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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
9/42

第九章 記憶


  1


 視界が、にごる。

 ‶触れない男〟の腕が、顔が、千花の手が、次第に消えていく。

 この世界そのものと同化してしまったかのように、ごく自然な流れでゆるゆると。

 時間にしてはそう長くなかったかもしれない。しかし僕には、その現象がまるで一時間くらいかけて行われたように感じられた。

 何だ、何だ? 何なんだ?

 目だけじゃない。耳も鼻も手の感触も、全てがふわふわとしたまどろみに包まれ自分の意識から乖離かいりする。

 例えるならば深い水の中にもぐっているような、豪雨の中に飛び込んだような、そんな感覚。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚……全ての感覚器官が再び揺らいだと思った途端、僕は――見たこともない場所に立っていた。


  ◆

 

「……おい、聞いてんのか?」

 突然不機嫌そうな声で肩をどつかれ、僕は痛みに顔を歪めた。

 視線を上に戻すと、上司の花園がつまらなそうな目でこちらを見下ろしていた。どうやら先ほどから僕に声をかけていたらしい。

「あ、すいません。集中していて。何か用でしょうか」

「本田。忙しいところ悪いが、これ明日までにやってくれないか」

 そういて花園は目の前に無数の書類を積み上げた。最近提案された複数の商品の製造見積書だ。

「これ全部ですか?」

「大した量じゃないだろ。工場の出した額が妥当かどうか、顧客に提示できる額として問題ないか判断して、俺らのコストを上乗せするだけだ。一枚五分でやればすぐ終わる」

 確かに手順的にはそうだが、工場のコストが妥当かどうか調べるには製造原価からなにやら細かなことまで把握しておく必要がある。こんなの、真面目にやればとても一日で終われる量ではなかった。

「すいません。私一人ではちょっと、誰か補助に回って頂くことは可能でしょうか」

「誰も手が空いてないからお前に頼んでいるんだろ。いいからさっさとやれ。終わんなかったらクビだからな」

 そういうと花園は上着を肩に掛け、さっそうとオフィスから出ていった。どうやら今日もお偉い方との飲み会のようだ。この会社のような小さな製菓会社では、他企業や販売店との連携は非常に重要だから、付合いとしての飲み会が重要であることはよく承知していた。しかしやはり、それでも仕事を押し解けられ残る身としては面白くなかった。

 今日でもう徹夜三日目だぞ……。

 深いため息を吐き作業途中だった資料を横に退ける。この続きは明日やるしかなさそうだ。


 営業に配属されてからはや八年。異様に離職率の高い職場だったせいだろうか、僕は三十という若さですでに熟練の一人として数えられていた。

 中高生の頃の僕がこの姿を見れば、きっと目玉をひん剥いて仰天することだろう。僕はずっとスケートが好きだった。プロ選手として競技に出るか、自分の店を持つことが夢だったはずなのに、何をどう間違えてお菓子を売るという職種についてしまったのだろうか。自分でもよくわからない。

 就職活動に難航して、とにかく社会人にならなければと手当たり次第に面接を受け、受かった会社の中で一番まともそうだったのか今の会社だった。あの当時はただ必死で採用されればどこでもいいと思っていた。

 こんなこと上司や人事の人間に言えば眉を寄せられるだろうが、僕は今の仕事が好きじゃなかった。ただ生活のために、お金を得るために働いているだけだった。高齢の両親はもう働くことが出来ず、年金と僕の収入だけが生活の支えだったから。

 人によっては社会に貢献する喜びとか、働く意義が大事とか力説する者もいるが、そういうのは自分を無理やり納得させているだけの逃避に思えた。仕事に楽しさを見つけなければやっていけないから、強引にそう考えて己をごまかしている。少なくとも、やりたかった仕事とはかけ離れた業務を行っている僕にとってはそうだった。


 カタカタとキーボードを打ち新商品の価格案を計算していると、いつの間にか深夜二時を回っていた。既に終電は過ぎ、周りに他の社員の姿もない。何日も徹夜まがいの残業をしていたせいで頭が重く、今にも割れてしまいそうだった。

