第七話 うちらは悪漢探偵と言っていた
疾走する二人の足音は、日の落ちた静かな住宅街では余計に反響し、増幅された音となって彼ら自身の耳に届いていた。そして追っ手の地面を蹴る足音もまたよく聞こえており、遠ざかる様子はない。自分たちの足音が相手に正確な居場所を伝えているのではと考えると、この場で靴を脱いでしまいたい衝動に光一は駆られた。だが、そのためには靴ひもを解かなければならないという手間がある。諸々のタイムロスを考えると、現時点ではメリットよりデメリットの方が遙かに大きいことは明白。
光一はそんな足音が忌々しく思えてならなかったが、少し前に比べればだいぶ静かになったと言えた。メルが状況を理解し、余計な口を叩かなくなるまでの間、光一は半ば怒鳴りながら説明しなければならなかったからだ。だがそれも、現状においては残念ながら焼け石に水に等しいと言わざるを得ない。
この状況を打破すべく、光一はどうするべきかを考える。
木を隠すなら森の中、足音を消すなら雑踏の中、というのはどうか?
だが、これはこれでたいへん危険でもある。なにぶん、メルの格好は黙っていても大いに人目を引く。これに他の要素が加われば加わるほど、歩く広告塔のようなものになっていくのは必至。事実、メルを背負って歩いていた光一は、すれ違った人たちのほとんどに視線を向けられていた。これが、二人して必死に走っているとなれば、人通りの多い場所に行ったが最後、二人が通り過ぎた後の周囲の人たちの視線が、まるで水上を航行する船が背後に間断なく作る波のように広がり、彼らの行き先を見事に指し示すことだろう。その結果、追っ手は難なく二人を追い続けることが出来るというわけだ。
そうなると決まっているわけではないが、やはりリスクの大きさを考えると躊躇してしまう。これ以外に何かないかと考える一方、最も深刻な問題に頭を悩ませていた。
いつまでもこのまま追い駆けっこをし続けるわけにはいかない。体力には必ず限界というものがある。その限界は人それぞれ。光一に関しては、まだしばらく走り続けられるが、恐らく、メルの体力はもう間もなく尽きるだろう。その証拠に、光一に引っ張られるようにして後陣を走っているメルは、まだがんばって走ってはいたが、そう長くは保たないことを彼女の表情と呼吸が告げている。
となると、とにかく早いうちに適当な場所で足を止めて身を潜め、SP男をやり過ごすしかない。光一は隠れるのに適していそうな場所はないかと周囲に目を配りながら走り続け、やがて適当な場所を見つけた。
そこはとあるマンションの一階にある薄暗い駐車スペース。住人用に設けられたそこには車が五台止まっており、隠れるには最適な場所に思えた。光一は迷うことなく、駐車場の中に飛び込み、一番奥に止めてある車の後ろに身を隠した。
しかしこれで安全になったというわけではない。そのことはメルも承知しているようで、荒い呼吸音で気付かれてしまわないように、急いで呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。その合間、光一は小声で「しばらく大人しくしてろよ」とメルに注意をした。
「それは、私の、台詞、でしょうが」
「……」
ラーメン屋の一件もあり、お前がラーメンの匂いに誘われたりせず、大人しくおんぶされていればこんなことにはならなかったこと、もう忘れたのか! と言い返したいところだったが、さすがに自重するだけの冷静さは持っていた。
二人はそれきり口を閉ざし、近付くギアノの足音に耳を澄ます。その音はすぐに間近に迫り、一気に緊張が高まった。光一は相手の動向を耳だけでなく、視覚も使って把握しようと、物音を立てないよう慎重に体をより低くし、車の下から向こう側を見る。通りの様子が全て見て取れるわけではないが、少なくとも追っ手の足が見えれば十分。こちらに向かってくるのか来ないのかさえ分かればいいのだ。
そして、ギアノがこのマンションの前までやってきた。僅かに見える通りの風景の中に、はっきりとその足が見えた。光一は、反射的に大きく目を見開いた。
ここで立ち止まるのか、それとも、このまま走り去ってくれるのか。
その分岐点は、本当に一瞬で過ぎ去った。
ギアノは立ち止まったりスピードを緩めたりせず、マンションの前をそのまま小走りで駆け抜けていった。それはもう、公園で息を潜めたときとは比較できないほど呆気なく。瞬く間に遠退いていく足音は、もしもの場合のこともちらりと考えていた光一には少々拍子抜けなものであったが、喜ばしい展開であることにはかわりない。
これでとりあえずの安全を得た二人は、安堵のため息をゆっくりと落とした。
