第二十五章 白い少年
1
「お待たせ~」
涼やかな声が聞こえたので、顔を上げる。視線の先には、いつものように控えめな笑みを浮かべた千花が立っていた。
彼女は僕の向かいの席に腰を落ち着けると、アイスの乗ったカフェラテを注文した。店員の女性が緩やかな足取りで厨房へ戻っていく。彼女の後姿を眺めつつ千花がしんみりと呟いた。
「今日はいつもよりも涼しいね」
「そうだね。雨上がりだからかな。昨日の夜に降ったみたいだけど」
「外を歩くにはちょうどいいと思うよ」
千花はコップから手を離し、
「……それで、昨日電話で話してたことって?」
「あ、うん。今の僕たちの状況から考えて、カナラを狙ってる相手に繋がる手がかりは、‶触れない男〟や和泉さんの遺体の行き先だけだと思う。だから事件を担当していた刑事から、その行き先について確認出来ないかなっと思って」
「境和研究所の受け取り人を探るってこと?」
「いや、違うよ。和泉さんの口調だと相手は集団ではなく個人って話だった。境和研究所の中で実験に使うのは相当難しいはずだ。記録をとったり、遺体の管理もされることになるからね。
だから、可能性があるとすればそれは遺体の搬送中だと思う。献体として持ち込むにしても、遺族に引き渡すにしても、搬送中のどこかで遺体のすり替えを行えば、誰にも気づかれずに事実を隠蔽することが出来る。和泉さんたちは元々彼らの仲間だから、整形した別の遺体を作ることだって可能かもしれない。
‶触れない男〟の遺体は何者かの意向によって医療機関に提供されたって話だし、恐らく和泉さんの遺体もきっと同じように何らかの理由をつけて回収されると思う」
「でもどうやって一之瀬刑事からその搬送人を聞き出すの? かなり難しいと思うけど」
「一之瀬刑事に確認するのは、遺体の搬送時期だよ。検視中はまだ警察署の霊安室に遺体が置かれているはずなんだ。死因を特定出来ない場合はそこから司法解剖を実施するため、どこかの医療機関に運ばれるし、原因が特定されたとしても地域の火葬場とかに運ばれるはずだから、いつ頃その搬送車が来るかさえわかれば、見張って行き先を調べることだって出来る」
僕の言葉を聞いた千花は、感心したように目を丸めた。
「……相手からすれば、‶触れない男〟や和泉さんの遺体を細かく調べられたら困るものね。確かにこの方法なら、確実に関係者に辿り着けるかも」
ある程度話す内容を相談したあと、僕は一之瀬刑事に電話をかけた。皐月さん誘拐未遂や、自然発火現象の時に教えてもらっていた番号だ。
彼は最初は驚いていたが、打ち合わせたとおり、和泉さんを知っているかもしれないと証言すると、十分に興味を持ってくれたようだった。
僕としては明日か明後日で、一之瀬刑事が暇な時間帯に会えればよかったのだが、運がいいことにちょうど午後に時間の空きがあったらしく、十八時に警察署で会うことになった。
午後までは暇なので、気分転換に外をぶらつこうと提案した。
あのまま静かなカフェでじっとしているよりは、こうして歩いていたほうが千花も昨日言いそびれた話をしやすいかと思ったのだ。
しばらくぶらぶらと歩いていると、視界の端に光るものが目に入った。
色鮮やかな着物に立ち並ぶ屋台。まだ昼前だというのにも関わらず、多くの人間が集まっている。どうやら祭りのようだ。
「そっか。そういえば今日だったね」
はっとした表情で、千花が呟いた。
そういえば、ここには大きなお寺があった。瑞樹さんの葬儀を行ったのも、確かここだ。
祭りか。最後に行ったのは、もう何年前のことだっけ。
一之瀬刑事との待ち合わせにはまだ猶予がある。せっかくだし、少しくらい見てみようと思った。
「寄っていく?」
僕がそう聞くと、彼女は顔をほころばせながら頷いた。
「うん!」
色とりどりの人々や走り回る子供たちを見ていると、何だか花火の中に飛び込んでしまったよう気持ちになる。普段は灰色っぽいこの町が凄く色鮮やかに見えた。
「あ、ヨーヨーがある。やろうよ、あれ」
「あ、ちょっと千花」
黒いスカートをはためかせながら、颯爽とひとつの屋台の前に移動する彼女。僕は慌ててその後を追った。
「金魚すくいも好きだけど、取った金魚って、何だか見ているとかわいそうになっちゃうからね。ヨーヨーだったら、何も遠慮することないし」
「まあ、わからなくないないけど」
「……あっ、失敗した! ほら、穿くんの番」
塗れた糸をぷらぷらと揺らしながらこちらを振り返る。その笑顔だけを見ていると、何だか‶触れない男〟たちのことなんでどうでもよくなってしまいそうだった。
僕は針のついた糸を手に取ると、それを黄色のヨーヨーにくくりつけられた輪に向かって通そうとした。しかし何度やっても上手くいかない。
少し強めに手を動かした途端、紙の糸はちぎれ針が下に落ちた。
「あー、残念」
クスクス笑いながら千花が僕の肩を叩く。何だか悔しくなり、ついついもう一度糸を買ってしまった。
悪戦苦闘したものの、今度は上手く輪に引っかけすくい上げることができた。が、手の上に置こうとした直前で糸が切れる。
「あ――」
反射的に目を店のおじさんに向ける。彼は無言で頷き、右の手のひらをこちらに向けた。「いいよ」ということらしい。
僕は軽くおじさんに会釈をし、それを受け取った。
別にヨーヨーが欲しかったわけではないので、それを千花に渡す。ただ水をつめただけの風船なのに、彼女は大事そうにそれを手の中に抱えた。
