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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
18/42

第十八章 黒面


  1


「今日はつかれたねー」

 遊びつくしたといった表情で、皐月さんが両手を広げた。平均よりも大きな胸がその動きによって強調され、思わず視線の行き場に困る。短パンにノースリーブシャツといったゆるい格好のせいで、なんだか水着のときと変わらないくらい、彼女の格好はなまめかしく見えた。

 僕は石台の上に腰を乗せながら、目の前を通り過ぎていく人たちを眺めた。まだ終業時間までは一時間ほどあったが、既に多くの者が帰路についているようで、大行列とは言わないまでも、それなりに行き交う人間の数は多い。蟻のようだと、思った。

「ああ、あっという間に終わっちまったなぁ」

 寂しそうに肩を落とす緑也。散々文句を言っていたわりには、人一倍今回のイベントを楽しんでいたように思える。彼だけはまだ名残惜しそうに、プール場の正面入り口を眺めていた。

 僕は入り口の奥に目を向けた。

 矢吹さんと和泉さんが化粧室から戻ってくれば、僕たちも他の客のように駅へ向かうことになる。それはあまり好ましくない事態だ。

 トンネルの騒動のせいで、コートの人物は僕と千花が一般人ではないと確信したはず。このまま帰宅しすれば、すぐにでも千花が襲われる危険がある。

 彼女は一人暮らしだから僕の家にかくまうという方法もあったけれど、そんなまね父が許すはずはないし、何より僕が千花の生活事情を知っているというのも、おかしな話だ。もし僕たちの中にあのコートの人物が存在するのならば、ここで問題を解決しなければならない。

 楽しそうに談笑するスタイリッシュや日々野さん。

 彼らが寄生されているとは到底思えない。やはり……

 僕は一人海岸沿いに立っている桂場を視界に収め、瞳を曇らせた。

 センチメンタルな行動とは程遠そうな彼が、珍しく感慨気に広大な海原を見つめている。辛うじて横顔が見えるだけだったが、どことなく、寂しそうに感じられた。

 ――ほんとうに、あいつらしくない。

 姿形はどこからどう見ても桂場そのものだし、口調や仕草も変わらない。けれど、どこかで、そういう外面的な要素を排除した何かが、決定的に違っている気がした。うまく説明はできないけれど。

 桂場が寄生されているかどうか確かめるもっとも簡単な方法は、実際に彼が襲い掛かってくる現場を押さえることだ。だがそれはかなりのリスクを伴う行動である。五業は動物の体に侵入し、操ることができる。もし彼がおびただしい数の化け物をつれてくれば、僕たちには打つ手がない。あっという間に蹂躙され、駆逐されてしまうだろう。少なくとも明社町の中で実施すればそうだ。

 僕は親指で他の指を撫で上げた。

 肌に水が染み込んでいるからか、妙に指のすべりがいい。

 ここは明社町から何駅も離れた場所である。五業がカナラを探しているのなら、支配している肉体の大部分は町に留まっているはず。だから予期せぬ事態ではあったけれど、この事態は逆にチャンスだともいえる気がした。今ここで桂場に寄生している固体を叩くことができれば、僕たちの存在を隠し通したまま明社町へ戻ることができる。

 一週間と少し前、僕は五業に寄生され変質させられた化け物を殺した。あの日の夜から数日の間は、いつ他の化け物が襲ってくるのではないかとビクビクしていたのだが、結果的にそんなことは一切なかった。桂場のあとをつけて耳にした、あの会話。どちらもたどたどしい口調ではあったけれど、己の喉を動かし、声を発することで意思疎通を行っていた。つまりあの出来事は、五業が寄生したもの同士であっても、実際に会話をしなければ情報の伝達ができないことを意味している。

 蟲喰いを利用するまで、あのコートの人物は僕たちのことを怪しいとしか思っていなかったはずだ。実際に僕の力を目にした固体はコートの人物のみ。もし彼が桂場であるのならば、桂場に寄生している腫瘍さえ殺すことができれば、最悪の事態は避けることができる。

 両手を後ろに組んで意味もなく体を左右に揺らしていた千花を呼び止め、たった今考えていたことを伝える。彼女には僕が桂場と相対している間、緑也たちを遠くに連れて行ってもらう役目をお願いした。

「……大丈夫?」

 千花は不安そうな目で、眉間にしわを寄せる。僕は他の仲間に聞こえないように、小さく言葉を返した。

「あの腫瘍はもう何度も目にしてるし、戦い方もなんとなくわかってる。一対一なら何があっても絶対に負けるようなことはないよ。むしろ僕は、どうやって桂場を殺さずに腫瘍を破壊するかのほうが心配かな」

「何かあったらすぐに逃げるか、大声を出してね。ここなら行き交う人も多いから……」

「わかってるって。千花もちゃんとあいつらを見ててよ。蟲喰いを使うところなんて見られたら、今後の生活が崩壊するから」

 冗談ぽく僕はそう笑いかけた。

 千花はまだ何か言いたげだったが、僕の表情を見て諦めたように隣の石台へ腰を落ち着かせた。

 夕日はちょうど、ゆっくりと山のほうへ移動しているところだった。



  2


 電車が混雑しているという理由により、少しの間、僕たちはプール施設の裏や右手に広がっている細長い公園で時間を潰すことにした。

 みんな疲れているようだったので、反対意見を覚悟していたのだが、どうやらこのまま普通に帰るのは味気なかったらしく、意外にも全員が簡単にその提案を了承してくれた。

 眩しいほどの夕暮れの中、僕はベンチに座ったままチャンスをうかがった。

 これまでの様子から考えれば、桂場は定期的にお腹の調子が悪いとみなの輪を離れている。何をしているのか知らないけれど、そのときについていけば、うまく二人っきりになれるはずだ。前に桂場がトイレにいったのは二時間ほど前だから、時間的にはそろそろ離れてもおかしくはない。あとはそこで、どう上手く桂場の腫瘍を発見するかだが、その方法については正直いって何も妙案は浮かばなかった。

 緑也とスタイリッシュ、日々野さんは、落ちていた古いボールでキャッチボールをはじめ、皐月さんや千花、矢吹さん、和泉さんたちは海際の柵前で、なにやら会話を盛り上がらせている。これなら余計な邪魔が入ることもない。

 しばらくして、予想通り桂場が動いた。

 誰に何を言うともなく、自然と斜め前のベンチから立ち上がり、右手の奥へ向かって歩いていく。トイレだったらプール場に戻ったほうが早いのに、わざわざ遠くのひと気のないほうを選んでいるのが、かなり怪しかった。

 僕はみなの視線に気をつけながら、こっそりと桂場の後をつけた。

 夕日に照らされ、足元の土や木々、頭上を覆っている葉の全てが紅茶色に染まっている。プールの中とはまた別の意味で、別世界にいるようだった。

 古来より、夕暮れは逢魔時おうまがときおそれられた時間帯である。光と闇の境目、清浄と不浄の境界。わざわいが蔓延り始める刻。

 昔は魔物や妖怪に遭遇しやすい危険な時間帯だといわれており、多くの目撃証言もあったらしいが、実際のところ、それは身体現象によって引き起こされる簡単な錯覚に過ぎない。

 夕暮れ時は太陽の光が差す場所と差さない場所の光量差があいまいになるため、暗い部分の目視が難しくなってしまう。明順応と暗順応の制御が利きずらくなるせいで、距離感や感覚が誤作動を起こしてしまうのだ。

 あの事故のときも、三年前にカナラを狙った男を殺したときも、瑞樹さんと別れたときも、全て夕暮れ時だった。どうやら僕は嫌気がさすほどにこの時間帯と縁があるようだ。もちろん偶然に過ぎないのだろうけれど、あまりいい気はしない。

 ただの錯覚による迷信であることはわかっているのに、まるで本当に生者と死者を隔ている何かがあるような感じがして、僕は小さく頭を振った。


 百メートルは歩いただろうか。桂場が小さな小屋のようなものの中に入っていく。僕の目には古びた家畜小屋のようにしか見えなかったけれど、どうやらあれが目的のトイレのようだった。辛うじて、壁の上に青い人間のマークが描かれている。

 僕は動物の気配と視線に注意しながら、ゆっくりとその小屋の前へ移動した。

 壁際から中を覗き込み、様子を確認する。

 桂場は洗面台の前に立ったまま、なにやら妙な独り言を呟いていた。

 ――何だ? 何を言っているんだ?

