第三十一章 新世界
1
「何を言っているんですか?」
意味がわからず聞き返す。
「君たちは人間の進化とはなんだと思う?」
僕の様子を観察するように眺めると、真壁教授は赤子を諭すようにそう言った。両手の指をお腹の前で開いて合わせ、妙なポーズをとっている。コンテナ広場のど真ん中という場違いな場所に居るにもかかわらず、その表情には学者の威厳が満ちていた。
「歴史が証明しているとおり、どれほど時代が進もうと、人間が人間である限りその精神構造は変わらない。くだらない理由で人が、国が、利益を求めて今も人を殺し続けている。生活を複雑化、管理化させることに夢中になって、もっとも大切な精神を軽視しているからだ。いくら時代が進もうと人は動物のまま。唯一進化しているものは、技術だけ。技術のみが飛躍している。……だがそれも仕方がない。そもそも生物という存在は、単細胞の段階からお互いがお互いの何かを奪い合うように構成されている。これだけ無数のおもちゃを手に入れた人間だろうと、細胞で構成されている以上、そこから抜け出すことは不可能というものだろう」
真壁教授は開いていた指を閉じた。
「人間自身が変わらない限り、人類の技術だけが発展し続け人はその力に耐え切れず自滅する。核兵器などがそのいい例だ。扱う者のレベルが低いのに、その武器だけが鋭さを増していく。このままでは己の牙の鋭さで滅んだサーベルタイガーのように、人類もいずれ終焉を迎えることは明白だよ。……ある意味、映画によくある機械や人工知能が支配するような世界が、人類の正当な進化形態だと思わないかね。技術的特異点。人が人という枠から抜け出す瞬間。技術こそが人の進化だというのならば、あの手の映画の世界はまさに人類の理想的な未来じゃないか」
僕は先ほど叩き付けられたときに痛めた腰を撫でた。
一体この人は何が言いたいのだろうか。話の先がまったく見えなかった。
「だがね。それは最後の手段に過ぎない。私も人間である以上、人間としての種を残したい。例えそれが、どれほど幼い存在だとしてもね。
……物事には終わりがある。人間自身も、深層心理でそれをわかっている。この生活も、この社会も、この世界も、いつかは終焉を迎えると。それは生物として存在するのならば抱いて当然の感情、死への恐怖なんだ。
今の人類は、その沸点、種として終わりである特異点に近づきつつある。
私はね。超能力と言う手段を用いることで、人類と言う種自体を別のものに昇華させることで、その集団的自殺願望を抹消したいのさ」
演説するように、真壁教授は声を張り上げた。
ごろごろと、空の奥深くから腹鳴りのような音が響く。もうじき雨が降り始めそうだった。
どうやら彼は、超能力者という存在を増やすことで、人々の種としての意識をリスタートさせることを目的としているらしい。意味は理解できるが、現実離れし過ぎた考えのせいで、とてもそれを共感することはできなかった。
「あなた一人の力でそんなことが本当に実現可能だと思っているんですか? たとえ超能力者の存在が認知されたからといって、誰もが喜んでそんな力を得ようとするはずがない。余計な争いごとが生まれるようにしか思えません」
「確かに私一人の力では何も変わらないさ。だが、技術さえ確立してしまえば、これまでの歴史が示す通り人はそれを使わざる負えないのだよ。より良き技術を。より優れた方法を。人は常に欲望を満たし続けなければ前に進めない生き物なのだから。重要なのは意識の変革なんだ。自分たちは人間という種を超えた、新たな存在になったというね。終わりへ移行しつつあった集合的無意識を、黄昏から彼誰時へ移行する。それさえ成し遂げることが叶うなら、争いや多少の死者など些細な犠牲に過ぎない」
真壁教授は小さく息を吐くと、労わるようにこちらを向いた。
「アプローチが強引だったことは謝る。だが、誤解しないで欲しい。私は別に君たちを傷つけるつもりはない。ただ協力して欲しいだけなんだ。痛い思いをさせることはないし、家族から引き離すこともしない。定期的に実験に協力してさえすればそれでいい」
「……よくそんなことが言えますね」
僕は拒絶の意を示すようにそう返した。
真壁教授は顕微鏡を覗くような目でこちらを見たまま、ゆっくりと両手の指を離した。
「もし、君が私の発明品によって損害を受けた犠牲者たちのことを思っているのなら、そんな小さな同情心は捨てるべきだ。人は人の死を重いものだと認識しているが、それは自身や生活環境を維持するための防衛本能に過ぎない。人間も所詮は郡体生物だ。生体としての人間を維持するために、お互いの痛みや感情を共感しやすい作りになっている。