 画面と向き合い続けているうちに自然とため息が漏れた。

 毎日こんなことを繰り返して、一週間の大部分の時間を好きでもない仕事に費やして、果たして僕に生きている意味はあるのだろうか。お金のためだと自分を納得させているけれど、その稼いだお金を使う時間もほとんどない。

 ――もし生まれ変われるのなら、今度はもっと上手く生きるのに。

 そんなことをふと思ったところで、突然頭に痛みが走った。鈍く鋭利な感覚が次第に大きくなり、思考を波打つように満たしていった。

 あ、これヤバいかも……。

 目の前がぐるぐると回転し立っていられなかった。自分の身体が自分でないようだ。

 がたんと椅子が大きく倒れる。――そして、僕は意識を失った。



  2


 気が付くと、淡いベージュのカーテンが視界を覆っていた。

 頭がはっきりせず泥溜めの中でもがいているような気分だったけれど、何とかそこが病院であることは認識することが出来た。視界の隅に看護師を呼ぶためのハンドスイッチがぶら下がっている。

 非常に気分が悪く吐き気が止まらなかったので、恐怖を感じながらもそのスイッチを押すと、ものの数十秒で看護士が姿を見せた。若く綺麗な女性だったのなら嬉しかったのだが、やってきたのは色黒の筋骨隆々な中年男性だった。いや、中年男性に見えているだけで実際は二十代なのかもしれなかった。彼の声は外見とは似使わないほどに若々しかったから。

 看護師に呼ばれやってきた医師から説明を受けた結果、僕は脳梗塞(のうこくそく)であると聞かされた。脳内の血流が止まることで、酸素や栄養供給が停止し細胞を壊死させてしまうという病気だ。

 医師の説明によると、倒れた当日に救急病棟で投薬を行い、脳内に出来ていた血栓を取り除いたそうだが、細胞の一部分は完全に壊死し、もう元に戻ることはないとのことだった。

「後遺症はあるんですか」

 恐る恐る質問すると、医師は淡々とした口調で答えた。

「酷い場合は継続的な意識不明や体感失調などが起こりえますが、本田さんの場合は体感も意識も正常ですし、今のところ影響はないと考えられます。経過観察のために二~三週間は様子を見て、何も問題なければ大きな後遺症が起こる可能性は低いでしょう」

「ありがとうございます。先生のおかげで克己の命が助かりました」

 同席していた母が涙混じりに頭を下げた。

「……仕事に戻れるのはいつからですか」

 後遺症の可能性も少なく、意識が正常というのであれば、次に気になるのはそのことだ。まだ途中の仕事は山ほどあるのに、ここで長期入院なんてことになれば、戻った時一体どれほどの残業を強いられることになるのか想像がつかなかった。

 僕の質問に対し、母は信じられないというように振り返り、医師は濁りのある表情を見せた。

「残念ながらしばらくは何とも。状態を見て判断しましょう」

 それっきり話を逸らし、入院中の生活について説明を始めた。

 僕は腑に落ちなかったが、医師の判断だからと己を納得させ、喰いつくような真似はしなかった。



 網戸越しに見える空は、雲ひとつなくまるで平らな地面のようだった。ずっと見つめていると何だがスケート場を思い出した。

 ベッドの上に座った状態だというのに、無意識のうちに足が前後に動いた。こんな状態になっても、体は感覚を忘れてくれないらしい。

 僕はあの摩擦の無さが好きだった。自分の身体が浮き出たような感覚が愛おしかった。滑っている間だけは、自分が別の次元にいるんじゃないかと思えた。

 がさがさとビニール袋の擦れ合う音が聞こえたので視線を横に向けると、恋人の梨花りかがちょうど部屋に入ってきたところだった。彼女は僕の顔を見るなりに明るい表情を浮かべ、

