第十七章 止水(しすい)
1
国内最大規模のウォータースライダーは、流石に人気のレベルが桁違いだった。
実際にすべり降りるための台座付近だけではなく、そこへ行くための階段から地上の受付前まで、半裸の若者たちが蟻のように並び、列を作っている。遠目に見ればまるでひとつの縦長な生物のようだ。
「これ、上につくまで何分かかるんだろう」
困ったような表情で千花が上を向く。片手を眉の上に乗せ日よけをしているようだが、あまり効果は無さそうだった。
僕は階段の下と上を眺め、時間と距離を計算しながら答えた。
「人の流れは速いから、見た目ほど時間はかからないと思うよ。こういうのってリピーターも多いし、そんなに時間を消費するなら成り立たないって」
「そっか。そうだよね。早くつかないかなぁ」
前髪を耳に掛けながら、軽く微笑む。
こうしてみると彼女は本当に美人だ。最近自分の気持ちに気が付いてしまったこともあり、とっさに視線を外すと、いつもとは違う刺激的な水着姿が目に入り、僕は思わず顔が熱くなった。
「どうしたの?」
不信そうにこちらを見てくる千花。僕は何か答えないといけないと思ったのだが、いつもと比べてほとんど頭が働かず、ただ「何でもないよ」としか答えることができなかった。
一人あたふたしている僕の肩を、後ろに並んでいた緑也が叩く。彼は真剣な表情を浮かべ、僕を見つめた。
「なに?」
「穿、少々まずいことに気がついた」
「まずいこと?」
僕はきょとんとした調子で尋ねた。
「ああ。このスライダー、俺たち以外、カップルと家族連れしかいない」
「それが、どうかしたの?」
「どうしたって、お前、頂上を見てみろよ。大抵の奴が二人一組ですべってるだろう? 俺たちは全部で九人。別に順番が来たとしてもお前らは顔見知りだからなんとも思わないだろうけど、最後に残った俺は一人でここを下る羽目になる。いちゃこらするアペックたちが見守る中、‶一人で〟だ。想像してみろよ、この事態の気まずさを。後ろできゃっはうふふしている連中から漂う哀れみの視線のど真ん中に、自分の番が来るまで一人で立ち続けるんだぞ? これを気まずいと言わずになんというんだ」
緑也は大真面目な表情でそう言った。
「後ろに並んでいる人なら僕たちが集団だってことわかってるんだから、別にいいんじゃない?」
「分かってるかわかってないかの問題じゃねえんだよ。俺が気まずいんだよ」
無実の罪を訴える囚人のように、己の扱いの不当さを力説する。
「じゃあ玉木くんは、どうしたいの?」
片手を自身の腰に当て、穏やかな表情を彼に向ける千花。何だか保育園の先生が、我がままを言っている子供に向けるような視線だと、僕は思った。
「二人一組ですべろうぜ! そしたら俺が寂しい目に遭わなくてすむじゃん」
「別にいいけど、それって、結局一人余るんじゃないかなぁ」
「最初の奴は一人ですべればいいんだよ。そしたら、ちょうどにーにーになって、バランスが取れるだろ?」
自身ありげな声で、緑也はこちらを見上げた。
順番に二人一組を組むのなら、緑也が組む相手は僕ということになるのだが、彼は分かっているのだろうか。個人的には、そういう事態は是非とも避けたいのだが。
不安感を募らせていると、上段から救いの手が降りてきた。
「おいおい、俺だけ一人で滑るのかよ。それはちょっと酷くないか。じゃんけんしようぜ。じゃんけん」
今回の一行の中で、先頭に立っていた桂場だ。
「おっしゃ、いーぜ。一番後ろじゃなきゃ、なんでもいいし」
「えー、やだよそんなの」
盛り上がる二人を見て、文句を言う矢吹さん。彼女の横に並んでいた和泉さんも、同じような表情を浮かべていた。
「じゃあ、最後の二人だけはじゃんけんで決めて、あとは適当に滑ればいいんじゃない? 一人でも、二人でも」
人差し指を上に伸ばし、見かねたように日比野さんが提案する。
緑也は最初文句を言っていたのだが、女性陣の総反撃に合い、結局はそれを了承することとなった。
奇声を上げながら、皐月さんと千花が落ちていく。次は、僕の番だった。
「じゃあ、行こうか」
「う、……うん」
照れながらも、日比野さんを前に移動させ、一緒に台座に座る。正直一人のほうが気楽だし、精神衛生的には良かったのだが、この場合は仕方がないというものだろう。彼女を一人残らせれば、後に残った二人が絶対に揉めてしまうからだ。先に彼女を行かせるということも考えたのだが、それはそれで僕の身が危険になりそうだったので、断念した。
短めの茶髪が視界に広がり、振れた白い肌にどきりとする。僕は背後の二人に軽く手を振ると、そのまま一気に台座から飛び出した。
勢いをつけるためなのか、最初はかなりの急降下となっており、度肝を抜かしたのだが、中腹からは意外と緩やかな道ばかりだった。ただ、距離だけはあるから、無題に時間が長く感じる。いつもはおしゃべりな日比野さんだったけれど、緊張しているのか、このときだけは終始無言だった。
出口にあるプールへ飛び出し、彼女と離れる。数十秒しか立っていないはずなのに、物凄く長く滑っていた気分だった。
