第三十七章 菱形の塔
1
目が覚めると、そこに一業たちの姿はなかった。
胴体を潰された三業と血をまき散らし絶命した四業の肉体だけが、建物の間に転がっている。
僕は上半身を起こし、背後を振り返った。
生い茂っていた雑草たちは見るも無残に焦げ尽き、広がっていた土の多くも色を失っていた。当然、そこに千花の姿はない。
――……また連れていかれてしまった。
僕は陰鬱な気分になった。
やっと助けることができた。教授の魔の手から救えたと思った矢先だった。
――私が守るから、私が……――。
今ならよく思い出せる。楽しそうに絵を覗いていたカナラ。隣で本を読んでいた千花。
――ああそうだ。確かにあれは、僕の体験した過去だった。揺るぎない僕の事実だった。
「千花……カナラ……」
僕はずっと不思議に思っていた。
何故カナラと過ごした思い出のことを千花が知っていたのか。何故、彼女がまるでその体験を自分自身の記憶のように話すのか。何のことはない。事実は至極単純だ。千花も、カナラも、二人揃ってあの場に居たのだから。
地面についた指に力を込めると、茶色の土が円形にくぼんだ。湿気のある柔らかい感触が爪の先に現れる。
僕は膝に意識を集中させ、片足を立てた。重力が倍になったかのような気分だった。
一業は、カナラのことを愚かな女だといった。自ら自分を受け入れ、死にたがっていたと。
確かに僕と千花は、彼女のせいで人生が狂った。悩み、苦しみ続ける道を歩んできた。それを恨んでいないと言えば嘘になる。
でも、だからといって、僕は本気で彼女を責める気にもなれなかった。
カナラは、彼女は幼かったのだ。まだ子供だった。そんな状況に適応できるほど大人ではなかった。
家族を失い、匿ってくれた夫婦の記憶も自ら消し去り、彼女に残されたものは自分の命だけだった。それが全てだった。
断片的にしか体験することは出来なかったけれど、きっとすごく怖かったはずだ。凄く心細かったはずだ。いくら特別な力を持っていようと、いくら人を操ることができようと、彼女はまだ未熟な少女でしかなかった。そんなか弱い女の子が生きたいと願って、死にたくないと叫んで、何が悪いというのだ。
土のついた手を見下ろす。
カナラの記憶を見て、改めて自分の罪を見せつけられた気分だった。
超能力が発動するなんて思ってもいなかったけれど、発生した蟲喰いを目にして、僕は自らの意思でそれを四業へと打ち込んだ。確固たる殺意を持って、彼に拳を突き上げた。あれが、正しい行動だったかは今もわからない。彼を倒さなければカナラは誘拐され、僕と千花は死んでいたかもしれない。けれど、カナラの力を通して感じた四業の感情は、酷く苦して、辛かった。
再開したカナラを前にして、僕は彼女が別人のようになってしまったと思っていた。けれど、今なら彼女の気持ちがよくわかる。どれだけ苦しかったか、どれだけ後悔していたか。
僕はまだ彼女と何も話してはいない。まだ、彼女の口から事件に関する言葉を聞いてはいない。記憶は見たけれど、それはあくまでただの風景だ。彼女の思いじゃない。
僕はカナラと話したいと思った。彼女に文句を言いたかった。真実を知ったからこそ、彼女の口からその気持ちを教えて欲しかった。
膝の上に手を乗せ、体をしっかりと支える。
――これで終わりになんてするものか。
まだ終わったわけじゃない。‶触れない男〟のときだって、四業のときだって、最後には千花を取り戻すことができた。今度だって、きっとどうにかできる。諦めない限り、負けではないのだから。
小さなうめき声が横で震える。目を向けると、真理が歯を食いしばって立ち上がるところだった。彼は自分の揺れる足を二度拳で叩くと、物凄い形相で先ほどまで一業が立っていた場所を睨みつけた。
「あの千花とかいう女のおかげで助かった。どうやら一業はカナラの力をあまり消費したくないみたいだ。ねばる千花を見て精神干渉を諦めたらしい」
