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第六話 月下亭人情物語、とか。

 飾り気のまったくない透明なグラスになみなみと注がれた日本酒を、SP男は喉を鳴らしながら一気に飲み干すと、アルコールの匂いを多分に含んだ息をゆっくりと吐き出し、「やはり美味い」と感慨深げに感想を述べた。大抵の客は、ラーメンを注文しさっさと食べてさっさと立ち去るか、酒とつまみでしばらく居座るかのどちらか。その慣例にのっとり、外したサングラスの横にカラになったグラスがコトンとテーブルに置かれると、店主は「で、つまみは?」と尋ねた。

 SP男は僅かに逡巡した後、メニューに目を配ることなく「おつまみではないが、月下亭特製黒ゴマ焼き豚ラーメンを頼む」と答えた。すると店主は、「こいつは驚いた」と思わず目を丸くした。

「そいつを知ってるとはね」

「私はあのラーメンのファンでね。是非とももう一度食べたいと思っていた」

「それじゃあお客さん、十五年以上前に来てるんだね。うちに」

「十七年前に。一度だけだが」

「おうおう、嬉しいねえ。十七年も経ってるのに覚えてくれていて、しかもそう思っていてくれてたなんてよ」

「私も嬉しい。またここに来られて。それにしても、年取ったな。以前は白髪などなかったのに、今は真っ白だ」それまであまり感情を表に出していなかった男が、口元を少し緩めて冗談交じりに言った。

「なにおう、こっちは老けても、こっちはまだまだ」店主は白くなった自分の髪を指さしてから、にかっと笑って拳で胸を軽くどんと叩く。最初は怪訝な様子でSP男を見ていた店主――がたいの良い大柄の男がサングラスを掛けてのれんをくぐってくれば、この店主でなくとも、思うところや感じるところがあって当然だろう――だったが、この僅かなやり取りですっかり気に入ったらしく、満面の笑みを浮かべていた。

 だがその笑顔は、すぐに申し訳なさそうな苦笑混じりの顔に取って代わり、「それで、だな。申し訳ないんだが、あのラーメンはもう作ってないんだ」と説明した。

「何故?」

「まあ、色々とあってな」

「それはとても残念だ」

「悪いねえ。そのかわりっちゃあなんだが、俺のお薦めを食べてみてくれ。あれとはだいぶ味は違うけど、こいつも美味いぞ?」それは、付き合いの長い常連さんにしか出さない、メニューに載っていないスペシャルラーメン。

「ではそれを頂こう。あなたが勧めてくれるものとあっては、とても楽しみだ」

「ちょいと待ってな。出来上がるまで、こいつをつまんでいてくれ」

 店主はそう言って、ごそごそとタッパを一つ取り出し、その中身を箸でつまみ上げ小皿によそう。

「それは?」

「見てのとおりイカの塩辛に決まってるだろ。ただし、月下亭特製のな」

「ほう。このようなものは今まで食したことないな」

 SP男は物珍しげに、目の前に差し出された特製イカの塩辛を眺める。その様子に、コップに二杯目となる日本酒を注ごうとしていた店主が「おっと、ついつい常連相手のノリになっちまった」と苦笑した。

「あんた、日本人じゃないだろ?」

「そのとおり。私はメキシコ人だ」

「やっぱりな」店主はうんうんと深く頷く。SP男の言葉使いやアクセントにほんの少しでも注意を向ければ、彼が日本人でないと考えるのは当然の発想である。

「とりあえず一口食べてみな。もし口に合わないようだったら、他の出すから」

 男は塩辛を慎重に箸でつまみ、口の中に運ぶ。途端に、「おお、これは」と驚いた表情でじっくりと堪能し始めた。どうやら男の口に合ったようで、店主に「気に入ったかい?」と尋ねられると、とても、と答えて早々に二口目へと取りかかった。

「そいつは良かった」店主はさらに上機嫌になり、SP男とお喋りをしながらスペシャルラーメンを作り始めた。

 このような二人のやり取りのすぐ側で、一人の少年が激しく心臓を打ち鳴らし、動揺と怒りに染まる中、なにこの人情物語のワンシーンみたいな空気、と心の中でしっかり突っ込みをいれていた。少年とは、むろん天野光一である。

