第一話 知らぬが仏が人生さ
宇宙人の存在を否定するつもりはない。
気が遠くなって本当に気を失ってしまうほど広いこの宇宙の中で、地球にしか知的生命体は存在しないと誰が断言できる。
宇宙人は、きっと存在する。
ただし、だからといって、宇宙人が既に地球に来ていて、牛を相手にキャタピラだか何だかの実験をしたり、人をさらって機械を埋め込んだり、どこぞの国が宇宙人のテクノロジーを密かに手に入れていて、軍事目的に利用しようとしている、などという話を肯定するつもりはない。
そもそも、宇宙人がいるいないの話と、地球上にいるいないの話は別だし。
それはともかくだ。既に宇宙人が飛来しているとか、宇宙人が地球で何々してるとか、そんな話を俺は信じやしない。だいたい、もし宇宙人が本当に来ているのだとすれば、その事実を地球規模で隠し通せるはずがない。インターネットがこれだけ普及している今の時代、証拠隠滅しようが情報操作しようが、そんなのお構いなしに一般の人たちが集めてしまう情報を覆いつくすことなんて、国家権力を行使しても出来るはずがない。
どこぞの映画よろしく、地球人に気付かれないように、地球人のフリをして彼らが暮らしているとしてもだ。
だから、地球に宇宙人がいるはずもないし、テレビが面白がってでっち上げているだけだっ。動物実験なんてしてないし、人体実験だってしてないっ!
などと、天野光一は休み時間になって早々に机に突っ伏し、目をきつく閉じ、両の拳を握りしめ、見事に説得力なく破綻してさえしている主張を頭の中で必死に叫んでいた。そのすぐ側では、クラスメイトの男子数人が昨夜テレビで放映していた特番を話題にして盛り上がっている。その特番のタイトルは、『地球は宇宙人の実験場だった! 目撃者たちが語る真実! 地球は、宇宙人に支配されていた!』という、無駄に長く、とてつもなく胡散臭いもの。そして、熱を帯びて盛り上がる男子らに、数人の女子が「あんなので盛り上がっちゃってさ。男子って、ほんとガキよね」と笑い、その中の一人である小柴美代は、突っ伏している光一にやれやれとため息をこぼしていた。
光一が異常なまでに宇宙人ネタを苦手にしていることを知っているのは、この学校で唯一人、彼と同じ小学校に通い、同じ中学校に通い、今年の春からこうして同じ私立鶴ノ森高等学校に通っている小柴美代だけ。そして、どうしてそれほど弱いかは本人から語られたことがないので分からないが、どれほど弱いか彼女はよく知っている。故に、光一が今、机で寝ているのではなく必死に聞こえない振りをしていることも、今どんな表情をしているかも分かっていた。
そんなに嫌ならば、話し声の届かない場所へと避難すればよいだけのことなのだが、光一は席から動こうとしない。彼が意固地なまでにそうしている理由は、とても単純なもの。小学四年生のとき、宇宙人ネタに弱いことを知った美代が光一を冗談半分でからかい、大喧嘩に発展。以来光一は、目の前の宇宙人ネタから逃げ出したら美代に負けを認めることだと考えるようになり、敢えて耐える道を選び続け、周囲から犬猿の仲と認定されるほど何度も喧嘩をしながら、今に至っているという次第だ。
一言で言えば、美代に対して意地になっているだけのこと。
それをよく理解している美代は、ちくちくと刺さる感覚とその腹立たしさから、心の中で「たく、あの馬鹿。聞きたくなけりゃ教室を出ればいいじゃん」と悪態をつく。だがその台詞は、心の中だけでなく実際に口からも出ており、すぐ側にいた友人が「誰の話してんの?」と問い質した。
「へ?」
「誰が聞きたくないのかって聞いてんの」
「何の話?」
「それはこっちの台詞! あんた今、聞きたくなければ教室を出ればって言ったでしょうが」
「えっ!? うそっ!」
「……まだ寝ぼけてんの?」
「あ〜、と……。うん。昨日寝たのが遅くってさあ」
