第五話 南南西に進路を取れ
学校帰りに寄り道をしていた小柴美代は、小中と同じ学校で、特に仲の良かった久利橋貴子と斉木千理にばったり会い、三人で久々の再会を祝したのち、カラオケボックスで一時間半たっぷり歌った。一人の持ち時間を三十分として考えると、たっぷり歌える時間とは言えないだろうが、ほとんどの曲を三人で合唱しながら歌い、実質みな歌い通しのようなものだったので、十分に充実したカラオケだった。
店を出ると空はすっかり暗くなっていた。これ以上寄り道できる時間ではなく、仕方ないかと電車に乗る。帰宅時間とあって車内は相応に混んでおり、それぞれ携帯電話やポータブルゲーム機を忙しなくいじったり、イヤホンやすっぽりと耳を覆い隠す大きなヘッドホンで音楽を聴いたり、雑誌や漫画本、小説などを読んだり、静かに体を休めていたりしている。そして三人は、声を控えめにしてお喋りをしていた。
「で? 相変わらず天野くんを血まみれにしてんの?」話題が一段落して、久利橋貴子が楽しそうに切り出した。乗り合わせた乗客の数人は、この台詞に美代たちをちらりと盗み見していたのだが、無理もない。
「私が凶暴な女みたいな言い方するな」
「でも血まみれにしてたじゃん。しかも容赦なく」
「だからその言い方はやめい! 小学生同士でちょっと喧嘩して、相手をちょっと流血させちゃっただけの、他愛もない昔の出来事でしょうが」
「あれを“ちょっと流血”とは誰も言わないから」
「う……。でもあれは、あいつが悪いんだからね。女の子相手に本気出してさ。こっちは武器使って全力で対抗するしかないじゃん」
「天野なりに手加減してたように見えたけど?」
実のところ、それは美代も認めるところなのだが、口に出して認めてしまったら自分の方が悪いと認めることになるので、当然「女の子相手に手を挙げるあいつが悪い!」と反論。
「毎度先に口と手を出してたあんたの責任はどこ行った」
「あの程度で怒るあいつが悪いっ! だいたい、器が小さいすぎるのよ。男のくせに」
十歳の男の子に器うんぬんと批判するのは無情な話であろう。それは周囲の傍聴者たちも同意見だったようだが、それはともかくとして、並んで吊革につかまっていた斉木千理が「ちょっと美代、声が大きいよ」と、美代の声と周囲の視線に耐えかねて注意した。二人は自分たちに向けられている敵対的な視線や興味本位な視線に気付き、バツが悪そうに肩をすぼめ、千理が会話を繋いだ。
「まったく……。それで、天野くんとはどうなの? まだ犬猿の仲なの?」
「ほとんど口きいてないわよ」
「お互いもう高校生なんだから、いい加減仲直りしたら?」
「あいつが土下座してきたら、考えてやってもいいけど」
美代の答えに千理はやれやれとため息をつき、貴子は「つまんないの」と鼻を鳴らす。
「何がつまんないのよ」
「いやあ〜、高校に入って超展開! 大人になった二人は仇敵から恋人同士に! みたいな大どんでん返しがあったら、面白いのになあ〜って」
「あるわけないでしょ! そンな展開!」
力を入れて囁き合う二人に、千理は「こりゃ駄目みたいね……」ともう一度ため息をもらしていた。
電車が地元の駅に着くと、駅前で美代は二人と別れ、まっすぐ自宅に向かう。その途中、三つの言葉が美代の頭に何度も何度も訪れてきた。
まだ犬猿の仲なの?
いい加減仲直りしたら?
仇敵から恋人同士に!
