第二十七章 散花(1)
1
門をくぐってお寺の敷地に入ると、若いお坊さんが庭の掃除をしていた。
僕たちの姿に気が付くと、手の動きを止めこちらを見る。
「すいません。修玄さんに会いにきたのですが」
僕はなるべく平静を装いそう声をかけた。
「修玄ですか? どのような用事で……」
「学校の行事に関する相談事です。以前お話を聞いて頂けるとお伺いしたもので」
お坊さんは多少面倒くさそうにこちらを見回した後で、
「――はぁ。……わかりました。では、ついて来て下さい」
そう頷く。修玄はよく近くの学生たちの相談事を聞いていると言っていたから、同じような輩だとでも思ったのかもしれない。
本堂の横を囲むように伸びている渡り廊下を進み、左側の裏手に出る。向かっている方向を見るに、修玄は奥の離れにいるようだった。
草木の上に置かれた背の低い橋を渡り、銀閣寺のようなこじんまりとした建物の前に移動する。橋の横にはけむじゃらしのような紫色の花が大量に咲いていた。確かヒソップとかいう名前の花だ。
「修玄さん。お客様をお連れしました」
お坊さんが一声かけると、襖が開き中から修玄がひょっこりと顔を出した。
「ああ、 君は確か……」
「こんにちは」
僕は感情を押し殺してそう言った。
「すいません。突然。ちょっと相談したいことがありまして」
千花が丁寧にお辞儀する。
「ああ。いいよ。まあ、とりあえず中に入って」
気のいい表情で手招きを行う修玄。彼は立ち去ろうとしているお坊さんに頭を下げると、そのまま襖を閉めた。
「まあ、座って。それで、何の用事かな」
白々しく穏やかな笑みを見せる。
いつもなら事前に質問を考え、ゆっくりと探りを入れていくのだが、今日は〝カナラ〟が居る。余計なやり取りは不要と言わんばかりに、僕はすぐに千花の手を掴んだ。
――やるよ。
すぐに彼女の顔つきが変わり、‶カナラ〟の人格が表に出る。
透明な膜を潜るような感覚。僕はじっとその瞬間に準備していたが、妙に濁った感覚が全身を支配した。いつもとは違って強い抵抗感を感じる。
――おかしい。
どこかから‶カナラ〟の戸惑った声が響いた。僕もすぐに違和感に気が付く。
記憶が見えてこない。あの溶けるような、自分と他人が重なるような感覚が生まれない。
どういうことだ?
疑問に思った直後、ふいに視界が明るくなり、目の目に座っている修玄が声を発した。
「それで、何の用事かな?」
同じ言葉を繰り返す修玄。横を向くと、〝カナラ〟も困惑の表情でこちらを見返した。
‶ごめん。精神に干渉できない〟と、頭の中で声が響いた。
「えと、何か用事があって来たんだよね?」
穏やかな表情で修玄がこちらを覗き込む。そこに敵意は感じられない。
そんな、何が? 何が起こった? ‶カナラ〟が力を使い過ぎたのか?
体がどっと熱くなる。予定外の事態に頭が混乱した。
「どうしたんだい?」
再度質問する修玄。僕たちの様子を見て、僅かに眉間に皺が寄っている。
このまま何も答えないのはまずい。僕はとっさに、口から出まかせを述べた。
「その、今度学校のイベントで宿泊付きの旅行を行う予定なのですが、何か出し物をと要求されているんです。そこで、季節に合わせて怪談でも話そうかと思いまして。お寺の人なら、いい話を知っているんじゃないかと思って。……すいません。急に押しかけて。以前、気軽に尋ねていいとおっしゃっていたので」
「ああ、なるほど。そういう話かい。いいよ。ストックならたくさんある。どんな系統がいいかな?」
修玄は嬉しそうにあぐらをかいた。
僕は冷汗を流しながら、
「旅館に泊まる予定ですので、宿泊に関わる話がいいです。何かそういった話とかってありますか」
「宿泊か。だったらいいのがあるよ。これは、墓参りに来ている常連さんから聞いた話なんだけどね……――」
ひざを崩すと、修玄はとある山荘の話を始めた。そういった話が好きなのが、どこか自慢げに頬を緩ませる。
話を聞きながら僕は困惑した。こちらを疑っている様子はない。何故‶カナラ〟の力が効かないのだろうか。一之瀬刑事にも、深見さんにも、簡単に干渉出来ていたのに。
頭の中でカナラの声が響いた。
――この人、私の精神干渉を受け付けない。見えない壁みたいので守られているみたい。
見えない壁?
まったく想定していなかった展開に焦りを募らせる。
記憶や精神を操れるカナラを追っている以上、何らかの対策をしていてもおかしくはなかったが、直接的な干渉すら無効にするなんて、そんなことが可能なのだろうか。
修玄は興が乗ったように話を続けた。
手の指と指をすり合わせながら考えるも、妙案は浮かばない。
‶カナラ〟の力が効かないのなら、直接脅して聞き出すか。いや、そんな真似をしても嘘を言われればお終いだ。こちらには確認する術がない。相手に気づかれずに情報を盗み出すからこそ、意味があったというのに。
「どうだい? 面白いだろう」
会談を話し終わった修玄が、自信満々にこちらを見返す。
僕は全く話に集中していなかったため反応出来なかった。代わりに千花が答える。
「……すごいですね。それって実話が元になってたりするんですか」
「この寺に昔から伝わっている話だよ。入ったばかりの小坊主に聞かせるのが慣習になっててね。恐らく、過去の住職の作り話なんじゃないかな。凄く良くできていると思うけど」
千花は愛想笑いを浮かべ、
「他にも聞かせてもらえますか。出来るだけたくさんの話を聞きたいんです」
「いいけど、メモとか取らなくていいのかい?」
「あ、そうですね」
慌てて手帳を取り出す千花。
どうする? どうすれば……?
