第十話 飛んで飛んで飛ばされて
メルの声の次に訪れたものは、冷たい光。その光は、瞬きする間もなく彼の視界を覆い尽くす。しかし、真っ白になった世界は一瞬のうちに漆黒の闇で塗り潰された。その世界には冷たさどころか何一つとして存在しておらず、まさに虚無の世界だった。そしてその世界もまた、再び戻ってきた真っ白の世界によってすぐに終焉を迎え、最後に、世界に色彩や感覚などが戻ってきた。
それは光一にとって、本当に一瞬の出来事。そして彼の下に戻ってきた世界は、直前までそこにあったはずのものとは異なっていた。鼻孔をかすめていくもの、鼓膜や肌が拾い集めるもの、そして何より、彼の瞳に映る風景が。
光一が今いる場所は夜空の下の路上ではなく、見たことのない部屋。その部屋の形状は見事な円形で、バスケットコートの半分よりやや小さいといった広さがあり、床から天井まで四メートルほどある。部屋の中央、つまり光一とメルの足元は、直径三〜四メートルほどの円形センターステージといった感じになっており、床よりくるぶしほどの高さのステージの隅には、高さ二メートルほどあろうかという、細長で半透明な板が突っ立っている。この部屋には窓はなく、青味がかった灰色の壁面は外側に向かってカーブを描いている。ちょうど、上下を大きく切り落とされた球体のようだ。テーブルや椅子、棚などといった調度品等は一つもなく、読みかけの本や雑誌も、小物類一つすらなく、この部屋には光一とメル以外なにも存在していない。
なお、このような部屋の様相をぐるりと見渡して観察するほどの余裕は光一になかったらしく、驚いた猫のように体を硬直させ、理解の範囲からあまりにも逸脱したこの事態に、ただただ言葉を失うだけだった。
対してメルは、光一がそんな状態にあるとは露ほどにも思うことなく、彼の腕を放しすぐに立ち上がると、その場を離れながら「アマノ、ついてきて」と声をかけ、早々にこの部屋から出ようとした。当然、光一は言葉を失ったばかりで、彼女の声は届いていない。となれば彼から返事が返ってくるはずもなく、彼の立てる物音一つすらない。メルはドアの手前でもう一度「アマノ!」と声をかける。それでも無反応だったので、「ちょっと!」と、憤然と踵を返し、光一の元につかつかと歩み寄る。そして彼女は、呆然としたままの光一の首を両手でわし掴み、その手を前後に激しく揺り動かした。
「いつまで寝ぼけてんのよ!」
この方法は効果テキ面だった。ただし、最終的に光一が意識をメルに向けられた、という点においてだが。
光一の最初の反応は、軽いパニックだった。それはそうだろう。呆然とした意識の中で今ひとつ焦点を合わせ切れていなかった目の前の光景が、がっくんがっくんと激しく揺れだすのと同時に、呼吸困難に陥っていたのだから。メルに首を絞められていただけに。
自分の命に危険を感じた光一は、とにかく今いる場所から脱出すべしという本能に従い、「ぐええっ!」と声を絞り出し手足をばたつかせながら激しく動き出す。この動きをメルが完全に封じることなど出来るはずもなく、彼女の両手はすぐに彼の首から離れた。そして光一は、部屋の隅へとそのまま逃げだし、カーブした壁面まで退避すると、息絶え絶えに振り返った。そこには、「いったあ〜い」と言いながら尻餅をついているメルがいた。前後の事情など知る由もない光一は、状況を理解しようとする以前に、ただただ動揺の声を出すのが精一杯。
「な! なんっ! なんだあっ!?」
「なにするのよっ!」理不尽にもメルは眉をつり上げで怒鳴った。
「なに、何って……! な、なに……!?」
「もう! これだから原始人は嫌いなのよ!」
「いやだから……!?」
「いつまでそこでそうしてる気よ!」
「そこ? って……」
ここで光一はようやく、動揺の中にありながらも部屋の中を一望し、驚きの声を上げた。
「なんだここは〜っ!」
「転送ユニットに決まってるでしょ!」
「ってなんだよそれ!」
「ああもうっ! のんびりしている時間ないの! ここに残りたいのならそうしてなさい! 怪我しても知らないからね!」そう言って立ち上がり、メルは光一に背を向けて、再びドアへと歩き出す。いくら動揺していても、その場で質問や抗議をし続けたり、返事に窮してしまったり、残りたいと答えたりしてしまうほど冷静さを欠いてはいなかった光一は、すぐに飛び上がると、首を絞めるメルから逃れた際に後頭部から抜け落ちた四本の赤い矢に気付くことなく、メルのいるドアへと駆け出し、彼女に続いて部屋を出た。
