表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
22/42

第二十二章 水面(みなも)の光


  1


 目覚ましの音がうるさい。

 これでもかと言わんばかりに己の存在を主張し、こちらの脳髄を揺さぶってくる。自分でセットしたはずなのに、いつもこの瞬間だけは、この小さく丸い物体が酷く憎たらしい生物のように思えた。

 僕がまぶたを上げないことに怒りでも覚えたのか、時計は小刻みに震えながらそのわめき声を肥大化させてゆく。

このままでは近所迷惑だ。そろそろ隣に住んでいる田中さん一家が、痺れをきらして襲撃してくるかもしれない。

 僕は仕方がなしにまなこを開けると、のんびりとした動きで時計のてっぺんを叩いた。しかし力が弱かったせいか、音は止まらない。扉越しに階段の下からお母さんの声が響く。今度はしっかりと拳の裏で時計を叩き、僕はその騒音に終止符を打った。

 人の視線がないのをいいことに、大きく口を開けてあくびをする。机の上に備え付けられた鏡を見ると、跳ね返りまくったくせっ毛に、寝すぎたせいで二重になった目が見えた。このまま下に降りれば、「年頃の女の子がなんて格好してるの」と、お母さんに怒鳴られてしまうだろう。

 崩れた顔の筋肉を戻すため、目を擦りながらベット横の窓を開ける。ソーダーのような爽快感を持った風が室内に飛び込み、今だ半覚醒状態の僕の精神を揺り動かした。目覚ましの音は嫌いだったが、この爽やかな風は好きだ。輝かしい朝日と風は目覚まし時計とは違って実に静かに、それでいて自然に僕の意識を確立させてくれる。

「よし、起きますか」

 自分の頬を軽く叩き深呼吸を行うと、僕はようやく、ベットから足を下ろした。



「夏帆、遅い」

 扉を開けリビングに足を踏み入れた途端、むっとした表情のお母さんがこちらを睨んできた。目覚まし時計を鳴り響かせたことについてではなく、単に起きる時間が遅いことを怒っているのだろう。

 僕はスカートの裾を持ち上げながら、マイペースに椅子に座った。既に食事を始めていたお父さんとお姉ちゃんが、何気ない表情でこちらに目を向ける。

「おはよう」

 僕がそういうと、お父さんは無言で頷き、お姉ちゃんは「おはよう」と軽く微笑んだ。

 そのままぼーっとテレビを見ていると、お母さんがコーヒーを目の前に置き向かいの席に座った。まだ固い表情のまま自分のカップに口をつける。

「……いただきます」

 テーブルの上には様々な種類のパンがひと口サイズに切り分けて並べられ、その横には高級なジャムやお母さんお手製のクリームなんかが置かれている。僕はトマトの入った卵焼きを小皿に移しつつ、ちらりとお母さんの顔をのぞき見た。タイミングが悪いことに、それで目が合ってしまった。

「――……夏帆、何でもっと早く起きれないの。目覚ましに気がつかないならともかく、あなた、最初から遅い時間に設定してるじゃない。いつも言ってるのに」

「だって、早く起きると授業中に眠くなるんだもん」

「だったら早く就寝すればいいだけでしょ。いつも夜中までテレビ見て……」

「まあまあ、お母さん。それぐらいにしておこう。説教してたら食事できずに遅刻してしまうよ」

 お父さんにそう言われ、仕方なくお母さんは言葉をそこで抑えた。ため息を吐きながら、再びコーヒーを口の中に運ぶ。

 流石に悪いと思った僕は、手を止め謝罪の言葉を述べた。

「ごめんお母さん。ちょっとあの番組が今クラスで人気だったから……今度から気をつける」

「あの番組って、中学生になったばかりの子が見るようなものじゃないでしょ」

「まあまあ、お母さん」

 再び文句を買いそうだったので、慌ててお父さんがそれを止める。僕を庇っているというよりは、単純に朝を静かに過ごしたかったからのように思えた。

 我が家の方針として、食器洗いや洗濯は家族全員で順番に行うことになっていた。家を出るのが早いお父さんは除外されるけれど、その他の女三人衆は、いつも代わりばんこにそれらの家事をこなしている。お母さんが僕の起床時間を責めたのも恐らくはそれが理由だ。今日は僕が食器を洗う番だったから、余計に怒っていたのだろう。

 色々なマーケットや販売店を通してお母さんが集めてきた、アンティーク調の高価な食器だから、ただこうして洗うだけでも神経を使う。もし割ってしまえば、その分お小遣いから削られてしまうことになるからだ。授業中よりも真剣にスポンジを動かし続け、全ての食器を洗い終わると、僕はようやく解放されたことに安堵し、肩の力を抜いた。



 笛の音を合図に水の中に飛び込む。真下に見える白い線を頼りに、反対側の壁を目指して一心不乱に腕と足を動かした。

 運動は元々得意な方だったし、小さな頃から習っていただけあって、水泳には自信があった。予想したとおり僕の手は一番最初に壁についたようで、待機していた生徒たちの中から驚嘆の声があがった。

「また一番か。早いな姫野は」

 色黒の若い体育教師が、白い歯を輝かせてこちらを見下ろす。セクハラじみた言動が多いと、女子の間で迷惑がられている男だ。もっとも僕のプロポーションでは彼の興味を引くことはないだろうが。

 中学生になり、皆が大人への階段を上がっていく最中、未だに僕の胸はまな板のままで、背も子供のように低い。誰にも話したことはないけれど、それがちょっとだけコンプレックスだった。

 僕は何も言わずに待機場まで戻ると、そっとその場に座った。

「また一番じゃん。さっすがぁー」

 クラスメイトの久美くみが肘でこちらをつつきながら微笑む。僕はちらりと彼女の小さな目を一瞥いちべつし、前髪に垂れてきた水を片手で拭った。

「水泳は昔から得意だったから。それに、水の中にいるのは好きだし」

「気持ちいいもんね。こういう夏場は特に」

「……うん。水の中にいれば、何だか自由になった気分になれる」

「なにそれ? 自由じゃないの? 夏帆ちゃんは」

 僕の台詞を聞き、久美は可笑しそうに体をゆらゆらと前後に揺らした。笑うときに一瞬声が高くなるのが、彼女の特徴だった。

「う~ん、どうなんだろう」

 僕は本気で悩んでみた。

 今の僕が自由か自由でないかは、‶自由〟という言葉の定義にもよる。

 これは僕の持論だが、人は元来、自由なのだ。

 人は生まれつき完全に自由であるからこそ、お金持ちになる者、貧しくなる者に分かれる。努力の末大金を手にした男の息子が、何の苦労もなく大人になるまで成長するのも、それは自由によって父が稼いだ結果でしかないし、逆に貧乏な家に生まれたことで、何クソと思い必死に努力して上り詰めるのも、また自由による結果だ。

 全ては過去の行動に基づいた連続される自由の結果。自由だからこそ、人は苦痛を味わうし、また幸せを得ることもできる。もし誰もが等しくお金を持ち、家族を持ち、仕事を行える世界だったのなら、それはもはや自由ではない。共通という名の鎖に束縛された、ただの奴隷だ。人は自由だからこそ、過ちを犯し、失敗し、また成功する。成功の意味を、幸せという概念を理解することができる。

 だから両親の加護下にある僕は、ある意味では自由でないと言えるし、個人的な感傷を阻害した目でみれば、大いに自由な立場にいるとも言えるのだった。

 悩んだ末に、僕は今の自分の立場をもっとも的確に表現した台詞を吐いた。

「……少なくとも、義務教育という名の拘束を受けている」

「なんだそりゃ」

 きょとんとした顔で僕の言葉を一笑し、久美は小さく笑った。

「相変わらず夏帆はわけわからんところあるなぁ」

「別に、……普通だと思うけど」

 ちょっと心外だったので、僕は頬に微かな力を込めながらそう答えた。

「なんていうの? 感覚が独特っていうか、時たまポエマーみたいなこというよね。それも伝わりにくい」

「……ポエマー?」

 僕は体を大きく後ろに倒し、手のひらで体重を支えた。

「私、詩なんか作ったことないけど……」

「そういう意味じゃないって」

 再び、可笑しそうに笑う久美。僕が首を傾げていると、順番が来たのか、彼女は静かに立ち上がった。

「ま、面白いからあたしは好きだけどね。――じゃ、ちょっとやってくる」

 プールの端に向かって遠ざかっていく彼女の背中をしばらく眺めたあと、僕は悩むのをやめ、目の前に広がっている青い模様へ視線を移した。どうせ考えても意味はない。僕は僕以外の誰でもないのだから。