「意識があったの?」
「ああ、最初のほうはな」
「あいつらはどこに行ったんだ? 何で僕たちを生かした?」
「そんなの俺が知るわけないだろ」
真理はぶっきらぼうに視線を逸らした。
連れて行ったのなら、まだ助けられるはずだ。まだ……――。
右手を開き、親指で他の指を撫で上げる。僕は必死に考えを巡らせた。
カナラを手に入れたいだけなら、わざわざ僕たちや教授と関わる必要なんてなかった。何せ一業はかなり前からカナラと繋がっていたのだから。
一業は既に教授たちから死んだと認識されていた。その時点で教授の束縛から開放されたに等しい状況だった。カナラの力を自由に操れるのなら、なおさらのことだろう。他の実験体たちのように、カナラの細胞を取り込むことを考えていたようにも思えない。それが目的なら、こんな計画を立てないでとっくに実行に移している。一業は、あえて存在を知られる危険を冒し、僕たちを利用した。僕たちを利用して教授を倒す必要があった。
四業の身体が揺れる。真理が彼の死を確認しているようだった。
「酷いな。全身の血が一気に毒にでもなったみたいだな」
全身の血液が毒になる。確かに自身の血液そのものが毒となれば、いくら再生能力が高かろうとどうしようもないだろう。毒とは主に人体に入り込むことで、その肉体を構成する成分のバランスを崩す成分のことだが、神経毒なんかはアポとーシスと呼ばれる細胞自体が自ら死に向かう現象を引き起こす場合があるそうだ。体を守るために死のうとしている細胞を、‶強化〟による再生で無効化させることは出来ない。四業の現象を知り尽くしている殺し方だと思った。
そこまで考えたところで、僕は急に瑞樹さんの顔を思い出した。この町に来た時に最初に仲良くなった女性で、緑也の幼馴染。そういえば、彼女の死因は急性心不全だったはずだ。
まるで猛毒を取り込んだかのようにショック症状を起こしていたにも関わらず、彼女の体内からは一切の毒素が検知されなかったのだと、日比野さんか、一之瀬刑事から聞いたような覚えがある。
前に緑也は瑞樹さんが白い少年と一緒に行動していたという話をしていた。やはり、一業が彼女を殺したというのだろうか。
真理は壁に背を預けると、思案するように腕を組み、自身の顎に手を置いた。カナラのことでも考えているのだろうか。かなり真剣な表情をしている。
僕は呼吸を整えながら腕時計を確認した。針は既に午前零時を超えていた。
「……文化センターだ。あそこが怪しい」
こちらを見ないまま、真理が声を出した。
日比野さんが最後に目撃された場所であり、確か真理の記憶でも白い肌の少年の姿が目撃されていたはずだ。何より僕は一度そこで彼に会っている。
……確かに可能性は高いかもしれない。
真理は壁から背を放すと、拳を丸め開く動作を繰り返した。
「お前、まだ動けるか」
「ああ。大丈夫。少し休んだから、元気になったよ」
お互いぼろぼろなことはわかっている。僕も、おそらく彼の身体も限界のはずだ。だが彼の何かに負けたくなくて、僕はそう意地を張った。
歩き出そうとしたところで、重要な人物のことを思い出す。そういえば、修玄はどうしたのだろうか。
真理の記憶の中で、彼は無事にこの浄水場まで辿り着き、トラックから降りて逃げおおせたはずだ。僕は端末を取り出し通話アイコンをクリックしたのだが、いくら待っても、彼が応答することはなかった。
2
元々人通りの多い町ではないけれど、夜の道はいつも以上に静寂に包まれているような気がした。遠くから鈴虫の鳴く声が微かに聞こえる。
雨が降ったおかげで雲が発散したのだろう。金色の満月や星々が大きく輝き周囲を照らしている。
「こんな状況じゃなきゃ、最高の景色なんだけどな」
歩きながら真理が呟いた。
「こんどじっくり見ればいいさ。双眼鏡でも用意して。昔カナラたちと都内で試みたんだけど、あっちじゃあんまり見えなかったな……」
