第二十一章 死水(しすい)
1
御奈が都心に帰ってから二日後。今日は久しぶりの快晴だった。
雲ひとつない青空に、灰色の月が浮かんでいる。
夜空に輝く金色の月もいいけれど、僕はこの朝の月が好きだった。
特にロマンチックな動機や深い理由なんてないけれど、何となく、昔から心をくすぐられるのだ。特に今日のような晴れ渡った日に姿を覗かせる月は、より一層、その神秘さが際立って見え、いつも以上に絵になっていると思った。
顎を僅かに傾ける。
人の声や車のエンジン。空き缶の転がる音。無数の微々たる囀りが絡まりあい、一つの雑沓という名の演舞を奏でる。
異界のようなその光景から少し視線を下げるだけで、一瞬にして意識が現実に立ち返った。境界なんて何もない一続きの世界であるはずなのに、僕はここが現実だと、自分の生きている世界だと、強く認識させられる。まるで見えない何かに捕らわれているかのようなその二重性が、また面白かった。
腕時計を確認したところ、今は朝の九時二十六分。待ち合わせの時刻まではあと四分ほどある。彼女も電車で来るはずだから、今この場にいないということは、恐らく次の車両に乗っているのだろう。到着は確か九時三十二分。ぎりぎり遅刻を免れることが可能な時間だった。
電車の中はこれでもかというほど冷房が効いていて、寒いくらいだったのに、改札の前であるここはその恩恵をまったく受けることができず、酷い暑さだった。飛び出た直射日光が当たらないというのが、せめてもの救いかもしれない。
腕を組み、足を交差させながら、意味もなく通行者の法則性について考えていると、真横に誰かの気配を感じた。おやと思い、顔をあげて相手の姿を確認する。
茶色の短パンに、ベージュのパーカ。野球帽のような灰色い帽子から覗けるアシンを見て、僕はようやく、その人が待ち人である和泉結衣だと気がついた。
「おはようございます。先輩」
どこか遠慮がちに頭を下げる彼女。僕はすぐに表情を崩した。
「おはよう。――その服装似合ってるね」
彼女の雰囲気や態度からは、比較的大人しい少女というイメージを受けていたのだが、今日はまた随分とボーイッシュな格好だ。新鮮味があって、なかなか良かった。
「別に、いつも地味な格好をしているわけじゃないですよ」
照れを隠すように、彼女は帽子の縁を下げた。
「じゃあ、行こうか」
軽く微笑みながらバス停に向かって歩き出す。和泉さんは子犬のようにぴったりと、僕の後に続いた。
バスに乗車し、一番後ろの席に座る。この近辺では一家に複数台の車を持つことが普通なので、平日の、しかもこんな朝早くにバスを利用する客は、ほとんどいなかった。目的地が目的地ということもあるのだろうけど。
「別にここで待ち合わせしなくても、明社町で合流したほうがわかりやすかったんじゃないですか?」
「それだと、もし緑也たちに見つかったとき気まずくなるからさ。一応、秘密にしておきたいからね」
「千花さんに勘違いされたら困るから、でしょ?」
どこか意地悪っぽく、和泉さんは首を傾けた。窓際から覗き込むように僕の顔を見上げる。
「デートの下見なんて、案外可愛いところあるんですね。正直いって、先輩ってそういうのあんまり気にしない人だと思ってました」
「僕だって心配になるときはあるよ。……というか、何で千花だとわかったの?」
「だって、ばればれじゃないですか。先輩、ゲームセンターでも、プールでもずっと千花さんと一緒にいましたし」
「たまたまだよ。別に意図してたわけじゃ……」
「じゃあ、そういうことにしてあげましょう」
どこか含んだ笑みを浮かべたまま、彼女は頭の位置を元に戻した。心なしか、いつもよりも感情豊かなように見える。
バスが走り出し、周囲の景色が流動を開始した。今この車内にいるのは僕たちを除いて二人の乗客しかいない。
「無理を言って悪かったね。でも、流石にデートスポットとして名高い場所を一人で歩き回るのは嫌だったから」
「日々野さんとかは誘わなかったんですか? あの人なら……」
「彼女は千花に近すぎるから。意外と嘘をつくの苦手そうだし」
僕は適当な理由でごまかした。
「……なるほど」
何かを悟ったように息を吐く和泉さん。僕は話題を変えようと言葉を続けた。
「そういえば、前に何もやりたいことがないって言ってたけど。まだ見つからない?」
「そうですね。特にこれというのはないです。あ、でも――……小説を読むのは、結構好きになりました」
小説か。確かに彼女が本を読んでいる姿は絵になりそうだ。僕はここぞとばかりに質問した。
「へえ、どんなの読んでるの?」
「今は、七色の世界っていう話を読んでいます。ちょっと説明するのが難しいんですけど、記憶喪失の少女が目を覚ますと、見知らぬ世界にいて、目の前に巨大な高い塔が立っているんです。塔の周りにはファンタジーな世界観の地域や、スチームパンクな雰囲気の地域、ホラーテイストな地域とか、いつくつもの不思議な空間が広がっていて、少女はその地域に足を踏み入れるたびに、まるで物語の主人公になったみたいに様々な出来事を経験するんです。けど、ある日気がつくんです。まるで、これは作られた筋書きみたいだって。タイミングよく自分に都合のいい事件が起きすぎているって。その全ての世界を支配している女王がいるという噂を聞いた彼女は、世界の中心にある塔へと向かうんですけど、そこで衝撃の事実を聞かされるんです」
かなり真剣に和泉さんは説明してくれた。これといって強く興味を引かれるものがないというわりには、随分と熱心にその小説を読んでいたようだ。何だか、微笑ましい気分になった。
「それで、その少女は何を言われたの?」
「少女は女王から全てを聞きました。少女は実は、女王の一部であること。ここが死後の世界であること。女王は不幸な事故で死んだ後、自分だけの理想の空間を作って、そこに閉じこもってしまった一人の女の子だったこと。その世界を新鮮味を持って楽しむために、記憶のない自分である少女を作り出したことを」
「つまり、少女が体験してきたことも、見てきたことも、全ては彼女自身が想像した出来事でしかなかったってことか。だから出来事が全部都合のいいように動く。……なんだか虚しい話だね」
「一応最後はハッピーエンドなんですよ? 最終的に、少女は世界の外から来た人に助け出されて、世界から脱出して、死後の世界に出るんです。元々の自分とは決別して。……ただ、この話のラストにはそれすらも女王の筋書きの中かもしれないという描写があるので、完全なハッピーエンドとはいえないかもしれないですけど」
