第十五章 異形
1
ゲームセンターの中は、先ほど以上に雑然としていた。
学校帰りの小学生や中学生たちが帰宅した代わりに、少し派手な格好をした高校生や大学生の姿がちらほら見られるようになった。特にコインゲームのほうの盛り上がりはかなりのもので、ときたま怒号や叫び声などが聞こえてきた。
僕は真っ先に太一を探してみたが、見える範囲に彼の姿はなかった。
先ほど腹部に見えた赤い染色と鉄の臭い。あれは間違いなく血だ。太一の血なのかそれとも別の誰かのものなのか。少なくとも僕たちが動物の死骸を発見した直前に彼があそこを通過したのは確かなはず。
もし彼の腹部についた血が彼自身のものであるとすれば、それが付着した状況の可能性は二つある。動物につけられた傷か、彼らを皆殺しにした誰かによる傷か。そしてもしあの血が彼自身のものでないのならば、虐殺の犯人は太一本人ということになる。
だが後者ならば、彼がゲームセンターに来ている理由の説明がつかない。何らかの理由があって動物を殺したとして、その痕跡を残した服を着たままわざわざこんな人目につく場所を訪れる必要はあるのだろうか。仮に着替えのためだとしても、それならもっと都合のいい場所はいくらでもある。
状況から考えて、僕は太一の腹部に付着していた血液は彼自身のものであると判断した。あの血が彼のものであるのならば、彼は何かに襲われたということだ。そして、それから逃げるために人垣に紛れ込んだ。だから彼は異常に急いでいた。慌ててこの中へ入った。
僕は指遊びをしながら、ゆっくりと通路を移動した。カードゲームで遊んでいる集団の横を抜け、あちらこちらに目を這わせる。
‶神隠し〟の噂によると、姿を消して帰ってきた者はおかしくなり、動物の姿がその周囲で目撃されるようになる。彼ら帰還者が‶触れない男〟の同類から何らかの影響を受けているとすれば、その周囲で目撃されているという動物も無関係であるはずがない。太一は少女じゃないけれど、矢吹さんから聞いた話には例の噂と共通する点がいくつかある。もし彼が触れない男の同類と繋がりがあるのだとしたら、彼を襲ったのはあそこで死んでいた動物ではない。別の誰か、何かだ。
動物たちが死んでいた場所にあった、‶蟲喰い〟にも似た破壊痕。‶触れない男〟の事故現場で見たものとまったく同じ、大きなひび割れ。
緊張感が高まり、ごくりと唾液を飲み下した。
‶触れない男〟の死亡から何のアクションもないことを考えると、敵は僕が彼に追われていたことや千花の存在については何も知らないようだ。ここで下手な真似をすれば一気に目をつけられかねないが、得体の知れない存在を得体のしれないままにしておくほど恐ろしいことはない。恐怖の最大の原因は‶わからない〟という感情なのだから。
室内はかなり強めに冷房が設定されているにも関わらず、背中や額から僅かに汗が滲み出る。ずっと歩き回っているのはただの不審者なので、僕は適当な間隔で目についたのゲーム機を弄って回った。
十分ほどだろうか。手当たり次第に探してみたが、太一らしき男の姿は見つけられなかった。既にここを出たのか、それともトイレにでも篭っているのか。
彼が室内にいないのならば、このままここで待っていても意味は無い。格闘ゲームをやるふりをしつつどうするべきか迷っていると、向かいの席から誰かが立ち上がり、横を向いた。目つきの悪い白髪混じりの、少し冷たい印象を受ける端正な顔つきの少年だった。
彼はすぐにその場を離れていったのだが、偶然その背中越しに、あるものが目に入った。
非常口と書かれた木製の扉。ちょうど今まさに、太一らしき影がそこを通ったのだ。どうやら、彼はひっそりと店から出る気のようだった。
あれは……追うか? いや、でも……。
このままでは逃げられるが、かといって追えば彼にも、彼の追手にも僕の存在が露見する。そもそも僕がここに来たのは彼を襲撃した人物を特定するためで、彼自身を直接問いつめるためではない。日比野さんから聞いた噂のような現場が見られたり、万が一‶触れない男〟の目的にそった行動をとれば、危険対象として警戒しておく。その程度のつもりだった。
深入りはするべきじゃない。けれど、このまま見すごすのも不穏な感じがする。悩んだ末に、僕は正面扉から外に出ることにした。あの非常口の位置ならば出る先はある程度限られている。そこで通行人のふりをして見張っていればいいと思ったのだ。
なるべく不自然に見えないように足を速めながら、ゲームセンターの外へ出る。裏口はここから見て、左方向に迂回した位置にあるから、その手前で待っていれば姿を確認することができる。僕は駐車場の中を小走りで進むと、中型の自動車の影に身を潜めた。
大丈夫。まだ彼は外に出ていないはず。
店の関係者でない者が職員用通路を通って移動しようとすれば、それなりに気を使うし速度も遅くなる。これで太一を追っているものの正体がわかるかもしれない。そう期待した直後だった。
「――お、お前、誰を探してい、いる」
低い重低音。僕の耳を、見知らぬ男の囁きが射抜いた。
2
じわりと汗が染み出る。注意深く周囲に気を張っていたはずなのに、まったくその存在に気がつかなかった。
誰だ? 太一か? それとも……
前を見つめたまま相手の気配を探る。彼の荒い息使いが僕の首元の毛をゆっくりと逆立てた。空き缶が目の前を転がり、風が唸り声を上げる。
背後を取らてしまった以上、立場的には圧倒的に不利だ。しかしこのままここで停滞しているわけにもいかない。僕は覚悟を決めて静かに振り返った。かなりの危機的状況だと感じていたのだが――
「あれ……?」
眼前に広がるのは落書きだらけの壁のみ。どこからどう見ても、ほかに人の姿は無かった。
そんな馬鹿な。確かに今声が……?