そもそも、自然界にとっては動物だろうが植物だろうが、人間だろうが命に価値なんてものは存在しないんだからね。それは勝手に人間が作り出した幻想に過ぎないものだ。私はもっと大きな目線で物事を見ている。
何年も前の話だが、ジルボルトテイラーという学者が脳卒中になった。彼女は一時的に左脳の機能がほぼ停止し、右脳だけで世界を認識しなければならなくなった。左脳は自己と外界を区別する大切なモジュールだ。それが停止するということはどこからが自分でどこからが外なのか、どこからが地面でどこから足なのか、認識できなくなることを意味する。その境界を生み出しているのは自己の認識に過ぎないのだからね。
そのとき、彼女の目に世界は全て繋がっているように見えたそうだ。原始仏教の『空』の理念、老子の説いた『道』、神道に出てくる『八百万神』など、世界各地の様々な宗教にも通じる現象だよ。ごちゃごちゃした何かの集合体に対して、認識、観測することで人は枠組みを作り出している。これは足、これは地面、これは人、これは空気とね。量子という世界を構築する『極小の場』そのものに干渉する超能力は、それらの境界を自由に操作することの出来る手段だ。自然の理を超えた、人が人の枠から抜け出すことの出来る唯一の道。君たちが協力することで、その境界へ飛躍的に近づくことができる。いいかね。その研究と比べたら、この町で起きたことなど大した物事ではないのだよ。超能力こそが、滅びの道へ進む我々人間を浄化させることのできる、唯一の形なんだ」
熱弁を振るう真壁教授。しかし彼の言葉はもはや、僕にはまったく響かなかった。
真壁教授の理想が実現すれば、その影響は確かに大きいだろう。もし確実に超能力者を作れるようになれば、世界は変わるかもしれない。だが、そのためにどんな犠牲を払ってもいいという彼の考えにはまったく共感できなかった。
僕にとって大事なのは、千花や今の生活を守ることだ。僕が死ねば地球が助かるなどと直接的な要因を示唆されれば、もしかしたら僕は死ぬかもしれない。でも今はそうじゃない。僕にはまだ明日がある。真壁教授の言っている話は彼の想像に過ぎないのだ。そんな妄想や推論に付き合って人生を捨てるなんて真似、絶対にいやだ。何よりも、これほどまでに多くの被害者を出して、これほど知り合いを傷つけられて、それに一切の後悔もしていない男についていくなんて真似、できるわけが無かった。
「さて、どうかな? 協力してくれるというのなら、私は穏やかに手を差し出そう。だがしてくれないとなれば、強引な手段をとらざる終えない。不本意ではあるが、人類の未来のためだ。個々の犠牲など些細な事象に過ぎない」
右手をこちらに伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる真壁教授。曇りのまったくない純粋な目だった。
僕は彼の目を見返すと、静かに答えた。
「……あなたの考え方には賛同できません」
僕はてっきり真壁教授が怒り出すかと思ったのだが、彼はこの返答を予期していたかのようにあっさりとそれを受け止めた。
「まあ、そう答えるとは思っていた。私が君の立場であっても、きっと同じ返答したはずだ。客観的に見て私の研究や目指すものは、普通の生活を送ってきた人間には理解できない枠組みにある。……だが、彼女はどうしても必要なのだ。私のエゴのためだけではなく、これからの人間社会のために。多少強引だが、協力してもらうよ」
ちらりと目の前の四業に視線を向ける真壁教授。
四業の周りの影が濃くなったかと思うと、一気に視界を覆いつくしその姿が消えた。
咄嗟に腕を前に出した腕と、四業の拳が重なる。
強い衝撃に押され体がのけぞる。目の前が真っ暗で何も見えない。腹部から急に熱を感じ、僕は殴られたことを知った。
左から風を斬る音が聞こえ、腕に衝撃が走った。まるで大木で殴られたかのように体が吹き飛ぶ。僕は生まれて初めて、生身で宙を飛ぶという経験をした。
暗闇の中に伸びていた足が引っ込み、そこから四業の声が響いた。
「集中しろよ。このままじゃまたこの前と同じだぜ。少しは頑張ってみろよ。なあ」
完全に馬鹿にしている声。
僕は必死に抑えていた怒りが溢れそうになった。
大地を踏みしめるように四業の足が目の前に落ちる。彼はにんまりと口角を上げ、僕を睨みつけた。
2
予想しなければならない。この状況で四業が強化するものは何か。彼が攻撃するその瞬間よりも早く。
今の僕は受けに回っている。彼の性格から考えてあり得る攻撃は、純粋な筋力強化による打撃。僕は四業が肘を引くのに合わせ、左手を前に伸ばした。
逸らされた剛腕が頬すれすれを流れていく。何とか読みは当たったらしい。その動きのままに右手を四業の腹部に打ち込んだ。
