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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
26/42

第二十六章 記憶の中の咎人

  

  1


 僕と千花は、和泉さんの本名がわかったかもしれないと嘘をつき、再び一之瀬刑事と会う約束を取りつくろった。

 国道沿いのファーストフード店で五~六分ほど待っていると、一之瀬刑事が店内へ入ってきた。比較的若者の多い店なので、くたびれたスーツ姿の中年男性はよく目立つ。僕が軽く手を上げると、彼はぼさぼさの頭をかき乱しながらこちらに近づいた。

「よお。また二人一緒か」

 どかりと椅子に腰を落ち着け、不適な笑みを浮かべる。僕は両手を机の下で組み直した。

「すいません。何度も。でも、今回は重要な話なんです」

「いいよ別に。怪しい情報を集めて町を守るのがおまわりさんの仕事だからね。もっとも役に立たない情報や妄想話が相次ぐなら流石に考えざる終えないけれど」

「お時間は取らせません。要点だけをお伝えします」

 僕は‶カナラ〟の顔をちらりと見て、「お願い」と、声に出した。

 一之瀬刑事は眠そうな表情で視線を千花に向ける。彼女はそんな一之瀬刑事の目をまっすぐに見つめると、僅かに瞳に力を入れた。

 事前に教えてもらったとおり、手を繋いでいるおかげで僕にも彼女の見ている光景が頭に浮かぶ。一之瀬刑事は放心したように、力のない表情で彼女の目に捕らわれ続けた。


 まず最初に飛び込んできたのは、初老の男性の姿だった。彼の手には警察手帳が握られており、幼い一之瀬刑事がそれを見上げている。

 水の中に潜り込むように場面が切り替わる。

 高校生ぐらいの友人と歩いている一之瀬刑事。楽しそうにおしゃべりをしていたのだけれど、裏路地に入った途端、いかつい顔をした上級生たちに捕まった。一之瀬刑事は抵抗したけれど、友人はすぐにお金を渡してしまう。結局ぼこぼこに殴られた一之瀬刑事は、財布を取られてその場に倒された。立ち去っていく彼らの背中を見上げながら、一之瀬刑事は己の無力さを強く呪っていた。

 さらに深く潜る。

 同期が次々にやめていく中、一之瀬刑事は自分の正義感を貫くため、祖父の後を追うために、必死に警察学校の訓練をこなし続けた。そしてある日、彼の手には一丁の拳銃が渡された。誇らしく、それでいてかなり重い塊だった。

 何だか自分が一之瀬刑事なのか、佳谷間穿なのかわからなくなってきた。必死に‶カナラ〟らしき意識の気配によりすがり、僕はどこにあるかもわからない自分の目を凝らした。

 

 警察署内の霊安室。一之瀬はベッドの上に横たわっている遺体を見つめた。

 数日前に護送中に事故に遭い亡くなった男性だ。運転免許書も保険証も所持しておらず、身元不明だと思われていたのだが、先日突然、県議員の稲生という男から連絡があり、彼の一人息子の忠司だと判明した。

 一体どうやって遺体のことを聞きつけたのかは知らないが、提供されたDNAが完全に一致したため、血縁関係は疑いようがなかった。

 忠司は生前献体契約を結んでいたらしく、遺体は稲生議員の意向もあり協和研究所へと引き渡すことになった。

 通報者も事故の原因も未だ不明のままではあったが、稲手続きは不自然なほど淡々と進み、瞬く間に遺体の搬送日が決定した。

 一体この男はあの廃墟で何をしていて、何故死ぬことになったのだろうか。

 表向きには逃亡を図った末の事故死となっているが、現場には不自然な点も多く、殺害事件の可能性も十分に考えられた。同じ署内の警察官が死亡しているのだ。明確な事故という証拠が見つかるまでは徹底機的に調査を続けようと思っていたのに、何故か上はそれを了承しなかった。色々と腑に落ちないことが多かったものの、まともな情報を掴むことも出来ないまま日時は進み、気が付けば、あっという間に搬送日へとなってしまった。

  深見がそっと遺体を覆っている袋のチャックを閉める。彼女はこの遺体を処理するために呼ばれた搬送会社の人間だった。

「もう、よろしいでしょうか」

「ああ。……お願いしますよ」

 投げやりに返したにも関わらず、彼女は実に丁寧にお辞儀をし、遺体をストレッチャーに乗せ替えた。一瞬手伝おうかとも思ったのだが、あの細い腕のどこにそんな力があるのか、軽々と手順よく遺体を横に移動させ、作業を終える。