水面から顔を出し、顔を見合わせる。別に示し合わせたわけではないけれど、何だかほっとしたように、僕と日比野さんは、お互い笑ってしまった。
数十秒後。激しい水音と共に、巨大な塊がプールに落ちてきた。
離れた場所から見ていると、その肌色の塊は二つのオブジェクトへと分裂し、反発する磁石のように、素早く距離をとった。死んだ魚のような目をした緑也に、ゾンビのように虚ろな顔の桂場。彼らはゆっくりと僕たちの下まで泳ぐと、ただ一言だけ、短く言葉を発した。
「……次、行こう」
2
昼食は、プールエリアの外にあるフードコートで軽く済ませた。
トイレに席を外した合間に、千花たちが色黒の男たちにナンパされたりもしたのだが、戻ってきた桂場のいかつい外見を見て、彼らはすぐに離れていった。こういうとき、桂場は非常に頼りになる男だった。
僕たちは少しだけ休憩し、体温と体調を整えてから、次の場所へと移動することにした。
アリ地獄スライダーやガラス張りの天空プール、迷路プールなど色々な候補があがったのだが、最終的には、今の時間なら人が少ないという理由で、流れるプールに行くことになった。
持参していた浮き輪にお尻を乗せ、ぷかぷかと流れのままに移動を開始する皐月さん。それに続いて、スタイリッシュと矢吹さん、和泉もプールの中へ入っていった。
「よし、俺たちも行こうぜ!」
「あ、うん」
勢いよく水の中に体を沈める緑也。彼のスチールウールのような髪は、一瞬にして海草へとメタモルフォーゼした。
「わっ、やっぱ一度外に出るとつめたい……!」
「ゆっくり入ればよかったね」
浮き輪をはめている日比野さんと、それに軽くつかまる千花。ちょうどその横に浮かんでいたカップルの男性が、物珍しそうに二人のことを注視する。あまりに見すぎていたためか、彼は恋人と思われる女性に頭をはたかれ、名残惜しそうに視線を元の方向へと戻した。
僕が流れのままに体を浮かせていると、頭皮からワカメをなびかせた緑也が、仰向けで真横を通過した。気持ち良さそうに目をつぶっている。
こいつは、いつでも楽しそうだな。
緑也の顔を見ていたら、何だか無性に彼をからかってみたくなり、僕は両手で近場の水をすくった。そしてそれを、そっと彼の顔の上に乗せる。
すると、猛烈な速度で二本の足が天に向かって伸び上がり、断続的な咳き込みと共に、その頭部が浮上した。
「うおいっ、なにすんだよ!」
「ごめん。死んでいるのかと思って」
「生きとるわ! この血色のいいイケメンが目に入らねえのか」
緑也はオーバーに腕を広げた。冗談だとわかっているのか、本気で怒っているわけではないようだ。
僕は軽く笑みをこぼしながら周囲を見回した。プールはちょうど、最初のカーブに差し掛かったところだった。
「そういえば、桂場はどこにいったの? 水に入る前までは一緒にいたはずだけど」
「ああ、何か腹痛とかいってトイレに向かってたぜ。変なもんでも喰ったんじゃねえか? 今日はもう三回くらい姿を消してるよ」
「……そっか。大変そうだね」
僅かに腫瘍のことを思い浮かべたが、それが存在しないことは確認ずみだ。僕は自分の不安を隠すように、平静を装った返事をした。
じりじりと肌が焼ける。まるで無数の細かい針が、僕の表面を連続で刺しているかのようだった。
まぶしさからのがれようと、僕は水の中に頭を押し込んだ。一瞬にして顔が冷たくなり、音の通り方が変わる。
――……窓越しに外をみているみたい、か……。
数時間前に聞いた言葉を思い出す。確かに、その通りだと思った。
ゴーグル越しに見える景色の中では、動き回る肌色の物体の合間を縫うように、無数の光の柱がワルツを踊っている。地上とは別の世界がそこに存在しているようだった。
それからしばらくは流れのままに移動していたのだが、ぼうっとしていたせいか、いつの間にか千花の姿も、緑也の姿も周囲から消えていた。どうやら、人ごみに押されて離れ離れになってしまったらしい。
せっかくみんなでプールに来ているのに、一人で浮かんでいるのは寂しすぎる。先ほどまでまったく気にも留めていなかったのに、急に周囲の声や音が大きくなったような気がした。
可能な限り目を凝らしてみても、人が縦横無尽に入り組んでいるため、誰がどこにいるのかさっぱり見当がつかない。どうしようかと思っていると、左斜め前、何人かのカップルを抜けた先に、和泉さんの姿が見えた。大きな浮き輪の中に入り、静かにただよっている。
ああ、よかった。
僕は他の客の邪魔にならない程度に泳ぎながら、彼女の横に並んだ。
「――やあ」
「あ、……先輩」
眠そうな目で、和泉さんは僕の顔を見た。アシンメトリーになっている前髪が顔にはりついていたのだが、彼女は煩わしそうにそれを横へ動かす。
「みんなは?」
「さあ、わからないです。先輩もはぐれたんですか?」
「ちょっとぼうっとしちゃってね。気がついたらいなくなってた。……まだそんなに遠くには行ってないと思うけど」