「どうやら上手くいったみたいだな」ほっとしたその声は、意識して小さくしている。僅かな油断が何をもたらすか、つい先ほどラーメン屋で味わったばかりなだけに。
「そうね。って、何やってんの?」
「見りゃ分かるだろ。それより、メルもブーツ脱いで」
「なんでよ」光一の指示に、メルは怪訝な目で睨む。
「今のうちに反対方向に逃げるんだよ」
「それと靴を脱ぐことと、どういう関係があるのよ」
「足音でこっちの位置がバレたら、ここに隠れた意味がなくなるだろ」
光一はメルに手短に説明し、すぐに意味を理解してもらえた。だが、あくまでも理解しただけで、ブーツを脱ぐ素振りはない。それどころか、ひどく不機嫌な顔をしていた。
「早くしろよ」
「まさか、私に今から裸足で歩けって言うの?」
「正確に言えば、裸足で走る、だ」
「そんなこと、みっともなくて出来るわけないじゃない」
ここに至ってそのような台詞が出てくるとは思ってもみなかった光一は、思わず「は……? ンなコト言ってる場合か? っていうか、そもそもそんな格好してて、体裁も何もないだろ」と、半ば呆れた様子で答えた。
「私はね、あんたたちみたいな野蛮人とは違うの」
じゃあお前はなに人なんだよ。
その言葉が喉まで出掛かって、慌ててぐっと飲み込んだ。これ以上のやりとりは、自分たちの身を滅ぼすような気がしたからだ。実際、声が少しばかり大きくなっていたので、彼の判断は正しかった。文句を言い返さなかった光一は、その代わりに「たく……。逃げてんのは俺じゃなくてお前だろうが」と、メルに後頭部を向けて、コンクリートの壁にぼそりと呟いていた。
メルにブーツを脱がせることを諦めた光一は、さてこれからどうしようかと考え始めた。選択肢は大きく分けると二つ。今すぐここから立ち去るか、このままここで隠れ続けるか。現実問題として、ここに留まることは得策ではないだろう。というのも、SP男が、足音が消えた辺りを諦めることなくシラミ潰しに探し始めたら、やがてここにもやって来るだろうから。車の影に隠れてうまく誤魔化すことが出来ればいいが、ブーツを履いたままのメルの小さな足音が、コンクリートの壁にうるさいほど反響し、すぐにバレてしまうことは確実。
やはりここは、すぐに反対方向へと立ち去るべきである。メルがブーツを脱げば一番楽なのだが、そうはしてくれない。足音に構わず二人で走るという方法はあるが、やはり足音は消したい。となると、方法は一つ。メルをオンブして裸足の光一が走る。
「またかよ……」
逃走者本人よりも遙かに負担を背負わされている現実に、彼は心底げんなりした。しかし、ここまで付き合って、最後はやる気なくしてそのせいで捕まってしまってお終い、というのはあまりにも虚しすぎる。
光一はこんな自分の性格にほとほと呆れつつ、逃げる算段をメルに伝えるべく顔をぐるりと向けた。そこには、もちろんメルがいたが、加えて雑種らしき一匹の子犬がいた。しかもその子犬は、心地よさそうにメルに抱かれている。メルも楽しげに子犬の頭を撫でている。
首輪がついていないところを見ると野良の可能性が高いが、そんなことはどうでもよかった。メルの少女の顔も今はどうでもいい。とにかくこの光景に、どうにかしようとしている自分がとてつもなく愚か者に思えてならなかった。
「……何してんだ?」脱力した声で光一が呟いた。
「見れば分かるでしょ」
「いや、まあ、それはそうだけど……」
「まさかこの星にベグルがいるなんて。驚きねえ〜。ん〜、よしよし」
突っ込みたい箇所はいくつかあったが、それがいかに無駄な行為か分かりきっていた光一は、もはやため息混じりに「はあ……、なんかもう……。とにかく、とっととこっから移動しよう……」と独り言を言うしかなかった。
一刻も早く彼女を自宅まで連れて行って、こんな可哀想な自分を休ませてあげたい、そんな気持ちでどうにか気を取り直し、「メル、すぐにここを出るぞ」と声を掛ける。その判断には文句はないらしく、「裸足にはならないわよ」と言いつつも、同意の表情を浮かべている。
「それはもういいけど……、まさかそいつも連れてく気か?」
「ん?」
メルは光一が指さしている自分の胸元へと視線を落とす。それとは子犬のこと。その気などないメルは、すぐに否定の言葉を口にしようとした。だが、その言葉は一語も出ることなかった。
「私も連れて行ってもらいたいものだな」
その穏やかな声に、公園の茂みから見たギアノの顔が光一の脳裏に映し出された。ついさっき屋台でギアノの声を間近に聞いていたのだから、そこにいるのが誰か、間違えるはずもない。メルもまた、声の主が誰なのか考えるまでもなかった。
これまでか。