 汗をぬぐう彼女を見て、一之瀬は何となしに呟いた。

「しかし、不憫なもんですな。これから焼却されるっていうのに、遺族が誰一人来ないなんて」

 それを聞いた深見は冷静な、それでいてかなり落ち着いた声で答えた。

「政治家の方ですから、色々と問題があるんだと思います。ご子息が警察を巻き込んだ事故で亡くなったなんて、それなりにスキャンダルを呼びますからね」

「息子をそんな風に育てたやつが、まともに国の面倒なんて見れるとは思えないけどなぁ。ま、俺が口を出すことではないが」

 一之瀬は皮肉ったっぷりにそう言った。

「あんたは、ずっとこの仕事を?」

「ええまあ。色々と大変なことも多いですけれど、お給料はそれなりに頂けるので。……私、母子家庭なものですから」

「なるほど。……ま、人それぞれ色々とあるわな」

 相槌を打つように一之瀬は頷いた。

 ストレッチャーに手をあてがい、深見に扉のほうをうながす。

「霊柩車までは運ぶよ」

「ありがとうございます。実は、最近ちょっと腰が痛くなってきてるんですよ」

「嘘だろ? まだまだ全然若いじゃないか」

 彼女の見た目はどう見ても三十台後半だ。冗談ではないのだろうが、あまりにふさわしくない言葉だと思った。呆れるように、一之瀬は表情を崩した。

 そんな一之瀬の顔を見て、彼女は妖艶な笑みを浮かべた。



 一之瀬刑事が認識している全ての情報が、濁流のように流れ込んできた。

 もう十分だろう。そう思った瞬間、リンクが切れたかのように意識が現実に立ち返った。

 がやがやとした騒音が、まるで初めて音を聞いたかのように耳の中に反芻はんすうする。何度経験しても、この瞬間だけは慣れなかった。

 僕は目頭を押さえながら一之瀬刑事の様子を確認した。

 彼はぼうっとした表情を浮かべたまま、あらぬ方向を見ている。

「大丈夫……か」

 思わず僕は呟いた。

「ちょっと記憶を操作したの。適当に和泉結衣に関する話し合いをして、一息ついたところって感じかな」

 耳打ちするように千花――‶カナラ〟が顔を寄せる。僕は照れを隠すように頷いた。

 ‶触れない男〟――本田克己の名前が稲生忠司になっているのは、恐らく敵側の隠蔽だろう。遺体を手に入れるために、都合のいい人間を利用したのかもしれない。

「記憶で見た深見って人に接触する必要がある。一之瀬刑事に彼女を呼び出してもらえないかな。献体のことで話したいことがあるとか理由をつけて。場所は……人の多いレストランとかがいいんだけど」

「わかった。やってみる」

 ‶カナラ〟は再び一之瀬刑事の顔を見つめた。一之瀬刑事は身動き一つしないまま、彼女の目を見返している。

 しばらくして、満足したように‶カナラ〟は視線を逸らした。

 通路を歩いてきたカップルのカバンがかすり、僅かに机が振動する。その揺れで一之瀬刑事は我に返った。

「……あ――……って感じかなぁ……?」

 千花の中にいる‶カナラ〟がどんな記憶を埋め込んだのかは知らないが、何かを話し終わったところのように、一之瀬刑事は言葉を終わらせた。自分でも違和感を感じているのか、語尾が多少疑問気味だった。

 これ以上余計な会話を続けてぼろを出す前に、さっさと退散したほうがいいだろう。

 僕は立ち上がり、一之瀬刑事に礼を述べた。

「お話、ありがとうございます。一之瀬刑事の言うとおりに、気をつけますね」

「ん? ……ああ、ああ。そうしてくれ」

 寝ぼけ眼でこちらを見上げる一之瀬刑事。僕たちは迷惑をかけたせめてものお詫びと、飲み物代分として二千円を机の上に置き、その場を後にした。



  2


「上手くいったでしょ?」

 住宅街の中を進む僕を、早歩きで追いかける‶カナラ〟。彼女の声は酷く軽かった。

 今更ながら、とてつもない現象だ。彼女が本気になれば、湧き水のようにお金を作り出せるし、どんな相手に対しても強制的に親密な人間関係を形成することもできる。そして、人を殺させることも。