横に駐車されていた車の裏などを探して回るも、当然のごとく何も無い。地面すれすれに頭をつけて車体の下を確認すると、涼んでいた犬が驚いたように飛び出し僕の横を抜けた。
気のせいなのか? 緊張しすぎて、幻聴がした?
考えながら元の位置に戻ろうとする。だが、僕の頭は高速である記憶を呼び起こした。
‶神隠し〟にあった者の周囲では、何故か動物の姿が頻繁に目撃されている。そして言葉を話すという犬の噂。「まさかな」と思いつつも、気持ちを抑えられなくなり斜め後ろを見返した。
――刹那、眼球を血走らせた犬の牙が、目と鼻の先で振り下ろされる。
「う、わぁああぁあっ!?」
相手の形相が、あまりに動物離れしていた所為だろうか。僕はほとんど無意識の内に、‶蟲喰い〟を発生させてしまっていた。
切り傷を作りながら弾き飛ぶ狂犬。僕は自分のしてしまったことに血の気が引いて、顔を青くしたのだが、その犬は何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がった。
切断された筋肉の断面から、黒っぽい触手のようなものがうねうねと伸び、大気に向かって広がっている。愛らしかったはずの頭部は、眼球が半分以上も飛び出し、白目のほとんどが真っ赤に染まっていた。それはもはや、とても犬とは呼べない‶何か〟だった。
「い、痛い。痛い、ぞぉおう……!」
人間のような表情で苦しみの意を唱える異形の動物。口を開けたまま呆然としている僕を前にし、それは悶え体を震わせた。
こ、こいつは何なんだ。言葉を話してる?
よくよく見ると、その悪趣味な触手は犬の背中に乗っかった浅黒い腫瘍のようなものから伸びているようだった。心臓のように脈打ち定期的に膨らむ。まるで犬とは独立した一個の生命体のようですらあった。
「痛い」、「痛い」と嘆きながら、異形の化け物はこちらを強く睨みつけた。
「お、お前ぇ、やったな。やってくれたな。ぼ、ぼくに傷をつけたな」
あまりに現実離れした光景に言葉を失う。初めて‶触れない男〟を見たときよりも、大きな衝撃だった。
「い、痛いぃい。こ、この傷……お前、あいつと同じか?」
あいつ? 何だ、誰のことだ?
それの背面から伸びる触手たちが、一気に逆立ち蠢く。僕は咄嗟に後方へ飛びのいた。
「ああ。わ、わかったぞ。お、お前……九業をやったやつだな」
「九業……?」
「いひっ、あ、あの優男、調子に乗ってたからばちがあたったんだ。ぼ、ぼくの邪魔をするから……」
さっきから何を言ってるんだ、こいつは。
急にホラー映画の中に紛れ込んでしまったかのような気持ちだ。そういえばこんな化け物がたくさん出てくるゲームを昔やったことがある。
動物の体。蠢く触手。そして流暢な日本語。とてもまともな生命体だとは思えない。間違いなく‶触れない男〟のような常識外の何かだろう。
「な、何なんだ、お前……?」
汗があごから滴り落ち手が震える。僕は引きつった表情でその化け物を見すえた。
「ぼ、ぼくは五業。そう。た、たしか、五番目の作品。ぼくは、特別な人間」
五業? 五番目?
どうやらそれは、彼の呼称を指しているようだった。
名乗った化け物はにたにたと笑いながら、身を伏せ飛び掛る準備に入る。
五業というのが五番目という意味なら、彼が先ほど口に出した九業とは、九番目ということか?
