第十二話 赤はやっぱり三倍増しか
空き缶を踏んづけて転んだとき、ポケットから飛び出し地面に落ちた転送端末が、当たり所が良かったようで運良く作動し、この場を乗り切るべく船に戻ろうとする。そこでメルは逡巡した。光一を残して自分一人で行くか、それとも一緒に連れて行くか。彼女としては、光一に掛かる迷惑をこれ以上増やしたくなかった。
どちらが光一にとって良い選択なのか。
そして、一人残された光一が監視局に捕らえられ、もしも酷い尋問を受けることになったらと考えると、その瞬間に彼を同行させることを選び、光一の腕を掴んでこの宇宙船に逃げてきた。
だが、これで安全が確保されたわけではない。
転送装置を使って空間を転移する際、始点と終点を結ぶ直線に、特徴を持った空間の歪みが必ず生じる。その歪みの大きさは直線距離に左右され、長ければそのぶん歪みは大きく、逆に短ければ小さくなる。そしてメルの移動した距離はおよそ百キロと微々たるもの。監視局を含むこの宙域の管理機関が、地球上のすべての歪みを観測し、一つ一つを逐一チェックすることなど物理的に不可能であることを考え合わせれば、光一たちが転移した際の歪みを捕捉するのは非常に困難で、同じく転送先を特定するのも困難な作業だと言える。だがそれは、彼らが光一たちの位置を把握していなければの話だ。
歪みの始点となる座標をある程度しぼり込んでいれば、発生する歪みを観測することなど造作なく、終点の特定も然り。そして彼らは、二人を確実に捕捉している。
となれば、悠長に胸を撫で下ろしている暇などなく、早々にこの場から立ち去らなければならない。ということで、余裕のないメルは、とにかく逃げなきゃという一心で宇宙船を急発進させ、海底から宇宙へと逃げた。そして船は今、地球から離れ続けている。このまま飛び続けていれば、やがて太陽系から飛び出し、銀河系からも飛び出すことになる。
もしも地球という辺境惑星が、そこらに転がっているレベル二の惑星、言い換えると、文明がまだ未発達で、異星の文明や科学を受け入れられる状態にないため、接触は限定した範囲内で最小限にとどめ、継続して監視をする惑星の一つに過ぎないのであれば、これは良い方法と言えるだろう。
監視局の追跡をやり過ごしてしまえば、おそらく管理機関はそれ以上の追跡を命じはしない。二人が指名手配中の重犯罪者などの、そう簡単に諦めてもらえないような者ならともかく、たかが辺境の下級惑星への不法侵入者など、いつまでも相手になどしないのだから。
しかし、幸か不幸か地球は、その他のレベル二の惑星とは少々立場が異なる。その差異が実際どれほどのものかはメルも知らないが、少なくともこの星への不法侵入者を、さして実害のないちゃちなこそ泥と軽々しく見逃してはくれないだろうことは覚悟しているし、その理由の一つは理解している。それこそが、彼女が必死の思いをしてまでこの星に来た理由なのだから。
このまま逃げ続けて、それでどうにかなるとはとても思えない。転移後のこの船の動きはしっかりモニターされているだろうし、中古の小型船が、監視局の巡視艇を振り切れるはずもないのだから。
そしてメルは今、光一を追い出した操縦室で一人頭を抱えていたのだが、最善策をいくら探しても、絶望感ばかりが増していくばかり。口からこぼれるのは「どこに逃げればいいのよぉ……」という泣き言のようなものしかない。
それでもメルは、必死に答えを探そうとした。しかし、やはり限界はある。
出口の見えない不安や恐怖、苛立ちはやがて、その出口への導き手を求める。メルもまた、誰かにすがりたいという衝動を抱き、彼女の脳裏に次々と顔が浮かんでは消えていった。そして、その度にメルの表情は苦痛に沈んでいく。
思い浮かぶのは、どれも遠く離れた別の銀河にいる者たち。彼らと連絡を取ろうにも、あまりにも離れすぎているために、なけなしの全財産をはたいて買ったこの船の通信設備では爪の先すらかすりもしないというのに、どうやってすがれと言うのか。
救いを求め、どれほど遠い場所まで自分が来たのかということを思い知らされ、絶望感と孤独感にどぷりと飲み込まれそうになるメル。自然と瞳に涙がじわりと浮かぶ。しかし、最後に脳裏をかすめた顔によって、無事すくい上げられることとなった。
声を聞くことも、その顔を直接見ることも、触れることも出来る、僅か数時間前に知り合ったばかりの地球人、天野光一の、不満げな仏頂面に。
「……アマノ」メルは、はたと隣の席に見た。
当然、そこに光一の姿はない。一瞬、驚いたように「え」と小さく声を上げ、自分が追い出したことをすぐに思い出すと、バツが悪そうに下唇を噛んだ。正直なところ、邪魔だと言って叩き出した手前、こちらから泣きつくような真似をするというのは面白くない。しかし、だからといってこのまま一人で悩み続けられる自信は微塵もないし、そもそもそれが出来ないからこそ誰かに助けを求めているのだ。