「どちらが真実かわからないようにしているのか。よくある手法だね。僕としては、そのまま脱出できていたほうが好きだけど」
「……そうですね。でも、外に出たからといって幸せになれるとは限りません。そのどちらがかが少女にとって本当に救いなのか想像させるというのも、作者の目的なんじゃないかと思います。勝手な憶測ですけど」
自由が幸せとは限らない、か。確かに言いたいことはわかるけれど……。
僕には何となく、彼女がそちらの結末を望んでいるようにも思えた。
車に揺らされること十分ほど。徐々に、遠くのほうに広がる国立公園が見えてきた。御奈の車から見たときは近すぎてよくわからなかったけれど、こうして眺めていると、まるで緑色の海のようだった。何だか妙な感動をしてしまい、僕は息を漏らした。
「大きいね」
前を向いたまま呟く。和泉さんは眩しそうに帽子の縁を押さえながら、その公園を眺めた。
「何か藻みたいですね」
「藻?」
ここから見た公園は、青い空が背景となって、確かに海に浮かんでいる藻のようにも見えなくはない。相変わらずどこか不思議な感性だと思ったけれど、共感できる部分もあったので、僕は小さく笑った。
「和泉さんて、面白いな」
「そうですか? 普通にしているつもりですけど」
きょとんとした表情で振り返る彼女。僕は複雑な思いで彼女を見返しながら、そっと視線を外に戻した。
朝の月は、まだ優しく、こちらを覗いていた。
2
果穏国立公園は、全国でも屈指の一大庭園だった。
様々な種類の花や植物が配置され、年を通して一日中色とりどりな光景を目にすることができる場所だ。広大な敷地を持つここは、大きく分けて五つのエリアに分かれており、その一つ一つが独特な特徴を持っていた。
入り口から中に入って目の前にある安寧の広場は、無数の花が咲き誇り、まるで御伽噺のような世界を見る者全てに彷彿させる。そしてそこから奥に進んだ位置にある清浄の森では、背の高い樹木が無数に生い茂り、訪れる人の心を雄大な自然の安らぎへと誘うのだ。
また、訪問客を癒すのは植物だけではない。公園の右側を占めるのは、全長三キロの巨大な湖で、多くの野鳥や魚の姿を目にすることができる。さすがにここで釣りなどは出来ないけれど、春には周囲を囲んでいる桜の木が満開になり、アヒルボートの貸し出しなども行われていることから、記念撮影の場やデートスポットとして、なかなかの人気を見せた。
それほど大きな公園だから、てっきり入場料もかなり掛かると思っていたのだが、意外と値段は良心的で、数百円の出費だけで中へ入ることができた。恐らくは、左側の敷地の大部分を閉めている遊園地の収入があるからだろう。あそこに置かれている観覧車はこの公園のどこからでも目にすることができるらしく、公園探索の最後の締めや、子供たちの遊び場として日々多くの人間が集まっているそうだった。
これは余談だが、緑也は昔、遊園地エリアの手前にある波平原で、頻繁に友人たちとチャンバラごっこをしていたらしい。何でもこの公立公園を訪れると、ファンタジーゲームの中に入ったような気分になれるからだそうだ。
僕は感慨深げに周囲を見渡した。
確かに小学生くらいの年齢でここを訪れれば、たいそう魅力的な世界に見えたことだろう。今の僕の目ですら、十分過ぎるほどに大きな公園なのだから。
「どうします?」
和泉さんがいつもどおりの無表情でこちらを見上げる。光を受けた白い肌が透きとおるようによく見えた。
「まずは、あれかな」
左手にある一階建ての建物を指差す。そこには小さな看板が掲げられ、‶自転車貸し出し中〟という文字が書かれていた。
「はぁ。サイクリングですか」
「まずは適当に色んなエリアを回ってみない? これだけ広大な公園だから、歩いていたら疲れちゃうし、一度軽く散歩して、行きたいところを絞ろう」
和泉さんは何も言葉を返さなかったが、様子からみて、反対というわけではないらしい。僕は彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと駐輪所まで向かった。
サイクリングコースと聞いてマウンテンバイクのようなものを想像していたのだが、車庫から取り出されたのは、どう見てもただのママチャリだった。遠くを見てみたが、走行している誰もがそれに乗っているようだ。
不本意ではあるものの、ここまで来て乗らないわけにはいかない。僕が大きめの一台にまたがってコースに出ると、和泉さんも屋内駐輪所から姿をみせた。どういうわけか、彼女は子供用自転車に乗っていた。
気ままにペダルをこぎ、タイヤを回す。挨拶をしているかのように、穏やかな風が頬を撫で通り過ぎた。新鮮な自然の空気がたまらなく心地よいと思う。
走りながら、僕は周囲の様子を真剣に観察した。やはり平日の朝だけあって、歩いている人はほとんどいない。たまに日光浴をしている老人や、犬の散歩をしている主婦を見かけるくらいだ。しかも彼らは入り口から近い場所ばかりに集中しており、あまり奥のエリアまでは踏み入れていないようだった。
一周し、元の場所に帰ってきたあと、僕たちはとりあえず中央にある安寧の広場を見て回ることにした。ここはサイクリングロードがだいぶ端にあったせいで、走行中もあまり風景を眺めることができなかったからだ。湖のほうは自転車からも十分堪能できたので、この広場と奥の大森林。そしてそこからすぐ左手にある遊園地を訪れるというのが、今回の主な内容ということで落ち着いた。
小さく綺麗な花が左右の道いっぱいに広がっている。赤やオレンジ、黄色や白など、実に色合いが華やかだったけれど、どうやら全て同じ種類のものらしい。僕たちは少し輪を広げて、その鮮やかな海原を楽しんだ。
道沿いに置かれていた説明板に目を通す。それは百日草という種類の花で、大体六月から九月にかけて、満開になるとのことだった。まさにちょうど今が咲きごろのようだ。是非この花の絵を描いてみたいと思ったのだが、今日はあいにくとそ時間がない。写真を撮るだけで我慢することにした。
「きれい……」
少し離れた位置で七色の海を眺める和泉さん。まるで始めて花畑を見たとでもいうように、目をきらきら輝かせていた。
何気なくそのまま観察していると、彼女ははっとしたように無表情を作り直し、視線を花から逸らした。
「どう? 結構、こういう場所もいいもんだよね」
「そうですね。……プールよりはマシかもしれません」
あくまで無愛想に、彼女は答えた。
再び百日草に目をむけ、僕はリラックスしたような外面を作った。