その度に、彼女の心の中にモヤモヤしたものが漂い、それが無性に腹立たしくなっていた。確かに周囲から犬猿の仲と認められるほど喧嘩ばかりしていた。仲直りしたらという周囲の声に耳を塞いできた。そんな二人が恋人同士になるなど有り得ない。となれば、美代にとっては取るに足らない、何とも思わない言葉のはずであるのだが、そうならないところに苛立ちがあったわけだ。どうして自分は冷静に鼻で笑い飛ばせずにいるのかと。
そして、そんな心情の美代を狙ったとしか思えないぐらいタイミング良く、十数メートル先の十字路を横切る光一の姿が彼女の瞳に映った。しかも、光一の背中には見知らぬ女の子がいる。
へ? なに……? これ……。
目の前の光景が、理解の及ぶ範囲からあまりに逸脱していたため、美代の頭の中に真っ白い幕が落ち、その上に疑問符がぼた雪のように積もっていく。光一は美代に気付くことなく通り過ぎ、美代は大きな声で光一を呼び止めることなく、思わず止まってしまった彼女の足は動くことを忘れ、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。
周囲を警戒しながら公園を出て十数分、途中、美代の前を通り過ぎ、そろそろ全行程の半分という地点を光一はメルをオンブして歩いていた。
「まだなの?」光一の背中で、メルが不機嫌そうにぼそりと尋ねる。対して光一も「もう少しだ」と不機嫌そうにぼそりと答える。これと同じやり取りを、二人はかれこれ六回ほど繰り返していた。
「さっきからそれしか言わないじゃない」
「ひっきりなしに言われりゃ、こう答えるしかないだろ」
メルがこうも頻繁に尋ねてくるのは、光一の家に着けばすぐに空腹を解消できるという喜びが先に立っていたからで、それを証拠付けるように、彼女の腹から何度も悲鳴が聞こえている。しかもその間隔は、一度鳴る毎に確実に短くなっている。
ひょっとしなくても、こいつの空腹の限界を迎えつつあるということか?
光一は背中に感じる嫌な予感を無視して自分の家を目指す。そしてその嫌な予感は、ほどなく現実のものになろうと動き始める。突然メルが、曲がり角で「こっちの道よ」と光一に指示を出してから。
「まさか、近くに?」
「ええ、そうよ」
確信に満ちた声に、光一は緊張を強めた。
公園からここまで、追っ手への警戒はメルに一任していた。今のところ彼女が相手の気配を察知したことはなく、公園から離れるに従って徐々に不安が解消されていったのだが、やはり何事もなくというわけにはいかないようだった。
嫌な予感はこういうことだったのかと、光一は当初の予感とは別の形を成した現状に、メルには気取られないように舌打ちをし、彼女の指示するままに足を進める。自宅からどんどん遠ざかっていくような気がしてならなかったが、今はそうも言っていられない。あの男に見つかってしまった場合、彼女を連れて逃げ切る自信がないのだから。逃走ルートがもしも山道だったら、あの男よりも早く移動する自信はあるのだが。しかもメルを背負ったままで。中学からの山登りと山岳部の練習は伊達じゃない。
そうして数分、まるで、背中に張り付いている追っ手をどうにかして振り切ろうとするように、住宅街の中をうねうねと急ぎ足で歩き回っていた。その逃走経路と、メルの指示する声に徐々に力が込められていくことに、きっとあの男はすぐ側にいるに違いないと思った光一は、こちらの位置を知らせないように口にチャックをする。
この状況に、暗くなった山道で猪に追われている自分の姿をなんとなく頭の中で想像していた。しかもその猪は執念深く、どこまで逃げても諦めてくれそうにない。
持久戦の様相を呈してきたような展開に、なんで自分がこんな大変な思いをしなけりゃならないんだという腹立たしさから、光一の気力が徐々に削られていく。一気に気力が枯渇しなかったのは、こうなってしまった以上文句を言っても仕方がないという諦めの気持ちがあったから。そして何よりも、やっぱりメルを見捨てることは出来ないという気持ちがあったから。
何故、見捨てられない?
光一はふと、そんな疑問を自分に投げかけた。だがその答えは真っ白な紙でしか返ってこない。そこで、出会ってから今に至るまでの記憶を辿ってみた。真っ先に映し出されたもの、それは、物欲しそうにダラダラとヨダレを垂らしているメルの顔。
「ぶっ」脳裏に蘇る、ファーストコンタクト時のメルの表情に、光一は思わず吹き出してしまった。
「どうかした?」
「いやいや、何でもないから」
「ならいいけど。あともう少しなんだから、しっかりしてなさいよね」
光一はまた笑い出しそうな自分を抑えようと唾をごっくんと飲み込み、どうにか気持ちを落ち着かせると、少し遅れて、あともう少しという言葉に希望の光が宿った。そして再び理由を探す作業を再開する。
思い出されるメルの顔は、“可愛い”とか“美人”とか称賛するようなものはほんの僅かで、“哀れ”とか“可哀想”とか同情を誘うようなものばかり。そこで光一は、笑い出しそうな声を噛み殺しながらこう結論づけた。
つまり、こいつが“放っておけないヤツ”だからか。
そして光一がこの回答に満足したとき、メルが一際大きな声で言った。
「止まって!」
いきなり止まれと言われても急には止まれない。数メートルほど徐行して光一の足は止まった。
「どうした?」何が起きたのか、何が起きようとしているのか知る由もなかった光一は、緊張した様子で尋ねた。メルはその質問に答えずに、光一の背中から下りようとする。彼女が何をしようとしているのか分からないが、それを拒む理由は今の彼にはない。光一はメルを下ろし、振り返って彼女を見守る。
地面に下りたメルは、すぐに光一に背を向けると歩き出した。
何処に行くつもりだ――?