「別に無理に一緒にいなくてもいいんじゃないですか? 違う速さで泳いでいったのなら、いつかは向こうが一周して追いついてきますよ」
「まあ、確かにそうかもしれないけど」
相変わらずの歯に物を着せぬ言い方に、僕は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「……やぱり、プールはあんまり楽しくない?」
「こうして流されてるのは、好きですよ。泳がなくても勝手に前に進んでくれるし、水の揺れや冷たさを感じられますから」
それは楽しいんでいるといえるのだろうか。僕には彼女の感覚がいまいち理解できなかった。
くるりと体をこちらに回し、和泉さんはその双眼で僕の目を捉えた。僅かに波が立ち、体が少しだけ上下する。
「――先輩」
「なに?」
「先輩は流されるのは、好きじゃないんですか?」
「そんなことはないよ。ただ、ずっと波に乗っていたら飽きちゃわない? 泳いで色々と動いたほうが楽しいと思うけど」
「泳ぐっていっても、ここじゃちょっと横に移動するとか、体の向きを変えるとか、そんなことしかできないじゃないですか。浮き輪に乗って移動してるのと、何も変わりませんよ」
「そう言ってしまえばそうだけど……でも、自分で動いているっていう実感は持てるから。結果的にはあんまり意味はないかもしれないけれど、何もしないよりは、プールっていう環境をより多く味わえる気がしない?」
「味わうですか。何だかしょっぱそうですね」
よく分からない感想を、和泉さんは漏らした。
陽光で頭が暑くなってきたので、一度体を沈め、浮上する。水面に顔を出すと、彼女は相変わらず眠そうな顔で、流れの先を見つめていた。
どうやらこの子は、極端に動くことが嫌いなようだった。手や足だけでなく、表情すらもほとんど変化がない。思い返すと、波のプールのときもあまり端から動いていなかった。単に泳げないのか、それとも深い場所で波に飲まれるのが怖かったからなのか、可能性としてはありそうではあるが。
和泉さんは昔話に出てくる桃のように波に揺られながら、プール上のルートを突き進む。僅かにハの字に眉を寄せ、無表情で流され続ける彼女の姿は、どことなく人形のようにも見えた。
「そういえば――」
軽く首を傾け振り向く和泉さん。せっかく耳に掛けていた前髪が落ち、髪型が再びアシンメトリーに戻った。
「先輩って、転校生なんですよね。何でこんな田舎町に来たんですか?」
皐月さんあたりから聞いたのだろうか。少しだけ驚いたものの、別に隠してもすぐにばれそうだったので、僕は正直に答えた。
「父の仕事の都合だよ。よくある話さ。本当は断れたそうなんだけど、前に来た時にこの町が気に入ったらしくてね。ほとんど衝動的に引っ越しを決めちゃったんだ」
「……なるほど。災難ですね」
そういって、和泉さんは頷いて見せた。
再びお互い黙り込み、沈黙が生まれる。僕的には非常に気まずいのだが、泉さんは満足そうに前を向いている。どうやら今の質問は、彼女なりに会話を盛り上げようと努力した結果らしかった。
前の男性のぶつかりそうになったので、彼女の浮き輪を押しながら横へ移動する。ちょうど、プールの中央に位置する場所だった。
和泉さんは頬に張り付いた前髪をどかそうと悪戦苦闘していたが、それが無理だと悟ったのか、最終的には強引に引っ張り、耳に掛けることで納得したように見えた。
「和泉さんはずっと明社町に住んでるの?」
「……違いますよ。私も、二年くらい前に転校してきたんです。佳谷間さんと同じですよ。父の仕事の都合です」
「ふうん。そうなんだ。じゃあ、似た者どうしだね。――お父さんは何の仕事を?」
「自営業……まあ、雑貨店みたいなものです。前に住んでいたところではかなり厳しい状況だったんですけど、こっちきてからは上手く軌道にのれたみたいで、今はそれなりに繁盛しているみたいですよ」
どこか他人事のように、彼女はそんな台詞を吐いた。
「こっちに引っ越す前は私も家の手伝いばかりしてて、学校が終わったらすぐに店に出て働く毎日でした。友達と遊んでいる暇もまったくないし、流行りものもほとんど知らなかったし、ほとんど自分の時間がない生活を送っていました。だから、最近急に時間ができて、嬉しいことは嬉しいんですけど、いざ自由になってみると、逆にやりたいことが何もなくて、すごくつまらないんですよね。一日の終わる時間が、物凄く長く感じます」
「何か趣味とか作れば? 僕も絵を描いているときは、時間なんていくらあっても足りないくらいだよ?」
まあ、最近はそもそもそれを描きにかかる時間すらほとんどないのだが。
「特にありません。それなりに色んなものに手を出してはみたんですが、あんまり楽しいとは思えなかったんですよね。何をやっても面白さがわからないというかなんというか。別に、また家の手伝いに追われる日々に戻りたいというわけではないんですけど」
「……人それぞれ合う合わないものもあるからね。別に無理に探す必要はないと思うけど。趣味なんて、それをやりたいと思ったからやるものであって、やらされるものではないし」
