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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
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第八章 捕縛




 ガタガタとプレハブの揺れる音が背後で響いた。今日はどうも風が強いらしい。

 僕は手に持ったクリームパンを優雅にひと噛みし、その柔らかな生地を存分に味わった。口の中いっぱいに甘い香りと食感が染み渡る。

「すごくおいしそうに食べるね」

 まるで面白いものでも見るように、千花がくすりと微笑んだ。

「クリームパン、好きなんだよ。基本的にパンはあまり食べないんだけど、これだけは別かな」

「単に甘いものが好きなだけなんじゃないのかな」

 その考察は否定できない。僕は唇の下についたクリームを手で拭きとった。

「千花は食べないの?」

「もちろんあとで食べるよ。お弁当持ってきちゃってたから。早く食べるのは苦手なんだ」

 フェンスに背中とお尻を押し付け、彼女は控え気味に微笑む。

 他の生徒に邪魔されないように、授業が終わったらすぐに上へ移動しろとの指示だったのでそうしたのだが、何だか悪い気がした。水を飲むようにいそいそとクリームパンを喉へ流し込むと、少しだけむせかけた。

「……それで、話って?」

 僕が聞くと、千花は僅かな間を空け口を開いた。

「あのね、この前言えなかったから、ちゃんと穿くんに謝ろうと思って……」

「謝る?」

 一体に何についてと聞き返しかけたが、彼女の表情を見て、すぐに体育の時間のことを思い出した。

 僕が中学一年生のころに書いていた絵のこと。

 それを見せたということ。

 そして、彼女が言いかけていた「あんなことになって」という、意味深な言葉

「三年前のあの事件。私と穿くんが襲われて、穿くんがあの男の人を〝殺した〟……あの事件について」

 神妙な顔でスカートの前に手を交差させる。どうやらこちらの反応を待っているようだった。

 僕は右手の親指で同じ手の薬指から人差し指までを撫でる、という動作を繰り返した。これは考え事をするときの癖みたいなものだった。元々は母さんの癖だったのだが、小さい頃から見ているうちに気がついたら自分にも移っていたのだ。

 千花は今、確かに「僕が殺した」と言った。襲われて、僕が殺したと。

 僕は別にシリアルキラーでも、サイコキラーでもない。

 進んで人を殺したいなんて微塵も思わないし、思いたくもない。でも事実として、一度だけ人を殺してしまったことがある。

 カナラを守ろうとして伸ばした手から突然起きた〝蟲喰い〟現象。それが、あのときの襲撃者の心臓を粉々に破壊してしまった。

 僕はこの罪を誰かに話したことなどなかった。知っているのは、僕とあの時実際に死体を目にしたカナラだけ。だから千花がそれについて言及することは、衝撃的であり、それ以上に不可解極まりないことだった。

 なぜ、君がそれを知っている? なぜ、当事者のように話す?

 得体の知れない違和感と不信感がぐるぐると頭の中を回り、僕を不安に酔わせる。一瞬、ここがどこだか分からなくなりかけた。

 沈黙に耐えられなくなったのか、彼女は言葉を続けた。

「私……血だらけで倒れているあの人を見て、色々と怖くなっちゃって、逃げ出した。穿くんだって怖かったはずのなのに……。本当にごめんなさい」

 僕の目をじっと見つめたまま、彼女は心の底から申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べた。僅かにうるんだその目は、とても嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 どう答えようか迷ったのち、僕はとりあえず彼女の言葉に話を合わせることにした。

「いや……あんな光景を目にすれば、誰だって無理はないよ。僕もかなり混乱していたし。――何で、あれ以降姿を見せなかったの?」

「しばらくは怖くて家に閉じこもっていたっていうのもあるけど、ちょうど母の再婚の関係で、引っ越すことになって……。逃げたぶん会いずらかったし、それでそのまま……」

 ということは、あの事件の直後に苗字が変わり、そして転校していったというわけか。随分と急な話だ。いや、むしろタイミングが良すぎるともいえるか。

「穿くんは、大丈夫だったの? その……事件の後」

「警察には色々と聞かれたけどね。僕がいくら説明しても、結局ただの自殺ってことになったよ。胸の前に爆弾を仕込んでたとか、自分でナイフでえぐったとか。融解効果のある薬物を使用していたとか、そんな感じの適当な理由で。だから、後処理的な意味ではそんな苦労はしていない」

