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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
5/42

第五章 遭遇



  1


 駅前に全員がそろったのは、二十二時を五分ほど過ぎた頃だった。緑也の顔を見てすぐに、日比野さんが不思議そうな目をこちらに向ける。どういうわけか、彼女も皐月さんも制服のままだ。こんな時間まであのプレハブに居たのだろうか。一体何に時間を費やしていたのだろう。そんなに活動するような内容があるとは思えなかったのだが。

「あれ、玉木くんも来たの? 珍しいね。こういうの嫌いそうなのに」

「気分転換だよ。気分転換。こいつ一人じゃ、心配だしさ」

 そういって緑也は僕の肩を二度叩いた。

 二人の様子を見て僕は違和感を覚えた。何だか初対面とは思えない反応だ。随分と親しげであるように感じる。

「日比野さんと緑也って、知り合いだったの?」

「まね。あたしと皐月は、去年彼と同じクラスだったの」

「あたしは今年もだけどね」

 のほほんとした感じで、皐月さんが言葉を付け足した。

 ああ、だからか。

 オカルト研究部のことや日比野さんのことを説明したとき、すぐに緑也が理解してくれたのはそれが理由だったのだろう。簡単にこの場について来たのにも納得がいく。

「それでどうするんだよ。まさか適当にぶらぶらするつもりじゃないだろうな」

「まさかぁ。馬鹿にしないでよ。ちゃんと考えてるんだから」

 緑也の問いに対し、日比野さんは鞄から折りたたまれた紙を取り出した。

「何それ?」

 僕が聞くと、昼間見たのと同じ地図が彼女の手の中で地面と垂直に広げられた。新たに緑色のバツが増えている。

「‶触れない男〟が出没しそうな場所のあて。彼は同じ場所の付近ではあまり目撃されていなかったから、もし生徒名簿を見ているにしても、住所が近い人たちのことを同時に調べてるような気がしたの。南側での目撃情報は三件。一件目は大通りの近く。二件目はあの灯台下。そして三件目はここからずっと右に進んだ場所。つまり学校よりも奥のほうだね。うちの学校に通っている生徒が住んでそうで‶触れない男〟が出没していない場所は、あとは工場近辺か、海と駅の間にある住宅街、学校の裏側かな。国道のほうから通っている人もいるけど、あっちは北側だからさ。可能性は低いと思う。だから今日調べるとしたら、このバツ印のどこかかな」

「近いのは住宅街だね。一番生徒も多いと思うし、今日はここでいいんじゃないかなぁ」

 どこか間の抜けた声で、皐月さんが身近なバツ印の上に指を置いた。言いだしっぺの癖に、あまり探索そのものに対するやる気が感じられない。

「適当だな」

「あはは、あたしいつも適当だから」

 呆れたように緑也が言うと、皐月さんは悪びれなく笑った。

「まあ、確かに通っている生徒の多くはこっちの住宅街に住んでるし、いいんじゃない? どっち道これ以上はあてずっぽでいくしかないもの。――じゃ、決まりね。行こう、みんな」

 叩くように地図を仕舞い、駅から遠ざかる方向へ体を向けなおす。

「何か夜の空気っていいねぇ」

 彼女の後に続きながら、実に気楽そうに呟く皐月さん。完全に散歩感覚のようだ。元々オカルト研究会に所属しているわけではないらしいので、それほど‶触れない男〟の探索そのものには興味がないのかもしれない。ただ皆でわいわい行動したいだけ、そんな感じがした。

 今日は月がよく出ている。あの人体発火事件に遭遇した土曜よりは、周りの景色は見やすい。これなら、不意に怪しい男に近寄られるなんてことも起きえないだろう。

 もうあんな事件に遭遇するのはごめんだ。心臓にも、精神衛生的にも悪い。僕は一度背後を振り返り、誰も居ないことを確認すると、歩き出した緑也の横へと並んだ。

 



  2


 

 結局一時間ほど住宅街の中をうろついてみたが、‶触れない男〟などという不審者の姿は、まったく目撃できなかった。歩いていても、遭遇するのは会社帰りのサラリーマンや、野良猫だけだ。いい加減飽きてきた頃、緑也がその気持ちを代弁してくれた。