「花畑として有名なのはこの安寧の広場だけど、他の場所にもいろんな花がいっぱい咲いているらしいよ。波平原の周りなんかは、向日葵とかが凄いんだって」
「ひまわりですか」
ひまわりはカナラが好きだった花だ。一番好きなのはタンポポだそうだが、それでもランキング的にはかなり上のほうらしい。絵を描く僕の横でにこにことそれを眺めていた彼女の姿を思い出し、僕は今もこの公園のどこかに彼女がいるような錯覚を憶えた。
「……行こうか」
そういうと、和泉さんは無言で頷き、帽子の頂点を僕に見せた。
安寧の広場を抜け、清浄の森へと入る。先ほどまでは花の甘い香りが溢れていたのだが、急に爽やかで新鮮な空気が鼻腔を満たし始めた。
立ち並ぶ木々はほとんどが五メートルを越える巨木で、空は緑色の葉に覆い尽くされている。ここは迷路のような作りになっているためか、歩行者の姿もまばらであまり密集感は得られない。歩いていると、どことなく心が落ち着いた。
いつか本当に千花と来てみたいな。
途中の自販機で買ったペットボトルのジュースを喉に流し込みながら、そんなことを考える。無論、彼女がそれを了承するかどうかは別の話だが。
ふと視線を後ろに向けると、疲れたように和泉さんが袖で汗を拭っていた。あまり動くことが好きではない彼女のことだ。ただこうして歩いているだけでも、それなりにきついのだろう。
園内の中には老人や体の不自由な人のために周回バスが走っている。乗り降り自由で無料だから、利用している人も多いみたいだったけれど、ここは人口林の中であるため、近場に停留所がなかった。
僕はエリア内に設置されているベンチやテラスで適度に休憩をとりながら、ゆっくりと移動を続けた。
「大丈夫?」
「はい。ちょっと暑いですけど、問題はありません」
やせ我慢、というわけではないようだ。汗をかいてはいるものの、顔色は悪くないし、意識もはっきりしている。単に体力がないということなのだろうか。
昼頃になり、遊園地エリアにつくと、どこかほっとしたように和泉さんは顔をあげた。
出店で買ったジャンクフードをパラソル付きの席で食べたあと、僕たちは観覧車に乗ることにした。狭い籠の中なら無理に動く必要もないし、食後の体の調整にはちょうどよかったからだ。
清流のように落ちていく景色を目に留める。高さが増すごとに、足裏の力が抜けるような錯覚を覚えた。
「先輩、どうしたんですか?」
僕の様子を見て、珍しいものでも見るように瞬きする和泉さん。あんまり言いたくはなかったのだけど、僕は仕方がなく白状した。
「高いところ、苦手なんだ。何かちょっと体をずらすだけで、死んじゃいそうな気がして」
「――……へえ、意外ですね。先輩って、何でもそつなくこなしそうだから、怖いものなんてないと思ってました」
「そんな、むしろ怖いものだらけだよ。蟲も怖いし、車も怖いし、怖くないもののほうが少ないくらいだ」
それを聞いた和泉さんは、何故か小さく笑った。
「蟲、怖いんですか」
「うん。カブトムシとか、そういうのは平気なんだけどね。小刻みに動く沢山の足とか、連続して鳴る羽ばたきの音を聞くと、ぞっとするよ」
小学生の頃。玄関に入った途端、壁を這っていたゴキブリに飛び掛られたことがある。あれ以降、蟲は大の苦手だった。
「和泉さんは苦手なものとか、ないの?」
「……――私ですか。わたしは……――そうですね。怒鳴り声とか、うるさい音は苦手です。いきなりそういうのを耳にすると、びくってしちゃいます」
「怒鳴り声か。確かに人によってはかなり怖いからね」
「あとは……暗いところとかもだめですね。見えないところに誰かがいるような気がして、不安になります」
意外と、女の子らしいんだな。
僕は妙に関心してしまった。
「なるほど……。じゃあお化け屋敷とかは無理そうだね。下にあったから、あとで入ってみようと思ってたんだけど」
「絶対、イヤです」
冗談で言ったのだが、和泉さんが軽く睨んできたため、僕は慌てて体を後ろに倒した。
風に揺らされたのだろうか。かすかに籠が傾く。恐怖を隠すように、僕は遠くの場所へ目を向けた。
それほど大きな観覧車ではないはずなのに、少し体を傾けるだけでこの国立公園の全体や、海岸線までを一望することができる。確かにデートスポットしては申し分ない場所だなと思った。つくづく、ちゃんとしたときにこれなかったことが残念でならない。
「先輩……?」
「あ、うん。何でもないよ」
僕は暗い思いをかき消すように、微笑を作った。
「そろそろ、頂上だね」
「そうですね」
空を見上げながら、和泉さんは僕の言葉に応じる。強い太陽の光のせいで、瞳に青空が反射し、独特な輝きを生みだしていた。
僕も視線を上昇させてみて、朝に目撃した月を探したのだが、日が昇りすぎたせいか、どこにもその姿は見つからない。代わりに青空の中を泳ぐように、真っ白な雲がいくつもその身を躍らせていた。
頂上に着き、空の接近が停止したと思った途端、これまでとは打って変わって、広がっていた世界はその距離を遠ざけていく。秒読みのように視界の端に映りこんでくる人工的な景色を眺めながら、僕は人差し指を一度だけ、親指にこすりつけた。
波平原は周囲を木々に囲まれた、総面積十万平方メートルという、公園内屈指の広域エリアだった。
予定よりも早く目的の場所を回りきった僕たちは、たまたま観覧車の中から見えたこの広場に足を踏み入れることにしたのだ。
自販機も、休憩所も、遊具も、観光物もなにもない、ただ広いだけのエリアだったけれど、こうして散歩しているだけで、アフリカの大草原を歩いているような気分になれた。休日の真昼間なら、ここにはサッカーをしている少年たちや日向ごっこをしている中年男性など、様々な訪問客がいるそうなのだが、やはり平日の今日はそのような人間の姿はほとんど見られない。
炎天下に晒されながら中心まで歩いたところで、僕はようやく、動かし続けていた足を止めた。
「どうしたんですか? 先輩」
和泉さんが頬の汗を手の甲で拭いつつ、不思議そうに振り返る。
僕はいつもどおりの調子で表情を崩しながら、静かに口を開いた。
「和泉さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「……何ですか?」
怪訝そうな表情で彼女は目を細めた。アシンになっている前髪がかすかに左右に揺れる。
覚悟を決めるように息を呑んだあと、僕はしっかりと声を吐き出した。
「君は、――誰?」
3
一瞬、その動きが止まる。僕が視線を向け続けると、彼女は落ち着いた声で答えた。
「……何を言っているんですか?」