 もし悪意を持って精神干渉の現象を利用すれば、彼女一人だけでとてつもない人間を不幸に導くことが可能となるのではないだろうか。本当に、規格外の力だと思った。

「ねえ、穿ってばぁー」

 甘えるようにシャツの袖を引く‶カナラ〟。

 僕は腹に抱えている不安を飲み込み、感謝の言葉を述べた。

「ああ、ありがとう。助かったよ」

 そういうと、‶カナラ〟は花が咲いたように無邪気に笑った。

「こんなの朝飯前だよ。私は絶えず周囲に意識を張って動いているんだもん。呼吸と同じくらい、簡単に人の記憶を覗くことができるよ」

「それって常に周りの精神に干渉しているってこと?」

「うん。この子の体に入ってからは制限があるけど、純粋な私の体だったら、ね」

 彼女にとって周囲の人間の精神は、魚にとっての水のようなものなのだろう。僕は愕然としつつつも、平静を保った。

「もう一回手を貸して欲しいんだ。いいかな」

「それって、さっき見た深見て女の人のこと?」

「そう。献体契約サービス業者の、それも本田克己の遺体を回収している彼女なら、‶触れない男〟たちの黒幕について何か知っているはずなんだ。そのためには君の力がいる」

「……いいけど、その代わりお願いを聞いてくれる?」

「お願い?」

 僕は聞き返した。ちょうど十字路に差し掛かったところなので、足を止める。

 何だか物凄い無理難題を押し付けられるような気がしたのだが――

「絵を描いて欲しいの」

「絵?」

 思わぬ答えに、僕は拍子抜けした。

「……別にいいけど、何の絵?」

「私の似顔絵」

「それって、‶カナラ〟のってこと? 今の君の顔をまともに見たことなんてほとんどないし、無理だよ」

「別に今の私じゃなくてもいいんだ。この私は、‶あれ〟とはもうほとんど別ものだもん。穿の記憶にある、あの頃の私を書いて欲しい」

「何でそんなものを?」

 純粋に疑問に思ったので、そう率直に聞いた。

 ‶カナラ〟は後ろに腕を組むと、草むらを歩くような調子で足を遊ばせた。

「あの頃の私には、それが楽しみだったから。穿はあの避暑地みたいな公園で、いつも色んな絵を描いたけど、私はその様子をずっと眺めているだけだった。穿の絵ができていく様子は物語を見ているみたいですっごく楽しかったけど、ただ一人でその様子を見ているだけなのは、少し寂しかった。だから、私は自分の顔を描いて欲しいってお願いしたんだ。モデルになるのなら、共同作業として時間をつぶせるから。……覚えてる? 穿」

 どこか不安げにこちらを見上げる‶カナラ〟。肉体は千花だったが、僕の目には確かに、陽光でかすんだ彼女の幼い顔が見えた。遠い夏の日の、あのコンクリートに囲まれた公園の香り。狭いようで妙に広い大地。詰め込まれたかのような、大きな太陽。

「ああ。覚えてるよ」

 深く息を吸い込みながら僕がそう言うと、‶カナラ〟は静かに微笑んだ。千花とはまた別の哀愁の篭った笑みだった。

 あのときの約束を果たして欲しい。そういうことなのだろうか。僕たちの関係がこんな奇妙なものになる前の、純粋な友人としてのつながり。

 ‶カナラ〟はきっと寂しいのかもしれない。何年も千花の中に閉じ込められ、心を打ち解けて話せる機会も相手もなく、ようやく再開できた僕には疑惑に満ちた目を向けられる。そう考えると何だか急に、彼女が可哀相になった。

