第十三章 別人
1
教室を出たのは千花のほうが早いはずなのに、カフェに着いたのは僕のほうが早かった。
カップの中のコーヒーをかき混ぜ暇を弄ぶ。
日比野さんと会話を行っていた時間は十分もなかった。先に千花がこのカフェに来ていたとしても、それほど待たせることはないと思っていたのだが。――もしかしたら、僕たちの話が長引きそうだと判断して一度家に帰ったのだろうか。これだけの暑さなのだ。きれい好きな人間なら、シャワーくらいは浴びたいだろう。
いい加減無意味にコーヒーを混ぜ続ける作業にも飽きてきたため、僕はカップを置いて鞄から本を取り出した。‶枯毒の村〟という題名の、最近発売したばかりの新刊小説だ。旅人を捕まえ、奴隷として扱う村に生まれた少女が、どうやって村から脱出するか、どうやって生き延びるか、ひたすらもがき続けるという内容の話である。引越し前に買ったのだけれど、読む暇がなかなか無くて、ずっと鞄の中にしまっていたものだった。
表紙をめくり、紙を挟んでいたページを開く。そこはちょうど、新たに誘拐された少年が、一緒に逃げようと少女に手を差し伸べるシーンだった。少年は必死に少女を助けようと頑張るものの、肝心の少女は中々その意見に賛同しようとはしない。少年は少女の真意が理解できなかったのだけれど、ある日、外の世界へ向けている彼女の目を見た瞬間、全てを悟ってしまった。――と、そこまで呼んだところで、カフェの扉が開いた。千花だ。
彼女は赤とベージュのチェック柄のスカートに、少し袖の短い白いTシャツを着ている。その表面にはよく分からない英単語と模様がプリントアウトされていた。
階段を上がってくる彼女の姿が、吹き抜けとなっている店内ではよく見える。いいところだったので続きを見たい気持ちもあったのだが、我慢し、僕はそっと本を閉じた。
「やあ、遅かったね」
なるべく普段どおりの調子で声をかける。千花は僕の目の前の席に座り、にっこりと笑った。いつもの彼女の笑みは、おしとやかでどこか遠慮がちだったのだが、珍しく、実に天真爛漫な笑顔だった。
「うん。ちょっとお色直しに時間がかかっちゃってね! せっかく穿に会うんだから、かわいいところ見せないとって思って、頑張ったんだから」
「そ、そっか。確かに、似合ってるね」
「でしょう! ここのレースのところとか、ポイントだよ。ちょっとした小さいところに工夫があるのがいいんだ」
「へぇ、確かにそれがあると可愛らしく見えるね」
返答しつつも、僕は内心ためらいを感じざる負えなかった。
何だ? まるで性格が違う。一体どうしたんだ?
外見はどうみても千花そのものだったのだけれど、感じる雰囲気や態度は、完全に別人だ。ふざけているようにも見えないし、からかっているようにも見えない。僕はどうしたらいいのか分からなくなった。
「なぁに? その顔。私の顔になんかついてる?」
「いや、別になにも……」
「じゃあ何でじっと私のこと見てるの? もしかして見とれちゃったのかな?」
「そ、そうかもね」
適当に言葉を返す。千花は嬉しそうに目を大きくした。
「そっかぁ。な、なら仕方ないかなぁ」
少し頬を赤くしながら、まんざらでもないように胸を張る。
うん。やっぱりこれは千花じゃない。一体どうしたというのだろうか。どことなく、精神年齢が幼くなっているような気がする。もし彼女の妹とかだとしても、僕の名前を知っているのはおかしい。これは完全に知人と接するときの態度だ。それも随分と仲のよい相手と。
酔ってるのか? それとも変な薬でも飲んだ?
僕は半分ほどパニックになりながらも、どうやってこの事態に対処したらいいのか真剣に考えた。
「ええっと、君は千花だよね。僕と同じクラスの……」
「え、何言ってるの穿? 私だよ」
「わ、たし……?」
どういう意味だ? 「私は千花だ」ということなのか?
