婚約破棄されて良かった
生憎と今日の空模様は曇。地上に恵みを齎す太陽を隠してしまった。
首に巻いたタオルを外し、一応被って外に出たがお役御免になった麦わら帽子を脱いで、黒い頭を晒したシアドゥーシアは体をぷにぷにさせながら近付いたスライムを見下ろした。
「今日は散歩日和ではないわね。また、今度にする?」
「陽が出ていなくても散歩はしたいから、畑の周辺を回って来るよ」
「そう? あまり遠くへは行かないでね」
通常の十倍はあるであろう青いスライムはシアドゥーシアの言葉に頷くと体をぷにぷにさせながら行ってしまった。
「シア」
「お父様」
色気溢れる低音に呼ばれ振り向くとシアドゥーシアと同じ麦わら帽子を被った黄金の髪と青の瞳の美形が立っていた。
二人揃って、ズボンにシャツ、首にタオルと麦わら帽子という格好なのに見目はどちらも非常に整っている。父セウェルスは遠くなったスライムを眺めつつ、麦わら帽子とタオルを外した。
「折角外に出たっていうのに生憎の曇り空か」
「雨は降らないと思うけど、早目に作業を終わらせましょう」
「いいや。今日は止めだ。一日ほったらかしたくらいで枯れる柔な植物じゃないさ」
「そう?」
特殊領地と呼ばれる此処は、目の前にいるセウェルスが作り出した結界によって守られる。
セウェルスは世界最高峰の魔法士と名高く、帝国直属の最高魔法士の名を持つ。……のだが、政治にも名誉にも出世にも一切興味がなく、基本魔法研究所に引き籠ってるだけで外に出ない。これが結婚する前の父。
シアドゥーシアの母はリリティア=メルクーリス。公爵家の跡取りでセウェルスに一目惚れし、押し掛け妻状態になったところを酒の勢いを借りてセウェルスに襲い掛かって婚約に持ち込んだ。婿養子は皇子の中から選ばれる筈だったのだが、偶々セウェルスを見掛けて一目惚れしたのと類稀な植物魔法の使い手でもあるその能力に目を付け、かなり強引な手を使ってセウェルスを夫にした。
セウェルス自身、襲われたと言われても最後襲い掛かって形勢逆転をしたから恨んではないらしく、現皇帝や周囲から婚約者を見つけろと耳にカナリアを突っ込んで音を遮断したいくらいうるさく言われていたので逆にチャンスだと踏みリリティアと結婚した。
セウェルスは年齢不詳で何時から魔法研究所に在籍しているか正確な記録は残っていない。五代前の皇帝の時代から既にジジイと呼ばれていたからかなりの年齢である。
歳を取らないのは生まれつきであるが、娘であるシアドゥーシアには幸いにも遺伝していないから気にするなとはセウェルスの言葉。妻であるリリティアを深く愛しているから、置いて逝かれるのは嫌だから歳を取る方法を見つけ、今の皇帝が死ぬ頃には自分も同じ様に歳を取って死ぬだろうと語っている。
母の父に対する愛は重い。それは父にしてもそう。
お互いがお互いを重く愛し合う二人を見ていたせいでシアドゥーシアは一度失敗した。
「なあシア」
「はい」
「お前、アレクと婚約して良かったのか? リリも言っていただろう、もう無理に婚約者を決める必要はないと」
アレクとはアレクシス=リンゲンブルーメ公爵令息を指す。皇帝の弟が婿入りしている帝国きっての名家で、アレクシスは嫡男。
シアドゥーシアは半年前まで帝国の第一皇子ディートハルトの婚約者で皇太子妃候補であった。
「無理はしていません。アレクシス様は皇子殿下と違いますから」
隠密公爵家と名高いメルクーリス家の持つ情報網は大陸一で、その技術と情報量は皇家すら上回る。メルクーリス家の後ろ盾を得られれば間違いなく皇家の力は格段に増し、更にセウェルスが飼育しているウルトラスライムからしか採取不可能な材料で作るポーションが簡単に手に入るようになる。
特殊領地で育てられているのはセウェルスが捕獲した野生のスライムを品質、効果、味、どれも最高を誇る万能草を餌にし、水は帝都から五百キロ離れた位置にある水の精霊の加護がある湖から態々採取している。瞬間移動で湖まで移動し、水は空間接続能力で特殊領地と湖を繋いでシアドゥーシアと共同で水を汲んでいる。
最高のご飯と水を与えた野生のスライム同士を交配させていくことで純度が高く、濃い魔力濃度を持つウルトラスライムを誕生させた。ウルトラスライムから絞った汁でポーションを作ると絶大な効果が発揮される。
青のウルトラスライムから絞った汁は精神安定剤。
