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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
19/42

第十九章 終業式

  1 


 道で拾ったかえるの亡骸を入れると、腫瘍は水を得た魚のように元気を取り戻した。

 つきさっきまで乾燥しきった干し芋のようだったのに、一気に肉に水気がさし、血色がよくなっている。どうやら、腫瘍単体で長時間動くことはできないらしい。ガラス瓶の中、ふんぞり返るように腰を下ろした蛙を見て、僕は何だかアニメのキャラクターみたいだなと思った。

「傷、大丈夫?」

 ベットに座っている千花が、僕の足を見つめながら心配そうに尋ねる。本音を言えばかなり痛かったけれど、見栄を張って微笑んだ。

「うん。だいぶ楽になったよ。普通にしている分には問題なさそう」

「そっか。よかった」

 それを聞いた千花は、肩の力を抜いてゆっくりと体を後ろに倒した。

 僕は椅子に座りなおし、自分の足を見下ろした。太ももの上までめくりあげられたジャージの下に、大げさなほどの包帯が巻かれている。数時間前、こちらに戻ってきてから救急病院で処理してもらったものだ。出血量に比べてそれほど深い傷ではなかったらしく、何針か縫うだけで施術を終えることができた。感染症の心配もないとのことだった。

 僕は散らばっていた消しゴムや鉛筆をどかすと、部屋の中央にあるテーブルに五業の入った瓶を置いた。二十三時を示す時計の音が鳴り響いたが、父は今夜、夜勤だ。五業に質問する時間は十分にあった。

「さて……」

 ふてぶてしい表情で頬を膨らませている小さな蛙に目を向ける。視線に気がついたのか、背中に乗っかっている腫瘍がわずかにひくついていた。

 あの後――……目を覚ました桂場は、一切の出来事を覚えていなかった。

 大量の動物の死体を見られる前に緑也たちを帰す必要があったため、あの場ではあまり大した聞き込みはできなかったけれど、直感でそれが嘘でないことはわかった。その手の真偽を見極めるのは得意だったから。

 だから、一連の事件の真相を聞けるのは、この小さな肉の塊しかいない。こいつしか、聞き出せる相手はいない。

 僕は彼の様子を伺いながら、指を自分の膝の上に置いた。

「君は……――」

「へ、いい気になるなよ」

 口を開こうとした途端、五業がどすの利いたがらがら声をひねり出した。まだ体の操作に慣れていないのか、蛙の表情が妙に引きつっている。

「ぼ、ぼくは本体じゃない。そ、れに近い存在ではあるけど、ほ、本体じゃないんだ。まだ、終わってないぞぉ」

「どういう意味?」

 背後から千花が質問した。怪訝そうに片方の眉を寄せている。

「ぼくたちの現象は、自分自身の肉体の周囲でしか起こせない。そ、それは絶対のルール。だからぼくは、本体の一部をいくつかに分離させて、子局のように他の腫瘍の管理をさ、させていた。ぼくは、ぼくはそのひとつにすぎないんだ」

 こちらに恐怖を与えようとしてわざと饒舌になっているのだろうか。それとも、あの瓶の中に残っていたアルコールが影響して? 確かに粘膜だらけの彼の体なら、恐ろしい速度で成分を吸収すると思うけれど……。

 とにかく意外なほどに、五業は分かりやすく説明をしてくれた。

「君の本体っていうと、腫瘍を操っている人間がどこかにいるってこと?」

「ち、違う。ぼ、ぼくにはもうそんな体はな、ない」

 悲しそうに蛙の目を細める五業。

「ぼ、ぼくができるのは、自分の意識を己の肉体全域に共有させることだけだった。‶あの人〟は、せ、精神感応、感覚外知覚とか、言ってたかな。最初、ぼくにできることは自分の全身を把握する、体の隅々まで意識を共有させる、それだけの役に立たない力しかなかった」

 あの人?