――殺す気で。殺す気で撃たなければ、意味はない。
修玄の助言を思い返し、必死に己に言い聞かせる。だが、放たれた蟲喰いにはとても一撃で彼人の命を刈り取れるほどの力などなかった。
腹筋の一部と皮を飛び散らせながら、なおも四業は不敵に笑う。それは僕の心境を読み取ったかのような笑みだった。
今ここで全力の蟲喰いを放っていれば、確実に彼の動きを止めることができただろう。だが、実際はその三分の一にも満たない威力。結果として、それは四業の反撃を許すことにつながってしまった。
全身に強烈な重みがかかる。重力を強化されたのだ。後ろに飛びのこうとしていた僕は、足を杭で貫かれたようにその場に釘づけになった。
「なんだよ今の不抜けたパンチは。喧嘩する気あんのか?」
身動きのできない僕に向かって蹴りを突き出す四業。倒れないように力を入れていたせいで受け身も取れずにもろにそれを受ける。
こっちは回復することができないのだ。そう何度もダメージを受けるわけにはいかない。
僕は和泉さんとの争いを思い出し、自分の周囲に蟲喰いを放った。重力に影響を与えていた四業の意識がそれによって強制的に切断される。
僕は伸ばされた四業の腕をとり、そのまま背負い投げの要領で彼の体を地面に投げ飛ばした。予想外の動きについてこれず、四業は強く頭を打ち付けた。
「てめぇっ……!」
頭から血を流し、怒りの表情を浮かべた四業が跳ね起きる。僕は伸ばされた四業の腕に弱体化した蟲喰いをぶつけたが、かまわず彼はそのまま僕の首元の服を握りしめた。弾き飛ばされた彼の腕の血が眼にかかり片目の視界を阻害する。しかしそんなことに構っている暇はない。四業は感情のままに僕を近くのコンテナに叩きつけようと大きく振りかぶったが、直前で僕が抵抗したため、二人して地面の上を転げまわる羽目になった。
ざらざらとしたコンクリが肩やほほを削り取り、荒い傷を生む。
転がりながら彼の胸に蟲喰いを打ち込むと、同時に僕の体は四業の強打によって大きく吹き飛ばされていた。
僕はコンテナに手をつき、立ち上がろうとしたが、思うように体が動かなかった。四業に突かれた右胸が激しく痛み、灼熱の感触を波打たせている。今にも中から骨が飛び出してきそうだった。
「俺も手伝いましょうか」
三業が真壁教授を見て意見を伺う。しかし真壁教授は無言で首を振った。このままでも十分だと判断したのだろう。
僕は口に溜まった血を吐き出しながら、彼らの顔を見上げる。四業も、三業も、真壁教授も、全員が僕に注目し、意識を集中させていた。全員が、侵入者は僕だけだと考えていた。
初めにその異常に気が付いたのは、真壁教授だった。
低いエンジン音が鼓動を上げ、ゆっくりと動き出したトラックに目を向ける。彼はごく当たり前の光景を眺めるようにそれを見返したが、突如不自然さに気が付いたように、声を上げた。
「――三業……!」
横に立っていた三業も何が起きているか悟ったらしく、慌ててトラックに向かって駆け出す。だがトラックは既にアクセルを踏まれ、真っすぐにこの敷地から出ようとしていた。
慌てて駆け出し、その後を追う三業。
立ち上がった四業も事態を理解したらしく、不機嫌気味に舌を鳴らした。
「てめえ、まだ仲間がいたのか」
ここで四業がトラックを追えば、追いつける可能性は高い。が、そうすれば真壁教授をこの場に残しておくことになる。その一瞬の迷いが、四業の動きを鈍らせた。
僕は渾身の力を込めて四業に突撃し、蟲喰いを放った。四業は腕を犠牲にすることでそれを防いだが、勢いは止めきることが出来ず、僕たちは勢いのまま倉庫の扉を押しのけ中に転がり込んだ。
膨大な土煙の中、必死に眼を凝らす。痛みを押し殺し、唇を噛みしめる。
四業は荒い息を吐きながら、憎々し気にこちらを睨みつけた。
「この野郎……!」
月明かりが入り口から差し込み、四業の体の線を強調している。こうしてみると、意外に体格は普通だった。どこにでもいそうな三十過ぎの大人の男だ。
僕は指を固く握りしめ、意識を集中させた。
僕の反応を見た四業は眼を細め、力の抜けた両手を左右に広げる。トラックを追うよりも僕を倒すのが先だと、意識の優先順位をつけたのだろう。こちらとしてもそちらの方が都合がいい。
わずかに間を置き、息を吸い込む四業。しかし次の瞬間、彼は猛烈な速度でこちらに飛び出していた。
単調な突きを右手で逸らし、膝に乗せた蟲喰いを放つ。しかし四業は驚異的な反応速度で後ろに身を逸らし、それをかわした。僕は続けざまに右ひじを彼の頬へ接近させたが、それさえも簡単に避けられる。明らかに急な回避能力の上昇。すぐに反射神経や体感時間を強化しているのだと理解した。
――そうか。そういう使い方も……!
