響き渡り、講義室から生徒が一斉に出てきた。

「もう昼休みですか。今日は入学式があったから昼が来るのが早く感じますね……よかったら食堂で一緒に食事しませんか?」

「食堂……って私も使えるんですか?」

「はい。生徒も教員も用務員もみんな利用できますよ。立場が異なる人同士でも交流できるようにそうしているそうです」

「それなら……お言葉に甘えて」

 リーフはミュオの案内で食堂に入った。椅子と大きな机がたくさん置いてあり、すでに食事に来たたくさんの生徒で賑わっていた。広い空間だったが、大きなガラス窓や天窓のおかげで日当たりはよく、中が明るかった。

「この『揺籠』の生徒と職員は、ここの食事をなんと無料でいただけるんです」

 ミュオは誇らしげに説明した。

「それはすごいですね」

 リーフはミュオに利用方法を教わりながら食事を受け取った。ミュオも食事を受け取ると、二人は自分たちが座れる席を探し始めた。その時、リーフの目は見慣れた躑躅色の髪を捉えた。他の女子生徒一人と一緒に食事中のようだった。

「ミュオさん、私の主人と一緒に食べませんか? 今向こうにいるのを見つけたので」

「え? リーフさんが良いのであれば構いませんが……」

「遠慮はいらないですよ。こっちです……やあ、ネルさん。ここ座ってもいい?」

 リーフに気づいたネルは口の中の物を飲み込んでからリーフの方を向いて応えた。

「いいよ」

 リーフはネルに向かい合う席に座った。

「失礼します」

 ミュオもリーフの隣にゆっくりと座った。

「その方は?」

 ネルがリーフに尋ねた。

「この人は『揺籠』の用務員さん。さっきまで俺に仕事のやり方教えてくれてた」

 リーフがそう応えると、ミュオはネルに深々とおじぎして挨拶を始めた。

「初めまして。ミュオ・アルカと申します」

「用務員さんでしたか。私はネル・イリトールです。リーフがご迷惑をかけませんでしたか?」

「いえいえ、そんなことは全く。リーフさんが熱心に話を聞いてくださるので、教えるのが楽しく感じたくらいです」

「それは良かったです。……第一印象はうまく取り繕えたみたいだね」

 ネルはリーフの方へ向いて行った。

「人聞き悪いこと言わないでよ!」

 その様子を見ていたミュオはくすりと笑った。

「それで……そっちの方は?」

 リーフはさっきからネルの隣で背中を丸めて縮こまっている明るい金髪の女子生徒に目を向けた。

「あ、あ……あの!」

 金髪の生徒はガタンと音を立てて立ち上がった。

「私の名前はファ……ッ、ふぃふぁはんあ、ひひはい〜(舌噛んだ、死にたい〜)」

 彼女は手で口を押さえて、ヘナヘナと座り込んだ。

「え、え!? 大丈夫ですか?」

「落ち着いて下さい」

 リーフは慌てて声をかけたが、ネルは彼女に冷めた目を向けた。

 女子生徒は息を整えてから、改めて自己紹介を始めた。

「えと……ファー・ヴィーリディス、です。ネルさんと同じグループになったのでこうして昼食に誘わせてもらって……」

「グループ?」

 リーフはネルに尋ねた。

「『揺籠』では複数人で行う課題や実習は固定されたメンバーで行うことになってる。そのまとまりがグループって呼ばれてる」

「つまり、これからよく行動を共にすることになる仲間ってことか。ネルさんのグループは何人いるの?」

「私を入れて3人だけど……」

「……はい、他にグラウ・フォートレス君って人がいて、その人も食事に誘ったんですけど、けんもほろろに断られてしまいました……」

 ファーはそう言ってさらに縮こまった。

「……あの人のことは放っておけばいいんじゃないんですか? 何か拗らせてそうだったし」

 ネルは食事を口に放り込みながらファーに言った。

「え!? そういうわけには……」

 そんなネルたちの様子を見て、ミュオは口を開いた。

「そうですね……用務員の立場からこれまでの生徒を見てきた者として一つ言わせていただきたいのですが、そのような状態を放置するのだけはやめておいた方がいいと思います。私はこれまで、新入生で起こりがちな暴力沙汰や不登校の問題の対処に関わらせていただいたことがあるのですが、原因を突き詰めていくと、グループ内の些細な行き違いが積み重なった事によるものがほとんどでした」

「暴力沙汰って……私たちも仲良くなれないとまずいってことですか?」

 ファーは顔を青くさせて言った。

「別にそこまで焦る必要はありませんよ。皆様はまだ出会った初日なんですから。それに、仲良しになれと言っているわけではありません。軽い声がけや挨拶だけでもいいので、『仲間』として接してあげれば良いと思います」

「うーん……」

 ネルは面倒くさそうな顔をして聞いていた。それを察したのかミュオはさらにこう付け加えた。

「大変だとは思いますが、良い経験になると思いますよ? 皆様は『揺籠』に選ばれましたが、まだデウス様とは違います。考え方の違う人たちとも協力しなければならない事がこれからもたくさんあるはずです。そういった事を学ぶのもこのグループ制度の目的の一つだと思います」

「なるほど……ミュオさん、ありがとうございます! 私、もう少し頑張ってみようと思います!」

 ファーは大袈裟にお辞儀しながら言った。

「いえいえ、少々口うるさく言ってしまいましたが、どうかご無理はなさらないで下さいね。どうしても馬が合わなそうな時は、担任の教員に相談してメンバーを変えてもらうこともできたはずですから。もちろん、私でもよければいつでも相談に乗りますので」

 ミュオは微笑みながら言った。

「困ったことがあれば私にも遠慮なくお申し付けください。雑用でも何でもお引き受けいたします」

 リーフはファーに向かって言った。

「え、いいんですか!?」

「はい、ファーさんがネルさんと同じグループであるというのであれば、ファーさんも私の主人のようなものですから」

「まあ、リーフがそう言うなら、いくらでもこき使ってあげて下さい」

 ネルはファーに言った。

「わ、あ、ありがとうございます! 嬉しいです! 実は、使用人を連れてる人がちょっと羨ましく思ってたところだったので……あの、リーフ君って呼んでいいですか?」

「ええ、構いません。何なら呼び捨てにしていただいてもいいですよ」

「よよよ呼び捨て!? ちょっとそれは心の準備が……」

「あの……一ついいですか?」

 ファーが顔を赤くしている所にミュオが真剣な顔で割り込んできた。

「リーフさんの言葉遣いを聞いていて思ったのですが、リーフさんとネル様は、『使用人とその主人』という関係にしては、何というか、距離感が近いですよね? それからふと思い出したこともあって……お二人の姓は、どちらも同じ『イリトール』ですよね? もしかしてご姉弟ですか?」

「姉弟!? そんなことあり得るんですか!?」

 ファーは食いつくようにミュオに尋ねた。

「一応、禁止はされていません。あまり想定されていないことだとは思いますが……それで、実際の所はどうなんでしょうか?」

 ミュオはネルたちの方を向いて言った。目に力がこもっていて、相当気になっているようだった。リーフはネルの方に目配せをした。このことはネルから話した方が良いと思ったからだ。それを察したネルはゆっくりと口を開いた。