転送ユニットと呼ばれた部屋を出た二人は、蹄鉄のようなU字型をした外壁の短い通路を早足で通り、突き当たりのドアの手前で足を止めた。そしてメルがドアの横にあるパネルを素早く操作する。二層構造のスライドドアがシュッと音を立てて開くと、二人は中に入っていった。
その部屋は、直径五メートルほどの半円で、壁面はすべてスクリーンのようで、一部では文字らしきものとグラフのようなものがズラズラと映し出されていた。部屋の中央には、一見華奢で、しかし座部と背もたれは無駄に心地よさそうな、言うなれば、二本の銀色のパイプをそれぞれ同じようにぐにゃりと折り曲げ、足から肘掛け、背もたれの骨格を成し、どうやってだかふかふかのシートを取り付けたような、なかなか独創的なフォルムでインテリア性の高い、二本足のパイプ椅子といった座席が、少しばかり間隔を置いて横に二つ並んでいる。そしてそれぞれの椅子の前面を囲いこむようして操作パネルと思われるテーブルが備えてある。
これを見たとき、それまで頭の中にあったメルへの質問事項などすっかり忘れてしまったかのように、光一は思わず口にした。
「操縦室っぽい……」
すると、メルは片方の椅子に座りながら「他に何に見えるっていうのよ」と忙しげに答え、体を座席に固定させ操作パネルを叩き始めた。すると光一は、慣れた様子でパネルに触れ続けるメルの様子を眺めながら「他って、パソコンルームとか?」と律儀に答えた。
「なにしてんの! 早く座りなさい!」
他に何に見えるって聞いたから答えたんじゃないか、と思いながら、言われるままに椅子に座る。その座り心地のあまりの良さに光一はうっとりとしてしまったのだが、「ボーッとしてないで早く体を固定してよ!」というメルの注意に、安らかな気分は一瞬にして荒々しく消し飛ばされた。
「なこと言ったって、シートベルトないじゃないか!」
「そのぐらい一人でやってよね!」
自分の子供を叱る母親のような勢いでそう言うと、一度自分の座席の固定を解除し席を離れ、光一の座席の肘掛け部分をいじった。すると、光一は自分の腰元がシートに優しく抱きかかえられるような感覚になった。その不思議な感覚に、「なにこれ」と声を漏らすが、これ以上は相手にしないと言わんばかりに、メルは自分の座席に戻り、再び前面の操作パネルに手を伸ばす。
そして、操縦室が揺れ始めた。
「な、地震か!?」
「黙っててっ!」
「お前なあ、さっきっから――」と、一方的なメルの言い方に少々我慢しきれなくなってきた光一だったが、このときの彼女の鬼気迫る真剣な表情は、ギアノを前にしたとき以上にも見えたので、渋々ながら言葉を切ってしまった。すると今度は、光一の体を強くシートに押さえつけようとする力が急激に襲ってきた。それはまるで、座っていた乗り物が猛スピードで走り出したときの感覚と非常に似ていた。
質問するどころか話し掛ける気すらも失せてしまっていた光一は、ひとまず口を結ばざるを得なくなっていたのだが、その代わり、冷静さを取り戻し、頭の中を整理しようと試みる時間を得ることは出来た。しかし、いざ整理整頓しようとすると、自分一人では回答を導きだせるはずのない疑問ばかりが早々に連なり始め、すぐにそれぞれが好き勝手に跳ね回り、混沌となり、収拾がつかなくなってしまった。結局のところ、疑問のほぼすべてはメルに尋ね、答えをもらう他ないということだ。なので、自分一人で答えを得られそうなものだけを相手にすることにした。
疑問その一。これは夢か幻か?
もっともポピュラーでベタな方法で確認しよう。
「イテェッ」
少々力を入れすぎたようで、頬がじんじんと猛抗議している。それはともかく、痛かったということは、これは夢でも幻でもなく、現実ということだ。
疑問その二。ここはドコ?
たぶん乗り物の中だろう。ただし、何の乗り物かは不明。こんな操縦席で動かす乗り物など見たことも聞いたこともない。自分の知っている近いものといえば、大型設備の監視室のような場所ぐらいだけど、それは乗り物じゃないから論外。
疑問その三。街中で逃げていたはずなのに、なんか光って、真っ暗になって、また光って、そしたらさっきの部屋にいた。どういうこと?
これはきっと、記憶がすっぽり抜け落ちた、というやつだろう。ほら、格闘家が試合の途中から試合後の控え室までの記憶がすっぽりなくなって、「あれ? 俺いま試合していたはずなのに、なんでこんな所にいるんだ?」みたいな。うん、それだ。って、そういやメル、あの部屋を転送何とかって言ってたな……。まあいいか。
疑問その四。メルを密入国者と言ってたけど?
