第十一話 ガガーリンはかく語りき
最後の一突きには、苛立つメルの感情が強く込められていた。座席から投げ出されたときよりも速いスピードで叩き出された光一は、無重力空間の中、やはり体をクルクルと回転させながら、通路の天井にぶつかり、最初にいた円形の部屋のドアにぶつかり、跳ね返って通路の床にぶつかりと、まるで何度も跳ね返るスーパーボールのような具合で通路を泳ぐこととなった。結局、光一が一往復して帰って来るまでに操縦室のドアが閉められていたために、二度ほど後頭部を軽く打ちつつ、そのまま通路を三往復することとなった。
通路の壁にある短い棒状の突起の一つに手を伸ばし、それを掴むことによって、弾み続ける体を止めることに成功した光一は、次いで体の回転を止めようと四苦八苦した末、盛大なため息混じりに、ようやく一息つける状態に落ち着くことができた。
こうして直近の問題が片付くと、当然のことながら、思い出したように沸々とメルへの怒りを再燃させることとなる。彼の他に誰もいない静かな通路で喚き散らした。
自分勝手なのもいい加減にしろ! 人を何だと思ってんだ! お前は何様のつもりだ! などなど。鬱積されていた感情は、決壊したダムの水のように吐き出されていった。ただし、大声はそう長くは続かなかった。その程度しか蓄積されていなかったから、というわけではなく、ただ単に、部活と逃亡劇と今し方の悪戦苦闘による疲労から、感情のままに罵詈雑言を吐き出す気力がそれしか残されていなかったようだった。
気力と体力をほぼ使い果たしてしまった光一は、残り火のようにくすぶる感情の残滓に、ぐちぐちと文句を口にして憮然とすることとなった。しかも彼にとって非常に面白くないことに、誰のせいでこんな目に遭わされてると思っているんだと心の中で呟いているうちに、もう一人の自分がこんな言葉をしれっと言ってのけた。
「誰もお前に頼んでないじゃん」
まったくもってその通りだった。メルは光一に、助けてくれだの協力してくれだのと言ってはいない。事実はその逆で、光一自らが買って出たことである。事ここに至った責任の全ては彼女にあり、今すぐ説明する責任が彼女にあると責め立てるのは独りよがりだろうと両断されたならば、それを完全には否認することは出来ないだろう。
そう。それは彼自身も分かっている。頭ではちゃんと分かっているのだが、それを素直に受け入れられるほど彼の心は寛大ではない。それ以前に、とても面倒なことに巻き込まれているのは確実で、事の詳細をまったく説明してもらえていないとなれば、光一の彼女への憤りは当然のことだろうし、全て自分の責任だとして彼女への不満を消し去るのも無理な話だろう。
そんな彼に手を差し伸べたのは、時間ではなく、無論メルでもなく、まさに偶然の産物と呼ぶべき出来事だった。というのも、意図してそうなったわけではないから。
苛立たしげに閉じていた目をふと開けると、通路壁面の一部がぱっくり深々と窪んでいた。その内壁はダークブルーにぼんやりと発光しており、二本の手すりらしきものがちらりと見えるあたり、それが通路のように思えたが、今の彼の位置からでは断定は出来ない。確実に言えることは、彼のそれまでの記憶では、その場所にはドアらしきものはなく、のっぺりとした壁面に紫と白の破線が大きく四角く引かれていただけだということぐらい。
見知らぬ場所での知らぬ間の変化に、彼が思わず困惑してしまったのは仕方のないこと。荒く波立つ感情の中にあって、はじめは不安を感じてしまった。だが一向に変化の兆しが見受けられずにいると、好奇心がむくりと起き上がり、徐々に不安を押し退け始める。そしてついに、この変化についてドア越しにメルに尋ねるのも癪に障るし、このままこの場所で悶々と彼女に怒ったり自分に怒ったりしているぐらいなら、暇潰しにでも別の何かをしていた方がマシだと、少しばかり不安は残っていたものの、ほとんどは腹立たしい気分で、数メートル先のその場所へと近付いていった。
僅かな距離であっても、短い突起を伝っての移動は思いのほか難しかったが、窪みのすぐ横の突起を握りしめて足を踏ん張り、無事に手前で体を止めることが出来ると、穴の奥を覗き込んだ。
そこは通路ではなく、六畳間ほどの広さのある、卵のような形状の空っぽの空間だった。
