2. 味方
翌朝、リーフはペーデの元拠点で目を覚まし、フラトレスの拠点へと向かった。場所はペーデに教えられていたから知っていた。
その場所に辿り着くと木の柵で四角く区切られた土地の中に、布製の建物が詰まっていた。組織の拠点とはいっても簡素な作りに見えた。柵が途切れている入り口のところへ行くと、そこで待っていた構成員の男に声をかけられた。
「リーフさんですね? お話は伺っております。どうぞこちらへ」
リーフはその言葉に従ってその男の後をついて歩いた。やはり話は広まっているようで、そこら中から視線を感じた。やがて中央の建物の前にたどり着くと、男は入口の垂れ幕をあげ、リーフに中に入るよう促した。
リーフが建物の中に入ると、そこには絨毯が敷き詰められていた。そしてその奥には書類が山積みされた机があり、その向こう側でカニスが椅子に座ってリーフを待ち構えていた。
「来たか」
「どうも」
リーフは軽く挨拶した。
「まあ座れ」
そう勧められると、リーフは机の前の椅子に腰掛けた。
「確か、街に入るための段取りを説明してくれるんだったよね?」
リーフが問いかけた。
「ああ、だがおおまかな方針を決める為にはあんたにいくつか聞かなきゃならないことがある。まず……お前どっから来た? ヴィジーニエにお前の素性を知る人間はいるか?」
「詳しくは言えないけど、俺はここからかなり遠いところから来た。そして……」
「素性を知る人間」について答えるのをリーフは少し躊躇ってしまった。リーフはここに「本当の故郷」があると聞いてやってきた。もしかしたらリーフが忘れているだけで、自分を知っている人間がいるかもしれない。だが、ここでその可能性を話しても仕方ないように思えた。
「……身寄りもない。だから俺を知る人間はいない」
「なるほど。それならこっちもだいぶ仕事がしやすい」
カニスは手帳に何かを書きながら話していた。
(聞いた内容を記録しているのかな?)
「次の質問だが……実がずっと気になってたんだが、あんた何歳だ?」
これはリーフにとって不愉快な質問だった。背が低いせいで、何度同じようなやり取りをしてきただろう。
「ちょうど20歳だ」
「……は?」
その時カニスの表情が凍りついた。
「なぜそんな嘘を?」
リーフに嘘をついたつもりはなかった。状況が理解できなかった。
「……じゃあ逆に聞くけど、何歳に見える?」
リーフは苦し紛れに質問した。
「ん〜、40から60歳ってところか?」
(髙っ!? そして幅広ろっ!?)
これまで年齢を低く見積もられることはあっても高く見られることは無かった。カニスとリーフで何かが決定的にずれている気がした。
(まさか、このあたりの人間は体の成長が遅いのか? いやしかし……それにしては周りに俺より背の高い人間が多いし……ということは寿命そのものが長い? 霊力にも驚かされたが、土地が変わるだけでここまで違うものなのか?)
動揺を隠せないでいると、その様子を見たカニスが口を開いた。
「あ〜、まあ、つまりは年を数え間違えていたってところだろう。ここじゃそんなに珍しい話でもない」
「あ、ああ……」
リーフには頷くことしかできなかった。
「じゃあ年はある程度誤魔化すとして……よし、問題なさそうだな。ここから本題だ、リーフ」
カニスは腕を組み、姿勢を正してこう言った。
「あんたには結婚してもらう」
「けっ……!?」
思わず言葉がつまった。
「簡単に説明するとな、ヴィジーニエに籍がある人間が籍のない人間と婚姻を結ぶと、籍のない人間に自動的に市民権が与えられるんだ。この方法なら他の方法より手続きがずっと楽になる。『愛』を重んじるカエルム教の教えのおかげだろうぜ」
(カエルム教。ヴィジーニエで特に広まっている宗教とペーデが言っていたが……そんな政治的なところにも影響しているのか?)
だが、それよりリーフには聴きたいことがあった。
「理屈は大体分かった。だが……」
「だが?」
「結婚っていうのは、その、好きな人とすることだろう?」
「お前、そこは外見相応なんだな」
カニスはため息をついた。
「いや、そうじゃなくてだな……俺の相手はどうやって探すんだ? 見ず知らずの相手にそこまでする人間なんてそうそういないと思うんだが」
「ところが、割といるんだよなぁ。金を積んででも受け入れたいって連中が」
「どうして?」
「俺もそこまで詳しいわけじゃない。人を街に入れたら俺たちは基本的に関与しないし、受け入れ相手の事情に直接踏み込むのは厳禁だからな。ただ一つ言えるのは、街の外から受け入れられた人間は奴隷並みに立場が弱いってことだ」
「奴隷?」
リーフは眉を顰めた。
「言っておくが、俺たちがこうやって街に人を入れるのは、偽造書類なんかも使うあくまで違法なものだ。受け入れ相手もそれを当然知っている。だが、仮にこのことが表沙汰になっても街を追い出されるのは不法侵入した者だけで、受け入れ相手は軽い罰で済まされることが多い。それどころか、『知らなかった』で押し通して罪に問われないことだってある。
……つまり、受け入れられた人間は先方の気分次第でいつでも街から追い出される状況ってわけだ。だから、街に入った人間は先方に絶対服従しなきゃいけなくなる。受け入れ相手は大方そんな『都合のいい人間』を求めるんだろうな。奴隷制度や人身売買なんかはここらじゃ大昔に禁止されたそうだが、この方法なら比較的安全に人が手に入る」
「なるほど、で、俺もこれから奴隷になるわけだ」
リーフは呆れるように息をついた。
「ま、俺たちとしても余計なトラブルはできるだけ避けたい。騒ぎになればこのビジネスがバレる可能性だってあるからな。だから先方の身元は秘密裏に最低限調べるし、問題にならなそうな組み合わせを考えてはいる。お前にもある程度融通してやるよ」
「そりゃどうも。で、相手は決まってるのか?」
「まあな。ちょうど一件依頼が入っていた。ネル・イリトールっていう妙な嬢ちゃんからだ。誰でもいいから急いで誰か用意して欲しいとのことだった」
「妙……ってのは?」
「若いし経歴も……っと、今はやめておこう」
「何だ? 気になるな」
リーフにはカニスが突然何かを思い出し、口をつぐんでしまったように見えた。
「さっきも言ったように、俺たちは表向きには顧客の身元を調べないことになっている。そうでないことが相手にバレれば機嫌を損ねるかもしれん。だからあんたは何も知らない方がいいし、街に入ってからもその辺の距離感は気をつけておけ。まあどのみち、あんたはしぶとそうだし、そこまで心配いらんだろう」
「お手柔らかに願いたいけどね」
「安心しろ。お前は一応フラトレスの一員として街に入るんだ。いざとなったら支援はしてやる」
「ならいいけどさ……で、俺はこの後どうすればいい?」
「あとはそうだな……ちょっとあれを背にして立て」
そう言ってカニスは垂直にたれた大きな一枚の白い布を指差した。
「あれか?」
リーフはよく分からないまま椅子から立ち、カニスの指示に従った。カニスは机から小さい箱型の装置を取り出し、リーフの方へ向けた。
「このカメラの方を向け」
(カメラ?)
リーフが質問する間もなくカニスは作業を続けた。
「いいか、撮るぞ。目を閉じるなよ。3、2、1……」
合図の後にカニスが装置の突起を押すと、不思議な駆動音が響いた。
「何をしたんだ?」
リーフが尋ねた。
「あんたカメラも知らないのか。どんだけ文化違うところから来たんだよ」
「そりゃ、遠い遠いところから来たからな」
「……見な」
カニスはため息をつきながらカメラを開けて紙を取り出した。その紙には、まるで鏡の像のようにリーフの顔が写っていた。カニスは説明を始めた。
「これが写真だ。で、写真を撮るための装置がこのカメラだ。街に入るための書類を作るために顔写真が必要でな。それで撮らせてもらった」
(これは……!)
リーフはそれと似たようなものを既にに見たことがあった。リーフの持っているロケットペンダントの中の絵。初めて見た時は腕のいい絵師が描いたのだろうかと思っていた。
(ここでも繋がってくるか)
「で……あとはこれだな」
カニスはリーフをよそに話を進め、長方形の板状の装置をリーフに手渡した。手のひらほどの大きさだった。
「これは?」
「念話機だ。定期的に霊力を満たしておけば俺たちからの連絡をいつでも受け取れるようになる。これからは常にこいつを携帯しろ」
「念話機って……ペーデからもらったやつと形が違うな」
「やっぱあいつ念話機盗んでたか……今渡したのは街で一般的に使われているやつだ。街の中には念話の流れを補助する機構が働いているから、それを使えば街の中のどこにいても会話することができる。あんたがペーデのガキからもらったのは街の外で使うもので、使い手によるが、あまり遠くの相手と会話できるものじゃない」
「なるほどね……」
「さて、お前への用事はこれで以上だ。街へ入れる準備が整ったら、念話機に連絡する。霊力の補充を忘れるなよ」
「準備までどれくらいかかりそう?」
「急ぎでという要望だったからな。3日後にはお前を街に入れる予定だ。それまで準備しておけ」
「準備ならとっくに整ってるんだけどね。暇だし、雑用でもしてあげようか?」
「いいからあんたは大人しくしてくれ」
リーフは追い出されるようにフラトレスの拠点を後にした。
夕方。リーフは付近の山に登り、街の様子を眺めてみることにした。改めて見て分かったことだが、街の周りは、上空を含めて霊力の障壁に覆われているようだった。
(街の外のモンスターへの備えだろうか)
例の大樹も相変わらずよく見えた。大樹の周りは大きな霊力の流れが生じているようだった。
リーフは、景色を眺めながら、街に入ってからのことを考えた。
(俺は大きな『目的』を抱えてる。だけど、さっきカニスと会話をしても感じたが、俺はこの世界のことを知らなすぎる。今の俺は生まれたばかりの赤子同然と思った方がいい。まずはどうにかしてこの世界で生きる術を身につけないと。……街に入った後、どれだけ行動の自由が認められるか分からないけど……いざという時は一人で生きていけるような備えもしておかないとな。何にせよ、道のりは長そうだ)
今度は街の中を眺めてみると、そこには無数の光がひしめき合って、動き回っていた。やはり綺麗だった。リーフはふと、ここに来たばかりの頃に出会った老人の言葉を思い出した。
(光はモンスター。……求めれば喰わるるのみ)
あの光ひとつひとつ、全てが人の霊力の営みによるものであるならば、一体あの中には幾人の人々が、幾万の物語が巡っているのだろう。
出会い、友情、愛、夢、希望、興奮そして感動。別れ、裏切り、争い、謀略、絶望、失敗そして挫折。あるいはまだリーフも知らない何か。それら全てがあの中に渦巻いている。その大きなうねりの中に、リーフはこれから飛び込むのだ。そんなものをただ綺麗だなんて思うのは少々呑気すぎるかもしれない。でも、それでも。
「……楽しみだなぁ」
日が落ち、あたりが闇に包まれても、夜空に輝く三つの月はリーフを照らし続けていた。
それからの2日間を、リーフは霊力操作の練習に費やすことにした。フラトレスの連中に街の情報を聞いて回ろうかとも思ったが、前に騒ぎを起こしたせいなのか取り付く島もなかった。そして3日目。その時はあっという間にやってきた。
カニスから渡された念話機から甲高い妙な音が鳴り始めた。適当にそれをいじってみると、カニスの声が聞こえてきた。
「リーフ、聞こえるか」
「うん、おはよう」
「予定通り、今日お前を街に入れる。ただ、最後の準備があるから荷物を持って急いで俺たちの拠点に来い。じゃあな」
カニスがそう言うと、短い音が鳴り、何も聞こえなくなった。もう荷造りはできていた。言われた通りリーフは駆け足でフラトレスの拠点へ向かった。
入り口まで辿り着くと、今度はカニス自身が待ち受けていた。
「言われた通り急いでくれたようだな。まあ当然か」
「そちらこそ、頭目自らお出迎えとは。お疲れ様」
「思ったより時間がなくなってな。まずはついて来い」
カニスに案内されるまま建物の中に入ると、等間隔に小さな個室の並んだ部屋が現れた。
「ここで服を脱いで体を洗え」
「洗う? 何で今?」
「はっきり言ってお前は臭う。そのままだと街で目立つ」
「そんなに?」
リーフは自分の服の臭いを嗅いでみた。
「ここに来るまで、水場を見かけたら必ず体を濯ぐようにしてきたけどな」
「街の人間は綺麗好きなんだよ。いいからさっさと脱げ」
カニスが苛立っている様子だったのでリーフは言うとおりにした。個室の中に入ると壁に何かの装置らしき物が取り付けてあった。
「ほらよ」
カニスが個室の入り口越しに二つの容器をリーフに手渡した。
「こっちがシャンプー……あ〜髪を洗う石鹸で、こっちが体を洗う石鹸だ。洗う時はこれを塗ってから水で流せ」
リーフは容器を逆さにするなどして弄ってみた。
「どうやって出すんだ?」
「その突起を押すんだ。そうすると、この先端から液状の石鹸が出てくる」
「ここか?」
リーフは容器を置き、先端に手を添えて突起を押してみた。すると、粘りのある液体が先端から手に出てきた。
(へぇ、おもしろ)
リーフはそのまま3〜4回繰り返してみた。
「おいやめろ! 出すのは1回で十分だ! 無駄遣いするな!」
「そうなのか。悪い」
リーフは言われたとおり髪に石鹸を塗ってみた。粘りがある割にはよく髪に馴染む気がした。
「水はそこの取手を手前に回せば上から出てくるからな」
リーフは言われた通りにすると、本当に水が勢いよく出てきた。
「すごいなこれ。どこからどうやって水を運んできてるんだ?」
「どこからも持ってきてねえよ。それは正確には霊力で一時的に生成された『水のような物質』だ。処理槽まで流れたら自動的に消滅する。あまり無駄遣いするなよ」
リーフはカニスの言葉を気にせず存分に体を洗った。
「時間がねぇからこのままこの後の流れを説明するぞ。よく聞けよ……この後依頼人がフラトレスの案内で街の外にやって来る。あんたに会うためだ」
「へぇ、依頼人って、ネルって人だよな?」
「そうだ。あんたに直接会って受け入れるかどうか決めたいそうだ。わざわざ依頼人の方から出向いてくるなんて珍しいんだがな。急に言い出されたからこっちは少しバタバタしてる。一体何を考えているのやら……一応、あんたの情報は年齢も含めてすでに先方に伝えて了承をもらっている。滅多なことしなけりゃ受け入れてもらえると思うが」
「……ふう、生まれ変わった気分だ。……あれ、もう髪が乾いてる」
体を洗い終えたリーフが言った。
「霊力の水だからだ。服はこれを着ろ。お前の服は文化が違いすぎるからな」
「仕方ないな」
カニスが手渡したのはフラトレスたちが身につけているようなかっちりとした服だった。少し大きかったが、何とか着ることができた。下着の肌触りの良さには感動したが、上着は動きづらくて落ち着かなかった。
「荷物は全部これに入れろ」
カニスは部屋の隅から巨大な箱型の鞄を引きずるようにして持ってきた。車輪と取っ手がついていて、用意した荷物が丸ごと入りそうだった。
「剣も入れなきゃダメか?」
「当たり前だ! 持ってるの見られただけで街から追い出されるからな!」
「う〜ん、結構窮屈なんだな」
リーフはもともと着ていた装備を含めて全ての荷物をしまった。
「そろそろ時間だ。集合場所に向かうぞ」
カニスが手首につけた器具を見て言った。
(あれで時刻を確認できるのかな?)