「本当に、忘れちゃったの?」
はしゃぐのをやめ、千花はぐいっと前のりになった。僕の目と鼻の先に彼女の瞳が映る。
深い黒の、きれいな真珠のような瞳。
太陽のように明るい笑顔。
どこか、懐かしいような、暖かい空気。
記憶の奥底から‶彼女〟の姿が浮き上がる。でもまさかそんな、それはありえない。ありえるはずが無い。
「……カナラ?」
自ら飛び出たかのように、僕の口はその言葉を放っていた。
千花は再び嬉しそうに笑い、小首を横へ傾げる。それは、千花と会ってから初めて目にする、とっびっきりの笑顔だった。
2
「やっと思い出した! 酷いね、穿。私のこと忘れるなんて」
言葉は強めだたったが、表情からはまったく怒りの感情は伺えない。どこか楽しんでいるようですらあった。
冗談にしては真実味がありすぎるし、千花がそんな真似をするとは考えられない。僕は何も答えることができず、口を半開きにしたまま彼女を見つめた。
「何黙ってんの? らしくない。いつもみたいにいっぱいおしゃべりしようよ」
いつも、とはここ最近のことを言っているのか、それとも‶あの頃〟のことを言っているのだろうか。
彼女はほほの下に両手を乗せ、きらきらとした目をこちらに向けた。
「君は……」
カラカラになった喉を動かし、何とか声を絞り出す。
「本当にカナラなの? 僕が中学一年のころに、クラスメイトだった……」
「そーだよ。あの頃はいっつもいっしょにいたよね」
「ぼ、僕たちが最初に会ったときのこと、憶えてる?」
「穿が一人で絵を描いていて、私が声をかけたんでしょ? 何か珍しいことをしているみたいだったから、気になったの」
当たり前のように即答する千花。確かに、それは僕とカナラの出会いの記憶だ。――だけど、僕は一度この話を千花にしている。聞くならば、僕とカナラしか知らない思い出についてでなければ意味はないだろう。震えそうになる手を押さえ、僕は冷静に徹しようと努力した。
「そういえば、僕のことを真似て君も一度絵を描いてみたよね。あれってどんな絵だっけ」
「私が描いた絵? ……何だっけ。猫さん? 結構うまく描けたと思ったんだけど、穿は微妙な顔をしてたよね。自信あったんだけど」
「……ああ、そうだった」
頷きながら、僕の動揺は肥大化した。
これは確実に千花には話していないことだ。確かに彼女はあの公園にいた野良猫の絵を描き、それを僕に見せた。とても嬉しそうに、無邪気に。
小学生が描いた落書きみたいなものだったけれど、力強くて、明るくて、凄く優しい感じが伝わってきたのをよく憶えている。間違いなく、僕とカナラしか知らない記憶だった。
本当にカナラなのか? でも、どうして千花が……。
別人であるはずの千花が、カナラの記憶を持ってカナラの意思で接してくる。あのころのまま、無邪気に。
僕は自分の正気を疑いかけたけれど、何とか踏みとどまり、彼女に向き直った。背中に先ほどまでとは違う汗が流れた。
何がどうなっているのかさっぱりわからない。まともに頭を働かせることもできず、僕は素直に彼女へ質問した。
「ちょ、ちょっと、待ってよ。君は本当にカナラなの? 何で、どうして千花が? どうなってんの?」
「なんか、今日の穿は質問ばかりだね」
「――いやだって……こんなの、わけがわからないよ。何で君が千花に……。君は一体何なんだ?」
少し強めに言うと、千花は困ったように眉を八の字にし、手を頬からどかした。
「私は、私だよ?」
「そういう意味じゃない」
自分でも感情的になりすぎていることは分かっていたけれど、どうしても気持ちを抑えきることができなかった。
「何か今日の穿怖いね。……らしくないよ」
そんなの当たり前じゃないか。こんな状況でまともな神経を維持できるわけがない。僕は額を押さえながら彼女の顔を見つめた。
そんな僕の様子を見て、千花は悲しそうに目を伏せた。
「……なんか、今日は無理そうだね。また、今度話そっか」
刹那、僕は急に意識が揺らぐのを感じた。手足の感覚がおかしくなり、景色もおぼろげになる。
「カナ、ラ……?」