「……隠すつもりはありませんでしたが、今から話すことは周りの人間に言いふらさないでいただけますか? あまり注目を集めたくないので」

「はい、『揺籠』用務員の誇りに誓ってそのようなことは致しません」

「わ、私もです!」

 ミュオに続いてファーもそう言って頷いた。

「分かりました。……実は、私とリーフは夫婦なんです」

「夫……婦!?」

 ミュオとファーは驚いて目を丸くした。そこにリーフも加わって少し照れ臭そうに振る舞いながら説明を始めた。ネルの両親と会った時と同様、「設定」は前もってネルと話し合って決めていた。

「はい、今回ネルさんが『揺籠』にいく事になって……」

「ま、待って下さい! それ以上話さなくて大丈夫です!」

 ファーは机に身を乗り出してリーフの話を止めた。

「え?」

「ミュオさん、これ以上我々が踏み込むのは不粋というものです」

「ファー様? し、しかし、私はまだ何が何だか……」

 ミュオがそう言うと、ファーは彼女のそばに寄り、リーフたちに背中を向けて耳打ちを始めた。——リーフたちには全て聞こえていたのだが。

「ミュオさん、考えてもみて下さい。普通の男性が使用人として妻についてくることなんて出来ません。『揺籠』に来た使用人はここでの業務が義務付けられており、他の仕事に時間を割けなくなるからです」

「では、元々職についていない人だったら?」

「それも考えにくいでしょう。『揺籠』はヴィジーニエで一番の教育機関であり、多くの有名人も集まります。そんな場所で普通の人間がいきなり使用人としてやって行けるとは思わないでしょう……ただ一つ、元々彼が彼女の使用人だったという可能性を除いては」

 ミュオはハッとしてファーに顔を向けた。

「……そう、つまりあの二人は、古来より恋愛劇として語り継がれ、人々の心を震わせてやまない、『身分を越えた愛』によって結ばれた関係だったのです! だからネルさんが『揺籠』にいくことが決まっても、リーフ君はそれについていく決断をしたのです。場所が違えど、二人の愛の形が変わることはないのだから!」

「……ファー様、私は何と浅はかなことをしてしまったのでしょう。好奇心に駆られてお二人の関係に水をさしてしまうとは」

「そう気を落とさないで下さい、ミュオさん。私たちがこの真実を知ってしまった事にもきっと意味があるはずです。……ちなみにリーフ君、結婚してからどれくらいになるの?」

 ファーは急にリーフの方を振り向いて言った。

「え、まだ1ヶ月ちょっとくらいですけど……」

 リーフがそう言うと再びファーはサッと背中を向けてミュオに耳打ちを始めた。

「新婚! 新婚アツアツですよミュオさん!」

「ええ、これは放っておけませんね。知ってしまった以上、我々の手で精一杯お支えしなければ」

「はい、そして物語より素敵なお二人の行く末をじっくり堪能しましょう!」

 二人は固く握手を交わした。リーフたちの考えてきた「設定」を言う機会を完全に逃してしまった気がした。

「何だか変に盛り上がってる見たいだけど、大丈夫かな?」

 リーフはネルに小声で言った。

「まあ、『視た』限りは無害だと思う」

「そっか。ちょっと変だけど、いい人に出会えたみたいだね」

「そっちもね」


 昼食を終え、ネルたちと別れたリーフはミュオと次の仕事場へと向かった。次の仕事は西のグラウンド付近の花壇の手入れだった。ここでもリーフはミュオの指示に従って作業を進めた。

 作業中、グラウンドでは運動着を着た生徒たち——ネルの学年とは別のようで、少人数ではあったが——が護身術の講義を受けているようだった。武を嗜む者として興味を持ったリーフはその講義に耳を傾けてみる事にした。すると、がたいの良い教員が話を始めた。

「今日は私の講義を選択してくれてありがとう。君たちがこのヴィジーニエで護身術に頼ることなどまずないだろうが、このエピセンティアは本来モンスターが頻繁に出没する世界で、現代でも街の外ではモンスターが大きな脅威として問題になっている。

 また、君たちの中には22年前のモンスターの大量発生事件が記憶に新しいものも多いだろう。街の結界を突破して複数箇所で被害が発生したその事件が起きて以来、住人が護身術を学ぶ重要性が見直され、『揺籠』を含むヴィジーニエの様々な教育機関で護身術の講義が行われるようになった。

 私は、この講義で教えたことがいつか君たちの命を守ってくれると信じている。君たちもそんな姿勢で講義を聴いてもらえるとありがたい。

 ……さて、今回の講義では『完全な障壁術』の使い方を学んでもらう。攻撃を守るのに欠かせない障壁術だが、通常の障壁術では単一の系統の霊術しか防げない。大抵の人間は相手の放った霊術を見て、無意識的にそれに対応する障壁術を展開するが、この方法は危険が大きい。なぜなら、霊術の見た目は割と簡単に偽装可能だからだ。例えば、物理的な性質の霊術かと思ったら放電術だったなんてこともあり得る。もし相手の霊術の性質を見誤れば、障壁は霊術を素通りさせてしまうだろう」

 これはまさにリーフがカニスたちを襲撃した際に使った手だった。教員は話を続けた。

「これを防ぐために確立されたのが『完全な障壁術』だ。これは通常の障壁術より霊力の消費が激しくなるものの、今現在知られているあらゆる霊術を防ぐことができる霊術だ。実際のやり方だが、この術を自分の想像力のみで行うのは難しいだろう。……私の手を見てほしい」

 教員はそう言うと、自分の手から霊力場を膨らませた。

「私の霊力場の中の『色』が見えるか? 初めのうちは自分の霊力場をこの色に合わせてから、障壁術を展開することをイメージすればいい。次第のどのように『心』を動かせば実行できるか掴めてくるはずだ」

(へぇ、そんな練習法があるんだな。……それに『完全な障壁術』か。手練れ相手の場合は霊術偽装は通用しないって考えた方が良さそうだ)

 リーフは良い情報が聴けたと思った。ミュオはリーフが講義を聴いていることに傷づかず指導を続けていた。

「ではリーフさん、今度はこの列の萎んだ花をハサミで切り落としてください」

「はい。……それにしても、花の管理ってこんなに大変なんですね。精々水やりするくらいだと思っていたんですけど」

「リーフさんはお花育てたこと無かったんですか?」

「はい、ネルさんの家は花も植木も無かったですし、あまり育てる機会がなくて……あってもなんとなくで済ましてしまっていたと思います」

「そうでしたか。……このお花は本来ここの気候で育つ種じゃないんです。だからちゃんとお世話しないと綺麗な花を咲かせてくれなかったり、雑草に負けて枯れてしまったりするんですよね」

「そうなんですか」

「はい。……あら?」

 その時ミュオは何かを見つけてその場にしゃがんだ。彼女の目線の先には、何かに潰されたように根本から倒れた花があった。

「まあ……ひどい。ボールでも飛んで来たのでしょうか?」

 ミュオは倒れた花に手を触れて状態を確かめた。

「どうですか?」

 リーフはミュオの隣でしゃがんで尋ねた。

「このまま放置すれば、枯れてしまうでしょうね、……治療術〈クーラ〉」

 彼女がそう唱え、倒れた花が霊術の光に包まれると、花はみるみるうちに起き上がり、他の花と変わらない瑞々しさを取り戻した。リーフはその鮮やかな手並みに思わず見惚れてしまった。