否定せずに逃げたってことは、やっぱそうなんだろうか。するとあの方々は入国管理局の人? いやでも、なんか武器っぽいもの使ってたぞ? 入管の人たちって、物騒なもの持ち歩いていたっけ? じゃあ警察の方? それならアリだろうけど。監視衛星がどうだとか言ってたし……。いやいや、いくらなんでも密入国者一人捕まえるのに、監視衛星とかそんな大がかりにはならんだろ。国際的な犯罪に関わっているとかならともかく。どこぞの刑事ものとかスパイものの映画じゃないんだから。
……スパイ?
メルが?
わはは。自分で言ってなんだけど、スパイさんがこんな痛い、というか目立つ格好なんてしないだろ。それとも秘密裏に潜入した捜査官……もこんな格好しないよな。てことは、ただの密入国の人ってことか。メルは。ああ、そういえば誰かに会いに来たみたいなこと言ってたな。誰だっけ?
――と、思考が迷子になりかけたところで、耳を覆わんばかりにけたたましく、ひどく耳障りな音がこの部屋に響いた。そしてこのとき気付いたのだが、この部屋がガタガタと激しく振動しており、加えて、自分の体を押さえつけようとする力もグンと増していた。
「なんだあっ?」光一はこの状況に、鳴り響く音に負けじと大声で言った。
「外に出るわ!」
てっきり、トラブルが発生し、この乗り物から脱出するという意味で言ったのだと思った。まるで警鐘を鳴らすかのような音と激しい揺れ、そして切迫した雰囲気のこの台詞となれば、そう思ってしまうのも無理はない。しかもメルは、脱出のタイミングを計っているかのように操作に集中している。光一は、彼女の脱出の号令にすぐに対応できるように自然と体を強張らせる。だがそれはまったくの無駄だった。合図を待ち始めて一分と経たないうちに、音と振動が嘘のようにぴたりと止まった。
「あれ?」間の抜けた声がぽとりと落ちる。対照的にメルは苛立たしげだ。
「なによ」
「いや……、急に静かになったから」
「当たり前でしょ。外に出たんだから」
「は? 外って、どこ」光一は目をきょとんとさせて、頭を捻る。すでに外にいるということはつまり、この乗り物の外に出るつもりではなかったということで、それでは何の外に出るつもりで、そして今どこにいると言うのだろうか。
光一が彼女の言葉を理解できていないことは一目瞭然。メルは、いい加減にしてよ!と訴える目で睨みつけて、「だからあの星の外に出たって言ったの!」と怒りながら補足した。しかしその補足も、彼をすぐに理解させるには至らなかった。
「星の外って、はあ?」
「なんでアマノはそんなに馬鹿なのよ!」
「ば、馬鹿ってなんだよ!」
「もういいっ! もう何も喋らないで!」
メルは我慢の限界を超えたと言わんばかりに、吐き捨てるようにそう怒鳴り、ぷいっと顔を正面に向けた。それだけ精神的に追いつめられた状態にあったということなのだが、そこまで酌み取ることの出来なかった光一は、ついに我慢の限界を超えてしまった。
「お前、いい加減にしろよ! 人を巻き込んでおいてその言い草はないだろ! だいたいなあ、お前は――!」
「うるさいっ! 喋るなって言ったでしょ!」
「うるさくないし喋る! とにかく説明しろ!」
「いま考え事してんだから邪魔しないでよ!」
「少しぐらいなら説明できるだろうが!」
「だからそんな時間ないって言ってるでしょ!」
「ないわけない! 早く話せ! ここは何処で、あいつらは何者で、密入国って――!」
「うるさあああいっ!」
耳をつんざくほどのその怒声は、光一の口と耳と目をふさぐ威力を持っていた。そしてメルは、もう我慢ならないと素早くパネルを操作してから自分の座席のロックを外す。間髪入れずに、自由となりふわりと宙に浮いた体を巧みに操り席を離れ、光一の座席をくるりと反転させた。彼女のこの一連の動きに対し光一には何かしら言う時間はあったのだが、今の彼にはそうする余裕がなかった。耳鳴りがひどかったからではない。突然、自分の体重を全く感じなくなったことに戸惑っていたからだ。
そんな光一の座席のロックをメルが外すと、彼の体が浮き上がった。そしてメルは「うおあっ!」と声を上げる光一を問答無用で座席から引っ張り出し、そのままドアへと放り投げた。支えを持たない光一の体はクルクルと宙を回りながら為す術なくスライドドアへと宙を飛ぶ。シュッと開いたドアの向こうにそのまま流されるかと思われたが、ドアの縁にどうにか腕を伸ばし、四苦八苦しながらも流れる体を止めることが出来た。
そこでようやく文句を言えるようになったのだが、その言葉は、最後の一撃を加えるべくすかさず側にやってきたメルによって打ち切られた。光一は、メルの一突きにより操縦室から完全に閉め出された。