そのまましばらくぶらぶらと二人で道を歩く。大きめなお寺の敷地を使った祭りであるため、賑わってはいたけれど、人が多すぎて歩けないといったようなことはなく、スムーズに進むことができた。
隣を歩く彼女の横顔は、年相応の少女そのものだ。いつものように大人びた雰囲気もなく、純粋にこの場の雰囲気を楽しんでいるように見える。
「あれ、皐月ちゃん?」
道の先を見て、千花が声を漏らす。いくつか屋台を挟んだ先、境内へと続いている階段の前に、着物を着た皐月さんとスタイリッシュが座り込んでいた。どうみてもデート中のようだ。
視線に気がついたのか、スタイリッシュが顔を上げる。彼は一瞬ぎょっとした表情を浮かべたあとに、観念したように曖昧な笑みを浮かべた。
「あ、千花ー。おひさー」
お気楽な調子で手を振り、腰を上げる皐月さん。僕たちはすぐに彼女たちの前へ移動した。
「二人も来てたんだね」
「まぁね。めったにないこの町の娯楽だもん。楽しまなきゃ」
皐月さんは実にのんびりとした表情で千花に答える。僕はスタイリッシュへと顔を向けた。
「やあ」
「ああ。穿も来てたんだなぁー」
「偶然目に入ってね。そっちは、デート?」
「まぁ、そういうことになるんかなぁ……」
もじもじと自分の手をこすり合わせるスタイリッシュ。何だか初めて恋をした中学生のようだった。
「てか、お前もそうだろ?」
「いや、僕は……」
デートのつもりはなかったが、傍から見れば完全にそれである。千花がどういうつもりにしろ、ここで否定しても納得はされない。僕は複雑な思いで答えた。
「まぁ、そうかな」
「ふぅ~ん。まあ、お互い今更って気がするけどなぁー」
意味ありげな視線をこちらに向ける。
「せっかくだし、一緒にまわるー?」
スタイリッシュの腕に手を回し、皐月さんが首を傾ける。学校では見られないいちゃつきぶりだった。
「いいよ。二人の邪魔になるもの。また今度一緒に遊ぼう」
僕のほうを軽く向きながら、千花はそう言った。
「ええ? 気にしなくてもいいのに。真矢も千花もそんな遠慮しすぎじゃない」
「日比野さんも来てるの?」
気になったので、聞いてみた。
「真矢は来てないよー。昨日誘ったの。同じような理由で断られちゃったけどさぁ」
「毎日学校に行ってるらしいね。何だか忙しそうだって聞いたけど」
「――ああ。真矢、何か調べものしてるみたいなんだぁ。ほら、この前一校の和泉さんが、亡くなったでしょう? ……何かその死因が気に食わないとかで……」
どことなく重々しい表情で皐月さんは説明した。
和泉さんの死には、間違いなく‶触れない男〟たちの同類が関わっている。日比野さんは調べ者が得意だから、変に深入りしなければいいんだけど……。
少し不安になる。僕の表情を読んでかスタイリッシュが声をかけてきた。
「まあ、いつもの趣味だろうなぁ。亡くなった理由が妙にオカルトじみてるらしいんで。そんな心配することないって」
「オカルトじみてるって?」
これは千花。
「彼女、全身が一気に毒に変化したみたいなショック死をしてたんよ。心不全だって。普通ならばあり得ない状態だって。だから気になったみたいで」
全身の血液が毒に変換? 心不全? どこかで聞いたような……。
自然と瑞樹さんのことを思い出す。白い肌の少年と一緒に行動していたという彼女の話。まさか、同じ犯人なのだろうか。
「ちょっと、スタイルくん。せっかくのデートであんまりそういう話はよそーよ」
話がどんどんシリアスな方向に向かい始めたところで、皐月さんがふて腐れたようにスタイリッシュの腕を引いた。じーっと、彼の顔を見上げている。
「ああごめん。ちょっと脱線しすぎたなぁ。まあ、気になるんだったら、日比野に聞いてみ。いつもあのプレハブにいるから」
「ああ。わかった」
僕は明るい表情を作り、頷いた。
「さて、俺たちこのあと向こうの広場でやってる大道芸を見に行くつもりなんだけど……」
「まだもうちょっと見て回りたいところがあるから、いいよ。二人で楽しんできて」
やんわりと千花が断った。
「そうか。じゃあ、暇になったらまたみんなでどっか行こうか。せっかくの夏休みなんだからなぁ」
「そうだね。今度は植物園とか行ってみる?」
「ああ、北のほうにあるらしいね。面白そうだけど、蟲とか多そう」
少し恐々とした表情で皐月さんが言った。
「じゃぁ、またなぁ」
手を振り、階段の左方向に去っていくスタイリッシュと皐月さん。僕たちは何を言うともなく、その背を見送った。
2
一通り店を観て回った後、僕たちは一休みするために丘上の本堂付近へ移動することにした。長い階段を上がるのは少しこたえたけれど、込み入った話をするのなら、人が少ないにこしたことはない。
少し年季が入ってくたびれているものの、正面にあるお寺は実に立派なものだった。下の喧騒など意に介さないように、静粛な雰囲気が辺りに満ちている。
――ここに来るのは瑞樹さんの葬式以来か。
あのときの様子を思い出し、僕は僅かに目を伏せた。棺桶に入った彼女の物言わぬ顔がまぶたの裏に浮かぶ。
まるでただ寝ているだけのような、今にも起きて来そうな、彼女はそんな表情をしていた。僕の記憶には珍しい、静かな死に顔だ。
「あれ、君は……」
「あっ――」