「そっか……」

 千花は心苦しそうな表情で視線を地面に移した。

「結局、あれは何だったの? 穿くんがあの人にやったのは? 私には何も持っていなかったように見えたけど」

「――え?」

 僕は思わず、指の動きを止めた。それは、想像していた言葉ではなかった。

 挙動がおかしくなった所為か彼女が怪訝そうに眉を寄せる。

「穿くん? どうしたの?」

 それに対し僕は何も答えることができなかった。

 どうやら千花は蟲喰い現象については、知らないらしい。あの事件の記憶を持っているようだったから、てっきりそれについても認知しているのかと思っていたのだが……。

 一体何なんだ? 何が、どうなっているんだ?

 〝触れない男〟という、自分を狙う怪しい存在。

 カナラの体験を持つ、蓮見千花という少女。

 そして、悩み、苦しみ続けてきた蟲喰いという異常の理由。

 考えることが多すぎて、僕は探りをいれることも忘れ、その場に固まってしまった。

「穿くん……?」

 心配そうに覗き込む千花。

 僕はひたいを押さえながら、彼女を制した。

 まだ、わからない。僕があのとき一緒にいたのはカナラで、彼女は僕の起こした現象を見て、意味深な顔をしていた。僕の起こした現象を見て、逃げ出した。少なくとも、僕の記憶上ではそうだ。

 なぜ千花が彼女の記憶を持っているのかは知らないけれど、見たことのない光景を意味深に憶えているはずもないし、必ず、あの反応をした人物は別にいる。そうでなければおかしい。

 一週間ほど前に見た、夕焼けに染まった少女の姿。あれは確かにカナラだった。

 真方カナラは、実在している。

 僕は何とか気を取りもつと、重い頭を持ち上げ、千花を振り返った。

「ごめん、ちょっとめまいがして。もう、大丈夫だから」

「本当? 保健室に行く?」

「大丈夫だって。たまにあるんだ。最近あんまり寝ていなかったからかな」

 作り笑いを浮かべ、僕は汗をぬぐった。

「……千花の気持ちは十分に分かったよ。でも、僕は全然気にしていないから。もう済んだことだし、忘れよう」

「……本当にごめんね。嫌なこと思い出させちゃって……」

「だから気にしなくていいって。……君も大変だったみたいだし。お互い様さ」

 僕が長年人殺しという罪に苦しんでいたように、千花がカナラの経験を本当に持っていると仮定するのならば、彼女自身も、僕を残して逃げたことを、深く悔いていたはずだ。家庭事情も色々とあるようだし、決して気楽に過ごしていたわけではないだろう。なるべく穏やかな調子で僕は微笑んだ。

 それを見た千花は、ほっとしたように手を差し出した。

「じゃあ、握手しよう。仲直りの握手」

「仲直りって、別にケンカをしていたわけじゃないじゃないか」

「なんとなくだよ。なんとなく、ね。ほら手を出して」

 色白の、簡単に折れてしまいそうな細い腕をぐいっと前に伸ばす。僕は何だかなと思いつつも、それに応じようと彼女の手を掴もうとした。

 指が彼女の肌に触れた刹那、僕の頭の中で何かの光景がフラッシュバックした。

 ―― なんとなくだよ。なんとなく、ね。ほら手を出して。

 たった今聞いたのと同じ言葉が、脳内で正確に再現される。赤っぽい土。水の流れる音。蟲の鳴く声。周囲を囲むコンクリート……ここは――

「穿くん? おーい」

 僕は間近で聞こえた声にはっとし、思わず身を反らした。すぐ目の前に千花の目がある。

「突然気を失う癖でもあるの? 大丈夫?」

 前髪を耳に掛け、彼女は呆れたように笑みを浮かべた。

「ごめん、やっぱり疲れてるみたいだね。ちゃんと寝ないと駄目だな」

 何か重要なことを思い出しかけていたけれど、それ以上己の世界に篭ることはできなかった。僕はあくびをするふりをして、口に手を当てる。

 ちょうどそのとき、小型の雷が放電したような音が段階的に小さく響いた。

 僕がきょとんして音の発生源を眺めると、千花は顔を赤くしてお腹を押さえた。すぐに状況を理解する。

「……もどろっか。お昼、ちゃんと食べたほうがいいよ。僕もパン一個じゃ足りなかったし」

「……うん。そうだね」

 エロ本を必死に隠しているとき、従兄弟の奏太はこんな表情をする。僕が敢えて〝小さな雷音〟のことには触れず扉のほうの向くと、千花は恥ずかしそうに視線を逸らしたまま、頷いた。


