第四話 災難を振り払えない現実
SP男に最後の一押しをしたのは、茂みから顔を覗かせた子猫だった。
光一たちへとまっすぐ向けられていた男の顔が少しずれた場所へと動き、どうしたのだろうと光一は目を細めるのとほぼ同時に、「みゃー」という本物の猫の鳴き声が耳に届いた。
ナイスアシスト!
光一は心の中で歓声を上げる。しかし、これで万事うまくいったと言えるはずもない。彼の胸の上で息を殺している女の子を追っているのであれば、二人がこうして身を隠すよりも先に、彼女の声はSP男の耳に届いているはずだし、この周辺を隈無く捜索するはずだ。それに、こんなベタベタなギャグが現実世界でまかり通るはずがない。まかり通ってはいけないことだ。ということで、光一の緊張は依然としてあった。無論、彼女の中にも。
だがSP男は、念入りに捜索する素振りを何一つ見せることなく、それどころか、夜の散歩の途中とでも言うように、ここへ近付いてきたときと全く同じリズムで足音を鳴らしながら、コツコツと歩き去っていった。
本来ならば素直に喜ぶべきことだろう。だが、これを受け入れたら現実世界における何か大切なものを失うような気がしてならない光一は、警戒心を解こうとはしない。しかもそれだけではなく、引いた潮が大波となって帰ってきたかのように、頭の中で邪念が暴れ始めていた。言うまでもなく、その原因は彼女のぬくもりや香りなど。
こうして、男が立ち去ったあともしばらく二人はそのまま重なり合っていた。光一は頭の中で邪念に負けまいと奮戦しながら、女の子は耳と神経を集中させながら。それがどれほどの時間だったのか光一に分かるはずもなく、気が付いたら女の子が光一から離れ、すぐ側でぺたんと座り込んでいたという有様だった。
「助かったみたいね」
安堵した表情で独り言のように女の子が呟くと、光一はコホンと一つ咳をし、平静を装おうと努めて「そう、みたいですね」と相槌を打つ。
「どうかしたの?」
「え、いや、なんでも……」
あからさまに動揺している光一の様子に、彼女はしばし怪訝な顔を向けていたが、「まあいいか」とすぐに興味を無くしたようで、再び安堵の表情へ戻る。と同時に、もはや聞き慣れてしまった音が。
「ぎゅるるるるるっ!」
これで何度目だろうか。思わず光一は、邪念と戦っていた自分をすっかり忘れ、必死に声を噛み殺しながら笑ってしまった。
「わ、笑うな!」
「そう言われても」そう答えると、ハタと重要なことを思い出し、「っていうか、大声出しちゃマズイんじゃない?」と声を潜めた。彼女がこうして起き上って声を出しているということは、危険は去ったと思っても良いのだろうが、やはり心配ではある。しかしそれは余計な心配だったようで、不機嫌に顔をしかめている女の子は「平気よっ。ヤツの気配は完全に消えてる」と言い切った。
こうきっぱりと言われてしまえば、光一としては信じるしかない。
「それより、私を笑うなんて失礼――きゅううううっ」
「それすごいよ、ほんと」
「だから笑うな!」
顔を真っ赤にして怒る女の子に、これ以上笑い続けるのはよろしくないかなと思った光一は、ごめんごめんと言って、深々と深呼吸をして気持ちを落ち着け、これで場の空気も一段落した。だが、全ての問題が片付いたわけではない。それどころか、彼女にとって大問題が発生していた。それに気付いたのは、怒りが空腹に負け、ようやく冷静さを取り戻してからのこと。
「それで、これからどうすんの?」
「そうね……、一度船に戻った方がいいみたいね」
「船?」光一は小首を傾げつつ、腰に付いているケースから何やら取り出した彼女を眺める。彼女が今手にしているのは、キャッシュカードほどの大きさの透明なプラスチックカード。カードの中央部には方眼状に線が引かれており、その升目の一つに人差し指を当てると、触れた部分が赤く光った。続けて、彼女は軽快なリズムで電卓を叩くようにカードに触れていく。その様子を光一は不思議そうに眺めながら、船に戻るという言葉の意味を考えてみた。
やっぱり彼女はどこぞのご令嬢で、“るうなこる”というペンネーム……、ハンドルネームだっけ? とにかくそのコスプレ仲間と会うべく家出を敢行。追っ手のSPから逃げつつここまで来て、このコスプレ衣装を着てさあご対面!と思いきや、その知り合いとは会えず、腹も空いて困っている。家に帰りたくない彼女は、隠れ家として使っている船に一時帰ることにした、というのはどう?