 小声のせいでよく聞き取れない。僕は身を屈ませ、耳に意識を集中させた。

 桂場は左手を洗面台の上に乗せると、突然、右手で自分の顔を強く握り締めた。

「こ、この……抵抗感がつ、つよい、なぁ」

 口をにんまりと歪ませてみたり、大きく開けてみたり、目を細めてみたり、見開いてみたり……――顔芸の練習でもしているのかと聞きたくなるような珍妙な表情を次々に浮かべ、唸り声をあげている。

 あまりの光景に僕は思わず固まってしまった。一体どうしたというのだろうか。

「で、でも、もう少し、も、もう少しで……」

 目を血管が血走るほどむき出しにし、自分の鼻を舐めあげんばかりに舌を突きだし、歯を食いしばって横に広げる桂場。正直いって、気持ち悪かった。

 そのまま観察を続けていると、桂場は苦しむように手の位置を頭頂部へと移動させた。まるで見えない何かをもぎ取ろうとしているかのようだ。

 ここ最近、桂場は異様に頭を掻いていることが多かったが、今彼が爪を立てている場所も、同じ位置のように思える。

 まさか――。

 頭を掻き毟る指の隙間から、黒っぽい肉の塊のようなものが見えた。間違いなく、あの腫瘍だ。

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。こんなにも単純極まる答えに。いくら素肌を眺めても見つかるわけがない。桂場の腫瘍は髪の中、頭皮の上にあったのだ。 

 こっそり背後から近づいて、蟲喰いを撃つか? いや、でも……

 蟲喰いは威力が強すぎる。取り付いている腫瘍だけを殺すには、相当な慎重さと注意が必要になるため、間違いなく殺しきる前に悟られる。確実にあれを桂場から引き剥がすには、一時的に彼の動きを封じるしかない。

 気絶させるのは難しいだろう。ふいを突けばどうにかなるかもしれないけれど、もし失敗して正面から打ち合うことになれば、僕の腕力では分が悪い。護身術の地区大会で三位になったといっても、それはあくまで競技としてのルールにのとった上での成果。実際の争いごとはあれほど綺麗なものじゃない。醜く、乱雑で、おぞましいものだ。決められたポイントのない打ち合いでは、ある程度闘う意思と腕力さえあれば、素人も多少技術を被った程度の人間にも大差はないのだ。

 やはり、事前に用意していたこれを使うしかないか。

 僕は千花から借りたスタンガンをズボンのポケットから取り出した。〝触れない男〟が所持していたものだ。

 それを右手の手首の裏に隠すように持ち、僕は腰を上げ、ゆっくりとトイレの中に足を踏み入れた。

 完全に隙をつくのならば、彼が外に出た瞬間に背後から攻撃するのが確実だろうけど、ここは木の葉や小枝が散乱しているため、察知される可能性が高い。最初は鏡に映ることを考えて身を屈ませていこうとも思ったのだが、もしその状態で見つかれば、明らかな疑惑の目を向けられることになる。あえて堂々と入ることで、僕は相手の警戒心を弱くしようと考えた。

 ひたひたと歩を進めながら、洗面台の側に寄った。

「か、桂場……?」

 偶然友人の珍妙な行動を見てしまった体を装い、恐る恐るそう声をかける。桂場は視線だけを素早くこちらに向けると、ぱっと表情を元に戻した。

 何事もなかったかのように手を洗い、にまっとした笑みを浮かべる。

「お、穿かぁ。どうした?」

「いや、僕もトイレに。向こうはなんだか混んでそうだったから」

「まあなぁ。たむろしている奴、大勢いたもんなぁ」

 納得したように、桂場は自分の(あご)を撫で上げた。何かを押さえ込んでいるのか、僅かに頬が引きつっている。

「体調、まだ悪いの?」

「ああ、ちょっとなぁ。定期的に吐き気と頭痛がするんだよ。病院には行ったんだが、異常ないって言われてさぁ。まいったわ」

 これは、どちらの言葉なのだろう。五業に寄生されていた動物たちは皆、たどたどしい口調で話していた。普通に会話が成り立っているということは、あくまで桂場自身の意思によるものなのだろうか。それなら隙を突くのは簡単だ。

 あまり洗面台の前に一人で立っているのは変だと考えたのか、桂場はそのままトイレの外に向かって立ち去ろうとする。

 僕は彼の視線が僕や鏡から外れたことを確認し、こっそりと背後に近づいた。スタンガンは既に持ち直し、スイッチを押す準備を完了させていた。

 桂場は――彼は僕がクラスに来て最初に仲良くなった友人だ。何度も昼食を共にし、仲のいい相手として接してきた。彼が化け物に寄生されいいように操られるなんて、絶対に許容するわけにはいかない。

 トイレの外に出て土を踏みしめる桂場。僕は一気にけりをつけようと思ったのだが、スタンガンを押し当てる前に、突如彼の足が止まった。

「――なあ、穿。そういえば前からお前に聞こうと思ってたんだけど……」

 僕は黙ったまま、身動きを止めた。差し込む夕日のせいで、相手の表情がまったく見えない。

 桂場は構わずに言葉を続けた。

「お前、路地裏で俺を見てたよな?」

 その言葉につい息が止まる。一瞬の沈黙。

 振り返ろうとする桂場。それを見て、僕は瞬時に腕を突き出した。スタンガンの先端からほとばしる電流が、不快な不協和音を奏でる。

 腰に接触する直前、それは桂場の手によって阻止された。強くこちらの手首を握り締めたまま、桂場はぞっとするほどのいびつな笑顔を近づけ、囁いた。

「なぁ、気づいてるんだろう?」



  3


 腫瘍しゅようが、――桂場の頭頂部にあった黒い肉塊が、アメーバのようにずるずると移動し、彼の顔の半分を覆い始める。細い触手がうごめき、それはへばりつくようにひとみとひたいの周囲に根を張った。まるで高熱によって焼け爛れてしまったかのように半壊した黒い顔が、そこにあった。

 僕は必死に離れようともがいたのだけれど、まったく腕が動かない。桂場の拘束力は異常なほど強かった。

 邪悪に口をゆがませたままの桂場の顔――黒い肉で覆われている左半分の中心から、巨大な目がぎょろりと這い出る。血管が縦横無尽に浮き出たそれは、僕の姿を視界に収めると、嬉しそうに周囲の肉を引き締めた。

 右側にある元々の桂場の目は、視点が定まらずにぐるぐると動き回っている。とてつもなく異様で、おぞましい光景だ。

 桂場はもう一方の腕を伸ばすと僕の首を鷲掴みにした。片腕だというのにも関わらず、万力のごとくとてつもない力で締め付けてくる。いっきに頭に血が上り、呼吸が苦しくなった。