 雲が少ないせいか、いつも以上に光の乱反射が激しい。僕は目を細めるように波打つ水面を見つめた。

 水は好きだ。特に朝日を受けた輝く水は。

 今が夏であることを強く実感できるし、ゆらゆらと好きなように動いている様は、見ていて面白い。普通に見ればただのプールでしかないのたが、こうしてじっくりと眺めていると、生き物のようにその相貌を変化させ、見ていて飽きることはなかった。反射している光はそれぞれがお互いに会話をしているかのようで、想像すると楽しかった。

 習い事や両親の作ったルール。面倒なものを全て投げ捨てて、僕もあんな風に自由になれればいいのにと、そんなことを願った。

 暇つぶしの空想。

 ただの戯言。

 そんなことをちょっぴりと考えるだけで、何となく両親に逆らっているような、自分の意思で生きていると実感できるような、小さな優越感を感じることができた。意味のないごまかしに過ぎないことはわかっていたけれど、ストレス発散の手法として、僕はよくそんな空想を抱いていた。



  2


 玄関を開けると、珍しいものがそこにあった。お父さんの靴だ。

 ――もう、帰ってきたの? 今日は早いなー。

 最近の父は十時を過ぎてから帰宅することが多かったので、新鮮な気分になる。平日では久しぶりの家族揃っての夕食だと、少し嬉しく思った。

 靴を脱ぎ、丁寧にそろえて下駄箱の中に仕舞い込む。僕の場所は上から三段目と決められていたので、仕舞うためには少し背伸びしなければならず、いつもながらこの作業がちょっと面倒だった。

 廊下を歩き、リビングへと出る扉のノブに手を乗せる。開けようとしたところで、不意打ちのように怒鳴り声がそこから突き抜けてきた。

「――……だから、何でそうなるのよ!」

 お母さんの声だ。確かに彼女は怒りっぽいし、よく父と口ケンカしていることも多かったけれど、これほど攻撃的な声は初めて耳にした。思わず伸ばしたままの腕が止まる。

 なに? どうしたの?

 僕は不穏な気配を感じて、そっと耳を扉に押し付けた。

「どうするのよこれから。美帆の大学費は? 夏帆だって来年は高校受験が始まるのに」

「……すまない」

「すまないじゃないでしょ! だからどうするのって、言ってるの」

 カップを置いた音だろうか。聞こえた場所から推測するに、恐らくお父さんの行動だろう。

「とりあえず、貯金を崩すしかない。数か月分の生活費はそれでどうにかなる」

「数か月分だけでしょう? もしそれまでにうまくいかなかったら、どうしようもないわよ」

「わかってるよ。ちゃんとわかってる。でも、今はこれしか方法がないだろ?」

「何がこれしか、よ。そうやってすぐにその場しのぎで逃げようとする。いっつもそう」

 僕はそっとドアノブから手を離し、鞄を下に置いた。

 一体なんの話をしているのだろうか。よく事態がつかめなかったが、かなり危ない雰囲気のようだ。何だか突然、冷や水を頭に浴びせられたかのような気分だった。

 中に入って状況を確認しようか迷ったところで、声の続きが聞こえてきた。

「あなたってほんと、いい加減よね。前に綾香ちゃんへのプレゼントを選んでいたときも、私が選んだ候補をまともに見もしないで適当に決めてたものね。ほんと、都合が悪くなるとすぐにそうやって逃げようとする」

「今、その話は関係ないじゃないか……」

 突然姪の誕生日の話を持ち出されたお父さんは、うんざりしたように大きな息を吐いた。

「もういい。とにかく今はしかたがないからな。……来週までは仕事があるし、俺は寝るよ」

「ちょっと、まだ話は終わってないでしょ」

 お母さんが声を荒げたが、お父さんは反応しなかった。扉のガラス越しに、薄っすらと大きな黒い影が見える。

 まずい……!

 僕は慌てて鞄を拾い、自分の肩にかけた。一瞬迷ったものの、引き返そうとした足を前に押し出して扉を開ける。手を伸ばしたお父さんと目が合ったのは、ほとんど同時だった。

「――あ、ただいま」

 「今来ましたよー」という顔で声をかける。お父さんは一瞬目を見開いたあとに、気まずそうに顔を伏せた。

「おお。おかえり」

 それだけ言って廊下側に出る。僕は内心どきまきしながら父の姿を見送った。

「どうしたの? 何か騒がしかったようだけど」

 表情を変えずに尋ねる。母はいらいらしたように指を動かしていたけれど、僕の顔を見てようやくそれを止めた。

「遅かったじゃない」

「ちょっと友達と話し込んじゃって。ごめんなさい」

「……ごはん、できてるから食べて。お母さんたちは先に頂いちゃったから」

「うん」

 テーブルの上に目を向けると、ほとんど食されていないおかずが沢山あった。どうやら二人とも食事どころではなかったらしい。あれだけヒートアップしていたのだ。無理もないと思った。

 居心地の悪い雰囲気に耐えながら、荷物を置くために自分の部屋がある二階へと向かう。自室に入り鞄を投げ捨てると、僕はすぐに廊下へでて隣の部屋の前に立った。

 ノックもせずに扉を開け、ベッドの上であられもない格好でくつろいでいるお姉ちゃんに声をかける。

「ねえ、お父さんたち一体どうしたの?」

 僕の声を耳にすると、彼女はカバのようにのんびりとした動きで身体を起こした。

「……聞いたの?」

 いつも眠そうな顔をしていたお姉ちゃんが、珍しく真剣な目でこちらを見上げる。

 僕は机の前で飛び出したままの椅子に跨ると、背もたれを足で挟むようにベッドのほうを向いた。

「下で、ケンカしてた。かなり深刻そうだったけど」

 お姉ちゃんは手に持っていた携帯端末を枕元に投げ捨てながら、

「そう。……あのね、夏帆。落ち着いて聞いてね。――お父さん、会社クビになっちゃったみたいなの」

「クビ!?」

 衝撃的な言葉に、僕はわが耳を疑った。この家でそんな単語を耳にするとは夢にも思っていなかったからだ。

「なんか、お父さんの在籍しているグループが不正を働いていたらしくてね。お父さん自身はそれには関係していなかったみたいなんだけど、部下の責任を取らされる形で……」

「そんな、どうするの?」

「どうもこうも、仕方ないでしょう。一度そういう決定が出されたら、もう覆ることはないよ」

 まるでドラマの出来事を話すように、お姉ちゃんはなめらかにそう言った。

「でも、生活費とか、どうするの? この家だって新築したばかりなのに………」

「お父さんは貯金を崩せばなんとかなるって話してたよ。その間に新しい仕事を見つけるしかないんじゃないかな」

 あえて明るく振舞っているのか、お姉ちゃんは表情を崩さずそう言った。

 何で急にこんなことに……。

 僕は頭を抱え込んだ。ショックが大きくて、言葉が出てこない。ただ不安だけがそこにあった。

 僕の様子を見たお姉ちゃんは、ベッドの上から立ち上がると、そっと肩に手を乗せてきた。優しく微笑みながら、慰めるように軽く叩く。

「まあ、お父さん、優秀だったみたいだしさ。友達も多いし、すぐに新しい仕事を見つけられるよ。心配ないって」

「そうかなぁ……」

 その言葉を信じていいのかは疑問だったけれど、彼女の言葉を聞いたことで、少しだけ心が落ち着いた。うながされるように大きく息を吸い込む。

 僕はあんまり感情が顔に出ないたちなのだが、お姉ちゃんはこうしてすぐにこちらの変化を読み取って、気を使ってくれる。こういうときは彼女の存在はとてもありがたい。僕にとってお姉ちゃんは、正直、お母さんよりもお母さんらしかった。

 扉越し、階段の下からお母さんの声が聞こえてくる。食事のことで呼んでいるのだろう。僕が顔を上げると、お姉ちゃんは小さく頷いた。

「いこっか。私もまだ夕飯食べてないから」

「……うん」

 あの場で一人の食事は気まず過ぎる。こういうことを考えて、時間を合わせていてくれたのだろうか。いや、流石にそれは考えすぎかもしれないけど。

 再び、お母さんの声が響く。これ以上待たせれば、彼女の堪忍袋の尾が切れそうだ。僕は椅子から立ち上がると、お姉ちゃんと顔を見合わせ小さく苦笑いを浮かべた。



  3


「夏帆、今日無理~?」

 狭い廊下に久美の伸ばした声が反響した。

 僕はすぐに帰りたかったのだけれど、下手に無視したり不自然な行動をとれば、彼女に怪しまれてしまう。仕方がなくいつもどおりの表情を作り、後ろを振り返った。

「――……無理って?」

 久美は小走りで近づいてくると、

「ほら、前に話したじゃん。サッカー部の先輩たちと祭りに行くって話。今日だよ、今日」

「……ああ」

 僕は今思い出したというように、少し斜め上を向いた。靴の跡のついた天井が目に入る。

「美沙とかすごい期待しちゃってさぁ。朝からその話しかしてないでやんの。――夏帆も行くでしょ?」

 当然、というようにこちらを見つめる久美。僕は大変申し訳ない気持ちでいっぱいになりつつ、

「ごめん、ちょっと今日は時間がないから……」

「習い事?」

「そんなところ」

 あまり問い詰められたくはなかったため、強引に話を切り階段に足を踏み下ろす。久美は不信そうな目でこちらをみていたけれど、追及はしてこなかった。

 僕は大きなため息をついた。習い事なんてもう、何一つ通っていない。収入のない状態では、あれは大きな損失となる。お父さんは気にするなと言っていたけれど、どう考えてもそんなものにお金を払っている状況ではないと判断したため、お姉ちゃんと相談して、辞めることにしたのだ。塾はともかく、大好きだった水泳に通えなくなることは辛かったが、仕方がない。無事にお父さんの仕事が見つかれば、また頼み込んで通わせてもらえばいいだけの話だ。