いつもと変わらない、人形のような感情を感じさせない顔。だがどこかその表情には、若干の歪みが見て取れた。
生い茂る草を踏みしめつつも、ごく自然に左足に体重を乗せる。彼女の目を真っ直ぐに見返しながら、浸透させるように息を吐いた。
「一校の中学に、和泉っていう苗字の子は確かにいたよ。学年も性別も君と同じ。間違いなく和泉結衣っていう名前の子は実在している。……けど、それは君じゃない」
「いきなり、どうしたんですか? 先輩」
ためらうように手を顎の前に持ちあげる和泉さん。ごく自然な反射行動だともいえたけれど、普段動作の少ない彼女がそういう態度をとるのは、逆に不自然極まりなかった。
「千花に調べてもらっていたんだ。あのプールの日の翌日から。彼女には矢吹さんと遊ぶ名目で、何度もゲームセンターに訪れてもらった。ああいう施設は常連になるとそれなりに独自の人間関係が生まれるからね。仲良くなれば他校の情報なんてぽんぽん入ってくるし、その気になれば名前を探ってもらうことも簡単なんだ。……和泉さん。和泉結衣という名の生徒は引きこもりらしくてね。ほとんど学校には来ないで、顔を知らない同級生も多かったそうなんだ」
和泉さんは困ったように眉を寄せたあと、辛そうに言葉を吐き出した。
「私は……辛い目にあって……あまり学校には行く気になれなかったんです。どうしても思い出してしまうから」
「ああ、確かにそう‶本人〟も言ってたよ」
ごく普通の調子でそう言うと、和泉さんの眉が言い逃れできないほどにぴくりと動いた。僕は周囲の様子を確認しながら、
「――……考えてみれば納得できる。あのゲームセンターはこの街で、若者にとって唯一の遊び場だった。あそこに入り浸れば、簡単に多くの情報を掴むことができる。‶触れない男〟は直接的な手段で得物を探し、‶五業〟は物理的な人海戦術をとったけど、君は人から人への伝聞というもっとも簡易な方法を選んだんだ」
遠くのほうで緑の木々が揺れる。空気を読むかのように、無数の鳥が飛び去った。
僕は、五業を捕まえた日のことを思い返した。
彼は――五業は、確かにこう言った。ミスをしたぼくの負けだと、まだ手を出さなければ、わからなかったのにと。
最初は彼が何をいっているのか理解できなかったけれど、コートの人物を思い返し、合点がいった。コートを着ていたということは、姿を見られたくないということだ。腫瘍を利用し他者を、他の生物を操れる桂場が、わざわざ本体でこちらに出向く必要はない。操っている個体にコートを着せる理由も、当然ない。顔を見られたところでそれが桂場本人でないのなら、余計な調査の手間を僕たちに与えることができるから、むしろメリットのほうが大きい。だから、コートの人物は桂場ではなく別の誰かだと、僕は彼の、五業の反応を見てあのとき確信したのだ。
恐らく五業は和泉さんを見張っていた。‶同類〟である彼女が接触している相手なら、自分たちが探している人間に関係があるかもしれないと。
「僕はプールで襲撃してきた人物は、僕たちにかなり近い人物だと思っていた。五業を剥ぎ取ったあとに確認したけど、気絶していた桂場の腹部に傷はなかった。彼を省けば襲撃後に腹部を隠していたのは、君と矢吹さんだけ。だから二人の素性を調べた。初めて会ったのはゲームセンターだし、本当に一校の生徒か怪しかったから。そして……君は和泉結衣という生徒の皮を被った誰かだった」
和泉さんは黙っている。帽子の所為で表情が上手く読み取れなかった。
「和泉さん。君は……どうして……――」
彼女を見据えながら、僕は抱いていた疑問をぶつけようとした。しっかりとした返答をもらいたかった。友人として。一緒に時間を費やした仲間として。
けれど、やはりそれは、叶わない願いだった。
「――……はぁ、何でかなぁ……」
ふいに、和泉さんがそう息を漏らした。これまでの丁寧な口調はどこへやら、一変してラフな言葉使いになる。外見も、顔も、何一つ変わっていないはずなのに、僕の目には、まるで彼女が見知らぬ誰かと入れ替わったように見えてしまった。
「……もうちょっとだけ、遊びたかったんだけどなぁ」
悲しそうにそう小さく呟き、彼女は右腕を上げた。あのとき、プールでみた人物とまったく同じ動き。何かを支配するような、操るような。
僕は一瞬たじろいだけれど、‶異常〟は何も起きなかった。
和泉さんは周囲を見渡し、落胆したように眉を寄せた。ついていないとでも、思っているのだろう。
――だが、それは誤解だ。ここは、この場所は、そういう結果が得られると判断した上で、僕が選んだ場所なのだから。
じりっと、和泉さんの踵がずれる。僕はゆっくりと一歩を踏み出した。
プールの襲撃者が五業ではない以上、あのとき僕たちの身に起きた異変は、腫瘍のせいではない。別の要因によるものだ。僕たちの体は勝手に動かされ、固定され、強制された。まるで、水の流れに沿うかのように。
そして、その負荷は僕の周囲から水が消えた途端、一気になくなった。
安直な思考だけれども、ただの推測に過ぎないのだけれども、僕は、襲撃者の起こせる現象は、水に関係している何かだと思った。だから和泉さんを怪しみその正体を問いつめるときは、絶対に水気のない場所で対峙しようと決めていたのだ。
和泉さんの頬に僅かに焦りの色が見える。それを目にとめ、僕は自分の推測が当たっているのだと確信した。
さらに一歩、近づく。こちらの意図に気がついたのか、和泉さんが苦笑いのような顔で文句を言った。
「先輩って、ほんとイヤらしいですね……!」
表情を変えず、僕は片手を浮かせた。彼女を傷つけるつもりはないけれど、万が一ということもある。
「……五業は探している獲物が手に入れば、自分たちは救われるといった。不均一さをなくせるって。もし、君が本当に助けを必要としているのなら、できれば僕は協力したいと思ってる。けど、そのためには理解が必要なんだ。僕は君たちのことを何も知らない。……和泉さん。話し合えば誰も怪我をせずにいい結果に辿り着けるかもしれない」
「――そんなに、上手くいくわけないでしょ」
突然、和泉さんは手持ち鞄から何かを取り出した。半透明の筒と取っ手。あれは水鉄砲だろうか。そんなもので何をと思ったものの、すぐに気がつく。彼女の起こせる現象は水に関係している。もしあれっぽっちの水でも何か影響を生み出せるのならば――
吹き出した水が左わき腹に当たった瞬間、僕の体は後方に吹き飛ばされた。水の勢いそのままに地面の上に倒れこむ。ハンマーで殴り飛ばされたかのような衝撃だった。どう考えてもこれは水鉄砲の威力ではない。
こんなことも、できるのか……!