白のウルトラスライムから絞った汁は傷病を癒す薬。
緑のウルトラスライムから絞った汁は土地に恵みを齎す栄養剤。
赤のウルトラスライムから絞った汁は男女の恋愛において非常に良い効果を発揮する。
金のウルトラスライムから絞った汁はあらゆる異常を癒す万能薬。
金のスライム自体、他のスライムよりも圧倒的に強い分、数が少ないのが悩ましい。ただ、圧倒的に強いと言っても所詮スライム、蹴りを顔面に入れれば終わりだとセウェルスに話された。
此処、特殊領地はメルクーリス家の土地。土が肥え、広大で人が殆どいない此処で前々から試したかったスライムの飼育を始めたセウェルスはとても活き活きとしていると以前リリティアから惚れ惚れしたように話された。
互いを愛し愛される夫婦になりたい。
けれどシアドゥーシアはディートハルトとは理想の夫婦にはなれずに終わった。
ディートハルトにとってシアドゥーシアは氷の如き冷たい女で、利用するしか価値のない婚約者だった。リリティア譲りの黒い髪とセウェルス譲りの氷の如く冷たい青の瞳と絶世の美貌が気に食わなかった。皇后は社交界の華と呼ばれ、皇帝もかなり整った容姿をしている。二人の血を引くディートハルトも帝国中の女性の視線を釘付けにするくらいには美形なのだが、隣にシアドゥーシアが来ると自分は霞んでしまうと思い込んだ。
シアドゥーシアとしては、両親のように愛し愛される関係になりたいと願ってもディートハルトに強制するつもりはなかった。未来の帝国を導く皇帝を支える皇后になろうと努力した。厳しい皇太子妃教育やディートハルトを慕う令嬢達から嵐の如く受ける嫌がらせも躱し社交も頑張った。
頑張れば頑張る程、ディートハルトに嫌われていくとは思わなかった。
「セウェルス様、シアドゥーシア」
青のウルトラスライムの後を付いて回る体で自分達も散歩をしようかとセウェルスに提案され、そうですねとシアドゥーシアが了承すると二人を男性の声が呼び止めた。驚いたシアドゥーシアが振り向くと婚約者のアレクシスがいた。
「アレクシス様?」
「ああ、良かった、まだ畑仕事は始めていませんね。メルクーリス家を訪ねたら、リリティア様がシアドゥーシアはセウェルス様と特殊領地にいると聞いたので空間を通って此処に来ました。俺も是非畑仕事を手伝わせてください」
通常の貴族服を着ている以外は、麦わら帽子を被ってやる気満々のアレクシス。青みがかった銀髪を後ろに結び、農民が日除けとして利用する麦わら帽子を被るアレクシスの姿がなんだかちぐはぐなのに格好良い。
「今日はしねえよ。気が変わった」
「そうなのですか? 折角、麦わら帽子を用意したのに」
「大体、太陽も出ていないのに麦わら帽子を被っても仕方ないだろうが」
「待っていると太陽も顔を出すのではと思って」
「それもあるだろうな。だが、今日は止めだ。もう止めの気分になっているから、畑仕事はしない」
「では、また今度お手伝いさせてください」
麦わら帽子を用意して来てくれたのに申し訳ないとシアドゥーシアが謝ると「気にしないで。前々から興味があって、自分で勝手にしたことだから」と微笑まれた。
「お二人はこれから何方へ?」
「散歩ですよ。青のウルトラスライムが畑周辺を散歩するというので私とお父様も散歩をしようと」
「俺も同行していい?」
「私は良いけれど……」
ついセウェルスを見やると「好きにしろ」と欠伸をされながら言われ、歩き出したセウェルスの後を歩くようにシアドゥーシアはアレクシスと並んで歩き出した。
「今日はどうしたの?」
「うん? シアドゥーシアに会いたくなって来ただけだよ」
「私に? どうして」
「理由はないよ。ただなんとなく」
「なんとなくで会いに来てくれるの?」
「勿論。俺はどっかの馬鹿と違って君が好きだから」
どっかの馬鹿とはディートハルト。皇太子を馬鹿呼ばわりしても此処にはシアドゥーシアとセウェルスしかいない。誰にも聞かれない。
「ディートハルトには感謝しているんだ。シアドゥーシアを手放してくれて。皇帝陛下や皇后陛下にはかなりきつく叱られた上、皇太子から降ろされたみたいだけど」
半年前、シアドゥーシアはディートハルトに婚約破棄を突き付けられた。側にディートハルトと恋仲だと噂になっていた侯爵令嬢がいた。宮廷内で勢いが増し、皇太子妃の座を狙っている令嬢なのでシアドゥーシアはよく彼女から嫌がらせを受けていた。