「すごい……」

「長いことこの仕事をしているせいか、最近はなんだかお花の状態というか……気持ちがなんとなく分かるようになって来たんですよね。それでこんなこともできるようになってしまって……」

 ミュオは少し照れくさそうに言った。

「それってもしかして、『タレンタム』ってやつですか?」

「どうなんでしょう? 成人してから発現する人もたまにいるそうですが……とにかく、上手く治ったようでよかったです。私たちの都合でここに植えられたんですから、せめて私たちの手でしっかりお世話してあげたいですよね」

「……そうですね、本当に」

 花壇の手入れを終えると、放課を知らせる鐘の音が響いた。リーフとミュオは業務報告のために寮へ向かった。

 その道中、リーフは自身の耳にある音色が流れ込んで来ている事に気づいた。リーフはその音がなぜか無性に気になり、音の方向につい首を向けてしまった。それは北の大聖堂の方角で、複数人が何かを歌っているようだった。

「リーフさん、どうかしましたか?」

 リーフの様子に気づいたミュオが彼に声をかけた。

「あ、いえ、何か聞こえるなと思って」

 リーフがそういうと、ミュオは左耳に手を添えてリーフが見ていた方向に耳を向けた。

「あー、これは聖歌ですね。ヴィジーニエで昔から人気の曲みたいですけど、清涼感に溢れててとてもいいですよね」

「ええ、そうですね……」

 確かに澄んだ音色の素晴らしい歌だった。しかしリーフは、それ以上の何かをこの歌に感じていた。

「……あ」

 その時、リーフの全身の毛が逆立った。

(そうだ。俺はこの歌を『あの人』聴かせてもらった事がある。もう6年以上も前のことだが。一体どういうことだ?)

「リーフさん、大丈夫ですか?」

 気がつくとミュオが心配そうにリーフを見つめていた。

「あ、すみません。大丈夫です。ちょっと気が抜けてました」

 リーフは作り笑いでその場を誤魔化した。歌のことは気になるが、今はいくら考えても謎は解けそうに無かった。


「それじゃ、今日はお疲れ様でした、リーフさん。しばらくは私の手伝いをしてもらうと思うので、これからもよろしくお願いしますね」

「はい、こちらこそよろしくお願いします。それではまた」

 リーフは業務報告を終えて、ミュオと別れた。それからどうしようかと考えていたところに、ちょうど念話機の着信音が鳴った。

「もしもし、ネルさん?」

「リーフ、私の寮の部屋に今から来てくれる? 大したことではないけど共有しておきたいことがあるから」

「うん、分かった。実は俺も話しておきたい事があったんだ。すぐに行くよ。……あれ、でもネルさんの部屋ってことは女子寮だよね? そういう場所に男が立ち入るのって厳しいんじゃなかったっけ?」

「管理人に話は通してあるから、この時間での出入りは大丈夫なはず」

「そっか、なら安心かな」

 リーフは女子寮へ行き、入り口近くで待機していた管理人に声をかけると、ネルの部屋の前まで通してもらった。

「ネルさん、来たよ」

 リーフはドアベルを鳴らして扉の向こうに話しかけた。

「空いてるから入っていいよ」

 ネルの声が聞こえてきたのでリーフは扉を開けて中に入った。ベッドの縁にネルが腰掛けて待っていた。ネルの部屋はリーフの部屋より広くて、2人入ってもまだゆとりが感じられる程だった。

「いらっしゃい」

 ネルは霊力の光を帯びた毛玉のような物を抱えていた。

「で、ネルさんの共有しておきたいことって何?」

「ここの人たちを『視た』結果を教えようと思って」

 『揺籠』に入ったらまずネルのタレンタムで探りを入れてみるということは、入学が決まった時に決めていた。彼女の眼は遠くから見るだけだと心の表面的なことしか分からないが、それでも後ろ暗い秘密を持っているかどうかは判別できる。それが調査のとっかかりになることを期待してのことだった。

「それで、どうだったの?」

「それが、期待以上で逆に期待外れだったというか……」

「どういう意味?」

「アシナス猊下を始めとするお偉方は大体後ろ暗い『色』が視えた。多分、ほとんどはリーフとは関係ない『秘密』に反応して見えたんだと思う。だから、的を絞る事ができなかった」

「まあ、それなりに長く生きて、いろんな経験した人なら、むしろそうなるのが自然なんだろうな」

「でも……一人、この『色』が視えて意外に思えた人がいた。人間工学が専門で、私のグループの担任にもなった、ナルブ・アルカ先生。物腰柔らかで、好青年って雰囲気の人なんだけど、それには似合わない色を心に抱えていた」

「人間工学……その人ってもしかして今日の午前中に治療術の講義してた人?」

「そうだけど、何で知ってるの?」

「廊下の掃除中にたまたま耳にして。……へぇ、あの人が……ん?『アルカ』ってミュオさんの苗字と一緒だ!」

「ああ、あの使用人の。食堂で聴いた時は気づかなかった」

「もしかして兄妹なのかな? 食堂でも俺たちのこと姉弟かって尋ねて来たし」

「それはリーフの見た目のせいじゃない?」

「う……それも否定はできない。……でも、ネルさんのグループの担任でもあるっていう事ならナルブ先生の事、調べてみてもいいかもしれないね。明日ミュオさんにそれとなく聞いてみようか?」

「ならその辺はリーフに任せる。……私からの報告はこんなところかな」

 ネルはそう言うと、抱えていた毛玉を撫で始めた。

「ネルさん、ここに来てからずっと気になってたんだけど……何、『それ』?」

 リーフは毛玉に指差して言った。

「召喚術〈ヴォカティオ〉は知ってる?」

「いや?」

「召喚術は自分の想像や記憶を元に人や生き物を呼び出して使役できる霊術。今日の午後の講義で習ったから、その復讐がてら昔飼ってた子犬を呼び出してみようと思って」

「子犬……?」

「まあ、そうは見えないよね。人の記憶を覗くのはできても、自分の記憶から何かを引っ張り出すのはどうも苦手みたい」

 ネルは毛玉をベッドの上にポンと置いた。するとそれはモゾモゾと這うように動き出した。

「動くんだ」

 リーフは毛玉の動きを観察しながら言った。

「術者がコントロールしなくても簡単な命令なら勝手に動いてくれるのが召喚術の最大の特徴」

 リーフは毛玉のそばに座り、恐る恐るそれを撫でてみた。意外と触り心地が良くてクセになりそうだった。

「こいつが気になりすぎて聞き流しちゃったけど、犬飼ってたんだね。今の自宅にはいなかったよね?」

「うん、前飼ってた子が死んじゃった後、新しい子を飼う気になれなくて」

「……ちょっと気持ちわかる。俺も犬連れてた事があったから」

「ああ、あなたの記憶を覗いた時のいた……とてもいい子だったみたいだね」

「うん、……ネルさん、俺にも召喚術のやり方教えてくれない?」

「あなたの犬を召喚するつもり?」

「うーん、分かんないけど……霊術に慣れるためにも、いろんな霊術に触れてみたいと思ってたからさ」

「まあ、いいよ。習ったことの受け売りになるけど……まず、霊術は体の末端に集中して実行するものが多いけど、召喚術は自分のコアに意識を集中させる。それから呼び出したい物を思い浮かべる。最後に呼び出したい場所へ手を向けて、そこから一気に放出するイメージ」

 リーフは目を瞑り、言われた通りコアに意識を集中させてみた。

(さて、何を召喚してみようかな……ん?)