そう思いながら眺める彼女の背中の隣に、屋台のラーメン屋が見える。そして数メートル先の屋台の前で足を止めると、おもむろにのれんをくぐった。
あそこに何かあるっていうのか――?
SP男に対する警戒心が強すぎたために、光一は彼女の行動に疑念を抱くことなく、事態を静観している。それが如何に愚かなことか思い知らされたのは、しばらく経ってから、屋台から「美味しーっ!」というメルの歓喜の声が聞こえたときだった。
「何やってんの? あいつ」
光一は状況を確認すべく、堪らなく美味しそうな匂いを放つ屋台に近付き、白文字で「らーめん月下亭」と太く書かれた赤地ののれんをくぐる。屋台の店主は光一を「いらっしゃい」と迎え入れ、光一のすぐ横では、メルがフォークを使って湯気立つラーメンを、猫舌らしくちまちまと美味しそうに食べていた。しかも、とても幸せそうに。
この光景に光一は、最初に感じた嫌な予感を沸々と思い出しながら、「ここに何かあるのか?」と怪訝な顔で問い質す。
「ん? そんなところで何やってるの、アマノ」
「……なんか腹の立つリアクションだな。つうか、何でラーメン食べてんだよ」
「お腹ペコペコだからに決まってるでしょ。アマノも突っ立ってないで食べれば? すうっごく美味しいよ」
「そういうことじゃなくて――」と言い掛けたところで、六十歳ぐらいの白髪の店主が「お兄さんはどうするの? 食べてかないの?」と聞いてきた。表情と声に怒っている様子はないが、早くどっちかに決めろというプレッシャーはヒシヒシと感じられる。やむなく、光一はそのままメルの隣の丸椅子に腰を下ろし、味噌ラーメンを注文した。これで会話を再開させられる光一は、出されたお水を一口飲み、依然として美味しそうに麺をすすっているメルに「あいつから逃れるために、ここまで来たんだろ?」と問い質す。
「はあ?」
「はあ?って……、だって、そのためにあっち行けこっち行けって俺に指示してたんだろが。まさか、ここ目指してましたあ、なんて笑えない冗談、言わないよな……?」
「すうっごくいい匂いがしたから、もう我慢できなくなっちゃって。それで来たんだけど、それがどうかしたの?」
「……」
こうもあっけらかんと言われると怒りを通り越し、笑いをも通り越し、虚しさだけが心の中を吹き抜ける。力なく項垂れ、そのまま頭をごんと屋台のテーブルに打ち付けた光一は、ああ、これと同じようなことする人たち、うちにいたなあ……と両親のにこやかな顔が思い浮かんでくると、諦めの境地で寒々と涙を浮かべていた。
追っ手から逃げていると思ったら、ラーメン屋へと走らされていたという悲しい事実は、それなりのダメージを光一に与えていた。だが、幼少の頃から色々な意味で素晴らしい両親に日々鍛えられてきた光一にとっては、いつまでも腹を立るほどのものでもない。味噌ラーメンが目の前に置かれた時には完全に立ち直っていた。その証拠に、光一のラーメンを物欲しそうに見つめるメルに、光一はわざわざ店主に小皿を頼んで、メルにお裾分けしていた。
この立ち直りの早さは、自分自身のことながら喜ぶべきか悲しむべきか、未だ微妙なところだった。
こうして二人はラーメンをすすり、空っぽだった胃袋をひとまず満足させていった。そして二人とも半分ほど食べたところで、客が一人、のれんをくぐってきた。その客は席を一つ空けて光一の隣に座った。椅子一つと言っても、すぐ隣に座っているのも同然だが。
店主は「らっしゃい」と客を迎えると、少し驚いたような顔をした。次いで思案げな顔つきで「何にしやす」と注文を聞く。その様子は、店主の前でラーメンを食べている光一の視界に自然と映り、どんな客が来たというのだろうと光一は少し興味を持った。そして何の気なしに、その客をちらりと盗み見し、思わず口の中のものを全て吹き出しそうになった。
自分の耳をしきりに触りながら渋みのある低い声で「ひとまず、冷や」と答えたその客は、公園の茂みから見たSP男だった。