不意にさざ波のような心地よい声が聞こえた。黒い着物に古風な下駄。見覚えのある男が立っている。確か瑞樹さんの葬式で会った人だ。
「修玄……さん?」
「やあ、名前覚えてくれてたのかい」
彼はちらりと千花の姿を見ると、
「デートかな? 可愛い子だね」
「いえ、違いますよ。たまたま近くを通ったら祭りがやっていたので」
「そうなの。お似合いそうなのに。――もうだいたい見て回ったかい?」
「ある程度は。修玄さんは……掃除ですか?」
僕は彼の手の中にある箒を見てそう質問した。
「そうだよ。この時間は落ち葉が多くなるからね。それと、本堂にマナーの悪い人が行かないようにするための、見張りさ」
茶目っ気のある表情で小さく歯を見せる。
「最近は物騒な事件が多いだろう? 寺のみんなは結構忙しくてね。だからこういう雑務は小坊主や僕のところに回ってくるんだ」
「お坊さんじゃないんですか?」
不思議に思ったのか、千花が興味深そうに伺った。
「うん。僕は居候でね。ここで少し人生経験をつませてもらっている。――……っていうと何だかかっこよく聞こえるけど、本当は会社を首になって行き場がないから助けてもらってるだけなんだけどね。ここの住職とは前から知り合いだったから。まあ、次の就職先が見つかるまでの間だけだけどね」
「へぇー、そうなんですか」
「まあ、でも今のご時勢、ある程度大きな経歴でも持ってないと、なかなか新しい仕事先が見つからなくてね。なかなか大変だよ」
凄くしみじみとした調子で彼は軽く頷いた。
風に揺らされて、数枚の葉が周囲に舞う。修玄はそれを眺めると、穏やかな瞳でこちらを見返した。
「……さて、二人の邪魔をしちゃ悪いし、僕はそろそろ向こうに行くよ。屋台を探してここまで上がってきたわけじゃないんだろう?」
「いや、僕たちは少し休憩したくて」
「そんなに照れなくてもいいよ。まあ、向こうにある本堂の敷地に入らなければ、ここはなかなか素晴らしい憩いの広場だ。好きなだけ涼んでいくといい。ただ、あんまり遅くまでいるのはダメだよ。さっきも言ったように最近は物騒な事件が多いし、祭りの時間帯がこんなに早くなったのもその影響なんだから」
「わかりました。気をつけます」
僕は真剣に頷いた。
修玄はそのまま回れ右をしようとしたが、急に思い留まったようにこちらを振り返った。
「――……何か悩み事でも出来たら、いつでも来なよ。ぼくはまだしばらくはここに居るから」
「あ、はい。ありがとうございます」
再び、落ち葉がひらひらと目の前に舞った。
寺の左方向に進むと、階下を一望できる場があった。半円を描くような手すりの前には石台があり、どうもそれが椅子の役目を果たしているようだった。
下を覗くと、多くの人々が敷地を行きかい祭りを楽しんでいる。
「みんな楽しそうだね」
髪を耳に掛けながら千花が口を開く。白い髪留めが太陽の光に反射して一瞬きらめいた。
「そうだね。この町に着てから、これほどたくさんの人を初めて見たよ」
「私も浴衣着てくればよかったかなぁ」
「まあ、着てきてくれたら僕は嬉しいけど」
「嬉しいの?」
無垢な表情をこちらに向ける千花。
「それは、ほら、やっぱり女の子のそういう格好って、凄く可愛いと思うし」
「穿くんもそういうこと思うんだ」
どこか意外そうにくすくす笑う。
それっきり二人とも黙り込む。特に会話はなかったのだが、こうして二人で過ごしていると妙な心地よさがあった。千花もかなりリラックスしているように見える。
僕の視線に気がついたのか、不思議そうに千花がこちらを見返す。僕は慌てて視線を階下に戻した。道行く人を眺めるフリをしながら、もう一度だけ彼女のほうに目を向けると、少しだけ微笑んでいるように見えた。それで余計に、僕は恥ずかしくなってしまった。
どれだけそうしていただろうか。
風がかすかに涼みを帯び、真下を歩いている人の数も増え始めた頃、ぼそりと、千花がつぶやいた。
「ねえ、穿くん。昨日の話、覚えてるかな?」
「……僕に嘘をついているってやつ?」
「そう」
手すりを掴んだまま、彼女は振り返った。
「本当は言うつもりはなかったんだけどね。穿くんが‶もう一人の私〟を見ているなら、話しておいたほうがいいと思って」
「やっぱり、自分でも気がついてたんだね」
「それは、当然だよ。知らない間に服装が変わったり、違う場所に居たり、違和感を感じないほうがおかしいもの」
「いつから、そういうことになってるの?」
僕は淡々とした調子で耳を傾けた。
「んー、いつからかなぁ。意識し始めたのは中学三年のときからだけど、たぶん、一番最初に起こったのは、あのときだと思う」
「あのとき?」
「私、中学一年の途中で引越したでしょ。それって、一度誘拐されかけたからなんだ」
誘拐……。
僕は五業との争いの最中に見えた、幼い少女の記憶を思い出した。あれはやはり、千花のものだったのだ。
「知らない男たちに車の中に引き込まれそうになった瞬間気が遠くなって、気がついたら男たちは倒れていた。私が混乱したまま突っ立っていると、彼らは何かに乗り移られたみたいにふらふらと立ち上がって、そのまま車に戻っていって……たぶん、あれが最初」
「……その誘拐犯たちは、捕まったの?」
「ううん。警察の人にも協力してもらったんだけど、一向に手がかりがつかめなかった。でも、それから変な出来事が相次ぐようになって、通学途中に人の視線を感じたり、男の人が外から家の中を覗いてたり。両親は引越しを決意したんだけど、その当日にまた変なことが起こったの」