美代は苦笑いを浮かべて誤魔化そうとする。しかし相手は「ふ〜ん。で、誰?」と興味津々といった顔で追求の手を緩めようとしない。この状況に美代は、アンタのせいなんだからねと、心の中で光一に文句を言いながら、口から出任せでこの場を凌ぎきろうと、「いやあ、実は弟がね。最近、学校で怪談がブームらしいんだけど、男のくせにその手の話が死ぬほど苦手でさ、なのに友達に見栄張っちゃって、教室で一緒に聞いてるんだって。ほんとバッカみたいだよね」などと、必死に頭と口を回すこととなった。
そしてその声は、男子生徒の声に混じって光一の耳にしっかりと届いていた。彼女の言葉は、額面どおりに取れば彼女の弟を馬鹿にしたものだが、その弟が怪談大好きという事実を知っている光一は、弟ではなく光一を馬鹿にしたものだと確信し、宇宙人話に怯えながらも、美代に対する腹立たしさを忘れることはなかった。
美代としては、単なるその場しのぎのものでしかなかったのだが。
結局、宇宙人の話題は休み時間の度に光一の側で語り合われ、光一の休み時間は苦痛を伴う寝た振りで全て消化され、放課後になったときの光一はぐったりとしていた。そんな彼を、休み時間の度に机で寝ていたのに、どうしてあんなに疲れた顔しているのだろうと多くのクラスメイトは少しばかり思い、適当な推論で各々片付けていったのだが、まさか宇宙人の話題に必死に耐え続けていたとは、美代以外、誰も思いもしなかった。
クラスメイトの宇宙人話からようやく解放された光一であったが、これで完全に解放されたわけではない。まだ部活が残っている。ここでも宇宙人ネタで盛り上がりでもされたらと光一はぞっとし、そんな心配をずっとしながら過ごしていた。
結果を言ってしまえば、その心配は無駄に疲れさせるだけのものでしかなく、この日の精神的疲労を水増しさせ、山岳部のハードな練習による肉体的疲労感に拍車をかけただけだった。
こうして長い一日の大半を終え、とにかく早く家に帰ってシャワーを浴び、晩ご飯をたらふく食べ、ぐったりと横になることを糧に、美代に対する文句をぶつくさと言いながら帰路に就いた。徒歩と電車による片道三十分の帰り道は、いつもよりも遠く感じていた。そうして辿り着いた、親子三人で暮らすには少々大きすぎる我が家は、光一を嘲笑いながら出迎えた。全ての窓がひっそりと暗く静まり返っていたのだ。
この光景に、光一は顔を曇らせつつ玄関の取っ手を引くと、扉は僅かにがちゃりと動いただけで、彼を入れようとはしなかった。
「また……?」光一は嫌な予感に顔を歪める。
ポケットから家の鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込み捻った。カチャリという音とともに鍵が開き、扉を開けて家の中に入る。案の定、家の中は真っ暗だった。
「マジか……」
がくりと肩を落とし、さらに重くなった体を玄関に運び入れ、のそのそと靴を脱ぎ家に上がると、順に照明のスイッチを入れながらそのままリビングに向かう。そして広いリビングに入り部屋の明かりをつけ、テーブルの中央にきちんと並べて置かれているリモコンを取り、テレビとDVDデッキの電源を入れる。二つの機械は小さな起動音を鳴らして準備に取りかかり、光一がソファーに身を投げるようにして腰を下ろす間に準備が整うと、光一はデッキの再生ボタンを押す。ディスクを読み出すまでの僅かな時間をおいて、無精ひげを生やした短髪の男性と、若くて美しい女性が画面に映し出された。
二人はぴたりと寄り添いあってソファーに座り、爽やかな笑顔をこちらに向けており、そんな二人を光一は半眼で眺める。
「お帰り、コウ」画面の男性が快活に声を発した。彼は光一の父親。もうすぐ三十代中盤という彼の年齢は、少し色黒の肌とちりちりの無精ひげと広いおでこと眼鏡によって隠され、さらに年を取っているように見られることがほとんど。
そして隣の女性が「お帰りなさい、コウちゃん」と、おっとりとした口調でにこやかに声を発した。彼女は光一の母親。十六歳の一人息子がいるとはとても思えない彼女は、夫婦並んで歩いているととても仲の良い父と娘に見られ、一人息子と歩いていると姉弟に見られ、初めて事実を聞かされた人は例外なく驚いていた。
実の息子でさえ、この二人が夫婦というのは驚きに値する。といっても、中学に入る頃から、無駄に呑気で陽気な父親と、無駄に天然でマイペースな母親に、結ばれるべくして結ばれたのかと、乾いた笑いとともに思うようになっていたが。