彼は大きく振りかぶった拳をなんのひねりもなく僕に向かって突き出す。僕はそれを手の小指側で打ち下ろそうとしたが、触れる直前に気が付いた。僕は既に二、三度彼の第一撃を逸らしている。四業もそれを当然わかっているはずだ。
とっさに腕を引っ込め半身になって拳を横に流す。すると四業の拳がかすった配管が大きな火花を散らし一瞬だけ大きな光を放った。摩擦の強化だ。
〝触れない男〟のように操作する現象ではないためか、自身の皮膚も燃えていたがご自慢の再生能力でそれもすぐに回復する。
確かに僕の拳に損傷を与えることができれば、蟲喰いの発動能力は半減する。あのまま手を伸ばしていれば、ダメージが大きかったのは僕のほうだっただろう。
突き飛ばすような四業の足を大げさに避け右の突きを伸ばす。
僕の蟲喰いを重力強化で足止めし、四業が蹴りを飛ばす。彼の挙動と性格から動きを想像し、顔面への一撃を蟲喰いを展開することで防ぐ。
「舐めた真似してくれるじゃねえか。あのトラックの運転手は誰だ?」
争いつつもなお余裕の四業。それは負けるはずがないという自信の表れだった。
彼が右足を引っ込める。僕は蹴りを予期して後ろに下がろうとしたのだけれど、四業は続けざまに右手を伸ばし僕の服に拳をかすらせた。
すると不思議なことに、彼の肌が触れた場所が異様なほど大きく裂け、僕の体が弾かれる。まるで蟲喰いを受けたかのような衝撃だった。どうやら破壊という事象そのものを強化したらしい。
こちらの動揺を見て気を良くしたのか、四業は続けざまに僕に向かって腕を振るう。その攻撃にどう対処すればいいかわからず、僕は防戦一方になり、三手目でとうとうそれの直撃を受けてしまった。
とっさに前に掲げた両腕の皮膚が弾け飛び、肉の細い筋を引きちぎられるような痛みが沸き起こる。悲鳴を飲み込むと歯を噛みしめたところで四業のけりが腹部に命中し、後ろに押し飛ばされた。
僕は段ボールが積まれている荷台の手前で動きを止め、横たわったまま四業の顔を見上げた。
――傷事態は浅い。けれど……。
じゃりじゃりと砂を踏みながら、四業が歩み寄る。彼は血を流し倒れている僕を一瞥し、満足そうに短く舌舐めずりをした。
3
このままじゃ、この前と同じだ。手も足も出なくやられ、千花を目の前で連れ去れたあの時と。
砂を握りしめ、顔を上げる。
修玄から彼の能力を聞いて、ある程度攻撃の予測はつくようになった。隙を見つけ、攻撃を当てることも出来た。でも、届かない。肉体を強化し、損傷を再生し続ける四業には効果がない。
―― 事故再生機能を高めるといっても、それを構築する材料には限界がある。争っているときに食事する暇なんてないだろうから、瀕死の傷を与え続ければいつかは再生できなくなるはずさ。もっとも、それには殺す気で攻撃し続けないとダメだけどね。
修玄の言葉が蘇る。倒し方はわかっている。わかっているのだけれど、僕にはどうしてもそれが出来ない。ふらふらになりながら立ち上がり、迫りくる四業と向き合う。
強化された拳をよけ身をかがめる。反撃は命中したが、四業は構わず二撃目を振り下ろした。
後ろ脚に蟲喰いを乗せ、その勢いで四業の前から逃れる。勢いで再度倒れたものの、歯を食いしばってすぐに立ち上がった。
殺気を腕に込めようとするも、やはり力が入らない。
何故、これほど人殺しというものに恐怖を感じるのだろう。
人殺しがいけない理由なんて、感情を度外視して言えば、社会体制を維持するためでしかないはずだ。誰もが自由に人を殺せる世界なら、すぐに文明は崩壊するし、いつどこで自分が死んでもおかしくはない。だから人類は法律という定義によって、人殺しを禁止した。
四業が高速移動し、目の前に飛び出す。だがそれを読んでいた僕は、横に身を反らし、彼の背中に蟲喰いを叩き込もうとした。しかし、振り返った四業の目を見て、反射的に腕が止まる。
僕の腕を振り払い、回し蹴りを放つ四業。筋力強化による恐ろしい一撃であったが、何とかかわしそれは背後の壁を粉砕するのみに留まった。
回転の勢いのまま、四業が破壊を強化した拳を振り上げる。僕は彼の拳を蟲喰いで吹き飛ばし肘を腹部へと打ち込んだが、全く効果はなく逆に腹部に膝を打ち込み返された。
唾を吐き出し悶絶する。気をよくした四業は、僕の胸倉を掴み、持ち上げた。
「今回は頑張るじゃねえか」
荒くなった呼吸を繰り返しながら、楽しそうに笑う。
殺す気で当てれば、大きな損傷を与えられるチャンスは何度もあった。本気の蟲喰いをぶつければ、彼を殺すことだってできたかもしれない。けれど、どうしても、どう頑張っても、彼の命を刈り取ることは出来なかった。
「うおっ!?」
四業の腕を蟲喰いで弾き飛ばし、後ろに下がる。息は切れ切れで、すぐにでも倒れそうだったけれど、必死にその苦しみを呑み込んで、歯を食いしばった。
血に塗れた自分の手を見つめる。
四業を殺そうと決意するたびに、トラックに引かれる寸前の母の顔が、心臓を穿たれた初代四業の顔が脳裏に浮かび、手を震わせる。命が尽きるあの瞬間の恐怖を、痛みを、僕に思い知らせる。
誰かに咎められたわけでも、責められたわけでもない。ただ出来ないから、出来ないのだ。