「もういいんじゃないか。そろそろ十一時だ。これ以上は親も心配する。帰ろうぜ」

「ええ、でも、まだ何もできて無いじゃん」

 物足りなそうに日比野さんが眉を寄せた。

「こんだけ探して見つからないんだから、今日は‶触れない男〟も活動していないんだろ。っていうか、俺たちが居るから逆に出てこないんじゃないか、警戒してさ」

「でも、一応二人一組で行動したし、それなりに距離も置いてたじゃん。これまで聞いた話がほんとなら、出てきてもいいと思うんだけどなぁ」

 カメラを構えたまま遠くを見つめる日比野さん。今にも‶触れない男〟が角から現れることを期待しているかのようだった。

 放課後の会話から瑞樹さんの失踪が‶触れない男〟と無関係のようだと知ったので、僕は正直これ以上彼女たちに協力する理由はなかった。カナラの手がかりを掴みたいという思いもあるにはあるが、明日の授業のことを考えれば、帰りたいという気持ちのほうが強い。

「住宅地区っていう読みが外れていたんじゃないのかな。そしたら、ここで探しても意味はないよ」

「そっか、そういう線もありえるよね」

 適当に言った言葉に納得してくれたらしい。日比野さんの手から、僅かに力が抜けた。

「日比野と森原って、家どこだっけ?」

「あたしは、駅前の西側。皐月は……海のほうだっけ?」

「うん。駅から見て大通りを挟んだ西側。灯台の近くだよ」

 ……灯台?

 何かが頭に引っかかった。しかし、それが何かはわからない。

「じゃあ、俺たちと途中まで同じ方向だな。ついでだから送るよ」

「え、いいよ。遠回りになるし。あたしこの時間に帰るの慣れてるし……」

 確か彼女は部活動は行っていなかったはずだ。いや、行っていたとしても、普通の高校が二十三時過ぎに生徒を帰宅させるなんてことは、ほとんどありえないはず。僕はその言葉に疑問を感じた。

「皐月さんて、いつも何してるの?」

「ん? 適当に遊んでるよ。他校の生徒とか、大学生の人とか……何か、ボーリングとか友達のイベントとかで話しているうちに仲良くなってさ、よくカラオケとか、食事とか誘われるの」

 意外にもかなりアクティブな性格だったらしい。もっと大人しい人だと思っていたので、僕は多少驚いた。

「……でもまあ、一応気になるし、送ってくよ。それほど俺たちの家からも離れてないみたいだしさ」

「ほんと? まあ一人で帰るのは寂しいから嬉しいけど」

 珍しく強引に誘う緑也。瑞樹さんのことがあったからかもしれない。何だか今日はいつものおちゃらけた感じはあまりしなかった。

「で、あたしは誰が送ってくれるの?」

 ちょっと不満そうに日比野さんは口をすぼます。それを見た緑也は意地悪そうな笑みを浮かべた。

「日比野は強いから大丈夫さ。前にE組の前原をワンパンで倒してたしな」

「あ、あれは欠伸あくびしようと伸ばした手が偶然前原くんの顎に命中しただけで……」

 驚いた表情を浮かべた後、日比野さんは恥ずかしそうに緑也を睨みつけた。

「――まあ、駅までは送るよ。というかそこまでは道も同じだし。家は駅からすぐなんだろ?」

「一応、見える範囲にはあるけど」

「じゃあ、いいじゃん。帰ろう。……ほら、話してるうちにもう十一時を過ぎちまった」




  3 



 日比野さんと別れ、僕たちは大通りを下った。真っ直ぐ進んでいくと十字路に辿り着いた。そこを右に曲がれば僕と緑也の家が見えてくるのだが、皐月さんの家は逆方向だったため、そのまま左へと曲がった。

「この通り沿いにあるの?」

「いや、もうちょっと海よりかな。十字路の近辺は崖になってるけど、ここを少し進むと下りになってて、海岸沿いに出るの。そこらへん」

「結構離れてるんだね。通学とか大変じゃない?」

「バスがあるからそうでもないかなぁ。ただ一本乗り遅れるだけでぎりぎりになっちゃうけど」

 南地区の他の高校は、確か駅から見て左にずっと行った先にあったはず。これほど離れていても、彼女の家からは蓮上高校のほうが近いのだろう。歩けない距離ではないけれど、それを毎日続けるのはかなり辛そうだ。僕でもバスを使いたいと思う。