「お疲れ!」

 とパイプ椅子に腰を落ち着けた。

「今日は早いな。まだ十六時前だけど」

「シフト変わってもらったの。事情を説明してさ。どう? 調子は良くなった?」

「気分は悪くないよ。今のところ特に違和感もないし。元気はつらつってな」

「だったら良かった。これあげる。暇つぶしにでも使ってよ」

 つい先ほど買ってきたばかりなのか、梨花はビニール袋から文庫本を取り出した。最近逸りの作家の推理小説だった。

「俺、そんなに小説好きじゃないんだけど」

「読んでみれば案外面白いもんだよ。あたしも好きじゃなかったけど、友達に進められてはまったし」

 屈託のない顔でそう意地悪そうに笑った。

 まあ、確かに他にやることもないしな。

 気はあまり進まなかったが、時間を持て余していることも事実だ。僕は梨花の提案を受け入れ、その本を受け取った。

「それで退院はいつ頃になりそうなの?」

「一応あと一週間程度の予定だよ。体調次第だけど、それまでに何もなければ退院できるらしい」

「そっか。じゃあ退院したらおいしいもの食べに行こうよ。ずっと病院食だけじゃ物足りなかったでしょ」

 嬉しそうに話す彼女の顔を見て、僕は少し心が痛んだ。

「悪い。俺、当分の間は味の濃いものが食べれないんだ。ほら、脳の血管がまた詰まる恐れがあるからさ。今回の発症だって、睡眠不足と不摂生な食事が原因だって考えられてんだ」

「え、そうなの? それは――……つらいね。いつまで駄目なの?」

「……わからない。へたしたら一生野菜だけの生活とかになるかも」

 そういうと、梨花の顔から光が消えた。

「一生って、本当に一生ってこと」

「そうだよ。まだ確定じゃないけど。かなり長い期間になることは確かだ。甘いものもしょっぱいものも、勿論お酒もご法度だ」

「そんな……」

 泣きそうな顔で項垂れた。

「まあ、経過観察次第では普通の食事も出来るようになれるかもしれないし、本当にずっとになるかはわからないって。あくまで今の状態だとって話だ」

「治る見込みがあるなら、頑張ろうよ。私も協力するから」

 僕の右手を手に取り、優しく包み込む梨花。そのぬくもりに僕は小さな安らぎを覚えた。彼女がいればこんな体でも、こんな状況でも耐えられる。やっていけるような気がしていた。



「アンケートですか?」

 突然看護師から渡された用紙を目にし、僕は戸惑った。ベッドの横に据え付けられた台テーブルの上に乗せた紙切れを見下ろし、困惑の表情を浮かべる。

「ええ。とある医学組織の傾向検査だそうですよ。当病院と連携関係にある団体だそうで。今後の治療のためにもぜひご協力下さい」

「はあ、まあ別にいいですけどね。暇ですし」

 書かれている質問事項が妙だったため、違和感を抱いたが、別にアンケートに答えること自体は苦痛ではない。僕は渡されたペンを手に取り、再び内容を確認した。

 ――質問1:今、あなたが抱く一番強い望みはなんですか?

 何だろうこの質問は。意図がよくわからない。普通病院のアンケートというのは患者の扱いや治療に関する感想、施設の要望とかじゃないのか? これじゃあまるで思想調査でもされているみたいじゃないか。

 疑問に思いつつもとりあえず指を動かした。僕は最近よく思うようになった、‶人生をやり直したい〟という言葉を書いた。

 ――質問2:小さいころからのコンプレックス、もしくは強い目標はありますか?

 またもやよくわからない質問だ。アンケートというのは建前で、僕は精神の正常さを疑われているのだろうか。奇妙に思うも別に嘘をつく理由もないため、スケートで有名になりたかったと正直な気持ちを書いた。

 それから合計二十あまりの質問があったが、全てこんな妙な質問ばかりだった。意味が解らなかったが、記入していくにつれて色々と考えることがあり、結局全てに真面目に回答してしまった。何だか今の自分を改めて客観的に考えさせられたような気分になった。用紙を看護師に返すと、色黒の彼は満足げにそれを受け取った。