 気持ちを切り替え、前を向く。犬の散歩をしているおばあさんの姿が目に入った。

 えーっと、今日は洗濯して、夕飯を作って、それからお風呂の掃除をして……。

 父は仕事探で忙しいし、母もパートを始め、姉もバイトで家に居ないから、家事を行える余裕があるのは僕だけだ。いまや帰宅後の時間はほとんど全てそういった雑務に追われ、まともに自分の時間を過ごす余裕すらなかった。

「明日の宿題、どうしようかな……」

 下駄箱の前まで移動し、ため息混じりに呟く。これまで成績優秀で通ってきていたから、今更誰かのノートを見せてもらうこともできはしない。やっぱり寝る時間を延ばして頑張るしかないかと、陰鬱な気持ちで己を納得させた。



  食べ終わった自分の食器を洗っていると、お母さんが帰ってきた。

 お金に余裕なんてまったくないはずなのに、手にはパンパンに詰まった袋がふたつも握られていた。

「ただいま。美帆は? まだバイト?」

「うん。最近毎日行ってるから。その袋、どうしたの?」

「安かったから買ちゃったのよ。レイルド・リッチのケーキとか、色々。夏帆も甘いもの好きでしょう?」

「好きだけど……そんなの買って大丈夫なの? 今月のローンの振込み、もうすぐだった気がするけど」

「大丈夫、大丈夫。お菓子やケーキくらい買えなくなったらお仕舞いよ。ほら、溶けちゃうから早く食べなさい」

 そういって、お母さんは袋の中身をテーブルに並べた。どれも有名なブランドの商品だった。いくら安くなっているからといっても、それなりに値がはったはずだ。

「私はいい。お腹いっぱいだから」

「そう? せっかく買ってきたのに」

 お母さんは残念そうに目を細めると、それを冷蔵庫にしまった。夕食後にでも食べるつもりらしい。

 僕は食器を拭きながら、大きなため息を吐いた。どうもこの人は今の状況を良くわかっていないようだ。十円、一円単位でお金を節約しなければならない状況だというのに、なぜこんな真似ができるというのだろうか。何だか元のお金持ちだった頃の癖を、彼女は拭えていないようだった。

「夕食、食べ終わったら置いてね。洗っておくから」

 それだけ言って、僕はお風呂の掃除へと向かった。



 洗濯物を干し終わり、居間に戻ると、いつの間に帰ってきたのか、お姉ちゃんとお母さんが争っていた。テーブルを挟んで座りもせずに、なにやら口論をしている。

 お父さんとお母さんがケンカをするのは最近では日常茶飯事になっていたが、お姉ちゃんが声を荒げているのは珍しい。僕は心配して、そのまま中に踏み込んだ。

「どうしたの?」

 恐る恐る尋ねると、お母さんが待ってましたとばかりに大きな声を出した。

「夏帆、聞いてちょうだいよ。美帆ったら大学を辞めるなんて言い出すのよ。信じられる? どれだけ私たちがそのためにお金をつぎ込んだかも知らないで……」

「だから、生活できなくなったら意味がないでしょうって、言ってるの。大学生活を続けるよりも、生きていくことのほうが大切じゃないの?」

「そんなことあなたは心配しなくていいの。お金の問題はこっちでちゃんと考えてるんだから」

「考えてないから言ってるんだけど。今のペースじゃぁ、あと数ヶ月で貯金も尽きるでしょ。そんな甘いこと言ってる場合じゃないんじゃないの?」

「で、でもだからって」

 お母さんは悲しそうに言葉を詰まらせた。気持ちを落ち着けるように、手元のティーカップを見つめる。

 僕ははらはらとした気持ちで立ちすくんだまま、二人の顔を見返した。

 お母さんたちが散々僕やお姉ちゃんのために努力してくれたのは、身をもって知っていたし、お姉ちゃんの訴えていることももっともだ。どちらの言い分もよくわかるだけに、何と声をかけるべきか、わからなかった。

「これ以上やつれていくお父さんの姿も、青春を捨ててまで家事をしてくれる夏帆の姿も見ていたくないの。大学費を払わないで済めば、かなり負担は減るんだから」

「美帆、私たちはあなたのことを思って……」

「だから、現実を見てよ。このままの生活が続けば、大学がどうこうなんて言ってられなくなるじゃん。心配してくれるのもありがたいし、感謝してるけど、二人が身体を壊して動けなくなったら本末転倒でしょ。何が一番大事かっていったら、私の大学生活なんかじゃなく、これからみんながどうやって生きていくかじゃないの?」

 お姉ちゃんの剣幕に押されたのか、お母さんは黙り込んでしまった。前を向いたまま、静かにため息を吐く。いつも明るかった母のそんな行動が、僕の目には物凄く心細いものに見えた。

「……お父さんが帰ってきてからもう一度話しましょう。私一人じゃ決められないわ」

「わかった。お父さん、今日は何時くらい? また深夜バイト?」

「十二時過ぎには戻ってくると思うけど……」

「じゃあ、上で待ってる」

 疲れたように息を吐き、お姉ちゃんはリビングを後にした。僕のことなど目に入らないというように、さっさと扉の奥へ消えていく。

 お母さんは座ったまま何かを思案するようにどこかを見ていた。何だか居た堪れなかったけど、このまま逃げてしまうのはまずい気がして、そのままそこに座り続けた。

 どれだけそうしていただろうか。

 時計の針の音が幾度も鳴り響いた後、何かの気配を感じたように、お母さんは顔を上げた。隣に座っている僕の姿を見て、僅かにまぶたが動く。

「あら夏帆……居たの」

 どこかはっきりしない目。まるで死んだ蛙のようだった。

 どう答えていいか分からず僕が黙っていると、彼女は独り言のように言葉を続けた。

「何で……こんなことになったんだろうね」

 そういって、手元においてあったカップを口元に持っていく。中は既に空だったようで、本当に残念そうに、お母さんは眉を寄せた。

「私があの人を支えなきゃいけないってことはわかってるんだけど……どうしてもね。こんなはずじゃなかったって気持ちが消えないのよ」

 カップを置きながら、壁のほうを見つめる。そこには若い頃の両親の写真が飾ってあった。

「……あの人は昔、弓道部のエースでね。それなりに容姿も整っていたほうだったから、女の子たちにも人気があった。私は友達があの人の部活の後輩で、何度か友達と一緒に居るときにあの人に声をかけられて、それで親しくなったの。最初はなんとも思っていなかったんだけど、やっぱりあの人って人気があるからね。一緒にいるところを羨ましがられるのは悪い気がしなかった。それでそのままずるずると付き合いを続けて、気がつけば、こうして一緒に家族として生活するようになっていた。……あの頃の女の子たちが今の状況を見れば、どう思うかなぁ」

「お父さんを恨んでいるの?」

 何だか投げやりなお母さんの言葉を聞いて、僕は薄ら寒くなったのだが、母はそれを否定した。

「――まさか。あんなに優しくて、家族思いな人はいないでしょ。こうなってしまったことを残念に思ってはいるけれど、恨むことはないわよ。ただ……どうしても気持ちが落ち込んでしまってね。クビの話も前からあったらしいのに、こんな急に言うなんて……」

「お父さんは、お母さんに心配かけたくなかったんだよ。きっと新しい仕事を見つけてから話すつもりだったんじゃない?」

 精一杯努力して、僕はお母さんを慰めた。夜遅いお父さんはほとんどお母さんと会話をする暇がないし、お姉ちゃんは大学とアルバイトで家にいないときのほうが多い。話し相手になってあげられるのは僕くらいだったから、こうしてたまにはストレスを発散させてあげないと、お母さんが持たないと思った。

