第四十二章 エピローグ
1
体が全く動かない。
血液の全てが鉛となり、そのまま固定されてしまったかのような感覚だ。
視界はぐるぐると勝手に動き続け、意識していても特定の場所に留まろうとはしない。猛烈な倦怠感と吐き気、それに寒気が全身を支配している。
背中に重い感触。どうやら千花も力を使い果たして動けないらしい。微かに苦しそうな息使いが耳に入る。
ただ辛うじて差し込む光から、朝日が昇り始めたことだけは理解できた。
これ以上は何もできそうにはない。けれど、流石の一業ももう動けないはずだ。
拳に残った感触。僕の拳は、幻ではなく確かに一業の胸を打った。完全な蟲喰いではないものの、健全な肉体を行動不能にするには十分な威力だ。死ぬことは決してないだろうが、あの一撃を胸に受けてはまともに動けるはずがない。
疲労で視界が霞む。僕が僅かに差し込み始めた彼誰時の光を見ていると、それを小さな影が遮った。
布をこすらせ、砂を踏みしめ、何者かが立ち上がる音。
焦点の定まらない視界の中、白い少年の姿が揺れ動いて見えた。
僕から受けた傷のせいか、それとも現象を酷使し過ぎた反動か、流石に疲弊しきっている様子ではあったが、未だ彼の瞳には力が残っている。
金色に近い朝日の線を背景に、満身創痍の僕と千花の前に立つ。
抗おうにも逃げようのない僕は、ただゆっくりと歩み寄ってくる一業を見上げることしか出来なかった。
千花が僕に寄り添う。動けない僕を見て、守ろうとしてくれているようだ。
一業はそんな彼女には一切構わず、右手を前に伸ばす。僕は歯を食いしばり身構えたのだけれど、そこで一業が動きを止めた。差し込む陽光に照らされた自分の手の甲を、凝視している。
一業の手には、うっすらとひび割れのような傷が出来ていた。影になっていてわかりずらいが、よくよく見ると顔にも同じような線が見える。
「その手……――」
自然と声が漏れた。まるで今にも割れてしまいそうな陶器のようだった。
不完全な肉体で過剰な力を行使し過ぎた影響なのだろうか。 元々寿命が近づき、限界近かった一業の体。カナラへの精神干渉と、過度な力の酷使は予想以上に彼の身体を蝕んでいたらしい。徐々にひび割れのような傷は全身に広がっていった。
「……時間切れか」
一業は蹲っている僕と千花を見下ろすと、興味を失ったように手を下ろした。
既にカナラによってここへ送られた超次場の力は、蟲喰いの霧によって発散してしまった。もはやどうあがいても、彼の目的を達成することは叶わない。
砕けた窓から差し込む逆光のせいで、一業の表情は見えない。
道具として作られ、道具として捨てられた彼は、カナラという媒体を経て初めて感情という概念を抱いた。初めて生きたいと思った。人生をやりなおしたいと。自分の命が欲しいと。
これも人殺しというのだろうか。
腕に乗せられた千花の手が酷く暖かい。僕はぎゅっと彼女の手を握りしめた。あの時とは違う。僕は僕の意思で一業の目的を阻んだ。そこに悲観こそあれ、後悔など微塵もない。
「これで終わりか。……これで」
感情の籠らない一業の言葉が上から響く。
自分の死を認識できていないのか、それとも諦めているのか、実に淡々とした口調だった。
教授は記憶を失ったが、この町にはまだ修玄がいる。彼ならもしかしたら崩壊しかけている一業の身体を維持することが出来るかもしれない。
僕は必死に彼を見ようとしたのだけれど、もう瞼の重さに耐えきることが出来なかった。見る見るうちに視界が狭まっていく。
薄っすらと輪郭を大きくしていく朝日。空は徐々に赤く染まり暗闇に包まれていた灰色の世界に、色が差し込まれていく。
気配から、一業もその光景を眺めていることがわかった。
彼誰時。昼と夜の境界が曖昧となる刹那の時間。微かに見える一業の姿は、まるでその境界に溶けて消えてしまいそうだった。
光に呑まれるように僕の意識も遠ざかる。
「――……もっと、生きたかったな」
そう、最後に一業が呟いた気がした。
2
眼下を一台のトラックが通りすぎた。
小学生の身長くらいはある大きなタイヤに、二階の屋根に届きそうな巨体。何かの運送を行っているのか、こんな田舎町のど真ん中だというのに、ありえないほどの速度で走り去っていく。
その真横を、通りすがりの老婆が恐々とした様子で歩いていた。
「危ないな」
こうして病院の屋上から見て危険だとわかるほどの運転なのだ。あの老婆からすればたまったものではないだろう。
僕は小さなため息を吐き、視線を駐車場の向こうにある道路から逸らした。
体中にある傷のおかげで、こうしして身を反転させるだけでも痛みが走り一苦労だ。太陽から差し込む熱のせいで、余計に体を動かすのが苦痛に感じられる。
僕が振り返ると同時に、目の前のベンチに座っていた千花が話しかけてきた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと危ない運転をしているトラックがいてさ。気になっただけ」
僕は苦笑いを浮かべながら答えた。
彼女は風に揺らされた前髪を整えると、いつも付けているお馴染みの白いヘアピンでそれを留め直す。僕は彼女の動作を何となく見つめ続けた。
「なにかな? じっと見て」
少しだけ照れたように、千花が口を尖らせた。
「いや別に、そのヘアピン、いつもつけてるなって思って」
「お気に入りなの。昔、お母さんが買ってくれたやつだから」
少しだけ寂しそうに千花はヘアピンを撫でた。
立っていることに疲れてきたので、重い体を動かし千花の横に座る。
左側に干してある白いシーツが、風に揺らされバサバサとはためく。まるで布自体が生きて踊っているようだった。
穏やかな風を肌で味わい、僕はこの静かな空間を楽しんだ。ただ横にいるだけなのに千花がそこにいると思うととても落ち着く。何だか何年も会っていないかのような気分だった。
「傷の調子はどうなの?」