「やりたいと思うもの、ですか」
和泉さんは浮き輪の上で腕を組み、考え込むような素振りを見せたのだが、すぐにため息を吐いて、元の姿勢に戻った。
「何をやっても面白くないのに、そんなの見つかるとは思えませんよ」
「そうかな。……少なくとも、矢吹さんと一緒にウォータースライダーをすべっていたときの和泉さんは、凄く楽しそうに見えたよ。自分では気がついていないかもしれないけれど、笑顔だった。――無理に今やりたいことを見つけなくても、これからきっと自然に出てくるよ。それこそ、時間が足りないくらいに」
そういうと、和泉さんの目が少しだけ大きくなった。ずっと無表情だったぶん、そんな些細な変化でもよくわかってしまう。
僕はあえて足を地面から離し、浮遊感を楽しみながら波に揺られた。後ろ向きになって流されていると、何だか奇妙な感じがして面白かった。
ポンプから押し出される水の勢いのままに、決められたルートの中を自由に進む。
耳が水中に入ったり、出たりしているからよく聞き取れなかったけれど、僕は確かに聞いた。
消え入りそうなほど小さな声で、和泉さんの口から漏れた言葉を。
――……そんな日が、本当にくればいいんですけどね。
どこか寂しそうな表情で、彼女はそう、呟いていた。
3
その後、しばらく流されることを続けていると、緑也や千花、日比野さんたちと合流した。十分にこの場を楽しんでいるような彼女たちとは正反対に、緑也はどこか不満そうに見えた。直接それについて指摘してみたところ、どうやら周りがカップルだらけなのが気に喰わないとのことだった。
流れを楽しもうにも人が多すぎてろくに泳げないし、かといって女性陣はそっちでかってに盛り上がってるし、何だかなぁというのが、彼の感想だった。
そんなに文句を言うならば、恋人を作っていっしょに来ればいいのにと思ったのだが、どうも、彼にそんな相手はいないようだ。あの明るい性格やそれなりに整っている容姿から十分に人気はありそうなものだったけれど、本人がモテないと思い込んでいる以上、どうしようもない。僕は呆れた目で彼を見返した。
緑也の希望もあり、そろそろ別のプールに移動しようと思ったのだが、まだ皐月さんとスタイリッシュ、矢吹さんの姿が見つからなかった。日比野さんは、皐月さんはスタイリッシュに少し興味を持っていたから、もしかしたら二人でいちゃいちゃしてるんじゃない? と推測していたが、僕はそれはないと思った。最近になってわかってきたが、スタイリッシュはどことなく乙女チックな感性の持ち主だ。別に同性愛者とかそういうわけではなく、単純に、物事に対してすごく繊細な人間なのだ。そんな彼が女性と二人っきりになったからといって、急に何かリアクションを起こすことは考えにくい。ましてや、人前でいちゃいちゃするなど、ほぼありえないと思った。
しかし、日比野さんの話を聞いた緑也は、こいつはスクープだといわんばかりの勢いで、二人の姿を探し始めた。何だかんだ日比野さんもそれに悪乗りして、緑也のあとについていく。退屈していた分、少しでも気分を盛り上げる要素があれば何でも良かったのだろう。二人はすぐに人ごみにまぎれてしまい、それを追っている間に僕はまた、彼らとはぐれてしまった。
プールの淵に手を置き、少しだけ体を休める。
たまたま一緒に残った千花も、僕の隣で息を吐いて胸を上下させていた。
「何か疲れちゃったね。……どうする?」
肩まである黒髪を後ろに流し、顔から滴る水を腕で拭いながら、千花はこちらを見た。僕はその流線美のある瞳を横目で見返し、体の向きを淵と水平に変えた。
「ここから他のエリアに行くには、パラソルの置いてある休憩所か、北側の中継通路を通るしかないみたいだ。緑也たちが僕らを置いて他のエリアへ移動するはずはないだろうし、たぶん休憩所で待っていれば、いずれ合流できると思うよ」
「そっか。じゃあ、そのへんまで適当に流されてよっか。確か、あの近くだよね?」
直線に近いコースになっているプールの曲がり角、そこに立てられた短い梯子を指差して、千花は腰を回した。
大体三十メートルくらいだろうか。大した距離ではないけれど、こうして二人で泳げるのは、少しだけ嬉しかった。
僕は手を離し、ゆっくりと移動を開始した。
いつも一緒に行動しているはずなのに、今日は妙に彼女のことを意識してしまっている。思うように話題を思いつくことができず、結局口から飛び出たのは、事件に関する話だった。
「太一のほうは……何かわかった?」
ただの間に合わせの質問だったのだが、そう尋ねた途端、千花の表情は僅かに曇った。
「それがね……穿くん。実は太一くん、入院したみたいなんだ」
「入院? 何で?」
「ゲームセンターで、不良のケンカに巻きもまれて大怪我を負ったらしいんだけど、それがちょうど私たちが一緒に遊びに行った、あの日なんだって」
あの日ということは、僕が五業と遭遇した日のことだ。確かに太一が屋内から出てくるところは目撃しなかったけれど、あれは見過ごしたわけではなくて、まだ中にいたということだったのか?