この化け物は僕の‶蟲喰い〟をみて、九業をやったといった。ならば、その九業とはまさか――‶触れない男〟のことを言っているのだろうか。
疑問を頭に浮かべたと同時に、化け物が大きく跳躍した。
小さな体のどこにこれほどの筋力が潜んでいたのか、化け物は僕の頭よりも高い位置に浮き上がり、血管の走る腕を横なぎに振って一気にこちらの首元を刈り取ろうとした。あまりに素早い動きだったので、反応が追いつかず、見事に接近を許してしまう。だがその爪は、僕の肌に触れるより早く砕け散った。
悲鳴を上げ、苦痛の表情を浮かべる化け物。‶触れない男〟に襲われたときにも使った事前展開型の蟲喰いを発動したのだ。
強靭な筋力も、鋭い牙も、推進力を失った空中ではただのオブジェクトでしかない。僕はそれの落下に合わせて右手を下げ、化け物の胸部めがけ再度蟲喰いを放った。
‶触れない男〟のように人型であれば打つのにも躊躇を覚えるが、これほど現実離れしたフォルムなら抵抗感も失せる。僕の拳は相手の腹部を突き、同時に波のような歪みと、血しぶきが飛び散らせた。
壁にぶち当たり、血の帯を引きながら地面へ落ちる化け物。それはぴくぴくと痙攣し、次第に動かなくなっていく。
誰かに見られることを恐れ裏口のほうに視線を向けるも、特に人の気配はない。視線を反らしてしまったせいで、太一が既にゲームセンターから出ていったのかわからなかった。僕はため息を吐き、弱りきった化け物へと注意を向けた。
黒い触手のようなものをくねらせながら、化け物は力の無い目でこちらを見上げた。これ以上の行動は無理だと悟ったらしく、苦々しげに下唇を噛んでいる。
背中に形成されている黒っぽい腫瘍とそこから伸びる触手。断面から覗く肉や皮膚のあちこちにそれは広がり、まるで別の生命体が犬に寄生しているかのようだった。
化け物は何か言おうと口を開きかけるが、思うように筋肉を動かせず途中でそれをやめる。僕が恐怖と嫌悪の入り混じった目を向けていると、悔しそうにこちらを睨みつけ、そのまま動かなくなった。
死んだのか?
僕は近くに落ちていた短い木の枝で、化け物の体を突いてみた。その場でのたうち回っていた触手たちは、次第に一つ、また一つと動きを止め、うなだれていく。吹き出た血の量や状態から判断すれば、とても生命活動を維持できるとは考えられない。化け物はすぐにぐったいりと全身の力を抜き、完全に動かなくなった。
僕は小枝を投げ捨て、額の汗を拭った。心臓の鼓動をゆっくりと落ち着かせ、息を吐く。
‶触れない男〟はまだ人間の形状を保っていたから、その存在にも納得がいった。受け止めることができた。僕自身が妙な現象を起こせる人間だったからという理由もある。
でもこれは、この生き物は、理解の許容範囲をゆうに超えてしまっている。完全にSF世界の存在だ。
千花が見たという複数人の記憶。人知を超えた現象の発現。そしてこの化け物。
一体、僕らが相手にしているのは何なんだ。千花は、カナラは、何に追われているというんだ?
横たわる化け物の遺体を、僕は放心したように見つめ続けた。
3
翌日の早朝。校舎屋上のプレハブで、僕は昨日の出来事を全て千花に説明した。
太一の後を追ったこと。触手と腫瘍の化け物に遭遇しそれを倒したこと。普通の人間だったら僕の頭の正常さを疑うレベルの内容を話しているのだが、お互い特殊な事情がある身のためか、彼女は一切妙な顔をせず話を聞いてくれた。
「――……それで太一を追うのを諦めて、化け物の死体をゲーセンの裏に隠したんだけど、千花の力であれの記憶を覗くってこと、できないかな。もし見れたら、だいぶ手がかりになるんだけど」
僕は‶触れない男〟との争いの最中に起きた‶記憶を覗く〟という千花の力のことを思いだし、そう提案してみた。彼女は僅かに困ったそぶりを見せ、首を左右に振る。
「――う~ん。無理だと思う。前にも言ったけど、私の意志で起こせる現象じゃないんだ。それに死んだものの記憶は見れないよ。電気信号が停止しているんだから」
「そっか。……まあ、そうだよね」
随分と確信を持った言い方である。
中庭を歩行する者たちが多くなってきたので、下から見られないようにプレハブ側へ移動する。そんな僕の動きを見て、千花も腰を地面に落ち着けた。同時にふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
彼女は髪を耳に掛けると、横目で僕の顔を見上げた。
「でも、進展はあったんじゃないかな。少なくともその化け物のおかげで、神隠し事件の話に出てくる動物っていうキーワードの意味は、分かったよね」
「まあね。どういう現象かはまだ断定できないけれど、あの五業と名乗った化け物は、動物の体を乗っ取って肉体を変化させられるみたいだった。目撃情報が正しいのなら、複数の動物がそういう存在と化してしまって、この町の中をうろついていることになる。恐らくは、カナラか君を探すために」
そういうと、千花は困ったように横を向いた。
「‶触れない男〟みたいに、あからさまに怪しい人が見張っているなら警戒もできるけれど、動物っていうのは、すごく怖いね。いつどこで監視されているかわからないもの」