千花は心苦しそうに上を向いた。
「家でいくら待っていても、お母さんたちは帰ってこなかった。それで仕方がなく次の日に、私も新居に移動してみたの。もしかしたら向こうで待っているかもって思ったから。そしたら、どうなったと思う?」
何も言わず、僕は彼女の言葉を待った。
「二人とも元気にそこで生活していたの。いつもと同じように夫婦睦まじく。私は何よと思って家の扉をノックした。一人娘をほうっておいて、どういうつもりなのか問いつめたかった。けどね。私の顔を見たあの人たちは、「どちら様ですか?」って言ったの。冗談でも嫌がらせでもなく、本当に始めて見る相手に対するように」
「……まさか、記憶が?」
「うん。お母さんも、お父さんも、私のことを綺麗さっぱり忘れていた。どれだけ私が訴えても、頭のおかしい子のようにこっちを見てきた。私は泣きながら引越し前の家に戻った。けど、そこにももう居場所はなかった」
家には不動産屋の差し押さえが入り、それでも残ろうとすると、数日前に自分を誘拐しようとした男たちが姿を見せたのだと、千花は説明した。
「私は逃げた。必死になって逃げ続けた。行く場所も何もないから、乞食のように振舞って道路で寝ることもしょっちゅうだった。危ないと思うときも何度かあったけれど、その時に意識が遠くなって、気がついたら違う場所にいた。今になって思えば、あのときも彼女が出てきてくれたんだろうね。だから私は捕まらずに済んだ」
「じゃあ、君は今までずっと逃げ続けてきたの? その怪しい男たちから」
「うん。そう。蓮見なんて苗字も、お父さんが再婚したって話も全部でたらめ。本当は、私はただ逃げてきただけ。あの怪しい男たちから、もう一人の自分から」
「千花……」
愛する家族にその存在を否定されるのは、信じられないほどの苦しみだろう。僕は、僕の我儘によって母を失くしてしまった。けど千花は、彼女は何も悪くはない。何もしていないのに両親からその存在を否定され、意味もわからず謎の男たちから今日まで逃げ続けてきた。幼い少女がたった一人で。
話を考察するに、彼女の両親の記憶を奪ったのはカナラしかありえない。それがどっちのカナラなのか、千花の両親を追手から守りたかったからなのかはわからないけれど、残酷な真似をすると思った。
「千花。君は何でこの町に残ってるの? ‶触れない男〟たちが出て、こんな危険な目に遭っているのに。逃げようと思えばいつでも逃げれたはずだろ」
「最初はそのつもりだったよ。〝触れない男〟に襲われて、いつもの追手がやってきたんだと思った。でも穿くんに助けられて、一緒に行動しているうちに、逃げたくないと思ったの。これを逃せばもう二度と自分を追っている人たちの正体が掴めない気がしたから」
もういい加減逃げることにも疲れたのだろう。一人でずっと逃げ続けることはきっととてつもなく辛いことだ。知り合いも出来ず、家族もなく、ただひたすらに得体の知れない相手から隠れ続ける。それがいい選択か悪い選択かはわからない。けれど、千花は同じような境遇を持つ僕に出会ったことで、逃避を諦めた。立ち向かうことを選んだ。逃げ続けていては何一つ解決しないから。
「……僕は君のもう一人の人格に心当たりがある。彼女は〝カナラ〟だ。それも、僕と別れる前の幼い頃の」
「それって、‶触れない男〟たちが私だと勘違いしてるって人だよね」
「そう。五業の話によれば、彼らはカナラの起こせる現象に興味をもって、その身体を狙っていた。ずっと追いかけていた。たぶん、三年前のあいつも。だからもしかしたら、君に起こっている異常も、怪しい男たちから追われていた理由も、彼女が関係していたのかもしれない」
「……そっか。じゃあ、やっぱり完全な勘違いってわけじゃなかったんだね」
どこか寂しそうに千花は目を伏せた。両手をお腹の前で組み握り締める。
その表情があまりにも寂しそうだったので、僕は思わず彼女の手を取った。
「え、せ、穿くん? どうしたのかな?」
キョトンとした表情のまま、一瞬にして顔を赤くする千花。僕はかまわずに手に力を込めた。
「千花。何で君の中にカナラがいるのかはわからない。けど、それが原因で追われているのなら、カナラさえ見つければ元に戻れる可能性は高い。君も君の両親も。確かに簡単なことじゃないけど、僕たちはもう三度あいつらから逃げ延びた。これからだってきっとできるはずさ。だから千花、諦めないで一緒に頑張ろう。一緒にカナラを……」
「穿くん、い、痛い」
そこでようやく自分が彼女の手を握り締めていたことに気がつく。僕は慌てて手を離した。
「ご、ごめん」
千花は片手を胸の前に持ち上げたまま、僅かに上気した表情でこちらを見上げた。
「大丈夫だよ、穿くん。別に落ち込んだわけじゃないよ。今まで私は自分が何で追われているのかも、何もわからなかった。ただ、逃げ続けることしかできなかった。でも、この町で穿くんに再会したおかげで、前に進むことができた。本当の私を知っているあなたに会うことで、大きく慰められた。だから、たとえどんなことがあっても諦めたりはしない。諦めなかったおかげで、こうして生きているし、穿くんに会えたんだから」
まっすぐにこちらを見つめる彼女。僕はその瞳から目が離せなくなった。太陽のようなカナラの視線とは違う、儚いけれど、その中に強い芯の通った瞳。思えば、僕はずっと昔からその瞳に――