 SP男の登場に気付いたとき、光一は思わず目を丸くして男を凝視してしまっていた。すると、そんな光一に店主が「どうした兄ちゃん」と声を掛けてきた。そしてSP男はその言葉に釣られるように、光一へと目を向けた。もしこの場面で光一が何もせずにいれば、何も知らずに隣でラーメンを食べているメルに気付かれてしまうことは必至。慌てて、SP男から少しでもメルを隠せるようにと少々変な姿勢で立ち上がり、「あ、あの、今何時ですか!」とわざとらしく尋ねた。男はごく自然な様子で自分の腕時計を見て、光一に時間を告げるとすぐ視線を前に戻した。対照的に店主は怪訝な様子でいたが、結局よけいな事は何も言わず仕事に戻った。

 この場はどうやらどうにかなったらしい。その証拠に、SP男は店主と話し込み始めており、光一に注意を向ける素振りがない。だが、いつ何時、男がひょいとこちらに目を向けて、メルに気付くか分からない。またそれ以上に、男の存在にまったく気付いていないメルの迂闊な行動を許してしまえば一巻の終わり。ならば、とりあえずメルに男の存在を教えて、と思うも、彼女に伝えた瞬間大仰に驚かれたり、こちらの行動に店主が堪らず余計なことを言ってきたらと思うと、その一歩が出ない。彼らが危機的状況にあることは変わりないわけだ。

 結局光一は、隣で呑気に嬉々としてラーメンを食べているメルを憎たらしく思いつつ、自分一人でどうにかこの難局を切り抜けるべく奮闘することとなった。SP男の視界からメルを隠すように、しかも出来るだけ店主から不自然に見えないように、メルの動きに合わせて動き、メルが何か言おうとしたらすかさず声をかぶせるなどして、SP男に聞かれないようにしたり。それはまさに、神経と寿命をすり減らす孤独な戦いであった。隣の呑気な友軍が味方として奮戦してくれれば、状況はもっと好転しているのだが。

 というのが、今に至る過程と現状である。もしこの状況が無限地獄と思ってしまうほど長く続くものであれば、早々に我慢の限界を迎え、後先考えず走って逃げ出していたところだろう。パニックに陥り無計画にその場から走り出す逃亡者のように。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。光一には唯一の救いが残されていた。

 二人ともラーメンを食べ終えるのにそう時間はかからないということ。さらに、SP男の注意は店主との会話と豪勢なラーメンによって削がれているようであるということ。

 そして、脱出の時が訪れた。一足先に食べ終えた、というよりも終わらせた光一は、スープと水でタイミングを微調整し、「おじさん、二人分でいくら?」とポケットから財布を取り出す。隣の男は、光一に注意を向けることなくラーメンを食べている。

「一二五〇円」

 光一が千円札一枚と一〇〇円玉三枚を店主に手渡したところで、メルがスープをきれいに飲み干し、「ぷはあ〜っ」と盛大に喉を鳴らした。この展開を予想の一つに上げていた光一は、最初の「ぷ」の音を耳にした瞬間、「いやあ〜美味かった〜」と自分の声をかぶせる。ここまで凌いで最後の最後でしくじったらそれこそ間抜けだ。

 今回も光一の努力が報われて、隣の男に気付かれなかったようで、気に止めた様子は何もなく、箸と口を動かし続けている。あとは、慌てず騒がずごく自然にこの場から立ち去ることだけ。光一は店主からお釣りを受け取り、「さ、行くぞ」とメルに声を掛け、不服そうに返ってくる声を隠し続けるべくひたすら言葉を垂れ流し続けながら、席を立たせる。そして彼女の両肩に手を置き、真っ直ぐ屋台ののれんをくぐらせ、無事、脱出する事に成功した。

 そのまま一番近い曲がり角で道を折れ、屋台からは見えない場所に退避することができた光一は、内心でホッと胸を撫で下ろし、緊張の汗と湯気による汗の入り交じったものを拭う。その手に握られているお釣りの五〇円玉を思い出し手を広げると、どれだけ強くそれを握りしめていたのかを真っ赤な手の平が見せつけ、思わず苦笑してしまった。

 ここに至れば、メルに男の存在を知らせても大きな問題が発生することはないだろう。光一は、そこにいるはずのメルに声を掛けようとした。だがその姿はなく、まさかと思ったとき、「忘れ物でもしたのかい?」という店主の声に続いて、彼女の「お土産をくれ」という声が聞こえてきた。