再び感覚が戻ってきたときには既に、彼女の姿は消えていた。
3
あれは幻だったのだろうか。それともカナラを見つけたい一心で、リアルな夢でも見たのだろうか。
昨日の出来事が頭から離れない。足は学校に向かって動いているのだけれど、脳と心はずっと彼女の残像を追い求めていた。
強い朝日が顔にかかり、目が痛い。僕は視野を薄くし少しでも光の侵入を抑えようとした。こちらの心情とは裏腹に、実に煩わしい輝きだった。
息を吐き、肩の力を抜く。
ダメだ。こうして闇雲に悩んでいても結論はでない。嘘にしても、本気にしても、どうせ千花とは教室で顔を合わせる。真実はそのときに確認すればいい。
半ば強引に己を納得させ、意識を昨日の出来事から逸らす。
そういえば日比野さんから聞いた情報を彼女に伝えていなかった。まあ、それどころではなかったんだけど。
元々は‶触れない男〟が死んでから調べた情報を伝え合い、今後の行動について考えようという意味での待ち合わせだったはずだ。昨日の出来事が幻かどうかはともかく、それは絶対に千花に伝える必要がある。
教室に入ると既に千花は来ていた。いつもと同じように、きれいに整えた前髪に白いヘアピンをつけ、鞄の中身を机の中に移動させている。僕は一直線に彼女の元へ行こうとしたのだけれど、近づくよりも早く誰かに肩を叩かれた。
「おう、穿! おはよお」
力強く、たくましい声。僕よりも五センチは高い巨躯。このクラスの実質的なムードメイカー、桂場寛だ。
千花のほうに目を移すと、他の女子たちが彼女のもとに集まり談笑を始めていた。あれでは二人で話をすることなどできはしない。僕は諦めて彼に付き合うことにした。
「おはよう。今日も元気そうだね」
「おうよ、それだけがとりえだからなっ」
桂場は大げさに自分の胸を叩いた。シャツが波打ち、ボタンがはじけそうになる。
「だいぶ顔色が戻ってきたじゃないか」
「え、ああ。そうだね。最近はよく寝れてるから」
「不眠症が治ったのか?」
「どうだろう。確かに朝は少し楽になったけど」
本当のことを言えば‶触れない男〟のストーキングが終了したからなのだが、それは彼には理解できないことだ。僕は角の立たない受け答えを返した。
自分の席へ向かい鞄を置くと、何故か桂場もついてきていた。千花はまだ楽しそうに友達との会話に花を咲かせている。この分では朝の時間に質問をするのは無理だろう。
「なあ」と、桂場が間を突いた。
「なに?」
「穿って、なんか‶触れない男〟について調べてたって聞いたんだが」
「あ、うん。ちょっと興味があって」
「その手の話、好きなのか?」
「別にそういうわけではないけど、日比野さんに手伝って欲しいって言われてね。彼女はオカルト研究部だから」
ああ――と、桂場は納得がいったように頷いた。
僕は頬杖をつきながら、彼の様子を観察した。
一体どういう風の吹き回しだろう。普段は野球と男の聖書にしか興味を示さないヤツだったのに、今日は妙に色々とつっこんでくる。本気で‶触れない男〟の話に興味を持っているとは思えない。何が目的なのか。別にそれほど大それたものではないだろうけど、何となく気になったので、僕は彼の真意を探るべく、言葉を投げかけた。
「桂場も、そういう話が好きなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな。何かお前を見てたら無性に聞きたくなってな」
「何だよ、それ」
僕は小さく笑った。
「それ、調べているのって穿と日比野さんだけなのか?」
「調べているというよりは、調べていただけど。まあそうだね。あ、あとは皐月さんかな。たまに部室に来るんだよ」
特に他意はないが、何となく千花のことは伏せておいた。
「でも、大した情報は得られなかったよ。実はただの不審者だったとか、中学生の悪戯だとか、憶測のみの話でお仕舞い。変な足跡を残すところとか、いかにもわざとらしいし。結局この前僕や緑也と皐月さんが変質者に襲われかけた事件以降は、何も調べていない。そんな状況じゃなかったから」