「確かにね。猫や犬なんてどこにでもいるし、どこにでも潜り込むことができる。……でも、気をつけるべきのは動物だけじゃないよ」
「どういうこと?」
「あの神隠しの話……もしかしたら、体を乗っ取られているのは動物だけじゃないのかもしれない。行方不明になって戻ってきた数人の女の子、彼女たちの様子がおかしくなっていたって情報があっただろ。あれって同じように操られていたからじゃないのかな。その、五業みたいなやつに」
「……なるほど。確かにそう考えることも出来るね」
「犬の背中にあった黒っぽい腫瘍。もしかしたら、あれが取り付いたものの肉体を変異させ、操る媒体となっているのかもしれない。日比野さんが集めた神隠し事件の情報にも、多くの動物がそういった腫瘍を抱えているという話があったし。それらが全て五業のせいなのか、それともそれぞれ別々の化け物による結果なのかはわからないけれど」
指を動かしながら、そう独自の解釈を説明する。
千花は神妙な顔で話を聞くと、人差し指でこめかみを押さえながら、こちらを向いた。
「じゃあ、もし同じような腫瘍が体に出来ている人がいたら、気を付けたほうがいいってことだね。気づいていないだけで、近所や学校の中にも操られている人がいるかもしれない」
「そうだね。僕の顔を見たあの化け物は倒したから、今すぐに追い詰められる事態にはならないだろうけど、相手がどこにいるかわからない以上、怪しまれるような行動は避けたほうがいい」
現状では五業に対する策は皆無である。相手がどこにいるかわからない以上、用心することでしか、対抗する手段がない。無論、それだけではいずれ追い詰められるのはこちらだ。目立たないレベルで相手の正体に関する調査も継続する必要があった。
話し合った末、太一については千花が調べることとなった。彼と顔見知りである矢吹さんを通して、彼の情報を入手しようと考えたのだ。最初は僕も協力しようと思ったのだが、それは千花に否定されてしまった。同じ女性である千花だけのほうが矢吹さんと仲良くなれる可能性が高く、スムーズに情報収集ができるということらしかった。
「穿くんは、境和研究所について調べて欲しいんだ。例の‶触れない男〟の遺体を引き取ったという、人物について」
化け物のショックが強すぎて忘れていたが、確かにそれも重要な手がかりだ。いやむしろ、こちらのほうが核心に迫っている調査といっても過言ではない。
「わかった。じゃあ、こっちはこっちで調べておくよ。何かわかったら、連絡して」
「うん。なるべく慎重に行動するつもりだけど、穿くんも気をつけてね」
千花は腰を上げると、申し訳無さそうにそう言った。
プレハブから階段に向かって歩いている途中、急に千花が片足を後ろに上げ、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
何だと思ってみていると、どうやら靴下がずれてしまったようだった。必死に指で引っ張りながら、位置を合わせようとしている。
普段は冷静で真面目な千花だったけれど、時々ああやって間の抜けた行動を行うことがある。僕は何だか彼女のその行為に愛嬌を感じてしまい、小さく笑みを浮かべた。
目ざとくそれに気がついた千花が、むっとしたようにこちらを振り返る。
「あー、笑ったな。人が困ってるときに……穿くんて、私のこと見てちょくちょくそうやって笑ってるよね」
「いや、何か面白い動きをしてたから」
「好きでやってるわけじゃないもの。そういうとき、目を逸らすのが大人の対応ってやつでしょう?」
「僕はまだ花の高校生だからね。そんな対応はできないよ」
何食わぬ顔で返答すると、千花はふて腐れたようにそっぽを向いた。
「都合のいいときだけ子供のふりして……」
ぐいっと靴下を引っ張り、足を地面につける。勢いよく引っ張りすぎたようで、そのままバランスを崩して倒れそうになった。「きゃっ」という悲鳴が聞こえる。
咄嗟に手を差し伸べ腕を支えると、千花は悔しさと恥ずかしさが入り混じったような表情を浮かべ、下を向いた。
「……ありがと」
短く礼を述べながら、さっと靴下を直し、一歩分距離をとる。
そんな彼女の態度に僕は小さな笑みを作ってしまった。再び千花がむっとしたような表情を浮かべるも、構わずにクスクス笑い続ける。
日比野さんと話すときも、皐月さんと話すときも、僕は常に相手の気持ちや言葉を気にしてしまって気を使うことが多かった。でも、千花と一緒にいるときだけは、不思議なことにそんな遠慮をしたことがない。何故かはわからないけど、彼女と一緒にいると凄く落ち着くのだ。まるで昔から知っていたかのような、慣れ親しんだ相手といるような、そんな気分になれる。
千花は恥ずかしさと照れが入り混じったような様子で僕から離れると、無言で階段への扉を開けた。
薄々気がついていたが、どうやら僕は千花に特別な感情を抱きつつあるらしい。今までこんなことはなかったから、正直自分でも困惑しているけれど、この気持ちは恐らくそういうことなのだろう。
階段を下りていく彼女の小さな背を眺めつつ、僕は表情を改めた。