部屋の奥に置かれた時計の音が嫌に耳に響く。
頬から流れ落ちた汗が、畳の上に垂れた。
「ありがとうございました」
寺の前で修玄に礼を言ってお辞儀する。
彼はひらひらと手を振ると、そのまま何事もなかったかのように本堂に戻っていった。
僕は千花と顔を見合わせながら、ゆっくりと階段を降り始める。
無言のまま一番下まで降りたところで、どっと息を吐き出した。
階段の上を確認しながら、千花が呟いた。
「どうなってるの? 何で記憶が……」
「何か‶カナラ〟の精神干渉に対する対策をしているんだ。彼女に操られないように」
目の前の道路を数台の車が通り過ぎていく。僕は額の汗を腕で拭った。
「まだ方法があるはずだ。まだ何か……」
やっと修玄という手がかりを掴んだのだ。ここまで来て諦めるわけにはいかない。
深刻な表情を浮かべている僕を見て、何か話さなければと思ったのだろう。千花が躊躇いがちに口を開いた。
「記憶が読めないのなら、直接証拠を押さえるしかないんじゃないかな。ずっと見張っていれば何かぼろを出すかもよ」
「修玄さんが本当に‶触れない男〟の仲間だとしても、連絡をとるなら電話やメールで済むよ。わざわざ仲間と会うことは少ないと思う。それに、こんなひと気が少ない通りを夏休みとはいえ高校生が毎日うろついていれば、かなり目立つ。修玄さんは瑞樹さんの葬儀の時に顔を合わせているから、僕が南区の蓮上高校の人間だって知っているしね」
奥歯を噛みしめながら、僕はそう答えた。千花は困ったような表情を浮かべたあと、それっきり黙り込んでしまう。
人通りが少ないせいで、場が酷く静かになる。目の前の道路を通り過ぎる車の音だけが、さざ波のように時たま響いた。
項垂れながら住宅街の方に視線を向ける。すると道路の反対側に立っていた人物と目が合った。
学生服を着た、どこにでもいそうな平凡な少年。でも何故か、僕は彼から目を反らすことが出来なかった。
トラックが通り過ぎ信号が青に変わる。
「……ん?」
目を離した一瞬の間に、そこに居たはずの少年の姿が消えていた。左右を見回してみたが、道路沿いを歩いている様子もない。
「どうしたの穿くん?」
僕の動きが気になったのか、千花が不思議そうに質問する。
僕は首を傾げながら、
「いや……何でもないよ」
と、小さく答えた。
2
鳥の囀りが聞こえ、ふと目を覚ます。
カーテンの隙間から明るい光が床を照らしていた。
僕はまぶたを擦りながら、むくっと重い体を持ち上げる。
たっぷり七時間は睡眠をとっていたはずなのに、全く眠った気がしなかった。すぐに昨日の出来事が頭に浮かび、気持ちを酷く落胆させる。
端末を眺め、誰からのメッセージも来ていないことを確認すると、のそのそと立ち上がりリビングへ出た。
テレビのスイッチを入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。父は既に出社したようだ。パンのビーニール袋がゴミ箱の中に捨ててあった。
サバラTVに、近日中の出来事が報道される。
狸が住宅街で目撃されただの、どこぞの学校の生徒が県大会へ進出しただの、平和なニュースが続いた。
僕はコップに注いだ牛乳を飲みながら、どうすれば黒幕に辿り着けるか考えた。
‶カナラ〟の力が効かない以上、やはり千花の言う通り、修玄を見張って怪しい動きをするまで待つしかないのだろうか。こちらが疑われるリスクが大きすぎて、あまりやりたくはないけれど、他に手がないことも事実だ。
多少強引な方法を取るとすれば、五業に寄生された生物の遺体を深見さんに回収させ、修玄に引き渡すのはどうだろうか。あれほど異形な動物の遺体が見つかることは、きっと修玄たちにとっても宜しくはないはずだ。
僕は公園で倒した五業の分身たちを思い出した。あの時は死骸を放置していたが、結局野犬が死んでいた程度の話にしかならず、大した騒ぎにはならなかった。もしかしたら深見さんと同様に、動物の死骸を回収する人間も仲間に引き込んだりしているのかもしれない。
再びコップに口をつけ中身を飲み干す。昨日買ってきたサンドイッチの袋を開けると、それを一口齧った。
テレビではニュース番組が変わり、ここ最近の事件に関する報道が始まる。まず最初に表示されたのは、死亡事故に関するものだった。
北区のとある場所で、少女が亡くなったと説明があった。昨夜未明に、胸に刃物が突き刺さった状態で発見されたとのことだ。
思わず手の動きが止まる。目が画面にくぎ付けになった。
現場検証の結果、警察は遺体を自殺と断定。遺体は身元不明であり、何年も前からホームレス生活を送っていた可能性が高いと推測されていた。
――明社町で、また死者?
