公爵令嬢の政略結婚
書類の山を見て、思わず溜息が零れた。
忌々しい紙束達は一昨日片づけた言うのに、私がたった一日休んだだけで、再び山のように積み重なっているのだから。
「申し訳ございません、ロザリンド様……」
そう謝罪したのはルドルフ様。フォーサイス侯爵家の次男で、私の仕事の仲間の一人である。
私の名前はロザリンド・ベネディクト。ベネディクト公爵家の一人娘であり、第二王子フレデリック殿下の婚約者だ。
公爵家の娘なのに、侯爵令息と仕事仲間とは一体どういうことかといえば、私とルドルフ様他数名の殿下の側近達は『第二王子フレデリックの公務処理係』なのである。
別名『ボンクラ王子の尻拭い係』とも言える。
今、私の目の前にある書類も、一昨日片づけた書類も、全てフレデリック殿下が行うべき仕事である。
一介の公爵家の人間とはいえ私個人には何の権限も無いというのに、一年前に殿下は私とルドルフ様達に言ったのだ。
『お前はいずれ私の妻になるのだろう?夫の代わりに夫の仕事を肩代わりすることに、何の不都合があるのだ』
不都合だらけだ。むしろ不都合しかない。
15歳になり、フレデリック殿下は成人した王族として公務を任せられるようになったのだけれど、全く仕事をこなすことが出来ずにいたらしい。
だけど、出来ないだなんて言えるはずもなく私を呼ぶまで、側近達を無理やり働かせて、自分は判を押すだけという簡単な仕事だけをしていたのだとか。
それさえも面倒になった殿下は私を呼びつけて、自分の代わりに仕事をさせることを思いついたのだった。
そもそもフレデリック殿下は私との結婚と共に王籍を抜けて、ベネディクト公爵家に婿入りする身である。私の機嫌を取るならともかく、自分のワガママに私を付き合わせようなんて問題外な話だった。
唖然とする私と側近達のことなど構わず、フレデリック殿下は自分に都合の良いことだけをベラベラと並べ立てた。
彼の言葉がそのまま両親の耳に入ったら、怒り狂って八つ裂きにしてしまうのではないかと想像するだけで私は頭が痛かった。
流石にマズいと思ったのか、ルドルフ様が殿下を諫めようとしたのだけれど口を開く前に、殿下には見えないように私は彼を引き留めた。
何故なら、フレデリック殿下は両親である国王夫妻と兄の第一王子殿下に非常に愛されているからだ。特に王妃殿下の愛情は、いっそ盲目的と言っても過言ではないほど、フレデリック殿下を愛しているのが子供でも理解できるほどであった。
王妃殿下はフレデリック殿下に対して、いつだって甘い笑顔を浮かべ、息子の全てを許して来たのである。良いことも悪いことも。
そんな風に甘やかされて育ったフレデリック殿下は、とても傲慢で横柄で、甘ったれのクズ人間に成長してしまったのである。
もし、ルドルフ様がフレデリック殿下の為を思って諫めたとしても、きっと殿下は王妃殿下の前でルドルフ様を悪しざまに罵り、社交界からの追放を望むだろう。何らかの罪に問われなくも、王妃殿下に睨まれた人間というだけで、貴族達からは遠巻きにされるに違いない。
ルドルフ様や他の方達の将来が、絵に描いたような典型的な愚者の為に閉ざされて良いはずがなかった。
だけど私の沈黙を肯定と受け取ったのか、殿下はさっさと執務室を出て行ってしまったのだ。
それからというもの、私は殿下の代わりに、殿下の執務室で仕事をしている。
逆らっても良かったのだけれど、そうなると再びルドルフ様達は馬車馬のように働かされた上に、八つ当たりされるだろうと考えると可哀想だったので、仕方なくこの馬鹿馬鹿しい話に付き合っているのであった。
「殿下はどちらに?」
私に仕事をするように言い放った日から、殿下が執務室にやって来ることはなかった。
それでも一応、御定まりの台詞を言ってから仕事を始めるのだ。
「……物干し場に」
物干し場になんて王族であるフレデリック殿下がいるべき場所ではない。
だけどフレデリック殿下は、今は王宮の最下層の使用人である洗濯婦の娘に夢中であるらしかった。しかも、今回はかなり本気らしく密かに洗濯婦を養女にしてくれる家を探しているという情報まで、私の下に入ってきている。
愛人連れで婿入りする馬鹿が存在するなんて、こんな愚かな話は書物にでも認めて後世まで語り継ぐべきだと思うわ。
【世の中には、このような愚かな入り婿(予定)もいますので、親御さんはお気を付けください】ってね。
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ロザリンドがフレデリック王子の影として仕事を肩代わりし始めてから一年が経った頃。
王宮のとある一室は重々しい空気に包まれていた。国王夫妻と第一王子、そしてロザリンドの両親であるベネディクト公爵夫妻が対峙していたのだった。
「婚約の解消、だと?」
国王は公爵ではなく、公爵夫人の方を窺いながら言った。
公爵夫人は国王の異腹の姉である。