「くれぐれも失礼のないようにな」
カニスがリーフを睨んで言った。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。挨拶くらいならできる」
リーフはにこやかにそう言うと、荷物を持ってカニスと共に集合場所へと向かった。
しばらく歩くと、姿勢を正して待機している4、5人のフラトレス構成員が現れた。どうやらここが集合地点のようだった。場所としては以前ペーデと侵入した地下通路の付近であった。
「カシラ、お疲れ様です」
構成員の一人が深々と頭を下げた。
「状況は?」
カニスが尋ねた。
「先程向こうの班から連絡がありました。間もなく到着するとのことです」
「ご苦労。何とか間に合ったようだな」
カニスが答えたちょうどその時、向こうからやってくる5つ程の人影をリーフの目はとらえた。一人だけフラトレスとは異なる格好をしている人物がいた。あれが例の依頼人だろうか。その人物は頭から首まですっぽり覆うような黒い布を被っており、傍にいる構成員の腕を掴み、引っ張られるようにして歩いていた。
「あれが依頼人?」
リーフはカニスに目配せをしながら尋ねた。
「来たか。ああ、間違い無いだろう。」
「なんで布被ってるの?」
「地下通路の入り口の場所を知られるわけにはいかなかった。だからここまで送る間はああさせて貰った」
やがて依頼人たちはリーフの前に並ぶと、依頼人を誘導していた黒服が声をかけた。
「イリトール様、ただいま目的地に到着しました。引き渡し予定の人間も既に前で控えております」
「これ、もう取っていいですか?」
黒い布の中から、若い女性の声が聞こえてきた。
「はい、我々の都合に合わせていただき、ありがとうございます」
「いえ、お構いなく」
女性がそう言うと、布の上の方を片手でつまみ、取り払った。躑躅色の髪が布につられて持ち上がり、ふわりと垂れ下がった。そして彼女は首を横に少し振り、手で髪を軽く整えると、ゆっくりと目を開いた。日陰の中でもよく目立つ、金色の瞳が姿を現した。
「イリトール様。こいつが以前からお伝えしていた、我々が今回あなたに提供する人間、リーフです」
カニスはそう言ってリーフの肩を叩いた。
「初めまして、リーフと申します。今日はわざわざこんなところにまでお越しくださり、ありがとうございます」
そう言ってリーフは深々とお辞儀した。
(何だか傭兵団に入りたての頃を思い出すな)
しかし、彼女からの返事は帰ってこなかった。その代わりに、彼女はリーフの顔をじっと見つめ出した。
「あの、どうかなさいましたか?」
リーフが彼女に尋ねたが、今度も返事は帰ってこなかった。
仕方がないのでリーフは彼女を見つめ返して様子を探ることにした。とはいえ、布を取ってから彼女の表情はほとんど動いておらず、リーフには彼女が何を考えているのか分かりそうになかった。
(それにしても、この人の髪、花のように綺麗だな。この辺りにはこんな派手な髪色の人間もいるのか。この瞳も……あれ? よく見たらこの人、目の周りが腫れ……)
リーフがある事を発見したちょうどその時、彼女は突然リーフの顔面に向けて拳を突き出してきた。
(え!)
・リーフは反射的に動いて拳を躱し、困惑の表情を彼女に向けた。周りの黒服たちの空気も凍りついていた。
彼女は拳を突き出したまま数秒リーフを見た後、姿勢を正し、黒い眼鏡をかけた。そして、何事も無かったかのように、口を開いて、こう言った。
「……思ったよりも幼いけど、これでいいです。彼を引き取ります」
「か、かしこまりました。では、約束のものを……」
カニスがそう言うと、彼女は鞄から長方形の紙の束を出し、黒服の一人に手渡した。黒服はその紙束の枚数を数え、問題ないことをカニスに伝えた。
「リーフ、これであんたは晴れてヴィジーニエ市民——リーフ・イリトール、81歳だ。ヴィジーニエで婚姻を結べるのは80歳からだからな」
(やっぱこの世界の人間は寿命が長いってのは間違いなさそうだな。しかし81歳って……俺の感覚だと大往生って感じなんだが……)
この年齢感覚にリーフはしばらく慣れそうになかったが、カニスは話を続けた。
「後俺たちがやるのはお前と依頼人を街まで送り届けることだけだ」
そう言うとカニスはリーフの顔写真入りの札を手渡した。
「そいつが身分証だ。常に携帯して、決してなくすな」
「分かった。じゃあもうこれ返すよ」
リーフは以前カニスから奪った袋をカニスに返した。
「ほう? 当分返してくれないものと思っていたが」
「俺もそう思ってたんだけど……さっき『しゃんぷー』を使いすぎたお詫びとでも思ってくれ」
「はあ、まあ、返してくれるならなんだっていいが……俺はここでひとまず見送りだ。フラトレスとしてお前の力を借りるのはしばらく先になる見込みだ。それまで精々、街に馴染むんだな」
「ああ、ありがとう、オカシラ」
リーフは軽く手を振ると、依頼人の元へ行った。
「お待たせしました。もういつでも出発できます」
リーフは依頼人に言った。
「もう、知っていると思うけど、一応……私の名前はネル。ネル・イリトール。よろしく、リーフ」
ネルは目を逸らしながら言った。
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
それからリーフとネルは、彼女がここに来るまでそうしていたように、頭に黒い布を被せられ、黒服の誘導で街に入ることになった。階段を降り、馬車のようなものに乗せられた感覚がした後、階段を登り、再び何かに乗り込んで移動すると、ようやく黒服たちから頭の布を外す許可が下りた。
布を外すと、リーフはネルと共に狭い小部屋ような物の中にいることに気づいたが、すぐに黒服が横の扉を開いてくれた。扉を開けた黒服の後ろに見える景色が目に入り、リーフはそこから飛び出すように外へ出てしまった。
一瞬の眩しさの後そこに現れたのは、周りを行き交うたくさんの人々、どこまでもまっすぐで、滑らかな道路と、その上を駆け巡る摩訶不思議な乗り物たち、見上げるほど大きな建物群、そして、空を半分覆うほど巨大な大樹。街の外から少しは見えていたが、この景色が間近に、そして全方位に広がっているとなると、桁違いの迫力だった。
「リーフ」
後から出てきたネルに窘められ、彼は自分の口が開いていたことに気づき、慌てて閉じた。今は街の中で、不審な行動は厳禁。それは彼自身よく心得ていたはずだったのだが……隠しきれなかったようだ。
「では、我々はこれで。ご利用、ありがとうございました」
黒服たちはそう言って一礼すると、リーフが出てきた小部屋に入っていった。——よく見るとその小部屋は道路を走っているのとほぼ同じ、乗り物だった。——すると、その乗り物の四隅の車輪が回りだし、滑らかに道路を走り去っていった。
(なんて速さだ。馬もないのにどうやって動いてるんだ? あ、霊力か?)
「リーフ」
「あ、はい」
「今はただ黙って私に着いてきて」
「分かりました」
ネルがすたすたと歩き出したので、リーフは片手で荷物を転がし、その後を着いて歩いた。周りを通り過ぎるのは彼にとってどれも新鮮で不可解なものだったが、挙動不審にならないためにリーフは必要以上に首を動かさないよう努めた。それでも、目が激しく動くのを止められなかった。
突然、前を歩いていたネルが立ち止まり、腕を軽く横に出してリーフの行手を阻んだ。リーフが何事かと思いつつ立ち止まると、ネルはリーフを尻目でチラリと見て、向こうの柱に取り付けられた赤い照明を一瞬指差した。
(あれに注意しろということか?)