四業が腕を再生させつつ、こちらを睨みつける。
僕の表情を諦めの表れだとでも判断したのか、にやけた顔を見せながら近寄ってくる四業。
渾身の力を込めて、腕の筋力を強化しているようだ。とどめを刺す気なのだろう。
4
昔、僕は何度か母の絵を真似ようとしたことがある。
暖かく柔らかいタッチの母の絵が好きで、僕もそれを描きたいと思ったんだ。けれど、どれだけ努力しても、何枚も描いてみても、結局、母のように穏やかな絵は描けなかった。
悔しがる僕を見て、母は静かに微笑んだ。真似をする必要はないと。絵は作者の思いを伝えるものだ。人の真似をしようとしても、同じものが作れるはずはない。自分の思うように描きたいものを描いて、初めてその人の色が出るのだからと。僕の描いた武骨な落書きを、母は穿らしくて好きだなと、褒めてくれた。
死を間近に感じたからだろうか。とっさにそんな記憶が蘇る。僕にとって母は死の象徴となってしまったから。
息を吐き、心を落ち着かせる。母の言葉を思い出し、我に返った。
出来ないことを頑張っても意味がない。今までずっと苦しんできたのに、この瞬間にそれを乗り越えるなんてどだい無理な話だった。触れない男のときも、五業のときも、和泉さんのときも、いつだって、僕に出来ることは一つだけ。殺さない。ただ追い詰める。それが人を殺せない僕の唯一の抵抗なのだから。
荒い息を吐きながら近づく四業を見返す。
急所を狙うことは出来ないなら、急所以外を徹底機的に損傷させるしかない。四業の再生力は無限じゃない。肉体を修復するリソースが無ければ、その力は働かなくなるはずだ。小さなダメージでも数をこなせば必ず限界は来る。だったら、とことんそれを繰り返すしかない。
四業が声を上げ筋力強化した拳を突き出す。
僕は身を屈めることでそれをかわし、蟲喰いを乗せた手を振り上げる。
攻撃を受けたは四業の腕は血まみれになりつつ弾かれたが、即座に彼は強化した足を持ち上げた。
僕は四業の蹴りに合わせ、逆に下から彼の足を蹴り上げた。勢い余った四業は体を一回転させ、僕に背を向けた。すかさず、そこへ手加減した蟲喰いを打ち込む。
もはや、思考はなにもなかった。本能だけで、反射だけで四業の攻撃をかわし反撃していた。難易度の高いゲームで何度もゲームオーバーを繰り返しているとき、何も考えずにボタンを押す現象に似ている。僕はただ無心で体を動かし続けた。
摩擦を強化した四業の身体が瞬時に横へ移動し目の前から消えるも、僕は前を向いたまま横に蟲喰いを展開し、四業の身体を吹き飛ばす。
四業が口から血を吐き、ひび割れのようにその表皮と肉が裂ける。しかし彼は、笑みを浮かべたまま僕に向かって掴みかかってきた。僕が致命傷を与えられないと知って、捨て身で攻撃をするつもりらしい。
腰を回転させ、全身で四業の身体を横に抜けさせる。そのままさらに蟲喰いを彼の足へぶつけた。変な方向へ足が折れ曲がり、悲鳴を上げる四業。彼は怒りの形相で振り返り手を伸ばしてきたが、僕はそれを掻い潜り、彼の顎を拳で打ち抜き、同時に腹部へと蟲喰いを撃ち込んだ。
避けて撃つ。避けて撃つ。その繰り返しだ。
手足であれば四業の再生力なら即死することはないため、全力で蟲喰いを討ち続けることが出来る。
一分、いや五分だろうか。しばらくそんなことを繰り返しているうちに、四業の顔に焦りの色が浮かんできた。
四業の能力は確かに凄い。応用の幅は広いし、初見では攻撃を予測することなんて不可能だろう。だが、いくら強い力を持とうと、それを操るのは結局人間だ。息も続かぬ工房を繰り返せばおのずと動きや能力の用途は単純なものに絞られるし、パターンも見えてくる。
彼の拳を掻い潜り、肘で顎を吹き飛ばし、空いた肩に蟲喰いを打ち込む。そのまま続けて蹴りを入れようとしたら重力強化で動きを止められそうになったので、勢いに任せ足を踏みつけ、体重移動をしながら腹部に再度蟲喰いを打ち込む。唾を吐き近づいた顎を肘で吹き飛ばすと、四業はそのまま倒れ込んだ。
喘息のような呼吸を繰り返しながら、憎々し気にこちらを見上げてはいたが、もう思うように体が動かないようだった。
その手足は血に塗れ骨や肉がところどころ突き出ており、顔や腹部にも夥しい数の裂傷が出来ていた。いつの間にか四業の身体は酷く痩せ細せ、眼球の周りが大きく窪んでいる。
流石に四業の回復能力を持ってしても、ここまで傷を負わせ続ければ限界がくるらしい。
彼の細胞は必死に傷口を修復しようと蠢いていたが、傷を塞ぐための材料が欠乏しているため、それはむなしく細い繊維を伸ばすだけだった。
思考停止していた僕は、そんな四業の状態を眺め、ゆっくりと意識を取り戻していく。
賭けは僕の勝ちのようだ。四業はもうとても戦える状態では無かった。
僕の頭から血がぽたぽたとコンクリートの上に落ちてゆく。
雲が多くなっているのか、どこと無く肌寒かった。
……まだ、三業が残っている……。千花を助けに行かないと。修玄は上手く逃げ切れただろうか。
腕を抑えながら倉庫を後にしようとする。そんな僕を見て、四業は憎々しげに口を開いた。
「ふざけんなよ。こんな、死にそうなやつに負けるなんて」
四業がかすれた声で叫ぶように見上げる。僕は黙って彼を見返した。