夫人の生母が先王の正妃である王太后で、国王の母は男爵家出身の側妃であった。それでも国王は王太后の後ろ盾があったからこそ即位することが出来たのだ。つまり王太后の娘であるというだけで、国王にとっては頭が上がらない存在なのである。
「この縁談は、王太后陛下の肝煎りで叶ったものではないか。それを覆そうとするなど不敬であるぞ」
第二王子フレデリックとベネディクト公爵家のロザリンドの結婚は、王太后の望みなのである。
二人は従兄妹であるので血が近過ぎるのだが、可愛い孫達の晴れ姿を見たいのだろうと思い、恩のある義母の為に国王は二人の結婚を許可したのだった。
「もちろん重々に承知しております。しかしながら、愛人を伴って婿入りしようとする間抜けに跡を継がせよなどと、陛下は我がベネディクト公爵家を乗っ取ろうとされているのですか?」
「間抜け……」
王族であるフレデリックを間抜け呼ばわりなど、その親を前にして前代未聞の発言である。
「い、いや、待て待て。愛人とは一体どういうことだ?フレデリックに恋人がいるなど私は知らなかった」
国王と第一王子は本当に知らなかったのか目を丸くして驚き、王妃は居心地が悪そうに公爵夫妻から視線を外した。それだけで王妃は、息子の素行を知っていたにも関わらず、ずっと放置していたのだと公爵夫妻は分かった。
「王宮の洗濯婦と一年ほど続いているそうですよ」
「せ、洗濯婦!?」
王宮の使用人は基本的に貴族や裕福な商人の家の出身であった。けれども洗濯婦は孤児や寡婦が担っていた。これは生計を立てることが難しい孤児や寡婦に職を与え、寮を用意してやるという一種の奉仕活動の形であった。
もちろん孤児は教会が運営する孤児院の出であるし、寡婦も元は騎士団員の妻で、夫が亡くなった後に実家に帰れなかった者を選んでいる。
「ロザリンドの下へは手紙一つ寄越さないというのに、花や装飾品を買い与えているようです」
最下層の洗濯婦が身の丈に合わない装飾品を持っていれば、盗まれるか格上の者に取り上げられるだろうに、全て無事であった。つまりそれは、フレデリック王子と洗濯婦の関係は下々の者達には周知されているということに他ならない。
いや、既に自分達以外の貴族も知っているのかもしれないと考えて、国王達の顔は一気に蒼褪めた。
そんな三人を蔑んだ目で見ながら、公爵は続ける。
「愛人にかまけて仕事を放り出し、遊び惚けるフレデリック殿下の無能さ、厚顔無恥な有り様に、我が公爵家はほとほと呆れております」
流石はロザリンドの父親だと分かる毒舌ぶりである。
「む、無能だと!?言うに事欠いて、王の子を貶めすなど貴様は何様のつもりだ!」
「そうです!我が弟は立派に公務に励んでいます!この一年間、フレデリックが議会に提出した新たな事業の立案書を公爵も見たはずです!」
フレデリックを信じる国王と第一王子は反論するが、王妃は口を開かない。
「その立案書を作成したのは誰なのでしょうね」
「は?」
「執務室を一年も訪れない者が、どうやって執務をするのか、陛下がたは御存じでしょうか?」
「フレデリックは執務室にいないのか?」
「それを私に聞くのですか?」
小馬鹿にしたように鼻で嗤う公爵を見て、まさかと思い第一王子はフレデリックの執務室へ走った。
周囲の者達があまりの慌てように驚くが、第一王子は振り返ることも無く一目散にフレデリックがいるであろう場所を目指す。
扉の前に立つと、中から数人の気配を感じ、大丈夫だと分かっているはずなのに第一王子はホッと安堵の息を吐いた。そして一緒にやって来た自分の従者に取り次ぐように言いつける。
第一王子の来訪を伝えると、部屋にいた者達が頭を下げる。その中で弟の姿を探すけれど、それより先に挨拶の声が掛かった。
「第一王子アーチボルト殿下におかれましては、御機嫌麗しく存じ上げます」
部屋にいる全員を代表して、品良く礼をしたのはフレデリックの婚約者であるロザリンドであった。
目上の者の訪問があった場合、その中で最も身分や地位が高い者が代表して挨拶することは当然のこと。第二王子の執務室であれば、必然的にフレデリック自らが挨拶するはずなのに弟の姿は見えないし、どうしてロザリンドがいて、彼女が挨拶するのかも分からなかった。
「……御機嫌よう、ベネディクト公爵令嬢。ところでフレデリックはどこにいるだろうか?」
けれども、ロザリンドは困ったように笑うだけで、王子が望む言葉を返してくれない。
そして代わるようにフレデリックの側近であるルドルフが答えた。
「恐らく洗濯場ではないかと」
何故、などと理由は考える間でもない。十中八九洗濯婦の下にいるのだろう。
他の側近達もロザリンドと同様に話を濁すように苦笑している。つまり彼女もフレデリックが愛人の下に通っていることを知っていたのだ。
蒼褪めた第一王子の後ろに、ようやく追いついた国王が立つ。そしてフレデリックの不在に気づき愕然とした。