 教えられた通りの坂を下ると、橙色だいだいいろの光と黄色い柵が目に入った。

「道路、工事中なのか」

 物珍しそうに緑也が呟く。そのまま通過する分には問題はなかったが、横道へ入ることはできそうになかった。コーンがいくつも並べられ、‶通るな〟と警告を発している。

「いつもはあそこの横道を通ってるんだけどね。ここ数日は見たとおり工事中だから、ちょっと迂回しないといけないんだ。――こっち」

 そういって彼女が向かったのは、工事エリアの手前の小さな小道だった。自転車が数台並んだら、もう誰も通れなさそうな狭い道。街灯の数もかなり少ないようで、奥がまったく見えない。

 僕が一瞬だけ躊躇ためらっていると、何とも無いように皐月さんと緑也はその中へ入っていった。こちらでは当たり前の光景なのだろうか。

 仕方が無く、止まっていた足を再稼動させる。

「あのトンネルを抜けたらすぐだよ」

 奥のほうに見えるおぼろげな光を顎で指し、日比野さんは足を少し速めた。僕もそれに合わせようとしたのだが、一歩踏み込んだところで足に異変を感じ、動きを止めた。靴紐が解けていたのだ。

 細い糸を結び直しながら二人を見たが、僕の状態には気がついていないようだった。まっすぐに明かりの下へと向かっている。

 トンネルか……何かやだな。

 この時間帯の、この暗い通路の先にあるトンネルは、嫌でもなにやら‶そっち〟方向の想像と結びついてしまう。薄暗い明かりに照らされたトンネルの入り口を見て、僕は何となく背後を振り返った。

「……――?」

 曲がり角に取り付けられたカーブミラーに、一瞬何かが映った気がした。黒い人の顔のような何かが。あれは……――。

「穿? どうした、早くこいよ」

 ようやく僕の遅れを知ったのか、緑也が手を振る。

「ちょっと紐が解けて、先行ってていいよ」

「わかった。急げよ」

 何ともなさそうに緑也は前に向き直った。

 再び背後のカーブミラーを確認したが、映っているのはコンクリートの壁のみだった。やはりただの気のせいだったようだ。

 立ち上がり、小走りにトンネルの中へ入る。それほど時間はかけていないはずだったけれど、何故かそこに二人の姿は無かった。

 どこへ行ったんだ? 早いな。

 急いでトンネルの中を駆け十字路にでる。左右に目を馳せても何も見えない。僕は真っ直ぐに進もうとしたのだけれど、一歩踏み出した瞬間、何か柔らかいものに足を滑らせ、転んでしまった。

「いてっ!?」

 肘とお尻を地面に打ち付け、痛みに顔を歪める。ゴミ袋でも踏んでしまったらしい。片手で体を支え、僕の歩行を阻害したものへ目を向ける。

 瞬間、僕の全身に衝撃が走った。

「なっ……!?」

 それは、つい先ほどまで一緒に行動し会話を繰り広げていた友人。玉木緑也その人の体だった。

「な、何してるんだよ」

 僕は慌てて緑也の体を押してみたが、反応は一切帰ってこない。顔を覗き込むと、死んだように目をつぶっていた。

 胸が激しく鳴り響き、汗が背中に滲み出る。

 まさか――。

 出血は見られなかったが、それだけでは判断はできない。

「おい、緑也……!」

 声を荒げ、肩を揺らす。体が異様に重かった。

 まさか、嘘だろ?

 怪我人を前にしたとき、無理やたらにその体を触るべきではないと知ってはいたが、どうしても確認せずにはいられない。僕は再び彼の体を大きく揺らした。

「緑也、どうしたんだ!? おい、緑也!」

 すると僅かだけ眉間に皺が寄り、腕が動いた。

 ……生きてる……?

 動いたということは、少なくとも死んではいないということだ。彼の曇った寝顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 ――そうだ、皐月さんは?