「前よりは楽になってきたよ。麻酔が効いているせいもあるけど」
僕は手術した腹部を撫でた。まだ痛みは消えないけれど、ベッドから出てもいいという許可は得たのだ。それなりに順調に回復しているということなのだろう。
「穿くんのお父さん。怒ってたね。退院したばかりで、また大怪我をしてきたから」
「しょうがないよ。まあ事故ってことがわかっているから、あれ以上は言ってこなかったけどね」
「あんなに心配してくれて、いいお父さんじゃない」
羨ましそうに千花が微笑んだ。
文化センターで受けた傷は、階下を歩いているときに降ってきた瓦礫によるものだと、‶カナラ〟の力で納得させている。あまりこうした使い方はしたくないのだけれど、傷の理由を作るためにしかたがなかった。
僕は小さくあくびをした。入院中やることがないから、ベッドで昼寝をすることが多かったせいで、この時間になると睡魔に襲われる癖がついてしまったようだ。強い陽射しがまたその眠気を助長させている。
意識をはっきりさせるために景色に目を向けると、あの文化センターが見えた。崩落事故ということになっているせいだろう。落下防止用のネットが展望台の大部分を囲んでいた。
「……こうしてみると、あそこで争ってたのが嘘みたいだね。まるで夢でも見てた気分だ」
一業という存在。蟲喰いの霧。超次場を利用した肉体の乗っ取り。全てが現実離れした出来事のように感じられる。
僕は前を向いたまま、
「一業の遺体は結局見つかったの?」
「サバラTVのニュースだと死傷者は地下で焼死した女性一人だって。たぶん二業のことだと思うけど。……一業は、まだ生きているのかな」
僕は包帯だらけになった手をすり合わせた。彼の動きを止めたときの最後の感触は、まだ残っている。全身にひびのような亀裂が入り、今にも崩れてしまいそうだったあの姿。
「――……たぶん。もう会うことはないと思うよ」
何となく確信できる。僕はじっと目をつむり、ゆっくりとそれを開いた。どことなく空虚な気持ちになる。天気の良さが、少しだけ救いだった。
「これで、本当に終わったんだよね。本当にこれで」
千花は足を前に投げ出すと、両手を頭の後ろで組んだ。自分が自由になったと、真壁教授の束縛から逃れることが出来たのだと、まだ実感が湧かないようだ。
無理もないと思った。ずっと逃げ続けてきたのだ。例え目の前で真壁教授の記憶を奪ったとしても、その経験は、恐怖は、すぐに拭い切れるものではない。時間をかけて噛みしめるしかないのだろう。これから生きていく人生の中で。
「そう思いたいね」
僕は溜まっていた苦痛を押し出すように、答えた。
再び大きくシーツがはためく。
しばらくぼうっとした後に、千花は小首を傾けた。
「……ありがとう穿くん。穿くんが来てくれなかったら、きっと私死んでたかもしれない」
「お互い様だよ。僕だって何度も千花に助けられた。千花が居なかったら、僕だっていつ死んでいたかわからない」
‶触れない男〟に襲われたとき。プールでの和泉さんの襲撃。そして一業との争い。どれも、千花が居てくれたから僕は生き延びることが出来た。彼らと戦えた。彼女がいるおかげで諦めずに済んだ。
こうして千花の笑顔を見ると、どことなく救われた気持ちになれる。少なくとも、僕のこの二か月半の努力は無駄では無かったのだと。
彼女の顔を眺めていたら、急に感謝の気持ちが溢れてきた。素直に自分の気持ちを実感できた。
僕にはもう、全ての記憶が戻っている。三年前に言えなかった言葉を。再開してからずっと抱いていた思いを、今なら言えるかもしれないと思った。
「千花。僕は……――」
そのとき、激しい音を響かせて屋上の扉が開いた。まるで爆弾でも落ちたかのような勢いだった。
反射的に振り返ると、場違いなほどに明るい桂場の声が響き渡った。
「お! ここに居たか。お疲れ~」
タイミングが悪い。
僕は一瞬落胆したが、彼の自慢げな笑みを見て表情を崩した。こうして元気な桂場を見ると、どことなくこちらも気分が明るくなる。
桂場の後ろからは、緑也と日比野さん、スタイリッシュに皐月さんと、いつものメンバーが顔を覗かせる。
「あ、みんな。また来たの?」
千花が嬉しそうに聞くと、日比野さんが悪戯っぽく口をすぼめた。
「ひゅう、アツアツだねお二人さん。こんな真昼間から二人っきりで寄り添って」
「ちょっと穿くんと話したいことがあっただけ。別にそんなんじゃないよ」
若干困ったように返す千花。
「悪いなぁ。お邪魔だった?」
申し訳なさそうに目を軽く伏せ、こちらの様子を伺い見るスタイリッシュ。僕は肩の力を抜きながら、
「気にするなよ。それよりよくここにいるってわかったね」
「大きな病院でもないし、行ける場所は限られてるからな。穿ってあんまり知らない人と同じ場所に一緒にいるの苦手だろ」
「人と話すのは好きなんだけどね。あんまり個人的な話をあそこでしたくなくて。部屋の中に声が響くからさ」
僕は自分の会話を見知らぬ人間に聞かれるのがあまり好きではないのだ。
そう答えると、共感したようにスタイリッシュが乗っかってきた。
「わかるな。聞き耳立てるのが好きなやつとかいるもんな。俺、そういうの苦手なんよ。ほっといてくれって思うわ」
何か過去に嫌なことでもあったのか、しきりにスタイリッシュは頷いた。
「ずっと病室じゃ暇だろ。この前話した漫画持ってきたぜ。凄く面白いんだよ。これが」
大きな紙袋を持ち上げにっと口角を上げる桂場。この炎天下の中、徒歩でその量を持ってくるとは、大した男である。
僕の見舞いに来たはずなのに、まるで教室の中のように自由気ままにおしゃべりを始める桂場たち。この屋上は普段人があまり来ないからいいものの、窓を開けている部屋にはそれなりに声が響く。僕は少し皆をたしなめようかと思ったのだが、楽しそうな千花の横顔を見て、出かかった言葉を呑み込んだ。