周りの人間も立ち止まり、その照明を見ているようだった。
やがて赤い照明が緑の照明に切り替わると、ネルを含めた周りの人間が一斉に歩き出したので、リーフもそれに続いた。どうやらあの照明が人の動きを指示していたようだ。なぜ歩き方さえ指図されなかればならないのかネルに尋ねたかったが、ネルからの命令は「黙ってついてくる」だったので我慢した。
そんな調子でしばらく歩いていると、リーフは街並みの様子が変わっていることに気づいた。さっきまでは高い建物が密集している印象だったが、今歩いている場所は2〜3階建ての高さの建物が多く、建物同士の距離も比較的離れていて、建物の間には植木や花が散見された。なんだかリーフの知っている街並みに雰囲気が近い気がした。
その時、ネルの歩みがぴたりと止まり、傍にある巨大な門扉に体を向けた。
「ここが私の家」
彼女はそう言うと、門扉の脇の装置に手を触れ、軽く霊力を込めた。すると、門扉が独りでに動き出し、ネルたちに道を開けた。彼女に続いて中に入ると、2階建ての、風雅な住居が現れた。植木などはないが広い庭があり、外をよく走っていた4輪の車も置いてあった。リーフには住居としてはかなり豪華なもののように感じた。
「あの、この家には何人暮らしているんですか? その人たちは私のこと……」
「ここに住んでるのは私だけ」
「え!?」
「……悪い?」
「い、いえ、ただ私の常識が足りないだけだと思うので……」
リーフは改めて住居を眺めてみた。少なくとも5人は快適に過ごせる大きさに見えた。
そんなリーフをよそに、ネルはすたすたと玄関へ歩いていった。彼女が扉の取っ手に手を置いて、カチャリという音が鳴った後、ネルは扉を開け、中へ入っていった。
「失礼します……」
リーフがそう言って家の中に入ると、外から見て思っていたよりずっと狭い空間が現れた。壁にいくつか扉がついているので、どうやら大きな家の中を壁で仕切り、いくつか部屋を作っているようだった。
「ここで靴を脱いで、それを履いて」
ネルが並べられた履き物に指を差した。家の中はこれを履くという作法でもあるのだろう。リーフは言う通りにした。履き替えたものは開放的だったが、それゆえに歩きづらい感じがした。
それからリーフは広い居間に案内された。大きい机と椅子、くつろぎやすそうな長椅子やよく分からないたくさんの機械が置いてあった。壁面には人よりも大きな窓があり、外からの日光で部屋の中は明るかった。
「座って」
ネルは大きな机の下に収められていた椅子を引き摺り出して、それに腰掛けた。リーフも同様に、机を挟んで向かい側に腰掛けた。
「リーフ、あなたにはこれからやって欲しいことがたくさんある。今から話すことはよく聴いて。……ここなら私たちの話が他人に聞かれる心配はない。だからいつでも質問していい。でも余計な詮索は許さない。いい?」
「分かりました」
リーフが返事をすると、ネルは手を組んで机に軽く置き、話を始めた。
「私があなたを受け入れた理由は、『結婚したくないから』」
「結婚……したくない?」
「ある時、私の両親が、無理矢理私にお見合いをさせようとして来た。それを私は『彼氏がいる』という理由で断ることにした。それで、今からちょうど1週間後、私は彼氏を連れて両親に挨拶することが決まった。私があなたに与える任務は、そこで『私の彼氏を演じる』こと」
「それって、普通に街で出会って、仲良くなった人を演じるってことですよね?」
弱音は言わないようにしたものの、リーフは不安で表情を曇らせてしまった。誰かを演じることに苦手意識は無いし、ネルの両親を欺くことにためらいがあるわけではない。ただ、街のことを何も知らず、今日ネルに出会ったばかりのリーフは、その「彼氏」と正反対ではないか。
その様子を見抜かれたのか、ネルはリーフにこう言った。
「……もちろん、今のままのあなたを両親に合わせるつもりは無い。両親との挨拶を無事に終わらせるのはいわば『大目標』。そして『小目標』は、それまでにこの街の常識を学んで、ヴィジーニエ市民としての風格を身につけること」
「なるほど、それなりの準備をしてから挑めるわけですね。でも……」
「でも?」
「あ、ええと、詮索したいわけでは無いのですが……ネルさんが私を受け入れた目的は本当にそれだけですか?」
「うん、それだけ」
「だとしたら、1週間後の面会が済んだら、私はどうなるのでしょう?」
「ああ、別に捨てるつもりはない。面会の後もいつ夫婦の演技が必要になるか分からないから。何かしら雑用をしてもらおうかと思ってるけど……ちゃんと仕事してくれる限り、最低限の衣食住は保証する」
(雑用……? それだけ?)
「まだ不満?」
「い、いえ、滅相もありません、このリーフ、まずは1週間後の面会に向けて、全力で使命を全うする所存です。では、具体的に何から取り掛かれば良いでしょう?」
「まずはその言葉遣い」
「は?」
「新婚でも妻に対してそんな風に話す人はいない。状況によって使い分けるようにしてたら、どこかでボロが出るかもしれないし、何より、“気持ち悪い”。だから二人きりの時でも私に敬語は不要」
「な、なるほど……それなら、うん、分かった、そうするよ、ネルさん」
「うん、それくらいが丁度いい。……そしたら今からリーフには、この家での暮らし方を軽く教える。街の人間なら生きるためにみんなやっているようなものばかりだから、これが出来るようになれば少しはヴィジーニエ市民らしくなれるはず」
「お願いします」
「歩き回りながら説明するから、着いてきて」
ネルは椅子から立ち上がり、向こう側へ歩いて行った。リーフも立ち上がり、机を回り込んでそれに着いていった。
「まずは近場から……ここが台所。外から買って来た食材を調理する場所だけど、私は料理はしないし、不用意に触ると危険なものが多いから、今はこの水道だけ覚えて。このレバーを上に上げると、ここから水が出てくる。レバーが右を向いている時は水が、左を向いている時は熱いお湯が出てくるから気をつけて」
「お湯が?」
「ここから水が出る間に霊力で水を熱する仕組みがこの家には備わってる」
ネルが実演すると、曲がった管から勢いよくお湯が出てきて、湯気が広がった。彼女は説明を続けた。
「水を飲みたい時はこのあたりのコップなり、水筒なりに汲んで飲めばいい。コップは使ったら洗って元の場所に戻すこと」
(井戸から汲んだり火を起こしたりしなくていいのか。楽だなぁ)
水道の説明を終えると、ネルは扉を開けて玄関のある部屋へ戻り、それから別の部屋を開けた。それは人一人入るのも窮屈に感じるような狭さで、中には水道と、白い椅子のようなものが置いてあるだけだった。しかし、その白い椅子は座面の中央が大きく窪んでいて、その中には水が張っていた。
「ここはトイレ。これに座って用を足すことができる。用を足した後、お尻を洗いたい時は便座に座ったまま脇にあるこのボタンを押す。霊力で生成された洗浄水が下からお尻に向かって噴き出してくるから、汚れを落とすことができる。止める時はこのボタン。この洗浄水は驚くほど早く乾くから、拭く必要も無い」
(拭く必要もない……カニスのところで体洗った時の水みたいなものか)
「で、全て済ませたらここのレバーを引いて中のものを全部流して、この水道で必ず手を洗うこと」
ネルがレバーを引くと、窪み全体に水が勢いよく流れ出した。
「ここに流されたものはどこに行くの?」
リーフが尋ねた。
「処理施設まで流れていって、そこで匂いが出ないように浄化されて、川に流される。でも、ゴミとか固形物を流したら下水管が詰まって大変なことになるから絶対にしないこと……あと、2階にもトイレはあるけど、そこは私専用にするから使わないこと」
「はい」
トイレを後にすると、二人は付近の別の部屋に入った。
「ここは洗面所だけど……先にその奥の浴室を説明する」
奥の引き戸を開け、二人は浴室に入った。
「これが浴槽で、あれがシャワー」
「あ、このシャワー? 俺知ってる。ここをひねれば、あそこから水が出てくるんじゃない?」
「うん。どこで知ったの?」
「フラトレスのところで使う機会が一度だけあったんだ」
「それなら、シャワーの説明は要らなそうだね。それで、この浴槽だけど、これはここのボタンを押せば、排水口が閉まってお湯が溜まり始める。これは一定まで溜まったら自動的にお湯が止まるようになってるから、後は何も弄らなくていい。まあ、私はシャワーだけで済ませることが多いけど」
「俺は浴槽も使いたいかな。前に住んでいたところでは、公衆浴場でお湯に浸かるのが日々の楽しみの一つだった」
「このシャンプーとボディーソープで体の汚れを洗い流してからお湯に浸かる、という手順がこの街だと一般的」
(シャンプーは確か……髪を洗う石鹸だったよな?)
「入浴が終わったらこのボタンで排水口を開けて、お湯を全部流しておくこと。それから最後にこのスイッチを押して……」
ネルは浴室出入り口近くの器具に手を触れると、壁から風が噴き出てきた。
「何これ? 涼しい」
リーフは手で風を感じた。
「体を乾かす風。霊力の風が体の水滴を奪って汗を引かせてくれる。これを浴びればタオルはいらない。ここで体を乾かしたらスイッチを切って浴室を出ること」
「はい」
「じゃ、洗面所に戻るね」
二人は浴室を出た。
「これは洗面台」
「綺麗な鏡だね。さっき通り過ぎた時は一瞬、もう一人の自分が向こうを歩いてるかと思った」
「この街ではこれくらいの品質の鏡が普通だから、外でそんな反応はしないこと」
「はい……」
「ここは身だしなみを整える場所。顔を洗ったりとか、寝癖を直したりとか、髭や無駄毛を剃ったりとか」
「それで鏡があるのか。髭の剃り残しとかも分かりやすそうだな」
「……髭、剃ったことあるの?」
「……あ、あるよ? 剃刀も持ってる」
口の周りの肌の感じを見る限り、リーフには産毛程度の太さの物しか生えてきていないようだった。
「……まあいい。次はこの洗濯機。服の洗濯を自動でやってくれる。基本的な使い方は、蓋を開けて、そこに洗いたい服を入れて、蓋を閉じて、ここのボタンを押すだけ。そうすると霊力の洗浄水と服が混ぜ合わされて洗濯される。10分程度で終わって、乾いた状態になるから、それをそのまま着てもいい。私は入浴前に脱いだ服をこの洗濯機に入れて、入浴後は洗濯が終わったものを着るようにしてる」
(着替えがなくてもいいのか……)
「リーフももしそうするなら洗面所の入り口の鍵は閉めるようにして。——洗面所と浴室の間の扉にも鍵はついてるけど」
「どうして?」
「裸のあなたに遭遇したくないから」
「え?」
「ん?」
「入浴の時に裸になるのは当然だろ? それの何が悪いの?」
「……」
それを聴いたネルはリーフの前でしゃがみ、両手を彼の両肩に置いてこう言った。
「あのね、リーフ、よく聴いて。ヴィジーニエでは異性の他人に自分の裸体を晒したり、異性の他人の裸体を見たりするのは、いついかなる時でも『重罪』」
「そうなの!? じゃあもし、ネルさんが俺の裸を見ちゃったら、ネルさんが罰を受けるってこと?」
「いや、その場合『私に裸体を晒した罪』でリーフが罰せられる」
「え? じゃあ俺がネルさんの裸を見ちゃったら……」
「『私の裸体を見た罪』でリーフが罰せられる」
「なんで???」
「それがここの『文化』だから。受け入れて」
(なんてこった……ヴィジーニエ市民は入浴に安らぎを求めていないのか?)「……あ、でもネルさんとは一緒にこの家で暮らすんだからもう『他人』では……」
「運動術〈モート〉」
ネルはリーフの肩を強く握りしめた。
「いたたたたた! ごめんなさい!」
その後、ネルはリーフの肩から手を離し、軽く咳払いをしてから話題を元に戻した。
「……これで洗濯機の簡単な使い方は教えた。この洗濯機みたいな、霊力を用いて動かす器具は『霊器』って呼ばれてる。この家にもたくさんの霊器が備えられてるけど、霊器はデリケートなものが多いから、使う時は説明書の注意事項をよく読むこと。主要な霊器の傍には説明書を置いといた。洗濯機の注意事項はこれ。軽く読んでみて」
ネルは洗濯機の上の書類を開いて、リーフに手渡した。しかし、リーフがそれを見ると、彼の眉間のしわはどんどん深くなっていった。
「リーフ、どうかした?」
「ネルさん……これ、文字?」
「……もしかして、読み方、習ってない?」
「読み書きはちゃんと教わったよ? でも、文字が他にもあるなんて知らなかった……読めないと、まずい?」
「……非常にまずい。街は文字で溢れてるし、文字が読めないと、この街のことは全て私が口頭で説明しないといけなくなる。そうなると正直だるいし、1週間後までに間に合わない」
ネルは片手で頭を抱えながら言った。確かに、ここまでの説明だけでも、なかなかの手間がかかっていた。これ以上はネルの負担が大きすぎる。
「じゃあネルさん、俺に文字の読み方勉強させて。俺、昔から物覚えはいいって言われてたんだ。だから文字の読み方もすぐに覚えて見せる。お願い」
「……ま、それしかないか。読み書きの経験があって、言葉が話せるなら、なんとかなるかも。ちょっと玄関で待ってて」