「土産って……。お嬢さん、うち、屋台だよ?」

「だから?」

 ああ、俺はなんて間抜けなんだ……。

 まさに最後の最後に油断してしまった光一は自嘲気味に笑い、ラーメン屋へと駆け出した。

 メルに驚かされたのは光一だけではない。SP男もやはり驚くこととなった。ただし、彼女の声にすぐに反応したわけではない。メルと店主とのやりとりに何となく横目でちらりと視線を向けたことによって、彼女の存在にようやく気付いたのだ。完璧に警戒を解いていた男は、目の前にいる不満顔のメルに、思わず口の中のものをゴックンと一息で飲み込んでしまった。途端、彼の喉に鋭利な刃物で細かく切り裂かれていくような痛みが走る。男は叫び声を上げそうな自分を必死に抑え、全身でその激痛に耐えなければならなくなった。その時間は僅か数秒と短いものだったが、メルをその場で捕まえるには長すぎた。彼女の腕を掴もうと動き出したときには、忽然と消えたあとだった。

 男は内心で舌打ちをしながら席を立ち、メルを捜す。時すでに遅く彼女の姿は見当たらなかったが、逃げた方向はすぐに分かった。いくら集音機の調子が悪くても、相手が静かな夜道で「いきなり何するのよ!」「あいつがいたんだよ!」「あいつって誰よ!」「お前を捜していたヤツに決まってるだろ!」などと怒鳴り合いながら逃げていれば、聾でない限り分からない方がおかしいというものだ。男は「なんで今なんだ」と文句を言うと、食べかけのスペシャルラーメンを名残惜しそうに一瞥し、「急用が出来た」と千円札をテーブルに置いて店から飛び出していった。

 何が起きたのかまったく理解できない店主は、しばし目を丸くして呆然としていた。

 駆け出した男は、ポケットから銀色のスティックを取り出し、表示させたプレートを数回叩く。

「ギノアだ。ブレダ三三一八とその仲間らしき一人を捕捉。今から位置を転送する。有効範囲は現時点でレベル・〇一〇〇〇一AC。シフト・七四三で対応してくれ」

「こちらキボック。了解した。無理はしなさんな」

「誰に向かって言ってんだ、若造が」

「血気盛んな年寄りにだよ」

 通信が終わると、SP男ことギアノはスティックをポケットに戻し、「くそっ、もう少し走りやすく作れないのか」と文句を垂らしながら二人を追った。


 見知らぬ女の子をオンブしていた光一の姿に、依然として小柴美代の頭の中に疑問符ばかりが降りそそぎ、感情の落とし所を見出せずにふらふらと歩いていた。幸いなことに足は無意識のうちに自宅に向けられており、電柱などにぶつかることもなく、気がついたら見知らぬ場所にいたり、特大のたんこぶをこしらえていた、などという事態は免れそうである。

 彼女が思い出したように歩き出したのはほんの少し前。それまで道の真ん中でぽつんと佇み、時折、彼女の横を会社帰りのサラリーマンなどが通り過ぎていったが誰も気に留めず、彼女も通り過ぎる人々を認識することは一度もなかった。

 そんな美代の足を動かしたものは、そのとき意識の最下層にあった、家に帰る、というすっかり忘れ去れていた目的がひょっこりと顔を出し、無意識の中で実行されたから。そうして彼女は、夢遊病者か痴呆による徘徊者のような様相で自宅へと歩いていたわけだが、次なる追い打ちが彼女を再び襲った。その襲撃者は、またしても光一だった。

 それまで、他人が視界をかすめても認識することの出来なかった彼女の瞳が、十メートルほど先の十字路を、必死の形相で光一が走って横切っていくのを捉え、その情報を瞬時に脳へと伝えた。しかも、あっという間に視界から消えてしまった彼が、先ほど背負っていた女の子の手を引っ張るようにして走っていたことも鮮明に伝えていた。

「は?」

 コンマ何秒という短い時間の中で見えたその光景に、美代の思考と足がまたもや瞬間的に硬直し、頭を抱えた。

 だから、何がどうなってんの……?

 そしてさらに、間をおいて大柄な背広姿の男が走って横切っていく姿を捉えると、脳がこれ以上考えることを拒否し始めていた。

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