ディートハルトを慕おうと努力したものの、一切思いを返さないどころか、シアドゥーシアを嫌う姿勢を崩さない様を見続け遂に諦めた。
『シアドゥーシア! お前のような氷のように冷たい女が帝国の国母になる事は誰も望まない!』
氷のように冷たく見えるのは絶世の美貌を持つ父譲りの見目のせい。見目に反してシアドゥーシアは可愛い物が好きで小さい頃リリティアに貰った頭に一本の毛が生えたクマのぬいぐるみが大のお気に入り。セウェルスからしたら不細工に見えても、リリティアやシアドゥーシアからしたらブサ可愛いのである。
『僕の寵愛を受ける彼女に対しても酷い嫌がらせをしていたそうじゃないか。女の嫉妬は見苦しいぞ!』
『殿下……わたくし……すごく怖かったですっ』
『もう大丈夫。僕が絶対に君を守るから』
あの時、自分は何の茶番を見せられているのかと内心溜め息を吐いた。同時に安堵もした。もうこれでディートハルトと関わらずに済むと。心が折れてからは、毎日の皇太子妃教育やディートハルトと顔を合わせる時間が苦痛でしかなかった。侯爵令嬢の額にキスを落とし、甘く微笑むディートハルトがシアドゥーシアを見る事はなかった。過ごした時間が全て無駄に終わっただけ。
――ともならなかったのは、今隣にいるアレクシスのお陰。
ディートハルトとシアドゥーシアの婚約破棄はすぐに正式決定した。というのも、屋敷に戻ったシアドゥーシアから事情を聞いたリリティアとセウェルスが即行動とばかりに皇帝皇后両陛下に二人の婚約破棄を正式に速やかに受理させた。両陛下がディートハルトを叱りつけシアドゥーシアへ謝罪し侯爵令嬢とは別れろと責める前に。以前からディートハルトが侯爵令嬢に現を抜かしていたのを知っていたくせに、その内飽きるだろうと放って置いたツケが回って来ただけ。侯爵令嬢は側妃にするからと皇后が口にするとリリティアとセウェルスの逆鱗に触れ、金輪際皇家に力は貸さないと魔法契約書をその場に召喚されてしまい、泣く泣くディートハルトとの婚約を破棄した。
「次の皇太子は第二皇子だけどディートハルトという反面教師がいたお陰で彼は馬鹿な真似はしないよ」
「第二皇子殿下には、幼少の頃からの婚約者がいらっしゃいましたね」
「ああ。二人が四歳の時からの仲だ。未婚の男女で最も仲睦まじいと評判でご令嬢も優秀な女性と聞く。ディートハルトより余程安心だよ」
何度か第二皇子とは顔を合わせており、その度にディートハルトのシアドゥーシアに対する態度を謝られていた。無関係な第二皇子に謝られても却ってシアドゥーシアが気まずくなった。
メルクーリス家の娘が皇太子と婚約破棄となった情報はすぐさま帝国中を駆け巡り、翌日から夥しい量の釣書が届いた。大陸一の情報網を持ち、飲めばどんな傷病や精神異常も癒し、大地に恵みを与えるポーションを作り出すメルクーリス家の力を誰もが欲した。
どの家からの釣書も悉くマイスを焼く燃料にされたが一枚だけ燃やされなかったのがあった。
それがアレクシス。
「アレクシス様は……」
「うん?」
「私と婚約して本当に良かったの?」
現皇帝の弟を父に持ち、帝国きっての名家出身の母を持つ由緒正しい家柄の跡取り。
ディートハルトと婚約破棄となった途端、リンゲンブルーメ公爵となった皇弟から毎日毎日使い魔や魔水晶を通してアレクシスと顔を合わせるだけでいいから会ってほしいと連絡を送られたセウェルスは、そのあまりのしつこさに折れリリティアとシアドゥーシアに相談し、シアドゥーシアが了承した為顔を合わせる事となった。
夜会や公式行事で出会うと必ず挨拶を交わし、毎回ディートハルトにほったらかしにされるシアドゥーシアを気に掛けてくれたのがアレクシス。氷の貴公子と呼ばれ、鉄壁の無表情を貫くアレクシスであるが……顔合わせの日に見せてくれた微笑みは今でも忘れられない。
『皇太子妃となるべく努力していたメルクーリス嬢にとって、公爵夫人は不満かもしれません。ですが俺は貴女と生涯を共にしたい。俺との婚約を前向きに検討してはくれませんか?』
氷の貴公子の微笑みを見られるのはこれからの人生できっと自分だけ。アレクシスはディートハルトと違うと直感的に感じ取ったシアドゥーシアは婚約を了解した。先ずはお互いを知りましょうという事で手紙のやり取りから始めた。ディートハルトの時は週に一度は多いと苦言されたから月に一度を提案した。するとアレクシスは三日に一度にしようとし、決まった日に手紙を送った。