一番奥にあるフレデリックのものらしき机も、まるで一年以上使われないまま飾られたまま、そのままのようである。
「いずれ外に出す子だからと甘やかし過ぎたようね」
公爵夫人の冷たい言葉が部屋に冷たい沈黙をもたらす中、ロザリンドは微笑みながら国王に頭を下げたのだった。
その仕草には何かしらの意味が込められているようだったが、具体的に何を意味しているのかも分からない上に、彼女の笑みに気づいたのはルドルフ一人だけであった。
結局、フレデリックとロザリンドの婚約は白紙となり、王子は出家させられることになった。
彼は不貞はしたものの、今の段階では致命的な悪事を働いたわけではない。
けれど己の立場を理解しない無知さや傲慢さを野放しておけば、いずれは王国を混乱させるからと出家させて俗世から切り離すことにしたのだった。
もし洗濯婦を妻にしたいからとロザリンドの命を狙ったら、ベネディクト公爵家の乗っ取りすることになる。
もし洗濯婦を王妃にしたいと国王になる為に、第一王子の命を狙うかもしれない。
そうなれば第二王子を処刑するだけでは済まされなくなってしまうだろう。
息子を甘やかし続けた父親の割に、比較的まともな判断だった。
無論、今更改心したところで全ては遅過ぎるのだけれど。
ちなみにフレデリックという後ろ盾のいなくなった洗濯婦は、彼からの贈り物は没収され、修道院で労働に従事することが決まっているとか。
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「お前に王位を与えてやりたかったのに、失敗してしまったわ」
久しぶりに訪れた離宮で、主であるお祖母様の言葉に私は思わず笑ってしまった。
「まぁ!お祖母様ったら……私はそんなものはいりませんわ。だって、王になってしまったら、こうしてゆっくりとお茶をする時間も無くなってしまいますもの」
私は笑い飛ばして見せたものの、お祖母様の表情は全く晴れない。
「本当ですよ?あんな傲慢で愚かな浮気者と肌を合わせるなんて、気持ちが悪いわ」
「フレデリックと肌を合わせなくたって、私がお前の近くに用意した者達の中から気に入った男を選べば良かったじゃない」
「あら、やっぱりお祖母様の差し金だったのね。せっかくフレデリック殿下と同じ金髪碧眼の素敵な男性達を用意してくれたのに、ごめんなさい」
先王の子供達の中で、最も血筋が良く、最も国王としての器を持っていたと言われるのが私の母だったらしい。けれども女性であるという一点のみのことで王位継承権を得ることは出来なかった。その後も法改正を進めようにも横槍が入った為に進んでいない。
それでも、お祖母様は本気で私に王位を与えるつもりだったのだ。
まず私とフレデリック殿下と結婚させて子供を作った後に、殿下を暗殺する。
更に第一王子や国王を排除して、私の子供を王位に就かせようとしていたのだ。
私は摂政として国王の役割を果たせば良いのだ。
万が一、子供が出来ない、または私が言ったようにフレデリック殿下と関係を持ちたくない場合は、身近にいる男を選べば良いと用意していたのだろう。
美しい薔薇を作り上げた庭師。
素晴らしい贈り物を献上してくれる商人。
私の好みを全て知り尽くしている執事。
幼い頃から仲の良い、殿下達とは別の従兄。
全員が金髪碧眼で、外見はフレデリック殿下の方が少し上だけれど、中身は比べ物にならない優秀な男性ばかり。
彼ら全てお祖母様が手を回したというのだから、計画の本気さは疑う余地も無い。
オマケに全員が私に恋をしていた。これは私の自惚れじゃなくて事実。
彼らの熱い視線に気づいても気づかぬフリをするは本当に大変だったわ。
「私、少し前まではお祖母様の思惑に乗ってみても良いかなと思っていましたの。でも……」
「でも?」
「子守がいないと生きていけない男なんて無理だなと思ったのよ」
私は謝りながらも、その笑顔を消すことなく堂々と伝えた。『子守』というキーワードに、お祖母様もクスリと笑いを零す。
この一年、私はフレデリック殿下の仕事を全てこなして来た。あの男は署名どころか判を押すことさえ私に押し付けて来たのだ。そんな人間と暮らしていくなど私には無理だった。
だから殿下の実力以上の仕事をして、両親に疑問を持たせたのだった。私の思惑通り、両親は殿下の素行調査を行い、今回の結果に至ったのだった。あまりに順調過ぎて怖いくらい。
「それにね。私、好きな殿方が出来たの。黒髪に瞳は紫色なの」
「……そりゃあ、計画は実行に移せそうにないわねぇ」
「もちろん、応援してくれるでしょう?王位をくれるより、ずっとずっと安全性が高くて簡単な話よ」
私の頭の中に、ルドルフの姿が浮かんでくる。
優しくて真面目な彼に恋をした。人望も高い彼となら、ベネディクト公爵家を盛り立てていけるだろう。
「今度は彼も一緒に連れてきて良いかしら?」
御覧になっていただき、ありがとうございます。