 周りに視線を走らせても彼女の姿は見つからない。一体どこに行ったというのか。言いようのない不安が沸く。

 緑也は起きそうになかったため、とりあえず脇に腕を通し持ち上げたのだが、その下からどこかで見たことのある‶跡〟が飛び出してきた。赤い熱を帯びた靴の形。まるで焼き鏝やきごててを押し当てられたかのようなあの――

 

 

  4


「嘘だろ……?」

 その‶足跡〟は、ついさっき出来たばかりのようにまだはっきりとした熱を持っていた。真っ黒な地面の上で、消えかけのタバコにも似た儚げな光を放出している。

 本当にいたのか? まさか、そんな。

 右、左、前、もう一度自分の周りを見渡す。やはり誰の姿もない。隠れられそうな障害物もなかった。

「皐月さん、どこに……」

 全速力で走れば、次の道路の交差地点ぐらいまでは行けるかもしれないけれど、そんなことをすれば流石に足音で僕も異常に気がつく。靴紐を結び直しているときに聞こえたのは、遠くを走る車の音と、風の揺らぎだけだった。

 悪戯にしては手が込みすぎている。僕は姿の見えない皐月さんのことを考え、心臓が泡立つのを感じた。

 緑也の倒れていた位置とこの足跡を見る限り、‶触れない男〟らしき人物は直進した可能性が高い。ということは、彼女が進んだのも恐らくこちらの方向だろう。

 緑也の体を壁際に移動させ下ろす。このまま置いていくことは心配だったが、皐月さんを放っておくわけにもいかない。心の中で彼に謝り、立ち上がった。

 体の方向を変える途中で、何かが視界に写る。僕は咄嗟に動きを止め、それに視点をあわせた。

 真っ白な、長い、長い建物。リコーダーのような形をしたそれは――

「――灯台?」

 ぼそりと、口から言葉が漏れた。

 月に照らされた所為で闇夜に映えたのだろう。ちょうど数刻前に見た緑也のゴミ袋のように。

 今立っている場所は海岸付近の平地で、灯台は崖の上だ。自然と見上げる格好になる。

 今思えば、あそこからならこの近辺の家屋が全て丸見えだ。車も、人も、誰がどこから出てどのように移動するのかを、一望することが出来る。もしかしたら、‶触れない男〟はそれが理由であそこにいたのだろうか。