やり取りは手紙だけでは済ませず、週に一度の顔合わせも婚約を結んで以降途切れていない。毎回シアドゥーシアの好きな花束やお菓子、時折珍しい植物を持参してくるのでアレクシスと会う日が楽しみになっていた。
「第一皇子殿下曰く、私は愛想が悪くて氷のように冷たい女だから、一緒にいて息が詰まるそうですよ」
「ディートハルトは自分より美しいシアドゥーシアを妬んでいただけさ」
「ええ……?」
そんな理由で……? と顔に出ていたらしく、ふふ、と笑ったアレクシスに手を握られた。
「シアドゥーシアのどこが愛想が悪くて冷たい女なんだろう。俺には可愛くて愛しい人にしか見えないのに」
「まあ。ふふ、ありがとうアレクシス様。アレクシス様も氷の貴公子だと言われているけどとても優しくて温かい人だということを私は知っています」
「俺が?」
意外そうに目を丸くしたアレクシス。こんな顔もするのかとまじまじと見つめ、そんな顔も似合っているからおかしくて「はい」と笑んだ。
「そっか、シアドゥーシアはそう見てくれているんだ。まあ、周りの評価なんてどうでもいいよ。俺の気持ちがシアドゥーシアにきちんと伝わってくれているなら」
「私も」
お互い微笑み合い、前を向くとセウェルスの背中がかなり遠くに見えた。すっかりと歩く速度が変わっていたらしく、手を繋いだまま急いでセウェルスの後を追った。追い付いた頃には太陽が顔を出し始め、陽光を地上に照らした。
「なんだ、今日はずっと曇りじゃないのか」
「みたいですね。畑仕事をしますか?」
「いいや。しない。屋敷に戻る前にスライム共に餌と水をやるぞ」
「はい!」
「俺も手伝わせてください」
「勝手にしろ」
畑周辺を一周し、太陽が顔を出したのもあって三人は麦わら帽子を被った。畑仕事をする時麦わら帽子は欠かせないというセウェルスの拘りで被っているが、暑い夏の季節はかなりお世話になっている。
早速、向かいましょうとシアドゥーシアは繋いだままのアレクシスの手を引いて舎内へ向かった。アレクシスは特殊領地に何度か来てもウルトラスライムの世話は一度も経験していない。以前から興味があったと話され、今日沢山しましょうと笑顔を見せた。
アレクシスとなら、一緒に何をしても楽しいから。
それぞれ青、白、緑、赤、金色のスライムによって与える薬草は種類が異なり、一食ずつ決められた餌場に薬草を入れ、水置き場には湖から汲んだ水を入れていく。水が入った重い盥を持つのはアレクシス。ご飯に群がってシアドゥーシアの周りを固める青のウルトラスライム達に苦笑しながらもアレクシスは水を零さないよう慎重に盥を水置き場に下ろした。
一つだけシアドゥーシアがディートハルトについて知らない事実がある。
本当はシアドゥーシアが好きだったくせに、セウェルス譲りのあまりに美しい見目に感情を上手に見せられず、恋心を拗らせてしまった点。側に侯爵令嬢を置き続けたのもシアドゥーシアの氷の仮面が崩れ悲しんでいる様を見たせいだ。自分を想っていないと見せられないその表情に酷い優越感を持ち、シアドゥーシアに愛されている感覚を欲してディートハルトの行いは酷くなっていった。婚約破棄を突き付けたのも虚言でシアドゥーシアが泣いて縋ったら撤回するつもりだったと、アレクシスがシアドゥーシアと婚約者になった直後屋敷に押し掛け叫ばれた。
――皇太子としては優秀だったのに、男としては馬鹿だったのか。
侯爵令嬢はどうするつもりだったのかと聞くのも面倒くさく、駆け付けた父――ディートハルトにとったら叔父――に追い返され、事情を聞かされた皇帝と皇后に見捨てられ皇太子の地位を降ろされた。
ただ、件の侯爵令嬢は本当にディートハルトを愛していたらしく、現在抜け殻となってしまったディートハルトを甲斐甲斐しくお世話していると聞いた。
「どうにかなるだろう」
「何か言いました?」
「何も。この後はどうしたらいい?」
「あ、次は白の方へ。アレクシス様に重労働させてしまうけど盥を二つ持って来てもらえますか?」
「気にしなくていい。手伝いたいと申し出たのは俺だから」
「ありがとうございます」
好きな女性からの頼みならどんな事でも聞き入れてあげたい。
何より、ずっと特殊領地で育てられているウルトラスライムの世話をしたくて仕方なかったアレクシスは今とても楽しい。
読んでいただきありがとうございました