「ほーう。そっか。確かに大変だったみたいだもんな」
幾分かの納得を示すように、桂場は頷いた。僕が黙っていると、彼はそのまま気まずそうに頭を掻いた。
「いや、悪いな。何となくふと興味がわいてさ。まあ、気にするな。ちょっとした気まぐれだから」
何故か自分でも納得がいかなさそうに首を傾げ、桂場は組んでいた腕を下ろした。
「そういえば、穿って部活にはまだ入らないのか? そろそろ何か入ってもいいと思うが」
「一応美術部に入ろうかとは思ってるよ。ただ、なかなか機会がなくてね。今は家のことでちょっと忙しいから」
「おう。そうか」
男二人の生活では色々と雑務も大変なのだ。こちらの事情を察してくれたのか、桂場はそれ以上深く踏み込んではこなかった。
「あ、もうこんな時間か、やべえな。数学の宿題まだやっとらんわ。……穿、終わってる?」
「終わってるけど、見せないよ」
僕が意地悪っぽく言うと、桂場はあからさまにがっかりした表情を浮かべた。それをだいぶ当てにしていたようだ。
自分の席へと戻っていく彼の後姿を眺めながら、僕はスタイリッシュの言葉を思い出した。確かに、いつもと比べて少し様子が変だ。具体的にここがといったものは無いのだけど、なんとなく違和感がある。でもそれが一体何なのか、このときの僕にはまだ推測できなかった。
4
正午になり、スタイリッシュや桂場と三人で食堂に行こうと思ったのだが、何故か桂場の姿は見当たらなかった。どうやら授業が終わると同時にどこかへ行ってしまったらしい。しばらく待っていたのだけれど、一向に帰ってくる気配が無かったので、僕とスタイリッシュは諦めて先に教室から出ることにした。
「うわぁ。これ駄目だな。もう座る場所がないわ」
いつもとは違い今日はやたら人が多かった。そこら中生徒でごった返している。
比較的新しい施設であるこの食堂は、校内で唯一最新鋭の冷房設備が置いてある場所だ。恐らく普段は食堂を利用しない者たちが、冷たい風を求めて一斉に移動してきたのだろう。スタイリッシュの困ったような顔を見て、僕は売店で昼食を購入することを提案した。
「人気の無いものならまだ売店にいくつか残ってるし、今日は教室で食べよう。仕方ないよ」
「そうだな。ここで待っててたら食ってる時間無くなるしな。何があるん?」
「納豆巻き食パンと、梅干入りおにぎり、あとは……おいなりさん?」
「うわぁ。ほんとうに微妙なもんばかりだな」
納豆巻き食パンを見たスタイリッシュは、舌をわずかに覗かせて拒絶の意を示した。
「納豆苦手なの?」
「うちは誰も食わんのよ。小学校の給食で出たやつとかもいつも残してた。しかも食パンに乗せるなんて、意味がわからんわ」
結構な頻度でそれを食している父が聞いたら、怒り出しそうな話だ。
スタイリッシュは梅干入りのおにぎりを二つほど買い、僕は消去法でおいなりさんを手に取った。
教室へ戻ると、三分の一ほどの生徒がここで食事をしていた。普段から弁当を持ち込んでいる人たちと、僕やスタイリッシュのように機を逃した者たちが半々といった感じだ。
別に意識していたわけではないのに、気がつくと千花の姿を探していた。自分で作ってきたのだろうか。可愛らしい箱に入ったハンバーグをおいしそうにつまんでいる。
「あれ、めずらしいね」
彼女の横にいた日比野さんが、僕の視線に気がつき箸を止めた。
「クーラーを求めてみんな食堂に来ててな。人が多すぎて入れんかったのよ」
梅干おにぎりをちらつかせながら、スタイリッシュが不満気に肩をすくめた。
「あ、じゃあ一緒に食べる? たまにはいいんでねぇかい」
「どこの方言だよ」
スタイリッシュのつっこみに、一緒に食事をしていた千花と皐月さんも笑みをこぼした。
空いている席を借りて座るとすぐに、日比野さんがうきうき顔で話しかけてきた。
「穿くんたちって、今日ひま?」
「特に用事はないけど、何で?」
「ちょっとゲーセンに行こうと思って。一緒に行かない?」
「ゲーセンか」
そういえばしばらくそういう場所は訪れていないな。たまにはいいかもしれない。