 にこにことこちらを見ている‶カナラ〟に視線を合わせ、僕は帆を張るように言った。

「わかった。描くよ。この事件が解決したら」

「えー、すぐに描いてくれないの?」

「今は‶触れない男〟たちの黒幕をどうにかするのが先だろ。それが終わったら描くよ。必ず」

「今度こそ、本当だよ?」

「もちろん」

 しっかりと頷くと、それで‶カナラ〟は満足したようだった。

 真っ白な雲が風に押されて漂っていく。かなり低い位置にあるのか、動きは早かった。

 ‶カナラ〟は体の後ろで組んでいた手を下ろし、名残惜しそうに自分の影を見下ろす。

「……そろそろこの子に体を返すね。もう限界みたい。穿が呼べば、いつでもまた出てきてあげるから」

「ああ。ありがとう」

 僕は感謝を込めてそう言った。

「うん。……――じゃあね」

 風に揺らされた花びらのように、ゆっくりと手を左右に振る。そして彼女の意識は、千花の表側から静かに離れた。



  3


 二日後、‶カナラ〟の暗示を受けた一之瀬刑事から、深見との待ち合わせについて連絡が入った。南にある赤崎という大きな町のレストランで、彼女と合流する予定らしい。

 これ以上彼を撒き込むことは避けたかったので、もう一度一之瀬刑事に接触し、‶カナラ〟の力で深見とのやりとりに関する記憶を抹消した。

 僕と千花は予定時間よりも早く待ち合わせのレストランに入ると、適当な席に腰を落ち着けて深見の到着を待った。直接接触さえしなければ、僕たち二人はただランチを楽しんでいる高校生にしか見えないはずだ。

 三十分ほどして、スーツ姿の女性が独り、レストランの中に入ってきた。深見だ。

 彼女は席を見回し、一之瀬刑事がまだ来ていないことを見てとると、店員の指示のもと奥の席へ移動した。

 緊張した表情で千花がこちらを見る。僕は頷き、

「じゃあ、いいかな千花」

「うん。お願い」

 集中するように目を閉じる千花。一呼吸置いたあと、僕は彼女に呼びかけた。

「‶カナラ〟手を貸して」

 事前に‶カナラ〟から指示された通り、千花の手を握り意識を集中させる。すると不思議なことに、手を伝わって千花の存在をより強く感じることができた。

 自分が千花の、周囲の空間の一部になったかのような。周囲の全てとの境がなくなったかのような、そんな妙な気分になる。

「――あー……おはよう。穿」

「おはよう。‶カナラ〟」

 僕は頭のもやを振り切るように、そう言葉を返した。

「どうしたの? あー」

 僕の記憶を読んでいるのだろうか。何かを答える前に、‶カナラ〟は勝手に納得し、頷いた。

「お願いできる? ‶カナラ〟」

「……約束だからね。わかった」

 彼女は自分の服装を気に食わないとでもいうように見回した後、深見の居場所に目を向けた。

 視線を感じたのだろう。深見がこちらを見返す。その瞬間、千花の手を通して、雪崩のように映像が飛び込んできた。


 

「本当に、よろしいのですか? 稲生さん」

「ええ。構いません。本人が招いたことです。そりゃあ、家族としての情はありますが、今の立場というものもある。この男の馬鹿な行為のせいで、それを棒に振るわけにはいきません。私の肩には多くの協力者の生活がかかっているのですから」

「わかりました。では、そのように手続きを進めます」

 あっさりとした稲生の態度に拍子抜けしつつも、自分が首を突っ込むことではないと思い直し、素直にそう返事をする。深見の顔を見て、テーブル越しの稲生は満足そうに頷いた。

 必要な書類を受け取り、手早くそれを確認する。あまり経験のない事例なので、少し戸惑ったものの、親とは思えないほど淡白な稲生のおかげで問題なく処理を終わらせることができた。

 深見は書類を封筒にしまうと、顔を上げた。

「それでは、以上で手続きは終了です。もし何かございましたら、お渡しした資料の番号におかけください。よろしいでしょうか」

「ああ。問題ない。警察にはその書類の通りの説明をお願いします。ただ、深見さん。ひとつだけ注文をしてもよろしいでしょうか?」

「と、申されますと?」

「忠志の遺体ですが、研究所へ護送する前に、ある場所へ持ち寄って欲しいのです」

「え? どういうことでしょうか?」

 稲生は口元のちょび髭を愛しむようにさすった。

「あくまで私の立場としては、犯罪を犯した息子の死を公にすることはできません。警察の方々にも、行方不明ということにして頂いていますからね。ですが、支援者たちの目がない場所であれば、彼を弔ってあげることもできる」