うん。これなら無理はない。誰が何と言おうと問題なし。隠れ家が船で何が悪い。
ほんの僅かな時間の中で自分をこう納得させると、意識を女の子に向ける。そこで光一は、彼女の表情の変化に気付いた。安堵した顔はすっかり消え失せ、泣きそうな顔で「ちょっと、嘘でしょ?」と焦っている。この事態に、光一は何事が起きたのだろうと声を掛けようとする。そしてその答えは、尋ねる前に彼女の叫びで得ることが出来た。
「なんでこんな時に壊れるのよ! 冗談はやめてよ! これじゃ船に戻れないじゃないっ! これから私にどうしろって言うのよおっ!」
彼女がいじっていたカードの故障と、船に帰れないという結論がどう結びつくのか分からないが、とにもかくにも、目の前でぽろぽろと涙を流す彼女を見れば、帰る場所がなくなってしまったらしいことぐらいは分かる。
そしてついに、女の子は手のひらで顔を覆い、ヒックヒックと本格的に泣き出した。
これは困った。というか、俺にどうしろと?
泣いている女の子を前に光一は頭を抱え、色々と考える中で一つの答えを見つけた。だがそれは、光一自身が簡単に受け入れられるものではなかったので、さらにあれやこれやと考える。しかし、考えれば考えるほどこれが唯一の答えと結論づけていくこととなり、結局、それなりに時間を費やした末、この答えを結論とせざるを得なくなっていた。
「あのお……」光一は、少し落ち着いてきたように見える女の子に遠慮がちに声を掛ける。その声で女の子は自制心を取り戻したようで、泣き声をぐっと飲み込み、少し間をおいてから顔を覆っていた手のひらを離し、両手で涙を拭う。彼女の目は、拭う前から真っ赤になっていた。
そんな彼女に、間髪入れず怒って拒絶してくることを覚悟しつつ意を決して光一は言った。
「帰る場所がないなら、とりあえず俺の家に来ますか?」警察に相談しに行きますか?と言うべきところなのだろうが、きっと嫌だと言われそうだったので除外済み。
「家には俺の両親がいるし、二人とも呆れるぐらい呑気だからゆっくり出来るし、何も心配ないですよ?」
「……」
「るうなこるって人には、後で連絡すればいいしさ」
「……」
「どう……、です?」
光一は、すぐに拒否の声を上げない女の子を意外に思いながら答えを待つ。対して女の子は言葉を出せるには至っておらず、代わりに彼女の胃袋が答えた。
「きゅううううう」
「え〜と……、ひとまず何か食べますか」
女の子は恥ずかしそうに俯き、少し考えてから小さく頷く。どうやら、意地を張る気力は消えているようだ。これなら素直に食べるだろうと思いつつ、光一は先ほどまで手にしていた弁当を捜し、すぐに見つけた弁当の姿に言葉を失ってしまった。何も言ってこない光一に、どうしたのだろうと女の子はちらりと顔を上げて光一を見る。そして唖然とする彼の視線を追う。
そこには、地面に散乱した弁当があった。とても拾い上げて食べられる状態ではない。またしても目の前から遠退いていった弁当に女の子は落胆し、じわりと涙が戻る。
「そんなあ……」
「まったくだ……」と光一も呟く。
こうして、散らかった弁当を美味しそうに平らげていく子猫を二人してしばし呆然と眺めていた。その後、気を取り直した光一が、とにかく家に行こうと再度誘い、女の子は「それしか、今はないものね……」と元気なく答えたのだが、家に着いたら何か作ってあげるからと光一が言うと、一瞬にして瞳を輝かせ、憔悴していた彼女の気持ちはすっかり元気を取り戻していたようだった。
「俺は天野光一っていいます」
「私はティア・メル・シーニ・グリファス」
「てぃあめるしー……?」
「メルでいいわ」
「じゃあそう呼ばせてもらいます。メルさんって外人さんだったんですね。どこの国の人なんですか? ひょっとしてイギリスとか?」
「ル・ウ・ナコルと同じ、ニノア星よ」自慢げに答えるメル。まさかの返答に、光一は激しい脱力感に襲われてしまった。
「この場面でその冗談はないでしょ……」
「なによ、私が嘘がついてるとでも言うの?」
「あのお、いい歳して、そういう寒い冗談は勘弁してください……」
「い、いい歳って……!」どうやら年齢に関する失言をしてしまったらしく、まるで挑発されたかのようにメルはわなわなと体を震わせる。
「いったい私が何歳だと思ってんのよ」と睨み付けて唸るメル。
「え〜と……、十八?」
光一としては、メルの機嫌を考慮して、これでもいくらか年齢を下げて言ったつもりだった。しかし、“いくらか”では足りなかったようで、「私はまだ十四よ! そんなおばさんじゃないんだからっ!」と轟音と共にマグマを天高く吹き上げた。