痛みを耐えるように奥歯を嚙む。追い詰めたと考えていたのだが、彼女は彼女なりに緊急時の備えをしていたらしい。
泉さんはそのまま身を翻し、一目散に走って逃げようとした。けれど、その足取りは異様に遅い。
元々体力のない彼女をここまで無理やり歩かせ続けたのだ。多少休憩を挟んだからといて、溜まった疲労はそう簡単に癒されるものではないだろう。波平原は遮蔽物も何もないただの広場。いくらあがこうと逃げきることは不可能だ。
まだ、追いつける。これくらいなら……!
水が当たった箇所は内部で鐘が鳴り響いているかのように煩かったが、腕を動かせないほどではない。僕は背中で地面を弾くように飛び起きると、すぐに彼女の後を追いかけた。
和泉さんは振り替えざまに何度か水弾を飛ばしてきた。別に命中したわけでも、かすったわけでもないはずなのに、僕はそのたびに大きく体を後ろへ仰け反らせた。まるで通り過ぎていく水の塊に、体が引きずられているかのようだった。
それで確信した。どうやら彼女は、水の流動に相手の体をシンクロさせることができるらしい。思い返せば水中に体が沈みかけたとき、足元には排水口があった。あのときの事態もこれで説明がつく。
高圧力の水を一点に撃たれれば、それは銃弾を受けているのと同じだ。人の細胞の大部分は水でできている。当たった水の流動につられるようにその部分だけの水が移動すれば、実際銃弾を撃たれているのと同等の効果をもたらすに違いない。もし今日が雨であれば、彼女はまさに無敵だっただろう。
厄介な現象ではあったが、彼女が起こす効果には弾数の制限がある。水鉄砲の中に貯蔵できる水分なんて微々たるものだ。いくら邪魔をされようと、二、三発も打てばそれで反撃は終わりとなる。身体能力の差は歴然だし、近距離でさえなければ避けることも容易い。
予想した通り十秒も立たず、僕は和泉さんの小さな背中を眼前に捉えることができた。
「うっ――!?」
腕を掴んだ瞬間、強引に彼女が身を引いたせいで、同時に草の上に倒れこむ。僕はすぐに上半身を起こし、彼女の反撃に備えようと思ったのだけれど、和泉さんは立ち上がろうともせずに、力なく腕を倒した。背中を地面につけたまま、じっと悲しそうに僕の目を見つめている。
諦めたのか?
元々この場所を選んだのも、彼女の起こす現象を封じようとしたのも、全ては対話を行うためだ。向こうに抵抗する気がなくなったのなら、願ってもないことだった。
何か声をかけるべきだろうか。僕が口を開こうとしたところで、彼女は目を閉じた。そして流れるように、ゆっくりとそれを開く。
「先輩。……もう、遅いんですよ。私たちには時間がない。もう、ないんです」
「――和泉……さん?」
彼女の言葉の意図を理解しようと意識を反らした途端、僕の体は再び吹き飛ばされた。先ほどよりも何倍も強い力で弾かれるように芝生の上を転がり、彼女から遠ざかる。衝撃のショックで呼吸が止まり、心臓がエンジンのように唸った。
なに、が……!?