最初にいた円形の部屋と同様、この部屋が何のためのものなのか光一には理解できない。分からないことだらけという現状に苛立っていただけに、この空間は彼をいっそう苛立たせた。
「だから何だっつんだ」ふてくされるようにそう吐き捨て、少々難儀して小部屋に入る。
と、ダークブルーの発光色が突然ワインレッドに変わった。これにはさすがに激しく動揺してしまい、この場所から出なければと慌てて身を翻そうとしたのだが、無重力の中にあって思い通りにいかず、姿勢の制御を失ってしまっただけだった。ただし、状況の一片を確認することは出来た。
通路と接していた広い入り口は、ライトグレーの壁で塞がれていた。有り体に言えば、閉じこめられてしまったわけだ。
ゆっくりと漂いながら更なる動揺に襲われる中、光一は一番近い手すりに手を伸ばして掴まり、ひとまず体を固定するとこの場所から出る手段を探す。例えば、ドアの取っ手や開閉ボタンといった馴染みのあるものを。しかし残念ながらそのようなものは見当たらず、らしきものすら一つもない。
ふざけんなよ! 声には出さずに心の内でそう怒鳴ったのは、メルに聞かれたくないという意地のようなものがあったからなのだが、そんな彼を嘲笑するかのように、さほど間を置かずに発光色がダークブルーに戻り、ライトグレーの壁が消えた。
時間にして十秒にも満たない出来事。光一にはそれ以上に感じられていたこともあり、一瞬、きょとんとしてしまった。気を取り直すと、今のはいったい何だったんだと唸り、卵の殻の中のような小部屋から出る。そして立て続けにきょとんとしてしまった。そこは明らかに通路ではあったが、先程までいた通路とは違っていた。
「ちょっと待て……」
畳み掛けるようなこの展開に、苛立ちと焦りと混乱とメルへの怒りがもの凄い勢いでかき混ぜ合わされ、激情は「やってられるか!」という咆哮となった。そしてそれは、消える光が直前に最後の輝きを放つようなものだった。一吠えした後、現状にすっかり嫌気が差した光一は、どうしたって消しようのない苛々だけはくすぶらせ、あれこれ考えることを放棄した。
現実逃避、と言ってしまえばそれまでだが、気持ちを落ち着かせて頭の中をリセットする方法としては有益であろう。感情は思考に比例する。その逆もまた然り。正の思考は正の感情を生み、負の思考は負の感情を生む。そして今の光一に正の思考をさせられる要素はないと言っても過言ではない。あれこれ考えれば考えるほど腹が立つだけで、ならば思考を閉じてしまえば、今以上に腹を立てずに済むし、頭を冷却する余地も出てこよう。
こうして光一は、しばらく宙を漂いながら頭の中を真っ白にし続けることに専念することとなった。その甲斐あり、上気した頭はそれなりに冷め、とにもかくにもこれからどうするかと考えられるようになっていった。
彼がいま取れる行動は、大きく分けて三つある。一つはメルのところに戻る。二つめはこの場に留まる。そして三つめは周囲を探索する。
わけの分からない場所でうろうろするのは、あまり賢明な行動ではないことぐらい、彼も理解している。どこぞに閉じこめられてしまう可能性も、今し方身をもって確認している。ならば真っ先に選択肢から消されるべきは三つめなのだが、それこそが最終的に残ったものだった。
まず二つめの選択肢について、この場に留まったところで何がどうなるわけでもなく、せいぜい休憩という意味しか持ち得ない。心身共に疲労感はあるが、ここで退屈な時間を過ごすぐらいなら、何かしら行動を起こした方が気分転換になると、ばっさり切り捨てた。
そして一つめの選択肢。閉じこめられかけた小部屋が先程の通路に繋がっていたのだから、かなり悪戦苦闘するだろうが、戻れないことはないはず。だが、そうして戻ったところで何がどうなるというのか。またあの空間でやることなく悶々と漂うだけだ。それでは二つめの選択肢と同じこと。いや、それ以上に悪いかもしれない。このまま戻ってしまったら、迷子になり怖いよ怖いよと泣いて親の元へと必死に走る子供と同じようなものだから。そう考えると、元の場所に戻ることにひどく抵抗を感じてしまう。それに、メルにはもう付き合いきれないとついさっき叫んでいたではないか。