千花に昨日のことを訪ねようと思っていたのだが、それを聞くだけならいつでも出来る。僕はこっくりと頷いた。
「いいよ。スタイリッシュはどうする?」
「おお、いくいく。ちょうど今日は部活が休みでな。暇だったのよ」
「スタイルくんって、何部だっけ?」
「スタイルくんて――……一応サッカー部だけど」
「へえ、意外。てっきりコーディネート部とかだと思ってたのに」
ぼそりと呟く皐月さん。それを聞いたスタイリッシュは盛大に腰を折り曲げた。
「そんな部活あるわけないだろ。あっても入らんわ。どんな部活だよ」
「つっこみ激しい」
彼の反応がつぼにはまったのか、皐月さんはお腹を押さえて笑った。
「せっかくだし、他にも誰か呼ぶ?」
「あ、玉木くんは? この前の夜遊びつながりで」
自分が誘拐されかけあの夜のことを言っているのだろうか。ショックで数日間休養していはずなのに、皐月さんは随分とあっさりそう進言した。
「いいんじゃない。あたしも穿くんも知ってるし。あ、スタイルくんは初だけど」
「別に俺は気にせんよ」
とスタイリッシュ。
「決まりね。あんまり多くなっても動きにくいし、このくらいで。じゃあ、放課後またこの教室に集合ってことで。千花もいいでしょ?」
「あ、うん」
ご飯をもぐもぐと味わっていた千花は、引きずられるように頷いた。
「……ちょっと、トイレいってくるわ」
朝に散々水分を取っていたつけが回ってきたようだ。スタイリッシュは調子が悪そうにお腹を押さえ、立ち上がった。
早足気味で彼の姿が扉の向こうに消えると、面白そうに日比野さんが話しかけてきた。
「そういえば前から気になってったんだけど――」
「なに?」
僕はきょとんとした顔で彼女を見返した。皐月さんや千花もこちらを見つめる。
「スタイルくんの本名って、なんていうの?」
おいおい、クラスメイトの名前くらいと思ったものの、はたと気がついた。そういえば、僕もずっと彼のことを‶スタイリッシュ〟としか呼んでいない。何せ、最初の紹介でその名前を教えられたのだ。あれ以降、皆が当然のようにそう彼のことを示していたから、僕もつられてそう認識してしまっていた。
一体、本名はなんと言うのだろう。出席名簿のときに呼ばれていた気もするが、意識していなかったので思い出せない。
「ご、ごめん。知らない」
そう答えると、日比野さんは驚いたように目を見開いたのち、盛大に笑い転げた。
「最初っからそう教えられたから、聞いてないんだよ。ちゃんとした自己紹介があったわけでもないし。本人もそう呼ばれて普通に返してるし……」
「穿くんたち、いつも一緒に行動してるのに」
なおも笑い続ける日比野さん。僕は何だか恥ずかしくなり、少しむくれてしまった。
「名簿をみたら書いてるかもよ?」
「おっ、そうか」
千花の言葉に、日比野さんが手を打った。そのまま教壇のほうに向かい、座席表をとる。
「なになに……鈴木伸治? なんていうか――」
彼女の声を聞いた皐月さんが、つまらなそうに言葉を続けた。
「地味ね」
5
昼食後。僕は千花を捕まえて屋上へと移動した。鳥のさえずりが周囲に響き、心地よかった。セミの少ないこの町でも鳥だけは多く生息しているようだ。
不信感を募らせている僕とは打って変わり、彼女は実に気持ち良さそうに太陽の光を浴びている。こうしてみると、その姿はかなり絵になった。
「何か進展はあった?」
とりあえず昨日のことには触れず、僕はそう質問した。
千花は一瞬きょとんとしたのちに、すぐに‶触れない男〟のことだと気がついたのか、真剣な表情を浮かべた。
「……実はこの前、皐月さんがまた警察署に呼ばれたそうなんだけど……」
「けど?」
「うん。彼女から聞いたんだけどね。‶触れない男〟の遺体、どこかの医療機関に回収されたみたい」
「回収……」
僕はすぐに境和研究所と献体契約のことに思い至った。
確か献体契約には本人だけでなく遺族の承認が必要なはずだ。‶触れない男〟の遺体を調べれれば、彼が本田克己だということはすぐにわかるはずなのに。例え身元がわからなかったとしても、事件の容疑者をそう簡単に引き渡すことなんてあり得るのだろうか。
