第十四章 死骸
1
その子娘は北区の中学に通う、まだ年端もいかない少女だった。
ある日より、彼女は妙な声が聞こえる。妙な顔が見えると訴えていたのだけれど、父親はそれを信じず、一笑に伏した。彼女はもともと話を誇張する癖があり、いつものように注目を集めたいだけだと思ったのだ。
それからしばらくして少女は姿を消した。荷物もお金も何も持たず、その身一つでの失踪だった。
当然、父親や学校の教師たちは慌てて捜索願いを出したのだが、その行方は一向につかめなかった。
この狭い町で人の目を逃れ続けることは難しい。少女は既に町から出たのではないかという意見も出始めた頃、突然、彼女は帰ってきた。失踪から三日と十四時間後のことだった。
聴取の結果、それはただの家出だとわかった。何でも自分に一切関心を示さない親を困らせたかったからと、そんな理由らしかった。
警察は子供のわがままかと呆れ、厳重注意の末に少女を解放した。
心から心配していた両親の顔を見て、流石に反省したのだろうか。少女はそれ以降、人が変わったように真面目になり両親に尽くした。
今までまったく手伝わなかった家事を進んで行い、できるだけ自分のことは自分で処理するようになったので、当初、父親は彼女の成長に喜んだ。ようやく自分のこと意外も考えられるようになったのだと。
ただ、少しだけ不満なこともあった。少女の帰宅時間だ。
家出以降、少女が家に帰る時間は日に日に遅くなっていた。いつも九時や十時過ぎに帰宅し、帰ってもすぐに自分の部屋に引きこもり、ろくな会話も行わない。
一体何故そんな遅くに帰ってくるのだろうか。疑問に思った父親は、暇を作り彼女のことを尾行することにした。部活に入っていなかった彼女は、帰宅時間になるとすぐに校舎から出てきた。実に無表情で、無気力な表情だった。
少女はしばらく町の中を無意味に歩き続けると、とある場所で腰を落ち着けた。住宅街の隅にある空き地だった。
父親は少女の狂行に頭をかしげたが、しばらく待っていると妙なことにその場に同じような少女が数人、集まってきた。誰もが自分の娘と同様に生気のない顔をしていた。
目の前の光景の異様さに冷や汗をかいた父親は、声をかけることもできずに、ずっと彼らの姿を見ていた。
すると今度は、空き地の中に猫や犬などの動物が集まり始めた。うち何体かは酷い怪我を負っており、皆が皆体のどこかに腫瘍のような出来物を生やしていた。
あまりの不気味さに少女の父親は言葉を失った。まるで魑魅魍魎の世界に紛れ込んでしまったかのような感情を抱いた。
集まっていた少女の一人がその場のメンバーを見渡し、口を開いた。父親の居場所からはなにを言っているのかは聞き取れなかったが、どうやら意見の交換をしているようだった。
恐怖が心に充満しすぐにでも逃げ出したかったのだけれど、ここまできて少女の行動を確認しないわけにもいかず、父親はこっそりとその空き地へ近づいた。
塀の隙間越しに目を這わせ、少女の姿を探した。ちょうど野太い声の男が何かを話しているところだった。
最初は娘の姿を捉えることに忙しかった父親だったが、彼女の姿を見つけてからふと気がついた。この場に、‶男〟はいない。一体誰が話しているのだと。
覗く穴を変え目を左右に動かすと、すぐに声の主は見つかった。それは少女の足元にいた‶犬〟だった。
人の顔のようにころころと面容を変えるブルドックが、実に流暢な調子で何かを話していた。
父親は思わず悲鳴をあげ、後ずさった。大きな音がなり、空き地のモノたちは一斉にこちらを凝視した。
父親は走って逃げたのだけれど、すぐに彼らの何人かが後を追いかけてきた。人の顔を持つ犬は牙をむき出しにし、自分の娘であるはずの少女はカッターをキリキリと伸ばしながら、無表情で迫ってきた。
父親は叫び声を上げ、近所のスーパーへと逃げ込んだ。少女たちはガラス越しにこちらを睨みつけていたのだけれど、店員が一体どうしたのかと顔を見せたところで、姿を消した。