 


  2


 放課後。僕にとっては一日の中でもっとも緊張感を高める時間帯。朝は通勤や通学で多くの人が行きかうこの街も、夕方や夜となるとその歩行者の数はがくっと下がる。

 大抵の生徒は部活動に励んでいるし、そうでない者もゲーセンや買い物に繰り出すことが多いため、直帰ともなればかなり寂しい思いをしなければならなかった。

 僕だってできればそういう学生らしい青春活動を謳歌(おうか)したかったのだが、帰宅時間が遅くなればなるほど、〝触れない男〟の襲撃も成功しやすくなる。大勢で暗い道を通り、最終的に一人で帰宅することと、最初から一人で明るい道を進むことを天秤にかけた結果、僕は後者を選んだのだった。

 いつものようにできるだけ大通りを進み、人の多い場所を移動する。この前のようなことを避けるために、なるべく道路側に寄って歩いた。

 駅前の交差点を曲がり、真っ直ぐに海に向かって突き進む。歩行者は少なかったけれど、行きかう車はそれなりにいたから、それほど危機感は抱かなかった。

 またいつ〝触れない男〟に襲われてもおかしくはない。このまま今の状態を続ければ、先に値を上げるのは間違いなくこちらだろう。そろそろ手を打たなければならないとはわかっていたけれど、どう手を打てばいいのかは、さっぱり見等もつかなかった。

 十字路を曲がる車を待ち、歩き出そうとしたとき、いきなり肩を叩かれた。

 この前のことがあるからどきりと心臓を冷やしたものの、〝触れない男〟が肩を軽やかに叩くなんてフレンドリーな真似をするわけがないと思い直し、振り返った。そこに立っていたのは、いぶかしげな表情を浮かべた千花だった。

「や、やあ」

 僕は不自然極まりない感じで、それだけ述べた。

「姿が見えたから声をかけたんだけど……何か、朝よりも顔色が悪くなってるね。大丈夫?」

「だ、大丈夫。ちょっと眠気が凄くて」

「ちゃんと前見て歩かないとだめだよ。この県は都会と違って運転が荒いんだから」

 それは重々承知している。何せ、信号が赤に変わってから毎回二台はそれを無視して車が突き進んでくるような町なのだ。僕は彼女に気づかれないように、大きく息を吐き出した。

「千花の家って、こっち方向なの?」

「違うよ。薬局に用があったから来ただけ。私の家は、あっち」

 彼女が指差した方向は、駅を中心に学校とは反対側に位置する場所だった。

日輪出ひわでのほうか。ずいぶんと遠くに住んでるね」

「いい家がなかなか無くてね。学校の近くは全部築年数が古いものが多くて、嫌だったの。あっちは比較的建設されてから数年しか経っていないって家が多いんだよ」

「ふ~ん、そうなんだ。何でだろう。別に何も無いような気がしたけど」

「国道沿いだからじゃないかな。都会やショッピングモールに行くには、実際かなり便利だって話だし。車がある人はみんなあっちに住みたがってるんだって」

 なるほど、そういうわけか。こっちは車が主な移動手段なのだ。住んでみて気がついたが、スーパーや銀行、郵便局、飲食店などは、駅前よりも国道付近に密集している気がする。今後もこの街に住みしばらく住居を変更しないのならば、確かに国道付近のほうが便利といえば便利だ。

「穿くんの家はどこなの?」

「ここをまっすぐいって、右に曲がればすぐだよ。海の見えるペンションハウスみたいな家。安売りしてたのを父さんが買ったんだ」

「ペンションハウス? ちょっと観てみたい、かな」

「全然大したことはないよ。うちの学校の屋上にあるプレハブを想像してみて。あれより作りはしっかりしてるけど」

 雑談が始まってしまいそうだったので、僕はそこで話を切った。

 うながすように前を向き、移動を再開する。千花はカバンの紐を両手でもち上げ、慌てて僕についてきた。

 薬局まではそう離れておらず、すぐに目の前まで移動することができた。僕は適当に挨拶をして別れようと思ったのだけれど、その直前で、見知らぬ男が心細そうな表情を浮かべ近づいてきた。眼鏡をかけた三十代ほどのサラリーマンだった。しわだらけのシャツをまとい、何かのメモのようなものを持っている。どうやら地図のようだ。「すいません、ちょっといいですか」と、疲れたような笑顔を向けてくる。