 僕は彼の記憶の中で見た、白衣の影のことを思い出した。

「な、何度も繰り返された実験の影響で、ぼ、ぼくはいつの間にかぼくの体を分離出来るようになった。ぼくの体には意識が残っていたから、ぼ、ぼくは分離されてもぼくのままだった。そのうち、ぼくは実験で使われた人工細胞の効果もあって、他人の体に寄生し、意識を強制的に乗っ取れるようになった。子局となる固体は細分化の限界があるけれど、それ以外の固体は、かなり小さい大きさにすることもで、できるのさ」

 なるほど。要はこの個体は、分散化し過ぎた腫瘍をまとめる基地局のようなものか。他人に寄生させた細胞は小さすぎて能力を十分に発揮させることは出来ない。だからこうして彼の細胞比率の多い個体を小隊長として配置することで、肉体への意識共有という‶現象〟を維持させていたのだろう。

「それより、せ、穿。こ、こんな死体じゃぁ、長く生きられない。い、生きてる体を入れろよ。まだ死にたてみたいだけど、こいつじゃあ、い、一日も持た、たないぞぉ」

「……新しい媒体が欲しいのなら、僕の質問に答えて欲しい。君は、君たちは一体何なんだ?」

 ‶触れない男〟に問いかけたものと同じ質問を、僕は繰り返した。

 五業は一瞬言葉を詰まらせたが、我が身の大事さが勝ったのか、ぼそりぼそりと話し始めた。

「ぼくたち、は……再生されたんだ。死んで、捨てられて、回収された。て、適正と、強い思いが残っていたか、ら……」

「何を言ってるの?」

 僕の疑問を千花が代弁する。

「な、なあ穿。知ってるかぁ? この世界の物体は、認識される、観測されることで、へ、変化を起こすんだ。音を聞こうとすれば、鼓膜の振動やら空気の動きやらで、波長自体がか、変わる。景色を見ようとすれば、し、視線による光の反射や収束で、その光子の動きが変化する。こ、この世界は誰かが、何かが、それを認識するだけで、本来のものとはちが、違った形に変質する。所謂いわゆる〝観測者効果〟ってやつだよ。……も、もし、その認識が、人よりも深く理解できるものがいたら? もし、他者に感じ取れない範囲や領域まで認識できることがで、できたら? せ、世界は〝その認識〟に合わせて変化する。――ぼ、ぼくたちは、そういう可能性を持っていたから、回収され、蘇えさせられた人間なんだ」

 鼻息荒く、五業はそう述べたが、僕には彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

「で、でも、ぼくたちは自然な存在じゃない。無理やり継ぎ合わされて、再構成されたまがい品なんだ。そ、その女が、ぼ、ぼくたちの探している人物なら、ぼくたちの体を、ぼ、ぼくたちの不均一さをまともにすることが、ことができるはずな、なんだぁ」

「千花が? 何で彼女が……どういう意味だよ」

「その女は、生まれ持っても純粋な超能力者だ。そのお、女の肉体を使えば、ぼくたちの欠落を治し、ま、まともな生物とし、して生きさせることが、できる。その女が、いれば、ぼくたちのなかま、をを、増やすことができる」

 なにやらしたり顔で彼女を一瞥する五業。その瞳が、今度は僕に向けられた。

「お前、なら、わかるだろう。せ、穿?」

 何を、言っている?

 僕は彼を見つめたまま、動けなくなった。

「お前が、そのいい例じゃないか」


  2


 カナラが殺される。

 あの瞬間、そう思った僕の頭に、何かが触れたような気がした。

 侵入し、無理やり意識を誘導しているような、強く引き付けられるような、異質で鈍い違和感。

 クオリア――内観現象を認識するための感覚質。

 新たにそれが芽生えたのは、

始めて蟲喰いが発生したのは、

 ――その直後だった。


「カナラが、僕の体を変えた……?」

 勝手に、指の動きが止まる。

 たしかに蟲喰い現象の理由は、彼女にあるような気はしていた。何らかの関係はあると思っていた。

 だから僕は、この町でカナラの姿を見たときに、触れない男の噂との関係性を真っ先に疑ったのだ。

 予想はついていた。ついていたけれど、こうはっきりといわれるとショックを隠せない。

 僕は一体彼女に何をされたのだろう? 何のために、こんな現象を起こさせられたのだろう。

 あのとき、彼女は泣きながら走り去っていった。

 まるで罪から遠ざかろうとしているかのように。

 僕から、逃げようとしているかのように。

「せ、穿くん」

 千花が辛そうな目で僕を見上げる。彼女からすれば、それは自分が起こした出来事になるはずだから、後ろめたい気持ちにでもなっているのかもしれない。だが、僕は知っている。僕は、理解している。あれは千花じゃない。真方カナラ。間違いなく、彼女の起こした出来事だ。