「夏帆は優しいね。そういうとこ、やっぱりお父さんに似たのかなぁ」

「気が弱いところは似てるかもね」

 冗談交じりにそういうと、お母さんはくすりと笑みを浮かべた。

「ふ、あなたのどこが気が弱いのよ」

「どこって、見たまんまだと思うけど」

「こんな状況になってるのに、文句一つ言わないで家の手伝いをしてくれているし、こうしてお母さんのことも気遣ってくれてる。あなたはただ優しいだけ。決して気が弱くなんかないわ。……むしろ、私のほうが情けないくらいよ」

 自嘲気味に笑みをこぼしながら、お母さんは背を壁に寄りかけた。

「……はあ、こんなちびすけに心配されるようじゃ、母親失格ね。絶対に弱音は吐かないって思ってたのに……」

 これほどお母さんが心の内を見せることも、僕のことを素直に褒めてくれることも珍しい。先ほどとは違う意味で、僕は何も言うことができなかった。

「ありがとうね、夏帆。こんなことぐちちゃって。子供に話すようなことじゃ、なかったよね」

「いいんじゃない? お母さんにだって、不満を言いたいときはあると思う」

「ちんちくりんが生意気言って」

 お母さんは僕の頭に手を乗せると、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。何するんだという僕の視線にも構わず、そのまま撫で続ける。

「あなたには苦労をかけるけど、今だけだから。絶対にあなたたちの将来を失わせはしない。だから、安心していてね」

 強がりであることはわかっていた。家計は火の車だし、お母さんもお父さんも、肉体的に、精神的に疲労の色が溢れている。でもそれでも、こうして強く意思を保っていれば、何とかなるような気がした。諦めなければ、きっと救いがある。そう信じて。

「……うん」

 僕は、彼女の顔を見上げながら、大きく頷いた。

 まだ大丈夫だ。まだなんとかなる。頑張れば、また元の生活にきっと戻れる。優雅に、裕福だったあの頃の生活に。

 だが、僕の期待をよそに、ほころびはじわじわと収集のつかない所にまで広がり続けていた。




  4


 お姉ちゃんが大学をやめ、アルバイトに専念するようになってから、僕は一人で家にいることが多くなった。

 以前は狭いとすら思っていた二階建てのこの一軒屋も、不思議なことに一人でいると無駄に広く感じてしまう。どこかで物音やきしみを耳にするたびに、見知らぬ誰かがいるような気がして、落ち着かなかった。

 家事を全て終えた僕は、椅子に座りテーブルの上のものを手に取った。子供用の玩具の部品のばりをカッターで削り取り、袋に詰めるという単純作業。アルバイト禁止の校則がある中学で出来るだけ家計に貢献しようと考えた結果だった。この仕事をやったところで大した収入にはならない。けれど、自分だけが家でのうのうとみんなの帰りを待っているなんてあつかましい真似は、どうしてもできなかった。

 ひとつ。ふたつと、目に意識を集中させながら細かなゴムの粗を探す。もし削り漏れでもあれば、減給や仕事を失ってしまうことに繋がる。単純かつ地味な作業だったけれど、恐ろしく意識を集中しなければならず、夏も終わりかけているというのに、シャツは汗で湿っていた。

 毎日のように眼球を酷使しているせいで、既に視力はかなり低下している。目を細め、何度も見返しながら、僕は慎重に作業を続けた。


 

 かちかちと、時計の音がうるさく聞こえる。

 夜はいつも静かだったはずなのに、今日はやけに時計の放つ騒音が耳に届いた。

 駄目だ、寝れない。

 いつもより長く内職をしていたせいで、頭がすっとしてまったく眠気がやってこない。僕はベットから這い出ると、階段を降りてリビングへと向かった。水でも飲もうと思ったのだ。

「お、まだ起きていたのか」

 いつの間に帰ってきていたのだろうか。

 僕が中扉を引いた途端、お父さんの渋い声が前から降ってきた。よれよれの服装から推測するに、ちょうど今さっき帰ってきたようだ。

 久しぶりにお父さんの顔を見たけれど、随分とまた、疲れの色がはっきりと見て取れるようになっていた。

 少しぽっちゃり目だったお腹は見る影もなく引っ込み、頬は骨の形がわかるほどくぼんでいる。ふさふさだった髪は以前の半分ほども抜け落ち、年齢以上に老けているように見えた。別人のようですらある。

「お帰りなさい。お父さん」

 僕はお父さんの苦労をいたわるように優しく声をかけた。

「ああ……。ただいま」

 お父さんは紺色の鞄を壁に立てかけると、溜まりに溜まった苦痛を押し出すかのごとく、深い息を吐いた。そのまま僕が作った食事を冷たいまま食べ始めた。あまり身体には宜しくない行動だったけれど、電子レンジが壊れて使えなくなった今では、仕方のないことだった。

 僕は冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、それを二つのコップに注ぎ、一つをお父さんの前に差し出した。お父さんは一瞬不思議そうにペットボトルを見たあとに、‶ああ〟といった表情で視線を元に戻した。

 僕は向かいの席に座り、何気ない調子で質問した。

「大丈夫? 顔色悪そうだけど……」

「まあ、ちょっと風邪っぽいけど、問題はないよ。そんなに気にするほどのものじゃない」

「……お父さん、今三時間くらいしか寝れてないでしょ。たまには休んだほうがいいよ」

「そうしたいのは山々なんだがなぁ。やっぱり稼がないといけないからねぇ。もう貯金も残り少ないし……」

「倒れたら意味がないよ。少しだけアルバイトの時間を減らしたら?」

「う~ん。でも、そういうわけにも行かないんだよ。ただでさえギリギリの生活を強いられているんだからね。……――そんなことより、夏帆。お前のほうこそ、ちゃんと食べてるのか? なんだか痩せたように見えるぞ」

 それはお互い様だろう。

 僕はお父さんの変わり果てた顔を見返しながら、優しく答えた。

「大丈夫。節約のために量を減らしてはいるけど、栄養配分は考えてる」

「そうか。ならいいんだが」

 遠慮がちに目を伏せながら、お父さんは箸を動かした。じゃがいもとひき肉しか入っていない肉じゃがをもっそりと口に運び込み、作業のように顎を動かす。

 なんとなくその様子をぼうっと見ていると、お父さんは言い聞かせるように口を開いた。

「夏帆。お前や美帆、お母さんには俺のせいでとんでもない苦労をかけてしまった。そのことは本当に申し訳ないと思っている。本当なら、お前は友達と一緒にわいわい遊んだり、好きな男の子の話題で盛り上がるような年だ。それを一年以上も毎日家に釘付けにして、やりたくもない家事をやらせて、しまいにはこうして親の面倒まで見てもらっている。……親として、こんなにも情けないことはない」

 お父さんはしわの増え始めた手を、もう一方の手で撫でた。

「だから、こんなこと、本当なら言えた義理じゃないんだが……。夏帆、人生で大切なのは、どんな苦労があっても、どんな苦しみがあっても、絶対に諦めないことなんだ。諦めなければ、きっと報われる。救われる日が来るんだ。この世に生きている限り、必ず誰かが手を差し伸べてくれる。例えどれだけ見放されたと感じていようとも、見ている人は見ているんだ。だから、俺はまだ諦めないよ。この身体がある限り、できるだけの努力はする。必ずお前たちを元の生活に戻すから、だから夏帆も、諦めないで俺を信じてくれ」

「うん。……わかった」

 あの大人しいお父さんが、これほどにも感情的なセリフを吐くことは珍しい。小さい頃から僕をしかったり何かを注意するのは、ほとんどお母さんの役目だったから。

 ――生きている限り、必ず誰かが手を差し伸べてくれる。

 その言葉を、初めて耳にするするお父さんの本気の台詞を、僕はしっかりと胸にしまった。

「――今日はもう遅い。明日も学校があるだろう。早く寝なさい」

 そういってお父さんは止めてい箸の動きを再開する。僕はコップに残っていた水を一息で飲み込むと、

「お休み、お父さん」

 小さく頭を下げて、リビングを後にした。



 自習時間。こつこつ、こつこつと鉛筆を動かしていると、左方向から自分の名前が呼ばれたような気がした。なんだろうと思い視線を向けてみるも、誰もこちらに目を向けている者はいない。気のせいかと思い教科書に視線を戻した瞬間、再び小さく「夏帆」という単語が聞こえた。

「マジで?」

 高い声を上げているのは、河原信子さん。クラスの中心的人間だ。なんとなく気になり、僕は鉛筆を動かすふりをして、耳をそばだてた。

「本当だって。この前彼氏と別れて家に帰ろうとしてたら、あの子が公園の水を取ってたの」

「夏帆が? 何でそんなことするのよ」

 これは久美の声だ。

 ノートにつづられていた文字が小刻みに歪み始める。僕は慌てて消しゴムでそれを消した。

「知らないけど、なんか最近あの子変な噂多いじゃん。付き合いも悪くなってるし」

「変な噂?」

「ほら、家の前にトラックが止まって何かを運んでいったりとか、お父さんが早朝や夜遅くに出かけて行くとか、なんかやばいことやってるんじゃないかって話」

「あ~あたしも聞いたことある。なんか、お金の面で問題があったらしいよ」

 久美の左斜め前に座っている姫カットの少女が、面白そうに口を尖らせた。

「なにそれ? 借金とか」

 二人の言葉を、食い気味に久美は聞き返した。

「そうなんじゃない? あの子の家って近所じゃ目立ってたからさぁ。ちょっとの変化ですぐわかっちゃうんだよ。服が同じものばかりになったりとか、買い物の量が減ったりとか、お母さんたちそういうのよく見てるからねぇ」