焦燥しきった父親は、これは夢だと自分に言い聞かせ、家に帰った。
早く休みたかった。早く見たことを忘れたかった。
玄関に入り靴を脱ぐ。妻のところへ向かおうと顔を上げた瞬間、無表情でカッターを振り上げている少女の姿が目に入った。
遠のいていく意識の中、父親は男のように低い少女の雄叫びを耳にした気がした。
2
「――それが、最近流行ってる都市伝説?」
一生懸命にクレーンゲームのコントローラを操作しながら、千花が尋ねる。僕は静かに頷いた。
「最近流行っているというよりは、‶触れない男〟の全盛期からちらほら広がり始めた噂なんだって。今ではもう失踪者の話は聞かないし。……――日比野さんが情報を集めて勝手に作った物語のような気もするけど、確かに家出していた子の挙動が不自然だって言う話は、いくつかあったらしいよ」
「……あっ、もう!」
クレーンが引っ掛けていた人形を落とし、千花は悔しそうに手を下へ振った。同時に髪につけていたピンセットがずれる。前髪の一部が彼女の眼の前に流れた。
僕は周囲の学生たちを気にしながら千花に質問した。
「彼女たちはみんな失踪前に変な声を聞いたり、何かの影のようなものを見たって言ってたんだって。噂の全てが本当ではないにしても、何かしら関係があるような気がすると思わない?」
「それって……‶触れない男〟と、ってことだよね」
ピンセットの位置を直しながらこちらを振り返る千花。
「少なくとも僕はそう思ってる。噂が出始めた時期も一致しているからね。彼女たちの捜索の過程で‶触れない男〟の姿を目撃したと考えれば、失踪が彼の所為になっていたのも納得できるし」
声が聞こえたので右を向くと緑也と日比野さんの姿が見えた。レースゲームで競い合っているようだ。どこへ行ったのか皐月さんとスタイリッシュの姿は見つからない。
「動物が話すって、それも本当なの?」
「本当かどうかは知らないけど、実際に人面犬を見たって人はいるそうだよ」
「う~ん。人面犬かぁ。流石にちょっと信じがたいけど……」
千花は眉間にしわを寄せ、悩む素振りを見せた。
「少なくとも、行方不明から戻ってきた女の子の様子がおかしくて、彼女たちの周囲には何故か動物の姿が頻繁に目撃されるようになるっていう話は、ある程度事実として存在しているみたいなんだ。一応、‶触れない男〟の噂と同時期に始まった話だから、何だか気になるんだけど、どう思う?」
「まだなんともいえない、かな。……‶触れない男〟の目的が誰かを捕まえることで、失踪が彼の同類によるものだとしても、解放したってことは、その女の子たちは関係ないってわかったってことだよね。なのに何でそんな影響を与え続けるんだろう」
「確かに、そうだよね」
千花の疑問はもっともだと思った。
自分の情報が漏れないように何かしらの影響を与えていると考えられなくもないが、それがこう噂になっては元もこうもない。もしこれが‶触れない男〟の同類の手によるものならば、きっと別の目的が存在するはずだ。
注目すべき点は動物という言葉だが、それがどのように関係しているというのだろうか。日比野さんの話では彼女の趣味嗜好が強く介入しすぎていて、なんとも判断しづらかった。
確実なのは実際に行方不明になっていたという、その少女と接触することだろうけど、万が一‶同類〟がその子のことを見張っていれば、自分の首を絞めることにもなりかねない。つい今日の昼に用心しようと誓ったばかりなのだ。下手な真似をしてこちらの存在が露呈するのは避けたい。できれば‶調べている〟ことを悟られないで調べることが理想なのだが、どうそれを行えばいいかが思いつかなかった。
そのまま二人で相談を続けていると、千花の後ろから緑也が駆けてきた。勝負に勝ったのか、自慢のスチールウールを振り乱し、実に嬉しそうな表情を浮かべている。
「おい、せっかくのゲーセンなのに、なに暗い顔してんだよ、どうした?」