頭に痛みが走る。
急に脳の中で火花が散ったような気がした。
「せん、君?」
「ああ、何でもないよ」
僕は前頭部を撫でながら丘の下に視線を戻した。気のせいか先ほどよりも僅かに人が増えたような気がする。
「また今後、ちゃんと時間があるときに来たいね」
風に揺れた前髪を掻き揚げながら千花が微笑む。光が反射して、彼女の髪そのものが黄金色になったかのように見えた。
「ああ。そうだね」
僕は心の波を押し殺すように、そう答えた。
3
一之瀬刑事から電話が入ったのは、十七時半に差し掛かった頃だった。
どうやら仕事の関係で署外に出ていたらしく、戻るのも面倒なため、北区の文化センターで待ち合わせたいとのことだった。
僕たちはちょうど北区に居たということもあり、そのまま徒歩で文化センターまで移動することにしたのだが、意外と時間がかかり、文化センターに到着したのは待ち合わせ時間の一分ほど前だった。
「やっと着いたー」
建物の前にある広場に足を踏み入れた途端、千花が小さく笑みを浮かべた。額にはいくつもの雫が浮かんでいる。
「意外と時間がかかったね。もっと近いと思っていたんだけど」
そう答えながら、僕は周囲を見渡した。
広場と道路の境目には奇妙なオブジェクトがいくつも並び、まるでイギリスにあるストーンヘンジのようだった。景観を良くするためだろうか。道路や広場の周囲には、桜の木々が並んでいる。
僕の視線を追いながら、千花は手を後ろに組んだ。
「明社町には高い建物が少ないからね。結構遠くでも近くに見えちゃんだよ。今度来るときは自転車で来よう?」
「そうだね。そのほうがいいかも」
もっともな意見だと思い、僕は頷いた。こんな炎天下の中、毎回へとへとになりながらここまで来る根性はない。
「あそこが入口みたいだね」
自転車から降り、正面にあるガラス張りの入口を指差す千花。菱形状のオブジェクトのちょうど真下に位置しているそこは、何だか宇宙船の入口のようにも見えた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
入口をくぐり抜けロビーのような場所に出ると、そこはかなりの広さだった。休憩用の椅子や待合席のようなもの、マーライオンの偽者まで置いてあった。
僕たちはロビーの中央にあったエスカレータに乗って上に向かった。吹き抜けになっているから、こうしてエスカレータに乗っているだけで屋内の全体を把握することができた。
「穿くん。あの菱形のところって、展望台になっているんだって」
「展望台? 面白そうだね。時間があったら、後で行ってみようか」
「そうだね。ついでに行ってみようよ」
千花は緊張を押し隠すように笑みを浮かべた。
三階ほど上がった頃だろうか。上にCalmeという看板が見えた。一之瀬刑事と待ち合わせをしているカフェだ。
僕たちは緊張した面持ちで渡り廊下に出ると、お互いの顔を見合わせてからカフェの中に入った。
店内に人はほとんどおらず、どことなく空気がからからしていた。奥のほうを見ると、しわくちゃのシャツを着た中年の男性が、一人で端末を弄っている。僕たちはなるべく自然な動きでそこに向かい、彼の前に立った。
「お疲れ様です」
「おお、来たか。まあ座ってくれ」
一之瀬刑事はまるで自分の子供に接するようにフランクな笑みを浮かべ、手を向かいの席に促した。座り際に彼の顔を見ると、薄っすらと伸びたひげが剣のようにぴんと張っていた。
一之瀬刑事は僕たちの顔を見比べると、端末を懐にしまった。
「悪いなぁ。ちょうどこの近くに用事があってな。ま、君たちにとってはここのほうがリラックスできるだろ」
「ありがとうございます。わざわざすいません。急な申し出をしてしまって」
僕たちは小さくお辞儀をした。
「それで、和泉結衣さんの話だっけ?」
「はい」
僕は神妙な顔で頷き、
「僕たちは何度か、彼女と一緒に遊んだことがあるんです。亡くなったという話を聞いて、とても信じられなくて」
「亡くなったのは、彼女の名前を騙った別人だよ。和泉結衣という女性は、この町のある場所にまだ存命している。君たちの知り合いっていうのは、そちらの方じゃないの?」
「ニュースを見て気になったので、僕もすぐに彼女に会おうとしました。第一高校の知り合いに住所を聞いて、彼女の家に行ってみたりもしたんですが、出てきた女性は、全くの別人だったんです。……本当に亡くなったのが僕たちの知っている彼女なのか。確認させてもらうことって出来ませんか。遺体はまだ警察署内に?」
話している内容に矛盾はないはずだ。僕は自分の言葉を頭の中で確認しながらそう質問した。
一之瀬刑事はじっとこちらを見返した後、
「通常身元不明の遺体は、検死を終えた後に原因がわからなかった場合、司法解剖へと回される。司法解剖は基本的に裁判所から依頼を受けた法医学部で実施されるんだが、今回の場合は特殊でね。亡くなった少女の遺体は、全身の血液が毒物に変質しショック死したような状態で発見されていた。三か月ほど前の古瀬瑞樹さんに続いて二例目となることから、感染病の可能性を危惧し、彼女の遺体はとある研究施設へ持ち運ばれることになったんだ。調査が終わるまでは遺族でも立ち会わせることは出来ない」
持ち運ばれることと‶なった〟?