 僕は多少面倒に感じつつも、素直に呼びかけに応じた。何となく流れで千花もいっしょに足を止めた。

「この近くに大和田鉄鋼っていう会社があるはずなんですけど、知りませんかねぇ」

 大和田鉄鋼? 聞いたこともない。

 最悪なことに、僕も千花も引っ越してきて日が浅い。そんなマニアックな知識は持ち合わせていなかった。

「すいません。ちょっとわからないです」

 申し訳なさそうな顔を作り、軽く頭を下げる。すると男は手に持っていた紙を目の前に差し出した。

「ここなんですけど、どう行けばいいかわかりませんか。あんまり時間がなくて……」

「え~と、どれですか?」

 紙を受け取り、両手で開く。だがそこには何も描いていなかった。絵どころか文字すらない。まったくの白紙だ。

 何だこれ? と思った瞬間、僕は全身に猛烈な痛みを感じた。背中から肺、腕と、何かが恐ろしい速度で駆け巡る。

 足がよろけ男へと寄りかかる。千花からは死角となる位置で、黒く平べったい機械のようなものが相手の手の中に見えた。

「どうしたの? 大丈夫……!?」

 驚き横へ回った千花を見て、男は機械をポケットの中へとしまった。そして心配そうに僕の顔を覗き込む。

 その目を見て、僕は全てを理解した。

 化粧でもしているのか随分と印象は違っていたが、この距離ならば間違えようはない。冷たく生気のない濁った瞳。これは――〝あいつ〟の目だ。

「様子がおかしい……! 何かの発作かもしれない。一端どこかに寝かそう。――君も手伝って」

「え? は、はい」

 駄目だ。千花、こいつは――

 必死に抵抗しようとしたけれど、電流の所為で麻痺した身体は思うように動かない。難なく移動させられ、路地へと連れ込まれる。ひと気はほとんどなかった。

「どこに……――」

 それを最後に千花の声が途切れる。視界の隅で彼女の鞄が転がった。

 まずい、まずい、まずい……!

 凄まじい恐怖と不安が湧き上がる。

 千花は大丈夫なのか? どうなった?

 苦しみに耐えながら必死に顔を持ち上げる。頭が異様に重かった。このままでは確実に拉致される。僕は最後の力を振りしぼって男の腕から逃れようとしたけれど、すぐに強い痛みと衝撃を再び感じ、意識を失った。

 

 

 

  3


 穿くん! 穿くん……!

 自分の名を呼ぶ声が聞こえる。どこかで聞いたことのある声だ。その声に導かれるように、僕は重いまぶたを開けた。

 黒っぽい地面と茶色い壁が視界に飛び込んでくる。吸い込んだ空気がいやに埃ぽかったので、口が蛇腹のようにうねった。

「よかった。大丈夫?」

 すぐ隣から千花の声が届く。振り向こうとしたけれど、身体が思うように動かず、僕は前のりに倒れてしまった。

「いてっ!?」

 頭を打ちつけ声を漏らす。大量の砂が頬についた。酷く気持ち悪い。どうやら手首と足首を紐かなにかで拘束されているらしかった。

「わっ、大丈夫?」

 驚いたような声を漏らす千花。

 何とか頭だけを彼女のほうに向けると、ちょうど目の前にきめ細かく白い膝が見えた。

 ――ああ、この位置関係はまずい。

 僕の視線に気がついたのか、千花は一瞬恥ずかしそうにこちらを睨んだのち、強く両足を閉じた。

「ご、ごめん」

 僕は狼狽し、ごろんと身体の向きを逆に変えた。

「……元気そうだね。よかった」

 多少皮肉交じりに聞こえるのは気のせいではないだろう。

 僕はこの耐え難い空気を抜け出そうと、話題の矛先を変えた。

「ここは、どこなんだ?」

「どこかの廃屋みたいだよ。窓の外にたくさんの車が見えたから、廃車置場か何かになってる場所かもしれない」

「窓?」

 視線を動かすと、下のほう――いや、空を上とするのならば左のほうに小さな窓があり、そこから外の景色を見ることができた。十メートルほど先に車道のようなものが横切り、手前の駐車場からそこまでは、いくつもの廃れた車が無造作に転がっている。

 だんだんと何が起こったか認識できてきた。僕たちは〝触れない男〟に襲われて、それで――

 ぞっと悪寒が走った。そうだ、僕たちは捕まってしまったのだ。あの怪しい男に、得体の知れない、あの男に。

 今はどこかに行っているのか姿は見えないが、戻ってくれば酷い目に合わされることは目に見えている。

 くそ、何で千花まで……!