画面に映る若いニュースキャスタ-を見つめた。
遺体は昨夜発見されたはずなのに、既に自殺と明確に断言されている。明らかに不自然な状況だ。胸に刃物が突き刺さっていたなどという、他殺を連想させる状況にも関わらず。これほど早急な判断を警察がするなんて、普通じゃありえない。
偶然だろうか。いや、そんな訳がない。和泉さんの時と同じだ。何者かが遺体を回収しようとしている意思を感じる。
ホームレスの少女。
その言葉に胸がざわりとする。和泉さんと噴水の中に堕ちた時に見た、あの記憶を思い出す。ぼろぼろの姿で座り込んでいたカナラ。そして彼女に向かって刺し伸ばされた白い手。
僕は一瞬、嫌な気分になったが、カナラのはずがないと考え直した。
‶触れない男〟や五業たちは、千花を生きたままで捕まえようとしていた。生きたままの彼女が必要だと述べていた。亡くなって、しかも警察が回収したとなれば、彼女に負けた敵の可能性の方が高い。
深く息を吸って、吐き出した。肺の震えを感じながらも、何とか冷静さを保つ。
もしこの遺体が‶触れない男〟の同類であるのなら、遺体は十九八苦、修玄さんがいるあの寺に運ばれるはずだ。五業はもういないから、修玄さんが直に遺体の搬送を行うかもしれない。
僕は端末を取り出すと、すぐに千花に電話を掛けた。
「確かに‶触れない男〟の仲間の可能性があると思う。でも、タイミングが良すぎないかな」
扉側の窓を閉めながら、千花が言った。
「私たちが修玄を訪ねて、しかも調べる方法がないって悩んでいるときに、その日に死人が出たんだよ。ちょっとおかしいと思わない?」
その疑問は、至極当然のものだった。僕自身も、同じ疑念は抱いていたから。
「でも、今の状況じゃ他に手がかりがないのも事実だろ。これが罠なら、僕たちはとっくに相手に特定されているってことになる。態々こんな回りくどいことをしなくても、‶触れない男〟や五業みたいに、直接襲ってくればいいだけじゃないか」
「今まで仲間が帰ってこなかったことを警戒してるとか。自分たちに有利な場所に誘い込んで、大勢で囲むつもりなんじゃないかな」
「大勢の仲間が残っているのなら、それこそひとけのないときに襲ってくればいいだけだと思うよ」
昨日一瞬見えたどこにでもいそうな見知らぬ少年を思い出す。僕は何故か、彼の姿を文化センターで目にしたあの白い少年と重ねていた。もし彼がカナラの仲間であるのなら、僕たちにとって都合の悪い真似はしないはずだ。和泉さんと争っていてたときも、見方によっては彼女を説得するヒントを与えてくれたとも言えるのだから。
「とにかく、私は反対だよ。何だか嫌な予感がするの」
珍しく千花は否定の言葉を述べた。不機嫌そうに腕をテーブルの上に乗せ、体を斜めに傾ける。
確かに彼女の懸念はもっともだ。僕も、何もなければきっと罠の可能性について怪しんでいただろう。あの少年の姿さえ目にしなければ。
「……わかった。じゃあ、直接近づいて調べるのは止めるよ。何かいい方法はないかな。修玄さんの後を追跡出来るような」
そう言うと、千花は微妙な表情を浮かべた。根本的に後をつけるという行為に対して、不安を抱いているようだ。
僕が黙っていると、仕方が無さそうに息を吐く。
「GPSとかは? 日本国内なら、今の時代ほとんどどこでも後を追えるよ。端末の通信回線とは違って衛星の電波を受信してるだけだから、トンネルとか、地下に行かれない限りは大丈夫なはずだけど」
「詳しいね……。でも、それって僕たちの端末のどちらかを修玄さんの車に設置するってこと? もし端末が見つかったら、危険じゃないかな」
「……その、私予備をいっぱい持ってるから。変な人たちから逃げていく過程で、色々と‶カナラ〟の力で名義を変えてたみたいで。まだ電波が使えるやつもあるんだ」
どことなく申し訳なさそうに、千花は顔を伏せた。
確かにそれがなるのなら、修玄が蓮見千花という名前に辿り着く可能性は低い。端末の料金は誰が払っているのだという疑問は敢えて突っ込まないでおいた。
「和泉さんのときのことを考えれば、遺体が運ばれるとしたら、今日中のはずだ。すぐにお寺にいってその端末を取り付けよう。深見さんの記憶で見たものと同じ車があるかもしれない」
「本当にやるの?」
「うん。カナラと君を狙う相手の正体をつかめるチャンスなんだ。絶対に逃したくない」
僕がそう答えると、千花はぎゅっと拳を握りしめた。
「……もし罠だったら?」
「これまでだって、何度もピンチを逃れてきたじゃないか。‶触れない男〟に捕まったときだって、五業に囲まれたときだって。大丈夫だよ。いざとなれば、すぐ逃げ出すから」
三度の争いによって、僕は蟲喰いの力に自信を持ち始めていた。この力は‶触れない男〟たちとの争いに非常に有効だった。どんな現象だろうと、どんな相手だろうと、打ち勝つことが出来た。ずっと苦しんできた呪いのような現象だったけれど、今は、この力が凄く心強いもののように思える。
僕の決意が変わらないと感じたのだろう。千花は諦めたように目を伏せた。
不安そうな彼女を見て、少し冷静になる。確かにあの白い少年やカナラが‶触れない男〟の仲間を殺害したという証拠はない。そもそも、わざわざそんな罪をおかして僕たちに手を貸すのなら、はなから彼らが自ら対処すればいいだけのはずだ。姿を見せるだけで直接僕に何も言葉を投げかけないのも、違和感がある。
僕はしばらく一考した後に、
「……端末は僕がしかけるから、千花はここで待っていてくれないかな。二人で動けば目立つし、もし罠だった場合、そこで僕たちの負けになる。もし僕が戻らなければ、すぐに街を出るんだ」
「そんな、私も行くよ。いつも穿くんばかり危険な目に遭ってるのに、一人で待ってるなんて出来ないよ。私が居れば、‶カナラ〟の力で助けられるかもしれないし」