僕の言葉を聞いた真理は、腕を組んだままこちらに視線を落とした。
「穿、だったっけ。お前ってカナラのことはどう思ってるんだよ」
「どう? どうって、大切な友人だと思ってるよ」
「ふーん。本当にそれだけ?」
興味無さそうに聞く真理。何となくだが、僕とカナラの関係性を気にしているように思えた。
「彼女に恋愛感情はないよ。母親を失ったばかりの僕は、彼女と接することで前を向くことができた。生きようお思えた。だから、その恩を返したいだけさ」
僕は濡れた花壇の花に目を留めた。黄色の受け皿が幾重にも重なったような花弁。八重咲草の王という花だ。土手などによく咲いているやつである。
「……助けられると思うか」
「わからない。でも、諦めるわけにはいかない」
‶触れない男〟のときも、教授のときも、いつだってピンチをチャンスに変えてきたのだ。どれだけ力の差があろうと、分が悪かろうと、相手が生き物である以上、必ず付け入る隙はある。
「精神干渉だって万能じゃない。千花は教授に完全に体を支配されていたけど、僕との繋がりからそれを解除することが出来た。きっとカナラだって、救える手段はあるはず。一業は僕が何とかするよ。僕が彼の注意を引いている間に、君はカナラを助けるんだ。彼女さえこちら側に戻れば、まだ勝てる見込みはある」
「わかった。俺だって、諦めるつもりなんか微塵もない」
右手を開き握りしめる動作を繰り返す真理。それは、何らかの彼のルーティーンのようだった。
この町に来てから、‶触れない男〟と遭遇してから、僕はこれまでずっと一人で戦ってきた。傷つき、足掻いてきた。だから真理という仲間がいることは凄く心強かった。
電灯の消えた歩行者の存在しない通りをまっすぐに抜けると、あの塔が、ひし形の壁が視界に入った。何度も見ているはずなのだが、今はその異様な景観が奇妙なほど恐ろしいもののように見えた。
オーストラリアにあるストーンヘンジ-は、複数の岩柱が円形に並び立ったような遺跡だが、文化センターの前にある広場はそれに酷似したオブジェクトが並べられている。
前に千花と来た時には何も感じなかったはずなのに、そこに足を踏み入れた瞬間、肌に突き刺さるような嫌な威圧を感じた。この場に存在する物体全てに一業の意識が伝播しているかのような感覚だった。
「嫌な空気だな」
文化センターを見上げながら、真理が呟く。僕と同じように何かを感じ取っているようだった。
深く深呼吸をし、己の心を落ち着かせる。
今の僕は全てを知っている。
カナラが何をしたのか。千花に何があったのか。僕たちを取り巻いている状況をようやく理解することが出来た。今なら素直に彼女たちと向き合うことができる。本当の二人を見ることが出来る。
自動扉には、ロックがかかっていなかった。
元々セキュリティーが甘いのか、それとも一業たちがあえてそうしたのか。中は暗く、従業員や警備員の姿は一人も見られなかった。
僕と真理はホールを突き進み、正面にあるエスカレータへと向かった。
電気が通っているとはいえ、逃げ場のないエレベータに乗るわけにはいかない。高所まで上がったところでワイヤーを切断されれば、こちらは打つ手もなく死を迎えるしかないのだ。非常階段では吹き抜けとなっている中の様子がわからないし、消去法で考えてこのルートがもっとも危険が少なかった。
暗闇の中を無言で歩き、いつぞやのカフェの横を通り抜け、エスカレータの前へと到達する。そこで僕たちは足を止めた。
上階から、鈴を鳴らしたような透き通る声が響く。
「――よくここがわかったな。何の情報も与えていなかったはずだが」
それは、黒いドレスのようなものを着たカナラだった。口調から察するに、一業が話しているようだ。
「カナラ……!」
真理がほっとしたような悲痛そうな表情を浮かべた。
それを見たカナラが小さく笑みを浮かべる。
「ぼくは幻影だよ。本当の彼女は今地下にいる。二業と一緒にね」