これまで千花はずっと逃げるだけの人生を送ってきた。誰かとふざけ合い、和気あいあいと過ごすのは、本当の意味ではこれが初めてなのかもしれない。そう考えると邪魔をしたくないと思ってしまった。
「なあ、穿」
輪から抜け出た緑也が、僕の右側に移動してきた。だるそうにベンチの縁に腕を置き、顔を乗せる。
「……それにしても、お前、ほんとついてないよな。この前崖から落ちたばかりなのに、また事故に遭うなんて」
「まあそういう年だったんだって諦めたよ。命があっただけまだマシさ」
緑也は痛々しそうに僕の包帯姿を見回すと、
「あの日、俺も実は文化センターの近くにいたんだけどな。あんな倒壊が起こってたなんて、全然気が付かなかったよ」
「え、近くに居たの?」
「ああ。俺の母さん、あの近くの倉庫でパート仲間と飲んでてさ。どうにも飲み過ぎたみたいで迎えに来て欲しいって言うもんだから、目の前を通ってたんだよ。時間が違ってたら俺も怪我してたかと思うと、危なかったな」
よく偶然会うことが多いとは思っていたが、まさかあの文化センターの前にまで来ていたのか。もし遭遇していれば、面倒な事態になっていたことだろう。緑也との縁の強さに、僕は思わず苦笑いを浮かべた。
3
夕日が出始め空が暗くなる。
手に持った空き缶をゴミ箱に捨てると、緑也が寄りかからせていた背を手すりから離した。
「じゃあ、そろそろ帰るか。穿も夕食の時間だし」
「結構居座っちゃったね」
皐月さんが時計を見ながら言った。
「また来るよ。何か欲しいもんあったら連絡くれ。持ってきてやるから」
にんまりと笑いあごを突き出す桂場。
僕は全員を見回し、
「ありがとう。暇だから来てくれるのは凄い嬉しいよ。退院したらみんなにお礼しないとね」
「寿司か焼肉以外は受け付けないからな」
「それは流石にお金がないって」
緑也の言葉に、僕は手を振って拒否の意を示した。
階段を降り、そこで千花や緑也たちを見送ると、僕は自分の病室へと戻った。既に食事は運び込まれ、折り畳み式机の上に置かれている。同室の病人はみな食事を終えたのか、部屋の中に姿は見られなかった。
僕はベッドの上に座り込むと、テレビをつけイヤフォンを耳に当てた。そのまま薄味の鮭に箸をつけたところで、視界の端に違和感を抱き、顔を上げた。
「――……日比野さん?」
何故か、先ほど帰ったはずの日比野さんが出入口のところに立っていた。少しだけ気まずそうな表情でこちらを見ると、ゆっくりと病室の中に入ってくる。
「どうしたの? 忘れ物?」
僕はイヤフォンを耳から抜き、彼女に呼びかけた。
彼女はベッドの横に立つと、先ほどまでとは打って変わって真剣な表情を浮かべた。
「ちょっと穿くんと話したいことがあって」
「話したいこと?」
「うん。本当は退院するまで待つつもりだったんだけどさ。今日元気そうな姿を見て、どうしても我慢出来なくなって」
この表情、いつものようにオカルト談話に花を咲かせるといった様子ではないようだ。わざわざみんなが帰ったあとに戻ってくるくらいだ。ただの雑談のためにそこまでするわけがない。
日比野さんは和泉さんの死を気にしていた。もしかしたら彼女の事件を調べているうちに、何か気が付いたのだろうか。
一瞬黙った後に、僕は食事の乗った机を横に移動させた。
「……何が聞きたいの?」
「穿くんが知っていること、全部教えて欲しい」
日比野さんは僕の身体に巻かれている包帯に目を向けた。
「その怪我、明らかに不自然じゃん。皐月が誘拐された時も、‶触れない男〟の目撃情報が途絶えたときも、千花と連絡が取れなくなったときも今回も、いつも穿くんは怪我をしてた。何か理由があるんでしょ。普通の人がそんなに何度も短時間で怪我をするはずがないもん。
あたし、どうしても納得出来なくてさ。和泉のことを調べてたんだよ。あの子、本当は第一高校の生徒じゃなかった。どこから来たのかも、どこに住んでいたのかも、全然わからない。全部が謎だった。……あの子が亡くなった前日、似たような子が国立公園を歩いてたって情報があったの。短い黒髪の、同い年くらいの男の子と歩いてたって。
もし和泉の死に関わっているのなら、教えてよ。何であの子が死ななきゃならなかったのか。何で身分を偽って、この町に来ていたのか。知っているんでしょ。穿くんは」
瑞樹さん、皐月さん、和泉さん、そして千花。
この数か月、ずっと自分の周りの友人が危険な目に遭い続けていたのだ。好奇心旺盛な日比野さんがそれについて調査をすることは、至極当然の反応だった。
適当に話を濁し言い訳をすることは出来る。
超能力なんてものを証明する法律はないし、僕が否定し続ければ事実が明らかになることは決してない。真壁教授や‶触れない男〟たちはもういないのだ。彼女が独自に事件を追い続けたとしても、命を危険にさらすようなこともありえない。だが――。
日比野さんは凄く真剣な表情でこちらを見ている。恐らく、本当に悩んで、本当に苦労して、僕がこの事件に関わっている可能性に気が付いたのだろう。
もし真実を話しても突拍子の無い話だと馬鹿にされるかもしれない。冗談を言っていると怒りだすかもしれない。けれど、ここで日比野さんに嘘をつくのは、とても不誠実な気がした。
「……わかった。全部話すよ。信じてくれるかどうか、わからないけれど」
僕は三年前の事件から、つい一週間前の一業との争いまで、自分が経験してきた出来事を全て話した。日比野さんは質問や相槌を打つこともなく、ずっと無言でそれを聞いていた。
廊下の向こうががやがやと騒がしい。看護師の女性と患者の老人が談笑しているようだ。
日比野さんは下を向き、黙っている。僕の話について、何を言うべきか考えているのだろうか。
僕は沈黙に耐えきれなくなり、口を開いた。
「全部本当のことなんだ。信じられないのも無理はないと思うけど」
「信じるよ」
日比野さんはすぐにそう答えた。茶色ボブヘアーの奥から、二つの瞳が透き通って見える。