嫌な予感がした。
「まさか、和泉さんの遺体はもう運ばれた後なんですか」
「ああ。感染症だった場合、広まったら困るからな。その研究所はそういった分野に関してはかなりの権威を持っている場所でね。特例中の特例で認められたんだ。司法解剖の手続きがこんな素早く進んだのは俺も初めてだよ」
どことなく気に食わなそうに、一之瀬刑事はつま楊枝を齧った。
これでは予定が破綻する。僕は何とかして情報を聞き出せないか焦った。
「いつ頃運ばれたんですか」
「亡くなった翌日の朝だ。つまり、昨日だな」
「確か、少し前に輸送中に事故にあった不審者も、研究所に運ばれたんですよね。もしかして、それと同じ場所ですか」
怪訝そうな表情で一之瀬は自分のあごを触った。こちらの質問の意図について、考えているのかもしれない。口に出した後に、僕はしまったと思った。
「……何故不審者の行先を気にするんだ? 確か君たちは和泉結衣について話をしにきたはずだったと思ったんだが」
その言葉の鋭さに息がとまる。口調も表情も穏やかだったが、有無を言わさぬ何かがあった。
これ以上続ければ明らかに不審に思われるだろう。だがそうなると、身分を偽造している千花がまずい状況になってしまう。もし警察内に敵の協力者がいれば、それだけでアウトだ。
非常に悔しいが、仕方がなくそこで引き下がることにした。
「すいません。あまり普段関わらない話だったので、ちょっと気になってしまって」
「まあ、普通の高校生はめったにこんな事件には関わらないからな。興味を持つのはわかる。だが、こっちにも守秘義務があるんでね。あまり関係ないことは聞かないでくれ」
「はい。すいません」
再び誤ると、それで一之瀬は満足したようだった。表情を崩し、先ほどまでと同じように笑顔を浮かべる。
横を見ると、千花が残念そうな表情を浮かべていた。
4
カフェを出ると、勝手にため息が漏れた。
想像していた以上に気を使ったらしい。どっと疲れが押し寄せてくる。
「大丈夫だったかな。ちょっと不審に思われてそうだったけど」
苦笑いを浮かべながら千花がこちらを向く。僕は手すりに腕を乗せながらそれに応じた。
「少しは変に思われたかもしれないけど、その程度だと思うよ。一之瀬刑事からすれば、僕たちが嘘をつく理由もメリットも存在しないはずだし」
「だったらいいんだけど。これで目をつけられるようになったら、少し面倒だね」
「……千花。君、戸籍とかはどうなってるの? 蓮見っていうのは偽名なんだろ」
「そうだけど、引越しとか住民票には問題なかったから、たぶん私が知らない間に‶もう一人〟が何かしてくれたんだと思う」
「そっか。じゃあそっちの心配はないね」
書類的な面で疑われることはなさそうだ。いくら怪しまれても、まさか尾行や張り込みまでされるようなことはないだろう。
「穿くん。これからどうする?」
その問いに何も答えることが出来ず、僕はうなだれた。
完全に打つ手が無しだった。既に回収されたとなると、和泉さんの遺体もすり替えられた後だろう。
今から搬送業者を追ったところで、何かがわかる可能性はかなり低い。
もう一度千花を狙ってきた‶触れない男〟の仲間が居たとしても、話を聞ける状況になれるかどうかはわからない。せっかく和泉さんはこちらを向いていてくれてたのに、黒幕につながる手がかりになりえたのに、その全てを無駄にしてしまった。
他の客が暑そうにカフェを目指して歩いてくる。僕たちを邪魔そうに見てきたので、とりあえず一旦落ち着ける場所に行こうかとエスカレータのほうに向かおうとした。だが数歩進んだところで千花が申し訳なさそうに足を止めた。
「あ、ごめん穿くん。ちょっと先に行ってて」
彼女の視線の先にはトイレがあった。そういえば昼過ぎからずっとそういう場所には近づいていない。
「じゃあ、下で待ってるよ」
僕は小さく頷き、そのままエスカレータの前へと移動する。
手すり越しに下を覗くと、先に下りていった一之瀬刑事の背中が見えた。ちょうど出口から外に出るところのようだった。
背中の残像を追いながら、僕は小さくため息を吐いた。
「――……ん?」
手すりを離し、エスカレータに足を乗せようとしたところで、ふいに何かの視線のようなものを感じた。
本来、視線を感じるという現象は自分がその人物を見ているときにしか生じない。無意識に視界に入っていく人物の中に、たまたまこちらを向く目があった場合、それを自分の目が逆に捉えてしまうことで、初めてそれを視線だと認識する。
だが、今僕は確かに前を向いていた。まったく視界の外にある場所だったに関わらず、確かにそれを感じた。まるで呼び止められるように、肩を叩かれたかのように、ごく自然に何かの気配を察知したのだ。
探すまでもなく、それが後方からのものであるとわかった。斜め上、軽い屋内庭園のようになっている場所。そこに一人の少女が立っていた。
少し赤みのかかった長い髪の毛に、冷たく全てを透き通すような威厳のある眼。服装はだいぶ大人びたものを着ていたが、間違いない。‶彼女〟だ。
「カナラ……!」
とっさに、僕は呟いていた。
彼女は悲しそうな表情でこちらを見つめると、くるりと背を向ける。
幻覚じゃない。本物の彼女だ……!