「ありがとうございます。あなたのご協力に感謝致します」

「あの、興味本位でお聞きしたいんですけど、そのアンケートを作ったのはどういった団体なんですか?」

 ファイルに用紙をしまおうとしていた看護師は、そこで手の動きを止めた。

 僕の顔を見上げ、一瞬の間の後に破顔した。

「さあ、私にも詳しいことは。上からの指示ですので」

 そんなことあるのだろうか。疑問に思ったが、ここで深く追求するのも面倒だったため会話を終わらせた。

 それから数日経ち、退院する頃にはアンケートのことなどすっかり忘れてしまっていた。



  3


 久しぶりに職場に入ると、何となく妙な気分だった。

 二週間も休んでしまったという負い目もあるが、それよりも急に別の国に来たような錯覚を抱いた。何が理由か、何が原因かと聞かれれば上手く答えることは出来ないのだが、とにかく、入院生活を含めた外の世界との違いを強く感じたのだ。

 休んでいる間にかなりのメールが溜まっていたが、同僚が補助に回ってくれていたらしく、大きな問題になるようなことは無かった。嫁が車に引かれ重体になっても深夜まで働いていたというのが自慢の上司も、以前のように異常な量の仕事を振ってくることはなく、その日は軽い引き継ぎ作業だけを行うことで済んだ。

「あれ。本田。まだやってんのか? 病み上がりだろ。今日はもう帰りな」

 補助に入ってくれていた同僚が十九時過ぎまで働いている僕を見て、心配そうに声をかける。いつもなら定時? 二十四時のことか? と言わんばかりの雰囲気を出している職場だったから、逆に申し訳ない気持ちになった。

 まあ、これでしばらくは徹夜することなんて無さそうだな。

 倒れた原因が不摂生な生活と深夜残業による身体的負担であることは、上司にも電話で伝えていた。過度な労働を敷いてまた倒れられるより、適度に使うほうが得だと判断されたのかもしれない。

 これが切っ掛けで業務体制を見直してくれればいいのにと密かに願いながら、僕は入院前のように淡々と自分の仕事に取組み、時を過ごした。

 ――異変が出始めたのは、一か月後のことだった。

 いつも服用していた薬が切れていたのだが、病院に行ける暇がなく、週末まで購入を我慢することにしたのが災いした。酷く愚かな行為だった。

「なあ、本田。まだ大丈夫か? ちょっとだけこの資料の整理を手伝って欲しいんだけど」

 当日のノルマを終え、帰り支度をしていたとき、入院中に補助に回ってくれていた同僚が酷く困った表情で話しかけてきた。まだ遅い時間ではなく、彼に恩義を感じていた僕は、快くそれを承諾し、手伝おうと思った。