「いや、なかなかこの商品がとれなくて、悔しくてね。緑也はこういうの得意?」
ほとんど考えることなく、とっさに言葉が這い出た。
「おう、任せろよ。クレーンゲームなんて、遊び人道の基本中の基本だぜ!」
緑也は機械の前に立つと、自信たっぷりな調子で腕をめくった。
「こういうのは、一発で取ろうと思ったらだめなんだ。基本的には、一回、二回目で転がして、三回目ぐらいに引っ掛けるのが常套手段なんだ。ほら、こんな風にさ」
言葉の通り、緑也はあえて商品を掴もうとはせずに、クレーンの側面でそれを移動させた。ちょうど受け取り穴の目の前に目的の人形が来る。千花がずっと取ろうとしていた、‶どや顔くん〟とかいうキャラクターだ。
言葉の通り二回目でそれを落とすと、緑也は自慢げな表情で千花へ渡した。
「ありがとう」
嬉しそうに人形を受け取り、微笑む千花。
緑也がさらにゲーセンにおけるうんちくを披露しようとしたところで、スタイリッシュと日比野さんが合流した。
「なにそれ、かわいいじゃん」
千花に抱きしめられた‶どや顔くん〟を見て、興味深そうに目を光らせる日比野さん。何がかわいいのか僕にはさっぱりわからなかったけど、彼女たちの目には、その人形が魅力的に映っているようだった。
「あれ、森原は?」
あくびをしながら、緑也が周囲を見回す。確かに、見える範囲に皐月さんの姿はなかった。
「ここ、ヤンキーも多いし、一人だとすぐに立ちの悪い連中に絡まれるぞ。あの子、見た目かなり派手だしな」
心配そうにスタイリッシュが後方を確認する。
それを聞いた緑也は、すぐに渋い顔で頷いた。
「……そうだな。時間も遅くなってきたし、一端合流するか。あっちのほう見てみようぜ」
時計を見るとまだ六時半だったが、このくらいからゲームセンター内の治安は悪くなってくる。僕たちは緑也の意見に賛同し、すぐに皐月さんを探すことにした。
3
五分ほど探索すると、彼女はすぐに見つかった。見知らぬ女子高生二人と一緒に、ホッケーゲームをしているところだった。皐月さんとポニーテールの女の子が一対一で戦い、もう一人の小柄な子がそれを背後から観戦している。
歳は近そうだったが、その顔に見覚えはない。皐月さんの知り合いなのだろうか。彼女にはよく分からないルートの知人が多いから、もしかしたら他校の生徒なのかもしれない。しばらく見ていると、勝負が終わったのか悔しそうな顔をした皐月さんがこちらに歩いてきた。
「あー負けちゃった。反射神経には自信があったんだけどなー。強いわ、あの子」
「友達なん?」
興味深そうにスタイリッシュが質問した。
「うん。前にここで知り合ってね。仲良くなったんだぁ。一校の生徒みたいだよ」
一校とは、確か北区にある高校の一つだ。あちらにはゲームセンターのような遊戯施設はほとんどないから、放課後になるとこのゲームセンターにくる者も多いらしい。前に駅前で見たことがあるけれど、質素な蓮上高校のものと比べて、随分と華やかな青色の制服だった。今日は休校なのか、二人とも私服のようだったが。
突っ立っている僕たちのほうへ、彼女たちが汗を拭いながらやってきた。
「さっちゃん、友達?」
ポニーテールの、いかにも運動ができそうと言った雰囲気の少女が、シャツの裾をぱたぱた動かしながら微笑む。その後ろで、小柄の少女が隠れるように目を覗かせた。片方の前髪が長い、アシンメトリーという髪形の子だった。
「あー。あたしの高校の友達だよ。いっしょに来てたんだ」
「初めまして、日比野真矢です。よろしくね」
人懐こい笑顔で前に出る日比野さん。前々から思っていたが、そういう積極的なところがどことなく、姉の御奈に似ている気がした。
「あはは、よろしく。さっちゃんと同じ学校ってことは、連上高校か。いいな、近くて。うちら北区だからさ。帰る時間を考えると、そんなに遊べないんだよね」