 僕は咄嗟に手首を返し、スタンガンの切っ先を桂場の腕へと移動させた。重厚な気泡が内部から暴発させられたような音が連続して響き、桂場の腕を痙攣させる。僅かに僕自身の腕にも痛みが走ったが、我慢して腕を振り払った。

 姿勢を戻そうとしている桂場の腹部を蹴り倒し、用具ロッカーにぶつける。その隙に、慌ててトイレの奥へ下がった。

「ひ、酷いじゃないかぁ」

 桂場は黒い肉に覆われた肌を触りつつ、濁った声を吐きだした。まるで子供を叱る親のような話し方だった。巨大な目をぐるりと回転させながら、親しげな笑みを浮かべる。

 僕が黙っていると、彼は一変して無表情に転じ、首をかしげた。

「……なぜ、ぜ、わかった?」

 問いつめているというよりは、純粋に興味があったのだろう。あらぬ方向に向いている桂場本来の眼に不安を覚えつつ、僕は素直に返答した。

「昼や放課後、最近の君の行動は随分とおかしかったよ。気にならないほうが変だ」

「そんなに妙なな、う、動きはしていなかったはずだけど?」

 あれで妙じゃないっていうのなら、五号は随分な楽天家だ。

 僕は足を八の字に開き、左足を僅かに後方へ下げた。そのままゆっくりと体重を後ろ足のほうにかける。

 ばれてしまった以上、このまま直接腫瘍を破壊するしかない。流動し顔の前面に移動してきたということは、まだ桂場本人の肉体には深く食い込んではいないはずだ。今なら力ずくで引き剥がせるかもしれない。

 状況は五分。いや、今この瞬間だけに関して言えば、こちらのほうが有利な立ち場にいるはず。

 だがそれにも関わらず、桂場は気味が悪いほどに落ち着いていた。

「――……ま、いいさ。ど、どっちみち、ミスをしたお前のま、負けだ。手をださなければ、ま、まだわからなかったのに」

 その言葉に妙な違和感を憶える。何かが頭に引っかかったけれど、理由を特定する前に突如背後のガラスが割れた。

 きらきらと舞う半透明なガラスの花弁。夕焼けの光を乱反射させたその中心から、人の顔のように形状を変化させた頭を持つ鳥が、一直線に突っ込んでくる。

 瞬時に五業に完全寄生された化け物であると理解する。

 それのくちばしが首元を抉るより早く、僕は‶蟲喰い〟を裏拳に乗せ放ち化け物の頭部を吹き飛ばした。トイレの壁が真っ赤に染まり、化け物の肉片を散らす。

 他の固体? 桂場は――!?

 腕を振った勢いのまま体の向きを下に戻す。考えるよりも早く次の攻撃に備えたのだけれど、桂場は余裕の表情を浮かべたまま、ただ一言、

「お前が、そうか」

 と、憎憎にくにくしげに言い放った。

 何だかこちらのことを知っているような口ぶり。疑問に思ったものの、この前の動物大量死のことを思い出した。きっと彼はあれの犯人と僕のことを同一視しているのかもしれない。死体や現場に残っていた損傷痕は蟲喰いとよく似ているから。

 顔の腫瘍をうごめかせながら、バックステップでトイレから飛び出す桂場。このまま逃げられてはまずい。僕は彼を追いかけ、土の上に足を踏み込ませたのだが、同時に、真横から何かの体当たりを受け、地面に倒れこんだ。

「い、いひひ、いひぃひっひ!?」

 狂気に満ちた笑い声をあげているのは、毛むくじゃらの黒い犬。ご丁寧にこれもまた頭部が少年の顔のようにに変形している。完全に肉体を乗っ取られたものは、五号の顔を模倣するというシステムが組みあがっているのだろうか。

 噛み付こうとするそれの首を押さえ押し返そうとするも、なかなか離れない。

 押し当てたままの手から蟲喰いを起こそうと思ったのだが、先ほど広がった血の光景を思い出し勝手に手が震える。

 その間にもさらに二体の人面犬が左右からこちらに近づき、僕に飛び掛る用意を始めていた。

 これはもう普通の犬じゃない。肉体を乗っ取られ別の存在と化した化け物なんだ。

 僕は自分に言い聞かせるようにそう何度も心の中で呟くと、歯を食いしばりながら相手の喉奥に無の粒子群を形成した。

 波状の歪みによって吹き飛ぶ肉片。顔にへばりつく赤い液体。人間でないと分かっていても、勝手に吐き気が沸きあがる。

 くそっ……!

 僕は自分で自分の情けなさに毒を吐きながら、転がるように立ち上がり、正面でこちらを傍観していた桂場に目を向けた。

 たった今二体の同胞が殺されたばかりだというのにも関わらず、彼は楽しそうにニヤニヤと口元をゆがめている。その間にも周囲の人面犬の数は増し、輪を作るように僕を囲い始めていた。

 一体、どれだけの化け物がここに来ているのだろうか。殺した二体を合わせれば、すでに六体の分身がこの場にいることになる。

「なぁ、せ、穿」

 あくまで桂場本人のような口調で、五業は僕の名を呼んだ。

「猛獣よりも、幽霊よりも、ひ、人が人をもっとも恐れる理由は、な、何だと思う? ぼくはねね、それは人自身がまた人間だからだと思うんだよ」

 何を言っているんだ?

 僕は周囲の化け物に用心しつつも、無言の視線を彼に向けた。夕日が落ちかけ、その表情に影が差して見える。

「人は、り、理解できない存在にもっとも恐怖を感じじ、嫌悪する。系統やしゅ、出身、考え方は違っても、人は人であるだけで、あ、ある程度共通の価値観や思考法則を手に入れる。同じような芸術に感動し、同じような暖かさに感謝し、同じような危険に恐怖を覚える。だかららこそ、普通ならば理解できるはずの、行動の意味を共感できるはずの同じ人間が理解不可能な行動をとると、異様に恐ろしく感じてしまうんだ。も、もしぼくが魚だったのなら、この世でもっともお、恐ろしい生物はきっと、サメや渡り鳥になってるだろうね」

 桂場の顔の半分を覆っている腫瘍から、細長い触手がうねうねと伸びだし、空中を駆け巡る。まるで外敵を威嚇するときの蟲のようだ。それは僕を囲んでいる化け物たちも同様だった。

「お、お前にとって、今のぼくはは、人かな? それとも違う‶何か〟なのかな。……ぼ、ぼくはずっと他人が怖かった。ずっと、理解できなかった。で、でも今は違う。ぼくは、と、特別だ。怖いのは、恐怖の対象になるのは‶ぼく〟のほうだ!」

 囲んでいる化け物たちの口から、唸り声が響き渡る。いくら蟲喰いを発生させられるといえども、流石に分が悪すぎる。こんなことになるとは思っていなかった。まさか既にこれほどの数の仲間を潜ませていたなんて……。

 腰を上げようと足に力をこめると、砂の摩擦音が響いた。目ざとく、それに周囲の化け物たちが反応する。とても逃げ切れそうにはない。

 冷や汗をかきながら、僕は疑問に思った。

 昼間、プールの中で蟲喰いを見せてしまった以上、敵だと認識されるのはわかるが、それはあくまで今日始めて知った事実のはずだ。これでは最初から襲撃の用意をしていたとしか考えられない。一週間ほど前のあのゲーセンの事件だけで、そこまで怪しんでいたというのだろうか。それとも、僕たちが目を離している隙に別の固体経由で仲間を呼んだのか? わざわざこんな遠くまで……?