予想外の言葉だったので、僕は疑いの籠った気持ちで日比野さんを見返した。
「……ほんと言うとね。穿くんと千花さんが屋上でそんな会話をしてるの、何度か聞いたことがあるの。部室に入ろうと階段まで上がった時に、二人で話しててさ。お邪魔かなって思って戻ろうとしたんだけど」
「信じるの? こんなバカげた話」
「だって嘘ついてるわけじゃないんでしょ。穿くんそういう冗談を言う人じゃないし。自分に超能力があるって思い込んでる変な人の可能性もあるけどね」
そう言って日比野さんは笑って見せた。
「ねえ、超能力って言うの、見せてくれない?」
少しだけ前乗りになり、顔を近づける。僕は一瞬ためらった後に、空っぽになったペットボトルを取り出し、それに手を当てた。
ほんの少しだけ意識を指先に集中させ、蟲喰いを発生させる。甲高い炸裂音と共に、ペットボトルは真っ二つに弾け飛んだ。
目の前で行われた異常な光景に、日比野さんは目をまん丸に見開いた。
「うわっ、爆発した。凄い……!」
興味深そうに割れたペットボトルを拾いながら、まじまじと眺める。
「手品ってわけじゃないんだよね、これ」
「もっと力を加えれば、コンクリートだって壊せるけどね。病院の中だから、それで勘弁して欲しいんだ」
「ね、もっかいやってもらってもいい? もっかいだけ」
オカルト好きの魂に火がついたのか、目をキラキラさせてせがんでくる日比野さん。
同室の人が新聞を片手に室内へ入ってくる。それを見て、日比野さんは残念そうに顔をしかめた。
「退院したら、もっと色々と見せてくれない。ねえ、いいでしょ」
「人目のつかないところでね。あまり見られたいものじゃないから」
興奮している日比野さんに多少引きながら、僕は慌ててそう答える。もはやまったく僕の話を疑っていないようだった。
「……ありがとう話してくれて。穿くんのおかげで色々とつっかかっていたものがとれた気がする」
そうして、少しだけ悲しそうに目を細ませる。
「そっか。和泉はやっぱり死んじゃったんだね」
「――……うん」
僕は短く答えた。
看護師が通路からこちらを覗き込んだ。まだ僕の食事が済んでいないことを気にしているのだろう。それを見た日比野さんは、気を使ったように鞄を肩に掛け直し、
「またお見舞いに来るよ。……前に皐月か誰かが話してた旅行の話覚えてる? 退院したら、みんなで一緒に行こう。むしくい? って言うのももっと見てみたいし」
「みんなの前では止めて欲しいな」
僕がそう言うと、日比野さんは楽しそうに頬を歪めた。
4
退院の前夜。
身支度を整えていると、いきなり真理が病室の入り口から顔を出した。
患者服を着ているのを見るに、どうやら彼もこの病院に入院していたようだ。僕はびっくりしていたが、真理はまったく気にすることなく手で僕を呼ぶと、そのまま廊下へと出ていった。
慌てて後を追い、廊下へと出る。真理は歩き出しながら、
「屋上に行こう。あんまり聞かれたくないから」と言った。
流石に夜になりと洗濯物は閉まっているのか、前と比べて屋上は随分とさっぱりしていた。
夜空には星が無数に輝き、ほのぐらい雲がゆっくりと動いている。
真理は屋上の中心付近で足を止めると、ぼうっと夜空を見上げた。
まさか、一緒にこの景色を眺めようと誘ったわけではないだろう。彼か何も言葉を発しなかったので、僕の方から呼びかけた。
「君もこの病院にいたんだね。どこの部屋なの?」
「一階下の階だよ。この病院、外科は二階分あるんだ」
僕は彼の立っている場所に歩み寄った。
「カナラは? 彼女はここにはいないの?」
「あいつは人が多い場所が苦手だからな。北区の廃墟で休んでる」
「……彼女と話すことはできる?」
事件の黒幕は倒したが、まだカナラとのわだかまりは残ったままだ。せめて一度だけでも、僕は彼女と会って話をしたかった。
真理はゆっくりと振り返り、少しふてくされた顔で僕を睨んだ。
「心配しなくても、お前が退院次第、すぐに会えるさ。明日の十七時に、あの灯台のある公園の下で待っているそうだ。それを伝えに来た」
どこか不機嫌そうに答える真理。何だか僕がカナラと会うことを嫌がっているように見えた。
「わかった。会いにいくよ」
涼しい風が心地よい。夜だとこうも感触が違うのかと思った。
「君はこれからどうするの? もう二業も、お父さんを追いやった一業も居なくなったけれど」
「親父を助けに行く」
真理は終始不愛想に答えた。
彼の父は確か、一業に濡れ衣を着せられて刑務所へと入れられていたはずだ。助けるとは、まさか物理的に侵入することでは無いだろう。
「それは、カナラの力を使って?」
「犯罪だとか言うなよ。元々一業に着せられた罪なんだ。カナラの力を使ったって罰はあたらないだろ。無実の罪でいつまでもあのままにしておくわけにはいかない」
「そんなことを言うつもりはないさ」
彼の気持ちを考えれば当然の結論だ。一業や五業の存在を証明することは難しいし、このままいけば彼の父はずっと監獄に捕らわれ続けることになる。決して、その判断が間違っているとは否定出来なかった。
「じゃ、話は伝えたからな。ちゃんと時間を守れよ」
「わかった。ありがとうわざわざ」
真理は僕のことをカナラを操る黒幕だと思い、殺そうとまでしたのだ。まだ仲良く話すことに手機構があるのだろう。僕は彼の気持ちを汲み、その場を離れようとした。
だが扉を開けたところで思い直し、足を止め振り返る。
「……また会えるかな」
真理はぶっちょう面を浮かべたまま、
「運が悪ければな」
と、答えた。
翌日。退院した僕は、家で荷物を整理した後に、千花と合流し、あの灯台下の公園へと向かった。
カナラと再会したときと同じように、金色の輪っかが山の向こう側へと落ち始め、海に光が反射している。
二人で海沿いを進み、白い巨塔の付近へと近づいていくと、遠目にも、真黒なスカートをはためかせているカナラの姿を目にすることが出来た。