 〝触れない男〟が興味を持っていたのは僕だけだったはず。姿を見られたから、とりあえず捕まえたということなのだろうか。

 自分のせいで何の関係もない彼女を巻き込んでしまった。通学途中は危険だと分かっていたはずなのに……。

 僕は己の愚かさを恥じ、自分で自分を殴り飛ばしたくなった。

「あの人は何なの? すっごい速さで動いて、まるで地面の上を滑ってるみたいだった」

「……わからない。でも、たぶん、この前僕を襲ったやつと同一人物だと思う」

「この前って、私が来る前に起きた事件のことだよね? 皐月ちゃんが怖い目にあったっていう」

「ん? 森原さんと知り合いなの?」

「あ、うん。真希ちゃんと一緒にいるときに話しかけられただけなんだけど」

 真希……ああ、日比野さんのことか。なるほど。

 僕はすぐにどういう経緯か理解した。

「――とにかくここから逃げよう。あいつが戻ってきたら終わりだ。早く人の多いところに行かないと」

「でも逃げるってどうやって。手足を動かせないんだよ?」

「……大丈夫」

 僕は〝蟲喰い〟を使い、拘束していた紐を吹き飛ばした。まるで紙吹雪のように無数の繊維が宙を舞う。

「え!? な、なにしたの?」

 彼女は相当驚いたようだったけれど、今は説明している暇などない。あの男が戻ってきたら終わりなのだ。

 どうせ千花はあの事件の経験を持っている。〝蟲喰い〟という異常の存在も、ある程度は理解を示してくれるような気がした。

 僕は彼女の紐も同じように破壊し、そのいましめを解いた。

「さあ、行こう」

 立ち上がらせ、扉のほうに向かおうとした瞬間、どすんと、黒い塊が真横に落下した。足が勝手に止まり、つられるように目が音源のほうへ向く。すぐにそれが何かはわかった。〝触れない男〟だ。横に備え付けられた階段の上から飛び降りたらしい。

 千花の息を呑む音が聞こえる。僕も、反射的に身構えた。

 〝触れない男〟は服装こそ拉致される前に見たものと同じだったが、既に化粧は落とし、青白い肌を露出させている。くぼんだ目に、肉の削げた頬。細く、勢いのないざらざらした頭髪。どこか病的ですらある薄気味悪い顔だった。彼はなめるように僕たち二人の様子を見つめ、自身のネクタイを投げ捨てた。

「スーツなんて久しぶりに来たからな、苦しくて仕方がない。……相変わらず、嫌なもんだ」

 僕は驚いた。

 今まで彼が言葉を発するところは、拉致時のことを省けば見たことがない。普通にしゃべることができるのかと、何だか新鮮な気がした。

「さて、本題に入ろうか」

 僕と千花を凝視しつつ、〝触れない男〟はポケットに手をしまった。

「そこの……あー、お前、この前俺に何か言ってたよな。カナラがどうとか。あれ、どういう意味だ?」

 僕は無言を貫いた。答えるのをためらっているわけではない。必死に逃げる手段を模索していたのだ。〝触れない男〟は僕が黙秘を決め込んでいるとでも思ったのか、面倒くさそうに大きなため息を吐いた。

「ここには誰も寄りつかない。つまり、いくら声を出しても助けはこないぞ。何を考えてんのかしらんが、無駄なことはよせよ。普通に質問に答えてくれれば、痛い思いはしない」

 嘘だ。こういう場合、情報を聞き出された人間は殺されると相場は決まっている。……映画やドラマで得た知識だけれども。

 とにかく話を長引かせその間に何かしら手を考えようと、僕は喉を動かした。

「あんたは何なんだ? 何でこんなこと……」

「カナラとかいう人名を出してんだ。誰かを探しているってことにはあたりがついてんだろう? 俺はただ、ある女の子を見つけたいだけだ。それ以外のことは何もするつもりはない」

