第九話 踏めば都に続く道かな
サングラスを掛けた、ギアノに似たSP風の男が二人、珍妙なポーズで固まったまま気絶しているギアノの側にきて足を止めると、彼の体を調べ始めた。ただし、脈をとったり心音を確かめたり瞳孔を確認したりはしない。彼らがした行為は、それぞれ自分のポケットから取り出した、小さなカードのようなものから伸びるコードの鋭く尖ったプラグを、一人はギアノの右の脇の下に、その対面にいるもう一人は左の脇の下に、服の上からぷすりと差し込み、カードに次々と表示されていくデータを読み取ることだけだった。
「生体反応あり。内的損傷及び外的損傷なし。身体的異常いっさい見当たらず。まったく問題なしだ。そっちは?」
「生命維持装置問題なし。それ以外の損傷は少々あるが、問題なし」
「問題なしって。損傷があるんだろ?」
「これらの損傷は全部、ヤツらと遭遇する前からのものだよ。ログにそう出てる」
「じゃあ、なんでギアノさんは気を失っているんだ?」
「さあな。本人に聞いてくれ」一人がそう言うと、左の脇の下に刺さっているコードを抜き、ギアノの左の耳に差し込み、カードを操作した。すると、ギアノの体がびくんと小さく震え、やがてゆっくりと体が動き始めると、ギアノは視界の両端にいる同僚の存在に気付いた。
「お前たち……」
「お目覚めのところ悪いんですけど、何があったんですか?」
「何がって……」意識を取り戻し、気を失う直前のことを思い出すと、思わずびくりと体を震わせた。その思い出したくない光景を払い除けるように、まだ横たわったまま「それより、あの二人はどうした!」と声を荒げた。
するともう一人が、指を一本、夜空に向けた。
「まさか、逃げられたのか!?」とギアノ。
「まあ、地上からは、という意味ではそうですね。ですが、ちゃんと捕捉していますよ。寸分違わぬ座標で。固有転送振動係数も計測しているし、逃げ場はありません。あとは時間の問題でしょう。ただし、ブレダ三三一八の相棒が相当の手練れでなければ、それか、やつらの背後に厄介な連中が控えていなければ、ですが。ま、その可能性はゼロでしょうけど」
「ゼロと断定するのはまだ早いかもしれないぞ」
ギアノは気を緩めまいとそう反論するが、その言葉に緊張感が伴っていない。実のところ、ギアノも同僚の意見には同意していた。これまでの行動があまりにもお粗末だという印象が強くあったからだ。
そう思ってしまうのも無理はない。事実、メルの背後には誰もいないし、光一が手練れのはずもなく、メルの一連の逃走劇はまるっきりの素人のものと断言できるほどの内容だった。
「とにかく、ここにはもう用はないわけだな」
「ギアノさんが目を覚ましたからには、ね」
「う……」
「で、何があったんです?」
子犬を投げつけられて失神しました、などとは恥ずかしすぎて言ない。ギアノは自分の失態を誤魔化そうと「そんな話はあとだ!」と言って上体を起こす。と、突然、小さな物体が彼の腹部に飛び乗ってきた。しかもあろうことか、彼の顔に思いっ切り自分の顔を近づけてきた。その物体とは、彼を失神させた張本人である子犬。
「こらこら。邪魔すんじゃない」そう言って片手で抱き上げたのは、言うまでもなく同僚。
そしてその同僚は、上体を起こしただけでいっこうに立ち上がる気配のないギアノに、「何してんです?」と声を掛ける。
「……あ、う、き気にすな」しばしの間を置いて我に返ったギアノは、動揺をあらわにそう言うが、その直後、再び完全に気を失うこととなった。抱き上げられた子犬が、じたばたしながらその腕の中から飛び出し、彼の顔面めがけて見事にダイブしてきたからだ。瞳をきらきらとさせて。
ギアノが再び失神してしまったことにしばらく気が付かなかった同僚たちは、「なんだ、ギアノさん。こいつにすっかり懐かれてしまったようですね」などと笑いながら呑気なことを言っていた。