 その時、リーフは不思議な感覚に包まれた。室内だというのに、自分の周りの空間がどんどん広がって、空と繋がるような感覚。するとその時、なぜか記憶の中の『あの人』の面影がリーフの脳裏をよぎるのだった。リーフはその感覚につられるように、空に向けて右腕を伸ばすのだった。

「リーフ? どうして手を真上に……」

 ネルの声はリーフに届いていなかった。そして、心の奥から湧き立つ感情に押し出されるように、彼は言葉をつぶやいた。

「……来い」

 その時、リーフの目の前で閃光が走った。

(何だ!? 今俺は何をした?)

 我に帰ったリーフはたまらず目を覆った。それからゆっくりと、自分の目の前を確認し、驚愕した。そこには、舞い散る霊力の残滓とともに、ドレスを着た真紅の髪の女性が立っていた。そしてそれは、リーフの記憶の中の『あの人』と寸分変わらない姿だった。

 リーフとネルは驚きで呼吸を忘れるほどで、しばらくその女性をその場で見つめることしかできなかった。そして、ついにその女性は、ゆっくりと目を開いた。そして、数回目をパチパチさせた。

「リーフ? あれ? あたしどうして……ん? ん〜?」

 赤髪の女性は自分の手を見た後、軽く体を動かしたり、自分の体を触ってみたりした。

(しゃ、しゃべった?)

 ネルは彼女の様子を見て、丸くなった眼をさらに丸くさせた。それから赤髪の女性はぴたりと動きを止めた

「体がフワフワしてない。実体がある。ということは……」 

 彼女はそう呟くと、リーフに目を向けた。そして、両腕を広げ、口角を挙げ、頬を赤らめ、目をキラキラとさせながら、大きく息を吸い込んだ。リーフはこの時ハッとして、彼女がやろうとしていることを察した。

「リー……!!」

「やめろ!」

 彼女が大声を上げながら抱きつこうとしたところを、リーフが飛びついて、手で彼女の口を押さえた。

「うー、なにするの〜」

「ここは集合住宅なんだ! うるさくされると困る!……う、なんて締め付けだ……まずい……」

 意識が飛びかけたその時、彼女の体が光と共に消え、リーフの体が解放された。

「消えた……?」

 どうやら、無意識的に召喚術を解除してしまったようだった。

「リーフ、大丈夫?」

「うん、でも一体何が何だか……」

「あの人、リーフの記憶にいた『幽霊』の、ソーナさんだよね」

「うん、6年前、火山の噴火から俺を助けてくれた人……って、今更だけど、ネルさんが俺の記憶を見た時、『幽霊』に疑問を感じなかったの?」

「え、別に珍しいことでもないから。 人の死後、コアが部分的に残存し続けた場合にそれが発生するのはよく知られてる。意思疎通が取れるのは珍しいけど」

「なるほど、エピセンティアではそうだったのか……いや、それでも訳分からないことだらけだ。とにかく、もう一度彼女を呼び出して、色々確かめてみたいんだけど……あの様子だからなあ……」

「もう一度できるの? 霊力は残ってる?」

「うん、あの時の感覚は覚えてるし、霊力量もそんなに減ってない気がする」

「だったら次呼び出したら私が口を塞いで拘束する」

 ネルはそう言って霊力の縄を形成して準備した。

「ちょっと気が引けるけど……ま、いいか。じゃあいくよ」

 リーフは再び右腕を上に挙げ、ソーナの気配を掴んだ。

「……来てくれ、ソーナ」

 そうすると先ほどと同様に、目の前が輝いた後、彼女が現れた。

「あれ、あたし寝てた? あ、リー……!!」

 ソーナが再びリーフに飛びつこうとしたところを、ネルは縄で捕まえ、口を含めた身体中に何重にもそれを巻きつけて拘束し、壁に貼り付けた。

「も、もいもえ(何これ)ー!?」

 ソーナはモゴモゴと叫びながら縄の中でジタバタと暴れ続けた。

「ソーナ、ごめん。でも、落ち着いてくれるまで解放する訳には行かないんだ」

 リーフがそう言っても彼女は暴れるのをやめなかった。

「う〜ん、俺の霊術で作ったのに、俺の言うことを聴かないっておかしいよね? ネルさんは何が起きているんだと思う?」

「……私が何より驚いているのは、彼女の心が普通の人間同様に『視える』こと。このことから考えるに、彼女は紛れもない『本物』なんだと思う」

「本物って……え? 俺の霊術なんだろ?」

「おそらく、リーフは『降霊術』のようなものを実行してしまったんだと思う」

「降霊術?」

「簡単に言うと、死んだ人間を一時的に蘇らせる術」

「ええ!? 人を蘇らせるなんてそんなの……」

 リーフはペーデがそんなことは不可能だと言っていたのを思い出した。

「人は死ぬと、そのコアは空に溶けていくと言われている。その溶けて散っていったものを拾い集めて、生前のかたちに治して蘇らせるのが降霊術の仕組み。でもこれは、海に溶かした塩の結晶を元通り固め直すのより難しいことで、彼のカエルム様さえ完全な形で成功させたという記録はない。でも、もしあなたがその『才能』を持っていたとしたら……」

「これが、俺のタレンタム……?」

 リーフたちがそう話していると、ソーナは流石にバテたのか、もがくのをやめ鼻息を荒くしていた。

「あ、落ち着いた?」

 リーフが様子をうかがうと、ソーナを中心にして輪郭のある靄のようなものが広がり、リーフたちの周りを包んだ。リーフは一瞬身構えたが、害はなさそうだった。すると、ソーナがなにやらモゴモゴと話し始めた。

「何言ってるの?」

「『防音フィールド張ったから解放してくれ』だって」

 どうやらネルはソーナの心を視ることで言っていることを理解しているようだった。

「防音フィールド?」

「この領域の中から外には音が漏れないようになってるみたい。リーフ、ちょっとこの外に出て確かめてみて。私が声を出してみるから」

「了解」

 リーフは靄の外に出てネルの方を見て耳を澄ませた。すると、彼女は口と喉を頑張って動かし始めたようだったが、声だけは全く届かなかった。それを確認したリーフは靄の中に戻った。

「すごいよ。全く聴こえなかった」

「へぇ。それほど高性能なものを、この短時間で展開できるとはね。それなら、解放しようか」

「うん、お願い」

 ネルが創造術の縄を消したその瞬間……

「リーフ!!!」

 ソーナは飛びかかるようにリーフに抱きついた。リーフはなんとか堪えたものの、危うく床に押し倒されるところだった。

「ああ、やわらかい! 温かい! いい匂い! チュッチュッ!」

 ソーナはリーフの身体中をすりすりしながら頬にキスをした。

「リーフ、やっぱりもう一回縛るね」

 ネルはすでに手から縄を伸ばしていた。

「いや、待ってネルさん。ちょっと気持ち悪いけど、このままにしてあげてよ。……今はすっかり元気みたいだけど、ソーナは幽霊だった頃、視覚と聴覚以外何も感じられない体だったんだ。だから、こうなってしまう気持ちも分からなくない。それに、さっきは状況も状況だったから拒んでしまったけど、……ソーナにまた会えて本当に嬉しい」