「地下?」
真理が聞き返した。
「カナラにはこの土地に干渉する準備をさせている。方向性のない不確定存在を操るために」
カナラの姿をした一業は、前と同じように両手の指をお腹の前で合わせた。
「この場所は特別なんだ。お前たちは超能力がどうやって発生するか知っているか? この世界は観測者が認知するまで、それを構成する物質は存在しない。観測することで初めてそれに形を与え、役割を生み出している。意識の力でその観測の仕方に影響を与え、観測者の任意の状態に形作ること、それが超能力の現象だ。……だが別にこの世界は人間の自我の中にしか存在しないわけじゃない。あくまで存在している‶何か〟を形として認識しているのが人間であるというだけの話だ。認識され、形作られなくともその‶何か〟はそこら中に充満し、混濁している」
「は? 何が言いたい?」
胡散臭そうなで一業を見上げる真理。僕にも彼の気持ちはよくわかった。
「その‶何か〟の構成を再編するために必要な認識とはつまるところ意識の軸、空間に対する影響力の深度が違うということ。それは人の精神だけではなく、物体であれば何であろうとありうる現象だ。
パワースポットなんて単語を聞いたことがあるだろう。あれらは全て、そうやって存在としての軸が、空間に対する干渉力の深さが周囲よりもずれた場所のことだ。その場に寄ってたがる人々の願望や意識という‶方向性〟に影響され、その方向性にそった認識の影響を観測者に与える。いわば、疑似的に超能力を発生させる場所といったところか。真壁教授はこれを超次場と呼んでいた」
話を聞いていた僕は、一業の述べようとしていることが何か分かった。
「この文化センターがその超次場だって言いたいのか」
「ああ。この土地はかなり広大な、そして深度の深い超次場だ。普通に過ごしていれば些細な幸運に恵まれることがあるだけだが、使い方次第では強力な道具になる。人間の認識能力は有限だ。人は自分が見えると思っているものしか見ない。見えないものを見ようとはしない。だから認識できる領域も狭く、その影響も少ない。……しかし、あらゆる他者に干渉し、自分だけではなく周囲の全ての存在を認知し、かつそれを把握できるほどの認識能力を持つ人間ならば、この場所を十二分に活用することが出来る」
「君は、カナラを使って何をする気なんだよ。この場所で彼女に何をさせたいんだ?」
「ぼくは真壁教授のように終末願望の克服にも、人類の自己意識の更新にも興味はない。ぼくはただ、ぼくのエゴのために行動している」
まったく答えにはなってない、僕は一業がわざとそんな話し方をしてるのかとすら思った。
「あいつは地下に居るんだな」
たった今一業が説明した内容など、どうでも良さそうに真理が低い声を出した。
彼の顔を見て、一業はどこか面白そうにカナラ姿の首を傾けた。
「ああ。そうだ。お前たちの正面の非常階段から下に降りれる。その先だ」
「千花は? 彼女も一緒に?」
僕が聞くと、一業は軽く首を振った。
「あの模造品はぼくと共に最上階にいる。今のカナラは酷く弱っているからな。超次場の影響を上手く操れるか怪しい。カナラに力をコントロールさせ、あの模造品の力でこの町に力を拡散させるほうがリスクが低いと考えた」
「リスク……?」
「模造品にはぼくの認識にそった現象を発生させ続けてもらう。カナラがポンプで、彼女が蛇口のイメージと言えばわかるか。当然、水の勢いに耐えられないほど蛇口がもろければ、それは崩壊する。……お前たちがここまで来れるとは思っていなかった。この計画が上手くいけば、生きていようが死んでいようが意味がないからな。だが、邪魔をするというのなら容赦はしない」
そういうと、カナラの姿をした一業の姿は塵のように搔き消えた。底の見えない暗闇の沼だけが、彼の居た場所に滞在している。