ネルがそう言うと、彼女は早歩きで居間へ入っていき、その後天井から足音が聞こえてきた。どうやら居間で見かけた階段から二階へ上がったようだった。リーフは玄関へ行って待っていると、ネルは手提げ鞄を持って戻ってきた。
「外出する。車に乗って」
「車?」
ネルは家の外に出ると、外に置いてあった車の扉を開けて乗り込んだ。リーフもネルの真似をして扉を開け、中に入った。
ネルが小さな器具を取り出して、ボタンを押すと、門扉が勝手に開いた。ネルの操縦で車はそこから道路へ出て、道を走り出した。
「どこへ向かってるの?」
リーフはネルに尋ねた。
「文字をよく学べる場所。……まあ、そこじゃなくても別にいいけど、これから色々学ぶリーフは知っておくべき場所だと思うから」
2人の車は数分もしないうちに広場に入り、ネルはそこで車を止めた。ネルに続いて車を降りると、周囲には他にもいくつか車が止まっており、眼前には巨大な建物がどっしりと構えていた。
「建物の中に入ったら、大きな声で話さないこと」
「う、うん、分かった」
2人は建物の中に入り、いくつかの部屋を通り抜けると、とてつもなく広い部屋に入った。広すぎて奥の壁が霞掛かって見えた。そして部屋の中や壁には大きな収納棚が等間隔に並べられており、棚には細長いものがぎっちり詰められていた。
「これ、全部、本?」
「ここは図書館。エピセンティアの図書や記録、その他資料を集め、保管しておく場所。この部屋に置かれている本は自由に手に取って読むことができる」
ネルは付近に置かれていた機械を操作し始めた。
「3307か……」
ネルがそう呟き、壁に描かれていた館内図らしきものを一瞥した後、彼女はすたすたと歩き出した。リーフはそれについて行った。ネルは歩きながら頻りに本棚を見渡していた。どうやら本を探しているようだった。しばらく歩いた後、ネルは身をかがめて一冊の本を取り出した。
「見つけた」
「その本は?」
「文字を知らない幼児向けの絵本。こういうのが一番覚えやすい」
「幼児……」
「早速、向こうの机で始めよう」
2人が椅子に並んで腰掛けると、ネルはリーフに向けて絵本を開いた。
「この文字は『あ』。『あ』は秋の『あ』。足跡の『あ』」
ネルは絵本の内容を指差しながら言った。左側に大きく文字が書かれており、右側には紅葉した森の地面に動物が足跡を残して歩いている絵が載せられていた。色鮮やかで、綺麗な絵だった。
「復唱して」
「『あ』。『あ』は秋の『あ』。足跡の『あ』」
「そしたら、この紙に、この鉛筆でこの文字を書いて」
ネルは鞄から紙と鉛筆を机の上に出し、リーフの前に差し出した。
「読めればいいんじゃないの?」
リーフが尋ねた。
「物を覚える時はいろんな感覚を使う方がいい。その目で見て、その耳で聞いて、声に出して、その手で書く。それが一番覚えやすい」
(なんだかペーデに霊力を教わった時を思い出すな……)「そうなのか……インクは?」
「鉛筆はそのままで書ける」
リーフが鉛筆を持ってその先端を紙に擦り付けてみると、線が引けた。
「ホントだ。この紙も白くて滑らかで描きやすいし……この街のものは何でも進んでるよなぁ」
「いいから書いて」
「はい……」
リーフはこうして一文字ずつ学習を続けた。地道な作業ではあったが、絵本をめくるたびに多種多様な景色の絵が現れ、また、ネルも文字の形を覚えやすくするための助言をよくしてくれたため、全く苦ではなかった。
ネルから貰った紙が両面びっしり文字で埋まる頃、リーフは絵本の内容を一通り見終わった。
「……そろそろいい時間。今日はこれくらいにして、あとは自主的に復習すること」
ネルが手首につけてある器具を見てそう言うと、ごほごほと咳き込んだ。
「大丈夫?」
リーフが声をかけた。
「大丈夫。ただ話疲れただけ」
「何だか申し訳ない。俺のために色々教えてくれて」
「気にしなくていい。さ、帰るよ」
「は、はい」
図書館を出ると、もう外は薄暗くなっていた。2人はそのままネルの自宅まで戻った。
玄関をくぐり、ネルが壁の器具に触れると中が瞬時に明るくなった。
「夕食にしようか」
ネルは呟くように言うと、居間へ入って行ったので、リーフもそれに続いた。
「そういえばさっき、ネルさんは料理をしないって言ってたけど、食事はどうしてるの?」
「食事はあれに入ってる」
ネルはそう言うと、台所へと歩いていった。そして、ネルよりも背の高い巨大な箱の前で足を止めた。
「これは冷蔵庫。食品とかを冷やして保存するための霊器」
ネルが冷蔵庫の扉を開けると、四角くて平たい容器が大量に入っていた。
「この箱一個に一人前の食事が入ってる。物を取り出したら冷蔵庫の扉はすぐに閉めること」
ネルは2箱取り出し、冷蔵庫の扉を閉めた。
「そして食べる前はこのレンジで温める。箱ごと中に入れて、扉を閉めてから、ここを回して、矢印を『1』に合わせる。この数字は温める時間を表してて、1分温めるって意味」
温めている間、リーフはネルから匙などの食器の場所を教わり、食卓に必要な物を用意した。そうしているとあっという間に1分経ち、レンジから甲高い鐘の音が響いた。ネルはレンジから箱を取り出すと、それを食卓まで運んで並べて置き、食卓に座った。
「これで後は食べるだけ」
「もう出来たの!?」
「うん、だからリーフも座って」
リーフは席に座ったあと、ネルの真似をして箱を開けた。すると、弁当箱のように中にさまざまな料理が詰まっており、食欲をそそる香りが一気に周りに広がった。
「本当に出来てる……」
リーフは涎を飲み込みながら料理を見つめた。ネルの箱にはリーフとは別の料理が入っているようだった。
「便利だよね。私はこれを定期的にこの家に配達してもらうようにしてる。そうすれば食材を買いに行く手間も、メニューを考える手間も、調理する手間も省けるから」
「こ、これ、本当に俺が食べてもいいの?」」
「当然。そのために2人前用意したんだから」
「それじゃあ……いただきます!」
リーフは匙を使って料理を口に運んだ。
「……!」
リーフは喉から一瞬呻くような声を出した後、料理を口いっぱいに掻き込んで、一気に完食してしまった。それはペーデから貰った保存食をはるかに超える味であった。
「……口、拭いて」
「……あ、うん」
ネルは白くて薄い紙をリーフに手渡し、リーフはそれで口の周りを拭いた。食べるのに夢中で口の周りをかなり汚してしまった様だった。
「……外で食べる時はもっと行儀良くね。この先これより美味しいものを食べることもあるだろうから」
ネルはぱくぱくと料理を食べ続けながら言った。
(な……これより、上が? ……もう一生、この人の奴隷でもいいんじゃないかな。……いや、待て待て、目的を見失うな
……それにしても、人として扱われないことだって覚悟していたんだが……思っていたよりずっと好待遇で驚いた。何か裏があるんじゃないかと警戒してしまうくらいだ。……一体どう言う理念でネルさんが動いているのか、今一度確認したいところではあるが……)「……あの、今日は本当に、ありがとうございます。いろいろなことを教えてくれた上に、こんな美味しい料理まで……」
リーフはネルに頭を下げて言った。
「……お礼を言う暇があるなら、文字の復習でもすれば? そんなに時間もないんだから」
「う、うん……分かった」
リーフは今日文字の勉強に使った紙を取り出し、その場で復習することにした。
リーフには、ネルが彼を甘やかして油断させようとしているとはとても思えなかった。むしろ、彼女のリーフへの接し方は少し無愛想に感じるくらいだった。しかし、リーフにモノを教える彼女の姿に、彼はある種の誠意の様なものを感じていた。それゆえにリーフは、ネルという人間を信用してもいいように思い始めていた。
ただ、リーフは、ネルの行動に少し違和感を感じているところがあった。彼女はなぜ、リーフを受け入れたのだろうか。リーフを受け入れる行為はあくまで違法であり、それはつまり彼女にもそれなりに危険のある行いということだ。
今日見た限りでは、彼女には経済的余裕があるし、若くて、人格に問題も感じない。両親にお見合いを無理やりさせられそうになったという話だったが、本当にそれに対する最善策がリーフを使うことだったのだろうか。彼はそこがなんとなく引っ掛かっていた。
(……ネルさんは一体、何を考えているんだ?)
リーフは彼女の顔をチラリと見てみたが、その仮面のような表情から何も分かる訳がなかった。
「……何やってるんだろうね」
(え……?)
突然、リーフの不意をつくように、ネルの呟く声が耳に入ってきた。リーフは驚いて再び彼女に目をやったが、ネルはそんなリーフを無視して料理をぱくぱく食べ続けていた。今の言葉の意味を聴いても、答えてくれる雰囲気では無かった。
夕食を食べ終わり、ネルの指示に従って食器などを片付けた後、リーフは2階に案内された。ネルは階段を登って左の廊下を進んだ先にある扉を指差した。
「あの扉が私の寝室、向こうの扉がトイレに繋がってる。どちらも立ち入り禁止。中を覗くのも許さない」
「了解」
「で、反対側のあの扉があなたの寝室」
「俺の部屋!? そこまでしてくれなくていいよ。俺の寝る場所なんて一階の長椅子とか、何なら床でも……」
「余計な気を回さなくていい。元々来客用に用意してて、結局全然使ってない部屋だったから。……むしろ床に寝られたら心臓に悪い」
「そ、そっか。なら遠慮なく使わせていただきます……」
リーフのものとなった寝室に入ると、寝台と机と椅子のみが置かれていた。他と比べると質素な雰囲気だった。リーフは寝床の具合を確かめるため、横になるであろう場所を手で触れてみた。すると、妙な感触が手に返ってくることにリーフは気づいた。押し込むと手が沈み、上げると瞬時に形が戻る。彼はそれを3〜4回繰り返した。
(待てよ、これなら……)
ある衝動に駆られるままリーフは右足の履き物を脱ぎ、片足をベッドの上へ上げようとした。
「ストップ」
その時、ネルがリーフの首根っこを掴み、寝台から遠ざけた。それから首を掴んだ手首を回して、彼を反転させてからこう言った。
「ベッドの上で飛び跳ねたらベッドが痛む。やめて」
「な、なんで分かったの……?」
リーフがそう言うと、ネルはただため息をつきながら手を離した。
「……これで家の中の案内は大体終わったから、私はもうシャワー浴びて寝る。リーフも今日はある程度自由に過ごしてもらっていい。ただ、文字がどれだけ読めるようになったか明日確認するから、そのつもりで。それじゃ、おやすみ」
「うん、分かった。また明日」
リーフが手を振ってそう言うと、ネルは寝室を出て、階段を降りていった。
リーフは部屋の状態をベッドの下まで隅々確認した後、椅子に座って一息つくことにした。静かだった。久々に一人になれた気がしたが、それにしたってこの部屋は静かだった。風で葉が擦れる音も、鳥や虫の鳴き声も全く聞こえてこなかった。おかげで思考がよく回った。考え事をするにはちょうど良い環境だった。
今日は色々な事があった。きっとこれから毎日色々なことが起きる。さて、今はまず何をしようか。「これから」に備えるために。
(荷物の整理は……後でいいか。復習の続きをしよう)
リーフは図書館での文字の勉強に使った紙を取り出し、それに書いた内容を読み返して復習した。
「これは……秋と足跡の絵のやつだから『あ』。そしてこれは……」
一通り確認が終わりそうになった頃、階段を上がる足音と、扉の鍵が閉じる音が聞こえた。ネルがシャワーを浴び終わり、自室に戻ったようだった。
(……少し瞼が重くなってきた。街に入ってからずっと興奮状態だったから、その揺り戻しが今来たのかもしれないな)
リーフは休憩を兼ねて、浴室で体を洗うことにした。
十分に入浴を楽しみ、台所で水分補給した後、リーフは階段を上がった。洗濯した服はパリパリに乾いていて気分が良かった。
しかし階段を上り切った時、リーフは左側から妙な音を感じた。方向的に、ネルの部屋の所からだった。リーフの足は迷いなく、静かにネルの部屋の前へと動いていった。彼には妙な気配に対して原因を調べずにいられなくなる癖があった。それはもはやこれまで生きていく中で磨かれた本能みたいなものだった。
ネルの部屋に近づくごとに、音は大きく、鮮明になっていった。短く息を吸い込む音、鼻水を啜る音。扉の脇まで近づいたが、そこまでくると、壁に耳を当てずとも何の音かはっきり分かった。これはネルが啜り泣く音だった。
リーフは今まで見たネルの姿を思い返してみた。彼女の選択に対する違和感、夕食の時につぶやいた言葉、そして出会った時に見た、目の周りの腫れ……今にして思えば、あれは目を擦ってできたものだったのだろう。彼女がこうして泣くのは、今に始まった事ではないようだった。
どうするべきか数秒悩んだ末、リーフは大人しくその場を離れることにした。
(……焦る必要は無い。泣くことができるのなら、きっとまだ大丈夫だ。でも……洗濯機のところに置いてあった説明書、あれで文字を読む練習でもしようかな)
リーフは早足で階段を降りて行った。
リーフがボタンを押すと、真っ暗だった景色に突然一面の銀世界が現れた。奥では雪原の上を動物たちが飛び跳ねるように移動していた。
(一体どうやってこんな景色を丸ごと持ってきたんだ?)