「あの力は修玄さんには効かなかった。‶触れない男〟や五業の記憶を覗くことは出来たけど、どっちも直接僕と千花が相手に触れているときの現象だった。近づこうとして君が人質に取られたら何も出来なくなる。僕のためにも、ここで待っていて欲しいんだ」
千花は羨ましそうにこちらを見上げながら、
「あんな怪我をしたばかりなのに」
「大丈夫だって。危なくなったら、すぐに逃げるから」
やんわりと、僕はそううそぶいた。
3
修玄の車は明社町から離れ、真っすぐに南下している。
境和研究所のある地域は既に通り過ぎ、どんどん東京方面へと進んでいた。
やはりあの研究所に向かっているわけではないらしい。個人的な集団だという話は本当なのかもしれない。
端末の地図に浮かんだGPS情報を見つめつつ、そんな感想を抱く。追っているのは勿論、修玄の車にこっそりと取り付けた千花の予備の端末だ。
「あ、運転手さん。そこの出口で高速を降りてください」
不機嫌そうなタクシー運転手に指示をだし、修玄の車を追いかけさせる。ただの高校生が尾行まがいの真似をしていることを不審に思っているのか、どことなく運転手の態度がよそよそしい。
明社町を出てから二時間あまり経過したころ、僕を乗せたタクシーは狭い参道へと入った。
そこは県内でも比較的内陸寄りに位置する場所で、もはやほとんど町や村の姿も見られなくなっていた。
千花を連れてこなくて正解だった。もしこんなところで尾行がばれれば、誘拐されても人目につかない。
ひと気が多い場所では超能力の実験が出来ないからだろうか。車はどんどん山道を登っていき、しばらくすると山荘のようなものが目に入った。GPSを確認すると、修玄の車もそこで停車しているようだった。
僕は運転手にお願いして山道を離れてもらい、藪に挟まれた場所でタクシーを停車させた。運転手は最後まで訝し気な視線を向けてきたが、お金を払うとそくさくと帰っていった。
万が一監視カメラがある場合に備え、道路を避け林の中を移動する。少し進むと崖のような場所に出たので、その縁に合わせて移動した。遠目に見える町の光が別世界のようで眩しかった。
誰も居ないみたいだな。
窓を覗き込みながら、僕は呟いた。家具は全て整理され人が生活している気配はまったくない。違法な研究を行っているのであれば、安易に人目に付くような状態にはしていないだろう。もしかしたら、地下室とかがあるのかもしれない。
僕は踏み込むべきかどうか迷った。修玄の行先はわかったから、これ以上今は深入りせず、彼が確実に明社町にいるときに調べれば、安全に情報収集することが出来る。だが、もし彼がここを利用するのが今回だけであれば、大事な機会をみすみす逃すことにも繋がる。
躊躇った後、僕は蟲喰いを使い、窓の蝶番だけを破壊した。少し高い音が鳴り、慌てたが、誰も出てくる気配はないため、そのままロックを解除した。
むき出しとなっていたパイプに足をかけ、窓から中に入る。外は月明かりがあったおかげでまだ視界がはっきりしていたが、こうして屋内に入ると真っ暗で何も見えない。懐中電灯を使いたいところだったが、光でばれると困るので、目が慣れるまでじっとしてから進んだ。
リビング、個室と、家の中をゆっくり探し回ってみたが、修玄の姿はなかった。特に地下室への入り口のようなものも見られない。
わざわざこんな山奥まで来て、車を乗り換えたとは考えにくい。絶対にこの場所のどこかにいるはずだ。もしかしたら、二階に地下への入り口とかがあるのだろうか。一階では見つかりやすいと考えて。
僕は玄関横にある階段を上り始めた。妙に軋む階段で音を消すのに必死だったが、中段まで進んだところでおかしな点に気が付いた。歩くたびに、微かに階段が左右にぶれるのだ。
古くて老朽化しているだろうか。興味本位で強く壁を押してみたところ、予想以上に足元が大きくぐらついた。慌てて手すりに掴み、動きを止める。
何か変だ。
下まで降りて思いっきり手すりに力を掛けてみると、階段と床の接触部位に隙間ができ、空洞のようなものが覗いていた。もしやと思い、そのまま階段を横に引いてみると、金属の歯車が回るような音がして、大きく階段が左へ移動した。
RPGゲームに出てくるダンジョンのような仕掛けに眼を見張る。
先ほどまで二階へと続く階段があった位置には、今度は逆に、下へと続く階段があった。どうやら上方の階段で下の階段を覆い被すように隠していたらしい。本来であればロックが効くようだったが、横にあった木製の板が折れており、そのせいで階段が大きく揺れてしまったようだった。
研究室があるとすれば、ここで間違いなさそうだ。
僕は唾を呑み込み、階段を降り始めた。
一歩一歩音を立てないように足を進めていると、底のところに小さな扉があった。大人一人が何とか潜り抜けられそうなほど狭い扉だ。側面にはなにやら円柱状の電話機のようなものがあったが、階段同様に壊れているらしく、押すとすんなりと開いた。
どういことなんだ? これじゃまるで、長い間使われていなかった場所じゃないか。
おずおずと中に足を踏み入れる。相も変わらず真っ暗だったけれど、壁際にあるスイッチに触れた途端、遠くに伸びていくように部屋の電気がついた。
僕はてっきりこ綺麗な、病院のように白い部屋が広がっているものだと思っていたのだが、予想に反して、中はかなり雑然としていた。
むき出しのコンクリートで出来た壁。天井に走る無数のパイプ。そこらじゅうに伸びているコード。まるで建設途中の工場のようだ。
広さ的には蓮上高校の職員室を二つ並べたほどの大きさだろうか。中央には円形のデスクがあり、その右側には三つの大きな円柱状の容器。左側には五つのベッドが並んでいる。
修玄はどこに? 本当にここに居るのか?