 僕は大丈夫だと、静かに手を振った。

 確かめなければならないことは、まだ山のようにある。

 この男からしか、こいつからしか、今はまだ手がかりがない。

 今のところ、こいつは素直に話をしてくれている。自分の命を握られているからということもあるだろうが、理由を話すことで僕たちの協力を得れるかもと考えているのかもしれない。

 指の隙間から覗くように、五業に目を向ける。

「君たちは……何かの組織なの? どこかの研究所みたいな、特別な場所に在籍している……だから、その研究のために千花を必要としていた?」

「組織? 研究所? ふっ……ふひっ、ひひひっ」

 突然五業は笑い出した。蛙の顔を盛大に歪ませながら、目を半円状に細める。

「そ、そんな、そんな大層なもんじゃあないよぉ。ぼ、ぼくたちはもっとこじんまりした集団だ。ぼ、ぼくたちは――……」

 何かを言いかけた、その刹那だった。

 目をくわっと見開き、舌をこちらに向かって突き出したまま、五業は動きを止めた。

 まるで凍らされたかのように、同じ表情のまま固まっている。

 二秒ほどだろうか。僕たちが異変に気がついた直後、彼の背中から生えていた触手が、突然暴れまわり始めた。

「きゃ、な、なに……!?」

 千花が驚いて後ろに退く、僕もびっくりして椅子を倒しかけた。

「あぁぁぁああっ、なんでだよぉ、なんでゆぉおおっ!?」

 意味の分からない絶叫を上げながら、ひたすらガラスに手や触手を叩きつける。何だか苦しんでいるようだ。

「ご、五業?」

 立ち上がりながら、小さな瓶の中の彼を見つめる。五業はせつなげにうるんだ瞳をこちらに向けた。

「――ぼ、ぼくたちの体はぶ、分解されたけ、けど、それでも、メインとなる存在は、い、居たんだ。ぼ、ぼくたち自身を客観的に認識するための、し、支点となる固体が、そ、それがや、やられたぁ……!」

 支点? そうか。五業という現象が‶認識〟によって発生しているものなら、その全体を一つの現象として理解している固体が必要になる。肉体的にはともかく、意識共有という現象にとっての、現象の発生源、共有元の意識は絶対に必要だ。それが、やられたということなのだろうか。つまり、五業はもう……――

「ほぉおっ、裂かれるるぅう、意識が、きえるぅうう!?」

 必死に触手をガラスに叩きつけるも効果はない。そもそも、攻撃を受けているのは彼の意識の大本だから、この腫瘍がどうれだけ暴れても無駄なのだ。

 僕はどうにかして五業を助けられないか考えたが、なにも思いつくことができなかった。

 だんだんと、干からびていく五業。

 彼は最後に救いを求めるようにこちらを見ると、そのまま、何もできずに絶命した。ぱったりと、全ての触手が蛙の亡骸の上に落下する。

「え、うそ、し、死んだ?」

 千花がゆっくりと瓶に近づいてつっつく。だが五業は、ぴくりとも動かなかった。

 僕は机の上の空き瓶を拾って中を覗いてみた。死んだふりをしているようには思えない。この惨状、どうみても生命の鼓動は感じられなかった。

 がっくりと椅子に腰を下ろす。

 まただ。‶触れない男〟のときと同じだ。誰かが、誰かが彼らを殺している。

 このタイミングが偶然かどうかはわからない。だが得体の知れない第三者がいることだけは、確かなようだった。

「何で、どうして……」

 ガラス瓶に驚愕の目を向けたまま、千花が呟く。僕は何も言うことができず、そのまま椅子に寄りかかり続けた。

 これで貴重な手がかりを失ってしまった。



  3


 校長の話が体育館に木霊する。今日は終業式。夏休み前の最後の登校日だった。

 体育館の内部は遮光カーテンで覆われていたのだが、暑さ対策のためか窓は全て全開になっていた。風に揺らされカーテンがそよぎ、ときたま光の帯が内部に侵入してくる。体育館の真ん中ならいざ知らず、ここはちょうど端にあたる位置で、その光がもっとも差し込みやすい場所だった。