三年前。あの時の僕にも同じ判断が出来ていたら、結果は変わっていたのだろうか。カナラは僕の前から姿を消さず、千花も家族と一緒に暮らして、平和な生活を続けることが出来たのだろうか。僕が、人殺しさえしなければ。
ひゅうひゅうと息を吐きながら四業が憎々しげにこちらを見上げる。だが僕は、構わず倉庫を後にした。
5
「はは、驚いたなぁ。四業に勝ったのか」
倉庫から出てきた僕を見つけるなりに、真壁教授は実に愉快そうな笑みを浮かべた。千花を乗せたトラックが離れていったというのにも関わらず、卑下も恐怖も何もない、心の底からの笑みだ。
僕は血の垂れる腕を押さえながら、真壁教授の目を見つめた。
「あなたの負けです。真壁教授」
「負け? 一体何を言っている? この状況のどこに私の敗北があるというんだ」
「……あなたを守る実験体は一人もいないんですよ。確かにあなたを罪に問うことは難しいかもしれませんが、僕がその気になればいつでもあなたを殺せる。諦めて降参して下さい」
「殺意があるのならこんな押し問答はせずとっくに襲い掛かってきているはずだろう。君に私を殺すことはできないよ。人としての常識の中で生きている君にはね。――……そんなことよりも、話をしようじゃないか。少年」
真壁教授は優し気な笑みを浮かべた。
「話? 今更何を……」
「君の今後についての話だ」
もったいぶるように真壁教授は頷いた。
「……私と取引をしないかね?」
「取引?」
僕は繰り返した。ゴロゴロと雷鳴が天空で鳴り始めていた。
「そうだ。今回の騒動に関して、私には腑に落ちない点がいくつかあってね。その解明に協力して欲しい。もしこの案を了承してくれるのであれば、あの子の身柄は保証しよう」
真壁教授は意味深な言い方をした。
「あなたの言葉を信じられるわけがない。何を言ってるんですか?」
僕は吐き気を抑えつつ、声を荒げた。
「簡単な話だ。私にはどうにも、君が実験体たちを殺してきた人間だとは思えないんだ。……単純な精神性だけの話ではなく、四業一人にここまで苦戦する君が、残り七体を殺害できたとも思えない。先ほどのトラック強奪。最初は修玄が裏切り、君と協力しているのかとも考えた。あの男は今回の一件に関しては最初から乗り気じゃなかったからね。だが、三業から連絡が入って話が変わった」
真壁教授は小首を傾けた。
「三業は現在、北区の古い浄水場にトラックの強奪者を追い詰めたらしい。そしてそこで、千花とは別の少女の姿も確認したそうだ」
別の少女……カナラか? 何で、修玄の逃げた先に……?
「思えば今回の騒動は最初から違和感があった。私はカナラと呼ばれる少女がこの町に潜伏していると知り、すぐに実験体の中でもっとも性能の高かった二業を派遣した。本来ならば、それであっさりけりがつくはずだったのだ。……だがどういうわけか二業は音信不通となり、続けて送り込んだ実験体たちもことごとく破壊された。どの個体も同じような傷痕を残してだ。
彼らの報告をまとめると、不思議なことに七、八業は北区にカナラがいると述べ、九、六業は南区に対象がいると述べていた。そして肝心の五業はそのどちらの報告にも裏付けが取れるような言い方をしていた。このことから私はある結論を出した。目的の対象は、二組いるとね」
二組……。
すぐに僕は、国立公園で見たカナラともう一人の人影の姿を連想した。
「わかるだろう。欲しいのは純正品の超能力者なんだ。血統書付きの彼女が一人いれば、偽物のような副産物はいくらでも量産することができる。そして君たちが後者であるのならば、私にとって君たちの価値はほとんどないということになる。もちろん、本物が見つからなかった場合は参考資料として拘束させてもらうが」
「……実験体たちの死体を回収してまで再利用している人間が、僕たちを放っておくとは考えられません。たとえ何を言っても、僕はあなたを信じませんよ」
「彼らを回収していたのは、材料がなかったからだ。だがカナラと呼ばれる少女がいれば、そこらへんの誰からでも超能力者を生み出すことができる。君にならわかるだろう?」
カナラの影響で超能力者になったことを示唆しているのか、真壁教授は舐めるように僕を下から見上げた。
「あなたの記憶さえ奪えれば、全てうまくいくんだ。殺せなくても、拘束して閉じ込めることはできる。カナラの力さえあれば――」
「私の記憶を消せば全てが丸く収まる? それは大きな誤解だ。……超能力者のメカニズムはある程度解明した。既にそれを作るためのシステムは完成している。カナラは起爆剤になりえる存在だが、彼女が居ないからと言って、私の研究成果が無くなることはない。研究成果は種として既にあらゆる場所へばらまいた。私に何かあったとしても、自動的に興味を持った者たちがそれを引き継いでいくだろう」
真壁教授はつまらなそうに僕を見た。
「……既に、私個人の記憶や命に大した価値などない。私の目的は人類の昇華だ。人は他者の思考を理解、想像できる。つまり、個人同士は人類という存在の端子に過ぎないものだ。その研究が続けられるのならば、私個人という枠組みに敢えてこだわる必要もないとは思わないか」
この男は何を言っているのだろうか。僕には真壁教授の感覚がまったく理解できなかった。