「ああ。いいよ。何の資料?」

「うちの既存製品の年表と種類の説明なんだけどさ。量が多すぎてとても一人じゃまとめきれないんだよ。今度のプレゼンで使うからって、部長に命令されちゃってさ」

 あの部長。僕に指示をしなくなったかと思えば、今度は彼を頼りだしたのか。あんなに早く帰宅しているのなら、少しは自分で資料をまとめればいいものを。

「わかったよ。じゃあ、和菓子とスナック菓子についてまとめるから、お前は冷凍菓子のほうから頼むよ。ちゃっちゃと終わらせようぜ。迅速にな」

「ああ。悪いな。あとで必ずこのツケは返すから」

「気にするなよ。俺が入院してたとき、溜まってた俺の仕事をお前がやってくれたんだろ。これでおあいこさ。イーブンだ」

 僕は彼からデータを送ってもらい、その振り分けに入った。時間が少し気になったが、一日だけなら問題ないだろうと思い、集中して資料をまとめていく。

「本田、わるいけど、この菓子の資料って持ってないか? サーバーにも入ってないんだがよ」

「ああ。前に見た事あるな。たしかタなカカちょうガ、かかワってタ――」

「え? 何だって?」

「ダかラ、タ、な、カ……」

 何だろう。急に言葉が思うように回らない。言いたいことは頭の中でしっかりと浮かんでいるのに、口から出てくる言葉は外国語のようだ。

 僕の異変を察知したのだろう。同僚は不思議そうに顔を上げたが、僕は彼の言うことに対してまともな言動を返すことが出来なかった。

 あ、これもしかして……――

 脳裏に浮かぶのは自分の病名。すぐに病院に連絡をしなければと思い至る。言葉では伝わらないので、僕は紙に病院の連絡先と症状を書き、同僚に連絡をお願いした。

 異変に気が付いたのだろう。同僚は僕以上にひどく狼狽し、怖慌てて端末を手に取った。



 診察の結果、その症状は予想通り脳梗塞の再発だった。

 血液の固まりを抑える薬を飲まなかったせいで、血管のつまりが再発し、言語中枢に影響を与えてしまったとのことだった。残念なことにもうまともにしゃべれる可能性は低く、かなり長期のリハビリが必要になるとの話を聞かされた。

 長期入院こそしなかったものの、その後遺症のせいで僕は仕事を失った。言語機能に不自由がある以上、営業としてやっていくのは難しいという判断を下されたからだ。もちろん他の部署への移動も進められたが、僕はそれを拒否し辞職する道を選んだ。今まで笑顔で接してきた人たちが、今まで競い合ってきた人たちが、僕を憐み、痛々しいものを見るような視線を向けてくることに耐えられなかったからだ。

 しばらくリハビリと通院生活を続けながら次の仕事を探したが、営業という職種で十年を費やした僕は、それ以外の技術を持っていなかったことと、いつ病気が再発するかも怪しい状況だったため、就職活動は難航した。

 そうこうしている間にまた病気が再発した僕は、二度目の入院生活を送ることとなり、就活は一旦そこで断念せざる負えなくなった。

 

 

 ベッドの横に座った梨花を見て、僕はおもむろに口を開いた。

 何でこんなことになってしまったのかと言ったつもりだったのだが、彼女には上手く伝わらなかった。暗い表情できょとんとされたため、仕方がなく筆記でそれを伝えようとしたが、情けなくなり途中でやめた。代わりに自分の症状について説明した。

 ――元々血管が弱くて片頭痛も多かったから、脳の血管が詰まりやすい体質なんだってよ。参っちまうよな。

 それを見た彼女は悲しそうに俯いた。

「頑張るしかないよ。リハビリすれば治る可能性だってあるんだし」

 梨花の立場からすれば、そうやって元気づけるしかないことはわかっていた。けれど、その時の僕には余裕がなく、その言葉に苛立ちを覚えてしまった。

 ――頑張れ、頑張れって。そんな簡単に言うなよ。俺が頑張ってないとでも思ってるのか。

 怒りを伝えるように、殴り書きした。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃなくてね。ただあたしは克己くんに前を向いて欲しくて……」

 最近見る梨花の姿は誤ってばっかりだった。僕はそんな彼女を見るのが嫌で、彼女にそんな態度をとらせてしまう僕が嫌で、ますますそっけない態度をとってしまった。

 ――今日は帰って欲しい。一人になりたいんだ。

 メモを見た梨花は、悲しそうに、それでいてどこか寂しそうに小さく微笑んだ。

「わかった。ちゃんと毛布を掛けてね。最近寒くなってきたから」

 僕は何も答えないまま天井を見つめた。梨花は申し訳なさそうに席を立ち、そのまま部屋から出ていった。

 ――僕が彼女と別れたのは、それから三週間後のことだった。



  4


 入院し薬を再開してもなお、僕の症状の悪化は止まらなかった。

 血液の状態や成分は正常なはずなのに、何故か脳の途中で血流が停滞するといった状態が頻繁に起こる様になったのだ。

 幾度も検査を行い、担当医師も必死に原因の追究を行ってくれたが、結局その症状の原因はわからなかった。

 時間が経つにつれ、僕の身体はその機能を狂わせていき、二週間が経つ頃には歩くことが出来なくなり、視界も六割ほどが見えなくなっていた。

 尋常ではない速度で脳細胞の壊死が繰り返された結果、隣接した神経の多くを傷つけてしまったらしい。このままのペースで症状が再発すれば、あと何日生きられるかも怪しい状況だった。