 僕は目を細めながら、無感情に校長の姿を見続けた。

 交通安全、勉強の継続、羽目を外しすぎないこと……お決まりの内容が無限に等しい余韻を持って語られる。

 大抵の人間はそれでも真面目に話を聞いていたのだけれど、中には明らかにスピーチに興味を持っていない者たちも多くいた。先生たちの視線の隙をつき、友人同士でおしゃべりを行う者。ただ時間が過ぎ去ることだけを期待し、ぼうっとしているもの。僕はできるだけ話を聞いておこうとしたのだけれど、定期的に目を攻撃してくる光波のせいで、どうにも意識がそちらにむけられない。気がついたら、僕も彼らと同じように脱線し、いつの間にか五業について思いを馳せていた。

 クラス中からの迫害に遭い、おとめられた彼。本名は分からなかったけれど、中学生であることは何となく理解できた。

 彼は生きることが苦痛でしかなくて、生きることが苦しくて、自ら命を絶って死を選んだ。それが正しいのかどうかは別として、それで、少なくとも彼の人生は終わるはずだった。無に帰るはずだった。はずだったのに――彼は何者かによって、蘇えさせられた。それも、あんなに悪質な存在として。

 光の帯が一瞬途切れ、校長の顔がよく認識できるようになった。

 達磨のような体型の彼は、まるでずっと同じ映像をリプレイしているかのように、先ほどと変わらない様子で口を動かし続けている。「どこまで話したかなぁ」という台詞を繰り返し、少し前の内容からまた話し始めるため、必要以上に余計な時間を消費しているようだった。

 再び、光の攻撃が再開し、校長の頭部が豆電球のように発光して見えた。これではとても正面など向いていられない。今度は故意に、僕は校長の話から意識を反らした。

 五業が、彼がやったことは許せるものではない。カナラを見つけるために、多くの女子生徒を誘拐し、その精神と肉体を弄んだ。その事実は、揺るぎようのない彼の罪だ。

 だが、もしあんな化け物になどならなかったのなら、肉体に意識を共有するなんて、おかしな現象を起こすことができなかったのなら、黄泉がえることがなかったのなら、彼があんな悪辣な真似を行うこともなかったのではないだろうか。

 神隠しに遭う生徒なんて存在しなかったし、桂場も、寄生されたその他の人たちも、大人しく普通の生活を送れているはずだった。

 一体どこの誰が何の目的を持って、こんな狂気に満ちた真似をしたというのだろう。

 カナラ、そしてあのとき垣間見た千花の記憶のことを思い、僕はやるせない気持ちになった。

 ――残る手がかりは二つ。‶触れない男〟の遺体を回収した境和研究所と、五業の本体を仕留めた誰か。

 協和研究所については調査を続けているけれど、あまり有用な情報は得られてはいない。現状手がかりになる可能性といえば、後者だろう。

 何者かはわからないけれど、僕たちと同じように彼らと揉めている人物がいる。‶触れない男〟を事故に見せかけて殺害し、寄生された動物たちを皆殺しにし、ついには五業の本体まで仕留めた誰かが。そいつを見つけだせれば、何かがわかるかもしれない。何かを知っているかもしれない。

 危険ではあるけれど、もしその人物が‶触れない男〟らと敵対している存在ならば、何かと利用できる価値はある。どうにかして気づかれずにその人物を特定できないものだろうか。

 僕が思案していると、校長の話が終わったらしく、周囲から拍手が起きた。彼らに合わせ手を打ち鳴らす。

 マイクが三年の学年主任である英語教師の手に移動し、いきなり耳に侵入してくる音量が上がる。彼の声はいつもこういったイベントの終わりに流れるため、これで終業式は終わりだと、一気にみなの空気が明るくなった。



  4

 

 終礼が終わったにも関わらず、多くの生徒が残って談笑を続けている。どうやらみな、ここを離れるのが名残惜しいようだった。

 帰ろうとしたところ日比野さんに捕まり、適当に無駄話をしていると、皐月さんと緑也がやってきた。二人ともクラスメイトからの遊びの誘いを断ってわざわざこっちにきたらしい。彼らの顔を見て、スタイリッシュや千花、桂場も寄ってくる。何となく最近は、このメンバーで集まるのがお決まりになっていた。