「お風呂とかも入ってないんじゃない?」

 と河原さん。それに姫カットの少女も言葉を続けた。

「うわぁ、それはないわぁ。お風呂は入れないなんて最悪じゃん」

「……ああ。だから去年、家に遊び行かせてくれなかったんだね。なるほど、そういうわけか」

 納得したように頷く久美。

 本人たちは小声で話しているつもりでも、自習中というこの時間では筒抜けのようによく聞こえた。

 悪気がないことはわかっている。

 ただの世間話ということも理解できている。

 けどそれでも、こうしてこの場であの会話を聞かされ続けるのは苦しくて堪らない。

 自分のことを馬鹿にされるのも、死ぬ思いでお金を稼いでいる両親のことを悪く言われるのも、耐えられるものではなかった。

 僕は教室から出ようかと思ったのだが、そのせいで逆に彼女たちの言葉を気にしているとも思われる気がして、必死に聴覚から意識を逸らし、教科書に書いてある問題を解こうと努力した。しかし人間気にしていることというものは、どうしても勝手に意識が向かってしまうものだ。気が付けば勝手に目はそちらを盗み見て、耳は言葉を受け止めていた。

 家事の手伝いばかりで最近彼女たちと行動を共にできなかったからかもしれない。僕の噂は面白いように次から次に出てきては彼女たちの口を潤わせた。

 ――生きている限り、必ず誰かが手を差し伸べてくれる。

 恥ずかしさと悔しさで、泣きそうになったけれど、お父さんが話してくれたあの言葉を思い出し、なんとか踏みとどまった。

 そうだ。きっと僕だって逆の立場だったら話題に上げているはずだ。今は仕方がない。今はそれが現実なのだから。借金を返しきれば、家が裕福に戻れば、問題はないんだ。

 ミミズがのたくったような文字を刻みつつ、必死に自分に言い聞かせる。結局チャイムが終わるまでに解けた問題の個数は、片手で数えるほどもなかった。


 

 洗濯物を取り入れ終わり、いつものように内職に勤しんでいると、家の電話がなった。今となっては数少ない我が家の家電製品だ。

 僕は手を止め、部屋の隅に歩み寄って、それを手に取り耳に当てた。

「はい。姫野ですが」

 相手は渋い声の男だった。話し方や態度から察するに、かなり年上の人間だろう。僕が何の用か訪ねたところ、彼はお父さんのバイト先の者ですと、言葉を続けた。

 こちらを落ち着かせるようにゆっくりと説明を始める男。しかしその男の話を聞いていくうちに、僕は動揺を隠しきることが出来なくなった。

「お父さんが……倒れた?」

 男はなるべく穏やかな声を出そうと勤めているのか、妙にゆっくりと何かを述べているが、全く耳に入ってこない。ただ空気の震えが鼓膜を通過し、振動として発散されていく。

 まるで見知らぬ外国語を耳にするように困惑したまま、棒は呆然とその場に立ちつくした。



  5


「もしもし、姫野さん? 居るんでしょう? やめて下さいよぉ、居留守なんてさぁ」

 どんどんどんと、強く扉を叩く音が木霊する。

 不在であることを示すために、電気を全て消してカーテンを閉めきっていたのだが、その努力は無駄だったようだ。

 僕は部屋の隅に座り込んだまま、震える手を必死に押さえつけた。

 大丈夫、中には入ってこない。それは犯罪だから、大丈夫。

 頭から被った毛布の中で何度もその言葉を繰り返し、早く彼らの声が消えることを願った。しかしいくらそう理解していても、歯はがちがちと音を鳴らし、心臓が早鐘のように波打った。小学校を卒業してからまだ二年しか経っていない僕にとって、大人の怒号、しかもこれほど敵意に満ちた言葉は、計り知れないほどの恐怖だった。

 外の男たちが叩いたのか、どんっと、玄関の扉が大きく揺れる。

 それだけで僕は肩を跳ね上がらせ、勝手に目元が湿りだした。

 大丈夫……大丈夫。もうすぐお母さんが帰ってくる……!

 彼らもそれがわかっているからだろうか。わざとこんな時間を狙ってやってきているのだろう。最近は居座る時間も長くなり、声の音量も増して来ている。僕にとってこの時間帯は、まさに地獄だった。

 怖い。怖い。怖い。怖い……!

 手を耳に移動させ、鼓膜を塞いだ。

 悲鳴を上げればそれで気づかれてしまうかもしれなかったから、唇をきつく結びうごめく筋肉を押さえつけた。

 お母さん。早く帰ってきて。早く、早く……!

 何も考えることができず、恐怖のままに思考を停止する。今や僕は怯えるためだけに存在する装置のようだった。

 しばらくして、外の怒号は聞こえなくなった。男たちは諦めて帰ったのだろうか。

 僕は恐る恐る毛布の下から顔を出すと、そのままゆっくりと立ち上がった。彼らが完全に姿を消したと確認できない限り、おちおちトイレにもいけなかった。毛布をかぶったまま玄関まで歩き、扉の穴から外を覗き見た。

 一瞬、反対側から誰かの視線が向けられているような錯覚を覚えたのだが、それは気のせいで、外は静かなものだった。風の音が冷たく走り、扉を撫でてゆく。

 どうやら今日はもういないらしい。僕はほっと一息つき、リビングへと向かうことにした。内職作業がまだ途中だったのだ。

 中扉を開けたところで突如電話が鳴り響いた。もし、家の外にまだ男たちがいれば、彼らの注意がこちらに向いてしまう。僕は慌てて電話に駆け寄り、受話器を手にとった。お母さんかお姉ちゃんかもしれないと思ったのだが――

「あれ? 居るじゃん、姫野さん。こーんばーんわー」

 酷く挑発的で、馬鹿にするような声。それは、先ほど家の前で騒いでいた男と同じものだった。

「ひっ」

 反射的に受話器を置いて、後ろに下がった。

 しまった、居留守しているのがバレてしまった……!

 僕は青い顔で窓の外を一瞥し、部屋の隅へと逃げ込んだ。再び毛布を頭から被り、目をつぶって体を震わせた。

 ちょうどそのタイミングで、玄関の扉ががたがたと激しく揺れ動いた。彼らが戻ってきたのだ。

「いや、……来ないで、来ないで……!」

 半ば悲鳴に近い呟きを繰り返しながら、必死に両手を握り合わせた。まさか中には入ってこないだろうと考えていたのに、扉はあっさりと開き、廊下に足音が響いた。

 誰か、助けて……誰か……!

 中扉が開き、とうとう侵入者がリビングに入って来た。その人物は慣れた手つきで電気をつけると、呆れたように声を出した。

「……夏帆?」

 少し低めな、女の声。

 僕ははっとし、顔を上げた。それは、姉の美帆だった。

 彼女はカバンを椅子の上に置き、派手な上着を脱ぎ捨てると、心配そうにこちらに歩み寄った。まだ体を震わせている僕の前に立ち、そっと肩に手を乗せた。

「大丈夫。大丈夫だよ。手持ちの何万かを払ったら、あの人たちは帰ってくれた」

 お姉ちゃんは僕の背中を撫でながら、ゆっくりと体を抱きしめてくれた。ようやく緊張を解くことができた僕は、全身の力を抜いてその場にへたりこんだ。


 

 お父さんが倒れてから、生活はより一層、最悪なものとなっていた。

 お母さんは昼夜を問わずパートに明け暮れ、お姉ちゃんも一日中バイトをしてお金を稼いでくれたけれど、そんなものは生活費を稼ぐ程度の足しにしかならず、月の返済額には到底達するものではなかった。

 こんな状況だから、生きるためには再び借金を繰り返すしかなく、お母さんたちは借金を返済するために借金をする、という愚行を繰り返していた。

 家族の名義を複数利用し、借金対象の団体を変え、様々な方法で資金を作り出した。

 最初の数ヶ月はそれでどうにかなっていた。なんとかギリギリのラインで生き抜くことができていた。

 だがやはり、負ってしまった負債のリスクは、そう簡単に消えるものではない。さらに一年ほど経った頃。借りられるお金にも限界がきて、とうとうどの銀行も、どの金融機関も、お金を貸してくれなくなった。おそらくはブラックリストにでも載ってしまったのだろう。