「うそっ! 俺より年下っ!?」
最初彼女を見たときの第一印象と彼女の口調に、てっきり自分より年上で、恐らく二十歳は超えているだろうと思い接していただけに、二歳も年下というこの告白は驚嘆に値するものだった。思わず、「ほんっと失礼なんだから!」と憤慨するメルを改めてじっくりと見てみた。
間違いなく美人の部類に入る整った顔立ちには、やはり十四歳とはとても思えない大人っぽさが備わっており、腰まである長い髪がより強く印象付ける役割を担っている。唯一、左の耳周辺を隠している大きいカップのようなコスプレグッズが、大人っぽさを壊そうとしているように見受けられた。
そして視線を下へと向けていくと、発育の良い肢体を被っている、それまでぼんやりとしたイメージとしてしか捉えていなかった彼女の衣装が、ある程度はっきりと認識できたと同時に、彼女が十四歳の少女とは更に思えなくなっていった。
彼女の衣装のベースとなっているのは、体のラインがくっきりと見て取れるレオタードらしきものとタイツ。その上に纏っているものを順に追っていくと、まず、首から肩口付近、胸元のほんの一部にかけて、一見硬そうな素材のものでがっちりと覆われており、その下から這い出てきたような、袖長で厚手のショルダーウォーマーらしきものが、肩で大きく膨らみ、すぐにしぼんで手首まで伸び、肩と腕のみを隠している。
胸元からおへそのやや下あたりまでは、レオタードらしきもののみで、そこから下は、高い位置から前がぱっくりと大々的に割れた、裾が大きく広がったスカート。そして足にピタリとフィットした超薄手のブーツらしき物が太ももから爪先を隠している。
という、ある意味刺激的な、そしてある意味痛々しい姿に、光一の心境は少しばかり複雑なものとなっていた。言ってしまえば、大人の女性として見えるメルと、十四歳の痛々しい女の子として見えるメルを、どう両立して見ればよいのかよく分からないということなのだが。
メルは年齢のことでしばらく腹を立てていた。やがて憤りが鎮火してくると、ようやく二人は光一の自宅へ向かうことになったのだが、最後の余力を怒りで使い切ってしまったようで、メルは自分で歩こうにも足下がおぼつかない。まさか、だからといって置き去りに出来るはずもなく、仕方なく光一はメルをオンブしようとする。メルはその申し出を「そんな惨めな真似、出来るわけないでしょ!」と拒否。これに光一は、わざと意地悪く「じゃあここでさよならだ」と、もう知らんと言わんばかりに吐き捨てた。すると意外なことに、メルは悔しげに逡巡したのち渋々同意した。今は光一に頼るほかないと、やっと認めたわけだ。
ったく、中身はほんっとガキだな。
光一はそう思いながら、自分の上着をメルに着させる。彼女の衣装があまりにも目立ちすぎ、SP男に見つかる危険や警官に職務質問される危険があったから、ということ以上に、すれ違う見ず知らずの人たちの痛い視線を想像すると耐え難いものに感じられたからだった。
そして光一は、こっちだって疲れてるし腹だって減っているのにと心の中で文句を言いながらメルをオンブし、背中に彼女を感じながら歩き始めた。
公園を抜けてしばらく歩いた後、SP男は足を止め、不機嫌そうにふうとため息を落とす。そして忌々しげに左耳をいじりながら「まったく、これだから配給品は」と文句を一つ吐き捨てた。
彼の耳に届く街の喧噪には耳障りなノイズが入っており、ひどく遠く感じる。また、ときおり人々の会話が本来の形を失い意味のないものとなって聞こえている。この状態は、公園の中の捜索を始める少し前から続いていた。原因は彼にではなく、彼の装備品にある。今までどうにか我慢していたのだが、どうやら彼としても限界を迎えたようだった。
「ひとまず戻るか」
男は諦めるように両肩を落とし、上着の内ポケットに手を伸ばす。取り出したのは十センチほどの長さのある銀色のスティック。一見するとただの金属棒のようだが、片方の先端部を親指で押すと、その先端部がぽうっと緑色に光った。次いで、光った部分を回転させるかのように、親指の腹を側面に当てて左右に数度こする。すると、スティックからシュッと小さく音を立てて、乳白色にぼんやりと発光する透明なプレートが現れた。そして出現したそのプレートを指先で触れようとしたところで、その手がぴたりと止まる。
僅かに逡巡した後、プレートを消しスティックをポケットに戻すと、「その前に」と呟き、とある場所へと向かった。