――そんなやり取りから遡ること二十数分。場所は、地上。
駐車場から脱出してからものの数分で追っ手の実力行使に遭いながらも、二人はとにかく走った。光一はただただ逃げ切ることだけを考えて、一方メルは、もう逃げられないと言ったギアノの言葉は本当だったのかと悔しく思いながら。実のところ、彼女はあれをハッタリだと受け取っていた。だからこそ、駐車場から脱出できればどうにかなると信じて疑わず、脱出方法が見えた瞬間、笑みを浮かべていたのだ。
そんな彼らにとっての救いは、頭に刺さりながらも何の影響も出ていない光一の体と、当人がそのことにまったく無自覚だというところだろう。もし気付けば、さすがの光一も自身への身体的影響が心配になり、大いに動揺し、下手したらパニックになっていただろう。だから、というわけでは決してなく、ただ単に心配することではないと容易くばっさり切り捨てたからなのだが、早々に言及することを放棄したメルの判断は、結果的には正しいと言える。
蛇足として付け加えておくと、最終的に突き刺さった赤い光の矢は五本。うち一本は途中でぽとりと落ちていた。
そんな逃亡も、長くは続けられないことぐらい二人とも分かっていた。しかし、だからといって策があるわけではない。状況は悪化の一途を辿っていることは明白である。そんな絶望的状況とも言える中、状況を大きく変える出来事が発生した。
まずはじめに、角を曲がった光一はその矢先、すぐ先に転がっている空き缶に気付いた。数は一つ。ただし、彼の進路とは位置的に重なっていなかったので、あまり気に止まらなかった。ただなんとなく、「まさか、メルがこれを踏んで転んだりとかしないよな」と思っただけで。
光一が空き缶の横を駆けると、次はメル。光一に引っ張られながら角を曲がった彼女は、路上の空き缶には気付かないまま走る。
確率で言えば、彼女がその空き缶を踏み、さらに転ぶという展開は限りなく低い。それどころか、狙わないとそうはならないだろう。だが現実は、光一を笑うことを選んだ。見事にメルは踏んでしまったのだ。しかも踏んだ箇所が、缶の一番柔らかい中央ではなく、固い飲み口と最悪。無警戒で走っていた彼女の足は突如としてすくわれ、バランスを崩し、走っていた勢いが彼女の体を大きく前方に投げ出そうとする。
それでも転ぶまいと、必死に足を前に繰り出す。だが、もはや自力で立て直せるような状態ではなかった。数歩だけどうにか持ちこたえたが、「あっ!」と声を上げたときには、完全に死に体だった。
もしもここで、光一がすかさず彼女のピンチを華麗に救っていたならば、彼の株はそれなりに上がっていたことだろう。しかし、彼は人間である。メルがバランスを失ってから転倒するまでの一秒と少しという時間の中で、状況に気付いて振り返り、走っていた自分の足を止めるなり、倒れる彼女の体を力一杯引き寄せ、倒れかけた彼女の体をしっかりと受け止めるという動作をこなせるような身体能力は備わっていない。
しかも悲しいかな、バランスを失ったのはメルだけでなかった。光一は、倒れかけたメルにいきなり腕を引っ張られる格好で、がくんとバランスを崩してしまった。咄嗟に、何が起きたのかと振り返った光一が出来たのは、無惨に地面に転倒してゆくメルの姿と、その向こうでちらりと見えた少し凹んだ空き缶を、黒い双眸に映し出したことだけだった。当然、寒い冗談を「ええー」と批難するような気分で。
そして、光一は転んだ。互いに手を繋いでいたために、「きゃあっ!」と悲鳴を上げて倒れるメルに腕を引っ張られて。幸い、その際の光一は完全な死に体ではなかったので、強く尻を打つ程度でこと済ませることが出来た。しかしメルはそうはいかなかった。顔面着地は危ういところで免れていたが、その代償として右肘をアスファルトにしたたかに打ち付けてしまい、ズキズキと痛む右肘に、地面に伏したまま「いっ……たあ〜!」と目に涙を滲ませていた。