「そんなことないよ。あたしのとこはお父さんが厳しいから、七時前には戻らないといけないし。まあ、理由をつけてちょくちょく破っちゃってるんだけどね」
どうやら何か感じるものがあったのだろう。日比野さんと矢吹と名乗った少女は、まるで数年来の知り合いであったかのように、あっという間に打ち解けてしまった。
他の人間のことなど気にも留めず、二人で勝手に盛り上がる。
彼女の背後にいたアシンの少女に目を向けると、困ったようにぼーっとたたずんでいた。あの子は二人とは違い、控えめな性格のようだ。外見からは少しだけ年下のように見えた。
「北区って、どうやって来てんの? バス?」
ごく自然な調子でその中に加わる緑也。その問いに矢吹さんは笑顔で答えた。
「いや、自転車だよ。ここらへん、バスの本数があんまないからさ、結構大変なんだよね。坂も多いし。あ、でも和泉はバスだっけ?」
和泉と呼ばれたアシンの少女は、こっくりと頷いた。
「私の家はそんなに遠くないし比較的交通の便もいいところだから。それでも、一時間に二~三本ってところですけど」
「ふーん。いいいなぁ。自転車って汗すっごくかくんだよね。うちの近所にももっとバス増やしてくれればいいのに」
何かの景品なのか、矢吹さんは手に持ったキーホルダーをくるくると回した。金魚のような目をしたおじさんがデフォルメ化されたキャラクターだった。確か‶出目金おやじ〟とかいうやつだ。千花が抱いている‶どや顔くん〟もそうだが、最近は少し気持ち悪い部分を残した人形のほうが、人気を得ているようだった。
「和泉さんって、中学生?」
興味津々といった目を向ける緑也。聞かれた和泉さんは、いくぶん緊張したように目を固くした。
「はい。中学三年です」
「ふ~ん。矢吹さんの後輩ってこと? 確か一校は中高一貫だったよね」
「はい。直接的な知り合いではないんですけど……」
「和泉はここの常連でね。うちも頻繁に来てたから、仲良くなってさ。別に部活の後輩とかってわけじゃないんだけど」
警戒しているような彼女に代わり、矢吹さんが補足を入れてくれた。先輩というよりは、まるで姉妹のような関係性にみえた。
せっかくなので彼女たちとはそのまま一緒に遊ぶことになった。緑也と皐月さんが是非にと押したのだ。
だが、最初こそ全員で移動していたものの、大勢で遊べる機器は限られているため、いつのまにか結局、数人ずつのグループに分かれてしまっていた。
日比野さんと千花は再びクレーンゲームへ向かい、スタイリッシュ、皐月さん、和泉さんは、コインゲームのほうへ姿を消した。別に誰と一緒でもよかったのだけれど、久しぶりに緑也と会ったので、なんとなく、彼と行動を共にすることになった。
僕は目の前に置かれたホッケーゲームをやりたかったのだが、緑也と矢吹さんはダーツをしたかったらしい。流石に一人でこの遊具を使うのは、自分でもはたからみても珍妙過ぎる光景だと思ったので、僕は仕方がなしに彼らの後を追った。
二十のダブル(得点が倍になるエリア)を射抜いた矢吹さんが、嬉しそうに飛び跳ねる。その横で、緑也が悔しそうに地団太を踏んだ。
「くっそ、全然真ん中に当たんねぇ。どうなってんだ」
「緑也は力みすぎなんだよ。もっと力を抜いて、ほら、こうやって体を斜めにすると腕を真っ直ぐに伸ばしやすくなるから」
過去に友人から教えてもらった知識を活かし、初ダーツらしい緑也に教える。最初こそ苦労していた彼だったが、元々の運動センスがいいからか、そうこうしている間に、すぐに僕とどっこいどこいの成績まで取れるようになった。
僕たちが投げている間、椅子に座り優雅に缶ジュースを飲む矢吹さん。百以上も点数が離れているからか、かなり気楽そうな様子だ。
「ほら、頑張って。早くしないと、終わっちゃうよー?」
「今に追いつくからな。待ってろよ。負けた奴がジュース全おごりっての、忘れんなよ」
ムキになり腕に力が篭っているようだ。案の定、緑也のダーツは的外れな場所に刺さった。
「に、二点……」
「あははははっ、だせー」