「……とにかく、あなたを拘束します」
「いいだろう。仕方がない」
真壁教授はそう言うと、あっさりと両手を上げた。
確かさっきの倉庫にはロープのようなものがあったはずだ。とりあえずそれを使って腕を拘束して、修玄に相談するべきだろう。
真壁教授へ近づこうとしたところで、背後から足音が聞こえた。何の警戒もなく無遠慮に近づいてくる。
振り返ると、よく見慣れた顔が目に入った。
肩まである黒髪に、泣きはらした後のような潤んだ顔。けれど、しっかりと強い意志を残している瞳。蓮見千花がそこに立っていた。
「穿くん……!」
「千花」
僕は数日ぶりに彼女の顔を目にして、無事なその姿を目にして、ほっと胸を撫で下ろした。目の前の現実に思わず胸が熱くなる。
「大丈夫? 怪我はない?」
「うん。……そんなぼろぼろの穿くんに言われたくはないんだけれど」
血だらけの僕を見て、千花はすごく申し訳無さそうに目を歪ませた。
どうやら作戦通り、修玄はトラックを発進させる前に千花を下ろし、隠すことに成功したらしい。これで三業がまだ修玄を追ってさえいれば、僕と千花は一人になった真壁教授の記憶に干渉することが出来る。今この瞬間だけが、真壁教授に勝てる唯一のタイミングだった。
「ごめん。穿くん。私のために……」
「いいんだ。千花だって、何度も僕を助けてくれたじゃないか。それに元はといえば、三年前に僕が四業を殺したから……」
僕は腕を握る力を強くした。
「それよりも今は真壁教授だ。三業が戻ってくる前にあの人の記憶を弄らないと」
「うん。わかった」
真壁教授たちに千花の力が効かないトリックの正体は、既に修玄から聞いている。
彼らは自身の頭蓋骨の周囲にカナラの父親の細胞を移植し、一種の防御壁のようなものを形成していたのだ。意識を失ってなお彼の身体は特殊な影響を周囲に与えており、そこに五業の細胞を組み込むことで、五業の意識によって政審干渉を妨害するような防壁を生み出させた。
だが、いくらそういった手段を用いたとしても、脳髄の全てを塞げるわけではない。遠距離からならともかく、直接体に触れれ干渉すれば、彼らの防壁は突破出来るらしい。‶触れない男〟や五業の記憶を見たときと同様に。
僕は真壁教授に近づき、彼の両手を後ろで掴んだ。そのまま倉庫に向かって誘導しようとする。
だが、しばらく歩いたところで千花が付いてきていないことに気が付いた。不思議に思い振り返ると、彼女と目が合う。
その瞬間、真壁教授が微かに笑い声を漏らした気がした。
その声を耳にしたとき、いや、千花の目を見た瞬間、僕の足は突然歩行を停止した。まるで金縛りにあったかのようにピクリとも動かない。
な、何だこれ?
「千花……?」
何が起こっているのかわからず彼女を見返す。しかし千花は答えなかった。虚ろな表情で僕に目を向けている。
この顔つきには覚えがある。僕は五業に憑依されたときの彼女の姿を思い出した。
「残念だったね」
そういって僕の横を素通りすると、真壁教授は千花の肩にポンと手を乗せた。
「私たちの頭蓋には彼女の父親の細胞を埋め込み精神防壁を形成してある。だが、彼女を完全に支配するためには、それだけでは不十分であることも理解していた。これはそのために講じた本命の策だ」
真壁教授の首元の筋肉がうねりだし、何やら触手のような赤黒いひもを立ち昇らせる。それは、五業の腫瘍から伸びていたものと酷似した何かだった。
「私には超能力の素養などない。だが、素養のあるものを利用することはできる。九体の実験体の中で、五業だけは特殊なのだ。彼は純粋な超能力を発揮しているというよりは、人工細胞によって生まれ変わった別種の力を使っていたというほうが正しい。生体機能に近いものであるのならば、超能力者の素養がなくとも、移植さえすればそれを利用することはできる。五業ほどとは言えないが、私も自分の肉体の一部を変化させることに成功してね。……幻覚をあやつる少女が相手なんだ。私個人が操られなくとも、実験達が操作され反旗を翻す可能性はあり得た。だから、その対策としてこれを用意していたのさ」
真壁教授の肩が口のようにぱっくりと開き、そこから巨大な目玉がこちらを覗いた。
「見たまえ。今の彼女はもはや私の体の一部だ」
トラックの中に閉じ込めていた時から取り付けていたのだろう。千花の腕には真壁教授の肩と同様の肉片がへばりついていた。それがうねうねと蠢くたびに、千花が苦しそうに震えた。
僕はすぐに我に返って、
「‶カナラ〟千花を助けるんだ……!」
彼女の中にいるもう一人に声をかけてみたが、まったく効果はない。
「先ほどの提案はそれなりに本気だったんだがね。こうなっては仕方がない。この子の現象を使えば、私にかけられた暗示を解除することも可能なはずだ。八体の実験体は失ったが、なかなか興味深いデータは得られた。それを参考に、また新しい駒を作ればいい」
「また死体をもてあそぶ気ですか」
僕は憎々しげにそう尋ねた。
「死体? ああそうか。彼らの記憶を見たのか。……君は誤解している。私は死体を生き返らせたわけじゃない。彼らは――死んでなかったんだよ」
死んでない? 何を言っている?