リーフは不思議に思ってしばらく眺めていたが、彼はそれに違和感を覚え始め、左右を往復するように歩いた。そして彼は気付いた。この景色は平面だ。本物ではない、と。
「テレビの前を歩き回って何してるの? リーフ」
ネルが階段から降りてきた。
「あ、おはようネルさん。これ凄いね。絵が動くなんて。現実の景色を絵にできる写真は前に見たことあったけど、あれを応用した物なのかな?」
「そんなことより、朝から霊器いじってたの? 何も壊してない?」
「大丈夫。使う前にちゃんと説明書は読んだから」
「読んだ? 本当に?」
「本当だよ。 ほら、例えばテレビの説明書のこの文章——テレビの、上に、物を、置いては、いけた……違った、いけない——どう?」
リーフは文章の上を指でなぞりながら内容を読み上げた。その様子を見て、ネルの眉が僅かに上がった。
「……驚いた。昨日初めてこの文字を知ったんだよね?」
「うん。でも言ったでしょ? 俺、物覚えはいい方なんだ。それに、教え方も良かった。『な、は夏の、な。泣き虫の、な。』」
リーフは昨日聴いた絵本の内容を空で言ってみせた。
「……良かった。おかげでだいぶ楽になりそう」
そう言ったネルは少し機嫌が良さそうに見えた。……それから、目の周りの腫れも引いていて、今日は黒い眼鏡をつけていなかった。昨日の夜は目を擦らないように対策していたのだろうか。
「そういう訳で、文字はだいたい読めるようになったけど……今日は何すればいいかな?」
リーフが尋ねた。
「今日は仕事で1日出かけるから、昨日みたいに私から色々教えることはできない。ヴィジーニエのことはリーフが自力で学んでもらう」
「仕事?」
「……今はまだ知らなくていい」
「そっか、ごめん」
リーフは昨日詮索はするなと言われたのを思い出し、しまったと思った。
「……でも、自分で勉強するって言っても何すればいいかな。あ、昨日の図書館で色々調べるとか?」
「まだあなたを野に放つのは不安だから今日は家から出ないで」
「はい……」
「家の中でも外の世界はある程度知ることができるから。こっち来て」
ネルは居間の隅にある霊器を触り始めた。
「これはコンピューター。色々なことに使える物だけど、今はインターネットの使い方だけ教える」
「インターネット?」
「私もそんなに詳しい訳じゃ無いけど……映像、音、文字を含めたあらゆる情報をやり取りできる大規模な掲示板みたいな物。この街の人は誰もが利用しているから、どんな情報でも調べられると思っていい。使い方も簡単で、ここを押して、文字を入力して、ここを押すだけ。例えば、『天気 今日』って打ち込むと……」
ネルが操作すると、画面に太陽のマークや雲のマークが現れた。
「こんな感じ。今日は晴れのち曇りみたいだね」
「こんな手軽に調べられるんだ」
「そう、全ての情報が正確な訳じゃ無いけど、ここにはある程度信頼性のある物が出てくるようになってるからそこまで気にしなくていい。基本的な操作方法は説明書に書いてあるから自分で確認しておいて」
「分かった。確かにこれなら一人でも色々できそう」
使い方を教わった後、二人は朝食をとり、ネルはすぐに車でどこかに出かけて行った。リーフは早速コンピューターで色々調べてみることにした。
「何でも調べられるらしいけど、何から調べようか……」
リーフはこの世界に来てからのことを思い返し、まずは「人 平均寿命」と打ち込んでみた。
「やっぱりか……ここの人の平均寿命は800歳前後。100歳で成人と認められるのか……カニスのおカシラは80歳から婚姻できるって言ってたけど。……そういばネルさんって何歳なんだ? 100歳超えてるのかな?……俺の本当の故郷がここだとしたら、俺もこれくらい生きれるってことなのかな」
次にリーフは「カエルム教」と打ち込んでみた。すると、長い文章で書かれた解説が見つかりそれにはこのようなことが書かれていた。
【カエルム教は約2000年の歴史を持つ宗教である。その教祖はそれまでの長きに渡る戦乱の時代を平定したカエルム・ユニヴァで、その時の教訓から人々へ向けて『愛』を強く説いた。
カエルムはその後、その類稀なる霊力の才能を駆使して、『大樹』を含む人々の生活基盤をほぼ独力で築き上げた。これがヴィジーニエの始まりである。
この頃から、彼の人の域を越えた偉業を讃える称号として、『デウス』という言葉が使われるようになった。現在ではデウスとはカエルム教の最高位を指す言葉であり、ヴィジーニエの実質的な指導者を指す言葉でもある。
現在のデウスは4代目のメイル・ミドゥランである。デウスは世襲ではなく、「聖殿」や「大樹の揺籠」で特に優れた才能を示したものが即位すると言われている】
文章にはメイル・ミドゥランの画像が添えられていた。覆面を被り、仰々しい衣装を身につけた、小柄な人物だった。
……どうやらこの宗教はこの世界においてとんでもない影響力を持っているようだった。あんな巨大な大樹を一人の人間が作り上げたというのも信じられなかった。ただ、以前ペーデは、人の霊力量を決める一番大きな要因はその人の素質だと言っていた。カニスも人の体にはどんな悪魔が眠っているか分からないと言っていた気がした。その例がこれということだろうか。
また、ペーデが、ヴィジーニエには政府が認知していない抜け道が割とあると言っていたことを思い出した。カエルムが一人で作り上げてしまったから後の人間に理解が及ばなくなってしまったのだろうか。
最後に出てきた「聖殿」と「大樹の揺籠」も軽く調べてみた。どうやら前者は政府組織で、後者は教育機関のようだった。どちらも才能あるものが集められる場所のようであった。
次にリーフは「エピセンティア 地図」と打ち込んでみた。この世界に来るとき、どこかに飛ばされる感覚があったので、少し気になっていたのだ。すると、画面一面に世界を俯瞰したかのような地図の画像が出てきた。全体を見ると大きな湖や険しい山岳地帯、砂だらけの土地など、地形だけでみても多様な環境がこの世界に詰まっているようだった。
ヴィジーニエの場所も見つけ、拡大して軽く街全体を見てみた。建物がぎっしり詰まっていて、街の中心部に大樹があった。ただ、建物ばかりという訳でも無いようで、大きな川や緑の茂った山、耕作地帯も含んでいるようだった。
地図を縮小してみると、ある境界を境にして地図が途切れていた。その境界を調べてみると、「壁」を示すような言葉がいくつか書かれていたため、リーフの知る、世界を取り囲む超巨大な山脈、「果ての壁」では無いかと推測できた。
(これ……俺の前住んでた場所は描かれてるのか?)
気になったリーフは前住んでいた場所の地名をいくつか検索してみた。しかし、どれも存在しないという結果が帰ってきた。
(これはつまり、俺の住んでた場所は、エピセンティアの人間には知られていないということだろうか。でも、それっておかしい。だったらどうやって『あいつ』は俺の居場所を知ったんだ?)