 リーフはソーナのことを抱きしめ返した。

「しょうがない……」

 ネルは縄を引っ込めてソーナのことを見守ることにした。

「ハッ!? ここはどこ? どうしてリーフがここに? あの子誰? カノジョ?」

 ソーナは周りをキョロキョロしながら言った。

「違います」

 ネルは呆れ顔で言った。

「我に帰ったみたいだね。ひとまず、ソーナと別れた後の俺のことを話すよ。ちょっと長い話になるけど、落ち着いて聴いてほしい」

「う、うん……」

 ソーナは困惑混じりの顔で頷いた。

 それからリーフはソーナに、別れてからのことを順を追って説明した。流れ着いた町で傭兵になったこと、それから自分の命を狙う連中がいることを知り、自分の素性を調べるためエピセンティアに来たこと、ネルはその協力者であること、そして偶然ソーナを蘇らせてしまったことをできるだけ簡潔に話した。

 ソーナはその間、先ほどとは打って代わった真剣な顔をして静かに聞いていた。

「リーフ、一つ聴いてもいい? ……一緒にいたあのワンちゃん、ギンはどうしたの?」

 ソーナはリーフに尋ねた。

「……殺された。フリッツと戦った時に。俺を守ろうとして……」

 もうとっくに乗り越えていることだと思っていた。しかし、あの時の光景を思い出すと、リーフは胸が締め付けられる感覚に襲われてしまった。

 その気持ちを悟られてしまったのだろうか。それを聴いたソーナはたちまち顔を歪ませ、大粒の涙をこぼしながらリーフを抱きしめ、頭を撫でた。

「ごめんね、リーフ。たっくさん辛い目にあったんだよね? なのにあたしは、リーフの傍にいてあげられなかった。本当にごめんなさい。お詫びにおねーさんいくらでも抱きしめてあげるね」

「それはソーナが抱きしめたいだけでしょ……それに、ソーナが謝ることなんてない。確かに辛いことはたくさんあったけど、かけがえない友達って呼べるような人たちにも出会えた」

 リーフはネルのことをチラリと見て、話を続けた。

「それもみんな君が今に繋いでくれたおかげだ。だから、ありがとう、ソーナ。あの時俺を助けてくれて」

「あ……逞しくなっちゃっても〜!」

 ソーナはリーフを力一杯に締め付けた。

「く……苦しい……」

 見かねたネルはリーフからソーナを引き剥がした。

「わ!? 何するのさ!」

「……申し遅れました。ネルといいます。あなたのことはリーフから伺ってます」

「あ〜ごめん。ちゃんと挨拶してなかったね。よろしく、ネル。事情は知らないけど、リーフによくしてくれてありがとう! わあ、よく見たら綺麗な髪色だね! しゃぶってもいい?」

「やめてください。……それより、今のリーフの説明で私たちのことは大体わかったと思います。だから今度はあなたのことを話していただけませんか?」

「あたしのこと?」

 ここでリーフも話に加わった。

「そうだよ、ソーナ。初めて出会ったあの頃は、ソーナから色々な話を聴かせてもらっていた。でも、突拍子もない内容が多くて、結局ソーナ自身のことも不思議な幽霊ということくらいしか分かっていなかった。でも今なら分かることがある。ソーナがあの頃よく俺に歌ってくれた歌、あれはカエルム教の聖歌だった。……ソーナはエピセンティアの人間だろ?」

「うん、そうだよ。まあ、あの時はただただ色々話したい気分で、理解は求めてなかったからねー」

「それでも、一つわからないことがある。エピセンティアに来てから調べてみたけど、俺がこれまで過ごしてきた土地の地名がエピセンティアのどの地図にも載っていなかったんだ。それに、霊力を使わない文化や集落があるという情報もなかった。だったら、幽霊だったとはいえ、どうやってエピセンティア人のソーナがあそこにたどり着いたの?」

「そっか……今も『外』のことは秘密にされてるんだね」

「外?」

「ん? リーフは自力でエピセンティアにやって来たんでしょ? だったらもう大体見当はついてるんじゃないの?」

「実は……自分でもどうやってエピセンティアにたどり着いたのかはっきりしてないんだ。だからソーナの話を聴きたいと思って」

「うーん、分かった。私が幽霊になるまでのこと全部話すよ。もしかしたらリーフが命を狙われている理由にそれがつながってるかもしれないから」

「え!?」

「まあまあまあ。そう慌てなさんな。今からちゃんと説明するから」

 ソーナはそういうと椅子に座り、足を組んで踏ん反り返った。それから顎に手を添えて、不自然に目をキリッとさせてこう言った。

「ちなみに言っとくけど、あたし今からすごい秘密言うよ。ほんとーにすっごいからこれ。サービス大出血だよ?」

「うんうん、なになに?」

 リーフは興味津々だったが、ネルは苛立ちの表情を浮かべ始めていた。

「謎の幽霊ソーナ。その正体は……カエルム教会直属の近衛騎士でした〜!」

 ソーナは両腕を広げて声高に叫んだ。

「近衛騎士?」

 リーフはネルに尋ねた。

「簡単に言うと、このヴィジーニエを守る最精鋭部隊のこと。……腹立たしいことに、嘘は言ってないみたい」

「最精鋭……つまり最強ってこと? ソーナが!?」

 リーフは驚いてソーナを見た。

「おやおや、信じられないって顔してるねぇ〜諸君。でもあたしはちゃーんと『揺籠』も卒業してるからね。それに、あたしの『音のタレンタム』は平時も有事もそれはそれは大活躍だったのだよ」

 ソーナはニヤニヤしながら言った。

「音のタレンタム?」

 リーフが尋ねた。

「うん。あたしには音に関係する霊術は大体なんでもできる才能があるんだ。大きな音を出したり、小さな物音を聞き分けたりね」

「なるほど、この防音フィールドもその力の一端ということですね」

 ネルが周りを見回して言った。

「まーね。……そんな、すごいソーナ様は、ある日教会からこんな指令を受けました。『フォラシア』の『動物』を捕獲して持ち帰りなさい、と」

「フォラシア?」

「エピセンティアの『果ての壁』はね、全然『果て』なんかじゃないんだよ。その外には、これまた別の壁に囲まれた別の世界がいくつも存在している。そして、その外の世界をみんなひっくるめて『フォラシア』って呼んでるの。

「壁の外……じゃあ俺とソーナが出会ったのも『フォラシア』だったってこと?」

「そゆこと。まあ、あたしはこの指令を受けた時初めてそのことを知ったんだけどね。

 ——フォラシアは霊力が極めて希薄だから、あたしはその環境に耐えるための訓練とテストを受けて、問題なかったから実際にその任務にあたることになった。『壁』を越える際の移動は『転位装置』が使われた」

「転移装置……!」

 リーフはエピセンティアに来た時の出来事を思い出した。

「これまたあたしの知らない驚きの技術だった。話を聞くと、カエルム様の時代からある遺物を利用した装置で、その当時やっとのその力の一部を利用できるようになったというものだった。

 ……それでいざ任務開始ってなったんだけど、その、上から指示された『捕獲対象』がどこからどう見ても人間だったんだよね。流石に嫌な予感がして、あたしは任務の合間に同僚や上司を問いただして情報を集めた。そして分かったのは、この任務の本当の目的は非道な人体実験の材料を集めることだということだった」