 そこまで考えて、あることに思い至った。

  ――うん。駅から見て大通りを挟んだ、西側。灯台の近くだよ。

 つい先ほど皐月さんが口に出した台詞せりふ。それが頭の中でリプレイされる。

 ‶触れない男〟は誰かを探している。それも、十代後半から二十代前半の女性を。

 そういえば、なぜ‶触れない男〟は南側へ探索エリアを移動した跡も、駅の北口へ現れたのだろうか。既にそちらの学校は調べつくしたというにも関わらず。

 この地区を一望できる灯台という場所での目撃情報。それに、‶たまたま〟皐月さんが北口で見てしまったこと。……考えられる理由は、一つしかなかった。

 ‶触れない男〟は“皐月さんを観察していた”のだ。だから、彼女についていった先の北口で目撃されてしまった。

 恐らくは普通の生徒同様、ただの調査に過ぎなかったのだろう。何もしなければ、さっさと次の生徒の調査へと移行していたのかもしれない。

 だが、森原皐月は今日、‶触れない男〟を探すという珍妙な行動をとってしまった。普通の生徒ならばやらないような、怪しい活動を行ってしまった。

 それは、‶触れない男〟から見れば、彼女に対する疑惑を高めるのに、十分な行為に見えてしまうのではないだろうか。

 その姿を見た人間は、姿を消す。

 ある日突然。

 ふらふらと。

 まるで家出のように。

 こっそり……。

 あんな都市伝説なんて信じてはいないけれど、実際に友人の一人が気絶させられ、もう一人の姿が見えない今、何かが起きていることは事実だ。

 ふと、最後に見た瑞樹さんの笑顔がまぶたの裏に浮かぶ。

 気がつけば、僕は全速力で走っていた。少し前まで街灯の少ない道を怖がっていたのが嘘のように、必死に、激しく。

 これはスタイリッシュから聞いた話だが、‶触れない男〟の都市伝説の中で、彼は別名で呼ばれることもあった。‶滑る男〟。それがもう一つの呼び名だ。

 誰かが彼に触れようとすると、滑りぬけると言われているのは有名な話だが、それはごくごくレアなケースだ。ほとんどの目撃情報では、彼は姿を見られた直後、まるでスキーでもしているかのように、一瞬で道路の上を移動し、姿を消してしまうらしい。もし彼が実在し、本当にそんな移動が出来るのならば、僕が追いつくことは不可能だと言える。

 都市伝説を信じているわけでじゃない。だが逆に、完全に否定してるわけでもなかった。実際、僕はカナラの所為でありえない現象を目にしていたから。体験してしまっていたから。

 これだけ走れば後ろ姿くらい目に入ってもいいはずだ。人一人を連れているのならば、なおさら速度は遅くなるはずだ。しかしいくら進んでも一向に気配を捉えることはできない。

 まさか道を間違えたかと焦りをつのらせたとき、どこかから悲鳴が聞こえた。

 お化け屋敷の中で急に背後から脅かされ、驚いたときのような、全身を凍りつかせたかのような、あんな金切り声。

 僕はすぐに、それが皐月さんのものだと気が付いた。




  5

 

 住宅街の合間にある、古い駐車場。持ち主はとっくの昔にいなくなったようで、廃屋にも似た二階建ての建物が、横に立ち並んでいた。

 雑草を掻き分け敷地の中に踏み込んだ瞬間、小汚いコンクリートの上に横たわる皐月さんと、その前に立つコート姿の男が目に入った。

 僕は咄嗟に身を隠し、息を止めた。

 何だあいつ……本当に‶触れない男〟なのか? 皐月さんは……。

 草の隙間から目を凝らすも、彼女の状態はよくわからない。とりあえず、意識を失っているということだけは確かなようだった。

 黒い野球帽を目深く被っている所為で男の顔は判別できないが、雰囲気や体格から察するに、二十台後半から三十代前半のように見える。幽霊などではない、実在する人間の男だ。

 け、警察に……。

 震える手で端末を取り出す。

相手が普通のひ弱な男だったのなら、正直、護身術を習っていた分、何とかなるとも思う。でも今僕の目の前にいるのは、あの‶触れない男〟。信じてはいないけれど、用心するにこしたことはなかった。こういうことはプロの手を借りるのが一番だ。

 一、0、0。お決まりの数字を押すだけの単純な作業なのに、中々上手くいかない。やっとのことで番号を押し終え、通信開始の指示を出そうとした瞬間、あろうことか、僕は手を滑らせてしまった。

 かつん――。

 土の上に、小さな金属音が響く。最悪なことに小石にぶつかってしまったようだ。

 ま、まずい……!

 心臓が止まったかのような錯覚におちいりながら、目だけを正面に上げる。‶触れない男〟が今の音に気づいていないことを期待したのだけれど、そこに彼の姿はなかった。

 どこへ?

 目を凝らすも、横たわっている皐月さん以外誰の姿も無い。人の気配に驚き逃げたのだろうか。

 僕は草から体を乗り出しながら先ほど落とした端末を拾った。

 白い本体を掴み、後ろのポケットへ向けて移動させる。その間何となく目を通した画面に、黒い帽子を被った男の顔が映りこんでいた。

「うわぁああぁああ!?」

 ばっと振り返り草の中から飛びのく。いつの間にか背後に立っていた‶触れない男〟は、そんな僕を見ても一切表情を変えず、ただ無言でこちらを見つめた。

 どうやって後ろに? いつのまに?