「おっす、終わったなぁ」

 屈託のない笑みを見せながら、緑也が横の椅子に座る。珍しく今日は髪の歪曲具合が少なかった。

「いやぁ、長い一週間だったぜ。ようやく夏休みだなぁ」

「やっと解放された気分」

 緑也の言葉に合わせるように、両手を高く斜め後ろに伸ばす日々野さん。よほど嬉しいのか、いつもよりも目が輝いて見えた。

「みんな試験どうだったー?」

 間の抜けた調子で皐月さんが聞く。途端に、緑也の表情が曇った。

「おっと、その話題はやめようぜ」

「何だよ、結果悪かったのか?」

 意地悪そうな表情を浮かべ、桂場が体の向きを変えた。後ろで皐月さんが「あたしは悪かったよー」と話していたのだが、構うことなく緑也に近寄る。

「ちょっと部活のほうに熱中しすぎてさ。勉強してる暇なんかなかったんだよ」

「部活なんて長くても二時間ちょいだろ。全然余裕だろうが」

「疲れてやる気が出ないんだよ。毎日毎日ハードだからさ」

「そこでやるかやらないかでできる奴とできない奴がわかれるんだよ。頭がいい奴と悪い奴の差なんて、考えることをめんどくさがっているか、めんどくさがってないかってだけだぞ」

 珍しく力説する桂場。実際緑也と同じくらいハードな部活に在籍しているだけに、その台詞には妙な説得力があった。

「成績の話なんてもういいじゃん。終わったことなんだし。もっと楽しい話題にしようよ」

 つまらなそうに日々野さんが頬杖を突く。その様子を見て、桂場も緑也もふざけあうのをやめた。

「みんな夏休みはどうするの?」

 日々野さんの横に座っていた千花が、興味深そうに質問する。すると、すぐに皐月さんが答えた。

「あたしはいっぱい予定あるよ。来週は家族でおじいちゃんの家に行くし、友達からもいくつかお出かけの誘いがあるから」

「俺は……とくにないかなぁ。ま、しばらくは実家でごろごろしてるだけになりそう」

 気だるそうな感じで、スタイリッシュが続ける。

「何だよ、せっかくの夏休みなんだからどっか行こうぜ。ずっと家にいたら逆に疲れないか?」

「俺は緑也と違って家にいるほうが好きだからなぁー。まあたまには服を買いにでたりもするだろうけど」

 普段服装にこだわりを持っている割に、意外とスタイリッシュはインドア派なようだった。

「そういう玉木くんはどうなの?」

 話を聞いていた日々野さんが、足を組みなおしながら緑也のほうを向いた。

「お、俺は毎日バイトか部活だよ。こういうときくらいしか、集中してできないし」

「なんだ、みんなつまんねえ青春を送ってんなぁー」

 どこか嬉しそうに、桂場が両手を己の腰に当てた。

「桂場は何にもないの?」

 色んな意味で気になったので質問してみたのだが、返答はあっさりしたものだった。

「あー、ない。俺も毎日部活だわ」

「人のこといえねーじゃねえか」

 呆れるように緑也は肩をすぼめた。

 一般的な高校生がどのような夏休みを送っているのかは知らないが、恐らく大抵はどこもこんなもんだろう。部活か、バイトか、暇か。長すぎる休みというのも、困りものだと思った。

「ねえ、じゃあ、またみんなでどっか行く? 今度は山とかさぁ」

 思いついたように人差し指を上げる日々野さん。森林浴が好きな僕としてはなかなかにそそる提案だったのだが、話を聞いた途端、スタイリッシュの表情が曇った。

「山に登って楽しいん?」

「えー、楽しいじゃん。自然を感じたりとか、鳥の声を聞いたりとか、花を観たりとかさぁ」

「俺、あんまりそういうの好きじゃないんよ。服とか汚れるし、汗かくし……」

「あたしもそういうのはちょっといーかなぁ。何か疲れそう」

 同調するように皐月さんが頷く。確かにこの二人には、そういうタイプの遊びは向かなそうに見えた。山というよりは、整備されたデパートの中によくいるイメージだ。

「あ、あれは? 少し電車で南に下ったところに、大きな国立公園があるじゃん。デズニーランドくらいの大きさの。あそこって定期的にイベントとか開催してるし、ウォーキングコースとか、サイクリングコースとか、色々あるし、花だって見れるぜ」