「非道な実験……教会が?」

 ネルはこれに耳を疑っているようだった。

「あたしが生きてた星暦1700年代のエピセンティアは人のモンスター化の問題が注目されてる時期だったんだ」

「人のモンスター化? 人がモンスターに襲われるとそうなることがあるって聴いたことはあるけど」

 リーフは街の外でモンスターを見た時のことを思い出した。

「あたしの言うモンスター化は人が勝手にモンスターになってしまう病気みたいなもの。『変異』とも呼ばれているね」

「そんなことがあるの?」

「うん。そもそも、街の外でよく見られるようなモンスターは、死んで空に溶けて行った人や動物の霊力が良くない形で再びこの世に発現することで生まれるものなんだ。これはつまり、人がモンスターの素になることもあるということ。だから、人から直接モンスターになってしまうこともあるんだよ」

「なんだか怖い話だな……俺がいきなりモンスターになることもあるってこと?」

「普通はそこまで心配するほどのものでもないよ。霊力のある程度強い人が長い期間過剰なストレスに晒され続けると変異しやすいって言われてるけど、かなり珍しい現象だったし、予兆を早期に発見できれば、ある程度予防は可能だった。

 ……でも、その頃はなぜか変異者発生の頻度が高まっていた。多分、街全体の雰囲気とか緊張度とかの兼ね合いで、変異者発生の波が高まっていた時期だったんだと思う。そんな時に、カエルム教会の裏では最悪な事件が起こっていた。体調を崩されていた3代目デウスのクリスタ・イスピス様に変異の兆候が確認されて、それが当時の技術で治療できないくらいに進行してしまったの」

「デウス様が!? 確かにその頃、表舞台でお姿を見せる機会が減っていたことから、体調不良の噂が広まったと言う話を聞いたことはありましたが、そこまでひどい状態だったんですね」

 ネルはこれにかなり驚いているようだった。

「うん、あれは間違いなくヴィジーニエの危機だった。デウスが変異するなんてことになれば混乱は確実。それに呼応して変異者の発生が収拾不可能なレベルに高まる可能性もあった。

 ……そのことを恐れた教会内のとある一派は変異の予防法と治療法の確立を急がせた。その結果、フォラシアの人間に目がつけられることになった」

「どうしてそこでフォラシアの人がでてくるの?」

「変異の治療にはコアの構造を解析する必要があった。フォラシアの彼らは霊力が使えないけど、なぜかコアの構造は残存していて、研究に有用だったみたい。……それに、彼らは存在が知られていないのだから、街の住民にその非道な行いがばれることはないだろうという考えもあった」

「……ひどいな」

「そうだよね! あたしもそれを知った時はもうブチギレだった。だって、いくらデウス様のためとはいえ、あの方がこのことを知ったら、絶対に悲しんだだろうから。だから前哨基地をめちゃめちゃにして、捕まった人間を全員解放してやった。

 ……でも流石に近衛騎士たち相手に1人は分が悪かった。なんとか追っ手を撒いて、転移装置に辿り着いて、どうにかフォラシアの別の世界に逃げることができたんだけど、移動した後、自分では治療できないほどの傷を負っていたことに気づいて、そのままそこで力尽きてしまった」

「えーと、確かにソーナの考えは正しかったと思うけど……向こう見ずすぎない?」

「いや〜若気の至りだよね」

 ソーナは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「そのときまでのあたしは、そこに正義があるならどんなことだってやるべきだし、あたしならそれができると本気で思って生きてきていたんだよね。それだけが生き甲斐だと思ってた。

 ……でも、今度は根本的なこと何も解決できないまま終わろうとしてると気づいて、悔しい悔しい悔しいって思い続けて……気がついたら幽霊になってた。

 ……最初は、これがデウス様のくださったチャンスなのかもと思ったけど、すぐにそれはぬか喜びだと分かった。幽霊の体は無力で、死んだ場所からそんなに遠く離れることができないし、聴力と視力以外はほぼ失われていた。おまけにその辺りの人間は幽霊を認識することさえできなかった。

 ……結局何もできないまま、無意味な時間だけが過ぎていった。それでも全てを諦め切ることもできなくて、この世にとどまり続けていた。リーフに出会ったのはそれから300年くらいたった後。あたしのことが見えて、話までできるって言うんだから、あの時はほんとうにびっくりしたなぁ〜」

「そうだったのか……でも、まだ気になってることがある。6年前の大噴火の時、その時のソーナの言動はいつも以上に不可解だった覚えがある。君はあの時、いったい何をしていたの?」

「ああ、そっか。あの時はあたしも慌ててて、ちゃんと説明する暇なかったもんね。……全てはあたしの耳が隕石の接近を察知したことから始まった。それから、空の様子をよく調べてみると、付近の火山に隕石が引き寄せられていて、このままだと火口に隕石が入ってしまうことに気づいたんだ」

「隕石? それで噴火が起きたの?」

 この問いに対して、ネルが解説をしてくれた。

「空のエネルギーと大地のエネルギーは結びつくと大きな霊力を発生させる。人が呼吸と飲食で霊力を生み出しているのと同じ。『大樹』が霊力を生み出すのもこの反応を利用している。

 ……そして、空を漂う岩が過剰な空のエネルギーを纏うと、地上でも特に大地のエネルギーが大きい火山に引き寄せられて、隕石として落ちてくることがある。この時に隕石が火口に落ちると、爆発的な霊力の発生によって大噴火が起こる」

 それを聴いてソーナは頷いた。

「そうそう。それであたしは急いでリーフに、もうすぐ火山が噴火して村が火に飲み込まれてしまうことを知らせて、避難できそうな高台の場所を教えた」

「そして俺はなんとか村の人たちを非難させることができたけど、噴火の時の揺れでギンが崖から落ちて、俺はそれを追いかけてしまった。ギンの元に辿り着いて避難場所に連れて帰ろうと思った時には帰り道が火で塞がれて、戻れなくなってしまった」

「その様子を見ていたあたしは頭抱えたくなるくらい焦ったよ。でも、その時、丁度その近くに転移装置と自分の亡骸があったのをあたしは思い出した。もうこれしかないと思ってあたしはリーフのところへ飛んで行って、リーフを案内して、あたしが倒れた場所を掘り起こさせて、起動キーのペンダントを手に入れさせた」

「え、ソーナ、自分の死体を俺に漁らせてたの?」

「変なことさせてごめんね〜。あの時はそういうことに気を回せなくて」

「まあ、そうするしかなかったんだろうけど……起動キーっていうのは?」

「転移装置の封印を一時的に解除するための、まさに鍵みたいなもの。あたしはそれをリーフに身につけさせて、転移装置の上に連れて行った後、他の世界に転移させることで君を逃したというわけ」

「そういうことだったのか。もしかして、俺がエピセンティアに来る時に使ったこの指輪……これが起動キーだったのかな」

 リーフはフリッツにもらった指輪を懐から出して、ソーナに見せた。

「わあ、ずいぶん小さいね。もしかしたら、改良型の起動キーなのかな? あたしたちが使っていた起動キーだと、この世界に点在する転移装置のごく一部しか利用できなかったり、何回か使用すると壊れて消えちゃう問題があったりしたから、その辺りが改善されたのかもしれないね」

「壊れて消える……? ああ、だからあの時転移した後、ペンダントがなくなっていたのか。……あと、フリッツがこの指輪を渡す時に『最新型』とか言ってた気がするな。——ソーナはその後どうなったの? 村のみんなは?」