 心臓が爆音をかなで胸から飛び出していきそうだ。

 コンクリートの地面の上に完全に姿をさらし、僕は‶触れない男〟と目を合わせた。

 やや骨ばった顎。細長い鼻。帽子の隙間から覗く、夜の闇のように真っ黒な双眼。ごくありふれた顔つきだったけれど、その肌色は青白く、どこかいびつに見えた。

 彼は草むらの中で片手を伸ばすと、わずらわしそうに横なぎに払った。するとすぐに、彼の手が触れた場所から火の手が上がり、周囲の草を熱で折り曲げていく。

 ライターやマッチを持っているようには見えない。明らかに素手だった。何も無いところから突然火が生まれたのだ。

 それは、あの人体自然発火事件を思い出すのに十分過ぎるほどの光景だった。

  なぜ草が燃えたのか、なぜ後ろにいたのか、さっぱりわからなかったけれど、本能がここに立っていることを危険だと警告している。

 怖い。非常に怖い。

 ただの不審者と遭遇するだけでも怖いというのに、今僕が目の前にしているのは、草を素手で燃やせる‶何か〟だ。既に、シャツに染み込んだ汗の量は、尋常じんじょうではなかった。

 逃げたい。逃げたいけれど、ここで逃げれば皐月さんを見捨てることになる。‶触れない男〟はきっと彼女を逃がさない。噂が本当ならば後で戻ってくるかもしれないけど、それが本当にこの森原皐月だという保障はなかった。僕はぐっと恐怖をこらえ、拳を握りしめた。

「な、何なんだお前……?」

 勇気を振り絞って出した問いかけ。しかし‶触れない男〟はそれを無視し、腕を下ろした。何をするわけでもなく、ただ燃え散った灰を一瞥し、そして――

 突如、恐ろしい速度で僕の目の前に移動した。

 声を出す間もない。腹部に強烈な痛みを感じ、膝が折れる。日ごろ適当にこなしている腹筋トレーニングの効果は、ほとんどどなかった。

 視界の上側に、彼の白っぽい手が写る。

 脳裏に浮かぶのはあの日三人で見たサラリーマンの死にざま。

 僕に助けを求め、目の前で苦しみながら消えていったあの恐怖に引きつった表情。

 それと同じことが今、僕にも訪れようとしている。

 僕は必死に足に力を込め横に転がろうとしたのだが、その前に肩を蹴られ、地面へと倒れてしまった。

 靴によって受けた痛みと地面に打ちつけた痛みが同時に押し寄せる。運が良かったのか、体が燃えるようなことはなかった。

 進路から退かし終えたことで僕への興味が失せたらしい。‶触れない男〟は真っ直ぐ皐月さんのもとに向かって歩き出した。

 草の上に残る熱を帯びた足跡と、一瞬で僕の目の前に現れたあの動き。‶滑る男〟という異名は本当のようだ。先ほどは皐月さんが抵抗したのか途中で移動をやめたようだが、今ならそんな心配もない。彼女を連れて行くことに、難易度など無いようなものだった。

 この状況で警察に連絡をしている余裕などない。彼を止めるには、僕がここで行動を起こす必要がある。

 痛みを我慢し、歯を食いしばって走り寄る。渾身の力を込めて、拳を前に突き出した。

 それほど真剣にやっていたわけではないけれど、中学時代はとある武道の地区大会で三位になるくらいの実力は持っていた。もし‶触れない男〟にそういった知識がないのならば、少しくらいは驚かすこともできるんじゃないかと僅かな期待を抱く。しかし噂の通り、僕の手は石鹸の上にでもあったかのように、‶触れない男〟の表面を横へ滑りぬけていった。

 何度やっても結果は変わらない。

 ‶触れない男〟はまるで僕などいないかのように、皐月さんの体を持ち上げ、肩に抱えようとする。

 目の前にいるのにどうすることもできない。

 救えるかもしれないのに、手が届かない。

 僕は必死に頭を働かせたけれど、答えは近づいてこない。

 どうすれば皐月さんを助けられる?

 どうすれば‶触れない男〟を止められる?

 どうすれば注意を引ける?

 こうしている間にも、‶触れない男〟は足に力を込め、あの移動の準備に入る。もう、逃げられる一歩手前だった。

 ごちゃごちゃになった思考の中で、気がつけば、何かを口走っていた。

 自分でも良くわからず、勝手に出た言葉。

 だがそれを耳にした瞬間、‶触れない男〟の動きがぴくりと止まった。

 ――その子は、カナラじゃない。

 僕はそう叫んでいた。




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