近づく僕たちを見て、カナラはにっこりと笑った。懐かしい、向日葵のような穏やかな笑みだった。
「久しぶり、二人とも」
憑き物のとれたような元気な声。真理の記憶の中で目にしていた彼女とは大違いだ。まるでこの三年間の歳月なんてなかったかのような気さえしてくる。
「久しぶり。カナラさん」
千花が小さく微笑み彼女の目を見た。複雑な思いがあるのだろう。いつものようにどこか控えめな声だった。
カナラは僕たちの姿を軽く眺めると、
「傷の具合はもういいの?」
「うん。激しい運動は禁止されているけれど、日常生活を送る分には問題ない。まあ、それでもちょっと変な体勢をとると痛みが走るけどね」
僕は肩と腕、腹部に巻き付いている包帯を見せた。
小首を傾け、申し訳なさそうにこちらを見るカナラ。僕は思い出したように言葉を付け加えた。
「そういえば、真理から聞いたよ。彼のお父さんを助けに行くんだって?」
「うん。あいつにはだいぶ助けられたから。結局私にできることは、いつだってこの力を使うことしかない。だからせめてもの恩返しにと思って」
「お父さんを助けたあとはどうする気なの」
千花が聞いた。
「正直に言って、何も考えてないんだ。私にとっての人生は、逃げることだけだった。どうやって生きようか。どうやって隠れようか。どうやって命をつなぎ留めようか。それしか考えてこなかった。私の体を支配していた一業も教授ももういないけれど、結果的には何も変わらない。私には目的も望みも何もないのだから」
「三年前ならともかく、今の君なら、何でもできるさ。好きなことを、やりたいことを何だってやればいい」
僕の言葉を聞いたカナラは僅かに複雑そうな目でこちらを見返した。その視線にどんな思いが籠っていたのかはわからない。どんな意味があったのかはわからない。
しばらくして、彼女は踏ん切りがついたように穏やかな表情を浮かべた。
風に流されて、彼女の前髪が大きく上がる。
「ごめんなさい。あなたたち二人には本当に酷いことをしたと思う。私は死にたくなかった。そのためにあなたたちを利用した。勝手に自分の記憶を植え付けて、勝手に超能力者として覚醒させた。あなたたちには心底恨まれてもしかたがないと思っている。私のせいで人生が台無しになった」
僅かに目元を潤ませながら、
「もし望むのなら、真理のお父さんを助けた後、何でも償いを……――」
「いいよカナラ。そんなことは」
彼女の本気の涙を見て、僕は若干焦りながら答えた。
「君の記憶を見たからわかる。あれは事故だった。君はまだ力をコントロールできてはいなかったし、そうしなければ助からなかった。仕方がなかったんだ。君はこの町に来てしまった僕を何度も助けようとしてくれた。都会へ送り返そうとしたり、六業との争いのときにだって一業の支配を破って和泉さんの記憶に干渉させた。君がいい人間なのは良く知ってる」
「カナラさん。やったことはやったことだよ。あなたにはその責任があるし、私たちを苦しませたことは事実だから。でも今あなたが何をしたって失った私たちの時間は帰っては来ない。その罪はあなたが今後一生抱えて持っていくしかない問題だと思う。そう思い続けてくれることが、私たちに対する一番の罪滅ぼしなんじゃないかな」
多少きつめの口調ではあったものの、千花の声には優しさが籠っていた。そう叱責することで彼女が歩いて行けるように。前に進めるように。
僕たちの台詞を聞いたカナラは、一瞬息を詰まらせたあと、申し訳なさそうに再度謝った。
「本当にごめんなさい。本当に……」
夕日が薄くなり、周囲の明るさが遠ざかっていく。
その光が完全になくなるまでカナラは頭を下げ続けた。
5
千花と別れ、家の近くまで戻ったところで、端末に着信があった。画面を確認すると、修玄という文字が表示されていた。
――修玄?
どこに行ったのかずっと疑問に思っていたが、まさか今さら連絡がくるとは。
あの時修玄が姿を消した理由について、今の僕には思うことがあった。不安を感じつつも、端末を耳に当てる。
「やあ、穿くん。元気にしてるかい?」
穏やかな人当たりのいい声。いつもと変わらない口調だった。僕は一息つき、端末を持ち直した。
「修玄さん。あなたは、今まで何をしてたんですか」
「それについて弁解したいんだ。会って話せないかい?」
「会う?」
「大事な話なんだ。電話じゃ伝えきれない」
まさか、また何らかの罠だろうか。警戒心を抱いたが、すぐに回答しないのは怪しまれる。
「わかりました。じゃあお寺に向かえばいいですか。少し時間はかかると思いますけど」
「いや、ぼくはもうあの寺には居ないんだ。君に来て欲しいのは、病院だよ。海側にある国立病院だ」
「病院?」
「場所はわかるね。入り口で待ってるから」
一方的にそう説明すると、修玄は通話を切った。
夕方までは快晴だったはずなのに、いつの間にか天気は悪化していた。
雨こそまだ降ってはいなかったものの、月は雲の向こう側へと身を潜め、風も強くなっている。
一体修玄は僕に何の用があるというのだろうか。何故、今さら連絡を取ってきたのだろう。
親指で他の指を撫で上げる。自分が緊張しているのがわかった。良くないことが起こるかもしれないという不安が湧き上がる。
彼が千花を呼ばず僕だけに声をかけたのは、記憶を読まれる危険を考えてのことだろうか。いや、彼に精神干渉は効果がないはずだ。ならば、前回と同様に僕を引き付けて千花を誘拐しようとしているのだろうか。あまり考えたくはないけれど。
海沿いの道を曲がり、大きな建物が見えてくる。この近辺でもっとも大きな国立病院。完全予約制で多額の診察料がかかるため、学生や老人などが訪れることは少ないが、最先端の設備や機材が整っており、他の病院で手の打ちようがない患者は、必ずここに運び込まれることになっている。