 いくら探しても仕事が見つからず、過労から神経を痛めてしまった父は、最近になって、仕事を探すのを諦めた。

 一人で家のなかで独り言を言っているかと思えば、急に叫び声をあげて笑い出したり、泣き出したり、見ていて何だか怖かった。どこへ出かけているのか、家にいないことも多くなり、その都度酒臭い体を抱えて帰って来た。お姉ちゃんは呆れ果てていたけれど、お母さんはいつも無言でそんな父を布団へ運び、寝かせてあげていた。どういう心境なのかは、僕にはとても計り知れるものではなかった。


 派手な服装から地味なジャージ姿に着替えてきたお姉ちゃんは、僕が公園の水道からとってきた水をコップに注ぎ、ガブガブと喉に流し込むと、おっさんのように大きな息を吐いた。すれ違い際に、前と比べて随分とキツめな香水の匂いが鼻についた。

 彼女はそのまま椅子に深々と座り込むと、僅かに充血したまなこで玄関の方角に視線を這わせた。

「張り紙、取らないの? あんなに催促状いっぱい貼られてたら、近所から不審がられると思うけど」

「もう、とっくに不審がられてる」

 同級生たちの噂話のことを思い出し、僕は投げやりにそう答えた。少し前に作っておいた料理をテーブルの上に乗せ、そのまま差し出そうとしたのだが、お姉ちゃんは手を軽く左右に振りそれを拒否した。

「いいよ。バイト先で食べてきたから。明日の昼食にでもして」

「……そう」

 彼女がまかないで空腹を満たすのは、今日に始まったことではない。僕はただそれだけ言うと、すぐにラップを取り出し、お皿に巻いた。

「お母さんは?」

「まだ仕事みたい。そろそろ帰ってくると思うけど」

「まだ掃除のパートやってるの? あんなの無駄に疲れるだけで大したお金はもらえないじゃない」

「色々探したけど、それぐらいしかないんだって。時給がいいところは大抵若い人たちに持ってかれるから」

「……そうか。まあ、そうだよねぇ」

 お姉ちゃんは腰を折り曲げ、顎をテーブルの上につけた。そのまま、薄茶色のカールがかった長髪の隙間から僕の顔を見上げた。濁ったような黒い目がじんわりと視界に広がった。

「あ、そいえば今日お父さん、バイト先付近の公園で見たよ」

「え?」

「なんか、薄汚れた服装の人達と一緒に日本酒の缶飲んでた。まったく、どこからそんなお金出してるんだか」

「大丈夫なの?」

 交友関係のことも気がかりではあったが、これほど毎日のようにお酒に煽られる生活を送っていれば、まともな体調を維持できているとは思えなかった。病気だって治ったわけではないのだ。僕は賛同を求めるようにお姉ちゃんを見上げた。

「私もそう言ったんだけどね……。言うこと聞いてくれなくて。まあ、そうとう飲んでたみたいだから、そろそろ帰ってくるんじゃない? 最近寒くなってきたし」

 無言で見つめていると、お姉ちゃんはあくびをしながら腕を前に伸ばし、その間に自分の頭を差し込んだ。 眠気が襲ってきたらしく、今にも妖精の国に飛びだってしまいそうだった。

「そんなところで寝ると風邪引く。はやく部屋に行きなよ」

 僕は茶色いテーブル越しに声をかけたのだが、お姉ちゃんの耳には届いていないようだった。なにやらうんうん唸り出しながら、しきりに口をもごもごと動かしていた。何をやっているんだろうかと思った。

 僕の筋力ではこの状態の彼女を動かすことはできない。仕方がなくお父さんの部屋から毛布を引っ張り出し、そっと背中にかけてあげた。お姉ちゃんは一瞬体をくねらせたものの、それで静かになった。

 何だか、やっと安心できたような、そんな顔だった。



  6


「――……逃げよう」

 無精ひげに囲まれたお父さんの口から、そんな枯れた言葉が飛び出した。まるでヤスリで中をズタボロにされた笛のような声だった。

 久しぶりに昼間から家の中にいるお父さんは、前にも増してくたびれ度が増していた。テーブルの前で項垂れているその姿は、初めて目にする人からすれば、決して四十代前半の人間には見えないと思う。

「逃げるたって、どこによ」

 向かいの席に座ったお母さんが、どっぷりと腰を椅子に沈めながら、そう聞き返した。彼女の顔にもまた、年齢以上の深いしわがいくつも刻まれていた。

 僕が洗濯物をたたみながら耳に意識を集中させていると、お父さんは上目遣いにお母さんの顔を見上げた。散々毎日のように口喧嘩をしてきたから、なるべく怒らせないように注意しているのかもしれない。既に夫婦の仲は冷め切った様子だった。

「田舎に行こう。俺の実家の方なら、知り合いも多いし、きっとみんな助けてくれる」

「お義母さんたちのところなら、すぐに借金取りにばれると思うけど」

「じゃ、じゃあ、南だ。南のど田舎に行こう。とにかくここ以外のところだったらどこでもいい。一からやり直すんだ」

「……本気なの?」

 お母さんは、疑いのこもった目で、お父さんの顔を見つめた。

「もうそれしか手はない。ここにいたら、いずれ殺される。逃げるしか、ないんだ」

「そんな大げさな」

 大きくため息を吐きながら、お母さんは顎を掌に乗せた。その動きに、テーブルが僅かに揺れる。僕は畳んだロングティーシャツを、横に並べた服の上に積み重ねた。

 お母さんは悩んでいたようだったが、しばらくして、諦めの篭った目を前に向けた。

「確かに……もうそれしか手がないかもしれないわね」

 両の掌を合わせながら、ぼそりと呟く。

「どう考えてもお金を返しきるのは無理だし、生活保護も拒否された今、それが最善の方法かもしれない。……お義母さんたちには悪いけれど、ね」

「俺の両親にはしばらくの間、縁組を切るように提案してある。だからあっちに催促が行くことはないはずだ。君は絶縁状態だし、移動さえできれば誰にも迷惑はかからない」

「そんなに、うまくいくとは思えないんだけど」

「それでもやるしかないんだ。ここにいても、絶望しかない」

「……でもいつ移動するの? あの人たち、結構な頻度でこの家を見張っているわよ。きっとそういうのを警戒しているんだと思うけど」

 窓の方に視線を這わせながら、お母さんは不安そうに目を細めた。

 既に全ての洗濯物を畳終わっていたけれど、僕は形崩れが気になるというように、いくつかの服に手をとった。

「家財はどうせもうほとんどないんだ。下手に引越し業者を雇えばすぐに気づかれる。普通車をレンタルして、必要なものだけ持って逃げよう。時期は……そうだなぁ。明後日じゃぁ、ダメか?」

「明後日?」

 お母さんは一瞬驚いて見せたが、お父さんの顔を見て、すぐに目を伏せた。

「わかった。明後日ね。……美帆にもそう伝えておく」

「ああ、頼んだ。俺は……まだ集められるだけの金をできるだけ集めておくよ」

 どこか吹っ切れたように、お父さんはいびつな笑みを浮かべた。激変した容姿のせいもあり、何だか自分の父親とは違う人のように見えた。

「夏帆も、ちゃんと用意しておいてね。時間はないんだから」

「……うん。わかった」

 言われるがままに、僕は小さく顎を落とした。



 家から少し離れたところに置いていた車に、こっそりと時間をかけて荷物を運び込む。

 一気に短時間で移動させたほうがいいんじゃないと、お姉ちゃんは提案したが、お父さんは見つかったときに言い訳ができないからと、それを拒否した。

 洋服や食器などを鞄に詰め、出かけるふりをして家族がそれぞれ一人づつ、車のなかに荷物を移動させる。あまりに慎重にやりすぎたせいか、当初の予定よりも大幅に時間が遅れ、全ての用意が整ったのは、結局あれから四日後の朝になってしまった。

「よし、忘れ物はないな。もう二度とこの街には来ないんだ。しっかり確認しておけよ」

 レンタカーの運転席に座ったお父さんが、青白い顔で振り返る。僕とお姉ちゃんは後部座席に身を沈め、周囲の様子をこっそりと伺った。

「あ、お母さん。来たよ」

 家のほうをみていたお姉ちゃんが、ほっとしたように声を漏らす。だがすぐに、その表情が一変した。

「お、おい、誰だあいつは?」

 バックミラーから様子を探っていたお父さんが、目を恐怖に狂わせた。

 お母さんが横道から出てくると同時に、その背後には三人の男たちが続いていた。何度も見たことがある。あれは、金融屋の人間だ。勝手に手の中から力が抜け出した。

「ば、バレた。バレた……!」

 身体を震わせながら、お父さんはこうべを垂れた。

 お母さんを脅すように歩いていた男たちは、車の前までくると、優しい笑みを浮かべたままガラスを叩いた。外に出ろということらしい。その表情が状況に似合わず自然過ぎたため、僕は男のことが恐ろしくて仕方が無かった。