リーフは指輪を触って考えたが、今考えても分かりそうになかった。このことはひとまず置いておくことにした。
リーフはその後もインターネットでこの世界のことを調べ続けた。ひとつ調べるたびに、また疑問が3〜4つ増えていって、膨らむ知的好奇心にだんだん歯止めが効かなくなっていった。
扉が開く音に気付き、リーフが振り返ると、ネルが居間に入ってきた。
「ただいま」
「あ……おかえりなさい」
リーフは窓の外が暗くなっているのを見て、昼食を忘れてインターネットを見続けていたことに気づいた。
「存分にネットサーフィンを楽しんでたみたいだね」
「サーフィン?」
「今日リーフがやってたことを俗にそう言う。有意義に過ごせた?」
「うん、色々覚えたよ。例えば……」
「ストップ。話は夕食を食べながらで」
夕食を食べながらリーフはネルに今日学んだことを話した。リーフが勘違いしたり曖昧なままになっていたところは彼女が補足してくれたので、より理解を深めることができた。
こうしてその日の1日はあっという間に終わった。
次の日からは、基本的にリーフが自力でこの世界を学び、ネルがそれを確認するという流れが出来上がっていた。ネルが仕事に出かけることはなかったが、1日のほとんどは自分の寝室で過ごしていた。
ただ、家の中だけでは学びにくいこともあると言う理由で、時々ネルはリーフを外に連れ出した。その機会にリーフは買い物の仕方、公共交通機関の乗り方、食事の作法などを教えてもらった。
最初は街の景色を見るたびに心臓が高鳴っていたが、色々経験して、覚えていくうちに、むしろ安らぎを感じるまでになっていった。
こうして日々は過ぎて行き、リーフがこの街に来てから七日目。遂に最初の役目を果たす時がやってきた。とある飲食店の、奥の静かなテーブル席で、ネルとリーフは人を待っていた。ネルの念話機から着信音が鳴り、彼女はそれに応じた。
「もしもし。……もう中で待ってるから。うん、わかった。それじゃ」
ネルは念話を切った。
「ご両親から?」
リーフが尋ねた。
「うん、もうすぐ着くって」
「ネルさんを育てた人たちか。会うのが楽しみだなぁ」
「余計なこと話さないでよ」
「はい……」
しばらく待っていると、店員に案内された一組の夫婦がやってきた。それを見てネルが立ち上がったので、リーフも立ち上がって彼らを迎えた。
「ネル! 愛娘よ〜!」
男性の方はネルの顔を見た途端、顔を綻ばせ、手を広げて彼女に抱きつこうとした。ネルはそれを片手で殴るように押し退けた。
「うむ、いいパンチだ! 元気そうでよかった」
男性は押されたところをさすりながら言った。
「父さん。彼が見てるから」
ネルの声には殺気じみたものを感じた。それを聞いたネルの父は奥のリーフの方へ目を向けたので、リーフは軽くお辞儀をした。
「君は、リーフさん……の弟さん?」
「いえ、あの……」
「父さん」
リーフが訂正しようとすると、ネルが割り込んで来た。
「彼がリーフ。それと、彼に身寄りはいないから」
「あ……そうだったのか。いや、大変申し訳ない」
ネルの父はとても気まずそうに頭を下げた。そして隣にいた女性も頭を下げた。
「うちの愚夫がすみません。この人、娘を前にするとおかしくなっちゃうんです」
「いえ、よく間違われるので……全然気にしてませんから」
リーフは苦笑いで答えた。
(……この人たちがネルさんの両親。ネルさんに無理矢理お見合いをさせようとしていたらしいが……)
リーフには彼らが、娘思いの優しい人たちに見えた。なんだかこれから彼らを騙すのが申し訳なくなるくらいだった。しかし、その辺はリーフがどうこう言える立場では無かった。
ネルが二人に着席を促すと、全員が席に座った。そして、リーフから挨拶を始めた。
「改めまして、リーフ・ゾンヌです。お二人にお会いできて光栄です」
前日にリーフは、ネルの夫になる者の「設定」を覚えさせられていた。今、リーフはまだ婚姻を結んでいないという設定でネルの両親と話しているので、仮の苗字を名乗っている。
「ネルの父のラーデです」
「母のポルカです」
ネルの両親。彼らのことは少しだけネルに教えてもらっていた。ラーデはファッションデザイナーで、ポルカはアパレル企業の代表らしい。個人的に少し調べてみたら、なかなか大きな会社のようだった。
「それにしても、ネル、本当に顔合わせの場所ここでよかったの? こんなお好み焼き屋だなんて」
ポルカがネルに言った。
「私はここが一番落ち着くから」
「まあ、私たちにとってここは馴染みのお店だし、ネルが決めたことに文句は言いたく無いのだけれど……リーフさんは驚いたんじゃない?」
「いいえ全然。以前ネルさんに連れられて初めて訪れましたが、作るのは面白いし、食べれば美味しいしでとても気に入りました」
「まずはみんな注文して。話は作りながらでもいいでしょ」
ネルがそういうと、ネルの両親は少しメニューを眺めてから注文を決め、ネルとリーフはその後すぐに注文を決めた。リーフはこの日に作るものを前々から決めていた。
テーブルに据えられた端末を操作して注文するとすぐに店員が生地の入った器を運んできた。リーフたちはそれを受け取ると、ラーデがテーブル中央の鉄板に油を引いてくれたのでリーフは生地を混ぜ始めた。
(空気と混ざるように下から下から……)
生地を十分に混ぜた後、リーフはそれを鉄板の上に流し、形を整えた。
「じゃ、父さんお願い」
「はいよ」
ラーデは自分とポルカの二人分を担当するようだった。
「それで、リーフさんは、何をしてらっしゃる方なの? すみません、ネルからは何も聞かされてなくて……」
ポルカがリーフに尋ねた。
「いえ、こちらも急な連絡になってしまい申し訳ありません。俺は……いわゆるフリーターってやつです」
「フリーター?」
「はい。体の丈夫さだけが取り柄だったので、肉体労働系の物を色々やってました。配達とか……たまにスタントマンみたいな事もやったりして」
「スタントマンって、映画でビルから飛び降りたり、全身燃やされたりするアレ?」
ラーデはヘラを動かしながらリーフに尋ねた。
「そこまで危険なことはあまりできないですけど……交通安全教室で車に撥ねられる役くらいならやったことはありますね」
「それも危険じゃないの?」
「見た目よりは平気ですよ。受け身は得意なので」
「そういう物なのね……あの、ごめんなさい、身寄りがいないってさっきネルが言ってたけどそれは……」
「気を遣わないでいただいて大丈夫です。俺の両親は、22年前のモンスターの大発生の時に亡くなってしまって……それ以来なんとか一人で働いて食い繋いで来たって感じです。まあ、もうだいぶ前の話なので」
「そう、一人で……でも、それだと、ネルと接点があまりないように思えるけど、二人はどうやって知り合ったの?」
「ネルさんとは……実は、ネット上で知り合いました。『出会い系』ってやつです」
「出会い系って……なんか最近どっかで耳にしたことがある気がしたけど……母さん知ってる?」
「いえ、私も名前程度でしか……」
「簡単にいうと、男女の出会いの場を設けるサービスです。自分の趣味とかそういうプロフィールを登録すると、自分に合いそうな人マッチングしてもらって、チャットやら通話やらでお話しする機会がもらえるんです。で、話してみて気が合いそうだったら直接会う約束をして……みたいなことが出来ます」
リーフが今説明した「職業」や「馴れ初め」は前日にネルから指示されて覚えた「設定」だった。ネルはリーフに無理な演技をさせないように、できるだけ彼の実際の境遇に近いものにするということだったが……
(こんな話で本当に認めて貰えるのだろうか? フリーターはこの街だと安定した職とは言えないらしいし、身寄りもないとなると怪しく見えてしまう気がするような……)
実際、ネルの両親は笑顔を保っていたものの、だんだん目つきが厳しくなっているように見えた。
「それで、リーフさんはネルのどんなところが気に入ったの?」
ポルカが尋ねた。
「そもそも俺がそのサービスを利用していたのは……自分はとにかく出会いが少ない環境にいたので、それがだんだん寂しく感じてきて……少しだけでいいから話ができる相手が欲しかったからなんです。こんな身の上ですから、それ以上の関係が作れるとは思ってもいませんでした。でも、ネルさんとお話しした時は何というか、彼女、聞き上手で、俺の見たこと聞いたこと全部吐き出したくなるくらい話すのが楽しくて。それで、最終的に玉砕覚悟でプロポーズしたら……嬉しいことに、彼女も俺を認めてくれていたみたいで」
「そうそう! ネルは小さい頃からそうなんだよ。この子は口数が少なめだから、親としては少し心配になって、それで『大丈夫か?』とか『悩んでることはないか?』ってよく声をかけたもんだが……何故かいつも私が慰められる側になるんだよなぁ」
「うんうん、父さんの場合『どっちが親だ?』って感じだったよね」
ラーデとポルカが言った。
(へぇ……昔のネルさんって、そうだったんだ……)
ネルの両親は過去を懐かしんでいるようだった。ネルの方はそんな両親そっちのけでお好み焼きを見ていた。
「そろそろかな」
ネルは焼き上げたお好み焼きにソースとマヨネーズをかけた後、コテで格子状に切って鉄板から直接食べ始めた。ネルの両親の方も焼き上がったようで、ラーデがネルと同様に切り分け、その一部を取り皿に乗せ、ポルカに差し出した。
リーフの物はもう少し時間がかかった。2つ目の生地を鉄板に広げ、形を整えて数秒焼いてから、それをコテですくい、1つ目の生地の上に乗せ、ひっくり返す。このまま2分ほど待てば完成だった。
「リーフさん、それ、焼き上がったら少し食べさせてくれない?」
リーフの作る様子を見ていたラーデが言った。
「ええ、いくらでもどうぞ」(……香ばしい香りが漂ってきた。コテで触った時の硬さもいい塩梅。よし!)
リーフは切り分けたものを取り皿に乗せ、ラーデに差し出した。
「おお、外も中も過不足なく焼けてて美味しい。この店の『ミラクル焼き』をここまで上手に焼けるとは。リーフさん、君、素質あるよ」
「恐縮です」
「……素質なんかじゃないよ。この人、前にここに連れてきた時、これが上手く焼けないから何回も同じの注文して練習してた。……全部食べてくれたからよかったけど」
ネルは目を逸らしてお好み焼きを頬張りながら言った。
「まあ、努力家なのね」
ポルカにそう言われ、リーフは頭を掻いた。このエピソードは予行演習でここを訪れた時に実際あったことだ。
そんな調子で会話を交わし続けて、気づけば全員が皿を完食していた。
「そうだネル。式は……」
「式は挙げない」
ラーデの言葉をネルが遮るように言ったため、ラーデは口を閉じて身を竦ませてしまった。代わりに今度はポルカが口を開いた。
「リーフさんもそれでいいの?」
「はい、俺は結婚をそこまで祝って欲しい人もそんなにいないですし……俺もネルさんも騒がしいの苦手みたいなので」
「そう……まあ、二人がそう言うのなら」
ここでリーフはネルの両親の様子に違和感を覚え始めていた。何だか二人はネルにやけに遠慮しているというか、恐れているようにさえ見えた。親子ってこんなものだっただろうか?
そんなことを考えていると、ポルカは口元を拭いて姿勢を正した。
「リーフさん」
「……はい!」
彼女の仕草と声色で、リーフはほぐれてきた緊張が一気に締め直された気分になった。それを見抜かれたのか、ポルカはこう言葉を続けた。
「……そんな固くならなくても大丈夫です。確かにあなたのことを突然ネルから知らされて、驚きはしましたが……私たちはネルのやりたいようにやらせると決めていましたから。……そう、決めていたのですが……どうか、その子の親として、一つだけ訊かせててください」
「何でしょうか?」
リーフは少し前のめりになって話を待った。
「ネルは大変優秀で、優しい子です。ネルが今住んでいる家も、その子が自力で稼いで手に入れた物です。でもその子は、一人の、普通の人間でもあります。リーフさん、あなたもご存知でしょうが……人間が一人でこの世界を生きていくのは、とても辛い。ネルはおそらく、それが原因で一時期体調を大きく崩してしまいました。
……私たちはそれから必死で彼女に寄り添い、おかげである程度は持ち直せたと思うのですが……年が離れているせいか、どうにも役不足感が否めません。それに、私たちには最期まで彼女を支えることができません」
ポルカのこの話は、リーフにはどれも初耳だった。リーフはこの1週間ヴィジーニエのことを学んでばかりいたが、ネル自身のことをほとんど知らされていなかった。ネルは不満そうな目でポルカのことを睨んでいたが、ポルカはさらに話を続けた。
「きっと、今のネルと今のリーフさんなら、一緒に暮らしても問題ないでしょう。でも、人生は長い。周りを取り巻く環境も、ネル自身も、時に緩やかに、時に急速に変化するでしょう。
……リーフさん、たとえ2人にどんな災厄が降りかかろうとも、たとえネルがネルではなくなってしまったとしても、最期までネルの味方でいると約束していただけますか?」
「え……」
リーフはこの問いにすぐには返答できなかった。口を開いたのだが、ポルカの言葉が頭の中を駆け巡って、口をつぐんでしまった。
(結婚をするのって、ここまでの覚悟がいるのだろうか。いや、そもそも俺がネルさんに味方してあげる必要なんてあるんだろうか。……いやいや落ち着け。これはあくまで演技だ。そこまで深く考える必要なんてない。ただ『はい』と言えば、少なくともこの場は乗り切れるはずだ)
しかしリーフは、ここまでの問いに対しすぐに返事をするのも、何だか嘘くさくなる気がして、なかなか言葉が出せなかった。
そうしてしばらく沈黙が続くと、ラーデが口を挟んできた。
「おいおい、リーフさんをそんなに困らせるなって。別にこれでネルが遠くに行ってしまう訳ではないんだから。大丈夫だ、リーフさん。一緒に暮らしていくうちに見えてくるものもあるさ。今の母さんの言葉は、頭の片隅に入れててもらえれば十分だ」
「は、はぁ……」
ラーデのこの言葉にリーフは、救われた気持ち半分、情けない気持ち半分といった感じだった。ポルカもポルカで、どこか腑に落ちない、という表情をしていた。
「母さん、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。だってネルがリーフさんを選んだってことは、リーフさんのこころは……」
「父さん!!!」
ネルは突然、目の色を変え、大声で叫んで机を叩いた。歯を噛み締め、唇を震わせていた。リーフがこんな表情のネルを見るのは初めてだった。彼には何が起きているのか、理解できなかった。ラーデはビクッとして言葉を一度止めたが、すぐにハッとして、恐る恐る口を開いた。
「ネル……まさか、リーフさんに『あの事』を言ってないのか?」
ネルは両手を握りしめ、頭を垂れてしまった。リーフの位置からだと、髪で顔が見えなくなってしまった。
「まあ……何という事でしょう。でも、それはいけないわ。ネル。辛いかもしれないけど、今すぐリーフさんに話してあげて。こういうことはできるだけ早く、自分の口で説明した方がいい」
ポルカは血相を変えてネルに話したが、ネルからの返事はなかった。代わりにだんだん彼女の息が荒くなってきていた。このままだと過呼吸になりそうな気がした。
「い、いいよネルさんそんな無理しなくて。えーと、人には誰しも秘密の1つや2つあるものだし……」
「いいえ、リーフさん。そういうわけにはいきません。これを先延ばしにすれば……ネルにも、リーフさんにも、辛い思いをさせてしまうかもしれない……ネル、あなたが言わないなら今ここで私が言うよ。それでもいいの?」
やはりネルからの反応はなかった。声が届いているのか心配になる程だった。リーフにはもう、なす術がなかった。ポルカはゆっくりと口を開き、リーフに話し始めた。
「リーフさん。『タレンタム』というのをご存知ですよね?」
「は、はい」(タレンタム。ネットで見かけた言葉だ。確か、普通の人では莫大な霊力を消費するような術を、世界の理を無視して、僅かな霊力で発現させてしまう才能を指す言葉だったな)
「ネルは『読心術』〈レクト〉のタレンタムを持っているんです。本来は一度使うのさえ困難な術なのですが、この子は自分の意思とは関係なく、その目で見た人の心を覗けてしまうようなのです」
(心が……読める? と、いうことは……例えば、俺が次注文したいメニューとか手品みたいに言い当てられる……ってこと!!?)