フェンスに囲まれた駐車場に足を踏み入れると、入口の目の前に見知った短髪の男が立っていた。もう寺にはいないと話していたはずなのだが、修玄の服装はいつもと変わらず、灰色の着物姿だった。
こつこつと、階段を上がる。内科患者用の棟を抜け、さらに奥にある別の棟へと足を踏み入れた。
不気味な雰囲気に恐怖感を感じつつも、それに耐え修玄の後に続く。
あんな目に遭ったにも関わらず素直に彼に着いてきたのは、自分でも意外だった。彼に敵意がないと、何となく察していたからかもしれない。
いくつか応接室のような場所の横を通過し一つの個室の前まできたところで、修玄が足を止めた。
「心配しなくていいよ。ぼくは君に危害を加えるつもりはない。さあ、中に」
複雑そうな表情で僕を見下ろす修玄。その顔を見て、僕はある種の予感を感じた。
銀色の冷たいノブを掴みゆっくりと回す。扉を押し出しながら中に入ると、二度と顔を見たくないと思っていた人物がそこに座っていた。
「真壁――……教授……」
僕の声を耳にした真壁教授は、一瞬こちらに目を向けると、また視線を窓に戻した。思考を放棄したかのように、夕焼けに流れる雲を見上げている。
「心配ない。記憶は消えたままだ」
背後から修玄が囁いた。
「今はまだ、ね」
「……今は?」
「これを見てくれ」
修玄は自分の鞄に手を入れると、透明な容器を取り出した。その中に、紫色の腫瘍の塊のようなものが入っている。
「五業――」
「の、レプリカだ。彼の能力は現象というよりも、度重なる実験と使用された人工細胞によって変異した体質のような面が大きかった。超能力の無いぼくらでは遠方から腫瘍を操り操作することは出来ないけれど、疑似的な真似ごとなら実現することは出来る。
真壁教授は明社町に入る前に、自分の記憶をこの腫瘍にコピーしていたんだ。万が一真壁教授の記憶が失われた場合、ぼくや他の実験体がこの腫瘍を彼に与え、意識を復活させる手はずになっていた。腫瘍の身体が生きている短い間だけなら、記憶を再現することが出来る。カナラ対策の一つだよ」
ということは、今ここで修玄があの腫瘍を与えれば、今すぐにでも真壁教授の記憶が蘇るということなのか。
この三か月の努力が振り出しに帰るかと思うと、どっと冷汗が湧き出てくる。僕は緊張感を高めたのだが、修玄はそれを乱雑に鞄に戻し、苦笑いを浮かべた。
「心配しなくても、真壁教授の記憶を戻す気はないよ」
「どういうことです?」
「君をここに呼んだのは、事件の顛末を伝えるためだ。この事件の裏で何があったのかを話しておきたかった」
わざわざ真壁教授のもとに案内し、腫瘍を見せたのは、自分が敵ではないと示すためだろうか。いつでも復活させることのできた真壁教授を助けなかったのだと伝えるために。
「あなたはやっぱり……」
「うん。ぼくは一業の仲間だった」
それは、予期していた言葉だった。僕の反応を見た修玄は、意外そうに見返した。
「その反応、何となく予想がついていたって感じだね」
「そうでなければ、教授の仲間であるはずのあなたが、わざわざ僕の命を助け、協力する理由なんてありませんからね」
「あれは本当に純粋な善意だったんだけどね。まあ、別にいいけれど」
「あなたは、何故一業に協力を? 何が目的だったんですか」
修玄の言葉を無視し、僕は言葉を続けた。
「ぼくは、――……真壁教授を、あの人を助けたかったんだ。超能力という現象に取りつかれ、どんどん狂気に呑まれていくあの人を、自身の肉体すら化け物に変化させ、なおそれを追い求める彼を、助けたかった。初めて会ったときのように、笑顔の溢れるあの人に戻って欲しかった」
前に聞いた修玄の言葉を思い出した。真壁教授は人を呪い殺す超能力者――カナラの父さんに出会ってから、おかしくなってしまったと。
「……まず、順を追って話そうか。一年ほど前。教授の命令で一業がカナラを追い、そこでカナラと繋がったとき、実はぼくもその場にいたんだ。ぼくは経緯の観察と、一業や五業たちの補佐をすることが仕事だった。今回と同様にね。
一業とカナラの精神が繋がったとき、ぼくは最初、ことの顛末を全て真壁教授に伝えるつもりだった。カナラを手に入れることに成功したと。……けれど、一業が真壁教授の下に戻ることを強く拒否したんだ。一業は、自分の命が短いこと知っていた。真壁教授の下に戻っても、未来はないと悟っていた。
一業はぼくに助けを求めた。もっと生きたいと。自由になりたいと。カナラの力を使えばそれが叶うと。ぼくは、悩んだ末に彼の提案を呑んだ。真壁教授の異常さに嫌気がさしていたからね。彼を止めることを条件に、協力を了承し、一業の死を偽装した」
修玄は一旦言葉を区切った。
「一業の目的は、寿命の迫った自分の身体を捨て去り、カナラの力で他者に記憶を転写し、生き延びることだった。でもカナラを連れて歩く限り、どこだろうと真壁教授は追ってくる。例え誰かに記憶の転写を成功させたとしても、周囲の人間や記憶を転写した人物に五業が寄生すれば、一業の生存と目的が真壁教授に露見してしまう可能性があった。常にカナラを狙い追い続ける真壁教授は、まさに彼にとって目の上のたんこぶだったんだ」
直接本人と会話したから、一業の気持ちはわかる。生きたいと、そう願うこと自体は悪いことじゃない。けれど、そのために犠牲になった人の数は、あまりに多すぎる。
「……あなたは、そんな個人的な目的のためにこの町を生贄にしたんですか」
「真壁教授を放置すれば、それ以上の犠牲が出ると思ったんだ。彼がカナラを手に入れれば、超能力者は爆発的に増加していたかもしれない。それにどのみち、ぼくの力じゃ一業に逆らうことは出来なかった」
言い訳がましく修玄はそう言った。自分の否を認めつつも、それを悪だと思っていないようだ。
「ぼくと一業は真壁教授を倒す算段を計画しつつ、記憶転写の実験も行っていた。けれど、カナラの力だけではどうしてもそれが叶わなかったんだ。彼がかつて千花さんに記憶を与えることが出来たのは、極限状態による心理的な影響が大きかった。かつての経験を後悔し、なおかつ精神干渉によって無理やり操られている彼女の力では、いくら実験を繰り返したところで記憶の転写は成功しなかった。