 狙うのなら、町に帰ってからのほうが百倍はやりやすいはずだ。この用意周到さは明らかにおかしい。何か別の理由があるとしか思えなかった。再び奇妙な違和感を覚える。

「ら、らっきーなことに、こちら側には人があまり来ない。ここでで、お前を乗っ取ってやる、よ。た、楽しみだなぁ。お前の体で、千花ちゃんを騙すのが。……前に千花ちゃんだと勘違いしてね、な、何人かの女の子をさらって乗っ取ったことがあ、あるんだけど。あのときはめちゃくちゃ興奮したよ。助けもこない。誰もいない場所で、徐々に肉体を支配されていく、か、彼女たちの泣き顔は凄く良かった。僕を恐れて、恐怖して、泣き喚いて、す、すごくそそった……。お前にも、同じ快楽を教えてやるよ。せ、穿」

 いやらしい笑みを浮かべて、舌なめずりをする桂場。その言葉に煮え立つような怒りを覚えた瞬間、周囲の化け物たちが、いっせいに土を蹴った。




  4


 爪が、牙が、僕の肉を求めて振り下ろされる。

 元々はさぞや愛らしい外見をしていただろうこの犬も、いまや醜い男の顔を頭部に形成された化け物に過ぎない。僕はすぐに頭を吹き飛ばそうと思ったのだが、別の固体が背後から迫ってきたのを見て、起こしかけていた現象を中断した。

 蟲喰いは一度使用してから次に発生させるまで、僅かな間が生まれる。普通に生活していては一瞬に過ぎない間だったけれど、この極限状況ではその差が大きな命取りになる。

 背を土の上に乗せ、飛び掛ってきた化け物を後方に蹴り飛ばし、そのまま後転の要領で立ち上がった。

 桂場は狼の群れに襲われる小鹿を眺めるような目で、こちらを観察している。それがより一層僕の苛立ちを強めた。

 こんな広い場所じゃ、やられる……!

 背後のトイレの中ならこのように四方を囲まれる心配もない。ただ目の前に飛び込んできた一体一体へ正確に蟲喰いを放ち、しとめればいいだけだ。だが、そんなことをすれば五業はきっと襲撃を中断するだろう。わざと時間を使うようにトイレを囲み、僕を閉じ込めようとするはずだ。その間に残った個体で千花の身柄を手に入れればいいのだから。

 茶色い毛並みの化け物が、襟首に噛み付き僕の体を引き倒す。別の固体の牙を避けることに必死で、逆らうことができなかった。

 野生動物の世界では倒れるイコール死を意味する。既に回避能力をなくした僕に向かって、二体の化け物が牙をむき出しにして突進した。

 ――くそっ!

 僕が肘に乗せた蟲喰いでその固体の腹部を飛散させた直後、迫っていた二体が跳躍した。一体は蹴りで押しのけたものの、もう一体は退かせることができず、まんまとその牙が僕の太ももに突き刺さる。

 見栄も外聞もなく、大きな悲鳴を上げていた。

 肉を抉られる痛みはまさに、騒然だった。

 よく、映画や漫画などで片腕を失った人物が、「腕の一つくらい」とそのまま行動を続けることがあるが、あんなもの、実際にできるやつなどいやしないだろう。ショックで神経が麻痺してしまっているならともかく、正常な意識を保っている状態で肉をえぐられるのは、悪夢といっても過言はない。小学生のころ、僕はすねに大怪我を負ってしまったことがある。鬼ごっこ中に公園のトイレの窓から無理に身を乗り出そうとして、ふちが足の肉に食い込んだのだ。当時はあまりの痛みに足を抱えて絶叫し床の上を転げまわったものだが、今現在感じている痛みは、そんなものではなかった。

 舌を噛まないように歯をきつく押し合いながら、横へ腰を回す。常に熱した包丁を差し込まれ続けているような痛み。それを何とか我慢しつつ、手を地面について膝上で蟲喰いを展開し、その化け物の顎を粉砕した。

「おおぅ、が、がんばるなぁ……わろすわらす」

 桂場は拍手でもしそうなほど面白そうに首を伸ばし、逃げ惑う僕の痴態を楽しんでいる。すぐにでもその顔にへばりついている腫瘍を引き剥がしたかったけれど、足を損傷してしまった上に再び人面犬たちが迫ってきたため、そんな反撃に出れる余裕はなかった。

 蟲喰い付きの拳を打ち出し、飛びかかろうとしていた人面犬を威嚇する。相手がしり込みした隙に、トイレの壁に手を付き何とか立ち上がった。痛みのせいで、目が充血し涙が出そうになった。

 桂場の上空にはいつの間にか三羽のカラスが円を描くように飛び回り、その足元にはまだ損傷の薄い人面犬が二体残っている。一対一ならともかく、あれが全て同時に攻撃をしかけてくれば勝ち目はないだろう。一体か二体は倒すことができるかもしれないけれど、残りの攻めは確実に身に受けてしまう。数というのはそれだけで強力な暴力になる。僕は脂汗の浮かんだ頬を、ゆっくりと腕でぬぐった。

 桂場は道を挟んだ場所に設置されている、薄汚れた手すりに腰を落ち着かせると、意外そうに僕を見つめた。

「九業をやったわ、わりには……たいしたことないなぁ。あんな、なに、びびってたのが馬鹿みたいじゃな、ないかぁ」

 だから、それは僕じゃない。

 反目したかったが、痛みのせいで口を開けることができなかった。動くのを止めたためか、より一層強い感覚が足から押し寄せてくる。

 若干演技がかった動きで手を左右に伸ばし、桂場はこれで終わりだとばかりに僕を睨みつけた。数メートルほど距離を置いて対峙していた人面犬たちも、膝を曲げ跳躍の用意を始める。

 三羽と二匹。数は減らしたけれど、まだ公園の中に他の個体が潜んでいるかもしれないし、この足ではもうまともに避けることも叶わない。まさに最悪な状況だった。

 僕は倒した化け物たちの死体を見回した。これまでの情報から考えれば、たとえ肉体を破壊しても腫瘍が損傷しない限り、あの化け物は新たな宿主を見つけて何度でも復活する。すぐに別の肉体を求めて這い出てくるかと思っていたのだが、以外にも、人面犬たちの亡骸は静かなものだった。

 腫瘍がまったく見られないから、完全に同化してしまっている固体なのかもしれない。そこまでいくともう、宿主の死がそのまま腫瘍の死になるのだろう。

 死体が起き上がってきたり、内部の腫瘍そのものが襲い掛かってくるようなことはなさそうだ。気休め程度でしかないけれど、その事実に対しては、少しだけ安堵した。

 人殺しをした僕がどうにかなるのは、報いだ。死ぬのいは嫌だし、後悔も山のようにあるけれど、昔からまともな死に方はしないと思っていた分、納得できる面もある。だが千花は、彼女がこいつのおもちゃになることだけは我慢がならなかった。

 こいつは先ほど女の子をさらって乗っ取ったといった。探していた人物だと間違えて誘拐し、正体をばらされないために寄生しその体をもて遊んだと。これまでの情報から、こいつが他者の体を奪うためには少なくとも三日から数週間の時間を要する。もし千花がこいつに捕まれば、どんな目に遭うかは目に見えている。そんなの、許せるわけがなかった。

 肉体を奪っただけで、根本的な身体的特徴は元の体のままなら……

 僕は指を動かしながら体を一歩前に進めた。痛みと嫌悪感のせいで、睨むように彼を見てしまう。

 すると、目が合った瞬間、なぜか桂場は足を後ろに引いた。下がったのだ。

 圧倒的に有利な立場にいるはずの彼が下がるなんて、おかしな話だった。それほど僕の気迫が凄かったということなのだろうか。頑張って怒ってみても、怖くないと言われることが多いのに。

 何だ?