「仕方がない。お父さん、出よう」

 状況を受け入れたお姉ちゃんの声で、放心したままお父さんが外に出た。僕もお姉ちゃんにくっつく形で、駐車場の子石の上に足を下ろした。


 車の外に出た僕たちを見て、借金取りの男たちは、表情を崩すことなく冷静に周囲を囲んだ。怒るでもなく、文句を言うでもなく、淡々と行われるその行動が、彼らの‶慣れ〟を示していた。

 顔を真っ青にして項垂れているお父さんを眺めつつ、彼らの一人、薄ヒゲを生やした男が面倒くさそうに自分の頭を掻いた。

「姫野さん。やってくれたねぇ。困るんだよ、こういうの。うちとしては穏便に済ませたかったんだけどねぇ。ええ? どうするよ」

「こ、これはちょっと母の家に……持病が悪化したらしくて……」

「ああ、そういうのいいから。嘘でもホントでもどっちでも」

 薄ヒゲの男は周囲を気にするように背後を振り返った。警察を呼ばれることでも恐れているのかもしれなかったが、早朝ということだけあって、まだ歩いている人はほとんどいない。僕はがっかりして暗い気持ちになった。

「で、どうするの。姫野さん。あと六百万。今年中に返さないとまずいんじゃない?」

「六百? よ、四百五十万だったはずだ」

「……あんたさぁ。そんだけ借金しておいて、うちらのセオリーすら知らないの? 利息だよ、利息。当たり前のことでしょ。何をいまさら目玉、引っくり返らせてんのよ」

「そ、そんな。おかしいだろう。こんな短い時間で……」

 お父さんは声を震わせながら、辛うじてそう言い返した。

「痛いっ……!」

 不意にお母さんが表情を歪めた。彼女の後ろに、取り巻きの男の一人が立っていた。

「渡波さん。このババア、こんなものを」

 押し飛ばすようにお母さんのカバンから取り出したものは、携帯端末だった。一、一、と、押しかけの番号が表示されている。一時しのぎでもいいから、警察に助けてもらおうとしたのだろう。

「ちょっと、返してよ。そんなことする権利なんてないでしょう」

 お母さんはすぐにそれを奪い返そうとしたが、男が殺気の篭った視線を向けてきたため、渋々と持ち上げていた手を下ろした。

「奥さん、ちょっと黙ってて下さい。今大事な話をしてるんですから。――……で、どうなんです? 姫野さん。とりあえず今月中に、百万くらい返してもらわないと、間に合わないっすよ」

「ひゃ、百万なんて、払えるわけがないだろう」

「人間本気になったら何でもできますから。何なら、一山当てるっていうのも手ですよ。いいギャンブル場、紹介しましょうか。……そうですねぇ。体を売るっていうのも手ですよ。あっち系の意味じゃなく、文字通りの意味でね。眼球一個で十五万。肝臓なんか売れば、借金なんてすぐにでもチャラにできますよ。ま、無くなったら無事に生きることなんでできませんけどね」

 ジョークを言ったつもりなのか、薄ひげの男は小刻みに口元を震わせた。

「お、お願いです。勘弁してください。何年かかっても、必ず返しますから」

「ついさっき逃げようとしたやつに言われましてもなぁ。信用できるわけがないでしょうよ」

 薄笑いを浮かべつつ、男は僕の前に立っているお姉ちゃんに視線を向けた。じゃりっという、彼の靴が小石を押しのける音が響く。

「そろそろ娘さんの稼ぎも限界でしょう。あれ以上頑張れば、確実に身体、壊しますよ。俺も何度か融資に出向いたんですけどねぇ。やっぱり身ひとつじゃぁ、限界ってもんがある」

 身? 何の話をしているの?

 僕は訳が分からずお姉ちゃんの顔を見上げたが、彼女はただ、キツく唇を結んだまま、男を睨みつけていた。

「え? 稼ぎ? 出向いた?」

 お父さんも男の言葉を理解することができなかったのか、間抜けな表情を浮かべたまま聞き返す。ただ、お母さんだけは何かを悟ったのか、悲しそうに強く目を伏せた。

「娘さんはねぇ。あんたの代わりに、夜な夜な身体を売って生活費を稼いでいたんですよ。毎日、毎日、何時間もの間。泣ける話でしょう」

「はぁ、えっ? 美帆が?」

 ようやく男の言わんとすることがわかってきた。僕は信じられない思いで、お姉ちゃんを見上げた。お父さんも事実に気がついたようで、愕然とした表情で薄ヒゲの顔を見つめていた。

「そんな、美帆が……そんな……」

「あんたが垢臭い連中と世間の悪口をいって嘆いている間、美帆ちゃんはずっと金持ちのオヤジ達の相手をして、お金を稼いでいたんですよ。あんたの餌代を稼ぐためにね」

 口寂しくなって来たのか、男は懐からタバコの箱を取り出しかけたが、思いとどまったように、すぐにそれを元に戻した。

「今までの出勤体制だと、せいぜい月に二~三十万が限度だ。普通に生活する分には十分すぎるほどの稼ぎですがねぇ。うちに金、返すなら、それじゃあ全然足りないでしょうよ。だから、一つ提案があるんですけど、娘さん、うちの系列の店に預けてもらえませんかねぇ。住み込みで働けば、倍近くは稼がしてあげますよ?」

「美帆を売れっていうのか? ふ、ふざけるなよ」

 お父さんは手を震わせて怒鳴り声をあげた。生まれて初めてみた鬼の表情だった。

「売るんじゃなくて、レンタルです。だいぶいい提案だと思うんですけどねぇ。どっちの得にもなるし」

「お前ら、いいい加減にしろよ」

 お父さんは顔を真っ赤にして男に詰め寄ろうとしたが、それをお姉ちゃんが止めた。

「いいよ。お父さん。私がそうすれば給料を倍にしてくれるっていうんだったら、全然構わない。そんなことぐらい、今更なんともないよ」

「何を言っているんだ美帆、俺は……――」

 お父さんはなんとも言えない表情でお姉ちゃんの顔を振り返り、項垂れた。

「姫野さん。あんただって、ホントはわかってるんでしょう。そうするのが一番いい方法だって。そんな一般的な建前なんか、今更気にする状況ですか。現実を見ましょうよ、現実を」

「現実……?」

「お姉さんが一年、我慢して働くだけで、多額の借金を返済することができるんですよ? 今のまま何年もかけて望まない仕事を続けさせるより、何倍もいいでしょうよ。よく考えてください。これは、俺からの譲歩なんですから」

「……一年」

「ちょっと、あなた――……!?」

 僅かに黙り込んだお父さんを見て、お母さんが正気を伺うように声を荒らげた。

「そんなことさせられる訳がないでしょう。なに言い負かされそうになってるの」

 ずいっと、横に立っている男を睨みつけながら、お母さんは前に踏み出した。

「借金は私が何をしてでも返します。だから今日は帰ってください。もういいでしょう」

「よくないですよ。話は何も終わっていません。――そうだ、姫野さん。もうひとり、妹さんも協力してくれるなら、さらに三割は割増してあげますよ」

 その瞬間、お母さんが鞄を薄ヒゲの男に向かって投げつけた。

「冗談じゃない。もうたくさんよ。美帆、夏帆、行きましょう」

「お、お母さん……!?」

「おい、てめぇ、いい加減にしろよ」

 強引に歩き出そうとしたお母さんの腕を鷲掴みにする若い男。それを振りほどこうとして、お母さんは手を強く振ったのだが、

「いってぇ!?」

 運悪く、爪が男の頬を裂いてしまった。

 「あっ」といった表情で、お母さんが動きを止めた直後。若い男がいきなりお母さんの顔を殴り飛ばした。ぬるりとした液体が、目の前に飛び散る。

「ちょっとあんた何してんだよ!」

 怒りの篭った表情で、お姉ちゃんが若い男に食ってかかる。その騒動を見て、お父はオロオロし、薄ヒゲの男は苦笑いを作った。

 お母さんは自分の鼻を隠すように顔に手を当て、少しだけ離れた位置にいる僕に向かって叫んだ。

「夏帆、お巡りさんを呼んできて、早く。――行きなさい」

 正直、僕に考えている余裕はなかった。

 お母さんが声を荒げると同時に、お父さんのそばにいた若い男が迫ってきたからだ。

 半ば反射的に、僕は指示されたまま足を弾き出した。焦って転びそうになる体のバランスを必死に整えながら、どこを目指すでもなく道路に飛び出る。

「おいおい、勘弁してちょうだいよ。騒がれると面倒なんだからさぁ」

 走り出した僕の後方から、薄ヒゲの男のそんな声が聞こえた気がした。



  7

 