――でもだからこそ、僕はその気持ちを抑えなければならなかった。それが、本当に僕自身が抱いている感情かどうか分からなかったから。
彼女はカナラの記憶を持ち、カナラと同じ現象を起こせる。精神に介入し、覗き、操作し、誘導するあの現象を。
千花を信じたいけれど、彼女には不信な点が多すぎる。妙な行動が多々見られる。何を隠しているかは知らないけれど、それが明らかになるまで無条件で信用することはできなかった。
いや、もしかしたらそれもただの言い訳に過ぎないのかもしれない。本気で彼女を調べようと思えばいくらでも探りようはあった。僕は怖いんだ。彼女の姿が消えてしまうことが、急にいなくなってしまうことが。かつて自分のせいでいなくなってしまったカナラのように。自分のせいでいなくなってまった‶あの人〟のように。
先を歩く千花の横顔は凄く綺麗で温かみがあったけれど、これ以上近づけばそれを消してしまうような気がして、僕は少しだけ足を遅めた。
4
放課後、何か情報はないかと屋上のオカルト研究部へ向かおうとした途中、ばったりと、廊下で緑也に出くわした。
いつもは最後までクラスに残って談笑しているはずの彼が、こんなに早く帰宅するなんて珍しい。僕の視線に気がつくと、緑也は間が悪そうに表情を改めた。
「どこ行くの? 早いね」
「まあ、ちょっとな」
どこか煮え切らない調子で息を吐く。そのまま見ていると、彼は周囲に人の気配がないことを確認し、静かに耳打ちしてきた。
「実はな。……遺体が発見される数時間前に、瑞樹を見たって人が何人かいたんだよ」
「え、瑞樹さんを?」
僕は驚いて、思わず声を大きくしてしまった。
「ああ。あいつの母さんの友達……俺も何度か会ったことがあるんだけど、その人たちが文化センターの中にあるカフェでお茶してるときに、向かい側の通路を通ったそうなんだ」
「本当に?」
「さあな。昨日そのうちの一人に聞いてみたけど、いまいち要領を得なくてさ。見知らぬ男子生徒と一緒に歩いてたっていうのはわかったんだけど」
見知らぬ男子生徒?
そういえば、日々野さんも同じような話をしていなかったか? 誰かと一緒にいたと。同じ年くらいの少年と歩いていたと。
男子生徒と断言しているということは、学生服を着ていたのだろうか。だったら、どこの学校かはわかるはず。僕はすかさず考えたことを口に出した。
「制服は? 外見については聞いてない?」
だが、緑也の返事は煮え切らないものだった。
「それがな、なぜかそこら辺の記憶が不明瞭なんだよ。とにかく高校生らしいっていうのは記憶してるみたいなんだけど、顔と姿がうろ覚えなんだと」
何だそれ?
つい最近の出来事をそんなすぐに忘れるものだろうか。おかしな話だと僕は思った。
「その話だけじゃ信憑性が薄いから、一応、一緒にカフェにいた他の人にも聞いておこうと思ってさ。……なんだか、納得できないことも多かったからな」
どこか言い訳するように、緑也は頭を掻く。僕は彼の心情を察し、あまりここに引き止めている場合ではないと判断した。
「そっか。じゃあ、もし何かわかったら教えてよ。僕も気になってたから」
「ああ。悪いな。――あとでちゃんと伝えるよ」
軽くはにかみながら片手を上げる緑也。それが、別れの合図のようだった。
彼の姿が曲がり角の向こうへ消えてから、僕は今聞いたことについて考えてみた。瑞樹さんの失踪と死亡。最終的な死因としては、急性心不全という病名が挙げられていたけれど、当初警察は彼女の状態をショック死と呼んだ。全身の血液が一気に毒へと変化したような死に方だと。
もしかしたら彼女は、カナラと勘違いされたのかもしれない。そして無関係だと判明して、情報を守るために殺された。‶触れない男〟や‶五業〟のような異質な何かに。
行動を共にしていたという謎の少年。彼も‶触れない男〟や五業の仲間なのだろうか。現状では有益な手がかりが何もないため、推測することしか出来ない。非常に気がかりではあったものの、今は神隠し事件の話のほうが心配だ。人に寄生するあの化け物を長期放置することはあまりに危険過ぎる。
瑞樹さんのことは緑也が色々と調べてくれるだろう。下手に動き回って相手に怪しまれるより、顔の広い緑也の方がこの街での情報収集には適している。
そうだ。優先順位を間違うな。何が切っ掛けで追い詰められるのかわからないんだから。
下校の女子生徒たちが目の前を通りかかる。僕は彼女たちとぶつからないように一歩引いてから、階段に向かって歩き出した。
プレハブの中では、なにやら難しい顔をした日比野さんがパソコンの画面を見つめていた。部活動のためという理由で特別に持込を許可された、彼女の個人ノートPCだ。
「何してるの?」
「あ、穿くん」
初めてこちらに気がついたとでもいうように、顔を上げる。僕は適当なところに鞄を下ろし、いつもの席へと腰を落ち着けた。
珍しく椅子に座っていた日比野さんは、軽く微笑みながら前髪を整えた。
「情報収拾だよ、情報収集。登録してある各SNSや、掲示板の確認をしてたの」
「掲示板?」
「そっ。あたし、顔が広いからね。明社町内のいくつかの学校の、裏サイトやローカルグループなんかに招待されてんだけど。そういうところって、情報の行き来が激しいし眉唾な話も多く飛び交うから、オカ研としてはかなり有益な情報源になんのよ」