 僕は思わずきょとんとしてしまった。

 追い詰められているのは、僕のはずだ。囲まれ、蹂躙され、傷を負っているのは、僕のはずだ。なのに、桂場の顔には異常なほどの汗が滴っている。猛暑だからというだけではない。明らかにこちらに恐怖しているように見える。表情には余裕が満ちていたが、それが作り笑いであることは用意に読み取れた。

 こんな状況で、一体僕の何を恐れているというのだ。僕は笑いたくなったけれど、これまでの彼の言動を思い出し、あることに思い至った。

 そうだ。そもそもこの状況は僕が作り出したものだ。

 僕が彼に声をかけて、僕が彼の正体を引き出した。桂場……いや、五業にとって、これはまったく予想外の事態だったはずだ。てっきり襲撃を狙っていたからこれほどの数をそろえていたのだと思っていたけれど、もしかしたら……

 周囲に動物の気配は存在しない。ただ、顔の半分を黒く染めた大男と、数匹の化け物、怪我をしている少年だけが、この場にいる。

 あのコート姿の人物を思い出す。

 突き出された手。

 走り去っていく背中……。

 もしかしたら、勘違いしていたのかもしれない。

 僕はそっと手を下ろした。

 浮かしていた足に力を込め、強く踏みしめる。雷のような衝撃が一気に脳まで到達し、おぞましいほどの痛みを実感した。だが、動くなら今しかなかった。今ここで化け物たちと桂場に寄生している腫瘍を叩かなければ、事態はさらに悪化する。

 反撃の意思ありと、判断されたのだろう。

 様子をうかがっていた二匹の人面犬が、身を低くして足元へ滑り込んだ。僕はすぐに蟲喰いで応戦しようとしたのだが、足の痛みに気を取られて現象を起こせずに拳を突き出してしまった。それを、目の前の固体が全力で回避する。

 蟲喰いが発生していないのにも関わらず、随分な反応だ。今まで懸念していたが、考えてみればそれも当然だろう。向こうからすれば、たった一撃で頭を吹き飛ばされるほどの威力を持った攻撃なのだから。

 おそれられているのならば、牽制けんせいに使える。

 僕は実際には現象を起こさなくても、いかにももったいぶった動きで手足を動かした。それにつられて人面犬たちが望んだ方向へ移動する。現象を起こしたように見せた拳を一体が避けた途端、僕はそのまま体を前に進め、本当に現象を発生させた肘をその側頭部へと打ち込んだ。動物の体というものは、正面からの力には強いけれど、横からの攻撃にはめっぽう弱い。血を撒き散らし、首の筋肉を細切れにしながら吹き飛んでいく同類をみて、残った一体が驚愕の表情を浮かべた。

 桂場が手を振り、上空から三匹の化け物が急降下してくる。

 僕は残った人面犬の頭部を現象を起こした蹴りで吹き飛ばすと、構わずに前へ走り出した。

 覚悟と興奮のせいで足の痛みが僅かに麻痺する。痛みが消えたわけじゃないけれど、逆にその痛みを乗り越えようとして余計に力が篭った。

 彼らは僕たちを特定したときに逃げればよかった。仲間に伝えに行けばよかった。それをしなかったのは、ひとえに僕を追い詰めることができたから。そして恐らく、逃げれない理由があったから。

 同じ寄生体であるはずの、対等な存在であるはずの桂場が、他の固体とは違ってずっと離れた位置に待機している。僕は彼の体を破壊できない。攻められるだけでかなりの脅威になったというのに、何故か彼自身は冷や汗を流し遠くから指示を飛ばすだけ。

 五業がどういう存在かは知らないけれど、もし‶触れない男〟のように元は人間だったというのならば、必ずその現象を起こしている本体があるはずだ。そして、もしそれが僕たちと同じような現象なら、発生範囲には何かしらの制限がつく。

 人面犬や鳥型は桂場の腫瘍を守ろうとしている。つまりそれは、一つの答えを示しているのと同じことだった。

「いーひひひっぃいい!」

 僕の視界に入らないように、絶えず背後や横から攻撃を繰り出してくる鳥型。人面犬ほどの直接的な殺傷力はないけれど、彼らの嘴は脅威だ。もし目にでも直撃すれば、尋常じゃない苦しみを背負うことになる。

 死角から攻めてくる以上、まともに蟲喰いで叩き落すことはできない。だが、そこから来るとわかっているのならばやりようはある。

 飛翔音が鳴ると同時に、背中へ蟲喰いを展開する。鳥型たちは勝手にそこへつっこみ、自ら大きなダメージを負った。

「うわぁあ、そ、そんなぁ」

 情けない声を出し、退く桂場。

 僕は切り傷だらけの体で彼に飛び掛ると、一気に地面へ押し倒した。

 これが本当に本体かどうかはわからない。でも、他の固体がこいつを守ろうとしていたことは事実だ。僕は桂場の肩に足を乗せ、渾身の力を込めて顔にへばりついている悪物を引き上げた。粘っこい糸を引きなががら、粘着テープのように名残惜しく桂場の体に残ろうとする腫瘍。

 一気にその腫瘍を吹き飛ばそうとしたのだけれど、その直前で、桂場の手が持ち上がった。腫瘍が最後の力で彼の体を操ったらしい。

 僕の手首を握り締め、捻り上げる桂場。その力がかなり強かったため、僕は腫瘍から手を離してしまった。

 慌てて逆の手でそれを掴もうとしたのだが、その前に、腫瘍が桂場の顔から抜け出し、滑り落ちてゆく。まるで蛇と蜘蛛が一体化したかのような動きで身をくねらせながら、一目散に逃げていく。

 ここで逃がすわけにはいかない。

 僕は桂場の手を跳ね除け、彼の上から退いた。どうやら彼は意識を失ったらしかった。

 灼熱のような足の痛みに泣きそうになりながらも、必死に筋肉を動かして腫瘍を追う。醜い肉の塊は、僕の気配を感じ取って慌てて草垣の中へ飛び込んだ。

 僕はすぐにそこを飛び越えようとしたのだけれど、顔を上げた瞬間、予期せぬ人物がそこに立っていた。



 5


「えっ……?」

 短い女性の声。

 帰りの遅かった僕を心配して、見に来ていたのだろうか。千花と目が合い、「あっ」と思った刹那、腫瘍が彼女の肩にへばりついた。

 薄いシャツの隙間を縫うように動き、ぬるりとその鎖骨の上に陣地を張る。あっという間に、千花の首元は黒っぽい触手に覆い尽くされた。

「千花……!」

 僕は心臓を鷲づかみにされたような気分を味わいながら、すかさず彼女に駆け寄ろうとしたのだけれど、その前に彼女が手を伸ばした。らしくない低い声で、威嚇の言葉を吐く。

「ち、近づくな。こ、この女の喉を潰すぞ!」

 その言葉に思わず足が止まる。くっついている腫瘍から浮き出た異質な目が、ほっとしたように真横にゆがんだ。

「ぼ、ぼくたちが欲しいのは、こ、この女の身体だけけだ。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、歩けなくなっても、も、問題はない。ち、近づけば本当にやるるぞ」

 千花は自分の首元に手を伸ばし、恐怖とも余裕ともとれる微妙な表情を浮かべている。突然の事態にどうするべきか判断がつかず、僕は息を呑んだ。

 こちらが止まったからだろうか。五業は千花の白い喉元に伸ばした触手を痙攣させ、言葉を吐き出させた。

「い、いい気になるなよ、穿。ぼくは索敵が担当なんだ。さが、探すことがメインの仕事だったんだ。捕まえるのは九業の仕事。あ、あいつがやられなきゃ、こんなことにはならなかった」