そしてちっぽけな意地は、自分一人ではもうどうにも出来ない現実と、相手が誰だからといって自分から拒否などしていられないという現実、それと、公園で出会ってから何だかんだと光一に助けられてきたという、悔しくもありどこかこそばゆくもある事実によって、ガラガラと瓦解されることとなった。
意固地になって光一を拒絶するよりも、光一に助けを求めることを選んだわけだ。ただし、情けない姿は絶対に見せないようにして、という気持ちはしっかり残していたが。
そうと決まると、情けない顔は見せまいと、ぴしゃりと両の手のひらで頬を叩き、深呼吸をして気持ちを整える。それまで泣きたい気分だったメルの気持ちが、だいぶ軽くなった。
「よし」
メルは一声入れて、準備は整ったと言わんばかりに表情を引き締めると、席を離れ、引き払いを一つしてからドアを開けた。すると彼女の表情が一転して、間の抜けたものに変わった。
「あれ……?」
そこに光一の姿はない。
てっきり通路にいるものとばかり思っていたので、しばし思考が停止してしまった。我に返ったメルは、まさか偶発的に乗った船内エレベーターで居住ブロックに行ったとは思いもしなかったので、「勝手にうろちょろしないでよ!」と頬を膨らませながら、真向かいの転送ルームへと向かい、ドアを開けた。
やはりここにもいない。
すると、メルは表情を曇らせて「まさか……」と呟き、転送ユニットの操作パネルに近付いた。もしかしたら、怒ってこの船から出て行ってしまったのではないかと思ったのだ。早速、転送ユニットのログを調べた。結果は言うまでもなく、二人がこの船に転移してきてから一度も起動していない。メルは安堵のため息を落とし、すぐさま「どこほっつき歩いてんの!」と眉間にシワを寄せた。
転送ルームにいないとなると、居住ブロックか機関ブロックのどちらかということになる。いずれも船内エレベーターを使わなければ行くことは出来ないので、通路に戻り、エレベーター前であることを示す、大きく四角く引かれた紫と白の破線に触れた。
わずか二秒後、ぱっくりと穴が開き、メルはエレベーターに乗り込む。向かう先は、機関ブロックではなく居住ブロック。そこからエレベーターが来たのだから当然の判断だ。ダークブルーのエレベーター内がワインレッドに変わり、移動中であることを示す。そして再びダークブルーになり停止を知らせ、ライトグレーのドアが、まるで忽然と消えたかのように開いた。
通路に出たメルは、通路をだらしなく彷徨っている、真っ赤な物体を目にする。最初、それが何であるのか理解できなかったのだが、自分の下着だと気付くと、「や、やだっ!」と思わず声を上げ、顔を真っ赤にして慌てて下着を取りに行く。その途中、自分の部屋のドアが開いていることに気付いたのだが、自分で開けっ放しにしていたことを都合良く失念していたメルは、こめかみに血管を浮き立たせて、あらぬ誤解をしていた。
下着を引っ掴むと、自室へと急ぎ、怒鳴る気満々で部屋の前にその姿を現す。
しかしそこにも光一の姿はなく、代わりに、彼女の服と下着と小物が漂っていた。この惨憺たる光景に、メルは更なる誤解をしてしまっていた。しかも、どうすればいいか分からない不安などすっかり忘れるほどに逆上して。
メルは親の仇を取ろうとでもするかのような形相で光一の捜索を再開させたのだが、ドアが開いている場所から捜すだけの冷静さは残されていたようで、まずは手近な倉庫に飛び込んだ。だがここにもいない。次いで目を付けたのは、ドアが開いたままのラウンジ。そして勢いよく突入した。
部屋の中は散らかっており、たくさんのゴミが漂っている。
彼女が地球にたどりつくまでに食べた食料の包装紙や、飲み終わった飲料水の空のチューブ、フェイスケアの使用済みシートなどなど。
さすがにこれまでは誤解しなかったようだが、それはともかく、メルはその向こうにようやく光一の姿を見つけることが出来た。
光一は、ラウンジの奥の窓に張り付くようにして外を見つめていた。こちらに背を向けていたので、どんな表情で見ているかは分からなかったが、今のメルにとってはどうでもいいこと。
「アマノ!」そう一吠えすると、光一の方へと発声量どおりに力強く壁を蹴った。
なかば呆然としていた光一は、突然呼びかけられてビクリと体を震わせ、驚いた顔で振り返った。言いたいことは山ほどあったはずなのだが、あまりにも多すぎたせいか、うまく声が出てこない。その間にゴミをかき分けて詰め寄ってきたメルが一閃、「この変態!」と怒鳴った。
「は……?」いきなり変態呼ばわりされた光一の目が点になる。そんな光一に、メルは飛んできた勢いそのままに、胸倉を掴むのではなく容赦なきアイアンクローをしてきた。しかも、自分の下着を握りしめていた手で。となると当然、光一の顔とメルの手の平の間にその下着が挟まれる格好となる。しかも、アイアンクローをするためにメルが手の平を開いたとき、その手から解放されたものが先ほど見た物体と同じであることをしっかり認識していた。