これにはさすがにいつまでも呆れた気持ちでいられないなと、光一は心配そうに声をかけた。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないでしょ!」間髪入れずに怒鳴り返すメル。
「まさか骨折とかしたんじゃ――」
「そんなドジじゃないわよっ!」
どうやら大事に至ってはないらしい。打ち付けた右肘を左手で抑えつけながら、その肘を優しく曲げ伸ばししているのが証拠だ。光一はそれを見て少しばかりほっとしたのだが、状況は再び窮地となっていた。
相手との距離はそう開いていないようだから、このタイムロスは致命的だろう。今度こそ本当に終わりだ。
「ここまでか」思わず、光一はぽつりと呟いた。すると、どうやらその独り言によりスイッチが入り奮起したようで、メルは「冗談じゃないわ!」と言って猛然と起き上がり、少々痛む両膝など無視して立ち上がった。その際、あまりに勢いをつけすぎたせいで僅かにバランスを崩し、数歩よろめいてしまった。そして最後の一歩が地面を踏みしめたとき、その足元でパキッという音がした。
何の音だろうと思ったのはメルも光一も同じ。メルはすかさず自分の左足を浮かせ、足元を見る。光一もその場所に目を向ける。そこにあったのは、彼女のポケットにしまわれていた透明なプラスチックカード。それは、公園でギアノをやり過ごした後にメルが取り出し、ちゃんと動作しなかったもの。どうやら転んだ際に飛び出してしまっていたようで、知らずに踏んづけてしまい、トドメとばかりに表面にヒビを入れてしまったという次第だ。
あまりのことに、メルは思わず「ああーーーーっ!」と声を張り上げた。
「うおいっ! そんな大声――」
「どうすんのよこれ!」光一に理不尽な責任転嫁をしつつ、腰を落としてそれを拾い上げようと手を伸ばす。
「どうって、俺のせいかよ! お前が勝手に転んでおっこどして踏んだんじゃないか!」
光一もまた、自分たちの置かれている状況を無視して、メルの言いがかりに対抗した。と、カードを取り上げていじり始めたメルの体が、淡いクリーム色の光にうっすらと被われた。この事態に、彼の憤怒の念はすべて驚きに取って替えられた。
「ど、どうしたんだ?!」
光一のその声に、カードを驚きに惚けたような表情で見つめるメルが、はっとした様子で顔を上げ、光一を見る。
「大丈夫かおい!」
だがメルは返事をせず、すぐに後ろを見た。その行動に光一はつられるように同じ方向に視線を移す。
ついに追いつかれたのか?
光一は咄嗟にそう考え、相手の姿を確認しようと目を細めるが、どのみちもう逃げられはしないだろうという思いと、淡い光に包まれたメルの体の心配から、すぐに視線を戻した。そして、一足早くこちらを見つめていたメルの、意を決したような真剣な表情に、思わず息を飲んでしまった。
確かにそのときの彼女は、その表情が指し示すとおりに一つの決断をしていた。
「アマノ」
「な、なんでしょう……」
「あんたも来なさい」メルはそう言うと、転んだ際に一度離れた光一の右手を握った。途端、光一の体がメルと同じようにぼんやりとした光に包まれた。まさか自分の身にも同様の現象が起こるとは想像していなかった光一は、当たり前だが「どわあっ!」などと激しく動揺する。しかし彼の驚嘆と困惑の入り交じった悲鳴は、途中でぷっつりと途絶えた。
彼が口をつぐんだからではない。その場から忽然といなくなってしまったからだ。言うまでもなく、メルの姿も。
こうして、この場に突然降って湧いた喧噪は、かくも短い時間で消え去った。残されたものといえば、落胆するSP風の男が一人と、無惨に転がる踏みつけられた空き缶ぐらいだった。