 柔らかなベッドに横たわっていると、雨の音が耳に流れ込んできた。

 連続的に繰り広げられる強い主張から判断するに、どうやら土砂降りのようだ。目がほとんど見えないせいで様子はわからないが、外はかなり暗くなっているのだろう。

 無差別に地面を叩き染み込んでいく雨の音は、まるで空の悲鳴だった。実際はただ蒸発した水蒸気が重さで落ちてきているだけに過ぎないのだが、今の僕には自身の苦しさを代弁してくれているのかのように思えた。

 しばらくそうしてじっとしていると、以前空を見てスケート場を連想したことを思い出した。あの時は勝手に足が動いて苦笑いしたものだが、今となってはそれすらも輝かしい思い出だ。もう僕の足はピクリとも動かない。ピクリとも動かせない。

「あ……――」

 勝手に嗚咽が漏れた。

 雨の音とは何故こうも人の気持ちを暗くさせるのだろうか。

 不意にこれまでの色々な出来事が脳裏に浮かび、次々に流れていった。

 一緒に部活動に励んだ仲間たち。

 汗水たらしてスケートに熱中していたあの頃。

 他校に敗北し、悔し涙を流す僕を、必死に励ましてくれた梨花の顔。

「うぁぅ……」

 もう僕は何も話せない。

 どこへも行けない。

 何も見れない。

 何も出来ない。

 ただうめき声を上げ、誰かの助けを待つことしかすることがない。

 なんて惨めなのだろうか。なんて、なんて辛さなのだろうか。

 僕はただ必死に生きてきただけだった。スケートの夢を諦め、両親と生活のために命を削って働き、ただ必死に、必死に歩いてきただけなのに。

 なぜ、何でこんな目に遭わなければならなかったのだろう。

 僕はもっと自由に生きたかった。もっとやりたいことをしたかった。もっと自分のために生きたかった。選んできたのは僕だ。全ての責任は僕にある。けれどそれでも、人生をやり直せるのなら、こんな道は二度と辿らないと強く願った。

 顔の横が冷たい。流れ落ちた涙が枕に染み込んでいる。僕は湿り気を嫌がり上半身を横へ傾けた。雨の音が後方へ移動し、病室の扉側が視線の先に来た。

 そのまま目をつぶり眠ろうとしたのだが、視界の端に何やら黒い影のようなものが映った。人の形をした黒い影がベッドの横に立っていた。

「誰……?」

 医師だろうか。輪郭からして大人の男性のようだ。部屋の中に入ってきたことに全く気が付かなかった。

 僕がじっと見つめていると、その人物はゆっくりと口を開いた。僕の神経が劣化しているからか、妙にフィルタのかかった声に聞こえた。

「……可哀そうに。君は素晴らしい才能を持っているが、それが宿っているのは脳の一部にのみだった。その一部分が君の願望を叶えようとして、不調和を生み出してしまったんだ」

 何を言っているのだろうか。よくわからない。口ぶりからするとやはり医師のようだが、どこか違和感があった。

「あねとどせが――……」

 あなたは誰ですか? そう聞こうとして、僕は自分でもよくわからない音を垂れ流した。

 その人物はそっと僕の寝ているベッドに腰掛けると、優しく僕の上に手を置いた。黒い靄のような世界の中に、優し気な瞳だけが辛うじて見えた。触れられた箇所から安らぎが流れ込んでくるようだった。

「苦しいかい?」

 穏やかな調子でそう尋ねられた。まともな言葉を発せられない僕は、小さく首を動かすことでそれに答えた。

「もっと、生きたいかい?」

 慈愛に満ちた暖かい声。この声を聴いていると妙に安心することが出来た。まるで生まれたばかりの子供が父に抱かれているような気分になれた。男の目を見上げながら、僕は再び静かに頷いた。