疑問を抱きつつ歩き回っていると、壁際のにカレンダーを見つけた。年号はちょうど、一年前となっている。
何となく不気味さを感じつつも、とりあえず中央の円形デスクへと進む。どの机の上も真っ白なメモ用紙やペンなどが転がっているだけで、役に立ちそうなものはなかった。
僕はひとつひとつ引き出しを開け、中を覗いてみた。しかし当然のようにそこは空洞だった。
全ての机の中を確認し終えると、僕は次に左側に並んでいるベットへと目を向けた。一年間そのままになっていたわりには、どれもかなりこ綺麗で、皺ひとつ無く整えられている。
奥へ進み、壁に備え付けられていた扉を開くと、そこは三メートルほどの小さな廊下で、左右に二つずつ扉があった。
――なんだか監獄みたいな場所だな。
少し不気味さを感じつつも、ゆっくりと手前の扉を開ける。するとすぐに大きな二段ベッドが四つつ、目の前に飛び込んできた。
運び出したのだろう。布団や毛布は既になく、むき出しの木の柱と板だけが寂しそうに置かれている。一応中を見て回ったものの、特にめぼしいものは何もなかったので、僕は隣の部屋へと移動した。荒れ具合は同じようなものの、こちらは少しファンシーな感じの部屋だった。どことなく壁や残っている小物に女性っぽさを感じる。きっと男女で分かれていたのかもしれない。
廊下を挟んで向かいにあった二つの部屋は、トイレと資料室だった。既に大部分の本が持ち出され、残っているのは場違いな児童書と、低学年向けの教育本だけだった。
「子供用の本……?」
何故こんなものがここに存在するのだろう。死体を弄って組み替える研究をしていたのなら、子供なんているはずがないのに。
研究員の子供? でも、いくら何でもこんな違法な研究を行っている場所に連れてくるだろうか。
僕が悩みこんでいると、地下室への入り口のほうから足音が聞こえた。誰かが階段を下りてきたらしい。
修玄か?
僕はすかさず千花の腕を掴み、本棚の裏手に隠れた。
4
こつこつと、革靴の音が室内に響き渡る。暗がりの中から出た修玄は、何かを探すように周囲を見渡した。
彼は電灯がついていることに何の疑問も感じていないようで、部屋の中央までゆっくりと歩いた。
その堂々とした態度に、僕は妙な胸騒ぎを覚える。
部屋を一通り見まわし、修玄はひっそりと声を漏らした。
「変わらないな。ここも」
そのまま、僕が隠れている方向に向かって視線を向けた。
「いるんだろ。出てきなよ」
これは、バレているのか。
額に冷汗が流れ、動悸が激しくなる。僕がどうするべきか迷っていると、修玄が僕の名前を呼んだ。
「穿くん、だろ?」
完全にばれている。――どうやら、千花の不安は的中したらしい。
僅かに躊躇いを覚えたが、ここでじっとしていてもどうすることも出来ない。僕は仕方がなく彼の前に姿を見せた。
「やっぱり君だったか」
嬉しそうに、修玄は僕の顔を見つめた。
「どうしてわかったんです?」
「簡単な話さ。九業たちについて調べれば、いずれその遺体が回収されていることに気が付く。当然、記憶を覗けるカナラという少女なら、すぐに深見さんやぼくまでたどり着くはずだ。だから、ぼくは仲間の一人に常に深見さんを監視させていたのさ。彼女の周囲で怪しい動きをすれば、すぐにその人物が害意ある人物だと気が付く」
僕は小さく歯ぎしりした。
最初から修玄は囮だったのだ。記憶を覗けるカナラなら、相手の顔さえわかれば他者の記憶を経由して次々に目的の人間を探していける。‶触れない男〟たちの情報を掴もうと思えば、警察の記憶を覗くのがもっとも効率がいい。カナラが相手を探そうとしたのなら、深見さんや修玄へと到達するのは至極当然の結果だった。
自分の考えの浅さを深く呪う。修玄たちの目的は最初からカナラだった。修玄たちの立場からすれば、その力を行使して探されると想定するのは当たり前のことだ。これまで‶カナラ〟の力を使わずにやってきたからこそ、逆に僕はそのことにも気が付けなかった。
修玄たちは‶触れない男〟に注目を集めさせ、その隙に五業と六業を使ってこっそりと情報を集めカナラを探した。そしてカナラが逆に自分たちを見つけようとすれば、深見さんを利用して罠に嵌めるつもりだったのだ。
僕は悔しさを押し殺し、修玄を睨みつけた。
「あなたも、‶触れない男〟――……本田克己や、姫野夏帆さんと同類なんですか」
「いや、ぼくはあくまでただの研究者だよ。どちらかと言えば、彼らを作った側の人間だ。安心していい。ぼくに摩擦を操ったり、水を操る力はないよ」
そう言ってのける修玄の表情は余裕に満ちている。
ここまで落ち着き払って僕と向き合っているということは、この状況を想定し、僕を撃退できる用意が出来ているということだ。
僕はここから逃げ出す算段を考えながら、必死に時間を稼ごうとした。
「ここは、何なんですか」
「ぼくたちが利用していた研究室だよ。最後の九業が完成した時点で廃棄し、別の拠点へと移動したんだ。君たちが遭遇した超常者たちは、皆ここで研究され生まれた」
この場所で、あの‶触れない男〟たちが……?