大量の動物の死骸を発見し、それをやったと思われる人物を確認するために、僕は太一を追った。そして、その太一が当日に大怪我を追っている。どう考えても太一を襲撃した相手は、動物を虐殺した人物に間違いなかった。
「太一は大丈夫なの?」
「かなりの重症だそうだよ。脇腹の一部が抉り取られてて、そこの出血が酷かったみたい。命に別状はないんだけど、まだ意識は戻ってないらしいの」
「そうか。何があったんだろう。そんな状況になるなんて……」
思考を巡らしてみると、すぐに腫瘍のことが頭に浮かんだ。もし腫瘍が脇腹の位置にあったのなら、何者かがそれを除去したとも考えられる。
「私も矢吹さんから聞いただけだし、ちゃんと聞き込みしてみるよ。目撃した人がいるかもしれないから」
「あまり大きく動かないほうがいいよ。君は、カナラと勘違いされて狙われる可能性が高いんだ。どこで五業が見ているかも分からないし」
「大丈夫だって。私、逃げ足速いし。矢吹さんも一緒なんだか――……」
言いかけて、千花の体が大きく傾いた。体重を乗せていた手が急に支えを失ってしまったらしい。
急に流れの一部が変わり、体が横へ引き寄せられる。見ると、それまでずっと続いていた壁の間に、柵のようなものが出現していた。
「な、何これ?」
姿勢を戻した千花が、不思議そうに柵とその奥を見つめる。
僕は淵を握り締め、体の動きを止めた。
柵の上部はトンネルのようになっており、その上には客が移動するための足場がある。ぶら下げられた白い看板に目を通すと、色のついた文字で説明書きがなされていた。
――来月よりオープン予定の新ルートです。流速や流量調整のデータを取るために、現在水を流しておりますが、立ち入ることはできません。どうかご協力お願いします。
看板の下部には完成図の絵が描かれている。それによると、現在僕たちが浸かっているこちら側の流れるプールの一部に、小さな輪を付け足して、海底トンネルをイメージしたわき道を作るらしかった。ちょうど数字の8のような形を想像すればいいだろう。長さとしてはこの本ルートの六分の一もないようだったが。
「へぇー、海底トンネルをイメージだって。どんなのだろう?」
先ほどまでの深刻な会話を忘れ、実に興味深そうに千花は目を輝かせた。
「この絵を見た限りだと、水槽の下を進んでいくような感じなのかな。でも、流石にそれはお金がかかりすぎるだろうから、トンネルの中に深海みたいなイルミネーションやオブジェクトを配置するのかもね」
「何だかロマンチックなプールだね。面白そう」
千花は柵の隙間に目をあて目を細めた。少しでも中の様子を見ようとしているのかもしれない。
彼女があまりに楽しそうに中を覗いているので、僕も少しだけ興味が沸き、同じように柵に手をあて、顔を近づけてみた。
電灯が消えている所為でほとんど様子はわからない。辛うじて、天井に模様のようなものが認識できる。
さらによく見ようと腕に力を入れた途端、鈍い音が鳴った。
「え――……?」
突然、柵を繋いでいた錠が外れたのだ。僕たちは前のりになったまま、見事に向こう側へと飛び込んでしまった。
ま、まずい……!
最初に浮かんだのは、プール関係者に対する負い目の感情だった。勝手に鍵を壊して立ち入り禁止エリアに踏み入るなんて、間違いなく怒りを買ってしまうはずだ。
僕は壁に手を付き、すぐに元のルートへと戻ろうとしたのだけれど、妙なことに体はまったく前に進まなかった。
「あ、あれ? 前にいけない……!?」
驚いたように千花が声を上げる。より奥に踏み込んでいた分、彼女の体は半分影に覆われて見えた。
おかしいと、僕は瞬時に感じた。
いくら流れるプールの勢いや水量がかなりのものだとしても、トンネルに入るまではここまで抵抗感はなかったはずだ。見たところ水の様子に変化は見られない。ただ、自分たちの体だけが奥へ、奥へと緩やかに流されていく。
まるで、体が急に軽くなってしまったかのようだった。
「あっ……穿くん!」
不安そうに視線を飛ばす千花。彼女との距離はどんどん開いてゆく。仕方がなく僕は流れに抗うことを諦め、そちらに向かって泳ぎだした。
4
波に押されながら、どこかつかまれるところを探す。水路自体は輪のように続いているから、放っておいても元のプールへ戻ることはできる。だが、先ほどから妙な胸騒ぎが絶えなかった。すぐにでも水中から出ないといけないような予感がしていたのだ。
「千花――!」
僕が呼びかけると、彼女は神妙な顔でこちらを見た。怖がってはいたが、状況の認識は冷静にできているようだ。
「とりあえずどこかにつかまって、何か、変だ」
「う、うん。わかった」
トンネルの中とは言え、監視員や救助員が自由に動き回れる道は必ずあるはず。そうでなければ、娯楽施設としては成り立たない。
暗闇の中ではあったが、完全に漆黒に包まれているというわけではなかった。非常口を示す看板がところどころにあったし、天井の両端には薄っすらと線のような光が漏れていた。通気口なのかは知らないが、そのおかげで辛うじて、僕たちはお互いの顔や位置を把握することができた。
「穿くん、梯子がある。あそこから上がろう」
曲がり角の一転を指差して、千花が叫ぶ。僕は無言で腕を動かし、体をそちらに近づけようとしたのだが、そのとき急に、周囲の水の重さががくんと上がった。
な、何だこれ?