「公園? 高校生にもなって公園なんて楽しいんか」

 疑惑の目を向けるスタイリッシュ。とにかくどこかへ行きたいのか、緑也は一生懸命に説明を続けた。

「いや、ほら、中には観覧車とか遊園地もどきみたいのもあるから。デートスポットとしても人気が高いんだぜ。将来誰かといくときの下見にもなるじゃん」

 それを聞くと、僅かにスタイリッシュの眉が上がった。

「デートスポット……」

 どうやら、ちょっとは興味を持ったようだ。何故か急にズボンのポケットについたキーホルダーを指で撫で始める。

「えー、ヤダよ。あそこ、移動がほとんど歩きになるじゃん。あたし、汗かくの好きじゃないもん」

 ぴしゃりと、皐月さんが切り捨てる。緑也はまだ粘ろうとしたけれど、結局それで、この話はお開きになった。

 国立公園か……。

 引越し初日に御奈の車の中から見た光景を思い出す。

 海のような緑色の広場。

 立ち並ぶ林。

 あれほどの規模ならば、確かに退屈はしないだろう。僕は何となく、その名前を記憶に留めておくことにした。



  5


 いい加減教室に残るのも飽きてきたころ、皐月さんがカラオケにいかないかと提案した。歌うのは嫌いじゃないし、普段なら喜んで行きたいところだったのだが、今日は先日受け取ることのできなかった宅配便がくるため、無理を言って断った。残念そうな表情を浮かべている彼らを見て、申し訳なく思う。

 せめて途中まで一緒に帰るかと、みなと廊下に出たところ、見知らぬ坊主頭の少年が駆け寄ってきた。

「あ、お疲れっす」

 彼は僕の背後に立っていた桂場の姿を見つけると、腕を引いて、数歩僕たちから離れた。凄くまじめな表情で、何かを話している。

「どうしたん?」

 会話が終わり、こちらに歩み寄ってくる桂場を見て、すかさずスタイリッシュが尋ねる。桂場は頭を掻きながら、

「おう、ちょっと部活で問題がな……。今日はやっぱやめとくわ」

「えー……桂場くんもー?」

「すまんな。一応、俺、次のキャプテン候補として、期待されとるからな」

 顔をしかめさせる皐月さんをなだめる様に、桂場は苦笑いを浮かべた。

「まぁ、しょうがないな。夏休み中のどこかで、また遊ぼうぜ」

 窓際に寄りかかっていた緑也が、明るい声で言う。彼は背を離し、鞄を己の肩に掛け直した。

「……じゃぁあ、いい夏休みをね」

「時間ができたら、連絡せなよ?」

 日々野さんとスタイリッシュも、それぞれ挨拶をして歩き出す。僕も軽く頷き、回れ右をした。

 

 下駄箱の前まできたところで、突然日々野さんが声を上げた。びっくりして、目が勝手にそちらを向く。

「あ~……! しまった、部室の鍵開けたままだった。戻らなきゃ……」

「え、部室開けてたの?」

「だって――明日、明後日は学校の用事で中に入れないらしいじゃん。どうせ家にいても暇だし、資料や情報の入っているパソコンだけは持って帰ろうと思って」

「急がないと、カラオケ混み始めるぞ。みんなそろそろ帰りだしてるし」

 周りを見渡しながら、スタイリッシュがそう言った。

 宅配便が来るまではまだ時間がある。僕は日々野さんに向かって話しかけた。

「じゃあ、僕が閉めてくるよ」

「え、いや悪いよ。あたしが忘れたんだから、あたしが閉めにいくって」

「いいって。僕もちょうど、持って帰りたい本を置いてたから」

 そう言って強引に歩き出す。日々野さんは申し訳無さそうにしていたけれど、引きとめようとはしなかった。

 五業が死んだとはいえ、まだ危険は去ってはいない。だが彼らと一緒ならば、襲撃されるような事態には陥らないだろう。僕は千花の横顔をちらりと眺め、そのまま階段に足を乗せた。

 

 プレハブの施錠を確認し終わり、再び下駄箱に向かって階段を降りているときだった。偶然視界に入った窓から、桂場の姿が見えた。中庭の端にあるベンチで、考え事をするように足を組んでいる。