 全てわかっていると、全て理解しているとでも言うように、男はにっこりと微笑み頷いた。無意識のうちに意識が彼の掌に集中した。

 僕の様子を確認した男は、腰を曲げ顔を僕に近づけた。耳元に男の息がかかった。

「君は、生まれ変わりたいかい?」

 短く簡潔な言葉。だが、それまでの質問よりも妙な迫力がその一瞬にはあった。僕は一瞬気圧されそうになったものの、蜜の香りに呼び寄せられた蟲のように、気が付けば、言葉を返していた。

「うりれ、かわれとい」

 男の目が大きくたわんだ。暗闇の中に彼の瞳だけが三日月のごとく光って見えた。

 僕の言葉を聞いた男は立ち上がり、そしてそのまま部屋を後にした。黒い影が扉の向こうへと消えていった。

 急に雨の男が耳に飛び込んでくる。そういえば土砂降りであることを思い出した。今の今まで意識が完全に水音から離れてしまっていたらしかった。

 僕は夢でも見ていたのだろうか。右手を持ち上げ胸の前に持ってくると、そこには微かな温かみと毛布のへこみがあった。やはり誰かがここに居たのは事実のようだ。

 真っ暗な扉の奥は、こことは次元の異なった世界のようにも見えた。そこには見知った廊下しかないはずなのに。

 そうして廊下に眼を向けていると、先ほどまでの温かみが嘘のように肌寒さを感じた。僕は身ぶるし、毛布を掛けなおした。

 雨の音は、より激しさを増していた。


 カラスの鳴き声が遠ざかっていく。

 今日はあまり体を動かす気分には慣れず、朝からずっと寝ていたのだが、もう夕方になってしまったようだ。

 赤と黄金色の光が視界に入り込み、僕の景色をにじませていた。

 何故だろう。僕はそのとき無性に外の世界を眺めてみたくなった。視界が侵されているせいでまともに見えないことはわかっていたけれど、どうしても我慢が出来なかった。

 肘に体重をかけ、のろまな動きで体を起こした。そしてそのまま手を伸ばし、窓の縁に体重を乗せた。

 視界を満たす光が強くなり、何とも言えない思いが湧き上がってきた。

 僕は蝶番ちょうつがいを外し、室内に風を流し込んだ。多くの風が肌の上を滑り抜け、後ろへと飛び込んでいく。

 道路を走る車の音。

 人々の話し声。

 空き缶や石ころ、ゴミが転がる音。

 色々な音が空間に溢れ、世界を作り出していた。

 ――ああ。何て羨ましいんだ。

 何気ない日常に過ぎないもののはずなのに、不思議なほどに愛おしく感じられた。周りに存在するもの全てが、今ここに生きていると実感できた。

 風に紛れて、鈍い痛みが後頭部に走る。

 それは次第に大きくなり、頭のあらゆる箇所へと広がっていった。

 何度も体験してきたからわかる。これは、まずい痛みだ。僕に留めを指す最後の痛み。

 僕はしがみつくように窓に体を押し当てた。

 世界はこれほど美しいのに、これほど豊かなのに。なぜ人生はこうも苦しいのだろうか。なぜこうも単純になれないのだろうか。

 一体自分が何のために生きてきたのか、何のために頑張ってきたのか、こうして死を目前にすると、全てが滑稽なもののようにすら思えた。

 ――生きたい。

 切にそう願う。僕は、生まれて初めてまともに‶生きたい〟と思った。

 痛みが激しくなり脳髄を揺さぶる。視界一面に溢れていた小金色の光が徐々に消えていき、耳を撫でていた雑踏の音もその声量を落としていく。

 深い深い闇が周囲を包み込み、動きを、音を、温かさを奪っていく。

 今までに感じたことがないほどの冷たさだ。絶望するほどに心細かった。

 もう自分が倒れているのか、立っているのか。ただ体が細く細く引き伸ばされて消えていく感覚だけがあった。

 ああ、くそったれ――。

 誰に向けての、何に向けての言葉なのだろうか。自分でもよくわからない。

 ただ抑えきれないほどの怒りと後悔だけが、心から溢れ広がっていった。

 その波に呑まれるように、僕の意識は遠く、遠くへと落ちていき、そして、この世から消え去った。





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