「な、な、な――!?」
「アマノがこんな変態だとは思わなかったわ!」
「ちょっと、お前――!」
「いくら辺境の原始人でもね! やって許されることと許されないことぐらい、分かるでしょうが!」
「その前にっ――!」
「何よ! この期に及んで言い訳する気!」
「この手を離せ! ってかなんなんだ、お前の馬鹿力は!」
メルの握力は、必死にその手を外そうとする光一をものともしなかった。腕の太さから言えば、光一の方が圧倒的だというのに。
「ば、馬鹿とは何よおっ!」
「だあああっ!」余計な一言で彼女の怒りがもう一段階上がってしまったようで、鷲掴む手の力がぎりぎりと増した。さしもの光一も、メルの腕を叩いて「ギブギブ!」と叫ぶ。しかしその意味を理解できないメルは、地球人の悲鳴の一種だとしか思わず、力を緩めることはしない。このままでは本当に顔面を握り潰されかねないと感じた光一は、必死に言葉を絞り出した。
「ぐあああっ! よく見ろお! 手、手えっ!」
「うるさいっ!」
「かああおおおっ!」
「うるさーいっ!」
「おおお俺ノォーッ!」
しかし、光一の悲痛な訴えをメルは理解できず、というよりも聞く耳を持たず、「自業自得でしょうが!」と切って捨ててしまう。そして、もうすぐ天国が見えるような気がしてきたとき、言葉が通じないのなら別の方法でいくしかないと、メルの腕から手を離し、顔面のそれを掴んでぐいぐいと引っ張った。
思惑どおり、それがまさに功を奏した。それまで彼女の瞳に映ってはいたがちゃんと認識されていなかった物体が、ここでようやく彼女の意識に入ってきたのだった。そしてメルは、ぎょっとした。
「な――!」ざわりと毛を逆立て、口を大きく開いて驚くと、すぐさま光一から手を離し、ほぼ同時に自分の下着を引っ掴かんで奪い返そうとした。同じものを握りしめていた光一の抵抗はあったが、彼がその手を自分のこめかみに当てようとした途端、全ての抵抗が消え去り、それを胸元に隠すように腕をぐいっと引っ込めた。
やっと解放された光一は、体をくの字にして「いってぇ〜」と呻き、真っ赤になった額とこめかみを押さえる。そんな彼に、メルは汚らしいものを卑下するような視線で、気持ち悪そうにこう言った。
「信じらんない」
これには、がばりと顔を上げて「それはこっちの台詞だ!」と叫ばずにはいられない。
「てか自業自得ってなんだよっ!」
「今わたしの下着のに――! に、匂い……。嗅いでたじゃない。外見ながらここで、自分の顔に押しつけて」
そう言って、メルは冷ややかな眼差しを向けたまま、胸元に隠した下着をぎゅっと握る。
「誰がするかンな真似! それに外見ながらって、訳わかんねえねつ造すんな!」
「まだ言い逃れしようっていうの?」
「勝手に俺の顔に押しつけてきたんだろうが! お前が襲いかかってきたときに!」
「なんで私がそんな恥ずかしいことしなきゃならないのよ。自分からあんたの顔に――」
とここでメルは、通路を漂っていた下着を掴み取ったこと、そのまま握りしめてこのラウンジに来たことを、ハタと思い出した。そして、恐る恐るといった体で、手の中の下着をちらりと覗く。そこにあるのは、見覚えのある真っ赤な下着。そして彼女が持っている赤色の下着はこの一枚だけ。
「……」
「うおい」
「……」
「なんか言ったらどうなんだ」
「へ……」
「へ?」
「……変態」
「お〜ま〜え〜なあ〜」
最初から光一が自分の下着の匂いを嗅いでいたのではないということは理解し、アイアンクローをした右手には、確かに直前まで下着を握っていたことも記憶にある。ということで、この件に関する誤解は解けたのだが、他の誤解がまだ残っている。
「女の子の部屋に忍び込んで、しかも変なことするなんて、変態のすることじゃない」
「さも事実みたいな言い方すんな!」
その後、光一は数分の時間を浪費してその誤解を解くこととなった。
なお、メルが光一にアイアンクローをした際、もし重力下であったならば、光一はそのまま勢いよく後頭部を窓に強打していたはずである。
しかし、ここはいま無重力。
メルがこめかみを掴んでいなれば、光一の体はそのままゆっくりと回転し始め、後頭部を窓にこつんとぶつける程度で済んでいただろうし、メルは弾き返されるように戻っていったことだろう。だがメルが手を離さなかったため、跳ね返ろうとするメルの力が、光一を回転させようとする力を逆回転に引っ張ることとなり、結果、二つの力はほぼ相殺され、互いに姿勢が急に乱れることはなかった。
光一がアイアンクローを外そうとジタバタしたせいで二人の姿勢に乱れは出たが、それはそれ。