僕は慌てて走り出した。逆サイドに回りこみ上昇するほうのエスカレータを駆け上がる。あっという間に二階ほど上り、彼女がいる階へと躍り出た。
やはり緑也の件は彼女がやったんだ。彼女が記憶を消した。
通路を走り先ほどみた屋内庭園の前に移動する。だがそこに、彼女の姿はなかった。ただ無数の花と植物が人口土の上に植え込まれている。
すぐに周囲に眼を馳せたが、どこにも人の気配はなかった。
幻じゃない。幻なもんか。記憶や人の精神を操れるカナラのことだ。きっと自分の姿を相手の脳に認識させないようにすることだって出来るのだろう。
「カナラ!」
強く呼びかける。だが返事はない。
どうして出てきてくれないんだ……!
僕は下唇を強く噛んだ。彼女に対する不満と怒りが溢れそうだった。
君が、君が全ての原因なんだ。君のせいで僕に蟲喰いが生まれ、千花はわけもわからず怪しい連中に追われるようになった。それなのに、そうやって遠くから見るだけで話そうとはしないのか。一体君は何がしたいんだ。
僕は苛立ちを発散させるように、小さく手すりを叩いた。
しばらくその場に立っていると、ポケットの中で端末が振動した。僕はため息を吐きながらそれを取り出し、耳に当てた。
すぐに千花の軽やかな声が染み込んでくる。
「あ、穿くん。どこにいるの?」
「ごめん。ちょっと僕もトイレに行きたくて。男子トイレは四階にしかなくてさ」
「じゃあ、外で待ってるね」
「ああ。すぐにそっちに行くよ」
端末をしまい、手すりから腕をどかす。
カナラに僕と会話する意思がない以上、このままここでこうしていても仕方がない。
深呼吸をすると、重い足を前に動かした。
屋内庭園から通路に戻り、エスカレータのほうに向かう。すると正面から真面目そうな少年が歩いてきた。手には本のようなものを持っている。図書館にでも行っていたのだろう。特に気にせず、僕は彼の横を通り過ぎようとしたのだが――
「‶本体〟を追わずとも、お前は既に分身を持っているだろ。彼女を使え」
すれ違いざまにそんな声が聞こえた。
なんだ? と思い振り返った瞬間、そこに真面目そうな少年はいなかった。――ただ、代わりに一人の少年が立っていた。真っ白な肌をした黒髪の、美しい顔立ちの少年が。
日比野さんの言葉が頭に過ぎる。瑞樹さんと一緒にいたという人物の話。それに、五業との争いのさなかに見えたあの腕。
「君は――」
声を出そうとした途端、視界から彼の姿が掻き消えた。まるでいきなり絵の具で塗りつぶされたかのように強引にその存在が見えなくなる。
「えっ?」
思わず周囲を見渡す。だが、確かに誰も居ない。カナラも、真面目そうな少年も、白い少年も。
――どうなってるんだ?