 誰に対する言い訳なのか、そんな台詞をだらだら述べる五業。

 腫瘍が脈動し、千花の身体が震える。どんな影響がでるのかわからず、僕はびくりと反応した。

 夕日が消えかかっているからだけではない。まるで僕の心情を表すかのように、手足は急速に温度を失っていった。

「い、いいか? せ、穿。この女は、千花は、別に殺されるわけじゃない。ただちょっと、く、苦しい思いをするだけだ。お、お前が何もしなければ、死んだり大きな傷を負うことはないんだ。だ、だから黙ってそこでじ、じっとしてろ。ぼ、ぼくがいいというまで、動くなよ」

 そういうと、大量の汗を浮かばせながら、千花は一歩一歩後ろに下がり始めた。僕の様子を注意深く観察しながら、さっさと逃げ去りたいというように後方を確認する。

 後ろを振り返った瞬間に飛び込むべきだろうか。この距離ならば悟られる前に拘束することも可能なはずだ。――いや、駄目だ。五業は興奮している。もし失敗すれば何をするかわからない。自分が不利になるだけだというのに、本当に千花に危害を加えてしまう可能性がある。

 冷静に考えれば今の五業に千花を殺す力はない。あっても大きな障害を残すような傷を作る程度が関の山だ。命のみを重要視するなら、このまま強引に腫瘍をもぎ取って、始末すればいい。得体の知れない化け物に誘拐され何をされるのかもわからない場所に連れて行かれるよりは、そのほうがいいはずだ。

 そう思ったのだが、どうしても動くことができなかった。どれだけ見放すほうが酷い目に合うか、理解していたけれど、千花のことを考えると強い躊躇ためらいを憶えてしまう。

 足元を照らす紅の光がどんどん薄くなってくる。まるでそれは、千花の運命とシンクロしているかのようだった。

 距離をとられれば本当に間に合わなくなる。このまま逃がしてはただの馬鹿だ。行くんだ。そうしないと千花は助からない。ここで行かせれば、絶対に後悔する。

 ‶あの人〟の死に様と、瑞樹さんの後ろ姿を思い出す。

 いつも僕は助けられるはずの人を見殺しにしてきた。

 唇を噛み締め、きつく、結ぶ。

 心を鬼にして走り出そうかと思ったその瞬間、周囲の時間が止まったかのように、千花の足が固まった。

「はぁっ? な、何だ?」

 間抜けな声を出す千花。

 彼女のむき出しの肌に取り付いていた触手が、神経を刺激されたかのように痙攣し、ざわつく。何だか苦しんでいるように見えた。

「だ、誰だ……!?」

 両手を胸の前に交差し、千花が腰を傾ける。それを見た瞬間、僕は地面を蹴った。どういうわけかわからないが、このチャンスを逃す手はない。

 腫瘍に触れ、力一杯後ろに引く。何本かの触手が一気に剥がれ落ち宙に泳いだ。

 いいかげんに……! 

 往生際が悪く千花の肌にしがみつこうとしている腫瘍に向かって、渾身の力を込める。苦しさから千花が短く嗚咽を漏らす。彼女が大きく仰け反った瞬間、僕の意識は見えない何かに飛び込んでいた。



  6


  ◆


 中学一年生の文化祭、友達と談笑しながら、一階の廊下を歩いているときだった。

 吹き抜けとなっている壁の前を通り抜けようとしたとき、左側の階段へ向かっていた少年と、見事にぶつかってしまった。

 壁の所為でこちらの姿が見えなかったらしい。彼は驚いたように腕を上げ、反射的に持っていた紙コップの中身が宙に舞った。

「きゃっ、冷たっ……!?」

 短い悲鳴を上げて倒れる僕。それを見て、彼は慌てて視線を下げた。

「ご、ごめん。大丈夫?」

 やってしまったという表情で、かなり申し訳無さそうに声をかける。

 幸い、足を滑らせただけで大した怪我はしていない。腹部のお茶が気持ち悪かったけれど、前を見ていなかったのはこちらも同じだ。僕は苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

「……う~ん、私も不注意だったから……」

「怪我とか、ない?」

 逆立った後頭部の髪をふわふわと風に揺らしながら、彼が僕の全身を見つめる。線の細い、どこか疲れたような顔をした少年だった。ネクタイの色から判断するに、同じ一年生のようだ。

「大丈夫。こっちこそごめんね」

 はにかみながら答える。彼はほっとしたように目の力を抜いた。

 僕はそれで話を終わらそうとしたのだけれど、先ほどまで一緒に会話を楽しんでいた友達の咲が、親しげに彼に話しかけ始めた。

「あ~、こりゃあ、クリーニング払わなきゃだめだね。もう取れないよ。この痕」

「勿論、払うよ。僕の所為だし……」

 急に敬語をやめてそれに応じる少年。何だか、二人は顔見知りのようだった。

「あっ、そんな、いいよ。ただのお茶だし。すぐに取れるから」

 僕は慌てて咲の言葉を否定すると、彼女の耳元に寄って質問した。ショートカットのせいで、僕の息がじかに耳に当たる。

「知り合いなの?」

「うん。隣のクラスの佳谷間かやまくん。同じ図書委員なんだよ」

 どうやら委員会つながりの知り合いらしい。けろりとした調子で咲はそう述べた。

「本当にごめん。服が……代わりのものとかある?」

「あ、うん。体操着なら……」

 この学校の体操着はジャージだから、校内をうろついていても違和感はない。出し物の関係で着ている者も、何人かはいる。僕は教室のロッカーにしまってある袋のことを思い出し、そう答えた。

「え~、せっかくだからもらっとけばいいのに。せんはまじめだなぁ」

 どこか口を尖らせるように横を向く咲。冗談ではなく、本気で提案していたようだ。相変わらずだなと思った。

「センっていうの?」

 吹き抜けの前に立ちながら、何故か驚いたようにこちらを見る少年。僕が見返すと、彼は小さく笑みを浮かべた。

「僕も、下の名前は穿せんって言うんだ。同じ名前だね」

 面白そうにそう笑う彼。その顔を見て、僕は何だか妙にこそばゆい気分になった。


  ◆


 教室の外からみんながこちらを見つめている。

 扉の鍵はかかっていなかったけれど、向こうから押さえられているからどうしようもない。僕は何度も出してくれ、開けてくれと頼んだのに、彼らはけらけら笑うばかりで一行に力を緩めようとはしなかった。

 僕は泣きながら怒鳴った。

「どうして!? ぼくは何もしていないじゃないか。何でこんなことをするんだよ、何でぼくがこんな目に遭わないといけないんだよ!」

 それが、何故か非常に愉快だったらしい。彼らは僕を指差してお互いの顔を見合わせると、心底楽しそうに笑い直した。

 充血した目で壁に手をつきながら、僕はひざまずくように懇願した。

「や、やめろよぉ。あけろよぉ。こ、ここから出してくれよぉ」

 騒ぎを聞きつけたのか、生徒指導の教師の声が廊下に響く。何を騒いでいるんだと、怒鳴っているようだった。

 よかった。あの先生は生徒に親身になってくれるって、有名な人だ。あの人なら……

 これで僕はここから出れる。見世物じゃなくなれる。そう思ったのに、いつの間にか話は大きく変わっているようだった。

「英夫。お前、閉じこもって何をしてるんだ? みんな怖がってるぞ」

「え、ぼ、ぼくはなにも……」

 ずかずかと扉を開けて中に入ってきた教師が、僕の目の前に立って仁王立ちする。筋肉隆々で鋭い目つきの彼に睨まれた僕は、びっくりしてしまって何も言い返すことができず、そのままただ震えることしかできなかった。