という経緯で三つめが選ばれ、船内の探索を始めたわけなのだが、探索の目的が、出口を探し出してここからおさらばすることなのか、それとも単なる暇潰しなのか、結局最後まで彼には判断することが出来なかった。
通路は先程のものよりいくらか長く、そして幅も少しあった。ドアは小部屋と同じ並びに一つ、通路を挟んだ対面に三つ、通路の両端に二つの計六つ。それらのうち、同じ並びの一つと対面の一つが開いたままになっていた。となれば、まずそこから調べるのが妥当な選択だろう。光一は手始めに、一番近い同じ並びのドアに向かい、中を覗いた。
通路に沿って横長の部屋の壁際に、プラスチック製らしき大小様々な箱が、それぞれのサイズでまとめられ、間隔を置いて金属製の厚い台座にちんまりと積まれている。その山一つ一つは透明なシートでぴたりと覆われており、空気を吸い出し真空パックされた布団を彼に連想させた。
どうやら倉庫か物置といった用途の部屋のようだ。箱の中身が何であるのかまでは、どれも派手派手しくデザインされている箱の見える部分に、彼が文字として認識できる記号や、中身を連想できそうなイラストなどが一つもないために、分かりようがなかった。
自分の知っている数字やアルファベットの一つぐらいはあってもおかしくないのに、いったいどこの国の荷物だよ。などと光一は頭を傾げるが、今はその問題に取り組むべきときではない。結局、無駄な推理はせず、勝手にドアが閉じられてしまわないか少々どきどきしながら部屋の中と荷物を一通り見て、別の場所を全部見終わったらもう一度調べにでも来ようか、と思いつつ部屋から出た。
次に向かったのは三つ並ぶドアの一番奥。今の場所から数メートルしか離れていない目的の部屋へと向かう。無重力の中での体の使い方が多少分かってきたようで、最初に比べればだいぶスムーズに移動することができていた。
そうして部屋の中を覗いたのだが、中の様子を確認する間もなく、一瞬にして視界がピンク色に染まり、ついでに呼吸がひどくしずらくなった。本日これで何度目になろうかという不意打ちにまたしても驚いてしまった光一は、少々パニックに陥り、目の前の霧を払うかのように手足をばたつかせる。
手が空を切り、足が何かを蹴る。そして何かが手に引っかかると、途端にバサリと視界が戻った。
光一は、今のはいったいなんだったんだと辺りを冷静に見回すよりも先に、自分の腕に何かが巻き付いているという感覚から、そちらに視線を向ける。腕には、ピンク地の布が引っかかっていた。あまりにもベタな原因に、自身への気恥ずかしさから眉間にシワを寄せつつ、その布を広げてみる。それはまごうことなき、ノースリーブのワンピース。
気恥ずかしさがやり場のないささやかな怒りへと変わると、わなわなと震えだす手を深呼吸で落ち着かせ、改めて部屋の中を見た。
「おいおい……」
それは思わず口に出した、ため息混じりの感想。
部屋の中を漂っている洋服は、ぱっと見ただけでも、そのワンピース一枚だけではなかった。ノースリーブのキャミソールが二枚。股下が驚くほど深いズボンが一着。それと、肩掛けと左右のロングアームウォーマーがくっついたようなもの一枚がふわふわと浮いている。しかも、ビニール製ではないかと思うほど艶のあるそれらは、この空間が無重力でなかったとしても、服が脱ぎ散らかされていたと想像に容易い有様で。
加えて、服以外にも小物が少々浮かんでいた。
誰の部屋だよ、とこの部屋の主に向けて心の中で呟き、なんとなくその主を想像すると、光一は変に納得してしまった。彼の想像した主とはメル。大人っぽい容姿からは連想しがたいが、子供っぽい中身からは連想しやすかったのだろう。
とにもかくにも、部屋の片側に簡易ベッドであろうものが鎮座しており、壁からちょこんと突き出た心づくしの小さなテーブルと、壁に埋め込まれたテレビだかモニターだか、そして女性ものの洋服とくれば、女性が使っている船室と判断してまず間違いないはず。となると早々に退室すべきだ。不純な動機などないにしても、このまま部屋の中を物色しては、本物の変質者と言われても反論の余地はほとんど無い。
ということで急いで部屋を出ようとするも、部屋の奥へと極めてゆっくり漂っている最中の自分の体を転進させるためには、何かに掴まるか、壁を蹴るかしなければならない。