「何でも凄く影響力のある人の意向らしくてね。警察署も渡すしかなかったんだって。私も頑張って調べてみたんだけど、流石にその人が誰かまでは特定できなかった」
特例? 誰がそんなことを……。
「……いや、それを知れただけでも十分だよ。あの研究所はそれほど大きな場所じゃない。調べれば影響を与えられそうな人間のあてはつくと思う。……でも、一体なんで遺体を回収したんだろう」
「……あの人、妙だったからね。体は一つのはずなのに、いくつもの記憶を持っていて。もしかしたら、遺体を細かく調べられたらまずいことでもあるのかもしれないよ」
「まずいこと、か」
僕は親指を小指の腹に当てた。
千花の記憶を盗み見る現象が、純粋に‶記憶〟そのものを読み取るものだとしたら、読み取る対象は脳内の大脳皮質に蓄えられた電気信号のパターンだろう。複数の記憶があるということは、複数の脳を持っているということになってしまうけど、そんなことありえるのだろうか。記憶の電気的パターンを移植することがもし可能だとしても、そんなことをすれば容量はすぐに消え去るし、人格の破綻を招きかねない。人為的に記憶を埋め込まれた可能性は恐らく低い。だとしたら、千花が感じたのは脳以外の場所の記憶ということになるのだけれど。
指を動かしながら思考に熱中していると、千花が不安そうな顔で見てきた。
「穿くん。あんまり強引に調べないほうがいいと思う。もし境和研究所が黒幕なら‶触れない男〟が死んだことで、警戒してるんじゃないかな。ゆっくり慎重にいこう」
「……そうだね。確かに、逸るのはよくない。こっちから手がかりを与えることになるしね」
僕は千花の意見に賛同した。
「‶触れない男〟はこの蓮上高校を調べている間に死亡した。彼に仲間がいるとしたら、この学校の生徒を怪しんでいてもおかしくは無いと思う。今まで以上に用心したほうがいいかもしれない」
一体どれほどの規模の集団なのかは知らないけれど、彼らがカナラのことをそう簡単に諦めるとは思えない。‶触れない男〟が死んだとあれば、なおさらむきになって探りを入れてくる可能性もありえる。
千花はスカートのしわを伸ばすと、背中をフェンスから離した。反対側の校舎に取り付けられている時計を視界に収め、息を吐くように呟く。
「そろそろ授業が始まっちゃう。戻ろっか」
「……そうだね。また何かあったら、連絡するよ」
頷き、僕も腰を上げる。
彼女は先に歩き出し、屋上の扉に手をついたのだけど、そのタイミングに合わせて僕は質問した。
「あ、そういえば、昨日はどうしたの? 待ってたのに」
「き、のう……?」
「ほら、前に一緒に行ったカフェ。あそこで会う約束をしてたんだけど。今後の活動とか、今みたいな話をしようって」
スカートが風になびき、僅かに舞う。彼女の手は動かなかった。
「千花?」
僕が名前を呼ぶと、彼女はようやく首を動かした。
「ごめん、昨日はちょっと用事があって行けなかったんだ。慌ててたから連絡するの忘れてた。本当にごめん」
心の底から謝っているように、見える。
その様子を捉え僕は確信した。彼女に昨日の記憶はない。昨日の千花は、やはり彼女ではないのだ。少なくとも、意識のレベルでは。
あえて会わなかったといった僕に対し、千花はそのまま話を合わせてきた。これはつまり、彼女にはあのときの記憶がなく、かつそれをしっかりと認識しているということだ。
どういう理由かはわからないけれど、千花は頭の中に‶カナラ〟を飼っている。それも三年前の、あのときのカナラの精神を。
僕と千花の記憶と認識のずれの秘密は、そこにあるような気がした。
額を押さえるようにうつむきながら、そのまま階段を下りていく千花。
何故、カナラの記憶があるのかはわからない。
何故、それを自覚していないのかもわからない。
でもやはり、千花と彼女には何かしらの繋がりがあるようだ。
積み重なっていく疑念と不安。
遠ざかる彼女の後姿は何だか、ちぐはぐな人形のように見えた。