それをみた矢吹さんが、実に嬉しそうに笑う。緑也はさらに焦りを募らせ、結局、三本とも外してしまった。
「うわぁー、ちくしょう!」
頭を抱えてうずくまる。その横で椅子から立ち上がった矢吹さんが、しょっぱなからブル(ど真ん中)を打ち抜いた。あと十五点で終了。そのまま連続で七、八、と投擲し、結果は彼女の圧勝だった。
「すごいな……」
そのあまりに正確な腕に、思わず感嘆の声が漏れる。
僕の視線に気がついたのか、彼女はまんざらでも無さそうな笑みを浮かべ、残りのジュースを一気に飲み干した。
「昔っから、こればかりは得意なんだよ。パパの趣味で家に的が置いてあったから、暇なときはいっつも投げてた。最初は花瓶とかおじいちゃんの頭とか、いろんなところに刺さって怒られたけど、今ではほとんど百発百中だもんね」
「へえ昔からか。どうりで上手いわけだ。――じゃあ、ほとんど趣味みたいなものなんだね」
自慢げに言っているのだか、変に鼻につくような言い方ではないため素直に感心する。彼女にとってのダーツは、僕にとっての絵のようなものなのだろう。少しだけ矢吹さんに親近感を抱いた。
「いや、おじいさんの頭ぶち抜いたらダメだろう」
目を見開き、苦笑いにも似た表情でつっこみを入れる緑也。矢吹さんは舌をちょろりと覗かせ、マイダーツをピンク色のケースにしまった。あまりに実力差がありすぎるせいか、店のものを使用することにしたらしい。
「大丈夫。本人刺さったことに気がついていなかったから」
「それ何も大丈夫じゃねえよ!」
緑也の更なる指摘を無視し、彼女は立ち上がった。
「さあ、もうひと勝負しようか。うちに勝ったら、ジュースどころかもっと高いものまで奢ってやるよ」
「おお、言ったな。絶対勝ってやるからな、見てろよ」
かなり意気込んでそう叫ぶ緑也。しかし結局、その後三回やって彼が勝利を掴み取ることは一度もなかった。
4
七時半を回る少し前に、僕たちは受付前の広い場所に集合した。まだ遊び足りなかったけれど、日比野さんの門限や和泉さんのバスの時刻など、色々と理由があり、きりのいいところで打ち止めることにしたのだ。
せっかくなのでとお互いの連絡先を交換し、また会う約束を取り付ける。日比野さんと矢吹さんは、嬉しそうにお互いの端末を見比べていた。
「じゃ、いこっか」
皐月さんの気のない号令で皆がぞろぞろと外に出る。
ゲームセンターの扉を潜って駐車場に出ようとしたところで、別の客と鉢合わせた。一校の制服を着た小太りの少年だ。彼の姿を見るなり、矢吹さんが声をあげた。
「おっ、太一じゃん」
「……ああ。……矢吹か」
少年は僅かに彼女の顔を凝視したあと、思い出したようにそう呟く。普通同級生と遭遇したら、もっと驚いたり、笑顔を見せてもいい場面なのに、彼の表情は酷く無機質で愛想がなかった。光の篭らない瞳が、不気味にこちらを見すえている。
「珍しいね。あんたがゲーセンなんて。最近来てるの?」
不可解なものを眺めるように、矢吹さんは片目を大きくした。
「ああ。最近、俺のとこ、親帰ってくるの、遅いから……」
「そうなの。この時間不良とか多いよ? 大丈夫?」
「この時間が、一番人が多いから。……遊んでいても目立たない、し……」
ぼそぼそっと、僕たちの視線を気にするように、太一と呼ばれた少年は横を向いた。人見知りをするのか、知らない人間に囲まれるのが嫌なようだ。まあ、気持ちはわからなくもないが。
「じゃ、……俺いくよ」
「あ、う、うん」
矢吹さんの横を抜け、みなの体を押しのけるように強引にゲーセンの中へ入ろうとする。すれ違う直前、何だか鉄臭い匂いがしたので、視線を下に移したら、一瞬だけ赤いものが見えた。
ぎょっとしたのもつかの間、そのまま彼の姿は扉の向こうへと消えてしまう。かなり焦っているように見えた。
今のは何だったのかろうか。ただの汚れには見えなかったが。