一業があえてカナラと千花の居場所を示したのは、恐らく僕と真理を分断するためだろう。一対一ならば確実に負けないと、そう考えているのだ。
「仕方がない。別れよう。どっち道、両方助ける必要があるんだ」
僕がそう言うと、真理は心配そうな目でこちらを見た。
「……大丈夫か。あいつ、相当ヤバそうだぞ」
「わかってる。僕にだって考えはあるさ。そっちこそ、無理はするなよ」
正直言って、考えなんてほぼ無いようなものだ。でも真理に臆していると思われたくなくて、僕はそう普段通りの表情を作った。
真理は短く息を吐くと、半開きにした手を軽く前に上げる。そして、そのまま奥に向かって走り出した。ワインレッドのシャツの背中が、灯のように遠ざかっていった。
僕はエスカレータを見上げると、一呼吸置き、親指で他の指を撫で上げた。
3
重い振動とともに足元の黒いエスカレータが揺れる。
電源が入っているのは一部だけらしく、見渡せる店の多くは沈黙を貫いていた。
変に明かりが灯っていれば、外から丸わかりになってしまう。一業としても、ひと目にはあまりつきたくないのだろう。
周囲が闇に満ちているせいで、自分が上昇しているのではなく、周りを囲んでいるフロアが勝手に下に落ちていっているような変な錯覚を抱いた。
恐怖に支配されそうな体を僕は必死に抑え込んだ。
一業だって生物には違いない。四業たちを倒したあれが超能力だと言うのなら、必ず発生源や法則が存在するはずだ。三業のときも四業のときも、彼は自らの手を使って攻撃をしていた。つまり距離さえ維持していれば、致命傷を受ける可能性は低い。千花にさえ接触できれば、彼女の力を使って一業に精神干渉を行える。千花の力ではカナラには勝てないけれど、それを操っている一業自身なら話は別だ。真っ先に千花を助けることが出来れば、勝ち目はまだあると思った。
何度かエスカレータを引き継いだところで、僕は呼吸を整えるように目をつぶった。
数刻前。真壁教授の意識に介入したときから、僕はずっと、頭の中に千花の存在を感じていた。ほんのわずかな感触だけれど、確かにそこに彼女のぬくもりが存在している。
例え無理やり意識を奪われていても、近づいてそのぬくもりに呼びかければ、彼女が答えてくれるような気がした。根拠も理論もへったくれもないけれど、僕はなぜか、それを強く実感していた。
エスカレータの終点に着き、足を床に移す。近くに自販機があったので、ペットボトルの水を買った。別に喉が渇いていたからではない。これは、一業の現象を解明するために使うつもりだった。
音が消え去った廊下を真っすぐに進む。一歩足を下ろすごとに靴の音が鳴り響き、それが自分の命のカウントダウンのようにも思えた。
看板など見る必要はなかった。訪れたことはないが、あの場所の目の前までは一度来たことがある。
そこ専用のエスカレータに乗り、再び体が運ばれる。
電灯は切れていたけれど、窓から差し込む月明かりのおかげで室内の様子はよく見えた。
展望台。この文化センターの花形。瑞樹さんが最後に目撃された場所。一業が超次場を使って明社町全体に何らかの影響を伝えるつもりだとしたら、ここ以上に適任の場所はないだろう。
金属が擦れる音とともに、体がフロアに上がり切る。
手すりから手を放し、顔を上げると、真正面の窓辺の縁に千花が寝かされていた。
あの長いまつ毛。艶やかで美しい黒髪。幻覚ではない。今の僕にはわかる。正真正銘の彼女だ。
すぐに駆け寄ろうとしたのだが、それに合わせたかのように、目の前の空間が斑に歪み、真っ白な肌を持った少年が姿を現した。漆黒の髪の下から覗く真っ赤な瞳が、僕を無感情に見つめる。
「一業……――」
僕が喉を鳴らすと、彼は静かに、ズボンのポケットから手を抜いた。
4
非常階段を駆け下りると、狭い廊下があった。
左右の壁には複数の扉があり、煌びやかな上階とは正反対に質素なプレートが釘打たれている。
どこだ? どこにいるんだ……?