リーフの目が輝いた。
「すごい……すごいよネルさん! 何で教えてくれなかったの!?」
リーフは両手をぶんぶん振って言ったが、ネルからの反応はなかった。ネルの両親もキョトンとして何も話してくれなかった。リーフは、彼らと自分の間で何かがずれている様に感じた。
(……そうだ。どうして教えてくれなかったのかというのが問題だ。この先はよく考えて発言した方がよさそうだ)
リーフはまず、自分がもしそんな能力を持っていたらどうなるか考えてみることにした。
(まず……剣の勝負で負ける気がしない。相手の考えている動きが読めるんだから。騙し討ちなんかも効かなくなるだろうし、部隊内の裏切り者とかもすぐに見つけられる。いいことずくめじゃないか。……でも、逆にもし、敵にこの能力を持っている者がいたとしたら?)
リーフはここまで考えてハッとして、ネルの方をチラリと見た。
(ネルさんは最初から俺の心を覗いてたんだよな? つまり、髪と眼の色綺麗だなぁとか、眼の周り腫れてるなぁとか、夜泣いてたなぁとか考えてたこと全部筒抜けだったってこと!?)
リーフは恥ずかしさで顔が熱くなった。
(……こういう俺の心の動きも、ネルさんには全部、視えてしまうってことだよな。人の心の中の、悪意も、卑しさも、全部、全部)
リーフはだんだん、ネルの気持ちが分かってきたような気がした。カニスが口をつぐんだ意味。ネルが泣いていた意味。ポルカが約束させようとした意味。
(……でも、色々考えたけど結局、やるべきことは単純だ。偽りの夫としてじゃなくていい。ただ人として、伝えたいことを、伝えるだけだ)
「ネルさん、俺をみて」
彼女は応えなかった。
「ネ〜ル〜さんっ」
それでも彼女は応えなかった。
「……今からネルさんに、伝えたいことがあるんだ。これは紛れもない俺の本心。そのことをちゃんとその『眼』で確かめてほしい。だから、お願い」
ネルは震えるようにその首を動かし、髪の隙間から金色の瞳をチラリと覗かせると、口を開けて、ゆっくりとリーフに向けて顔を向けた。もう彼女には何か視えているのかもしれない、とリーフは思った。
「ネルさん。俺は君を疎んだり、怖がったりなんかしない。だって……俺は君に視られて嫌なことなんて何一つないからね!」
リーフがニコリと笑うと、その場の一同、ぽかんとしてリーフを見つめた。リーフは話を続けた。
「そりゃあ……見られて恥ずかしいことはあると思うし、恥ずべき思い出もあるし……というかむしろ人よりそういうのたくさんある自信もあるけど……少なくとも今の俺は、自分の良いところも、悪いところも全部受け入れて生きてるつもり。だから、俺は君に心を視られてもいいし、君が俺の心を視てしまったことに負い目を感じる必要はぜんっぜんない! ……俺はね、ネルさん。君にはもう視えていたかもしれないけど、ネルさんに大きな、とても大きな恩を感じているんだ。もしも俺にそれが許されるのなら、一生を賭けてでもこの恩を返したい。だから俺は、今ここで、君に誓う」
リーフはネルの手を両手で包んで、互いの前に軽く持ち上げた。
「たとえどんな災厄が降りかかろうとも、たとえネルさんがネルさんではなくなってしまったとしても、俺は最期までネルさんの味方だ。……約束する」
それを聴いたネルは、表情こそ動かなかったが、眼にいっぱいの涙を溢れさせながら、コクリと頷いた。
「分かってくれたみたいでよかった。……と、いう訳なので、皆さん、ご心配をおかけしましたが……って、ええっ!?」
リーフがネルの手を離し、ネルの両親の方へ向き直ると、二人とも涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「ああ、今日はなんて、なんて素晴らしい日なんだ。……ネルには、君みたいな人が必要だったのかもしれないなぁ」
「ええ、ええ、リーフさん、どうか、娘を、よろしくお願いします」
ラーデとポルカはそう言うと、深々とリーフに頭を下げた。
「は、はい!」
リーフは返事をして頭を下げたが……気がつけば周りは泣いている人だらけだった。
「……あの、ええっと……何かジュースでも飲みますか?」
リーフは端末を操作して全員分の飲み物を注文した。
店の前でネルの両親と別れを告げると、リーフとネルは、ネルの車に乗り込み、彼女の自宅へと向かった。
「……さっきは取り乱してごめん。私の家族と話したら私のタレンタムの話が出てくることなんて、考えてみれば自然なことなのに……私の見立てが甘すぎた」
ネルは運転しながら助手席のリーフに言った。もうすっかりいつもの顔に戻っていた。
「いや、謝ることじゃ……まあ、正直驚いたけど、当初の任務は果たせた訳だし」
「うん、お疲れ様」
おそらく、ここ数日の彼女は冷静な思考ができていなかったのだろう、とリーフは思った。
「それより……俺はこれから、どうなるのかな?」
「初日にも話したでしょ。当面は私の使用人みたいなものになってもらうと思う」
「でも……さっきのことは何というか、お互い想定外だったわけでしょ?」
「そうだね。出会って間もない人に、あんな大それた誓いを立てられるとは思わなかった」
「え。そ、そりゃあ出過ぎたことを言ったとは思うけど、俺はただ……」
「……分かってる。今のは冗談」
「はあ……」
「で、何が言いたいの?」
「ネルさんは……俺のことどこまで解ってるの?」
「私に視られても平気なんじゃなかったの? もう心変わりした?」
「いや、そうじゃなくて……ネルさんは、俺の全てを知った上で俺を受け入れたのかなと思って」
「……リーフの心は極力覗かないようにしていた。それに、私が人をただ視た時に読み取れるのは『その人が今考えている事』と『感情状態』だけ。それ以上深い場所は相手の瞳の奥を間近で覗かないと視えない。だからリーフのこと、たいして解ってるわけじゃない」
(ネルさんの仕草はどこか無愛想な印象だったけど……やっぱりそういうことだったか)「ネルさん、あの……」
「言わなくていい」
リーフをチラリと視たネルが、彼の言葉を遮るように言った。
「え……」
「初めて会ってあなたの心を視た時から、あなたが変な気を起こすような人間じゃないっていうのは解ってた。そして、何か大きな目的を抱えているっていうのも解ってる。私はその上であなたのことを受け入れた。だから、何も言わなくていい。相談してくれれば、あなたの目的を果たすための、ある程度の自由も認めてあげるから」
「うん……ありがとう」
リーフがそう言ったところで車が自宅に到着したため、二人は車から降り、家の中へ入った。夕食まで自由にして良いということになり、ネルは自分の寝室に入って行った。リーフもまずは自分の寝室で一息つくことにした。
リーフは椅子にもたれかかり、天井を見上げ、さっきの車の中での会話を考えた。
(何だかネルさんに気を遣われる形になって言えず終いになっちゃったけど……やっぱりこのまま伝えないのはあまりにも不義理だ)
そう思ったリーフは椅子から立ち上がり、廊下に出ると、廊下の突き当たりの扉の窓越しに、躑躅色の髪が見えた。
(あれは確か、バルコニーに通じる扉だ)
ネルはすぐに寝室から移動していたようだった。リーフは扉を静かに開けてバルコニーに入った。
「ネルさん」
リーフが声をかけると、彼女は振り返った。髪が風になびき、2つの金色の瞳がこちらを見つめた。
「……全部話すつもり?」
彼女にはお見通しのようだった。リーフは彼女の隣に立ち、バルコニーの柵の上を両手で掴んで上半身を持ち上げた。大樹や住宅街が眺められる、なかなかいい景色だった。
「ネルさんの気遣いは嬉しかったけど、正直、自分の過去とか目的を知られること自体は平気なんだ。それより、このままだとネルさんが想定しているよりずっと大きな迷惑をかけてしまうかけてしまうかもしれないと思ったから……」
「迷惑?」
「最初は、過去のことを話すつもりはなかった。とても信じてもらえるような内容じゃないし、ここまでよくしてもらえるとは思ってなかったから。どうにかネルさんに依存しない道を見つけて、いつかこの生活から抜け出さないとって思ってた。……でも、今は、この関係を続けるにしろ、解消するにしろ、全てを話してからじゃないと、ネルさんに申し訳ないと思ってる。だから、どうか聴いてほしい」
「聴く必要無い」
「いや、それでも……」
「そういうことじゃなくて、リーフが言わなくても、眼を見れば全部分かる。その方が早い」
ネルはリーフの顔へ手を伸ばし、自分の顔を近づけ始めた。
「え、ま、待って!」
リーフは思わず飛び退くようにネルから距離をとった。
「どうしたの? 別に痛く無いから、怖がらなくていい」
ネルは軽く首を傾げた。
「その方法だと、ネルさんには人の記憶がどんなふうに視えるの? もしかして、その人が見たこととか感じたことがそのまま視えてしまうんじゃないの?」
「まあ、そうだけど。私は大丈夫。怖い光景とか見るのはこれでも慣れてるから」
「ダメだ! 絶対に!」
思いのほか大きな声が出てしまい、リーフは思わず自分の口を押さえた。ネルも驚いたのか、少し目を丸くしていた。
「あ、ごめん。……えっと、もう察しがついてると思うけど、俺はこれまでたくさん辛いことを経験してきた。でも、他の人に俺と同じ思いを味わって欲しいとは思わないんだ。だから……ちょっと長くなるとは思うけど、俺の言葉で説明させて欲しい」
「……うん、分かった。話してみて」
ネルはリーフを見ながら柵にもたれかかった。リーフは話を始めた。
「……俺の人生は災難続きでさ。12年前にある人物に襲撃されて、訳も分からないまま家族と故郷を失った。流れ着いた先のアッピ村という場所で拾われて、狩りのやり方とか教わって何とか生きてこれたけど、6年前に大災害が起きて、第二の故郷も失った。その後流れ着いた街でも優しい人に拾われたから良かったけど、そこには人のものを平気で奪っていくような、悪い奴らがたくさんいた」
ネルは黙って相槌を打ちながら聴いていた。
「俺は、自分の大切なものが自分から離れていくのは、自分の力が足りないからだと考えるようになった。だから、その地域で活動していた、キルシュ団という傭兵組織に入ることを志願した。そうして傭兵となってから6年間、俺は訓練を積んで、犯罪組織や諸侯の軍勢と戦い続け、組織の精鋭と認められるまでになった。
……でも、ある日の作戦行動中に、事件が起きた。フリッツっていう、俺と同期に入隊して、相棒とも呼べる存在だった奴が、二人きりになったところを狙って突然俺に襲いかかってきたんだ。その時のフリッツは同じ人間とは思えないほどの動きで俺を圧倒した。——今思えば、彼は霊術を使っていたんだと思う。——力の差は歴然だったけど、不思議なことが起きて、俺は何とか彼を返り討ちにできた」
「不思議なこと?」
「俺の体に突然雷が落ちてきて、力が沸いてきたんだ。実は今まで何回かそういうことがあって……俺が危険な状況になった時に勝手に起きる現象みたいなんだけど、結局のところよく分かってない……最近になってあれは霊術の一種だったんじゃないかと思うようになって、再現してみようとも思ったんだけど、全然できなかった」
ネルは手を口の周りに添えて考え込む仕草をした。しかし、ネルにもその不思議な現象はよく分からないようだった。リーフは話を続けた。