僕は大きく混乱した。
「死体を生き返らせられる技術はまだ未発達だ。できたとしても、生前のようなまともな思考を維持することは難しい。超能力の発現には、過去の記憶が必要不可欠だからね。そんなでくの坊はてこの役にもたたない」
馬鹿な。彼らは確かに死を迎えていた。記憶の中で、苦しんで、確実に自己の死を認識していた。自分の死を理解していた。
そこまで考えて、僕ははっと気が付いた。
――まさか……。
「そうだ。彼らは死んではいなかったのだよ。瀕死の怪我を負った彼らを誘拐し、その死を偽造した。そして、集めていた超能力者としての素養の高い部位を彼らに埋め込み、肉体を再構築したんだ。つまり私が行ったことは、ただの形成と臓器移植に過ぎない」
‶触れない男〟も、五業も、和泉さんも、みんな生きていた? 僕が見た記憶のままの命をもって、その世界の延長線上で? そんな馬鹿な、深見さんの記憶では……――いや、あれはあくまで実験体たちがこの町に来てからの処理方法に過ぎない。もしあれが僕やカナラを釣るためにわざとわかりやすい手段をとっていたのだとしたら……。
彼らは、化け物でも怪物なんでもない。
思わず手が震える。僕はこの男のあまりの所業に吐き気をもよおしていた。
「あなたは……あんたは、まだ生きている人間を実験に使ったんですか。彼らにはまだ人生があったのに、まだ、生きていたのに」
「人の未来に必要な犠牲だったんだ。不運とは判断して欲しくはないね。彼らはそのおかげで、人を超えた力を手に入れることができた。人類の次なる存在のひな形として、役立つことができたのだから」
修玄さんの言ったとおりだ。この男は、確かに完全に狂っていた。それも、完膚なきまでに。
僕はすぐに千花の腕にとりついている赤黒い肉片を吹き飛ばしたかったが、それに操られた千花による暗示のせいで、ピクリとも動くことができなかった。
もう彼女の中にいる‶カナラ〟の助けも期待できない。僕が何とかしなければ、全て終わるのだ。
――そうだ。蟲喰いは彼らが起こしていた現象にも効果があった。前に展開して僕と千花の間にできている意識のリンクを断ち切れば、動けるようになるかもしれない。
手のひらだけを前に向けて、無の領域を拡散させる。蟲喰いは確かに発動したが、僕の体はどうしてか一向に動くことができなかった。
「君の起こせる現象は実に刹那的だ。彼女の前では無力に等しい。視線さえ合わせていれば、効果は持続させることができるのだからね。君がいくらリンクを打ち消したところで、消えた直後にそれはまた蘇る。穴の開いた船の水をくむような行為だ」
たばこでも吸っているように、実にリラックスした声で真壁教授はそう言った。
「さて、少々手順は狂ってしまったが、結果的には十分だろう。君も、私やこの子と一つになろうじゃないか」
その言葉を言い終えた直後、真壁教授の肩にあった赤黒い触手が二つに分かれ、一つが腕のほうに移動し始めた。
僕は続けて何度か蟲喰いを起こしてみたけれど、全て無為に終わってしまった。指を一本動かす暇もなく、再び千花の暗示にかかってしまう。
「心配するな。別に君の人格を損ねるわけじゃない。自動制御の車に私というハンドルが加わるだけだ。必要がないときは、君の思うように動けるさ。……まあ、まれにだが」
触手の乗った手でコンテナの壁を撫でるように触り、真壁教授がこちらを見る。僕は全身から冷や汗を流しながら、身を震わせた。
まずい。どうする? 手を吹き飛ばすか……!?
強烈な痛みで意識が断ち切らられば、千花の拘束も解けるかもしれない。僕は最後の期待を込めて蟲喰いの用意をしていたのだが、真壁教授は触手を千花の腕に乗せ換えた。これでは僕にはどうしようもない。
ふらふらとした足取りで、ゆっくりと近づいてくる千花。妙に上気した表情で楽しそうに僕を見上げる。
「千花、しっかりするんだ」
僕は必死に声をかけてみたが、やはり反応はない。そうこうしているうちに、彼女の手が僕の肩に触れた。
「さぁ。君にはこれから、十業にでもなってもらおうか」
真壁教授の嬉しそうな声が響き、千花の白く細い腕が、逃がさないように強く僕の肩を絞めつける。そしてその上をなぞる様に触手が移動し始めた。
歯を食いしばり、全力で逃げようとするも、どうすることもできない。
赤黒い触手の一腕が僕の肌に突き刺さり、侵入を開始した。注射器のような洗練されたものとは違う、鈍く嫌な痛み。四業との争いのせいで感覚がマヒしかけてはいたのだが、そのおぞましさははっきりと認識することができた。
鳥肌を立たせ、自分でもわからない何かに懇願しながら身を固くする。首に感じる感触は徐々に大きくなり、同時に意識が波を引き始める。
ダメだ……まずい、まずい……!
彼女と、彼女の中にいるはずのもう一人に向かって懇願する。しかしいくら願ってみても、状況は変わらない。
次第に視界がかすみ、景色がゆがんで行く。
せっかく四業を倒したのに、三業を遠ざけたのに、ここまできて、ここまでやって、負けてしまうのか。
絶望に打ちひしがれた僕の目に、別人のように歪んだ彼女の口元が移りこむ。
次第に消えていく意識の中、鐘のような頭痛だけが僕の中に木霊し続けた。