「へぇ~……すごいなぁ」
なるほど……‶触れない男〟の目撃情報をあれほど正確に把握できてたのも、そういうわけか。確かにこの町で何かを調べるには有益な方法かもしれない。交友関係が広く高い積極性を持つ日比野さんならではの方法だと思った。
「それで、何か分かったの?」
聞いているのは勿論、神隠し事件についてだ。
「んー、今のところ特に新しいネタはないかな。昨日の動物大量死については少し騒がれてたけど、分かってることはほとんどないし……」
「そういえば、前にも動物が死んでいたって言ってたよね。あれって、どういうこと?」
「ああ、昨日の話? 気になる?」
日比野さんは口角を僅かに上げ、椅子を後ろに引いた。
「別に大した話じゃないよ。大体三ヶ月くらい前、‶触れない男〟の噂が広まりだす少し前くらいかな。北区の家数件から犬の姿が消えたの。飼い主は一生懸命探したんだけど見つからなくて、数日後に道路の脇で亡骸が発見されたんだ。なんでも野犬に襲われたって話だった。損傷が酷くてね。あちこち喰い散らかされてたらしいよ」
「……何だか‶神隠し〟の話に似てるね」
「そう? うんー……どうなんだろう。関係がありそうって言えばありそうだけど」
足がぷらぷらと前後に揺れている。その手のことを考えるのが楽しくて仕方がないと言った様子だ。
「ほんとのところ、よくわかってないのよ。不審者や頭のおかしな奴がやったって言う人もいれば、殺人マリーのせいだっていう人もいるし。野犬っていうのも、適当に警察が考えたいいわけかもしれない」
「殺人マリー?」
どこかで聞いたような単語だ。
僕がそう聞き返すと、日比野さんは一瞬きょとんとしたような表情を浮かべた。
「そっか。穿くんが転校してきたのは6月だっけ」
ノートパソコンの画面を倒し、スリープモードにすると、日比野さんはごく自然な動きで机の上に腰を乗せた。やっぱり椅子に座るのはあまり好きじゃないのだろうか。僕は抱いていた疑惑を確信に変えつつあった。
彼女は僕の眼を見据えると、撫でるように言葉を綴った。
「半年前にこの町で酷い殺人事件があったの」
5
それは、相当に残酷な事件だったらしい。
被害者の男性は、心臓を綺麗に抉り取られた状態で発見され、道のど真ん中に目立つように放置されていたそうだ。
それまで悲惨な事件など一切なかったこともあり、明社町の人々は事件の凄惨さに恐怖し、事件は町のテレビや新聞でも大体的に騒がれた。
警察の捜査の結果、目撃証言から犯人はすぐに特定され、この町に住む一人のサラリーマンが逮捕された。動機も被害者との面識も全くない、完全な通り魔殺人だった。
犯人は無実を訴え続けていたが、状況証拠が完璧だったこともあり、最終的には罪を認め、十五年の服役を課せられたのだが、その後しばらくして妙な噂が学生たちの間で広まり始めたらしい。
それは、殺人鬼の娘のマリーという少女が、父親の行為を模して動物を殺しまわっているというものだ。彼女に殺された動物はみな殺人鬼の被害者と同様に臓器を破壊されており、まるで殺人鬼をトレースしているような行動から、いつしか彼女は殺人マリーと呼ばれるようになった。
半年前というと、千花がこの町を訪れる四か月ほど前ということになる。‶触れない男〟の噂が出始めたのは二か月ほど前からだから、一見すると今回の事件とは関係なさそうだが、動物の臓器という言葉が気になった。つい先日五業に寄生された犬を見たばかりだからだろうか。まるで誰かが五業に寄生された生き物を殺していたように感じられる。
「……その娘さんは、今のこの町にいるの?」
「いや、居ないよ。そもそも、その殺人鬼に娘なんていなかったんだ。面白そうな話だったからね。当然あたしも詳しく調べたんだけれど、実際はやっぱりただの噂に過ぎないものだった」
「……娘がいない?」
僕は強い興味を持ったのだが、日比野さんはそこで言葉を区切り、それ以上詳しく説明しようとはしなかった。何だかこの話題にあまり触れたくないようだ。確かに悲惨な事件ではあるけれど。
僕は静かに手を机の上に置いた。
もしその殺人鬼が殺した人間があの腫瘍に取りつかれていた人間だとすれば、驚いて殺してしまったという可能性はあり得る。その娘が周りの動物に異常な恐怖心を持つようになるのも、わからなくはない。だが、その娘が居ないという話が気になった。当然のようにカナラの姿が脳裏に浮かび上がる。彼女は半年も前からこの街にいたというのだろうか。
僕は鞄の中のペットボトルを取ろうと思ったのだが、既に中身はないことを思い出し、心の中で舌を打った。仕方がなく思考を続ける。
日比野さんは机の上に置いていた水筒を空け、ごくごくとそれを喉に流し込んだ。僕の恨めしそうな視線をさらりと流し、下唇を軽く舐める。水筒を置くと、彼女は満足したように言葉を続けた。
「まぁでも、この話は今回の出来事とは関係ないっしょ。神隠しが起き始めたのは最近の話だし。神隠しについて本気で調べるのなら、注目するべきは動物のほうじゃなくて、むしろ人間のほうじゃない?」
「人間のほう?」
まさか、太一のことを言っているのか?