「つまり、ご家族だけで葬儀を行いたいと言うことでしょうか」

「そういうことです。直接私の家に運び込めば家政婦などに怪しまれてしまいますので、一時的別の場所へに収納します。そこからはこちらで運び出しますので」

「ちょ、ちょっと待ってください。そんなこと、私の一存では……」

 深見はあくまでパートとして遺体搬送を行っているだけの人間である。こんな重大なことを警察を騙してまで実行できる権限や度胸などなかった。

「勿論、お礼は弾みますよ。境和研究所に対してではなく、あなた個人にね。これくらいでどうでしょうか」

 稲生はテーブルの上に端末を置くと、手馴れた様子で指を動かした。そして、そのまま画面をこちらに向ける。

 その額を目にし、深見は驚愕した。

「こ、こんなに……!?」

「母親一人で娘を育てるのは大変でしょう。昼は研究室に篭って事務作業。夜は寝る間も惜しんで死人とデート。これだけあれば、かなりあなたの生活の励みになると思うのですが」

 自然と、つばが喉に流れ込む。

 こんなお金は入らないと断るべきなのはわかっていた。もっともらしい理由を述べてはいるが、このお金には立場や建前だけではなく、得体の知れない危険な気配がある。何年か前の自分だったら、迷わず断っていたはずだ。リスクよりも、恒常的な幸せのほうが価値は高い。

 だが、深見は考え込んでしまった。

 ちやほやされていた若い頃ならともかく、最近は見る見るしわの数も増えている。同期で仕事をしていた同僚の女性たちも、日に日に数を減らし、今では数えるほどもいない。別に年齢制限があるわけではないけれど、このままではいずれ昼の仕事を失うことは明白だった。夜の献体運送だけでは娘を養っていくことはできない。今後は予備校、大学受験と、尋常ではないほど資金が必要になる。ただでさえ、睡眠不足のせいで最近は体にがたがき始めているのだ。手に入るのであれば、お金は多いに越したことはない。

 まるでこちらの葛藤を見通すかのように、稲生は言葉を差し込んだ。

「狭い県です。有力者ともなれば、お互いがクラスメイトのように顔見知りとなる。あなたが私の提案を呑んでくださるのなら、生活保障や大学推薦の件で多大な協力を行うことも可能でしょう。ただし、協力して頂けないのであれば、私の評価は著しく下がってしまいますが。例えばあなたが勤めている研究所の所長は旧知の仲でしてね。よく愚痴を言い合うんですよ。使えない職員の話なども、頻繁に耳にします」

 これではまるっきり脅しではないか。穏やかそうな顔をしてとんでもないことをのたまう稲生に、深見は愕然とした。

 今職を失えば、年齢的に新しい仕事にありつける可能性はほとんどない。せいぜいスーパーのレジか、ビルの掃除くらいなものだろう。どちらも、娘を養っていくほどのお金は稼げない。

 こんなつまらないことで生活を失うわけにはいかない。相手は政府の人間なのだ。言うとおりにしてリスクを負うか、言うとおりにしないで余計な嫌がらせを受けるかでは前者のほうが圧倒的に都合はいいだろう。

 ただ、彼の息子の遺体を別の場所に移送するだけ。それだけで全てが丸く収まる。

 まるで誘導されているかのように、気がつけば、深見はこっくりと頷いていた。


 一度決まれば、あとはとんとん拍子だった。

 警察署で稲生忠志の遺体を受け取った深見は、その足で指定された場所へと移動した。明社町の北区にある、古びたお寺の駐車場だった。

 深見が着くなりに、目の前のバンがライトを点滅させ、二人の男が姿を見せた。暗くてよく見えなかったが、どちらも腕に大きなな出来物があった。作業中に何気なく気が付いたことだが、稲生の首元にも同じような腫瘍が出来ていた。

 彼らは深見から遺体を受け取ると、別の遺体袋を運んできた。顔を覗くと、驚いたことに稲生忠志そっくりに整形が施されていた。

 たどたどしい口調の男たちからお金を受け取った深見は、その足で研究所まで移動し、どこの誰かもわからない男の死体を検体として提供した。

 まさかこんな方法をとるとは思いもしていなかったので、ばれてしまわないか不安だった。見知らぬ人間を焼いているという恐怖で心が押しつぶされそうになった。

 たった一度。これさえ乗り越えればあとは全てが上手くいく。そう思っていたのだけれど、現実はそれほど甘くはなかった。

 稲生は息子のときの取引をネタに、何度か同じような仕事の依頼をしてきた。当然、深見は抗議したのだけれど、例の遺体すり替えに稲生が関わっていたという証拠は何もない。警察内での手続きは全て終わっている。結局、犯人として挙げられるのは自分だけだとさとされ、深見はしかたがなくいいなりになった。