「実はな、今日、昔の友達と偶然会ってな。そしたらそいつに、俺の嫁さんを紹介してやるから、お前も嫁さん連れて俺の家に来い、なんて言われて。とびきり美味いカニをご馳走してくれるって言ってるし、そういうわけだから、晩ご飯は適当に済ませてくれ」
「ごめんね、コウちゃん。ご飯は炊いておいたから。明日の晩ご飯は、コウちゃんの大好きなオムライスにしてあげるからね」
「ずるいぞ光一! 明後日は私の大好物にしてもらうからなっ!」
「それじゃあ明明後日は私の大好物ね?」
突っ込みどころ満載ながらも、画面の二人のやり取りを、いつものことと深々とため息をもらしてやり過ごした光一は、そのディスクに収録された、一片の罪悪感も感じさせない楽しげな両親の姿を最後まで見ることなく途中で止め、重い体を持ち上げてキッチンへと場所を変えた。
こうした置き手紙的なビデオレターは今回が初めてではない。先週も同じようなことがあり、前の月にもあった。さらにその前の月にも。初めてこれをやられたときは、二人の笑顔に憤りが先に立ったが、今ではこれも我が家の日常の一部と半ば諦めの気持ちでいた。両親に罪悪感がない以上、一人騒いだところで虚しいだけだと悟っていたからだった。
初めて気を利かせてご飯を炊いておいてくれたことに驚きつつキッチンへとやってきた光一は、おかずは何にしようかと冷蔵庫の扉を次々と開ける。最初は、カニを頬張る両親を想像し、釈然としない感情を沸々とさせて、ならばこちらも豪勢にと考えたのだが、疲労感から、これから調理することがひどく面倒に思うようになり、最終的には、漬け物の入ったタッパと卵を二つ取り出して扉を閉めていた。
たまに自分でご飯を作っている光一がその気になれば、それなりに豪勢なものを作れるのだが、今日の晩ご飯は体力をまったく使わない卵かけご飯と漬け物に決定。ということで、卵と漬け物をテーブルに置き、温もりを残している炊飯器の蓋をパカッと開けたのだが、光一は目を点にして、見事に固まってしまった。
炊飯器の中にあったのは、炊かれたお米でもなければ、炊く準備の整った、水に沈むお米でもなく、温くなったお湯があるだけだったのだ。
どうやら、といだお米を入れたと勘違いして、そのままスイッチを押したようだ。
「……どうしてこういうボケが出来るかなあ。しかも、何度も何度も。はあ、ちょっとでも喜んだ自分が馬鹿だった」一緒に魂が出てきそうな声で呟き、静かに蓋と瞼を閉じた。
ご飯がなければ卵かけご飯は食べられない。仕方なく、光一はお米を炊く準備をすべく、ステンレスのボールを手に米びつのところへと行き、排出用のノズルの上部にあるダイヤルを捻る。そして、光一は再び落胆した。
「米……、ないじゃん」
構えていたボールに落ちてきたのは僅か数粒のお米。米びつの蓋を開けて確認したところ、精一杯かき集めてもお茶碗の半分にも満たない量しか入っていない。たったこれだけで彼の胃袋を納得させられるはずもない。大量のおかずだけで済ますという手段もあったのだが、白米大好きな光一は、不平たらたらで夜食を買いに行くことにした。
これから起きる厄介事など知る由もなく。
時を同じくして、十月の夜空の下、名前の通り中央に広大な池を配した公園の茂みの中で、到底普段着には見えない、端的に言ってしまえばどこぞのコスプレ衣装を纏った一人の女の子が力なく地面にへたり込み、水色の長い髪を扇状にして背中に広げて、がっくりと頭を垂れていた。
彼女がこのような状態にある主たる原因は、右も左も分からぬこの地でこのまま路頭に迷い、目的を果たせずに終わってしまうのではないかという強い不安と焦りよりも、悲痛な訴えをする彼女の空っぽの胃袋にあった。
彼女が持ち出した携帯食は、極力倹約していながらも二日前に底をついてしまい、それからずっと食べ物を口にしていない。
「食べ物……、もっと持ってくれば良かった……」
ぼそりと呟いた女の子の、僅かに少女の面影を残しつつも大人っぽさを強く感じさせる顔は、空腹と疲労と不安で暗く沈んでいた。