「……嘘だ。あんたはすでに一人、中年の男性を燃やして殺してるじゃないか」

「燃やして? ……ああ、あの人体自然発火とかで騒がれてたやつか。あれは……俺には関係ない。ただの焼身自殺かなんかだろ」

 〝触れない男〟は煮え切らない返事をした。

「で、お前さんの言ったカナラっていうのは、どこの誰だ? その子なのか?」

 急に刺すような目を向けられ、千花は僅かにたじろいだ。彼女には今僕たちが話している内容のほとんどが分かっていないに違いあるまい。

「この子じゃない。カナラっていうのは、ちょっと前に知り合った女の子なんだ。何だか変な雰囲気を持っていて、自分が誰かに追われてるって言ってた。だから、てっきりあんたがそうだと思ったんだよ」

「ふ~ん……。追われてる子ねぇ」

 千花の様子を観察するようにじっと見つめたまま、〝触れない男〟は片手で唇をいじった。肉が一部だけおちょこのように変形する。

「少年、お前さんは嘘が上手そうだな。日常的に嘘を利用しているようなやつっていうのは、何となくわかる。相手の反応を常に観察してるから、黒目の位置が少しも動かないんだよ。俺はもと営業マンでね。そういうのは得意分野なんだ」

 営業マン? 

 まったくこの場に似つかわしくない呼称に、僕は疑問を感じざるおえなかった。

「じゃあ、話題を変えよう。これ以上その名前でつっついても、確かに返ってくる返答は薄そうだ。俺にはもう一つ気になっていることがあってね。……これのことなんだが」

 シャツのすそをズボンから引き出し、〝触れない男〟は包帯に巻かれた腹部をこちらに見せた。黒っぽい血のにじんだそれを見て、思わずどきりとする。

「さっきの紐のこともそうだ。上からずっと見ていたが、刃物を使っているような素振りはなかった。少年、お前さんはいったい〝何〟をした?」

「何って、何が」

「おいおいおい、面倒な会話を挟ませるなよ。だから聞いてるんだよ、『お前さんが何をしたのか』」

 元々渋めだった〝触れない男〟の声が、さらに低くなる。その鋭さに背筋がひやりとした。

 ごまかせそうには、ない。悩んだ末に、僕はイヤミっぽく返答した。

「あんたが〝触れない〟のと、同じような現象だよ」





  4


「――……そうか」

 その答えでよかったらしい。〝触れない男〟は妙に口元を歪め、僕と千花を見返した。

「ということは、お前が〝殺人マリー〟か?」

 殺人マリー? 何の話だ? ただの言葉の暗喩か?

 いや、まて。そういえば日比野さんがそれっぽい都市伝説について話していたような……

 緊張と焦りのせいで、思うように記憶が蘇らない。

 何か引っかかりはあったけれど、ここでそこまで真剣に考えるようなことではないので、すぐに思い出すのをあきらめた。

 横目で出口のほうを見る。鍵がかかっているようだったが、〝蟲喰い〟を使えばそんな障害などないようなものだ。問題はどう頑張っても、そこに辿り着くより速くこの男に追いつかれることだった。

 答えないことを肯定だと判断したらしい。〝触れない男〟は嬉しそうに、自分の上唇を舐め上げた。

「どうやらあたりみたいだな。怪しいだけのやつを連れて行くわけにはいかなかったが、これならオーケーだ。これでやっと、仕事を終えることができる」

「連れてくって、どこに?」

 千花が泣き出しそうな顔で質問した。

「俺が居たところに決まってるだろ。そこでお前らの身体を分解するんだ。皮をいで、筋肉をもいで、ゆっくり、隅々までな。そしたら見事、仲間入りってわけだ」

 もはやこの男が何を言っているかさっぱり理解できない。ただ、相当危険な目に合うということだけは感じとることができた。

 じりっと、かかとに力を籠める。

 恐怖で足が震えそうだったけれど、背後にいる千花のことを考え、辛うじて正常に保つことができた。

「けど、お前はいくら縛っても無駄みたいだからな。先に手足の筋だけ壊しとこうか」

 拳を作ったり開いたりして遊びながら、〝触れない男〟が近づく。

 僕は唾を飲み込み、自分の鞄に手を突っ込んだ。

 襲われるってことは分かってたんだ。いざというときの用意だって少しはしてある……!