 何となく気になったので、僕は下駄箱へは戻らず、彼のいる場所へと向かうことにした。

 既に中には人の姿がほとんどなく、嫌でも巨大な少年の体は目に付く。僕は眉間にしわを寄せ目をつぶっている桂場を見て、静かに声をかけた。

「何してるの?」

「――……おっ? 穿か。まだいたのか」

 桂場は目を開けると、いつものようにニパっと口元を大きく開けた。

「ちょっと忘れ物をしてね。桂場は? 用事は済んだの?」

「あー……まあ済んだといえば済んだなぁ」

 頬を掻きながら、彼はあいまいな返事をした。

 あまり部外者の僕が安易に聞くべきことではないとも思ったのだが、彼が悩んでいるようにみえたので、素直に尋ねてみることにした。

「部活で、何があったの?」

「ん、ああ。なんというか……生徒同士の揉め事だよ。野球部の中で、ちょっとした嫌がらせを受けているやつがいたらしい」

「それって……」

 伺うように桂場の顔を覗く。彼は静かに頭を振った。

「別に、大したことじゃない。マネージャの女子と付き合っとる生徒がいたんだが、そいつのことを羨んだ情けないやつが、仲のいい連中を使って、そいつをのけ者にしようとしたんだよ。下らない事件だわ」

 僕は桂場の横に座った。無言のまま足を組む。

「最初は穏便に済ませようと思ったんだがな。何でか知らんが、その連中の顔を見ていたら、無性に腹がたって、思わず殴りかかりそうになったんだよ。それであいつら、ビビッて素直に頭を下げちまった」

「よほど桂場が怖かったんだろうね」

 その映像を想像し、苦笑いを浮かべる。桂場は静かに言葉を続けた。

「まあそれで一応けりはついたんだけどさぁ。……根本的な解決はしてないんだよなぁ。あいつらは俺に反感を持っただろうし、無理に嫌がらせをしなくなっただけで、やつらの関係性は変わらない。……それに事件が明らかになったことで、今度はその嫌がらせを受けていたやつや周囲の連中が、逆に加害者のほうに嫌がらせを始めそうな雰囲気なんだ。何だか、本末転倒だろう?」

 桂場は小さくこうべを垂れた。

「他人を思いやりなさい。他人に優しくしなさい。他人を大切にしなさい……って教わってきたけどさぁ。相手が悪人って断定されるだけで、みんな簡単にてのひらを返すんだ。普段天使のような笑顔を浮かべているやつらが、そいつが悪人だとわかった途端、残虐にそいつを攻撃し始める。まるで免罪符を得たとでもいうようにさ。……まぁ、仕方ないってことはわかっとるんだが、何だかあいつらを見てたら虚しくなってなぁ」

 五業の体験の影響が出ているのだろうか。桂場は寂しそうにそう独白した。両手を握り締めたまま、僕のほうへ顔を向ける。

「なあ穿。お前だったら、嫌なやつがいたらどうする? もしお前が攻撃される立場だったら? やっぱりやり返すか?」

 桂場は確かめるような目で質問した。

「……僕は、自分の権利を守るための最低限の抵抗や対策は行うけれど、復讐みたいな真似はしたくないかな。そんなの、相手がやっていることと同レベルになるし、なにより、かっこ悪い」

「嫌いなやつともずっと仲良くしていくってことか?」

「そんなことはないけれど……。復讐をしないってだけだよ。もしそいつが行っていることが嫌な行動だったら、それに反感を持っている者は勝手に離れていくし、結局、僕が何もしなくても、そいつが変わらない限り苦労するのは本人になるんだから」

 僕は足を組みなおした。いつの間にか靴に上っていた蟻がその揺れで落ちる。

「ただ、そいつがそういうやつだってことは覚えておく。そいつのあり方が変わらないのなら、僕の中で彼のイメージは彼が犯した行動のままだし……万が一、彼と別の友人どちらかを助けないといけないなんて場面になれば、間違いなく助けるのは友人のほうになる。それぐらいの違いかな」

「なるほど……」

 桂場は顔の向きを元に戻した。寄りかかるように、腕をベンチの後ろに下ろす。

「何だか――……お前って時たま凄くつめたくなるよな。なんとなくだけど」

 前を向いたまま、桂場はそう言った。囁くような静かな声に関わらず、妙にしっくりと耳に届く。

 個人的には何が冷たいのかわからなかったが、彼がそう言うのなら、そう感じられてしまうような言葉だったのだろう。

 僕は何も言わずに、ベンチに座り続けた。

「結局、どうするのが正解だったんだろな」

 両手を頭の後ろに上げ、晴れ渡った空を見上げる桂場。

 校舎の時計は午後十三時を指している。そろそろ帰らなくてはまずい。立ち上がりつつ、僕は独り言のように答えた。

「そんなの……正解になったときにしか、わからないさ」






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