割れた水槽へ自然と目を向ける。確かに大人一人が入りそうな大きさではあった。
「残念だけど穿くん。ここへ来た時点で、君の負けだ。素直にぼくに従ってくれる気はないかな」
穏やかな声で微笑む修玄。僕はその言葉に警戒心を高めた。
「なあ、頼むよ。ぼくはこう見えて争い事が好きじゃないんだ。これが罠だと気は付いているなら、今後の展開も予想できるだろう?」
黙ったまま修玄を見据える。特に周囲に人の姿は見られない。
「さあ、大人しくその場に座るんだ。君が抵抗しなければ、こちらも手荒なことはしない」
修玄が何を企んでいるにしろ、相手が彼一人であれば、まだ逃げ出せる。例え銃を持っていたとしても、蟲喰いを前に張って走れば致命傷を負う前に修玄を倒すことだって、出来なくはない。
僕が身構え睨みつけると、修玄は残念そうに目を伏せた。
「……あまり無駄な血は見たくないんだけどね。仕方がない」
そのまま一旦呼吸を置いた後に、短く声を発する。
「やれ、――四業」
その言葉が耳に届いたとほぼ同時に、足元の影が肥大化した。いや、僕の真後ろに別の誰かの影が現れたのだ。
いつの間に近づいたのだろう。振り返ると、全身黒づくめの男がそこに立っていた。短い金髪を生やした、三十代前半ぐらいの男だ。
僕はそれが‶触れない男〟の同類であると、すぐに悟った。
右手を構え、蟲喰いを発生させようと試みる。だが腕を伸ばしきるよりも速く、急に暴風雨のような風が吹き、体が後方へと持ち上げられた。ベッドの上に強く体を打ちつける。
風……!?
和泉さんのときのように体が勝手に動いてしまう感覚とは違う。男が振った手の風圧が、そのまま僕を押し飛ばしたような感じだった。
男が近づき、電灯の下で足をとめる。やさぐれたような顔が目に入った。
眠そうに見えるのは表情の所為ではなく自前なのだろう。僕はすぐに立ち上がり、彼から距離をとった。
「彼は三年前に殺された実験体を再利用した存在でね。能力も当時のものを再現しているんだ。もしかしたら君にも、覚えがあるんじゃないかい?」
言葉の意味がわからず僕は男の姿を凝視した。修玄はそんな僕にむかって、丁寧に説明を続ける。
「三年前。ぼくたちはカナラと呼ばれる少女を捕まえるために実験体を追手に出した。残念なことに、カナラには逃げられてしまったんだけど、その時に四業という個体が犠牲になったんだ」
まさか、あの男のことを言っているのか。僕がカナラを守るために殺してしまった、あの不審者のことを。
「彼らの肉体は貴重だからね。遺体を回収し、再利用したんだ」
何を言っているのかわからない。この男の顔はあのときの、三年前の不審者とはまったく異なる顔だ。例え整形していたとしても、ここまで違う顔にはならない。
「わかりやすく言えば、一度死んだ彼の筋肉や臓器を再利用して、別の実験体に組み込んだってことさ。同じような経験と思想を持つ人間であれば、それで死んだ初代四業と同様の現象を起こせるようになる確立が高かった」
‶フランケンシュタインの怪物〟。和泉さんの言葉が脳裏に流れ過ぎる。
この男はあの不審者の身体を使って作られた。僕が殺したあの男の身体を使って。
別人であることはわかっていたが、まるで三年前のあの男が目の前に蘇ったかのような気がして、思わず息が詰まる。
そんな僕を他所に、四業と呼ばれた金髪の男は面倒くさそうに舌打ちした。
「もうおしゃべりはいいだろ。さっさと終わらせようぜ」
彼が目の前の小石を勢いよく蹴飛ばし、僕の腕に命中した。途端、尋常ではない痛みが全身を駆け抜ける。あまりの痛みに悲鳴が我慢出来なかった。
――くそ……!
僕は無事なほうの片手を伸ばし、四業に向かって蟲喰いを放とうとした。
しかし四業は素早く後ろに体を移動させそれをかわす。隙を与えてはならないと、僕は畳みかけるように右ひざを持ち上げ、四業の腹部に打ち込んだ。現役で護身術を習っていた頃にも滅多になかった十分な手ごたえのある一発だったのだが――まるで分厚いゴムの塊を押したかのように、膝が押し戻される。いくら腹筋を鍛えていたとしてもこんな感触はしない。とても人間の肉とは思えなかった。
足を押し戻された反動で姿勢が崩れる。四業は僕の肩を鷲掴みにすると、片腕一本でそのまま宙に持ち上げた。
「どら、二業の真似だ」
ズボンから取り出したライターに火を着ける四業。なんのつもりだと思った途端、それが火炎放射器のように猛烈に立ち上がった。
「うわぁあっ!?」
とっさに蟲喰いを前面に展開し、炎の塊と四業の腕をはじく。
地面に倒れるなり、僕はすぐに後ろに飛びのいた。
「痛ってぇ……! ったく」
血の滴る己の手を見て、あからさまに四業の表情が不機嫌そうになる。しかし僅か数秒で、その傷はふさがり始めていた。
一体どういう現象なんだ……?