腕や足を、無数の人間に掴まれているかのような感触だった。姿の見えない亡者たちが、僕を地の底に引きずり込もうともがいているような、そんな妄想が頭に浮かぶ。
「穿くん?」
異変に気がついたのか、千花が心配そうにこちらを振り返る。僕は答えることもできずに、そのまま水中の中へ潜り込んだ。
空気が泡となり、口から漏れる。
事態に頭が追いつかず、パニックになりかけていた。
何だこれ? 何だこれ? 体が、‶重い〟……!
足は地面についているのに、胴体が持ち上がらない。まつわりつく水が、鉛のようだった。
明らかに、尋常な状況ではない。僕はすぐに‶触れない男〟や五業の姿を思い浮かべた。
もしかしたらこれは……――
「穿くん!」
梯子に手を伸ばしかけていた千花が、近づいてくる。正直助けは欲しかったけれど、このままでは彼女を巻き込んでしまうことが目に見えていた。
蟲喰いで水を吹き飛ばすか、いやでも……。
吹き飛ばせる水の量は微量なものだし、そもそもこれが何を狙っての攻撃かもわからない。下手に蟲喰いを使えば、僕が超能力持ちだと相手に知られてしまう。
でもこのままじゃ……――。
息が苦しくなってくる。頭が熱くなり、心臓の音が大きく聞こえるようになった。
目の前まで来た千花が、僕の腕を掴みながら引き上げようとする。だがその行為の効果はほとんどなく、僕は黒色の世界の中に留まり続けた。
く、苦しい……!
頭痛が酷くなり、視界がゆがみ始める。まずい兆候だと感じた。
もう、だめだ。そう思った直後、僕の唇にやわらかい感触が走った。
目を開けると、千花が必死にこちらを見つめ、息を吹き込んでいる。
僕はすぐに彼女の身を心配したのだけれど、どういうわけか、千花の身体は水の影響を受けていないようだった。ごく普通に浮上し、空気を取り込んでいる。
そこで、僕は気がついた。
‶触れない男〟たちは、千花を手に入れることが目的のはずだ。だから彼女に損傷を与えるような真似をするはずがない。一緒にここへ引き込んだのは、係員や緑也たちを呼ばせないため。
もしこれが五業による肉体の操作ならば、実際に水が重くなっているわけではない。ただ、僕の体が浮上することを拒否しているだけ。だったら――
体の力を抜き、腕をだらりと垂れ下げる。あえて沈もうとする力に逆らわず、一切の動きを停止させた。
再び水中に入ってきた千花は、驚いたように僕を見て、慌てて水面に引き上げようとする。すると、抵抗をやめた僕の体は、実に簡単に浮上することができた。
僅かに顔が水面から飛び出した隙に、外の空気を飲み込む。吸い込みすぎて、思わず息が止まりそうになった。
息苦しさに耐えながら、何とか呼吸を維持しようと踏ん張る。ゴールとなる梯子の位置を確認しようと視線を移動させた瞬間、視界の端に何かが映った。
レインコート姿の人間。
あれは係員用のものだろうか。緑とオレンジ色の斑模様が描かれた派手なコート。それを頭まで被った誰かが、こちらを見下ろしている。
水中から覗いているせいで体格や距離はおぼろけだったけれど、その姿ははっきりと認識できた。
係員か? た、助けを……!