すぐにかつて僕が殺した男の胸の傷が脳裏に浮かんだけれど、慌てて頭を振り映像をかき消した。そんなにあちこちで事件が起きていてはたまらない。
「何だ、あいつ……?」
無理に押されたことで、頭にきたのだろうか。不審者を見るような目を扉のほうに向けるスタイリッシュ。それを聞いた矢吹さんが、すかさず言葉を投げ返した。
「前はあんな感じじゃなかったんだけどね。うちらともよく話してたし。最近になって、急に変になってきたんだよ」
「何か、感じ悪かったよねー」
特に表情を変えることなく、文句を言う皐月さん。
僕はあんまり知らない人間を、本人がいないところで責めるような真似はしたくなかったので、そのまま黙っていると、緑也がのほほんとした調子で軽口を叩いた。
「まあまあ、ションベンでも我慢してたんだろ」
そのままゆっくりと階段を降りる。別に強く言っているわけではないけれど、何だか気勢いが削がれたように、彼女たちの会話が止まった。彼につられるようにみなの足も自然と道路へ向かう。普段はおちゃらけていることが多い緑也だけれど、こういうときには妙にリーダーシップと静かな迫力があった。
歩道まで出たところで振り返り、彼がかすかな笑みを見せた。
「どうする? 飯でも食いにいくか」
「あたしはいいよ。お母さんが作ってくれてるし」
手すりに寄りかかりながら、日比野さんが答えた。よほどゲームに熱中していたのか、少し髪が乱雑になって、ボブヘアーが崩れている。
僕も父の夕食を作らなければならなかったので、残念に思いながらも遠慮することにした。
「僕も今日は、いいかな」
「そっか。ま、じゃあまた今度喰おうぜ。期末試験の打ち上げのときとかさ」
「あー、そっかぁ。もうすぐだっけ」
とてつもなく嫌そうに舌を出す皐月さん。あまり勉強は得意じゃないのだろうか。なんとなくそんな気はしていたけれど。
しばらくそのまま談笑を続けていると、和泉さんが申し訳無さそうに声を上げた。
「じゃあ、バスがくるからこれで……」
「あ、そっか。暗いから、気をつけてね」
「おう、またね!」
日比野さんと緑也が彼女に応じ、道を開ける。和泉さんはそのまま軽くお辞儀をし、とことこと暗街灯の少ない道を、駅の方向へ歩いていった。
「じゃ、うちらもいっこか」
自転車を押しながら矢吹さんが振りかえる。僕たちはゆっくりと彼女に続いて歩き出した。
僕たちが遊んでいたこのゲームセンターは、住宅街のど真ん中という、普通ならば苦情が耐えなさそうな場所に位置していたのだが、両隣をスーパーと駐車場に挟まれていたおかげで、その騒音の流出は最小限に防がれているようだった。
一歩その通りの外に出れば入り組んだ小道が迷路のように続いているから、初めて訪れる人間の大部分が迷ってしまうそうなのだが、今回は僕と千花以外の全員が道を熟知していたため、大した苦労もなく大通りに向かって進むことができた。
緑也いわく、徒歩の場合は最短ルートが決まっているそうで、蓮上高校から来る人間も、一校から訪れる人間も、ほとんどが同じ道を通るらしかった。
だからまずその光景をみた瞬間、僕は愕然とした。一体どうやって、人通りの多いこの場所で、こんな真似ができたというのだろう。
大量の血と新鮮な死臭。
角を曲がったすぐそこに、数え切れないほどの動物の死骸があった。
5
「な、何だこれ……!?」
両手を中途半端に持ち上げたまま、スタイリッシュの顔が凍り付く。
明らかに異様な光景だった。とても、自然に起きたとは思えないような事態だ。
「……これ」
何かに気がついたように千花が口を開きかけるが、他の者の目を気にしたのか押し黙る。僕にもその理由はすぐにわかった。
あちらこちらに広がる‶ひび割れ〟のような跡。これは、間違いなく‶触れない男〟の事故現場で目撃したのと同じものだった。
ゆっくりと視線を這わせながら、地面の上に無造作に放置されている犬や猫の死骸に目を向ける。すると、彼らの体にも同様の傷がいくつか見られた。内面から弾け飛んだかのような、異質で歪な損傷痕。まるで‶蟲喰い〟を受けたかのような、そんな血の噴出し方……。