 研究所へ持ち込む際のすり替えだけではなく、寺から遺体を持ち出させられることもあった。遺体をお寺で焼却していると見せかけて、どこかへ移動させていたのだ。どれも体にひび割れのような傷のついた、妙な遺体だった。恐らくすり替えた後の遺体はお寺に運ばれたものを使っているのだろうけれど、我が身大事さに、深見は一切の口出しをしなかった。

 高校生、中学生くらいの少女たちに、変なできもののついた男たち。奇妙な遺体ばかり回収させられた。

 見知らぬ遺体をすり替えるたびに、深見の口座には莫大な金が入ったが、それが増えていくと同時に、自分の中で何かが削れていくような錯覚を覚えた。三人目の遺体を運んだときには既に、指示を出す相手は稲生ではなくなっていた。どうやら彼も脅されていただけらしく、それ以降は毎回、寺に住む修玄と名乗る男が指示を出してくるようになった。すり替え作業に住職は関わってはおらず、どうやら修玄が実質的な寺側の実行犯のようだった。

 渡されるお金に罪悪感を抱かなくなった頃、深見は自分が何か別人になってしまったかのような妙な錯覚を覚えた。



 千花の手が離れると、僕は脳内に反芻はんすうされた光景の衝撃に、動揺した。

 相手の手口の陰湿さもそうだが、何より驚いたのは深見の記憶に修玄が出てきたことだった。それも、‶触れない男〟たちの協力者として。

「まさか、あの人が……?」

 思わず声に出る。

 親しみを持っていただけに、ショックは大きかった。

「ねえ穿。あの人どうするの?」

 力のない表情を浮かべている深見を指して、‶カナラ〟が能天気に聞く。僕が答えずにいると、彼女は面倒くさそうに再度僕の名前を呼んだ。

「穿ってば」

僕ははっとし、指示を出した。

「一之瀬刑事と待ち合わせた記憶を消して。ただ買い物をしにきたことにするんだ」

「はいはい。りょーかーい」

 千花が彼女の目を見つめると、深見は焦点の定まらない目でメニューを手に取った。そのまま、僕たちなど存在していないかのように、ぼうっとそれを見つめる。

「行こう。‶カナラ〟」

 僕は彼女の肩を叩き、すぐにレストランから出た。念のために周りを確認してみたが、尾行されている気配は無さそうだった。

「ありがとう‶カナラ〟。ちょっと千花に代わってもらえる?」

「ええ、もう終わり? つまんないの」

「ごめん。大事な話があるんだ」

 しぶしぶといった感じで意識の奥に引っ込む‶カナラ〟。力の抜けた表情が一気に引き締まったものに変わり、僕は千花の意識が戻ったことを読み取った。

「――うーん。穿くん……?」

 頭がはっきりしていないのか、眠気眼ねむけまなこでこちらを見上げる千花。子供のように手の裏でまぶたを掻いている。

 彼女の視線が定まるまで我慢して、僕は調査の結果を伝えた。

「修玄さんだ」

「え、なに?」

「深見さんは利用されただけだった。修玄さんが‶触れない男〟たちの協力者なんだ」

「修玄って、あのお寺の人? この前会った……」

「そう」

 僕は頷いた。

「あの人が?」

 信じられないのだろうか。千花は疑わしげに僕の顔を覗いた。

「‶カナラ〟が記憶を読んだから間違いないよ。修玄さんが手引きして、‶触れない男〟たちの遺体をすり替えてた。かなり黒幕に近い人間なんだと思う」

「そんな……あんなに優しそうな人だったのに……」

「外見だけじゃ中身なんてわからないよ。‶カナラ〟の力はまだ使える?」

 僕がそう言うと、千花は神妙な表情で頷いた。

「そんなに長い時間入れ替わってないから、もう一度くらいなら‶カナラ〟も出てこれると思う」

「じゃあ、すぐにお寺に行こう。修玄は僕たちが情報を掴んだことは知らない。今なら、‶カナラ〟の力で黒幕の正体を聞きだせるかもしれない」

 動悸が早くなる。ようやく、探していた手がかりを掴むことが出来たのだ。

 僕はぎゅっと、自分の拳を握りしめた。






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