そこで悩んだ末、ぼくたちは超次場を活用する方法を思いついた。彼女の力そのものを増幅すれば、例え一業に操られた状態でも記憶の転写を成功させることが出来るかもしれないと考えた。
古い文献や資料を漁り、ぼくたちはこの明社町を計画の実行場所に選んだ。パワースポットとして名を馳せているわけでもなく、かなり広範囲の超次場を持つここは、目的の達成にうってつけだった。
記憶の転写に成功してもカナラを連れる限り真壁教授は追ってくる。ぼくたちは真壁教授の無力化を実行に移すことにした。万が一真壁教授に敗れそうになった場合に備え、すぐに強制的に計画を実行できるように、敢えてこの町を実行場所に選んだ。
腫瘍への記憶バックアップのことを知っているぼくや一業が相手とわかれば、真壁教授はきっと用心する。正体を知られていないことが、彼のメリットだったからね。それに、一業の体は酷く不安定だったから、長時間戦うことは出来ない。最初はカナラの力で適当な人間を操り彼女が実験体たちを倒しているように見せようとしたんだけれど、偶然にも六条真理という男が超能力に目覚め、君の父親がこの町にやってきたから、計画を変更することにした。元々超能力の使用が寿命に影響を与えていた一業にとって、君たちの登場は予期せぬ朗報だった」
瑞樹さんのことを思い出す。適当な人間というのは、彼女のことだろう。
僕は目の前の男を殴り倒したくなったのだけれど、ぐっとそれを我慢した。まだ話の腰を折るわけにはいかないから。
「計画は予想以上に順調に進んでいるはずだった。実験体たちは君たちのおかげで次々に倒され、真理と君、敵対者が二人いるという状況は、五業や実験体たちを十二分に撹乱させた。計画成功後には、一業の力で真壁教授の精神防壁を無効化し、その瞬間に記憶を抹消する予定だったのだけれど、全く同様なことを君たちがやってくれたから、ぼくの目的はその時点で達成できた。あとは、超次場である文化センターからカナラの力を使い記憶の転写を実現すれば、全て終わりだったんだけどね。――……まさか、君たちが一業と二業に勝てるとは思ってもいなかったよ」
修玄はベッドで背を倒している真壁教授の肩に優しく手を置いた。真壁教授は不思議そうに修玄を見上げたが、しばらくして再び窓の外に視線を移した。酷く穏やかな表情を浮かべている。
僕は複雑な気持ちを押し殺し、修玄に尋ねた。
「……なぜ、僕にこの話を? 黙っていれば、あなたの身は安全だったのに。僕があなたたちを殺そうとしたら、どうする気だったんですか」
「さあ、なぜだろう。……しいていうのなら、罪悪感ってやつかな。ほんとは真理くんにも伝えるべきだったんだけどね。彼は、感情的だから最後まで話を聞いてくれないと思って」
修玄は肩を落として見せた。
僕は歯を噛みしめた。
これだけのことをして、ここまで多くの人に迷惑をかけて、この男はのうのうと、悠々と残りの人生を謳歌するつもりだというのだろうか。瑞樹さんを、和泉さんたちを殺しておきながら。
修玄に対する強い憎しみが沸き起こり、思わず手に力が籠る。今にも蟲喰いが暴発してしまいそうだった。
僕の震える手を見た修玄は、
「いくら憤ったところで、君に人は殺せないだろ。怒るだけ無駄さ」
そこで修験は手に持っていた鞄をこちらに投げつけた。
急なことだったので、取り落としそうになったが、何とか両手で受け止める。
「その腫瘍には真壁教授の研究の全てが詰まっている。それを破壊すれば、本当の意味で君たちの知っている真壁教授はもう戻ってはこれない。それをどうするか、君に任せたいと思ったんだ」
腫瘍は容器の中で波打ち、生命を、命の鼓動を鳴らしている。まるで真壁教授そのものが、手の中にいるかのようだった。
僕はしばらくそれを見下ろしたあと、かすかに手を動かし蟲喰いを発生させる。小さな炸裂音が部屋に響いた。
これも人殺しというのだろうか。
動かなくなった腫瘍を見下ろして、そんなことを考える。僕は、何を殺したのだろう。
「……明日には真壁教授もここから移動させる。もう二度と君に会うことはないだろう。言えたぎりじゃないと思うけれど、本当に迷惑をかけた。ごめんね」
どこか寂しそうな表情で修玄が聞く。
確かに僕には修玄を殺すことは出来ない。警察に駆け込んだところで、彼を凶弾出来る証拠などどこにもない。ある意味、今回の事件は修玄の一人勝ちだとも言えた。
「瑞樹さんの葬式で初めて会った時、あなたは落ち込んでいる僕にこう言いましたよね。『空っていう原理がある。瑞樹さんは無くなったわけじゃない。大きな流れの中に帰っただけだ』って。あの時、あなたは一体どんな気持ちで僕に声を掛けたんですか。どんなつもりで僕にあんな話をしたんですか。あなたが自ら瑞樹さんの死に関わっていたにも関わらず」
印象に残っていたから、あの言葉はよく覚えている。僕を慰めるために、励ますために声を掛けてくれたと、そう思っていたのに――。
僕の声を聴いた修玄は、僅かな間を空けた後に静かに答えた。
「本当に君を心配しての言葉だよ。勘違いしているかもしれないけれど、ぼくは、ぼくなりに今回の犠牲者を減らそうと努力していたんだ。まあ、あまり効果は得られなかったけれどね。……仏教には‶因果応報〟という言葉もある。全ての行いには、必ずそれに対応した結果があるという意味だ。ぼくに罪があるというのならば、いずれこの世界自身がが手を下すだろうさ」
まるで自分に罰が下るのを予期しているような目。
僕は何とも言えない気持ちで、座り込んだ老人と、その愛弟子の姿を見つめ続けた。
6
自宅の玄関に入り深いため息を漏らす。
靴を脱ぎ立ち上がり真横の鏡を見ると、そこに一瞬一業の顔が映った。
「えっ……!?」
