◇第5節◇
そこでハタと気がついた。
あれが足りない。
「めんつゆだ!」
しかしあれこそ一朝一夕では作れまい。
カツオを釣るとか豆を発酵させるとかからはじめないと。
鰹節や醤油は諦めよう。
味がよく似ているブラドゥのスープでいいだろう。
「ジェムース!」
「はい、なんでございましょう」
ふたたび厨房へ走って、顰め面の料理人に言いつける。
「ブラドゥのスープの作り置きがあったろう」
「ひと鍋だけありますが、それが何か?」
「あれを煮詰めて濃くしろ」
「煮詰める?」
「塩を足してもいいが、それだとただ塩辛くなるだけだからな」
煮詰めたスープを味見して、
「もっとだ」
「これ以上しょっぱくするんですかい」
「そうだ」
再び味見。
まあ、こんなもので妥協するしかないか。
「こんなもん飲んだら病気になりますよ」
「誰がこんなしょっぱいもの好んでガブガブ飲むか」
「じゃあ何に使うんです?」
「さっき作った麺につけるんだよ」
「は?」
ジェムスの要領を得ないという顔は無視した。
「できた……」
組みあがった足場を前に、俺は額を拭った。
「シエール様これは……」
「流し素麺、だッ!」
「……」
「上から水を流せ!」
「はっ」
使用人のボブが踏み台の上からひしゃくで水をちょろちょろと流す。
「もっと盛大にやれ」
「はっ!」
「おお、流れてきた流れてきた」
「では水と一緒に少量の麺も流せ」
「かしこまりました」
それを掬って、めんつゆ(と思い込んでいる似て非なるもの)につけて、ズルズルとすする。
「これは……なかなかいけるではないか!」
「ぼっちゃ……シエール様、音をたてて物を食すなど、はしたないですぞ」
傍らで成り行きを見守っていたセビスが咎める。
「俺とお前たちしかいないところではしたないも何もあるか! そうめんはこうやって食うものなのだ」
「そうめん?」
「はっはっは。遠慮はいらん皆も食え!」
「これは……」と一口食べてヨハンが目の色を変える。
「なかなかですねえ」エリザベスも気に入ったようだ。
家臣たちとワイワイ言いながら麺をすすっていると、背後から「シエール」という呼び声。
「父上」
「庭先で何をしているのかと思えば。いったい何事だね?」と不審げな表情。
「父上もいかがですか?」
と、器にめんつゆを注ぎ、渡す。
父も興味をそそられたとみえて、
「なんだこれは?」
「流しそうめんです」
「なんだって?」
「食べものですよ」
「これが食べ物?」
「暑い中、なんでもこういう風に食で涼をとるのが近ごろ庶民の間で流行とか」
などと適当なことを言ってみる。
「庶民が、このようなものを?」
「ええそうです」
「この棒は何だね」
「ハシです。これを使って口元へ運ぶのですよ」
「難しいな」
と言いながらも楽しそう。
なんとか、流れてきた数本をつかむ。
「そのつゆを少しつけて、召し上がってみてください」
一口、上品にスルスルとやって、
「うむ!」
そのうち母も出てきて、
「涼しげでなかなかよろしいかも……ねえ貴方」
流しそうめんならぬ流し細うどんは、両親にも大変評判が良かった。
家臣一同も、満足の顔つき。
その中でセビスだけが頑なにこれを食するのを辞し、顰め顔で立ち尽くしていた。