彼女の勘の鋭さを感じ、僕はどきりとした。
「神隠しにあって戻ってきた子は、みんな様子がおかしくなる。そういわれてるけど、それってほんとなのかなぁ」
「何でそう思うの?」
「神隠しに遇ったからおかしくなったんじゃなくて、‶おかしくなったから神隠しにあった〟っていう、線も考えられない?」
「おかしくなったから、神隠しにあった?」
「そっ。だって、失踪者は全員、居なくなる‶前〟に、妙な声を聞いたり、顔を見たりしてたんだよ」
その言葉を聞き、僕はなるほどと思った。
確かに日比野さんから聞いた話や、調べた情報ではそうだった。いなくなった少女たちはその誰もが、失踪前から妙な話を訴えている。誰かに見られている。誰かの声がすると。
「もしあたしの推測が合っているなら、神隠しに遭いそうな人は、事前に兆候があるってことになるよね。あからさまな変化はなくとも、少し様子が変だとか、普段とは違う言動を取っているとか。穿くんの周囲にそんな人いない?」
探りを入れるような視線をこちらに向ける日比野さん。僕は適当にここ最近の記憶を漁ってみた。
様子が変、普段と違うか……。あ、そういえばスタイリッシュが桂場の様子がおかしいっていってたけれど……あれは多分関係ないだろうな。声や視線の話なんて、桂場はいっさいしていないし。
緑也は瑞樹さんのことを調べているだけだし、千花は――、彼女は連中の目的だと思われているから、何かあればとっくに姿を消しているはずだしな……。
「特にいないかな。そう言う人がいたら、僕より日々野さんのほうがすぐに気がつくんじゃない?」
「そんなことないよ。あたし、交友関係は広いけど、全部に深いってわけじゃないから。だから、こうして聞いてるわけだし」
どこか意味深な言い方を彼女はしたが、僕にはその心意をよく汲み取れなかった。
結局なんだかんだ話を濁され、よくわからない新しい都市伝説の調査協力を頼まれそうになったところで、適当な言い訳をいってプレハブから出た。既に外は夕焼けが沈み、真っ黒な幕が大地に下りてきたかのようだった。頬をなでるぬるい風が、妙に気持ち悪く感じられる。まだ部活動は続いているのか、中庭や校舎の中にはちらほらと人の姿も見られた。弾かれるボールの音と、土の摩擦音が木霊のように中庭にも届く。野球部は今日も熱心な活動を行っているらしい。
僕はそのまま帰宅しようと思ったのだが、視線を斜め下、校外のほうに向けたところで、意外な人物の姿を見つけた。普段はまっさきに校庭に向かい、汗の濁流を生み出しているはずの桂場が、住宅街のわき道で屈みこんでいる。彼の家は逆方向だったはずだけれど、一体あそこで何をしているのだろう。ついさっきまで日比野さんと妙な話をしていたこともあり、何となく気になった僕は、その場所へ行ってみることにした。
6
「たしか、このあたりだったはずだけど」
二階建ての建物に挟まれた、小さな通路。付近の住民ですらほとんど使わないような、狭く汚い道。帰宅途中の学生が通るには、酷く奇妙なルートだった。
雑草の上に足を乗せ数歩進むと、なにやら黒っぽい塊のようなものが土の上に落ちていた。最初はゴミ袋かと思ったのだが、目の前まで近づくとそれが動物の死体だとわかった。背中に大きな傷のある、灰色の猫だ。まだ死んでからそれほど時間は経っていないらしく、広がっている血は鮮やかな赤色だった。
また動物の死体か。
この前の惨状を思い起こし、嫌な気分になる。かなり深く肉を抉られているようで、死体のまわりには不自然な荒れ方をした土が広がっていた。
桂場はこれを見ていたのか? でも何で……。こんなところ、入り込まないと猫の死体があるなんてわからないのに。
疑問に思いじっと死体を眺めていたところで、なぜかその光景に既視感を憶えた。死体の傷口には無数の細かい穴が空いており、スポンジのようになっている。一瞬蟲喰いのことが頭をよぎったけれど、あれが生み出す空間は肉眼で捉えきれるような大きさではないため、すぐに違うと考え直す。
そうだ。これはあのときゲームセンターで……。
駐車場の奥。建物の裏口付近。そこで襲い掛かってきた、あの化け犬の肉体にも見られた損傷痕だ。細く長い何かが、内部を這いずり回っていたような、蠢いていたような、そんな光景が脳裏に浮かび上がる。
「五業……か?」
誰に言うともなく、僕はそう呟いた。