「ひ、酷いな。内臓がめちゃくちゃだ」
一際激しい死に方をしている動物の死体を眺め、吐き気をもよおしたように緑也が口を押さえた。近づこうとする日比野さんと皐月さんの前に腕を伸ばし、その進行を阻害する。見ないほうがいいと、示しているのだろう。
血。栄養素を全身に運ぶための、運搬機関。その人間の存在を証明する、動く情報媒体。
命の、証。
心臓が大きく跳ねる。
汗が濁流のように首元から噴出した。
無造作に横たわる、猫の、犬の、物言わぬ亡骸。‶死んだ〟肉体。
――血が。
こちらを見上げ、表情を固めた動かない男。
――僕の手に、血が……。
恐ろしいものを見るように、顔面蒼白で恐怖の視線を送るカナラの姿。
そして、地面に広がるひび割れのような痕跡。
――何で、何で。
押し出したまま固まり、一切の自由が利かない右手。
折れ曲がったガードレール。
倒れている女性。
血まみれの両手。
騒音を奏でる周囲の人間。
広がる、赤い血だまり……――
「穿っ――」
強く肩を揺さぶられ、僕の視線は円運動を停止した。
激しい息切れの中、強いくせ毛頭の、緑也の顔が目に入る。
「ど、どうした? お前、大丈夫か」
茶色に近い、深い土のような瞳。辛うじて、それが友人の顔であることは認識できた。
緑也。彼は玉木緑也。
僕は……ここは……今は……。
鮮烈な血の映像が細切れにフラッシュバックする。
頭の中で何かが反乱を起こしているような気分だった。
状況の整理がつかない。僕はなぜ、ここに立っているのだろう。なぜ、緑也に肩をつかまれているんだ?
心配そうに僕を見つめる緑也の腕から、逃げるように抜け出し、電柱に寄りかかる。
まずい、不信に思われる。このままじゃ、まずい。
冷静にならないと、平静をよそわないと――。
記憶と意識が混濁しているせいで、状況の理解が追いつかない。僕は必死に、己を見えない衣で覆い隠そうとした。
「穿くん。大丈夫? しっかりして」
いつの間にか横に来ていた千花が、優しく僕の腕を掴む。風に乗って彼女のほうから花の香りが届いた。暖かく穏やかな、スイセンの香り。どこか懐かしいけれど、少しそれとは違うような、不思議な感覚。混乱のピークあった僕の頭は不思議なことに、そのおかげで少しだけ落ち着きを取り戻した。
「ご、ごめん。ちょっと……昔事件に巻き込まれて。急にこんなに大量の血を見たから、思い出しちゃって……」
必死に頭を働かせながら、何とかそれだけを伝える。何かを察してくれたのか、緑也は同情するように、僕の肩を叩いた。
「そうか。あんまり気持ちのいいもんじゃないもんな。――とにかく離れようぜ」
「一体、誰がこんな酷いことを……」
顔を青くした矢吹さんが、歯を食いしばるように身震いする。
あまりに異様な光景に、僕たちはただ衝撃を受けることしかできなかった。
駅付近の公園。先ほどの通路からさほど離れていない場所。
静寂に包まれた緑塀の中、鈴虫の歌だけがその場に鳴り響く。その音色は緊張しきっていた僕たちの心と体を現実へと引き戻す、大きな手助けになってくれた。
「大丈夫?」
椅子に腰掛けた僕の顔を千花が心配そうに見上げる。少し怯えているようだった。
精神はだいぶ落ち着いてきた。僕は疲労を押し殺しながら、静かに答えた。
「うん。ごめん、取り乱しちゃって……。ちょっと、あの時の光景に似てたから」
「……無理しなくていいよ。何か飲む?」
「いいよ。ありがとう」
自分の掌を見つめる。
大丈夫。血なんてついてない。いつもと同じ、少し華奢な僕の手だ。
心を落ち着かそうとそのまま深呼吸する。鼻でゆっくりと空気を吸い込み、口からそれを吐き出す。昔医者から教わった、精神安定の効果がある、れっきとした呼吸療法だった。
「しかし、なんちゅうことする奴がいたもんだよ」