大砲の弾でも撃たれたかのようだ。胸が、腹が、体の前面が根こそぎ持っていかれたような錯覚を覚える。
周囲に水気のものは何ひとつない。恐らく彼女の持っている水鉄砲の中身も空のはずだ。一体どうして自分が吹き飛ばされたのか、理解が追いつかなかった。
「公園の下って、配水管を埋め込んでいることが多いんですよ?」
立ち上がった和泉さんは、憂いを帯びた目で僕を一瞥し、走り出す。僕はすぐに彼女を覆うとしたけれど、体が思うように動かなかった。
配水管? 確かに事前に調べたとき、あの湖エリアが貯水池のような役割をしているという情報はあったけれど、土の下までは見落としていた。
直接触れていない水流の影響も利用することができるのなら、市外地に出られては勝ち目がない。町の中は下水や配水やらなにやらで、水のない場所を探すほうが難しい。僕は逆流しそうになる腹の中身を押さえつけながら、死ぬ想いで立ち上がった。
この程度で諦めるわけにはいかない。せっかく正体を特定したのに、ここまで追い詰めたのに、今逃がせばその努力が無駄になってしまう。
よろけつつも歩き出そうとしたところで、地面に落ちている物体を発見する。それは、和泉さんがかぶっていた野球帽だった。
朝の、彼女の笑顔を思い出す。
服装を褒められて恥ずかしそうにそっぽを向いた姿。
好きな小説の内容を楽しそうに語っていた笑顔。
忘れ去られ、寂しそうに風に揺らされている帽子は、まるで彼女のそんな気持ちを代弁しているかのようだった。
別に、何か意図があったわけではない。ないけれど、僕はなんとなくその帽子を見過ごすことができなかった。痛む体を動かし、ズボンのポケットの中に仕舞いこむ。
もしかしたら、まるで彼女を置いていくような気がして嫌だったのかもしれない。こうしてはっきりと正体が露見した今でも、僕は和泉さんのことを友人だと思っていたから。
走り去っていった方向を眺める。あっちは確か砂漠を模した岩礁エリアがあったはず。僕はそこへ移動する途中に、嫌なものがあったことを思い出した。自転車からではあまりはっきりとは確認できなかったが、遠目でもそれの吐き出す液体を眺めることはできた。
愕然としたが、追わないわけにもいかない。痛みを通り越して気持ち悪いくらいになっている腹部を押さえながら、僕は重い足取りで彼女の待ちかまえる場所に足を向けた。
4
まだ昼を少し過ぎたばかりで、空は青いままだ。
太陽は燦燦と輝き、蝶々(ちょうちょう)は心地良さそうに空気の海原を泳いでいる。
二百メートルほど遠くを見れば、芝生の上を幼い子供が元気に走り回り、優しそうな母親がそれを慈愛の目で見つめていた。
まったくこんな場所で、こんな平和の象徴とも言えるような場所で、僕は何をやっているのだろう。
状況は理解しているのだが、彼らとの空気感が違いすぎて、妙に滑稽な気分になる。
一人苦笑いをしていると、散歩の途中なのか真面目そうな少年が不信気にこちらを見てきた。ここは波平原の周囲を囲うように設置されている正規ルートの途中なので、意外と歩行者もちらほら存在している。
僕はそ知らぬ顔で彼をやり過ごしながら、アスファルトで整備された道から降り、木々の中へと踏み込んだ。道という道はなかったけれど、和泉さんはきっとこの先にいると確信していた。自転車で探索中、彼女は僕よりも長くあの場所に目を奪われていたから。
森のように生い茂った壁が開け、明るい場所に出る。霧吹きをかけられたかのように、顔に湿気を感じた。
所々で吹き上がる半透明な水の壁。
足元に広がった鏡のような青い膜。
円を描くように周囲の池に浮かんでいるのは、蓮の花だろうか。何だかお寺にある絵のような光景だと思った。
ちゃぷっと、水の音が響く。ゆっくりと走り寄ってくる波紋を見て、僕は顔を上げるまでもなく、それが彼女の起こした現象だと理解した。
「――綺麗ですよね。ここって、何かのデザイン賞を取ったらしいですよ。そこの台座に書いてありましたけど」
抑揚のない声色のまま、顎で右方向の黒いオブジェクトを指す和泉さん。僕はちらりとそれを一瞥しながら、
「和泉さん。プールでの襲撃で、僕は君を傷つけた。普通ではない方法で。それなのに、何で君は、これまで僕たちに何もしてこなかったの? 明らかに怪しいとわかっていたはずなのに」
先ほど聞き逃した質問をぶつける。
和泉さんは表情を変えず、どこか遠くを見るように答えた。
「私は、楽しかったんだと思います。みんなで集まって、わいわい騒いで。下らないことを話す生活に。……前に、家のことを話しましたよね? あれって、半分は本当なんですよ」
指で噴水の淵をなぞりながら、かすかに笑みを見せる。僕は突っ立ったまま、彼女の姿を視界に捉え続けた。
「私の家は金銭に恵まれない家庭だったんです。毎日、いかにお金を作るか、いかに節約するか、いかに空腹を癒せるか。学校から家に帰れば家事洗濯料理に追われ、友達と遊んで過ごすなんて、夢見たいなものでした。私にとって生きることは、まさに生きる以外の何でもなかったんです。ただ、必死でした。それだけが全てでした」
前に彼女が放った台詞を思い出す。
――いざ自由になってみると、逆にやりたいことがなくて、すごくつまらないんですよね。一日の終わる時間が、物凄く長く感じます。
カナラを探すために、和泉さんは人脈という方法を選んだ。それは正確性にはかけるけれど、安易で効率的で、応用も広がる方法だった。多分彼女は、僕や千花が転校生という話を聞きつけたのだ。それで皐月さんに無理を言って、プールの件を提案した。僕と千花は帰宅部だし、‶触れない男〟のことを調べていた。中のいい友人である皐月さんが、何者かに誘拐されかけたという事実もあった。話を聞いた彼女にとってそれは、十分に興味深い話だったことだろう。
ゲームセンターの営業時間は限られている。まさかそれしか情報収集をしていなかったということはないだろうけれど、‶生前〟と比べて、彼女には十分過ぎるほどの時間が余っていたはずだ。やることがないというのは、ある意味拷問のようなものだ。人は目的がなければ何もできない。これまでとは違って余裕を持ってしまった和泉さんは、そこに楽しさを感じた。心地よさを感じてしまった。だからそれを失うことをためらって、すぐに行動に出れなかった。
……ますます嫌になる。
今日一日行動を共にしてわかった。彼女は別に悪人じゃない。ただ何らかの理由があって僕たちと敵対しているだけなのだ。それなのに、それなのにこうして向き合い争わなければならない。
僕の視線をどう受け止めたのだろうか。彼女は歌うように言葉を綴った。
「そんな顔しないで下さいよ先輩。どうせ私はもう死んだ身なんです。今は寄せ集められ奇跡的に動いているだけの混ざり物。こんな化け物のことを、先輩が心配する必要なんて、まったくないですよ」
混ざり物?