何がなんだかわからなかった。いつから僕はこんな幻覚を見るようになったというのだろうか。確かに過去の経験から悪夢を見ることは多々あったけれど、こんなことはこれまで一度だってなかった。
たらりと、一滴の汗がほほを流れ落ちる。
柑橘系の甘い香りだけが、かすかにその場へ漂っていた。
5
「やっぱり、一之瀬刑事から遺体搬送の担当者について、聞くしかないよね」
翌日の昼間。白い壁に覆われた僕と父さんの新居で、千花は困ったようにそう言った。
「うん。でもその方法がどうしても見つからない。どうすればいいんだろう」
僕は指遊びをしつつ、窓の外を眺めた。数匹のトンボが風とじゃれるように踊っていた。僕の様子を見て、千花が困ったように黙り込む。
テーブルの上においていたカップを手に取り、二口ほど口に含む。店員が分量を間違えたのか、いつも以上に苦い味がした。
しばらくそうして黙っていると、何やら千花の強い視線を感じた。
顔を上げると同時に、彼女の妙にキラキラした目が視界に入る。
「ねえねえ、穿。私考えたんだけど、一之瀬刑事を襲わせるっていうのはどうかなぁ?」
「えっ? 何言ってるの?」
「だってさぁ。一番の障害はあの人が私たちの状況を理解できないってところにあるでしょ? だったら一度‶触れない男〟たちの仲間に襲わせて、変な現象を見せてから説明すれば、協力的になってくれるんじゃない?」
「それは、可能性がなくはないだろうけど……。でも、もし一之瀬刑事に何かあったら? そんなに上手く襲撃の現場に居合わせて、しかもあの人を守りつつ襲撃者を撃退するなんて真似、かなり難易度が高いと思うけど」
「それを何とかするのが穿の仕事じゃん。大丈夫だって、今まで三回も彼らを撃退したんだから」
「そうはいっても全部ぎりぎりだったし、一歩間違えばいつ死んでてもおかしくは……」
「何とかなるよ。私も協力するもん」
ちょっとまて。何か変だ。千花らしくない。
にこにことこちらを見つめている千花を見て、僕はすぐに歯車が噛み合った。
「……‶カナラ〟?」
「あ、わかった?」
悪びれる素振りもなく、彼女は舌をちろりと覗かせる。僕はあごに手を置きながら、彼女を見返した。
「どういうつもりなんだよ。急に出てきて……。珍しいじゃないか。積極的にこんな話をするなんて」
「だって、穿ってそういう話するのが好きなんでしょ。いつもすぐに私の話を切り上げるし」
「おしゃべりは嫌いじゃないけど、そういう場合じゃないからね。優先順位が違うだけだよ」
「わかってるよ。だから、真面目な話をしてるんじゃん」
胸を張るように、‶カナラ〟は背を後ろに倒した。
参った。彼女が出てくると話が前に進まなくなる。どうせ質問には答えてくれないのだ。正直いって、今彼女と会話することは時間の無駄でしかなかった。
「ちょっと、今私のこと邪険に思ったでしょ」
「思ってないよ」
「嘘つきー。私わかるんだからね。そういうの」
「盗聴反対」
彼女の起こせる現象のことを思い出し、僕は面倒くさそうに呟いた。
「ああ~、またそうやってふて腐れる。いいもん。せっかく面白いこと教えてあげようと思ったのに」
「面白いこと?」
「教えないよー。穿は私と話したくないみたいだからね」
「悪かったよ。ごめんって」
そう言うと、‶カナラ〟は鼻をかすかに鳴らした。タピオカジュースを飲み込みながら、こちらを振り返る。
「――昨日の文化センター。たぶん、〝私〟中にいたよ」
「それは、本物のカナラがってこと?」
「そうだよ。あの文化センター、何だか入ったときから変な感じがしてたんだけどね。空気違うっていうか、重いっていうか、そこらじゅうに‶私〟の気配があったの」
千花はコップをテーブルの上に置いた。力が強かったのか、大きめの音が鳴る。僕は家財にひびが入らないか不安になった。
「ちょっと意味がわからないんだけど」
「私だってわからないもん。そうだったとしか言えないんだから。とにかく妙な場所で、どこにいても‶私〟に見られている感じがした。まるで頭の中に入られているときみたいに」
そこらじゅうというのは、あの文化センター全域を指しているのだろうか。いくらカナラが強力な現象を起こせる存在だとしても、それほど広範囲の空間に常に影響を与えられるはずがない。
「吹き抜けになってる場所だったから。上からだったら下のほとんどの通路を見れたからね。そのせいじゃないかな」
「そういう感じじゃなかったんだけど」
まったく腑に落ちないといった様子で、‶カナラ〟はコップを握り締めた。
本物のカナラ。
千花の中にいる〝もう一人〟が感じたのなら、それは確かだろう。やはり、昨日のあれは幻ではなかった。彼女は確かにあそこにいた。あそこで僕を見ていた。
そこまで考えて、僕はあの白い少年の姿を思い出した。
‶本体”を追わずとも、お前は既に分身を持っているだろ。彼女を使え〟
あれは、カナラのことを言っていたのだろうか。昨日は気がつかなかったが、今思えばそんな気がする。
本体があの場にいたカナラだとすれば、分身とは今僕の目の前にいる〟‶この子〟のことだろうか。あの白い少年は一体何を言いたかったのだろう。
じっと‶カナラ〟の顔を見る。にらめっこをしているとでも思ったのか、彼女もこちらを変な顔で見つめ返した。
いつ出てくるかわからないし急に消えるけれど、こうして話は出来るんだよな。千花もピンチの時はこの‶カナラ〟が助けてくれたみたいなこと言ってたし。
親指で他の指をこすり上げる。
――……そういえば、僕たちは一度たりともこの‶カナラ〟に協力をお願いしたことがあっただろうか。一度でも、まともに会話をしたことがあっただろうか。勝手に制御出来ないからと判断して、遠ざけていただけなんじゃないのか。
あの白い少年の言葉を思い返す。
彼が何者で、何故あんなことを話したのかはわからない。けど、その言葉から、僕はふとその事実に気が付いた。
「……カナラ」
「なに?」
「君に手伝って欲しいことがあるんだ」
微かに心臓の鼓動を速めながら、僕はそう言った。