珍しく怒りの篭った声を、スタイリッシュがあげる。そういえば、彼は大の猫好きだった。オシャレな服に混じって、さりげなくあらゆるところに猫のアイテムを忍ばせているのを、僕は知っていた。
「あたしまだ吐きそう。うえー」
「うちも。まじきついわ、あれ」
両手で肩を押さえ、体を丸める皐月さんと矢吹さん。‶触れない男〟に負けず劣らずの顔色の悪さだった。
「何か、前にもこんな事件あったよね。‶触れない男〟の噂が激しくてそんなに話題にならなかったけど、犬が数匹殺されてたやつ。あれ、同じ犯人かな」
女性人の中で、千花を省いて唯一冷静さを保っていた日比野さんが、重々しい声を出す。僕はその話に興味を持ったけれど、何か尋ねるより早く緑也が注目を集めた。
「今日はもう解散しよう。予定よりもだいぶ遅くなったし、親も心配してるだろ」
「……うん。そうだね。そうしたほうがいいかも」
と千花。
「何か、帰るのが怖くなってきたわ」
本気で怖がっているような表情で、矢吹さんが呟いた。
「矢吹さんの家って、北区のどこらへん? 送ろうか」
緑也が真面目な顔でそう言い出すと、彼女は少し照れたように慌てて両手を振った。
「あ、いいよ。うち自転車だし、一人のほうが早くて安全だし」
「……そっか。気をつけろよ。最近ほんと物騒だし、変なやつも多いみたいだからな。ちゃんと大通りを通るんだぞ」
「うん。わかってる。玉木くんは、他の人を送ってあげな」
サドルに腰を下ろし、ハンドルに取り付けられたライトの電源を入れる。このまますぐに帰るつもりのようだった。
思い出したくも無い光景が脳裏にフラッシュバクされ、気分がかなり悪い。正直吐き気すら覚えていたけれど、みなの手前我慢して耐えた。
呼吸を整え、自分の口から這い出る空気の移動音に耳を傾ける。頭が静けさを取り戻してくると、僕はあることを思い出した。
先ほどあの道の方向から、隠れるようにゲームセンターに入った、太一という少年のことだ。矢吹さんのクラスメイトで、友人。確か矢吹さんはここ最近彼の様子がおかしいと言っていなかっただろうか。
一瞬しか見えなかったけれど、彼の腹部には血のような紅の痕があった。あれがもし動物たちを殺したことでついたものなら……。
集まる動物。
不信な行動。
態度の急変。
自然と、‶神隠し〟の話を思い出す。彼は男性だけれど、現在の状況はあの話の内容と符合している。今ならまだゲームセンターにいるはずだ。
名前も学校も分かっているから、後日ゆっくりと調べることもできたが、もし彼が神隠し事件と関係があるのなら、いつ姿を消してしまうとも限らない。それに、あんまりまともに学校へ行っているようにも見えなかった。
まだ気分の悪さは残っているものの、歩けないほどではない。僕は意を決し、顔を上げた。
「ごめん、ちょっと財布を落としたみたいだ。たぶん、ゲーセンにあると思う。取りに戻るから、先に帰っていいよ」
「おいおい、大丈夫か?」
緑也が案じるように眉を上げる。僕はそれを受け流し、皐月さんたちへと視線を移動させた。
「もう落ち着いてきたから、心配はいらないって。なんなら別の道を通ってくし。……緑也は皐月さんたちに付いていてあげなよ」
こういえばこの前の事件の手前、彼は断れないはずだ。それを聞いた緑也は、予想通りに渋い表情を浮かべた。
「わかった。でも、ほんと注意しろよ」
「わかってるって。さっさと見つけてすぐに帰るよ」
そういって公園の外へと歩き出す。
千花が何かいいたそうに口を開きかけていたけれど、僕は無言の圧力でそれを制した。この場で彼女が行動を共にするのは不自然だ。少なくとも、クラス内では僕と千花に深い友人関係はないことになっている。
それに、もし太一が‶触れない男〟の同類と関わっているのならば、千花を連れて行くのは危険だ。彼女は彼らに狙われているという疑いがある。
じーとこちらを見つめる千花。それにあえて気がつかないふりをして、僕は元来た道を引き返し始めた。