「村の人たちは、リーフがいなくなって悲しそうだったけど……被害を免れた近隣の村の助けも借りてなんとか生活を立て直そうとしているみたいだった」

「そっか……無事でいてくれてよかった」

「で、あたしの方はあの事件の後、なんだか疲れたっていうか、気が緩んじゃってさ。意識がぼんやりすることが多くなって……その後は覚えてない。多分、その頃にはもうあたしのコアは空に溶けてしまっていたんだと思う。

 ……でもさ、まさかその後リーフに蘇らせてもらえるとはね。人生って死んでも何があるかわかんないもんだねー……あ、そういえば、あたしが死んだ後のヴィジーニエはどうなったの!? クリスタ様は!?」

 これにはネルが答えた。

「クリスタ様は変異することなく、つい30年ほど前まで存命でいらっしゃいました」

「あ……でも亡くなっちゃったんだ。まあ300年も経ったらそうだよね」

「ソーナさんが生きていた1700年代は変異の画期的な治療法と予防法が確立された時期です。……おそらく、あなたがいなくなった後も任務は遂行されたのだと思います」

「死に際のフリッツは、まるでフォラシアの情勢に前々から介入していたかような口ぶりだった。こんな指輪まで作られているくらいだし、エピセンティア人によるフォラシアの利用は今も続いているのかもしれないね」

 リーフはネルの言葉に補足するように言った。それを聴いたソーナは、少し落ち込んでいるようだった。

「まあ、分かってはいたけどね……あーあ! 本当にバカだったなあ! 生きてた頃のあたし! あの時にやったことは、結局全部無駄だった……」

 ソーナは首を垂れながら言った。

「正直、私にはコメントし難い事件です。人体実験が正しかったとは思いませんが……きっとそのおかげでクリスタ様は助かり、ヴィジーニエの変異者の発生数も激減したのだと思います。私自信、その予防治療には今も助けられています」

 ネルはその後も何かを言おうとしたようだったが、結局言葉が出てこなかった。ソーナにどう声をかければ良いか、わからなくなってしまったようだった。それをみたリーフはネルの代わりにソーナと話すことにした。

「ソーナ、俺から君にお願いしたいことがあるんだけど」

「え、なに?」

「俺たちに、力を貸してもらえないかな」

「力を貸すっていうと……?」

「さっきも言ったけど、俺が今ここにいる目的は、自分のルーツを知ることと、命を狙われる理由を特定して、それに決着をつけることだ。この街で他にどんな悪事が行われていようが、その事にいちいち首を突っ込んではいられない。

 ……でも、俺にはフォラシアにたくさんの友人がいる。彼らの暮らしを脅かす存在がいるのなら放っておけない。何より、命の恩人である君にそんな未練を抱えたままで居て欲しくない。だから、後回しになってしまうと思うけど、この件はいつか必ず正させる。でもその代わり、今は俺たちに協力して欲しい。俺たちには、信頼できる仲間が1人でも多く必要なんだ」

 それを聴いたソーナは一瞬キョトンとすると、妙な笑みを浮かべてこう言い出した。

「『お願い』なんていらない。あたしはあなたに従うだけ」

「え?」

 ソーナはリーフの耳元に顔を近づけてからこう言った。

「だって、あたしは君の召喚物……この身も、この心も、もう全部君のものだから」

 これを聴いたリーフとネルは吹き出すように激しく咳き込んだ。

「え、ええと、君がそう思ってくれるのは嬉しいんだけど……俺が蘇らせてくれたからとかそういう理由で自分を縛らないで欲しいな」

 リーフは息を整えながら言った。

「あはは、冗談冗談。いつの間にかずいぶん逞しくなったみたいだけど、驚いた時の顔は前のまんまだね」

「茶化さないでよ」

「そうだね……あの時のことに未練があるわけじゃないけど、実はもう任務とか正義とかは割とどうでもいいんだよね」

「そうなの?」

「300年も反省してたからね〜。それなりに考えも変わるよ。……でも、それでもあたしはリーフの力になってあげたいな」

「本当に?」

「あの時、別の世界に逃がしてから、ほったらかしにしてしまった君のことも未練といえば未練だし。それに、リーフはこれから強大な敵と戦うことになるかもしれないんでしょ? なんだか面白そうじゃん」

「なんか、勢いで決めてない?」

「細かいな〜。協力するって言ってるんだからそれでいいでしょ?」

「まあ、いいけど……」

「よーし! 決まりだね! では改めて……」

 ソーナはそう言って立ち上がると、右手に細身の剣を出現させ、それを顔の前に立てて構え、少し気取った口調でこう言った。

「これよりわたくし、ソーナ・M・ルーフスは、皆様の耳となり、そして剣となりましょう!」

「おお、何だか騎士っぽい。それがソーナの武器?」

「うん、どうやら、私に馴染み深い装備は自由に取り出せるみたい。このドレスが昔着てたものだったから、もしかしたら剣も? って思ったんだよね」

「へぇ、便利だね……ともあれ、これで俺たちはめでたく3人目の盟友を迎えられたわけだ。頼りにさせてもらうよ、ソーナ。音のタレンタムとかかなり便利そうだし」

 リーフはソーナに向けて拳を突き出した。

「うんうん、いくらでも頼れ〜?」

 ソーナもそれに応えて拳を突き出した。

「ほら、ネルさんも」

 リーフとソーナはそのままネルの方を見た。

「ふぅ……まあ、よろしく、ソーナさん」

 ネルが渋々といった様子で拳を突き出すと、リーフとソーナはそれに向けて拳をコツンとぶつけた。

「いいね〜、青春って感じだね〜」

 ソーナはすっかり上機嫌になっていたようだった。

「……さてと。それじゃあ今出た情報について少し整理して考えてみようか。

 ……まず、少なくとも300年前にはカエルム教会はフォラシアの存在を知っていて、おそらくフォラシアの人間に非道とも言える行いを続けてきた。そして、エピセンティアの人間による介入はフリッツが俺の元に来た事から、現在も行われていると考えていいだろう。……フリッツはカエルム教会の命令で動いていたんだろうか?」

「その可能性は高いだろうね。教会ほど力ある組織をさしおいてフォラシアに介入しようなんて組織まずいないだろうから」

 ネルがリーフに答えた。これを聴いてリーフは首を傾げた。

「だったら、どうして俺は狙われたんだろうか。ソーナが言ってた人体実験のため?」

 この問いにもネルが答えた。

「300年前の実験はコアの構造を解析するためのものだったそうだけど、それが今も行われていてもおかしくはないと思う。コアについては現在もよく分かっていないことが多いはずだから」

 ソーナはそれを聴いてこう話し始めた。

「えーと……あたしも最初、リーフが狙われた理由がその辺りにあるかもって思ってたんだけど……よくよく考えたらちょっとおかしいんだよね」

「おかしいって?」

「まず第一、リーフはエピセンティア人なんだよ」

「そうなの?」

「あれ? これまだはっきりしてないんだっけ? ……じゃあ説明するけど、フォラシア人はみんな霊術が全く使えないんだよ。その上、霊力を感じ取る能力もほとんどない。だから、幽霊だったあたしを認知できる人は誰もいなかった。