カナラが完全に一業の支配下に納まるまで、何故気がつけなかったのだろう。あれほど近くにいて、あれほど同じ時間を過ごしていたのに、のうのうとこんな事態を許してしまった。間違いなく、これは自分のせいだ。
悔しさで胸がじんわりと熱くなる。
開けた部屋がただの書類庫だとわかると、真理は叩きつけるようにその扉を閉めた。
振動で天井に張り巡らされていた配管の埃が滑り、ひらひらと目の前に舞った。ほとんど掃除をしていないのか、かなり積もっていたようだ。まさに灰色の雪である。
これだけ大きな施設にしては随分とずさんな管理だ。
埃が体に付くことを嫌がって通路の奥に逃げると、左方向に他よりも大きな扉を発見した。大倉庫と書かれている。
……あそこか?
真理は右手を握りしめ骨を鳴らすと、逸る気持ちのままそこに向かった。
扉を乱雑に開け放つと、中学の体育館とほぼ同じくらいの空間がそこに広がっていた。ダンボールや収納箱のようなものが、列をなして置かれている。
荷物の積まれた棚の間を抜け整理された場所に出ると、奥の台座に体躯座りをしている二業の姿を発見した。頭上で耳障りな音を鳴らしている換気扇のせいで、まだこちらの気配には気が付いていないようだ。
彼女の背後にはいくつもの古臭いマネキンが無造作に置かれていた。ホールで演劇を行っているサークルか何かの衣装なのだろうか。そのどれもが小奇麗な服を纏っている。
「――あ」
顔のない空虚な人形たちの間に、黒いドレスを着たカナラの姿を発見し、真理は思わず声を上げた。鎖で後ろのパイプに括り付けられているらしく、立ったままがっくりと頭を前のりに倒している。
「カナラ……!」
呼びかけてみても返事はない。苦しそうに眉を寄せたまま微かな吐息を漏らすだけだ。
「無駄だよ。この子の意識は一巳くんに塗りつぶされている。今はもう、ただのお人形さんに過ぎない」
二業は両手を前に伸ばしながら、
「そんなことよりも、見てほら。この部屋は不用品をため込むための倉庫みたいでね。面白いものがたくさんあるでしょ。暇だったから彼女にも着せてみたのだけれど、どうかな?」
黒いドレス姿のカナラを指さし、無邪気な笑みを見せる二業。皮肉でも威嚇でもなく、本当にその行為を楽しんでいるらしい。
ドレス姿のカナラを見つめているうちに、真理は異変に気が付いた。
何だ? カナラの顔色が悪い。どうしたんだ?