 走った。

 ただ、走った。

 小さな足を限界まで稼働させ、空気を荒く吐き出し、走り続けた。

 熱かった。

 喉が熱かった。

 吸い込んだ空気が通過するたびに、洗い刺を持った蛇が、わざとウロコをこすりつけながら這ってゆくような痛みを覚えた。

 でも、どれだけ苦しくても、どれだけ気持ち悪くても、僕は走り続けるしかなかった。

 少しでも気を抜いてしまえば、少しでも足を止めてしまえば、あの壁のような男たちがすぐにでも僕の肩を押さえつけ、握りつぶしてしまう気がしたからだ。

 こういうとき一番効果が高い解決策は、叫ぶことだ。後ろめたい行動を取っている人間にとって、もっとも避けたい事態は、人目につくこと。

 夏帆も当然、それを実行に移そうとしたのだが、走るために力を費やしすぎたせいと恐怖で、思うように声が出なかった。木枯らしのような吐息だけが、僅かに耳の横を通過した。

 だめだ、これ以上逃げられない。どこかに、隠れないと……。

 地の利はこちらにある。僕はあるアパートの敷地に踏み込むと、その横の狭い通路を突き抜けた。このあたりは小さな道が網の目のように広がっているから、慣れていない人にとっては、迷路のように感じるはず。そう判断して、できるだけ複雑な道を選んで逃げ続けた。

「おい、待てやこらぁ」

 後ろから若い男の怒号が聞こえる。僕は思わずびくっと体をふるわせ、一瞬足を止めそうになった。

 だめだ。止まっちゃダメだ。ここで止まれば、すぐに追いつかれる。

 汗だらけの顔を必死に持ち上げ、前を見据えた。そういえば、この先の橋の向こうに交番があったはずだ。あそこに逃げ込めば、きっと警察が助けてくれる。

 車の有無も確認せずに路地から飛び出すと、僕は緩やかな短い坂を這い上がって、橋の上に逃げ込んだ。そのまま、一気に駆け抜けようとした。

「待てつってんだろう、このクソガキ!」

 しかし、ちょうど橋の中央辺りの場所で、僕は突然、首元の裾を若い男に引き上げられた。勢いがだいぶついていたせいで、息が止まり、目の裏が白黒した。

「離せ、離してよ!」

「うるせぇ、大人しくしろや」

 さらに強く服を引き上げる若い男。服に首を絞められているせいで、まともに呼吸をすることもできなかった。激しく逃げたおかげで、既に息は限界なのだ。

 僕は新鮮な空気を求めて死に物狂いで手を振り回した。

「な、こいつ……!」

 押さえつけようとしたのか、男は橋の手すりに僕の体を叩きつけた。堪らず痛みに口から内蔵が飛び出しそうになったけれど、なんとか耐え切り、男の手首を掴んだ。

 若い男は再度僕の体を手すりに叩きつけようと、一気に力を入れた。その瞬間、僕は男の指に歯を立てた。辛いタバコの匂いが口の中に充満し、吐き気を覚えた。

 若い男は悲鳴を上げ、叩きつけようとした勢いのまま僕の体を手放した。

 腰が手すりの上に乗り大きく滑った。

 気がついた時には既に遅く、僕の体は――ひっくり返るように空中に飛び出していた。



 空が見えた。

 薄青い広大な空間に広がった雲の群れと、小さな太陽が。

 幼い頃、よく太陽を眺めようとして、お母さんから怒られたものだけど、その意味がよくわかった。

 押し寄せるような光の波が有無も言わさず僕の目に突き刺さり、強烈な刺激と熱を頭蓋骨の裏側へと注ぎ込んだ。

 顔を背け首を傾けながら、僕はただ真っ直ぐに落ちた。

 視界の隅で慌てる男の顔が映ったが、光に目がくらんでいたせいで、どういう表情をしているかまでは読み取ることができなかった。

 急に、肩が冷たいものに包まれた。

 続けて頭と腕が、そして足が連続でその何かに覆われていった。

 よく知っている感覚。よく知っている感触。

 これは――水だ。僕は今、水の中に居るんだ。

 地上から差し込む光がきらきらと点滅を繰り返し、僕と、僕の周囲のいくつかの空間を照らす。

 それはまるで、神様が僕に向かって差し伸べてくれた手のように見えた。

 ああ、綺麗だな。

 恐怖よりも先に、僕はそんなことを思った。

 やはり、水に反射する太陽の光は、この上なく美しい。

 僕はその光の柱に向かって手を伸ばそうとしたのだが、思うように腕が伸びなかった。誰かが不法投棄した自転車か何かが服に引っかかっているのか、浮上しようとする僕の体を引き戻そうとし、強く固定した。

 ――やめて、離してよ。

 このままでは窒息してしまう。僕は急に湧き上がった恐怖に震えながら、もう一方の腕で服をその何かから取り外そうとした。しかし、思うようにいかない。

 水泳で慣れているとはいえ、まったく準備もなしに水中に落とされた今、肺の中の空気はほとんどない。

 嘘でしょ、やめて、取れて、取れてよ……!

 こんなところで死にたくはない。上ではお母さんとお父さんが、お姉ちゃんが、あの男たちに狙われているのに。

 取れて、取れて、取れて――……!

 見開きすぎたせいで、目がびりびりと痛んだ。あまり綺麗な水ではなかったのだろう。太陽の光が届かない場所は、ほとんど何も形を捉えることができなかった。

 い、息……が……

 頭が膨張しているかのように熱くなり、視界が霞んだ。まるで脳が爆発するのを必死に押さえ込んでいるかのようだった。

「夏帆ー!」

 どこかから、お姉ちゃんの声が聞こえた。追いかけてきたのか、酷くかすれた悲鳴のような声。

 僕はもがくのをやめ、光の柱へと視線を移した。

 大量の水の膜のせいで、音という音が消えていた。いや、正確には様々な雑音は振動で伝わってきているのだが、フィルターがかかったように、それは僕の耳の前を通り過ぎていった。

 お姉ちゃんの声は、もう聞こえなかった。

 朦朧とする意識の中、先程までの騒動がウソだったかのように、世界は無音に満たされた。

 ああ、なんて静かなんだ。

 なんて、自由なんだ。

 なんて、心地よいんだ。

 やっぱり、水は好きだ。水は僕の全てを包み込み、外との境界を作ってくれる。水に包まれている間だけは、僕は本当の意味で、あらゆるものから解放されたような気になれた。

 口から無数の気泡が飛び出し、上へ、上へと上がっていった。もう、助かる気がしなかった。

 自分を縛り付けていた様々なものからの開放。それが、やっと訪れると思った。

 これまで僕は流れのままに生きてきた。

 父の言いつけを守り、その意思に従い、母の言葉や思いを信じ、どんなに悲惨な状況に追い込まれようとも、必死にあらがって生きてきた。

 でも、結局、全ては無駄だった。

 どれだけ親の言うとおりに行動しようとも、どれだけみんなのために尽くしても、結局、待っているのは絶望だけだ。

 お父さんが口癖のように話していた、「 生きている限り、必ず誰かが手を差し伸べてくれる」なんて言葉も、大きな嘘っぱちだ。結局はみんな、自分のことしか考えていないんだから。

 消えゆく意識の中、僕はこれでよかったのかもしれないと思った。

 このまま生きていても、ただ死ぬまで借金を返し続ける日々があるだけ。生きる希望も何もない。そんな人生に、価値なんてものは存在しない。最後に水の中に落ちたのは、かえってよかったのかもしれない。ここならば、僕以外に誰もいない。もう、誰にも縛られずに済む。

 死を目前にして、生まれて初めて本当の自由を手にした気分だった。

 僕は光の奥に目を向けた。姿を捉えることはできなかったけれど、そこにお姉ちゃんがいることだけは、はっきりとわかった。

 幼い頃からずっとあこがれで、ずっと僕の面倒を見てくれていたお姉ちゃん。最後に、一目だけでもその姿を見たかった。

 地上から伸びる光の柱が細くなる。僕はそれを追うように腕を伸ばした。

 途切れ途切れになった意識の中、お姉ちゃんの幻影に並ぶように、幸せだった頃の母と父の姿が浮かぶ。それは、まるで僕に別れを告げるかのように、うっすらと形をぼやけさしていった。

 お母さん、お父さん……!

 僕を置いていかないで、待って――!

 僕は二人が手を掴んでくれると思っていた。

 一緒に、あの明るい光の下に行けると期待していた。

 それが叶わない夢だとは分かっていた。それでも、どうしても諦め切れなくて、ぼくは必死に腕を伸ばし続けた。

 しかし結局、朝日は闇に覆われ、ぼくの前から姿を消してしまった。実にあっけなく、あっというまに。

 最後に僕の目に映ったのは、どこまでも広がる、深い、――深い闇だけだった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