「確かに……俺はフォラシアで、フリッツの他に霊力を使う人間を見たことない」

「……でもリーフは違った。だからあたしはリーフがエピセンティア人だってことは会った時からわかってた。それで、どうしてこんなところにいるのか気になって色々尋ねてみたんだけど……リーフは本当に何も知らないようだったから保留にしてたんだ。……結局、突然の別れが来たせいで分からずじまいだったけど」

「ソーナの話は意味不明なことが多かった印象だったけど……そういうことだったのか」

「それで、リーフがエピセンティア人だと何がおかしいかって言うと、まず、実験台を集める目的にしては回りくどすぎるということ。フォラシアの人間は他にたくさんいるんだから、普通、名指しでリーフを狙う必要はない。それに、霊術が使えるエピセンティア人はフォラシア人と比べてはるかに狙いにくい相手のはず。わざわざ手間がかかるやり方を選ぶ意味がわからない」

「実際、理屈はよくわかってないけど、俺は霊術の力でフリッツを返り討ちにできたからな。たしかにそれは変だ。……それに、もう一つおかしい点を加えるなら、フリッツが問答無用で俺を殺そうとしていたことだ。ソーナの時は殺さずに捕まえるだけだったんだろう?」

「うん、そうだね。そう考えるとリーフは、何かにたまたま巻き込まれたんじゃなくて、リーフを殺すことそのものを目的にされて狙われたんだと思う」

「俺を殺すためだけにどうしてそこまで……?」

「これは憶測でしかないけど……リーフのタレンタムと関係があるのかもしれない」

 ネルがリーフに言った。

「タレンタムって……俺がソーナを蘇らせたやつだよね? でも、それだとおかしくない? 俺は今ここで初めてこの霊術を使ったんだよ? ここにいる3人以外でそのことを知っている人はいないはずだ」

「記憶を失う前のリーフがその霊術を使っていたのかもしれない」

「記憶を失う前? どういうこと?」

「リーフがエピセンティア人だということはソーナさんの話でほぼ確実になった。リーフの本当の母親がエピセンティアにいたという情報もある。つまり、今のリーフは生まれてからエピセンティアで過ごしていた頃の記憶がすっかり抜け落ちているということになる。

 ……記憶が失われると霊術の使い方も忘れてしまうことがある。だから、エピセンティアにいたころのリーフはすでにそのタレンタムに目覚めていて、その存在を教会が知っていたと考えれば、ある程度筋は通る」

 リーフは片肘をついて頭を抱えた。だんだん頭が追いつかなくなってきている感じがした。

「だけど……これって殺されなきゃいけないくらいまずい術か? それに、記憶喪失? 俺の外見年齢は40~60歳って言われたことがあったけど、つまり20年以上の記憶がすっぽり抜けてるってこと? そんなことあり得るのか?」

 ソーナは腕を組んで唸り始めた。

「う〜ん……強い放電術を浴びると一時的な記憶喪失になることがあるって聞いたことはあるけど……」

「雷……」

 リーフは自分が何度か浴びた不思議な雷を思い出した。

「そもそも、フリッツとの戦いの時のあの雷はなんだったんだ? 今の霊力量を超えたあの出力はタレンタムくらいしか考えられないと思っていたんだけど……タレンタムが複数ある人とかっている?」

 これにはソーナが答えた。

「タレンタムはどんなに才能ある人でも一つだけだね。あ、でも、もしかしたらリーフはその『一つ』の括りが大きい人なんじゃないかな?」

「括りが大きい?」

「あたしのタレンタムは『音』って括られてるけど、それは大きな音を出したりとか、小さな音を聞き分けたりとか、いろんな霊術にはたらいてるんだよね。多分リーフもそんなタレンタムの持ち主で、その中にはまだリーフの知らない機能が含まれているのかも」

「死者の召喚と雷……まだ関連性は見えてこないけど……うーん、なんか、情報を整理しようとしたら逆にごちゃごちゃしてきた気がする……あ、そうだ」

「どうしたの? リーフ」

「フリッツを甦らせてみる」

「な……!」

 ネルは驚いて、思わず立ち上がった。

「本気?」

「さっき2回ソーナを呼び出して、なんとなく術の性質が見えてきたんだけど、この術は俺の記憶を使っていて、俺と関わり深いエピセンティア人だったら誰でも呼び出せるみたいなんだよね。フリッツならもっと色々なことを知ってるだろうから、手っ取り早いだろ?」

「リーフを殺そうとしたやつを、こんなところで呼び出すつもり?」

「なんだかんだ言っても、俺をエピセンティアに導いてくれたのはあいつだし、聴いてみたら案外素直に教えてくれるかもしれないよ。まあ、いざとなったら俺が空に返すか……元近衛騎士殿にまかせればいいんじゃないかな」

「お、出番か?」

 ソーナは剣を出して構えた。

「……わかった。確かに、やってみる価値はあるかもしれない」

 ネルはそう言って頷いた。

「よし、じゃあ、いくよ」

 リーフは目を瞑り、右手を上にあげた。しかし、いくら集中してもフリッツの気配を掴み取ることができなかった。

「うーん……だめだ。なんて言うか……糸口すら見えてこない」

「もしかしたら、なにか他に『条件』があるのかもしれないね。タレンタムがらみの霊術って意味わかんないルールが働いてること多いから」

 ソーナは剣をしまいながらリーフに言った。

「そうなのか……何にせよまだ俺の霊力を調べる余地があるってことか」

「……これで大体、今ある情報は整理できたんじゃない?」

 ネルがリーフに言った。

「うん、そうだね。差し当たって今後の行動方針は、怪しさが増してきたカエルム教会の動きを探ることと、俺のタレンタムの性質を調べることかな。今のソーナとできることも早めに掴んでおきたい」

「あたしも今の『揺籠』の生徒たちに音のタレンタムを披露したいな」

 ソーナは準備運動をしながら言った。

「いや、ソーナは人前に出ないで欲しいんだけど」

「えー!?」

「私もその方がいいと思います。今のソーナさんの体は一目見ただけで召喚術の類によるものだとバレてしまう。意思の宿った召喚物なんて前代未聞。そんなのが人前に出れば術者のリーフが確実に目立ちます。どこに敵が潜んでいるかわからない状況でそういうのは避けるべきです」

 ネルがソーナに言った。

「う〜、まあ、しょうがないか。こうして甦らせてもらえるだけで超ラッキーなんだし」

「ごめんね。なんとか目立たずにソーナが楽しめるような方法考えるから」

 リーフはソーナを宥めるように言った。

「……リーフ、そろそろこの寮を出てくれないと管理人さんに怒られるかも」

 ネルが時計を見て言った。気がつくと部屋のカーテンを透ける光も弱まっており、日が沈みかけていることが分かった。

「そうなのか。それじゃあソーナは一旦空に戻ってて。まだこの霊術について検証したいことがあるから、また後で呼ぶと思う」

「わかった。いつでも呼んでね〜」

 リーフが念じると、ソーナは光と共に姿を消した。

「これでよし。ネルさんも、また明日」

「うん、じゃあね」

「……あ、そうだ。髪と目の変身術、一応掛け直してくれない?」

「ああ、いいよ」

 リーフは術を掛け直してもらった後、自分の寮に戻った。それから共用の浴室で体を洗い、ネルの自宅から持ってきた弁当で夕食を済まし、ソーナと霊術の練習をした後、自分の部屋で眠りについたのだった。

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