「それで、俺に倒されたフリッツは死に際にとんでもないことを言い残した。フリッツはキルシュ団に入る前からとある組織の命令で俺を殺すように言われていたらしい。12年前の襲撃も、彼の仕業だった。それから、彼は俺の本当の故郷に導いてくれるという指輪と、俺の本当の母の写真が入ったロケットペンダント渡して亡くなった。……俺はその後、一時的な記憶障害を起こした。——どうやら不思議な雷を浴びるとそうなってしまうらしい。——そのまま戦場を抜け出して、ゾンヌ村というところで心ある人たちに匿われた俺は、そこでしばらく平穏な時を過ごした。その後、フリッツの最期の言葉を思い出した俺は、自分の本当の故郷を探す旅に出ることにした。それから指輪の導きに従って進み続けて、ヴィジーニエに辿り着いて、今に至る」
話が進むにつれて、ネルは次第にリーフを凝視するようになった。あまりに途方もない話なのだから仕方ないかもしれない、とリーフは思った。
「……つまり、俺の目的は2つある。1つはここが本当に自分の故郷であるか確かめて、もしそうなら自分の過去を探ること。2つ目は俺の命が狙われている理由を突き止め、その因縁に決着をつけること。……もう俺が言いたいことは分かったよね。フリッツの最後の襲撃以来は平和だったけど、俺の命が今も狙われているのは間違いないみたいなんだ。このままだと君に危険が及ぶかも知れない。この話を踏まえた上で、ネルさんには俺を今後どうするか決めて欲しい」
ネルはリーフの言葉を聞いて、腕を組み、息をついた。
「……リーフの望みは?」
ネルが尋ねた。
「俺の望みなんか聞いてどうするの? 決定権はネルさんにある。何を言われようと文句は言わない」
「分かってる。私も突然の事でどうするべきか悩んでるの。やっと両親との挨拶も済んでひと段落といったところでこんな話されたから」
「そ、それは確かに申し訳ないと思ってるけど……」
「だから、参考程度にリーフの意思を聴きたい」
「そういう事なら……俺は、できれば、このままネルさんの所に居させてほしい。本当はネルさんの力を借りなくても大丈夫って言いたかったんだけど……正直、ヴィジーニエを見た時から、俺一人ではとても目的を果たすことができないって直感してた。この世界の大きさに比べたら、俺はあまりにもちっぽけで、無力だ。自分を頼れない以上、俺は誰かに縋ってでも自分の目的を果たしたい。目的を果たして、『幸せ』な人生を生きたいんだ」
「生きたい……」
ネルは視線を落としてそう呟いてから、鋭い視線をリーフに向けてこういった。
「やっぱり、眼、視せて」
「え!?」
「創造術〈クレア〉」
ネルはそう唱えると、手から縄状の物体を数本生成して伸ばし、それらを運動術で操ってリーフの体を絡め取り、引き寄せた。
「ダメだ! ネルさん!」
リーフは目を閉じようと思ったが、もう遅かった。リーフの視線がネルの金色の瞳に吸い寄せられ、彼女の瞳の奥で霊力の光が閃いた。一瞬の静寂の後、ネルはリーフの体をそっと離した。
「ネル、さん?」
リーフが彼女の様子を伺っていると、ネルの顔からたちまち大粒の汗が吹き出し、倒れるように柵に寄りかかって頭を抱えた。
「ネルさん! 一旦横になろう。肩貸すから。歩ける?」
「いらない。大丈夫。平気」
ネルはそういってリーフを押し退けると、フラフラと歩いてバルコニーの椅子にどっかと座った。リーフももう一つの椅子を運んで隣に座り、しばらくネルの様子を見守った。彼女は呼吸を整えて落ち着きを取り戻そうとしていたようだったが、組んだ両腕は激しく震え続け、止まる気配がなかった。
「無理矢理覗いて、ごめんなさい」
ネルはうわ言のように言った。
「気にしなくていいから。今はゆっくり休んで」
リーフはネルの肩をさすりながら言った。そうしてしばらく時間が経ち、ネルの冷や汗が引いてきた頃、彼女はゆっくりと口を開いた。
「さっき車の中で、過去のことは聴かなくていいって、言ったばかりだったけど……実はずっと、気になっていることがあった」
「気になっていること?」
「私は人の感情状態を視覚的に視ることができる。リーフと初めて出会った時に視たのは子供のような無垢な色。でも、リーフを家に招いた辺りから、奥の方にもう一つの色が潜んでいたことに気づいた」
「もう一つの色?」
「表の色とはまるで逆の、ドス黒い煙のような色。心の奥底で燻り続けて、今にも全身を蝕み、飲み込んでしまいそうな。……あなたのさっきの話から、その色の正体は大体察知がついた。でも、その話だけでは、私にはどうしても理解できなかったところがあった。それは、あなたの心が全体としてずっと安定を保っていたこと。つついただけで崩れそうな見た目なのに、そうなる気配すらなくて、むしろ常人より強固な平衡を保っているようにも感じた」
彼女の表現は抽象的ではあったものの、自分のことであるせいなのかリーフには不思議と合点がいくところがあった。
「それで、リーフの眼を覗いたら何か分かるんじゃないかと思って……つい」
「実際見てみて、何か分かったの?」
「ますます分からなくなった。色々なものが見えたはずだけど、醜くて、血生臭い、この世の地獄みたいな景色が頭にこびりついて、それ以外ほとんど思い出せない。リーフ、どうしてあなたは、こんな世界で無邪気に笑えるの? どうして、こんな世界を、生きたいと思えるの?」
「どうして、か。そうだね……これを言ってネルさんが納得するかは分からないけど……俺は——特に傭兵時代の俺は、世界のほとんど全てを疑って生きてた。キルシュ団の仲間と、街にいた数少ない友達を信じて、それ以外は全て斬り捨ててしまっても構わないと本気で思ってた。でも、あの日……フリッツに襲われて、あれほど苦楽を共にした仲間にすら裏切られることを知った俺は、何もかも信じられなくなった。それからはもう、何をしようとしても、動いたそばから自分の芯がガタガタと崩れていくような感じで、心が世界と離れていって、体から力が抜けていって……もう風前の灯みたいな状態にまでなった」
ネルは居た堪れない気持ちからか、リーフとは顔を合わせず、自分の手元を見つめて話を聴いていた。リーフは話を続けた。
「……でも、そんな時、俺を助けてくれた人たちがいたんだ。文字通り、その身を顧みず。……もしかしたらネルさんもさっき覗いた時に視えたんじゃないかな?」
「ゾンヌ村の、男女の二人組……ハンスと、エリサって人?」
「すごい! 名前まで言い当てられるなんて……そう。ゾンヌ村に流れ着いた時は記憶を含めて色々混乱していたこともあって、俺は『騒ぎ』を起こしてしまった。そのせいで、俺はそこにいた一部の人たちから狙われるようになった。——そうでなくとも俺はその時キルシュ団から脱走兵と見なされていたから、色々と危ない存在だったんだ。——でも、あの二人は……あの二人なりの事情があったみたいだけど……俺を理解してくれて、許してくれて、……『生きて』って言ってくれたんだ。——もう呆れるくらいのお人よしだよね。
——世界はどこまでも残酷だ。目に映るもの、聞こえてくる音、体に入る情報全てを疑って、自分を守らなきゃ生きていけない。でも、あの二人に出会ってから俺は……この世界を、信じてみたくなったんだ。だから俺は今、世界を疑いながら、世界を信じるように心がけて生きてる。それがネルさんの言った、俺の中の『相反する二つの色』の正体なんじゃないかな?」
「疑いながら、信じる……」
「どう? 疑問は晴れた?」
「いいえ、全然……でも、決めた。私は、リーフに協力する」
「協力……って言うと?」
「あなたの目的。過去を知るっていうのと、命を狙う連中をどうにかするっていうの」
「え……」
リーフは顔を顰めてネルを見つめた。
「……『疑い』の目だね」
ネルはリーフを視て言った。
「あ、いや、その……これ以上ないくらい嬉しい話だけど、正直、不安なんだ。ネルさんは人生計画を衝動的に決めてない?」
「ま、それは否定しきれないかな……でもね」
ネルは顔を上げ、外の景色へ体を向けた。その視線の先では、あの大樹が、見え始めたばかりの星々に向かって枝葉を伸ばしていた。
「あなたの心の色を見て、気づいたことがある。あなたの『色』は、何となく……『あの人』に似てる」
「あの人?」
「メイル・ミドゥラン様」
「それって今の『デウス』の? 会ったことあるの?」
「いいえ。でも、あれは……今からちょうど30年前、彼が4代目の『デウス』に即位されたのを記念したパレードを家族と見にいった時だった。大観衆に揉まれて、御姿は少ししか見られなかったけど……とても美しい心の色だった。重圧による苦しみを感じながら、それを軽く跳ね除ける生気の色に溢れていた。まさしく世界を照らす光だった。私よりずっと若い少年が、あんな光を湛えていることが、私には衝撃だった。そして、私も彼のようになりたいと思うようになった。——だから私は『大樹の揺籠』に入学した」
「それって……『デウス』の候補にもなるっていう……!」
「うん、私のタレンタムのおかげもあって、どうにか合格することができた。——でも、入って1年もしないうちに、ある事件があった」
「事件?」
「まあ、事件って言っても、どこにでもあるような、いわゆる『いじめ』。人の心が読めた私は、真っ先にそれに気づくことができた。それで、カメラやら録音機やらを使ってその存在を白日の元に晒してやった。そしたら、いじめっ子たちは正式に謝罪することになって、事は丸くおさまった」
「かっこいい……!」
「そんな褒められる事でもない。ただ、『自分の持つ才能は、誰かのために使わなくてはいけない』って、『大樹の揺籠』に入ってから、そう教えられてきたから。でも、問題は、その日を境に私のタレンタムが知れ渡ってしまったこと。私の『勘が良すぎる』のを不思議に思った人たちが、教師とか、私の小学校時代の関係者とかから聞き出してしまったんだろうね。周りの人たちの、私を見る目が変わっていくのがよく分かった。私をあからさまに避けたり、作り笑い浮かべなら当たり障りのない言葉しか話さなくなったりした。——そんな心の動きも全部見えてたんだけどね」
淡々と話すネルを見て、リーフは胸が締め付けられるような感じがした。ネルは話を続けた。
「——似たような経験は以前もしていた。遅かれ早かれこうなるんじゃないかっていうのは覚悟していた。だから私はいじめの事件で目立つことを恐れなかった。でも、いじめの事件で助けた人さえ私を避け始めたのは……ちょっと、予想外だった。——そんな状態が2年くらい続くと、私はもう、何もかもどうでも良くなって、頑張ることができなくなって、……結局自主退学することになった。1年くらい実家に引きこもった後、親と一緒にいるのが息苦しく感じてきたから、『読心術士』の資格をとって、警察に協力とかしてお金貯めて、半ば強引に家を出て、一人不自由なく暮らせるようになった。——でも、私は今でも時々、思うことがある……どうして自分はもっと頑張れないんだろうって。諦めずに、あの時視た光を目指し続けていたら、今頃どうなっていただろうって。ふとした時に、そんな考えが頭によぎって、自分が情けなくなって、とても苦しくなった」
リーフは出会った初日の夜に、ネルが密かに泣いていたことを思い出した。ネルはリーフの方へ振り向き、その目をまっすぐに見据えた。
「そして、あなたが現れた。あの人と同じ『光』に溢れたあなたが。……また追いかけたい、とまでは言わないけど、最後まで見届けたいって思いが、今、どうしようもなく湧き上がってきてる。そうすれば、大切な何かが、取り戻せるような気がして。——だから私は、あなたに協力したい」
リーフからすれば彼女の言葉は、はっきり言って、正気の沙汰とは思えなかった。しかし、分からなくはなかった。彼女もまた、生きようと、もがいているのだ。
「ありがとう、ネルさん。……それなら、俺たちは今日から『盟友』だね」
リーフは立ち上がってネルへ右手を差し出した。
「何だっていいけど……うん、改めてよろしく、リーフ」
ネルは座ったままリーフの手を握った。