もともと体調は良くなかったが、あそこまで酷い状態ではなかったはずだ。数刻前よりもいっそう青白くなった彼女の顔に、強い不安を覚える。
「ちょっと、真理。あたしの話を聞いている? せっかく用意したのに、感想はないの?」
「……二業。カナラを開放してくれ。頼む」
真理が懇願するように見上げても、二業はそれを許さなかった。
「嫌だよ。せっかく捕まえたのに何故開放しないといけないの。意味がわからないのだけれど」
「お前は元々教授側の人間だったんだろ。教授が無力化されたのなら、お前にはもうカナラに関わる必要なんてないじゃないか」
「浄水場でも言ったでしょ。一巳くんと一緒にいたほうが、ずっと面白いことが多いのだもの。教授なんかよりもずっとね」
「面白い事?」
こんな女のことを少しでも信用していた自分が憎らしい。一時期はカナラよりも信頼出来ると思っていたのに。
真理の憎しみの籠った視線を受け取った彼女は、けろりとした表情のまま両膝をひこひこと上下に動かしてみせた。
「あたしはね。生まれた時から真壁教授と一緒にいた。彼と行動を共にしているうちに、実に多くの人を見た。色々な悩みや喜び、不幸な人や幸せな人を目にしてきた。そして思ったの。何故、人はこんなにも不平等なんだろうって。何で地獄のような生活を送っている人もいれば、毎日が夏休みみたいに楽しそうな人もいるんだろうって。
しばらく考えた結果、あたしはある結論を出したの。
それはきっと、どこかにいいことが起きる要因が集まれば、そのいい要因を作るために犠牲になる部分が必ず生まれるからだって。砂場で山を作ろうと思えば、周りの土が下に抉れるでしょ。それと同じ。幸福の山を積み上げるためには、その分誰かが幸福を奪われなければならないの」
二業は揺らしていた足の動きを止めた。
「その偏りを失くすためには、誰もが山の頂上を経験するためには、最悪の不幸から最高の幸せをリレーのように全員が順番にバトンタッチしていけばいいと思うの。そうすれば誰もが幸福で誰もが不幸になれる。みんなが均一的に真の意味で平等になれると思わない?」
まじまじと真理の顔を見つめる。
「そんなことが実現できるわけないだろ。真壁教授に誘拐されて頭がおかしくなったのか」
「あら、失礼ね。あたしは大まじめに言っているのだけれど。だいたいあたしは誘拐されたわけじゃない。最初から彼の下にいたの。真壁教授は、本当の意味であたしの父だからね」
本当の意味で……? まさか、二業は真壁教授の娘? あいつ、実の娘を実験体に使ったのか。
衝撃の事実を聞いて、真理は一瞬思考が停止しかけた。
「実現は可能だよ。この土地があればね。カナラの意識とリンクさせ、そこから幸福と不幸の入れ替りの脅迫観念を皆に植え付ける。彼女が昔、蓮見千花にやったことを参考にして感染する意識を作れば、倍々ゲームでその自覚を持った人間は増加していく。概念上はあたしの望みを叶えれると思わない?」
二業の声には感情が籠っていない。これまでの実験体たちのように強い気持ちをまったく感じないのだ。それが本心なのか、単なる戯言なのか、真理には判断ができなかった。
「そんなことに何の意味があるんだよ」
「だって許せないんだもの。あたしだけが不幸な目にあって、あたしだけがマイナスを背負い込むなんておかしいでしょ。誰もが等しく他人の気持ちを理解し、苦痛や喜びを共有する。そんな世界を見てみたかった。――そんな面白い光景を見たかった」
最後の台詞を放つときだけ、二業の口元に笑みがこぼれた。
「一巳くんと再会したとき、あたしは思ったの。彼ならもっとこの世界を面白くできる。彼ならもっとあたしを楽しませてくれるってね。……真理、あなたも一緒に遊ばない? あなたの目的はお父さんの無実を証明することでしょ。私たちの仲間になれば、カナラの力も使い放題なんだよ。いつでもお父さんを監獄から助け出すことが出来るもの」
ぱんぱんと自分の膝を叩きながら手招きをする二業。その音で、真理はようやく我に返った。絞り出すように声を出す。
「……ふざけるなよ。俺はずっと親父に罪を着せたやつを探してたんだ。あの一業ってやつが、その犯人なんだろ。誰が協力なんかするか。親父は、カナラを助け出してから一緒に会いに行く」
結局こいつらも教授と同じだ。カナラを、あいつをただの道具だとしか考えてない。
いいように利用して、使って、必要がなくなったら殺す。それだけの存在に過ぎないのだ。
これまでカナラは散々追いかけまわされ狙われてきた。ただの物として扱われてきた。もうこれ以上、彼女をそんな目に遭わせるつもりなど、真理にはなかった。
胸の前に上げた指の骨をぽきりと鳴らし、‶亀裂〟の余波を周囲に広げる。
真理の決意を読み取った二業は、心底落胆したように息を吐いた。