まるで一人で複数の超能力を持っているかのようだ。何が起きているのかわからず、冷や汗が流れ落ちる。
呼吸を整え、相手の意識を探る。四業が殴りかかってきたため、タイミングを合わせて反撃しようとしたのだが、その直後、急に‶触れない男〟のような不自然な動きで彼の体が加速した。
完全に狙いがずれてしまった。四業の膝は僕の腹部に命中し、体が宙に舞う。息ができなかった。
四業は笑みを浮かべながら、続けてひじを打ち下ろそうと体をよじる。しかし僕は背中から蟲喰いを放ち、それを防いだ。
ぎりぎりで察知したのだろう。四業の腕は吹き飛びこそしなかったものの、多くの血を流し弾かれる。その隙に僕は彼の服を掴んで引っ張り、腹部すれすれに左手の蟲喰いを打ち込んだ。
胃が傷ついたのか口から血を漏らし、四業は悶絶した。
しまった。やりすぎたか……!?
僕は慌てて腕を引こうとしたのだが、それを彼が掴みとった。
四業は片腕で僕の体を頭上に持ち上げると、そのまま一気に床の上に叩きつけようとする。
この勢いで頭を打ち付ければ間違いなく深刻なダメージを受ける。慌てた僕は反射的に手を伸ばし、地面に蟲喰いを放った。
崩壊する建材。蜘蛛の巣のように広がるひび割れ。叩きつけられる勢いは殺したものの、その余波は二人の足場を吹き飛ばし、お互いの体を左右に投げ飛ばした。
僕は凄い勢いで転がり、壁に背中をぶつける。対して四業の体は、割れた水槽の中に頭からめり込んだ。
5
「凄いな。こういう超能力の殺し合いは中々拝めるものじゃない。いい参考になるね」
遠くのほうで、修玄がそんな感想を吐くのが聞こえた。サッカーでも観察しているつもりらしい。
呼吸を止めて動き続けたせいで酸素が足りない。
痛みよりも恐怖よりも、ただ必死に空気を求める。肺が自分のものではないようだった。
「は、……大した威力だな」
頭から血を流しつつ、何事も無かったかのように笑みを浮かべる四業。彼が体中についたガラスの破片を手で払い落とすと、いくつもあった刺し傷は、その直後、瞬く間に修復されていった。
彼にまったくダメージが見えないので、僕の口からは自然と落胆の息が漏れた。まるで不死身の人間を相手にしているかのようだった。
立ち上がろうとすると、頭部から一滴の血液が流れ落ちた。どこかで皮膚を裂いてしまったらしい。
「ただの高校生にしては、中々やるじゃねぇか」
まるでスポーツを楽しむように明るい声を出し立ち上がる四業。
僕は彼を睨み付けたまま、目にかかった血を拭った。
こんなことを繰り返していても、時間と体力を浪費するだけだ。こちらの体力が尽きる前に、何とかしてあいつに致命傷を与えないと。
僕は右手に蟲喰いを発動させ、同時に左手でもその用意を行った。四業の現象が何であれ、これが急所に当たれば勝ちなのだ。まともに命中さえすれば、それだけで決着がつく。二回連続で現象を起こすのは体にかなりの負荷がかかるだろうが、やるしかない。
急接近する僕を見て、四業は僅かに後ろに下がった。ひるんだのかと思ったが、違った。飲み込まれたかのようにその姿が闇に消えたのだ。
電灯と壊れた設備の間の影が、何かが通り過ぎたようにあちこちで揺れる。四業がどこにいるのか、さっぱり見つけることが出来ない。
くそっ……!
冷静さを失った人間ほど、扱いやすいものはない。何とか意識を耳に集中させ、音の出所を探した。
コツっと、小さな音が左から響く。その刹那、僕は蟲喰いを横なぎに払っていた。
だが、腕は空を切った。音を出したのはただの小石だった。
息をするよりも早く、僕はとっさに手のひらだけを背後に突き出した。蟲喰いのインターバルを無視し強引に現象を撃ち出す。頭部に激痛が走り鼻からは血が漏れ出したが、同時に四業の肉がはじけ飛ぶ感触を受け取った。
真っ赤な花火。
飛び散る花弁のような血の奔流。
間違いなく深く刺した。いくら再生するといっても、この手ごたえならば深刻なダメージを受けたはずだ。
内臓のいくつかは確実に吹き飛んでいただろう。――しかし構わず、四業は血だらけの腕を僕の顔の前に伸ばした。
ぱんっ――と、両の手のひらを打ち合わせる。ただのスナッピングのはずだったのに、その瞬間、耳を劈くような大きな音が周囲に響いた。
視界がぐらつき、頭の中から何かが抜けていくような錯覚を覚える。
そんな……! だめだ、だめだ……!
千花のことを思い、必死に力を込める。ここで負ければ、今までの努力が全て水の泡だ。
寝るな。踏みとどまれ、頼む……!