千花は梯子を目指すことに必死で気がついていない。苦しさに耐えながら、僕は何とか腕を上げようとした。
今の僕たちを第三者が目にすれば、危機的状況であることは明らかだ。それにもかかわらず、コートの人物は手を貸そうとはしない。一体どういうつもりなのか、理解できなかった。
ようやく気がついたかのように、千花もそちらを見る。コートの人物は彼女の顔をちらりと一瞥すると、片手を前に伸ばした。
てっきり僕は助けてくれるものと思っていたのだが、結果はまったく正反対なものだった。
「あうっ……!?」
がくんっと、千花の腰が落ちる。まるで急に何かが背中に圧し掛かったかのように、その体が水中に沈み込んだ。彼女は咄嗟に僕の体を離し、そのせいで再びこちらも深く水中へ沈んでいく。まるでそのコートの人物の手の動きに合わせて、僕たちの体が操られているかのようだった。
音が鳴らないと分かっていつつも、僕は舌を打ち合わせた。今目の前にしている人物は、間違いなく‶触れない男〟に類する何かだ。
どうしてこんなところにいて、どうして僕たちのことを突き止めたのかは知らないけれど、これはもはや、疑いをかけれるどうこうの次元じゃない。確実に僕たちを仕留めにきている。
自分の喉を掻き毟るようにもがいている千花。彼らにとって目的であるはずの相手なのに、まったく容赦がなかった。‶触れない男〟は生きて彼女を捕らえたがっているようにみえたのだが、このコートの人間はそうでもないらしい。
血が上り爆発しそうになっている頭を回し、必死に前に進もうとする。
今、このタイミングで何かしなけれれば、二人とも二度と太陽の光を目にすることはできない。待っている結末は一つだけ。死だ。
おぼろげな視界の中、苦しむ千花の顔が次第にカナラのものへと変わっていく。
足元からは僕が殺したあの男が、にやにや歪な笑みを浮かべてこちらを見上げている。
僕は男の顔をかき消そうともがくも、蜃気楼のようにその影は消えない。まとわりついている重さと一体化したかのように、男の顔が体を覆い始めた。
幻覚だとは分かっていたけれどどうしても声を出さずにはいられなかった。
やめろ。僕に殺すつもりはなかった……!
しかし、体の重さは一行に消えない。そればかりか、ますます強度を増していく。
カナラの幻影がさらに変化し、中年女性の顔が浮かび上がる。彼女は僕の顔を見つめ、攻めるような目でただ一言――
やめろ!
気がつけば、僕は蟲喰いを起こしていた。
はじけ飛ぶ大量の水。急に消失する全身の重さ。驚いたように下がるコートの人間。
蟲喰いは万物に対して‶何も存在しない点〟を無数に構築する現象。水も、空気も、コート姿の人間が与える影響の中でさえも、全てに無の空間を作り、縦横無尽に屠る。
一瞬だけ、弾け飛んだ水が宙に舞った間、僕と相手の視線が交差する。
――そうだ。これは正当防衛だ。僕は、悪くない。
拳を握り締め、それを斜め上方に突き出す。同時に、コートの人間も手を大きく振り払った。
5
体が、大きく後方に仰け反る。
何をされたのかは分からなかったけれど、胸に強烈な痛みを感じていることだけは、理解できた。
僕は手を伸ばした格好のまま後頭部を水面に打ちつけ、体を液体の中にめり込ませた。肺に大量の水が入り込み、器官と鼻を圧迫する。
くそ……?
意識が混濁しているせいで、状況がよく把握できていない。
僕は最後の力を振り絞って、何とか水の檻から脱出した。
コートの人間は蟲喰いの一部を受け壁に背中を強打したようだ。膝を折りながら腹部を押さえていた。
僕は再び前に出ようとしたのだけど、その前にコートの人間は走り出した。酸欠のせいでよく見えないが、どうやら出口のほうへ向かったらしい。移動した跡に点々と、血の雫が続いていた。
緊張が解け、一気に全身の力が抜ける。
「ああっ……だめ、しっかりして!」
僕が意識を失ったと思ったのか、千花は慌ててこちらに泳ぎ寄った。
彼女の手伝いで梯子まで移動し、それを掴む。
肺と頭が破裂しそうだったけれど、強引に体を持ち上げ何とか歩道の上に転がった。横になると同時に、大量の水が口から流れ出る。
排水溝に唇を押し付けながら、ようやく、僕は空気を十分に吸い込むことができた。
「穿くん、だ、大丈夫……!?」
手を地面に着きせき込む僕を見て、千花が青白い顔で駆け寄る。僕は答えることができずに必死に呼吸を整えた。
心配そうに背中に手をあてさする千花。彼女の優しさに感謝しつつ、僕はゆっくりと顔を上げた。
「ごめん、ありがとう。……大丈夫」
息はまだ辛かったが、しゃべれない程ではない。座り込み壁に背をつくと、僕は自分の胸に手をあて、心臓の動きを確かめた。
一分ほど間を置いた頃だろうか。僕の状態が落ち着いたのを確認して、千花は静かに唇を動かした。
「今の人ってもしかして……」
「たぶん、‶触れない男〟の同類だろうね」
出口のほうを見つめながら、僕は荒く答えた。
「何でこんなところに……明社町からだいぶ離れているのに」
「……追ってきたのかもしれない。ここなら人が多くて目立たないから」
「それって、既に私たちが目をつけられているってこと?」
現状を理解し、千花は両手で自分の体を抱きしめた。神妙な表情の中に、恐怖の感情が読み取れる。