光一はこの事態に、男の足音を聞き逃していた自分を叱責しつつ緊張を更に高めるのではなく、逆に、それまであった緊張感が光一の体から霧散していく水蒸気のように消えていくのが感じられた。それどころか、変な充足感みたいなものさえ感じている。まるで、それまで必死になって遊んでいた子供が、終わりと共に、少しばかり名残惜しみつつも満足して現実に戻っていくように。
光一にとっては短い時間の逃走劇だったが、それもここで閉幕。これ以上の逃走は何ももたらさない。それどころか、喜ばしくない状況がもたらされる可能性が大きくなる。光一にとっても。
ゲーム終了のホイッスルがいま吹かれたのだ。
そしてメルは、このあとSPに連れられて自分のお屋敷に帰り、彼女の日常に戻るのだろう。彼女の逃走を助けた光一については、現時点ではどうなるか分からないが、ほんの少し逃走に手を貸しただけなのだから、そう酷いことにはならないだろうと考えていた。
ローマの休日よろしく、彼女がどこぞの国のお姫様だったとか、大富豪の一人娘とか、いわゆる要人だったら洒落で済まされないかも知れないが、映画やドラマや小説じゃあるまいし、そんなドラマチックな展開が転がっているはずない。だいたい、公園でメルと出会ってから今この瞬間までが十分にドラマチックなのだから、これ以上のドラマに発展したら、それこそ大スペクタクルだ。
「ジ・エンドみたいだな」
光一は、やれやれといった表情でメルの肩を軽く叩き、彼女の顔をちらりと見た。メルは唇を強く噛み、怒りと絶望に表情を歪ませていた。
そんなに家に帰るのが嫌なのだろうか。彼女の様子に少々気圧されながら光一がそう思ったとき、ギアノが再び二人に言葉を発した。
「ブレダ三三一八、ティア・メル・シーニ・グリファス。そんなところに隠れていても無駄だ。監視衛星が完全にお前を捕捉している。それに、もうすぐこの周辺は、我々管理局によって完全に包囲される。もうお前に逃げ場はないぞ。諦めて大人しく投降しろ。内部協力者か同じ密入国者か知らんが、そこにいるもう一人もだ」
そしてギアノは、相手の出方をうかがうように沈黙し、光一は混乱へと落ちた。
監視衛星? 管理局? 投降しろ? そこにいるもう一人って、俺のことだよな。内部協力者? 密入国者? 俺が? あの、なんなんですか? 何の話をしてるんですか?
だが、いくら彼なりに理解しようと考えたところで答えを得られるはずもなく、光一は困った笑みを浮かべて「あのお、メルさん? これはいったい」と救いを求めた。しかしメルはとても彼の質問に答えてくれそうな雰囲気ではなく、それどころか、声を掛けるなと言わんばかりのオーラがあり、光一としては彼女の無言の返事を受け入れざるを得なかった。
「無駄な抵抗は自分の刑期を伸ばすだけだぞ。まあ、一日でも長く臭い飯を食っていたいというのなら別だがな」
ギアノはそう言うと、再び二人の出方を待ち、沈黙が彼らの間に横たわる。
この状況に、光一はただただ混乱し、当惑し、メルの動向を見守り、メルにすべて任せることしかできなかった。ごく普通の生活を送ってきた少年がいきなりこのような場面に立たされれば、当然の反応だ。冷静に考え判断しろという方が無茶というもの。
やがて、光一にじっと見つめられていることすら気付いていないメルは、瞳を潤ませるほど心底悔しげに、ぼそりと呟いた。
「せっかく、ここまで来たのに……。あと少しだったのに……」
観念したメルは、子犬を抱いたままゆっくりとその場に立ち上がった。続いて、彼女を真似るように光一も立ち上がる。
「ようし。それでいい。二人ともそこから出ろ。それと、大怪我したくなかったら、妙な真似をしようとは思わんことだ」
二人は指示されたとおり、薄暗い車の後ろから出て、二人とギアノを分け隔てる遮蔽物のない、ギアノから二人の姿がしっかりと見える場所まで、といってもたかだか二メートルほどだが、慎重に移動した。その僅かな間にギアノの様子が変わったことを、メルは抜け目なく感じ取っていた。表情にはまったく変化はない。しかし微妙な動きがそれを教えている。しかも、変化を裏付けるように、それまで余裕さえ感じられていた彼の声に違和感のある緊張が感じられた。
「何のつもりだ。妙な真似はするなと言ったはずだぞ」
何のつもりもないし、妙な真似なんて何もしていないっスよと訴えかけるような視線を送る光一とは対照的に、メルは事の真相を推し量ろうと目を細めて見つめていた。このメルの態度に、まだ従うつもりはないのだと判断したギアノは、「相方は違うようだが、お前さんは痛い思いをしたいようだな」と、重々しく最終警告をする。
それでもメルは、服従の態度をすぐに示そうとはしなかった。