 ペットボトルを取り出し、そのキャップを開ける。

 〝触れない男〟が高速で踏み出してきたタイミングを狙って、僕はそれを目の前の床にぶちまけた。

 最初に地面を蹴った勢いだけで突撃してきた〝触れない男〟は、その液体の上に足を乗せた瞬間、急に移動の制御ができなくなったかのように、盛大に体を仰け反らせた。

「今だ、こっち!」

 僕は千花の手を掴むと、横に伸びていた骨組み式の階段を駆け上がった。一段一段足を離す必要のある階段なら、あいつも高速移動で追うことはできない。もし、あの移動法が僕の想像しているとおりのものなら――。

 目的は窓だ。二階の窓から外に出て、障害物の多い駐車場を突き抜ける。それさえ成功すれば、車道にでることができる。人目が多い場所では〝触れない男〟は活動しようとはしない。そこまで行けば、こちらの勝ちだ。

 僕は鼻息を荒くして意気込んだのだけれど、〝触れない男〟はそれほど甘くはなかった。

「油か、こりゃあ。……気持ちわるいなぁ」

 余裕に満ちた態度で立ち上がり、一瞬にして全身の油を〝滑り落とす〟。彼がものを燃やせないようにするという意味もあったのだが、あっさりと解除されてしまった。

「何あれ? どうなってるの?」

 唖然とした顔で千花がつぶやく。僕は彼女の手を強く引き、階段上の通路を全力で駆け抜けた。

 目の前の小窓に手を伸ばし、〝蟲喰い〟現象を起こそうとする。しかし手が窓に触れると同時に、真後ろに現れた〝触れない男〟によってわき腹を蹴り飛ばされた。

 強烈な痛みが走り上半身が手すりから飛び出る。僕は必死にしがみつこうとしたのだけれど、背中を押されあっさりと通路から落ちてしまった。

「うわぁあっ!?」

 一応受身のようなものをとろうと試みたのだが、垂直に落ちすぎたせいで上手くいかず、肩を強く打ちつけた。先ほど蹴られたわき腹の痛みも押し寄せ、悲鳴と一緒に口から肋骨が飛び出るかと思った。

「うわー痛そうだなそれ。ご愁傷様」

 口笛でも吹くような調子で笑みを浮かべる〝触れない男〟。

 僕は土を握り締め腕に力を込めたのだが、受けた傷の痛みが激しすぎて、それ以上動くことができなかった。

 くそっ、これじゃあ……!

 油と階段を使うことで駐車場までは逃げ切れるはずだった。問題はそこからだと考えていたのに、まさかこんな早く追い詰められるとは。

 このままでは千花が危ない。何か、何かしないと……――

 使えるものを探してみたが、目に見えたのは埃にまみれたコンクリートの床と、通路を支える鉄柱だけだった。

「念のため、お前さんの手足も潰しておこうか。なに、心配するな。人間の筋繊維っていうのは、ちょっと熱を通せばすぐに使いもんにならなくなんだよ」

「こ、こないで……!」

 窓に背中を張り付かせた千花に向かって、楽しそうに〝触れない男〟が手を伸ばす。

 もう、考えている時間はない。

 僕はもう無我夢中で鉄柱に向かって手を伸ばした。



  5


「――つかまれ!」

 空気か、それとも別のものなのか。僕の手を中心にして、薄っすらと波のようなものが円状に広がる。それが触れた途端、鉄柱の一部が達磨落としにでもあったように、砕け散った。