 悪鬼のような教師の背中越しに、口を押さえて笑いを耐えているクラスメイトたちの姿が見えた。

 

  ◆

 

 帰り道。ふと振り返ると、いつも後ろに誰かがいるような気がした。

 はっきりと姿を見たわけじゃないけれど、何故か見られているという確信だけはあった。

 こんな違和感を感じるようになったのは、いつからだろう。少なくとも、穿くんと一緒に公園で不審者に襲われたあの事件の数日後には、既に感じていたような憶えはある。

 お父さんも、お母さんも、いくら僕が説明してもそれを信じようとはしない。視線は日に日に強く、近くなってきている。どうにかしなければと思った。

 ベットの上に転がりながら、穿くんのことを思い返す。彼はまだ学校には来ていない。よほどあの事件のことがショックだったのだろう。僕は直接警察官から話を聞いたわけではないけれど、あの不審者は毒か何かを飲み込んで息絶えたらしい。目の前でそんな事態を、人の死を目にした穿くんのショックは計り知れるものではないだろう。こんな話、相談できそうなのは彼くらいのものだけど、今は僕なんかのことで、煩わせるべきではないと思った。

 時計を見ると午後八時を回っていた。

 そういえば、今日はお母さんは遅いなぁ。いつもはもう、この時間には帰ってきているはずなのに。

 電話をかけようかと思ったタイミングで、ちょうど玄関のチャイムが鳴る。僕はすぐに、それが母親だと思った。

 鍵を忘れるとは珍しい。下まで降りるのが面倒だったけれど、放っておくわけにもいかない。僕はあくびをしながら、ベットから足を下ろした。


  ◆


「何で死なないんだろう」

 廊下に出ようとしたすれ違い際、クラスメイトからそう呟かれた。あまり会話をしたことも、関わりを持ったこともない、女子生徒だった。

 彼女は教室の中で待っていた友人たちに合流すると、こちらを見てクスクス笑いながら何かを話している。

 ああ、またか。また、僕をそうやって利用するんだ。

 今となってはもうお馴染みの光景だけれど、そういった扱いを受けるたびに心臓がぎゅっと握り締められるような痛みを覚える。どれだけ時間が経っても、どれだけ目にしても、こんなの、一行に慣れる気がしなかった。

 何で、こうなったんだっけ?

 もうきっかけが何かすら思い出せない。それだけこの扱いが、自分の状態が当たり前のものと化してしまった。僕は罵られ、囁かれ、見下されるべき存在。疎まれるべき人間。

 最初の頃は、みんなも普通に僕と接してくれていた。でも、だんだんと、だんだんと態度が変化していったのだ。

 子供だろうが、大人だろうが、男だろうが、女だろうが、人はどんな形であれ、他者よりも優位にあろうとする。他人を見下すことで、己の価値を底上げし、自分はああいう下等な存在じゃないと認識しようとする。僕は、運悪くその対象にはめられてしまったのだ。

 彼らは常に求めている。自分より下の人間を、自分が上だと思えるような人間を。

 僕が実際にどう感じていようと、どう思っていようと、どう行動しようと、彼らには関係がない。僕はそういう役目として断定されてしまっているから。そうあって欲しいと願われているから。

 玄関に到着し下駄箱を開ける。ぼろぼろになっていたからと、昨日母さんが買ってきてくれた革靴は、カッターでずたぼろに切り裂かれていた。

 もう、涙はでなかった。ただ、黒く重い何かが引き絞るように僕の心臓を掴んで、地下深くへ導こうとしているような気分になる。

 ――何で死なないんだろう?

 あのクラスメイトの言葉が、脳裏に浮かぶ。

 そうか。そんなに僕に傷ついて欲しいんだね。そんなに、僕に悲しんで欲しいんだね。……わかったよ。

 もう、色々と限界だった。

 僕は鞄の中に忍ばせていたあるものを握り締めると、回れ右をして、教室のほうに歩き出した。


  ◆


 玄関を開けた瞬間、僕は見知らぬ男に手を引かれた。

 そのまま、羽交い絞めにされ、家の前に止まっていた灰色の大型車へと引きずられていく。

 わけがわからなかった。ただ、強い恐怖と驚きだけがそこにあった。

 僕を拘束していた男が片手を離し、車の扉に乗せる。僕は必死に逃げようともがいたのだけれど、男の力は強くて、逆らえなかった。

 やっぱり、最近感じていた視線は勘違いなんかじゃなかったんだ。僕は狙われていた。連れ去りやすい時間と場所を吟味するために、監視されていたのだ。

 このままじゃ、誘拐される!

 心臓が早鐘のように打ち、全身の毛が総立ちしているような感覚になる。

 男が手を引き、僕の体を中に押し込もうとした直後、不意に、意識が遠くなった。


  ◆


 全身を強打され、僕は草の上に倒れこんだ。口の中を切ってしまったのか、唾液に混じって赤いものが垂れる。視界の左側には、カビの生えた校舎の壁が広がっていた。

「お前、ふざけんなよなぁ!」

 怒りに顔を歪ませた少年が、僕の腹を蹴り飛ばしながら叫ぶ。彼の顔を見て、僕はにやりと笑った。

「な、何笑ってんだよ」

 もう一度蹴りを入れられるも、そんなものは大した苦痛ではない。

 普段えばり散らしている彼が、恐怖の対象としてしか見てこなかった彼が、僕を得体の知れないもののように見て、畏れているのがとてつもなく楽しかった。

「英夫! お前のせいで、正輝まさきは大怪我を負っちまった。どうすんだよ、来週はあいつにとって大事な大会があったのに……!」

 大会? ああ、そうか。正輝は演劇部だったっけ。

 彼の背後で血まみれの顔を押さえている少年を見上げ、僕は興味無さそうにそんなことを思い出した。

 取り上げられたカッターナイフを目の前の少年がきりきりと伸ばす。彼はうずくまり痛みに喘いでいる僕に向かって、それを突き向けた。

「お前さぁ、ふざけんなよ。マジで。……マジで殺すぞ」

 最下層の人間が行った反撃が、相当に気に食わなかったらしい。プライドの高い彼には、僕の行動が許せなかったのだろう。いつものように計算高い態度はどこへやら、彼は狂気じみた表情で近づいた。

 これでいい。これで僕が殺されれば、こいつも牢屋か少年院行きだ。もうまともな人生は歩めなくなる。迫る刃を見て自然と笑みが浮かぶ。虚勢でも威嚇でもない。それは心の底からの笑いだった。

 彼はそんな僕を見て、何かの糸が切れたかのように腕を振り上げた。

 僕を憎しみの篭った顔で見下す彼の顔は、こんな関係になってから始めて、人間のもののように見えた。


  ◆


 引越しをすることになった。誘拐されかけたからだけでなく、家の中で盗聴器や盗撮機が見つかったからだ。警察の調べによると、かなりの頻度で家に侵入されていたらしい。

 潔癖症の両親はすぐに荷物を整理し、三日後にはもう引越しを決行した。あっという間の出来事だった。

 新しい居住区の場所が犯人に知られることを恐れ、友人たちに理由を説明する時間も、機会のなかった。穿くんのことが気がかりではあったけれど、こうなってはどうしようもない。

 僕は半ば連行されるように住み慣れたこの町を出ることになった。

 当日両親は仕事があったため、最後の片付けは僕が一人ですることになった。引っ越し業者の人に帰ってもらったあとは、荷物のなくなった部屋で、黙々と不要なゴミを片付ける作業を繰り返す。