確か五業は自分のことを、無理やり繋ぎ合わされて再構成された存在だと言っていた。それに千花も‶触れない男〟の記憶には、本田克己意外の残滓が複数存在していたと述べていた気がする。何か重要な事実に繋がりそうだったけれど、和泉さんはその暇を許してはくれなかった。
「正直にいえば、私は先輩のこと、好きでしたよ。一緒にいると落ち着くし、楽しかったです。でも、こうなったらもう、――仕方ないですよね?」
仕方がない。
それは、殺すということなのだろう。
僕は武術の熟練者でも歴戦の兵士でもなんでもない。殺気を読み取るなんて器用な真似はできないけれど、彼女の意思が本気であることだけはわかった。和泉さんは本気で、僕の命を奪い取るつもりでいる。
あんなにも淡々と。
あんなにも冷たく。
あんなにも悲しそうに。
朝、嬉しそうにお気に入りの小説の話をしていた彼女の笑顔を思い出す。あれは、決して嘘じゃなかった。彼女の本心からの笑顔だった。彼女は本当に、僕と、僕たちと一緒にいた時間を楽しんでいたのだ。それなのに、今はその面影がまったくない。見えない何かに強制されているかのように、傀儡のように彼女は手を血で染めあげようとしている。
どういう理由があるのかは知らない。彼女たちには、彼女たちなりの理由があるのかもしれない。人を何人も殺してでも実現したいような、目的のための理由が。でも、それは僕も同じだ。今ここでやられるわけにはいかない。僕が死ねば父と姉のショックは計り知れないし、僕には、カナラを――千花を助けないといけない義務がある。
プールで一度、彼女の現象を経験できて良かった。一瞬だけなら、蟲喰いは彼女の流動強制を無効化することができるとわかったから。
対話が叶わないのなら、やることは一つだけだ。ここで彼女に説得を試み続けるほど、僕は楽観主義者でも熱い男でもない。銃口を向けてくるのなら、それを叩き落す。
僕は何も失いたくはない。傷つけたくはない。例えどんな犠牲を払おうとも、もう二度と、大事な人がいなくなるのはごめんなんだ。
腕を、伸ばす。
普通の人とは異なった認識で、世界を、空間を捉える。毎日、毎日、夢の中で殺し続けてきた自分に対するように、僕は――彼女に向かって、その存在を食い破るための現象の切っ先を静かに向けた。
5
原理や理屈はさっぱりわからないが、とにかく和泉さんは他者の体を水の流れに連動させることができる。
周囲の大部分を水に囲まれたここは、僕にとってかなり不利な場所だ。逃がすわけにはいかないと追ってきたものの、どうすればこの事態を丸く治められるのか、皆目検討もつかなかった。
――この国立公園には閉園時間があったはずだ。僕がここにいる以上、和泉さんは噴水の近くから出ようとはしない。このまま対峙していれば係員が来て……
身分を調べられるようなことになれば、不利になるのは間違いなく和泉さんだ。僕はただ普通に自己紹介をして、取調べを受けるだけでいい。……いや、駄目だ。そんな状況になれば、和泉さんは間違いなくその人を殺すだろう。一見すれば彼女はただの年頃の少女。この場で警察を呼ばれるなんてことにはならないだろうし、余計な犠牲を生むだけだ。やはり、僕がここでけりをつけるしかない。
和泉さんが華奢な手を伸ばす。
同時に、彼女の足元の地面がガス噴射のように弾けた。そこから大量の水が湧き上がる。
「え?」
てっきり近づかなければ害はないと思っていたのだが、そう甘くはないらしい。和泉さんの手に合わせる様に柱となった水流は一変して、僕に向かって飛び掛ってきた。
――そうか……! 水の流れを同調させられるということは、別に人体の水分を操作することだけではない。一つの流れに他の流れを合わせることも可能ということなのだ。和泉さんは地面の下にある配水管内の水を噴水に同調させた上で、今度は別の配水管の動きに合わせて攻撃したのだ。
普通に受ければただ体が水浸しになるだけだ。濡れてうっとうしくなることはあっても、それで怪我をすることなんてありえない。だが和泉さんの現象が加わったあの水は別だ。あれはアメフトの選手が全速力でタックルをかましに来ているようなもの。当たり所が悪ければ骨の一本や二本は軽く持っていかれる。
真横に飛びのき、水の大砲を避ける。次にどう接近しようかと思いを馳せた瞬間、足に誰かの手が絡まったかのような感触を感じた。
ぎょっとして下を向けば、そこには僅かな波紋が走っている。
小石でも投げたのだろうか。僕の足首から先は強制的に後ろに押され、膝が勝手に折れ曲がった。
嘘だろ……! たったこれっぽっちの水の動きにも同調してしまうのか……!?
眼前では次の砲撃の用意が始まっている。泉さんは腰を落とした僕を視界に収めると、光を感じさせない目つきで、それを打ち放った。
考えている暇はない。僕は反射的に片手を上げ、蟲喰いを発生させた。分子並の小さな欠落を複数生み出し、水素と酸素、それを動かしている彼女の‶何か〟を強制的に断ち切る。
迫っていた水の塊は僕の目の前で爆散し、左右に飛び散った。雨のようになった飛沫が上から落下し、全身を塗らす。現象の連続行使はできないのか、それに体を押さえつけるような効果はなかった。
「どうなってるんですかね。先輩のそれ」
首をかしげながら再度腕を振り下ろす和泉さん。もう足は自由に動く。今度は斜め後ろに下がるようにそれを避け、僕は彼女を見上げた。
「私の力そのものを消すなんて、不思議な現象ですね。‶操作〟や‶変異〟ならともかく、完全に存在を消滅させる……――先輩、あなたはそれほどにも、一体何を消したかったんですか?」
話しかけつつも、和泉さんの目は笑っていない。僕は左に走り石台の上に飛び乗った。顔の真横を水の塊が通過していく。
蟲喰いを使えばあの攻撃を防ぐことはできる。このまま消し続けながら近づけば――。いや、彼女の起こす現象は特定しづらい。近づけばそれだけ足を取られる可能性も増す。それに、あそこは噴水の目の前。水の動きは暴風雨に等しい。流動自体をどうにかしない限り、例え接近が叶っても、ぼろぼろに引き裂かれるだけだ。
息荒く水の砲弾を粉砕し、回避し続けながら、僕は口の中に苦いものを感じとった。‶触れない男〟のときは、彼が千花のことを軽視していたから隙をつけた。五業のときは、相手の戦力不足と相性で助かった。しかし今回は、どうにも上手くいく気がしない。