 がくん、と傾くギャラリー。

「ええ、ちょっと?」

 千花は慌てて手すりに抱きついた。はっとした表情を浮かべる〝触れない男〟。

 僕は横に並んだもう一つの鉄柱も、同じように破壊した。千花の甲高い悲鳴につられ、通路の内側が一気に傾斜する。

「おいっ……マジかよ!」

 悪態をつきながら〝触れない男〟が転げ落ちる。手すりは掴んでいたようだったけれど、千花のように窓縁まどふちに身体を預けていなかったぶん、力に負け振り落とされた。

 轟音が轟き、へし折った鉄柱の先端が僕の頭の横にめり込む。スカイツリーから飛び落ちたかのような気分だった。

 どんな打撃も受け流す〝触れない男〟だったが、力の逃げ場の少ない落下によるダメージはその範疇はんちゅうから外れていたようだ。

 僕の斜め後ろまで転がると、酷く痛そうにうめき声を漏らした。

 手すりから腕を放し千花が着地する。彼女は僕の前まで駆け寄ると、心配そうに肩に腕を回した。

「立って、今の内に逃げよう」

「う、うん」

 まだ痛みは強かったが、ここで動かなければもうチャンスはない。歯をかみ締めて立ち上がる。

「ま、待て……」

 口から血を流しながら、〝触れない男〟も身を起こそうとする。どうやら前歯が折れているようだった。

 千花が扉を開け、駐車場へと出る。念のために横に立てかけてあったモップをつっかえにし、扉を固定した。

 これでちょっとだけ時間が稼げると思ったのだけど、その思いはすぐに崩れ去った。

 一番近くの廃車の横を通り過ぎたところで、突然廃工場の扉のネジや蝶番ちょうつがいがすとんと抜け落ち、扉がまるまる取れた。木と鉄板とネジと、組み立てる前の材料に分解され地面に転がる。

 何だあれ? あんなこともできるのか!?

 思わず足が止まりかける。近づいてくる〝触れない男〟を見て、焦ったように千花が叫んだ。

「このっ、来るな変態!」

 適当に転がっていた空き瓶やらを千花が投げつけるが、それらは全て〝触れない男〟の表面で逸らされていく。やはり物理攻撃に意味はないようだ。

 これまで目にした現象のことを考えれば、〝触れない男〟が何をしているかは明白だった。〝摩擦〟の操作だ。何でそんなことができるのか、どうやって行っているのかはまったくもってわからない。だが、もし本当に摩擦を操っているだけであるのなら、打つ手がないわけじゃない。

 僕は視界に写った自分の手を見つめた。

 ――蟲喰むしくい。

 物理的に押すわけでも、斬るわけでもない。ただ、〝何もない小さな点〟を無数に生み出す現象。それが内部で発生したものは、硬度、大きさに関わらず応力の関係により次々に自己崩壊していく。あれを利用すれば〝触れない男〟に損傷を与えられるかもしれない。――だが〝蟲喰い〟をもろに受ければ、普通の人間は即死する。この前のように手加減した一撃では、傷は与えられても動きは止められない。使うなら生半可な覚悟では駄目だろう。殺す気でいかなければ効果はきっと得られない。

「もう、何なのあの人……!」

 目を潤ませながら、必死に僕の肩を支えて逃げようとする千花。だが真っ直ぐに走らず、廃車の中をじぐざぐに進んでいるところをみるに、意外と頭は冷静だ。

 ちゃくちゃくと距離をつめてくる〝触れない男〟の姿と、彼女の怯えた横顔を見て、僕は奥歯をぎゅっと噛み締めた。

「止まれぇえ!」

 大声を放出し、近場の廃車に腕を乗せる〝触れない男〟。最初はただ手をついただけかと思ったが、違った。

 僕たちと彼の間にあった廃車が、急にアクセルでも踏まれたかのように動き出す。

 タイヤは回っていない。滑っている。

「きゃぁあっ!?」

 突然迫った鉄の塊に千花が悲鳴をあげる。何とか飛びのいて避けたのだけれど、バランスを崩し、二人揃って倒れてしまった。

 こちらの様子を見た〝触れない男〟は、いびつな笑みを浮かべて地面に深く足を踏み込んだ。摩擦力の調整でもしているのか、その影響でかすかな煙があがり、靴と地面の接触面から紅の光が漏れる。

 やるしかない――!

 僕は膝で身体を支えると、爆発のような一歩で目の前に飛びでた〝触れない男〟に向かって拳を伸ばした。再び薄っすらと波のような歪みが生じる。

 同時に〝触れない男〟も腕を伸ばす。彼の指に触れ押しやられた空気が顔に触れ、酷く熱い。

 僕は護身術を習っていたときの経験を活かし、腰を回し半身に構え腕が前に出る速度を助長させた。僅かに早くこちらの拳が先に距離をつめる。

 そう思った途端、「殺人」という単語が頭の中に飛来し、動きを鈍らせた。

 吹き出る血、飛び散る肉。冷たくなっていく身体、生気の無い目……

 あのときの男の死に様がはっきりと脳裏に浮かぶ。

 一瞬の間だったけれど、それは優位性を反転させるのに十分過ぎるほどの時間だった。

 〝触れない男〟の爪が鎖骨に触れ、皮膚が溶ける。

 首を高熱で燃やされればショック死は避けられない。僕は息を呑み、後方に仰け反る。

 そのときだった。身体を支えようと下げた手の指が、偶然、千花の手に触れたのは。




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