 あとは自分と両親の手荷物を持ち出して鍵を掛ければ終了だった。一人で何もな部屋に居ると暇だったので、早く帰ってきてくれることを願った。

 けれれど、十時になっても、十二時になっても、次の日になっても、両親はやってこなかった。


  ◆


「……腰抜けめ」

 手に持ったカッターを見つめ、僕はひっそりと呟いた。結局、あの同級生は最後の最後で自らの行為に恐怖し、逃げ出した。

 もう少しで僕は僕の敵を討てるところだったのに。

 もうこのおもちゃに未練はない。僕はそれを屋上から投げ捨てた。くるくると回りながら、校舎の周囲に埋められている木の中へ、それは落ちていく。

 クラスメイトに切りつけ、大怪我を負わせた。最後に首謀者だったあいつを巻き込もうと思ったけれど、それも叶わないのなら、もうやることは一つだけだろう。

 柵に手をつき、よじ登る。

 こんな結末なんて迎えたくはなかったけれど、仕方が無い。この世界は、この社会は僕を必要としていないのだ。生きていても辛いだけなら、死んだほうがマシだ。

 夕日が穏やかに僕の顔を撫でる。まるで幼い頃に感じた、母の手のようだと思った。

「ああ、……何だったんだろうなぁ」

 誰に問うまでもなく呟き、僕は手を離した。



  7


 意識が、記憶が、錯綜さくそうする。僕はぼくで、ぼくは私で、僕は、僕は……――

 おびただしい量の情報が一気に押し寄せ、頭の整理がつかない。このままでは、意識が持って行かれる。

 僕は必死に自我を保とうとして、見えない歯を食いしばった。

 これは僕の記憶じゃない。僕は穿。佳谷間穿だ……! 彼らじゃない。

 再び思考が濁る。

 抵抗感など意に介さず、その強烈な流れは僕の意識を引きずり続けた。


 人の声が聞こえる。

 顔を上げようとしたけれど、一行に動けない。

 何だか、手足が拘束されているみたいだった。

 鉛のように固まったまぶたを動かし、光の束の隙間に視線を通す。

 白い壁。

 白い台。

 白い光。

 どうやらここは、手術台のようだった。

「成功だ。上手くいった」

 かなり近い場所から声が聞こえる。渋みのある男の声だ。

「大丈夫か? 私が見えるか?」

 僕の頬を叩き、覗き込んでいるようだったが、光のせいで真っ黒な塊にしか見えない。僕は僅かに顎を引くことで、それに答えた。

「はははっ、そうか。そうか」

 男は満足そうに笑い、僕の顔から手を離す。何だか妙に無機質な感触だった。

「君は五番目の作品。私の五番目のごうだ。よく、耐えてくれた。すぐに歩けるようになるからな。心配するな」

「五……業……?」

 彼の言葉を途切れ途切れ復唱する。満足そうに頷く気配がした。辛うじて、男の背後にもう一人、誰かが立っていることがわかった。背丈から判断すると、自分と同じくらいの少年のようだ。僕は彼に声をかけようとして、そのまま再び、気を失った。


  ◇


 自分の手が、黒っぽい何かを掴み引き抜いている。

 太陽の姿が海の向こう側へ消え、あたり一面が漆黒に覆いつくされた。まるで目視することすら叶わない大きな怪物の、お腹の中にいるかのようだ。

 手の中で暴れる触手だらけの肉塊。

 その気持ち悪さを実感する暇もなく、僕は今の状況を理解することに必死だった。

 ここは、どこだ? お父さんとお母さんは? いや、あの苛めっ子は? 手術台は? 僕は、ぼくは、私は……――

 複数の記憶が乱立し、自分が誰かも分からなくなる。

 何故か手の中にある黒い塊が、針のような触手を手の甲に突き刺してきたけれど、それにかまってやれる余裕はなかった。

 血が…

 妙なイメージが頭に浮かぶ。

 曲がったガードレール、止まったトラック。

 血が……

 呆然と座り込む自分。集まってくる人だかり。

 血が……。血が、僕の手に……

 真っ赤に染まった腕、その隙間から尋常ではない量の血溜まりが見える。

 ゆっくりと顔をあげ、赤い液体の中心を見つめる。倒れている人間が、一人いた。

 恐る恐る、相手の顔を覗く。まるでゴミくずのように転がっている彼女。その顔を見た瞬間――

 僕は一気に、意識を取り戻した。


 倒れる千花。消える夕日。暴れる黒い塊。

「――お前……!」

 体を乗っ取ろうとしてくる手の中の化け物を強く握り締め、僕は蟲喰い現象を発生させようとした。

 まだ思考は安定していなかったが、これが危険なものであることだけは理解できる。

 僕は完全に殺す気で力を込めていたのだが、どういうわけか、いくら力んでみても現象は発生しなかった。そればかりか、握りつぶすつもりだった腕の力が勝手に抜け落ちていく。

 五業に寄生されかけているから、ではない。これは別の問題だ。

 僕は奥歯を噛み、眉をきつく結んだ。

 記憶を見た所為で、彼の顔を覗いたせいで、僕は、五業のことを‶人間〟だと認識してしまっている。いくら化け物だと思い込もうとしても、現象を起こそうとしても、その認識が邪魔をして、勝手に手を停止させてしまうのだ。精神的な反射である以上、今の僕自身にはどうしようもない。

 僕は周囲を見渡した。日が沈んだ所為で見えずらかったけれど、少し先についてある電灯のおかげで、完全な闇というわけではなかった。

 運よく左の藪の中に空っぽの瓶を発見する。ジャムを入れるものに似ているそれは、もともとは何用のものなのだろうか。かすかにアルコールの匂いが鼻腔をついた。

 迷っている暇はない。

「このっ……!」

 僕は逆の手で右手に食い込もうとしている五業を引き離すと、それを落ちていた瓶の中につっこんだ。

 手を離すと同時にふたを回し、きつく締める。

 五業は触手を突きたて、ガラスを割ろうともがいた。だが、寄生された生物の肉体ならともかく、ただの肉の塊である彼の触手には、分厚いガラスやアルミふたを貫通させるほどの力はなかった。

 あれではいくら頑張っても無駄だろう。

 お父さん、お母さん? 

 意気地なしめ。

 僕は特別。特別な人間。

 血が……。

 めまいのする頭を抱え、僕は千花に駆け寄った。

 彼女の肩から胸にかけては、腫瘍が蔓延った跡がぬるぬると残っていたが、外傷がいしょうは負っていないようだ。

 思わず、安堵の息が漏れた。

 遠くのほうで緑也たちの遊び声が聞こえる。まだキャッチボールを続けているらしい。慣れ親しんだ彼らの声を聞き、ようやく、僕は自分が僕であると実感できた。エコーのように残留していた記憶も、波が引くように遠ざかってゆく。

 今の記憶と、弾かれた五業。それに、直前の様子の変化。

 直感で、僕は彼女の中にいるカナラのことを思い出した。

 どうやら五業は、彼女によって千花の体から追い出されたらしい。

 転がっている空き瓶の中で、五業は肉をむくれさせている。変な表現ではあるけれど、そうとしかいえない様子だった。

 あの記憶……こいつも‶触れない男〟と同じように……

 考えた瞬間、再び意識の波に飲まれそうになる。僕は慌てて頭を振り、疑問を押し留めた。

 推理するのはあとだ。今は、早くこの惨状を何とかして、緑也たちをごまかさなければならない。

 じりじりと足が痛む。

 僕は千花の横に倒れるように座り込むと、血をにじませている傷口に視線を向けた。走り回ったせいで、かなりの量が流れ出てしまったようだ。

 痛みに顔をゆがめながら、僕はため息を吐くように、呟いた。

「……しばらく、お風呂で苦労しそうだな」







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