唇をかみ締め神経を刺激する。しかしいくらがんばってみたところで、僕の体はその衝撃に耐えきれるほど強くはなかった。
目の前に巨大な壁が迫った。どこまでも続く無限の壁。最初は何かわからなかったが、横向き立ってこちらを眺めている修玄の姿を見て、自分が倒れたのだと理解した。
冗談じゃない、こんなところで……――
僕は必死に体を持ち直そうとしたが、上手く体が動かなかった。立ち上がろうとしたはずなのに体は勝手に右に移動し、腕は奇妙な場所を押し付けている。天地がぐるぐると動き回っていた。どうやら三半規管をやられてしまったらしい。
酷く吐き気がする。すぐにでも昼に食べたそうめんをその場に撒き散らしてしまいそうだった。
前後左右から迫ってくる四業の腕が僕の肩に触れる。すると、世界の回転がいっぺんに加速した。
気持ち悪いなんてもんじゃない。恐ろしさすら感じるほどの刺激だった。
僕は嘔吐し、そのまま動きを止めた。何もしていないにも関わらず、それでもなお世界は周り続けている。
「ひでえ姿だなぁ」
四業は馬鹿にするような声を投げつけ、屈みこんだ。そのまま苦しむ僕の横顔をじっくりと眺め始める。
「――四業」
修玄が彼の名前を呼んだが、四業には聞こえていないようだった。
「俺さ。苦しんでるやつの顔を眺めるのが大好きなんだよ。なんていうの? 征服感ってやつ?」
僕の首に指を当てると、彼は肉をえぐるようにぐりぐりと爪を押し当てた。
「なあお前。人が自分をもっとも満足させられる方法って何だと思う? それはさ。‶見下す〟ことなんだよ。あいつは俺より頭が悪い。運動神経がない。会話が下手。友達がいない。理由はなんでもいい。たった一つでも相手を見下せる根拠を持っているおかげで、人は自分の尊厳を守れる。たとえ自覚がないにしても、人間ってやつぁ、誰かを見下している。そうじゃないと生きてなんていられないからな。自分が特別だと、他人より上だと思いこみたいんだ」
ぴしぴしと、僕のほほを叩く四業。
「なぁ、すごく空虚なプライドだろ? でも、そのおかげで社会は成り立っている。そのおかげで、ブランド品や序列なんてものが存在できる。俺はさ。人を見下すのが大好きなんだよ。それこそが人類の本質だ。それこそが、野性から離れた世界で人類が持ちえる、唯一の生きる原動力なんだ」
僕は蟲喰いを発生させようとした。しかし、吐き気のせいで上手く意識が集中できず、それはコンクリートに小さな穴々を作るだけで終わった。
「俺に生きる実感をくれよ」
四業が僕のほほにデコピンをする。まるで殴られたように僕の首は押し飛ばされた。
――怪力? いや、そうじゃない。一体何なんだこれは……?
頭と鼻から流れた血で顔が熱くなる。風邪をひいたときみたいだった。
四業は落ちていた紙切れを手に取ると、それをひとつずつちぎって、無言のまま僕の体に‶刺し〟始めた。
腕。足。肩。背中。胴体。
まるで豆腐のように、いくつもの葉っぱが僕の皮膚と肉を切断していく。動くことができない僕は、ただ激痛に悲鳴をあげることしかできなかった。
興奮した様子で四業が息を荒くする。全身から流れ落ちた血を見て、僕は背筋が寒くなった。
ずぶり、ずぶりと、四業は悪戯を繰り返す。狙った場所に棒を通すゲームでもやっているかのようだった。
景色が遠くなってくる。先ほどとは違い、貧血によるものだ。
このまま死ぬわけにはいかない。このまま死ぬわけには……――。
四業が次の紙を差し込もうとしたとき、僕は最後の力を振り絞って蟲喰いを放った。それを肩に受けた四業は大きく吹き飛び、横転した。
意識が遠ざかっていく。血を流し過ぎたのだろう。もはや指一つ動かすことは出来なかった。
「てめ、まだ動けたのか」
血をまき散らしながら起き上がる四業。その傷口は先ほどと同様に瞬く間に修復していく。
彼はそのまま僕に近寄ろうとしたが、修玄が手を伸ばし、それを制した。
ゆっくりと歩み寄り、僕の首元に手を当てると、修玄は静かな声を出した。
「この出血じゃあもう助からない。遊びはここまででいいだろう」
そういって、ズボンのポケットから端末を取り出す。
「向こうから連絡が入った。……何やら、トラブルみたいだね。すぐにあっちの増援に向かったほうがいいかもしれない」
そういって、修玄は割れたガラスを拾い、握りしめた。
「トラブル? どういうことだよ。まさか失敗したのか」
「いや、確保自体には成功したみたいだよ。ただちょっと面倒な事態になってるらしい。助けが欲しいそうだ」
確保? 成功……? あいつら、何を言ってるんだ?
霞んでいく視界。修玄の残した不穏な言葉が脳裏に木霊する。
「ち、しょうがねえな。だからあいつは駄目なんだよ」
悪態をつく四業の声が聞こえる。
体中からじんじんと血が流れ出て止まらない。
皮膚はすごく熱いのに、芯のほうは凍り付いたように冷たくなっていく。
この状況で、僕を遠ざけた状態で、確保なんて言葉が出てくるとすれば、思い当たるふしは一つしか無い。
まさか、……まさか――……千花……?
「じゃあね。穿くん。君の身体もいい材料として使わせてもらうよ」
何かがお腹に押しつけられる。
その瞬間、消えかけていた意識の糸が立ち切れてしまった。
うっすらと、世界が再び、灰色に包まれていった。