この傷は腫瘍が抜け出た痕? じゃあ、桂場は……――
嫌な予感が走る。
あれは生物の体に寄生し、操り、肉体を化け物へと変化させてしまう悪魔の生物だ。この死体にないということは、他の体へ移動した可能性が高い。そしてその対象としてもっともありうるのは、つい先ほどここにいた桂場寛だ。
僕は立ち上がり、道の先を見た。彼の姿は見えないが、経過時間から考えてそれほど遠くにいっているはずはない。もしこの猫に入っていた腫瘍が桂場に寄生しようとしているのなら、すぐにでも阻止する必要がある。
緊張感を高め、走り出そうとした直後、僕は妙な感触を足の裏から感じ、思わず踏みとどまった。視線を下に下ろすと、ゴムのようにぐにぐにした質感の物体が、靴の裏から姿を覗かせている。一見すると根っこの生えた生レバーのようだ。
足を横へずらし、よく観察してみたところ、すぐにそれがあの腫瘍であると理解できた。生命活動は停止しているらしく、干物のようにしおれている。死体から抜け出て他の得物を探したけれど、ちょうどいい相手が見つからず力尽きたのだろう。
僕は膨らんでいた自分の肺をゆっくりとしぼませた。
きっと桂場は、ただ妙な動物の死体があったから、不思議に思って眺めていただけなんだ。なんでこんな道を利用したのかは知らないけれど。
僕は道から腫瘍をどかそうと足を伸ばしたのだが――ちょうどそのとき、どこからか話し声のようなものが聞こえた。どうやら建物と建物の間にある私用の通路からのようだ。
こっそりと足を進め、壁に背を押し当てる形で片目をそこに覗かせた。設置されている配電盤の影から、大きな手がはみ出ている。どこかで見覚えのある手だった。
「――……駄目だ。と、取り込むまえにに、し、死んだ。ぼ、ぼくの部分がやられていたから、あ、あれはどうしうようもない」
「あ、あれはなんて?」
不自然なほど枯れ細った声が、そう質問した。
「お、女の居場所が、ある程度し、絞り込めたらしい。や、やっぱり、北側だった」
「わかった。つ、伝えておく。お、お前も準備をしてて、おけけ」
「まだ、使える時間は長くない。もう少しな、なじまないと……」
女? 居場所? 何を言っている?
片方の声は間違いなく桂場のものだ。しかし随分とたどたどしい口調と言動に戸惑いを覚える。もっとよく聞こうと、首を伸ばしかけたところで、急に会話が止まった。あたりが突然静寂に包まれる。
まさか、ばれた……?
僕が焦りを募らせた瞬間、右側の塀から中年女性の顔が通路を覗き込んだ。掃除中だったのか、箒の柄のようなものが、半分ほど見えている。
「あれ? 話し声が聞こえたんだけど、気のせいかなぁ……?」
どうやら、会話をしていた二人は彼女の気配を察知して、この場を離れたらしい。女性は怪訝そうに首をかしげて、さっさと元の作業に戻っていった。鳥の羽のようなものが一枚だけ、ひらひらと通路に舞っていた。
僕は息をつき、その場に座り込んだ。胸の中で、太鼓が鳴っている気分だった。
姿は見えなかったが、今の声は間違いなく桂場のものだ。普段の彼からは想像もできないほど、異様な空気と圧迫感を含んだ声だった。
一体誰と話していたんだ。豪胆な桂場がこそこそと話をしているのもおかしいし、見つかりそうになって逃げるなんて、らしくない。それに、あんな狭い変な場所、二人も人間が入れそうには見えなかったけれど。
姿の見えない人物との会話。どこからか聞こえる奇妙な声。
疑問に引きずられるように、僕は自然と日々野さんの話を思い出した。様子がおかしくなった少女と、その付近で目撃されるという、動物の噂を。
土の上に伸びている腫瘍の残骸と、その右方向に転がっている猫の死体を眺める。
あの甲高い枯れ細った声は人間のものとは思えなかった。それに昨日僕が殺した五号のような口調――
まさか桂場が……? いや、でも……
桂場は少女ではない。ガタイのいい大男だ。だが、太一の例もあるし、確かに最近奇妙な行動はよく見られた。
行動と、動物の存在。噂話の内容とは微妙にずれもあるけれど、それでも符合している点は多い。
そうだ。生物に寄生できるのならば、もっとも効率がいい方法は、得物のいる可能性がある場所に、もぐりこませることじゃないか。それこそ生徒として――。
まだ、断定はできない。できないけれど、どこか心の中で、僕は桂場が寄生されているかもしれないという疑惑を、強く感じ始めていた。