そもそも僕には和泉さんを傷つけるつもりはない。ただ対話がしたかったからこの国立公園に誘い込んだ。水気のない場所を探し、疲労させた。無力化させることが目的だった。
でもここでは、どうあがいても彼女を無力化することなんて不可能だ。これほど大量の水を全て吹き飛ばすことなんてできないし、吹き出したとしても配水管のせいで次から次に溢れてくる。例えるなら、穴の空いた船の中で必死に水すくいをしているようなものだ。
なかなか決着がつかないことに業を煮やしたのか、和泉さんは目つきを改め、噴水の上に飛び乗った。そのまま指揮者のように腕を回し、周囲の水流を操作する。背後から降り注ぐ飛沫のせいで、プールのときのようにアシンの前髪が顔に張り付いていた。
何か嫌な予感がする。
誰かと会話をしているときに失言を言ってしまい、相手の空気が変わってしまうことがある。これはちょうど、そのときの感覚に似ていた。
あれほど腕を動かしているのにも関わらず、周囲の水には何の変化も異常もない。これほど時間をかけて何をしているのだろうか。と、そう思った刹那――
閃光のような何かが、肋骨の横を通過した。
高層ビル大の紙やすりを万力で引き絞ったかのような不快極まる音が鳴り響き、背後の大木が木の葉のように揺れる。
一瞬何か起きたのか理解できずに、僕は動くことも忘れて、その場に立ち尽くしてしまった。
ずきりという痛みを感じ、わき腹に手を当てると、じんわりと赤いものが滲み出していた。僅かにかすってしまったようだ。そのまま背後を確認すると、先ほど揺れた大木の中心に、小さな穴のようなものが空いていた。貫通こそしていなかったが、かなりの深さだ。
水の流れというものは断面積が小さくなることに反比例し、勢いを増す。僕は彼女が水流を操作することで、その現象を引き起こしたのだと悟った。
……冗談じゃない。あんなの、まるでレーザー砲だ。反応できるわけがない。
再び優雅に腕を動かし始める和泉さん。僕は全身を噴水の水と汗でびしょびしょにしながら、彼女に向かってつっこんだ。
水流を調節して一方向の断面積を少なくするには、かなりの用意と集中力が必要になるはずだ。その前に彼女の動きを乱すことができればいい。
幸いにも、この噴水広場はそれほど大きなエリアではない。あくまでメインとなる砂漠エリアと波草原の間にあるおまけのようなもの。五秒も経たず、僕は和泉さんの目と鼻の先に迫った。
腕を伸ばし、彼女のパーカーに指を伸ばす。同時に、和泉さんの目に妙な光がともった。
噴水台の根元。円柱状の台座の一点から、太陽の光を内に取り込んだ液体の塊が射出される。僕は咄嗟に蟲喰いを展開したものの、距離が近すぎるためか、完全には水の勢いを殺しきることができずに、そのまま弾かれるように噴水前の地面に落ちた。木製の足場が視界に飛び込み、輝く水を受け止めている。
まずい……!
この状態はまずい。
どんな動物だって、自身を食べようとしている相手の前で、無防備にお腹を晒したりはしない。こんな確実に殺される状況なんて、作り出しはしない。
泉さんの瞳に暗い光が灯る。あれは、僕の死を確信した目だった。
いやだ。
僕にはやることがある。
僕は、まだやらなくてはならないことがある。
気がつけば、――僕は叫んでいた。
それは、声にならなかったかもしれない。音として、喉から出なかったものかもしれない。
しかしそれでも、僕は叫んだ。
それは本能か、それとも別の理由なのか、自分でもわからないくらい、死という結果を嫌がった。
彼女のレーザー砲の発射台に向けて、寝そべったまま蟲喰いを放つ。
消えろ!
「なっ……!?」
勝利を確信していただろう和泉さんは、僕の思わぬ反撃にたじろぐ。僕の手から広がった半透明の波紋が触れた瞬間、彼女の立っていた台座に大きなひびが広がり、一気に崩壊した。
雷のごとき動きと速度で黒い亀裂を生み出し領分を増加させる蟲喰い。噴水を構成していた台座の一部は崩れ落ち、彼女の足を宙に浮かばせる。
予想外の事態に動揺したのだろうか。泉さんが目をそらした隙をつき、僕は彼女に向かって飛び掛った。
抱きつくように前に飛び出しながら一緒に噴水の中に落下する。
巻き込んだ空気と口から漏れた気泡が鎧のように周囲を覆いつくし、視界全体を塞いだ。
差し込む太陽の光が天使の手のように上から降り注ぐ。
色も、音も、不必要なものが極限まで抹消された一種の異世界。
ただ水素と酸素の複合率が増えただけなのに、境界なんてなにも存在しないはずなのに、それだけで、僕はここが地上とは違う場所だと、錯覚させられる。
腕の中の和泉さんも落下したこの瞬間だけは、奇妙なほどに動きを止めていた。
幾重もの水の層の向こう側に、彼女の顔が見える。
相変わらず寂しそうに、悲しそうに、そしてどこか悔しそうに、こちらを見上げている。
僕は沈んでいく彼女の体を引き上げようともがいたのだけれど、上手く底を見つけることができずに、足を遊ばせることしかできなかった。
光を頼りに上下を確認しようと、差し込む白い柱に目を向ける。すると水面ごし緑がかすかに見えた。
僕は彼女を掴んだままそこから上に顔を出そうとしたのだが、予想以上に和泉さんの体は動かない。まるで彼女自身が、外の世界に出ることを嫌がっているかのようだった。
もう一度力を入れようとしたとき、差し込んでいた光の一部が掻き消えた。何かに遮られたかのように、黒い闇が充満する。
振り返り、上を向く。どうやら誰かが噴水の向こう側に立っているようだった。黒い長髪に華奢な細い体。どこか見覚えのあるそのシルエットは、
――カナラ……!?
そう感じた瞬間、僕は意識が鷲掴みにされているような錯覚を覚えた。これまでのように穏やかな浸透ではなく、無理やり精神を掴み取られているようなそんな感覚。
口から気泡が漏れる。僕は頭痛と眩しさに耐えながら、そのシルエットに向かって手を伸ばそうとした。しかし、思うように体が動かない。
カナラらしき人物の真横にもうひとつ影が立つ。顔はよく見えないが、どうやら少年のようだった。
彼が口を動かしカナラに何かを言った途端、僕の意識は、もぎ取られるようにこの場から霧散した。