まったく、無重力っていうのは不便この上ないな。
そんな言葉を思い浮かべた光一は、ここでようやく、無重力であるという状況についてちゃんと疑問を抱いた。なお、これまでにも数回ちらりと思ってはいたが、メルへの感情が邪魔していたり、他の思考が頭の中を占めていたりしたために、疑問は袖口で引き返し、深く考えられることはなかったので、今頃になって、ということになったのである。
「なんで無重力なんだ?」そう口にしてはみたが、そんな馬鹿な、というのが率直な意見。
無重力という状態が発生するのは、一番知られているのは宇宙空間。それ以外で有名なのは、自由落下する飛行機の中がまず挙げられるだろう。他にも無重力空間は作り出せるが、どれも持続時間は極めて短いだろう。そう考えると、自由落下している真っ最中の飛行機の中というのが最も現実的な答えと言えそうだが、それを正解だと断言できる回答であるはずもない。
じゃあ本当にどこなんだよ、と思ったとき、メルの言葉が思い出された。
「だからあの星の外に出たって言ったの!」
そんな馬鹿な話があるかいと反論するも、完全には否定しきれない現状が目の前にある。それどころか、それが考え得る最も現実的な回答のようにさえ思えてきてしまう。このまま思考を進めていけば、今乗っているのは宇宙船で、宇宙を飛んでいると本気で信じてしまいかねないと危険を感じた光一は、「なに考えてんだ俺は。はははは……」と、硬直しかかった顔で必死に笑おうとした。そうして、ようやくたどり着いた部屋の壁を、この部屋からというよりも自分の思考から逃げ出すように強く蹴ろうとした時だった。部屋に入る際には見えなかった物体が、彼の瞳にくっきりと映り込んだ。
やたら小さい、真っ赤な三角形の物体。そしてその向こうにも、同じく小さくて、真っ黒な三角形の物体――。
「ごくり」
思わず唾を飲み込んでいた天野光一、十六歳。
そのまま時間が止まってしまったのは健全な証拠、ということにすべきか。なにせ、彼を釘付けにしてしまったそれは、セクシーな女性の下着だったのだから。
さすがにいつまでも釘付け、とはならなかったようで、数秒後にはハタと我に返っていたが、真っ赤な自分の顔まではどうにも出来なかったようだ。見とれてしまった自分に、後ろ指を指される思いで必死に言い訳をしつつ、一刻も早くここから出ねばとドアを探す。パンティーに見とれて壁を蹴り損ねはしたが、幸い、今現在かれの体が向かっている先は、開けっ放しのドアから大きくは外れておらず、その近くまで行けば、腕を伸ばしてドアの縁に手が届く。心の中で激しい攻防を繰り広げつつ、長いような短いような時間の末にドアの縁に手が届くと、とにかく部屋から飛び出した。
まるで、人としてやってはいけないことをしてしまった犯罪者が、現場から慌てて逃げ出したような気分で。
そんな彼への次なる追い打ちは、勢いよく飛び出した結果、通路の突き当たりのドアにそのままぶつかってしまい、その際に偶然開いたドアの向こうに用意されていたのだった。
反動で戻ってきてしまった光一は、洋服と下着が漂う船室を通り過ぎ、倉庫のような部屋で手を伸ばして止まると、何やってんだと自分に顔をしかめ、第三の部屋へと舞い戻る。
その部屋は、光一から見て縦長に伸びる楕円形をしており、最初にいた部屋よりもやや狭い、といった広さ。彼の真向かいには別の部屋へと続いているのであろうT字の通路が見える。部屋中央は大きく窪んでおり、円形のテーブルがその中で狭苦しそうに据え付けられている。不思議と椅子は一脚もなく、窪みのへりを背もたれにして使うようだが、そのわりにはテーブルの高さがひどく中途半端で、立って使うにも床に直接座って使うにも塩梅は良くなさそうである。それがひどく違和感を感じさせ、その風景の中を、まるで大きなゴミ箱をひっくり返したかのように、細々したものがあちらこちらに漂っている。
本来であればこの光景に、複雑な心境であんぐりとするところなのだが、今の光一はそれどころではなかった。
部屋の壁に、床から天井まである大きな四角い窓がぐるりと並んでいる。
その窓から見えるのは、漆黒の闇と無数の微小な光点。
それと、青い地球だった。