「ただ怪しんでいただけっていう線も考えられるけど、僕はもう蟲喰いを見せてしまった。どちらにせよ、確実に認識はされてるはずだよ。自分たちが追っている少女と関係がある人間だって」
元々‶触れない男〟の争いから僕たちの居場所はある程度絞り込められていたはずだ。寄生されていた動物たちのこともあるし、目をつけられるのは時間の問題だと思っていたのだが、まさかこんなに早く手を出してくるとは。
桂場のこと。みんなと過ごした楽しい時間。
現実から目を逸らしたくて、ついつい己の心にフィルターをかけてしまっていた。僕は自分の情けなさに、かすかな嫌悪感を抱いた。
「……とにかくまずはここを出よう。またあいつが戻ってくるかもしれない。柵は壊れたままだから、係員にも怪しまれると思うし」
呼吸はだいぶ落ち着いてきた。今なら歩くことぐらいはできそうだ。
老人のような足取りで立ち上がり、歩き出そうとする。だがそんな僕を、千花が引き止めた。
「待って、穿くん。さっきの人がもし五業ってやつなら、私たちが水中で動けなくなったのは、寄生されてたってことだよね。それを確かめなきゃ」
「あ、そうか。そうだね」
気が動転していたせいですっかり瞑目していたが、確かに彼女の言うとおりだ。可能性があるならば、確認は早めに取っておいたほうがいい。
僕と千花はお互い背中合わせになり、自分の身体をざっと見回したのだが、腫瘍のようなものはまったくみられなかった。
正直いって僕は安心したのだけれど、それと同時に理解できないこともあった。腫瘍のせいではないというのならば、あのとき感じた重さは何だったのだろうか。コートの男が実際に目の前にいたことから、近距離ならば腫瘍を利用せずとも、他人の肉体を操作できると考えられなくもないが。
やはり、ここで考えていても埒が明かない。
とにかく今は緑也たちと合流することが先決だ。人の輪にいれば、彼らも容易に襲撃を行うことができない。僕たちは最後にお互いの背中を確認すると、早々にこの工事エリアから脱出した。
「あれ、どこ行ってたの?」
プールサイドに置かれたパラソルの下で、最初に声をかけてきたのは、矢吹さんだった。
いつの間にかピンク色のTシャツを水着の上から着て、優雅に果物の切れ身が乗った透明カップを片手に持っている。
僕と千花は何気ない調子を装いながら、彼女たちの元に歩みよった。
「ごめん、ちょっと迷子になっちゃって。向こう側に行ってた」
「そんなこといって、二人でいちゃいちゃしてたんじゃないのー?」
顎に手を当て、探偵のようにこちらを見つめる皐月さん。僕がどう返答しようか迷っていると、千花がそれに応じてくれた。
「そうだって言ったら、どうする?」
含みのある笑みを浮かべ、小さく首を傾ける。するとすぐに皐月さんが食いついてきた。
「え、本当に? 前から怪しいと思ってたんだよ~」
「ふふ、冗談だよ。もしそういうことするなら、二人だけで来てるって」
おかしそうに笑う千花を見て、皐月さんはつまらなそうに肩を落とした。
「なぁーんだ。残念……」
「皐月ちゃんはどうなの? スタイルくんと二人っきりだったって聞いたけど」
「え? あ、あたしは別に何もないよ」
急に目を逸らし、不自然に腕を組みなおす皐月さん。どうやら、千花の狙いは最初からこの話題に話を逸らすことのようだった。
「それがさ、聞いてくれよ。こいつら――……」
予想通り、緑也が楽しそうにテンション高く前に乗り出す。肝心のスタイリッシュは恥ずかしさと居心地の悪そうな表情を浮かべ、ただおろおろしていた。
日比野さんと和泉さんは、タオルを巻いたままデッキチェアに横たわったままだ。僕の視線に気がついた和泉さんは小さく「冷えました」とだけ呟いた。
皐月さんとスタイリッシュのことで盛り上がっている一団をよそに、僕はすぐに桂場の姿が見えないことに気がついた。
どこへいったのか日比野さんに尋ねよとしたところで、タイミングよく彼が横から現れた。またトイレに行っていたらしく、苦しそうにタオルを巻いた自分の腹部を押さえている。
その手をみて、先ほどのコートを着た人間の姿が思わず脳裏に浮かぶ。
前々から違和感を感じていただけに、僕は初めて桂場から僅かな恐怖を感じた。
「悪いな。ちょっと腹の調子がいかんわ」
そういう彼の顔色は確かに悪かった。いつもはこれでもかというほど健康的で浅黒い肌をしていたはずなのに、朝よりも一層青白くみえる。まるで、‶触れない男〟のようだ。
「変なものでも食べたんじゃないの?」
僕はいつもと代わらぬ態度でそう言った。
「そんなつもりはないんだけどなぁ。何か、ここ数日体の調子がおかしいんだよ。病院いったほうがいいだろか」
腹部から手を離すことなく、いつものように痒そうに自分の頭を触る桂場。
彼を信じたい。信じたいけれど、そういうわけにもいかない。
今日ここを訪れるということは、仲間内でしか知らない事実だった。たとえ誰かがクラスメイトに話し、その人物を経由して五業に知られたとしても、伝言が伝わるのはごく狭い範囲のはずだ。にもかかわらず、ここで襲撃を受けたということは、もしかしたら、五業は僕たちに限りなく近い場所に、人間に寄生しているという線が高い。
頬に一筋の雫が流れ落ちる。
それがプールの水なのか、汗なのかは、僕にはわからなかった。