驚いて後ろに跳び下がり、もう一度鏡を見ると、いつも通りの自分の顔が見えた。少しやつれたどこにでも居そうな少年の顔だ。
どうやら錯覚だったらしい。真壁教授と再会したことで不安感が高まっていたのかもしれない。
僕は頭を軽く振り一業の幻影を振り払うと、リヴィングへと足を運んだ。
「おかえり」
父はいつものようにテレビの画面を熱心に見ていた。「チュパカプラは実在するのか?」というテロップが画面に表示されている。
「飯はいるか」
「あ、うん。食べるよ」
僕は手を洗い、台所から父の作ったチャーハンを持って席に着いた。
ちらりと横を見ると、父は子供のようにキラキラした目でテレビを見つめている。
相変わらず会話は無かったけれど、そんな父の顔を見て、僕は何となく自分が家に帰ってきたことをようやく実感できた。
少しだけ風が涼しくなった。少し前まではこうして何もせずに立っているだけで汗がだらだらと溢れ出したものだが、今では逆に涼しさすら感じられるほどである。
手すり越しの真下に広がる中庭では、いつもと同じように多くの生徒たちが移動しまたふざけ合っている。このひと夏で何かラブロマンスでもあったのか、心なしかカップルが増えているような気がした。
たった二~三ヶ月。それだけの日数でしかなかったのに、まるで一年間以上この町にいたような気分だ。こうして平和な校舎の風景を眺めていると、微かに懐かしさすら覚える。
僕がこの町に来た理由はカナラ、いや一業による誘導だった。彼が真壁教授を騙すために用意した撒き餌。それが僕だった。
一業の計画は破綻し、真壁教授からも狙われなくなった今、もうこの町に滞在し続ける理由なんて存在しないけれど、僕は不思議と引っ越しをする気にはなれなかった。まだしばらくの間は、この町にいてもいいと、そう思えた。
背後のプレハブの扉が開き、千花が屋上に出た。強めの風を気にしてか、前髪を手で押さえている。扉の隙間から緑也や日比野さんたちの楽しそうな笑い声が聞こえた。
「なに一人で黄昏てるの? かっこつけちゃって」
扉を閉めながらくすくすと笑う千花。僕は少し苦笑いを浮かべながら首を中庭の方へと戻した。
「別にかっこつけてなんかいないよ。ただ、少し外の空気を吸いたくなっただけだから」
「そういうのをかっこつけてるって言うと思うんだけどなぁ」
横に並び、手すりの上に腕を乗せる。そのままぼうっと外の風景を見下ろす千花の横顔を眺め、僕はごく自然な調子で聞いた。
「僕は、このまましばらくの間、明社町に住む予定だけど、千花はどうするの?」
「私? そうだなぁ。どうしよっかなぁ。……もう、隠れる必要も、逃げる必要もないんだもんね」
力の抜けた声で千花はそう答えた。
「いろんな場所、回ってみたいかな。今度はゆっくり観光しながら。あ、その前にお母さんたちに会いにも行きたいけど」
「旅がしたいの?」
そう聞いた僕の表情がきっと不安げだったのだろう。千花は僅かに頬をにやつかせながら、
「いつかね。ちゃんと自分で働いて、お金を稼げるようになってから。今はゆっくりしたい。やっと静かに暮らせるようになったんだもん。しばらくは平和な生活を満喫しようと思う。だから私も、あと何年かはこの町にいるつもりかな」
「ふーん。そっか」
僕は何食わぬ調子で頷いた。
そのまま黙っていると、千花も何も言わず穏やかな時間だけが流れた。時たま聞こえる桂場や日比野さんの大きな声が、今が平和であることをよく実感させてくれる。
……やっぱり言わないと駄目だよな。
僕はゆっくりと息を吐いて、千花に向き直った。
「千花、実は君に言わないといけないことがあるんだ」
「え?」
どこか恥ずかしそうに下を向く千花。
僕は覚悟を決め、息を呑み込んだ後、この前の、修玄と真壁教授のことを話し始めた。
話が予期していたものとは違うと気が付き、千花は落胆したようだったが、話の内容を聞くにつれて表情を変えた。
「――……そう。じゃあ、今回の事件は全て一業と修玄さんが原因だったんだね」
千花は困ったように自身の腕の上に顎を乗せた。腰がぐっとプレハブのほうに突き出される。
僕は四業につけられた肩の傷を掻きながら、
「真壁教授は――あの人の目的は、超能力者とその発展によって人類の昇華を試みることだった。そのために腫瘍を自身の身体に埋め込み、生きた人間を改造し、超能力者を作り出した。修玄さんは、常軌を逸していく真壁教授についていけなかったんだ」
「本当に、そんなことが人類の浄化になるのかなぁ」
腕に押し付けた唇を歪ませながら物思い気に千花が呟いた。
「たとえみんなが超能力を手に入れたって、結局それを使うのは今と同じ人間なのに。確かに何かしらの認識は変わると思うけど。私にはとてもそれが意味のあることだとは思えない」
「……死へ向かう意識の偏りをこれからの成長へと変換する。そういう理由だっていってたけど。そんなのは実のところただの言い訳かもしれないね。あの人は純粋に超能力に魅せられてしまったのかもしれない。かつて初めてそれを目にした瞬間から。自分の人生を、表の世界で生きられなかった自分自身を浄化したかったんだ」
僕の台詞を聞いた千花はふわっと顔を上げた。
「自分を救おうとしなければ、救われるわけがないよ。自分と向き合ってそれを認めて、前に進むことこそが、その呪いを浄化できる唯一の形なのに」
かつての経験を思い出しているのだろうか。千花の言葉は妙に僕の心に響いた。
ふと上を見上げると、珍しくまだ月が見えていた。僕の好きな半透明の神秘さを感じさせる朝の月だ。僕にとっての――始まりの象徴。
薄っすらと浮かぶそれは、太陽の光にかき消されないように、必死に自分の存在を主張していた。
まるで生きようと足掻く僕たちのように――。
ご読了ありがとうございました。
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